十拳の剣。1。
引用です。
ここに伊耶那岐の命、御佩(みはか)せる十拳の剣を抜きて、その子迦具土の神の頚(くび)を斬りたまひき。
ここにその御刀(みはかし)の前(さき)に著(つ)ける血、湯津石村に走(たばし)りつきて成りませる神の名は、
石柝(いはさく)の神。次に
根柝(ねさく)の神。次に
石筒(いはつつ)の男(を)の神。
次に御刀の本に著ける血も、湯津石村(ゆずいはむら)に走(たばし)りつきて成りませる神の名は、
甕速日(みかはやひ)の神。次に
樋速日(ひはやひ)の神。次に
建御雷(たけみかづち)の男の神。またの名は建布都(たけふつ)の神、またの名は豊(とよ)布都の神。
次に御刀の手上に集まる血、手俣(たなまた)より漏(く)き出(いで)て成りませる神の名は、
闇淤加美(くらおかみ)の神。次に
闇御津羽(くらみつは)の神。
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ここに伊耶那岐の命、御佩(みはか)せる十拳の剣を抜きて、その子迦具土の神の頚(くび)を斬りたまひき。
ここに初めて古事記の文章に剣という言葉が出て来ました。古事記のみならず、各神話や宗教書の中に出る剣とは物を斬るための道具の事ではなく、頭の中で物事の道理・性質等を検討する人間天与の判断力の事を言います。形のある剣はその表徴物であります。この判断力に三種類があり、八拳、九拳、十拳(やつか、ここのつか、とつか)の剣です。
十拳の剣の判断とは
どんな判断かと申しますと次の様であります。十拳の剣とは人の握り拳(こぶし)を十個並べた長さの剣という事ですが、これは勿論比喩であります。
実は物事を十数を以て分割し、検討する判断力のことです。
実際にはどういう判断かと言いますと、十数とは音図の横の列がア・タカマハラナヤサ・ワの十言霊が並ぶ天津太祝詞音図(後章登場)と呼ばれる五十音図の内容である人間の精神構造を鏡として行なわれる判断の事を言います。
この判断力は主として伊耶那岐の神または天照大神が用いる判断力であります。後程詳しく説明されます。
迦具土の神とは
前に出ました火(ほ)の夜芸速男(やぎきやを)の神・言霊ンの別名であります。古代表音神名(かな)文字のことです。
頚(くび)を斬る、という頚とは
組霊(くび)の意で、霊は言霊でありますから、組霊(くび)とは五十音図、ここでは菅曽音図の事となります。
十拳の剣で迦具土の頚を斬ったという事は、表音神名文字を組んで作った菅曽音図を十拳の剣という人間天与の判断力で分析・検討を始めたという事になります。
という事は、今までは言霊の個々について検討し、これからは菅曽音図という人間精神の全構造について、即ち人間の全人格の構造についての分析・検討が行なわれる事になるという訳であります。
---------------------------------以上。
ここは物事を判断するのに十拳の剣をもってするということですが、人間の心はどのように判断をするのかを見ていこうとするのにまず十拳の剣(天照大神が用いる判断力)を用いるということです。古事記を読む難しさはここにもあります。我々は天照大神が用いる判断力は持っていません。持っていないのにそれを用いろ、そうしろというのです。この構図は冒頭の御中主が作る以前に天地高天原があるというところから変わりなく繰り返されています。
もともと古事記はスメラミコトのために書かれたものですから、つまりこのことが分からなければスメラミコトにはなれないわけですからそう簡単なものではありません。こういうものは知ろうとしても分からないし探しても見つからないものですから、このブログでも急いではいません。
迦具土の神の頚(くび)を斬る以下のことが、ヒントになっていると思う。頚(くび)を斬る、という頚とは組霊(くび)とあるように言霊の組まれた五十音図となって現れたものですが、それを整理分析分解するということになります。ところがそれをするのに十拳の剣(天照大神が用いる判断力)を用いろというのですから、無限循環のようになっていきます。、それは断ち切られなければならないしそのための十拳の剣でしょう。
以上は持てない者の小言でした。
この段落は伊耶那岐の命が一人だけで立ち向かうところです。
例えば十拳の剣を用いず九拳の剣、八拳の剣を用いるどころか一拳二拳の剣を用いるとしたらどうなるでしょうか。一拳二拳の剣がどういうものか知りませんがイメージで話してみます。
通りがかりの果物屋さんにみかんを見つけました。店の前に山と積まれています。買おうかという疑問が起きました。。みかんはあちら側のものです。金を払って売買が成立します。
古事記に沿っていくと、
金山・・みかんを見つけました。捨ててあるわけでないし、商品見本でもない。
はにやす・・台の上にきれいに積み上げられ陳列してある。
みつはのめ・・店の者が食べるためではなく記念にばらまくものでも無く、商売用の値段が表示されている。
わくむすび・・周りの様子からリンゴでも無く柿でも無くみかんとして分別されている。
とようけ・・みかんをみかんとして種別してそこに他とは違った値段がついているので、みかんを買いたいものはその値段をみることになるようにしてある。
そこにわたしは通りがかった。
一木・・薬屋でなく、肉屋でもなく、果物屋を見いだした。
はらばい・・腹のうちではいろいろある内のみかんを買いたいと思う。
みなみた・・みかんの色つや形状受ける感覚、みかんを買うための知識、どれを選ぶかの実践行為、等々
その木のもと・・わたしが買う場合の原則、知らず知らずわたしが動かされている買う動因
