半母音
ウオアエイ五母音が精神宇宙の主観方面の極限に自覚される純粋の主体であるのに対し、ウヲワヱヰの半母音は同じく精神宇宙において客観の方面に局限された純粋の客体ということができます。母音も半母音も精神の先天的なもので、現象を現象足らしめながら自体は決して現象界に現れることはありません。母音と半母音とは自と他、主体と客体、出発点と目的点、吾と汝という関係です。例えば アとワ とは吾と我(古代大和言葉では吾をア、我をワと呼びました)、そして二者の交渉で種々の現象を産み出しますが、吾も汝も共に純粋の主体と純粋の客体として自らは決して現れないのです。
あまり概念的説明に傾くと理解が難しくなります。例を引きましょう。朝が来て目が覚めた時を創造して下さい。初めは目が覚めて明るさを感じるものの、眠りの気分が半分残っている状態です。意識の内部でぼーっとしながも何かが目覚め出したといった状態、何かが”ある”、または何かが動くといった状態、これが言霊ウであるといったらよいでしょう。
目が覚めた瞬間は何もない状態、その次に何か心の奥で動き出した状態、この流れを図で示しますと左のように嘉久子とができましょう。(図は省略。以下同じ。)それゆえ、ウの字に漢字を当てはめるとすると、有、生、産、動などが適当でしょう。
京都の大徳寺の一室に「梅花破雪香」(梅花雪を破って香ばし)の軸が掛かっていくのを感心して見たことがあります。冬の白雪一面何も見えないところに春の息吹の初発の気であるウの芽まは目として咲く花、その花を大和と言葉ではウメと名付けました。
心の奥に何かが動きしたとう状態から意識がさらに目覚めてきます。すると前に何やらあるなぁ、と感じてきます。前に何かあると感じると同時にそれを見ている自分の存在に気が付きます。前にあるものがまだなんであるかは分からない。けれど何かがある。と同時にそれを見ている自分の存在に気が付く状態となります。心の中に何やら動くものが、ここで主と客に分裂するのです。この間の消息は次のように図に描くことができましょう。
はっきりしたわけではないけれど、一つのウという心の宇宙が見るものと見られるものに分かれた時、見る側が言霊アであり、見られる方が言霊ワであります。このようにそこに何かあると思う時、事物は必ず主体と客体に分かれます。これが人間の宿命です。このことは全く当たり前のようにおもわれるかも知れませんが、実は人間生命の創造活動の最初の重要な法則であるのです。事物が主と客とに”分かれる”ということは、それが何であるかが”わかる”すなわち人間が理解することと同じ意味であるかです。
中国の老子の言葉はこの消息を「一二を生じ、二三を生じ、さん万物を生ず」と数理で示しています。
再び大徳寺の話に戻りましょう。「梅花破雪香」の軸の掛かった部屋の隣の部屋にそれと同じ書体で「余座聴松風」の軸が掛けてありました。また関心しました。「余座に松風を聴く」とは何を表徴した詩なのでしょうか。「余座」とは次の座ということです。何に体して次というのかというと、心の宇宙に何かあると感じる初め、言霊ウの次ということで、それは主と客に分かれる時のことです。末の葉は根元から二つに分かれています。松葉の形です。「松風を聴く」とはこの主と客に分かれていることを極めて詩的に表現したのです。いつの時代にか大徳寺に偉い坊さんが居て、座禅によって人間生命が創造を始める最初の精神構造を悟って、それを詩の文章に表現したのでしょう。
意識の目覚めがさらに進んだとしましょう。はて前にあるものはいったい何であろう、と考えます。この時記憶が呼び覚まされるのです。この記憶を呼ぶ主体が言霊オであり、その結果「ああ、あれでよかったのか」と呼び覚まされた対象が言霊ヲであります。次にきょう起きてから何をしようかなと考えてきます。いろいろなことが実行可能です。そのうち、きょうは、よし、これをすることにするか、の選択的決定をします。
この選択の主体が言霊エであり、選択される純粋客体が言霊ヱであります。以上で母音ウオアエと半母音ヲワヱが出揃いました。これまでのことを図で示しますと次のようになります。人間の意識の目覚めはこの順で行なわれます。