かへりごと
私自身の胸中からすると今の時事を書け書けと言われているようで。あまり詳細に書いても意味がありませんしね。これからどういう時に「かへりごと」を言うようになるのか、ならないのかも分りませんが、たぶんなると思います。
今までなんの狂いもなくなってきましたから私がそう思いますとなると思います。「かへりごと」というのは報告ということですから。一番大きな報告は建御雷の男の神さまが出雲に来て十拳剣を海に突きたてて剣の上に胡座をかいて大国主命に「これからどうするんだ」って。逆さに立てたということは物事を整理して「おまえは言う事をきくのか」ということですから。
建御雷の男の神さまが言えば絶対で、これを直毘(ナオビ)というのです。きかないわけにはいかない。息子の言代主の命は言う事をきいたけれど、弟のタケミナカタの神が反逆を起こす。それじゃ相撲をとってみよ、ということになって押さえつけられてしまって敵わない。出雲から佐渡の方まで逃げる。新潟から川沿いに長野の諏訪湖に出るところで捕まえられ、「時が来るまで私は一歩足りとも出ないから殺さないでくれ」と頼む。「そうしてくれるなら邇々芸命に便宜を図ることを約束する。」って言うんです。
タケミナカタの神は科学の神様です。タケのミナは言霊のことですが、片(カタ)っ方ですから科学のことですね。天の岩戸を開いている現世の人たちの因縁は、第一精神文明時代にこれからの世は物質文明であると先っぽ担いでワイワイやってた人達です。その人たちが外国へ出て行って急先鋒になったら再び日本に帰ってきて時が来るのを待っていた人達です。
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禊祓
文明創造の綜合体を創っていく目、伊豆能目。神直毘(ウ)と大直毘(オ)は伊豆能目に付帯するもの。このあたりが二月頃に分かると思っていた。二千年の歴史がひっくりかえるのですから、そんなに順当には解けない。
すぐ分かるだろうと思っていたのが六ヶ月かかりましたから。ようするに五十音を整理して最後に建御雷の男の神というのに纏められ時に既に出てきているのですが、主体的な観想なので誰にでも通用するかどうかは分からない。
それで黄泉国へ行ってその経験を基に、逃げて帰ってくるときにその動作をしている。十拳剣を尻手に振って。それから禊祓で理論的に心の葛藤の経過として、尻手に振ったことの内容なんです。
衝立つ船戸の神では何を立てたかの正体を明かせないでいる。経験によってその正体を明らかにすることが出来る。建御雷の男の神というのは伊耶那岐の神の心中の自覚なのであって一般の誰にも通用するものではないかもしれないから、そこで実験を伴う。
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禊祓?¬
それで黄泉国へ行って伊耶那美の神の実情を知った上で逃げて帰ってくる時に整理しながら千引の石で離婚します。整理する立場と整理される立場では永遠に一緒にはなれないんだと。永遠になれないものを自分のものとして人類文明というひとつのものを創っていくには、どういう言霊の活用法になるのだろうかと。
その検討が始まるわけです。その時にこうなるであろうという自覚された最後の心の構造、建御雷の男の神というものを自分が禊祓をする時に目標に行くガイドブックとして立てるわけです。それが衝立船戸の神。
大筋は出ても結論が先に分かってしまったら面白くないですから。あくまでもこれは覆面であって八十禍津日ではダメということになって「この禍を直さんとして」と言って、覆面を表面化する。だけでもまだ十分に出し切らない。
出て来る前の底中筒と綿津見、これら六神が出てきて初めてその正体が明らかになるような話方をして三貴子が登場する。「この禍を直さんとして」というのはあくまでも今までの流れの中であるものなんですよということで、直毘として伊豆能目として出してくる。
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禊祓?
ここまでは心の葛藤として出て来るけれどもこれを完全にするためには衝立つ船戸の神を持ってこなくてはならないのですよということを言葉の裏で示すんです。話法の順序として分かろうとしているところを途中で分からしてしまったら分からなくなる。
建御雷の男の神として構造が分かってしまっているもの。これを伏せてしまって、ただこれを目標として掲げたんですよということだけを言っておいて、その掲げたものが何時、どのように姿を現すかの劇的な瞬間を八十禍津日においた。そこでパッと見せる。
それで今までは主観的のみに完成されていたものを客観的にも完成することが可能ですよという結論を持っていくわけです。ここまでしか出来ない人間が他のやり方ではどうにもならないことを自分の胸に秘めていた「この禍を直さんとして」でオープンする。
その内容は底・中・筒男の神、綿津見の神、ですよというこです。それが子音の並びで示すことになる。誰もぐーの音も出ない。従うより他なしということです。それが天津太祝詞の子音の並び方の同じ。あーでもこーでも、といっていたことが実にうまく最後にビシッと決まる。
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尻手
岐の命は高天原を知って黄泉国を知りましたが、我々は高天原を知りませんでしょ。自分はこの世の中が嫌だ嫌だと、自分の心の中に天国を求めたいと言っても、知識の誘惑がものすごく追いかけてくるんです。
自分自身が知識に対しての信頼度とそれが勝っているのが偉いと思っている執着が。その執着から逃れたいと思いながらも、その執着から離れたらフワフワしてしまって自分が何処へ行ってしまうのだろうっかっていう不安。それを支えるのがアという信仰ですね。
岐の命は建御雷の男の神という主体の本義を知ってしまっていますから、逃げ帰りながら十拳剣を尻手に振る。今まで観て来た黄泉国の文化構造はどうなってるんだということを、高天原の原理に照らし合わせて知らせながらに逃げてくる。
今度、言向けやわしの時には尻手ではなくて、建御雷の男の神が大国主の命を言向けやわす時には、海の中に立てたとある。原理を正当に説くことによって、その原理を運用して相手を説得する時には立てる。
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