泣き沢女・・買おうとする意志を表明する。
その状態でみかんを見ていると、
客体であるみかんの伊耶那美の命は動くことなくそこに控えている、そしてわたしの口の中で生き返ることを待っている。
となる。
そこにあるみかんに関してはこれでいいと思いますが、わたしがこれを欲しいと思うと十拳の剣が顔を出す。十拳の剣で買うことを通常のこととすれば、一二拳の剣は通常の売買行為商品交換行為の以前に関係が切れてしまうことになるだろう。または非常に不完全な形でみかんが相手の手の内に移動することになるだろう。
例えばわたしは欲しいという欲望を直接現し、みかんに手を付け食べ始める、みかんをかき集め選択が終わらない、これはわたしが後で買うというように自分の物という顔をする、自分の印をつける、四方八方に手を出す、みかんを買う以外のことに手を出す、常に場所を移動する、買うか買わないか分からなくなって来る、等これらのことによって売買が成立しないのが一二の剣になるのではないでしょうか。
今、気が付きましたがそれぞれの段階で不完全に終わったとしても、それはそれなりにケリは付いていま
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す。言い換えれば前段、前々段、前々々段の形をした十拳の剣ということではないでしょうか。
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見ていきましょう。
十拳の剣。2。
ここにその御刀(みはかし)の前(さき)に著(つ)ける血、湯津石村に走(たばし)りつきて成りませる神の名は、
石柝(いはさく)の神。次に
根柝(ねさく)の神。次に
石筒(いはつつ)の男(を)の神。
次に御刀の本に著ける血、次に御刀の手上に集まる血。
御刀の前に著ける血、とは迦具土の頚(くび)である言霊五十音図を十拳の剣で分析・検討して人の心の構造がどの様になっているか、を調べて行き、御刀の前(さき)によって斬ったことにより判明した道理(血(ち))ということ。
十拳の剣は刀(かたな、片な)の片刃と違って両刃です。分析と総合を併せ持った連(つる)気(気)の剣(つるぎ)です。
ここで御刀の「前」と殊更に言いましたのは、次の文章に御刀の「本(もと)」、御刀の「手上(たがみ)」と分析・検討の作業が進展して行く様子を示したものであります。
それは、
御刀(みはかし)の前(さき)に著(つ)ける血
石柝(いはさく)の神、--自分の所属する次元の五原則
根柝(ねさく)の神、--自分の所属する次元の五原則を現す八つの動因
石筒(いはつつ)の男の神、--自分の所属する次元の五原則を現す八つの動因が各次元内をそれぞれ時間空間移動、
次に御刀の本に著ける血、
甕速日(みかはやひ)の神、--静的
樋速日(ひはやひ)の神、--動的
建御雷(たけみかづち)の男の神、--循環上昇主観的大原理の完成
次に御刀の手上(たがみ)に集まる血
闇淤加美(くらおかみ)の神--判断法、にぎ手
闇御津羽(くらみつは)の神--判断法、起き手
とつづきます。
斬ったことにより判明した道理(血(ち))が剣の上を移動します。
主体者の判断する行為に関する自己分析です。
ここは非常に難しいので解説の切り貼りです。
頚は円柱の形をしています。心の御柱と通じるものがあります。その頚の輪を切るわけですが、頚は組む霊(組霊くび)のことです。円柱となっいる言霊五十音図というイメージも浮かびます。(そもそもの始まりは天の御柱からきている。)
イザナギは自分の子の頚を切るわけですから、切って終わりでは済まないことでしょう。それなりのものが出てくるのではないかと思う。主体的判断法とその記録方法です。
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湯津石村に走(たばし)りつきて成りませる神の名は、
湯津(ゆず)とは五百個(いほつ)の謎です。
五百個(いほつ)とはどういう事かと申しますと、五母音の配列である菅曽音図の意味を基調として五十音図を作り、この五十音図を上下にとった百音図の事を五百個と申します。
湯津、ゆつ。櫛の材料となるユシの木からの変化した言葉。古代ではミズラを留めていた。材質が固いため櫛目は荒く縄文時代の櫛は九本しかないのが出土している。中世皇室では天皇は一日一本ぐらいの使い捨てをしていた。櫛は五十音図の上段と縦の行でまとめた物に似ている。ここでは総じて判断材料となる言霊五十音図を指す。
石村(いはむら)とは五十葉叢(いはむら)の意。
湯津石村の全部で五百個の上半分の五十音図の意となります。湯津石村に走(たばし)りつきての走りつきてとは「……と結ばれて」または「……と関連し、参照されて」の意となります。
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十拳の剣。3。
日常では次元の違いは考慮していません。食事をするにしても欲求次元の行為だとか、このブログを書いているのも知識経験の次元だとかは思ってもいません。あちこちのサイトに行ったり考えたりしても五次元のことなどかんがえません。そんな態度で続けているけれど、何かものになることがあるのでしょうか。知識が増えて他人とはちと違うと自惚れるだけのことのようです。
知識の量とか比較とかは単にオ次元の出来事で、それに自分の観点とか視点とかの尾ひれが付けられてきます。もともと自分の一人相撲なのに相手がいるとして幻想を抱いていきます。それは自分の欲望の一つを描きかき集めることから始まるためでしょう。知識理性と称して自分の関心があることのみに疑問をもつからでしょう。
はたしてイザナギはどんな態度でかぐ土の頚を切ったのでしょうか。古事記には御佩(みはか)せる十拳の剣を抜きて、とあって元々所有していた十拳の剣なのでしょうか。人にはそれぞれ十拳の剣ではないですが剣の持ち合わせはあります。
われわれにとっては手持ちを十拳の剣のごとく使用せよということになるのでょしうか。そういうことになった場合にも十拳の剣のイメージが必要になります。この調子では堂々巡りで脱出出来ない。
ここでイザナギのしたことはというと、「抜きて」で「抜く」という行為です。腰に差した剣だったのでそれを抜くことになったのでしょうが、他の行為比喩でもよかったのに何故抜くなのでしょうか。つまり「抜」くの「ヌ」とは何かを調べて手がかりを得られるかどうかみたい。
言霊ヌは以下の通りです。
言霊ヌ 、野の神名は鹿屋野比売(かやのひめ)の神、またの名は野槌(のづち)の神
鹿屋野(かやの)の鹿屋(かや)は神(かみ)の家(いえ)の意です。即ち言葉のことであります。これを神名(かな)と呼びます。
佐渡の島の真名が口で発声されて神名となり、空中を飛んで大山津見の言葉となり、山が裾野(すその)に下って来て鹿屋野の野に着いた、という太安麻呂独特の洒落であります。野に到って、そこで人の耳に聞かれることとなります。耳の鼓膜を叩くので野槌(のづち)の神と付け加えたのでしょう。
この神は志那都比古、久久能智、大山津見、鹿屋野、と口腔で発音され、空中を飛んでいる状態の中の最後の神、フモハ言霊に続く最後のヌ言霊であります。フで風の如く吹き出され、モで木立の中を進み、山で上空に上がり、そして野の神として平地に下りて来ました。風、木、山、野と自然物の神が続きますのは、口腔から吹き出された言葉が外界という自然の中を飛ぶ事を示しています。そして最後の野の神として平地に下って来て、そこで言葉を聞く人の耳膜をたたきます。たたくので野椎と椎の字が使われます。
言霊ヌに漢字を当てますと、貫(ぬ)く、抜(ぬ)く、縫(ぬ)う、温(ぬく)い、野(ぬ)、額(ぬか)、糠(ぬた)、脱(ぬ)ぐ、……等があります。
古事記ではカグ土を切るのに何の感情表現も意志表現もありません。状況も説明していません。憎いからとか、イザナミの死の原因だとか、経験したことを語っていません。つまりそういったことを抜きにして剣を抜き判断をしていくというだけです。
言霊ヌは上記の説明からまさに相手との接触点にいて、そのままの状態、与えられたもので相手と、貫(ぬ)く、抜(ぬ)く、縫(ぬ)う、脱(ぬ)ぐ、の関係をもつことでしょう。
イザナギは十拳の剣を与えられているのでそのまま使用し、われわれは持っていないので持っていないなりに、余計な経験習慣からする判断力を付加せず、あれこれの気になる意識の対象となった現象を持ち出さず、主体的な全体判断であるという自覚をもって当たるということになりそうです。
相手というのはこちら側から思い寄せる事柄に関してのみその姿を見せます。現象となったカグ土をみるのに主体側の関心から問いかけたものだけがカグ土その一となり、ついでその二、その三となっていくでしょう。
そのような相対判断の剣を使用しないよう、イザナギはただ剣を抜き、相手をつら抜こうとします。
それに引き換え相手の反応は走(たばし)り著(つ)ける血となって現れます。単なる一方からの視点ではありませんから、こちら側の無想流にたいして相手は全体を晒してくることになります。
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十拳の剣。4。
無想流による十拳の剣に依れば自ずと相手はその全体を現してくると、分かったような事を書いていますが、現実はそう簡単ではないです。知的な理解の方向はあっているかと思えますが、やはりこれは思考技術に関することと思われるので、それなりの修練がいるようです。
カグ土の頚を切ることはある意味でカグ土を否定することにもなる。
カグ土はイメージ、言葉の言語活動が文字化した物で、現象化した精神活動です。現在のわたしは現象化した精神活動です。十拳の剣はそれを否定して斬っていきます。
全ては精神活動の現象化したものですので出来上がってきた物を否定するわけにはいかないでしょう。ここは別解が必要になるでしょう。切(き)るのきの動きは自らの精神宇宙の中にあるもの(経験知、記憶等)を自分の手許に引寄せる力動韻のことです。角杙(つのぐひ)の神の領域です。角を出して判断用の杭を立てていくことです。
イザナギがカグ土を斬って見いだすのは自分自身になるはずですが、ここには時間軸、空間軸、次元の軸がそれぞれを主張する場所がある。今はイザナミの自分の子供を斬ることに対する時処位が問題です。
ここはどうしても突破しなくてはならないのにどうしても前に進まない。
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(空白)、、、、、
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ここにその御刀(みはかし)の前(さき)に著(つ)ける血、湯津石村に走(たばし)りつきて成りませる神の名は、
石柝(いはさく)の神
五十音図を分析して先ず分ったのは石柝(いはさく)の神ということです。
石柝とは五葉裂(いはさ)くの意。五十音図が縦にアオウエイの五段階の界層に分かれていることが分った、という事であります。
即ち人間の心が住む精神宇宙は五つの次元が畳(たたな)わっている状態の構造であることを確認したのでした。
人間の精神に関係する一切のものはこの五つの次元宇宙から表れ出て来ます。これ以外のものは存在しません。「五葉裂く」の道理は人類の宗教・哲学の基本です。
この五つの次元の道理を世間の人々の会話の中で観察すると、そこに顕著な相違があることに気付きます。
先ず言霊ウの次元に住む人同士の会話は、その各々の人がある物事について語り合う場合、各自の経験した事柄をその起った時から終るまで順序通りに羅列するように、一つの省略もなく喋(しゃべ)ります。従って会話は長くなります。若い者同士の電話の会話はその典型です。
言霊オの次元に住む人の会話には抽象的概念の用語がやたらと飛び出します。所謂「〇〇的」という言葉です。社会主義新聞の論説はその良い例であります。
次に言霊アの次元に於ては詩や歌が、言霊エの次元では「何々すべし」の至上命令が典型となります。言霊イの次元に住む人の口からは、言霊が、または他の四次元ウオアエの次元に住む人々それぞれの心に合わせた自由自在の言葉が出て来ます。
以上、人間の心の進化の順序に従ってそれぞれの次元の会話の特徴についてお話しました。その人の会話を聞いていると、その人の心が住む次元が良く分って来ます。但し自分の心が住む次元より高い次元の話の識別は出来ません。識別出来るのは自らの心の次元以下の人についてのみであることを知らねばなりません。
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石柝(いはさく)の神
その御刀(みはかし)の前(さき)に著(つ)ける血、湯津石村に走(たばし)りつきて成りませる神の始めです。
石柝(いはさく)の神」。縦に五つの言霊が並んでいて順序良く心の構造を表わしているのだな、とはっきり分った、自証できた、ということです。
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人の心の構造が五段になっていることは概念的には分かりますが、下位の段階からは上は見えません。古事記は最高段階にいる人が記したものなので、われわれとは次元が違っています。ただ書かれた内容に従って一段一段登れと教えられているだけです。
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次に根柝(ねさく)の神
根柝(ねさく)は根裂(ねさ)くの事です。
今検討している音図は菅曽音図のことで、母音がアオウエイと縦に並びます。
その五母音の一番下は言霊イであり、五母音を一本の木と見れば根に当ります。その根の五十音の列は言霊イとヰの間に八つの父韻が横に並んでいます。
その根を裂けば、八つの父韻の並び方の順序と、その順序に示されるように母音に始まり、半母音に終る現象の移り方がより確認されます。
次に根柝(ねさく)の神」。根の方を見ますと父韻が並んでいた、これが原動力となって物事を作っていくものなんだなと分った。
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次に石筒(いはつつ)の男の神
石筒は五葉筒(いはつつ)または五十葉筒の意です。
五十音図は縦に五母音、五半母音または五つの子音が並び、これが順序よく人の心の変化・進展の相を示しています。また五十葉筒と解釈すれば、五十音図が縦に横に同様に変化・進展する相を知ることが出来ます。
筒とはその変化・進展の相が一つのチャンネルの如く続いて連なっている様子を表わします。
石筒の男の神の男(を)の字が附いているのは、その変化・進展の相が確認出来る働きを示すの意であります。
次に石筒(いはつつ)の男(を)の神」。一連のつながりで意味を成しているということが分った。音図は縦も横も筒になっておりますでしょ、一つ一つ筒の中に入るものは一つの穴の狢の如くに繋がっているということが分った、これもご自分の心で以って行ってみてください。
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主体者の判断する行為に関する自己分析です。
石柝(いはさく)の神、自分の所属する次元の五原則
根柝(ねさく)の神、自分の所属する次元の五原則を現す八つの動因
石筒(いはつつ)の男の神、自分の所属する次元の五原則を現す八つの動因が各次元内をそれぞれ時間空間移動、
甕速日(みかはやひ)の神、静的
樋速日(ひはやひ)の神、動的
建御雷(たけみかづち)の男の神、循環上昇主観的大原理の完成
とつづきます。
基本的な斬る行為の意味が分からないまま引用しているだけです。
いまのところはこんな調子で。
十拳の剣。5。
第三段階の言霊アにおける言霊の勉強は、言霊を自分のものとすることではなく、
言霊が自分の生命そのものであることを知る初めの段階、といったらよいでしょう。
このことを知ることは「自覚」という言葉に最もふさわしい事実ということができましょう。
上の解説を参考にしてなんとかア段に取りつこうとしている。
前回の果物屋でみかんを買う例に則してどういうことになるのか。
言霊が自分の生命そのものといっています。。それはどんなことに相当するのでしょうか。
みかんを食べたい欲求は自分そのもの、
柿でなく、梨でなく、バナナでなくみかんを選んだというのは自分の生命そのもの、
買う意志決定をしたのは自分の生命そのもの、等。
みかんと自分との出会いはそこに起きた共感と共に既成のものとなりました。
わたしとみかんは自他ともに同意したように同調して買おうとしています。
たまたまライトに照らされて輝いたみかんを見たに過ぎないけど、光がちょうど反射する位置を視覚が通過しだけのこと。それが気に入ったのかどうか、隣の品物を見もせず「これを」と指差した。
みかんがわたしにウインクをしたというだけで買うことになったわけですが、ここには食べたいという欲求でも無く、多くの種類を考慮したのでも無く、普通に言われる衝動買いというものらしいですが、ここに伊耶那岐の命、御佩(みはか)せる十拳の剣を抜きて、その子迦具土の神の頚(くび)を斬りたまひき、に相当するでしょうか。
ここではちょっとした衝動から始まりました。天地の初発の時です。衝動の起きた条件は全く店の電球光のみかんの皮での反射です。欲望とか選択以前のことです。視覚上で起きたことが、わたしがみかんを見出しました。おいしそうとか食べたいとかはその後から出てきた感覚です。
この後から出てくるものを、湯津石村に走(たばし)りつきて成りませる、と表現しているのでしょう。
カグ土は現象となって出てきたものですが、その頚を斬ったところが要点となっているのでしょう。頚は組霊で組み込まれた霊(ひ)です。わたしがする行為その対象相手が組霊であることを分析総合することが十拳の剣となるわけです。
ここは、問題が現象として起こる以前を十拳の剣で斬るとしておきましょう。
面白いことにすぐ後にこの十拳の剣に新しい名前が付けられています。かれ斬りたまへる刀の名は、天の尾羽張(おはばり)といひ、またの名は伊都(いつ)の尾羽張といふ。カグ土を切った褒美です。
前回にまとめたものをもう一度貼り付けておきます。
御刀(みはかし)の前(さき)に著(つ)ける血
石柝(いはさく)の神、--自分の所属する次元の五原則
根柝(ねさく)の神、--自分の所属する次元の五原則を現す八つの動因
石筒(いはつつ)の男の神、--自分の所属する次元の五原則を現す八つの動因が各次元内をそれぞれ時間空間移動、
次に御刀の本に著ける血、
甕速日(みかはやひ)の神、--静的
樋速日(ひはやひ)の神、--動的
建御雷(たけみかづち)の男の神、--循環上昇主観的大原理の完成
次に御刀の手上(たがみ)に集まる血
闇淤加美(くらおかみ)の神--判断法、にぎ手
闇御津羽(くらみつは)の神--判断法、起き手
とつづきます。
斬ったことにより判明した道理(血(ち))が剣の上を移動します。
主体者の判断する行為に関する自己分析です。
十拳の剣。6。
成りませる神の名は、石柝(いはさく)の神
前に、御枕方(みまくらへ)に葡匐(はらび)ひ御足方(みあとへ)に葡匐ひて哭(な)きたまふ時に、
では精神元素となった言霊五十音図を見てその顕著な違いとして頭母音ア行と足半母音ワ行の列全体を見出しそれを相手に腹這い往復しました。今度はその全体としての行は五段に分かれていることを見出しています。
五十音図を分析して先ず分ったのは石柝(いはさく)の神ということです。
石柝とは五葉裂(いはさ)くの意。
五十音図が縦にアオウエイの五段階の界層に分かれていることが分った、という事であります。即ち人間の心が住む精神宇宙は五つの次元が畳(たたな)わっている状態の構造であることを確認したのでした。人間の精神に関係する一切のものはこの五つの次元宇宙から表れ出て来ます。これ以外のものは存在しません。「五葉裂く」の道理は人類の宗教・哲学の基本です。
ここまでは、、、
。金山毘古、売の神
。波邇夜須毘古、売の神
。弥都波能売の神
。和久産巣日の神
。和久産巣日の神の子(豊宇気毘売の神)
吉備児島。吉く備(吉備)わった初期(児)の締まり(島)と言った意 五十個の言霊を集めて形だけは五十音図としてまとめたけれど、その内容はまだ詳細には確認されていない段階ということです
初歩的では有りますが豊宇気として先天の性質を受け持っているこの五十音の枠結びを天津菅麻(音図)と呼びます 菅曽(すがそ)は菅麻とも書き先天・大自然そのままの性質の音図(すがすがしい衣の意)のことです 例えばこの世に生れたままの赤ちゃんの心の性能の構造といえるでしょう
。泣沢女(大野手比売)の神
小豆島。音図上で初めて確認された八つの父韻の締めくくりの区分 八父韻は音図上で小豆即ち明らかに続く気の区分のこと
泣沢女(なきさわめ)とは人間の創造知性の根本の響きのことです 音波、光波の大自然の無音の音(梵音)が視覚、聴覚のリズムとシンクロナイズする時、初めて現象が現われます 泣き沢め(なきさわめ)ぐのは父韻であり人間の創造知性の側の働きであり、その刺激により宇宙である五母音から現象が出て来るという意味であります
別名の大野手比売(おほのでひめ)とは大いなる横(野・貫)に並んだ働き(手)を秘めている(比売)の意 音図においては八父韻は横に一列に展開しています
。石拆の神
。根拆の神
。石筒の男の神
。甕速日の神
。建御雷の男の神
。闇淤加美の神
。闇御津羽の神
大島。大きな価値・権威を持った心の締まりという意 別名の大多麻流別は大いなる(大)言霊(多麻)が流露・発揚(流)する心の区分、ということです
伊耶那岐の命(言霊の原理・法則)が活用する十拳の剣の力(物事を十段階に分けて判断する)を明らかにする作業区分であります
、、の流れの中にあります。
十拳き剣の相手はまず五段階の人間性能です。
日常生活でのみかんを買うという行為に当てはめるとどういうことになるでしょうか。
剣は何に向かって何を貫こうとしているのかを明らかにします。まずわたしが何かを買おうと思いついたことがすでに二段階を経過しています。突き動かされて買うという創造行為を始めた。ついで見るだけでなく思うだけでなく買うという意志行為を明らかにした。現象的にはお腹が空いたとか、食べたい欲しいとかの欲求が持続している、目前の品物を選ぶように誘われている、そして欲しい買いたいは商品選択を実行して、自らの意思の出始めからの一連の持続をよしとする。
実際にはさらに個別化した一連の行為の連続として、例えそれがほんの数秒間のことであっても、実行されていきます。ここでの石拆の神ではまだ料金を払うところまではいっていません。単にみかんの山が商品として買われる対象となっていることを消費者が納得しただけです。どの山を買うかまでも行っていません。
実際に買う行為はまだまだ先になります。それに至るまでは多くの難関がありそれを超えていかなくてはなりません。商店でみかんを買う行為は単に売り手と買い手だけでなく、傍にいた他の消費者との関係も通行人や、正面の店との関係さえも含まれます。それらのことを古事記では禊ぎをするといっています。普通にいう水行ですがここでは全く別の意義を持っています。
買うというのは最後の三貴子が出揃った時をいいます。
次に根柝(ねさく)の神。
十拳の剣。7。
次に根柝(ねさく)の神
根柝(ねさく)は根裂(ねさ)くの事です。
今検討している音図は菅曽音図のことで、母音がアオウエイと縦に並びます。
その五母音の一番下は言霊イであり、五母音を一本の木と見れば根に当ります。その根の五十音の列は言霊イとヰの間に八つの父韻が横に並んでいます。
その根を裂けば、八つの父韻の並び方の順序と、その順序に示されるように母音に始まり、半母音に終る現象の移り方がより確認されます。
次に根柝(ねさく)の神」。根の方を見ますと父韻が並んでいた、これが原動力となって物事を作っていくものなんだなと分った。
ここは何をさしているのでしょうか。
ここの段は、御涙に成りませる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもとにます、名は泣沢女(なきさわめ)の神を実体とすればその働きを呼ぶ時に根柝(ねさく)の神といえるのでないでしょうか。
根はもともと四方八方に裂けているとか、一本の太いものとかのイメージがあるので、ここでいう根裂くとはどういうことでしょうか。
八本の太い根を持つ立ち木のイメージにしてみましょう。
石拆の神 を主体と客体との関係とすれば、根拆の神はその間を取り持つ働きになるでしょう。
根とあるので根っこのイメージが強いけれど、次元の上昇をも考慮に入れていけば、根を裂くから始まって、枝葉を拡げ、上部では花が咲くまでを言っているとしてもよいのではないでしょうか。
しかし、木のもと、根裂くの八父韻を強調しているようですので、原動力、力動因、潜在パワーをことに示しているのでしょう。
木のもと、根裂くの八父韻をみかんを買うことに適用するとその時の潜在パワーとはどういうことでしょうか。実は具体的に買う行為になるにはもっと後のことになります。ここでは潜在パワーが八つの仕方で人を知らず知らず動かしているというだけです。
足がみかん方へ赴く、既にお財布の中味のことを思う、重たくなるからどうしようとか、様々な条件や事情を考慮して自動的というか知らない内に行為をさせられている自分がいるということのようです。買う行為に誘うように根のパワーの裂かれた一つが、行為の成就となって後で花咲くことのようです。
ここで八つというのは古事記冒頭でウヒジニの神から妹アヤカシコネの神までの八神を指していて、ギミの命の創造原理の体現者となるものです。それぞれにチイキミシリヒニの言霊が配当されています。何故そうなっているかは五千年前からの古代日本の精神活動の成果をいただいているというだけです。
次に石筒(いはつつ)の男の神
十拳の剣。8。
次に石筒(いはつつ)の男の神
石筒は五葉筒(いはつつ)または五十葉筒の意です。
五十音図は縦に五母音、五半母音または五つの子音が並び、これが順序よく人の心の変化・進展の相を示しています。また五十葉筒と解釈すれば、五十音図が縦に横に同様に変化・進展する相を知ることが出来ます。
筒とはその変化・進展の相が一つのチャンネルの如く続いて連なっている様子を表わします。
石筒の男の神の男(を)の字が附いているのは、その変化・進展の相が確認出来る働きを示すの意であります。
次に石筒(いはつつ)の男(を)の神」。一連のつながりで意味を成しているということが分った。音図は縦も横も筒になっておりますでしょ、一つ一つ筒の中に入るものは一つの穴の狢の如くに繋がっているということが分った、これもご自分の心で以って行ってみてください。
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ここまでが剣の先での出来事です。判断の初歩の動きが始まったところです。次に御刀の本に著ける血、
次に御刀の手上(たがみ)に集まる血、とつづきます。
何故わざわざ石筒の男の神に男が付いているのかの説明を受けてびっくりした。剣を使う本人の主体判断に関わることが進行していると分かってはいたが、何にも分かっていなかったようだ。
人の存在の性能を五次元で見るとか、それに働きかける動因や潜在力が八つあるとか、ここにきてそれらが一つの時空の流れを現しそれを実現していくための筒状のチャンネルになっているとかが分かった。
確かにそれなりに知識が増え、経験が増えたけど、そんなものは単なる主観であってそのままでは何の価値もないらしい。子供はみかんであることを知っていて店のものに手を出し食べようとする。認識意識対象を了解していても何にもならない例はいくらでもある。驚いた。
このブログも同様で聞きかじり読み取ったものをそのまま写しているようなものだ。得られた知識認識対象(血、道理)が走りついて凝り固まッただけのものということでした。
そこで後に主観的にすぎないものを洗い直していくのが、禊ぎとなるでしょう。
それまでにはまだ多くの手順が残っています。
。甕速日の神
。樋速日の神
。建御雷の男の神
。闇淤加美の神
。闇御津羽の神
。八種類の古代文字(表記表現)
。黄泉の国
。禊ぎ
十拳の剣。9。
次に御刀の本に著ける血も、湯津石村(ゆずいはむら)に走(たばし)りつきて成りませる神の名は、
甕速日(みかはやひ)の神。
御刀の「前(さき)」から今度は「本(もと)」と五十音図表の整理・検討の段階が進展して来た事を示しています。始めに五十個の言霊を整理し、並べて和久産巣日の神なる音図、即ち菅曽音図を手にしました。
次にその初歩的な菅曽音図を分析することによって五十音言霊自体で構成されている人間精神の構造を確認する作業が進んでいます。
その人間の精神構造である道理(血)が「湯津石村に走り着きて」即ち五十音言霊図に参照されて、確認されましたのが甕速日の神という事であります。
甕速日の甕(みか)とは五十個の言霊を粘土板に刻んで素焼きにした五十音図の事です。
速日の日は言霊、速とは一目で分るようにする事の意。
甕速日全体で五十音言霊図全体の内容・意味が一目で分るようになっている事の確認という事です。
音図の内容の確認には大きく別けて二通りがあります。一つは静的状態の観察です。五十音言霊がその音図全体で何を表現しているか、を知ることです。どういう事かと申しますと、この五十音言霊図は菅曽音図か、金木音図か、または……と、この五十個の言霊が音図に集められて、全体で何が分るか、ということの確認です。これを静的観察と言います。
次に樋速日(ひはやひ)の神
樋(ひ)速日の樋(ひ)とは水を流す道具です。
この事から樋速日とは言霊(日)が一目で(速)どういう変化・進展の相を示しているか、が分ることの確認という意となります。
五十音言霊図では母音五つからそれぞれの半母音に渡す子音の実相の動き・変化の流れが一目で確認出来る事を言います。
甕速日の静に対して、樋速日は動的な変化の確認という事が出来ます。
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甕速日(みかはやひ)
わたしのみかんを買うという意図を素早く検討するところです。子供も手を出すのが早い。
各人手持ちの基準を使用していくことになります。今のところそれしか持っていない。古事記を読み終わった時にはすばらしく変身しているのを期待しよう。
血(道理の検討)も御刀の本にまで垂れ下がって来てまもなく掌に溜まっていきます。甕は上に説明されている通りです。表記され表現された現象一般、即ちわれわれの考えること行為することにまで拡大解釈します。相手の様子とそれに対応していく自分の様子がさらに詳しく具体的になっていきます。
目前のみかんを売り物と認め、飾りでも無く見本でも無く商品認め、自分もそれに対応して買うつもりになれることを認めていけます。商売人は特別にきれいなものをよく全面に押し立て触らせないようなこともします。ここではみかんが鑑賞するためのものでなく、客寄せのための特殊なものでも無く販売用になっていることを認めたということになります。
次に樋速日(ひはやひ)の神
対象の状況を認めることは同時に自分に跳ね返ってきて自分の思惟行為が正当であることを示すます。樋に水を流すように対象商品に自分の思いが流れ付くことになります。こうして自分の思いは成し遂げられる可能性を獲得したことになります。
ここまで来ると自分が買う意志を持ったことに安心感のようなものが出てきて、意志行為の決定をしていくことになる。新たな段階として意志の奮い立つ次元が訪れます。
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次に建御雷(たけみかづち)の男の神。またの名は建布都(たけふつ)の神、またの名は豊(とよ)布都の神。
建御雷の建(たけ)とは田気(たけ)の意です。
田とは五十音言霊図のことで、その気(け)ですから言霊を指します。
雷(いかづち)とは五十神土(いかつち)の意で、五十音を粘土板に刻んだものです。自然現象としての雷は、天に稲妻(いなづま)が光るとゴロゴロと雷鳴が轟(とどろ)きます。同様に人間の言葉も精神の先天構造が活動を起すと、言葉という現象が起こります。
言葉は神鳴りです。この神鳴りには五十個の要素と五十通りの基本的変化があります。この五十の要素の言霊と五十通りの変化の相とを整理・点検して最初に和久産巣日という五十音図(天津菅曽音図)にまとめました。
次にその音図を十拳剣という主体の判断力で分析・検討して行き、石柝(いはさく)、根柝(ねさく)、石筒(いはつつ)の男と検討が進展し、甕速日(みかはやひ)という心の静的構造と樋速日という心の動的構造が明らかにされました。
その結果として五十音言霊によって組織された人間の心の理想の構造が点検の主体である伊耶那岐の命の心の中に完成・自覚されたのであります。
この精神構造を建御雷の男の神と言います。
人間精神の理想として建御雷の男の神という五十音図を自覚しました。
これを建御雷の神と書かず、下に「男の神」と附したのは何故なのでしょうか。
初め伊耶那岐の命は妻神伊耶那美の命と共同で三十二の子音を生みます。それを粘土板に書いて火の迦具土の神という神代表音文字に表わしました。そこで伊耶那美の命の客体としての高天原の仕事は終り、美の命は高天原から客観世界の予母津国に去って行き、残る五十音の整理・検討は主体である岐の命の仕事となります。
そこで整理作業によって最初に得た菅曽音図を主体の判断力である十拳剣で分析・点検して人間精神の最高理想構造である建御雷の男の神という音図の自覚を得ました。
しかし人間の心の理想構造の自覚と申しましても、それは飽くまで主体である伊耶那岐の命の側に自覚された真理であって、何時の時代、何処の場所、如何なる物事に適用しても通用するという客観的證明をまだ経たものではありません。
主観内のみの真理であります。その事を明示するために、太安万侶はこの自覚構造に建御雷の男の神と男の字を附けたのであります。
またの名は建布都(たけふつ)の神、またの名は豊(とよ)布都の神。
建布都(たけふつ)の建は田(た)(言霊図)の気(け)で言霊の事。
布都(ふつ)とは都(みやこ)を布(し)くの意。
都とは言霊を以て組織した最高の精神構造、またはその精神によって文明創造の政治・教育を司る教庁の事でもあります。
豊布都の豊(とよ)は十四(とよ)で、先天構造原理をいいます。
そこで建布都とは言霊を以て、豊布都は言霊の先天構造原理を以て組織された最高の人間精神の事であり、建御雷の男の神と同意義であります。
建布都・豊布都は奈良県天理市の石土(いそのかみ)神宮に伝わる十種(とくさ)の神宝(かむたから)の中の神剣の名でもあります。
十拳の剣。10。
次に建御雷(たけみかづち)の男の神。またの名は
建布都(たけふつ)の神、またの名は
豊(とよ)布都の神
ここで主体は心を表出する段階になります。みかんをどうするか、言葉として自分の意図を吐き出します。古事記では稲光、雷が起こって言葉という現象がおきるとしています。凄い比喩ですね。
雷、かみなり、神の名が鳴る、神名かなを発音する、ということでしょう。
前の甕速日(みかはやひ)、樋速日(ひはやひ)では相手の様子表情あり方を受取ました。物がそこにあるということに対して、粘土板の文字を一目でぱっと見て分かるように(みかはやひ)、また、そのものがどのようなことを現しているのか現されたその流れをぱっと分かる(ひはやひ)ようになりました。
それらに対する主体側の対応が、ものに名を付けようとする意志行為(たけみかづち)、言霊原理によって現実の場面で起きる組織された交流(たけふつ)、潜在的な同意合致を促す組織された交流、売買(とよふつ)、を受け持つ建御雷(たけみかづち)の男の神の仕事となるわけです。
それらの行程は雷光が地に達するように、極めて迅速に行われる。
物を見てこれを下さいというたったそれだけのことで、ここまできました。解説には、自らの主観内に自覚した最高の心構えである建御雷の男の神を斎き立てました、とあります。最高の規範を主観内に完成したことです。
われわれの現実生活状では最高の規範によって物事が運ぶわけではありません。でもそれに相当するものはあます。単にみかんを下さいと決定した言葉をかけることです。この日常の単純な振る舞いはどの場面においても「最高」といえるでしょう。それ以上はないしそれによって、考え思惟する段階から行為実践の段階に飛躍するのですから。
そういった行為の持続において生活は進行しています。しかし、みかんを下さいが誰にでも通じるわけではない。下さいと自分では言ったものの相手の了解はまだとれていません。ここで自分だけを主張したり、相手に不快感を与えたり、あるいはみかんそのものにしゃべりかけたり、するようなことになれば、買い物の成立は危なくなります。
自分を律することは自分にとっては最高のことになりますが、誰にでも通用するとは限らず、単なる独自性とか独断とか個性とかに陥ってしまいます。
「最高の規範」は上手に活用されなければなりません。
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次に御刀の手上に集まる血、手俣(たなまた)より漏(く)き出(いで)て成りませる神の名は、
闇淤加美(くらおかみ)の神。次に
闇御津羽(くらみつは)の神。
伊耶那岐の命の人間精神構造の検討の仕事が、初めに剣の「前(さき)」から「本」となり、此処では「御刀の手上(たがみ)」となり、検討の作業が進展して来た事を物語ります。ただ「前」と「本」とが「湯津石村に走りつきて」とありますのが、「手俣より漏き出て成りませる」と変わっているのは何故でしょうか。その理由は成り出でます神名闇淤加美の神、闇御津羽の神に関係しております。これについて説明いたします。
伊耶那岐の命は菅曽音図の頚(くび)を斬り、人間の精神構造を検討するのに十拳剣を用いました。それはア・タカマハラナヤサ・ワの十数による分析・検討であります。この様に言霊によって示される構造を数の概念を以て検討する時、この数を数霊と言います。この十の数霊(かずたま)による検討は左右の手の指の操作で行う事が出来、その操作を御手繰(みてぐり)と呼びます。指を一本づつ「一、二、三、四……」と握ったり、「十、九、八、七……」と起したりする方法です。「御刀の手上(たがみ)に集まる血、手俣より漏き出て……」とありますのは、以上の御手繰りによる数霊の操作を表わしたものなのであります。太安万侶の機智の素晴らしさが窺える所であります。
御手繰りの操作に二通りがあります。開いた十本の指を一つ二つと次々に折り、握って行く事、それによって宇宙に於ける一切の現象の道理を一つ二つと理解して行き、指十本を握り終った時、その現象の法則をすべて把握した事になります。この道理の把握の操作を闇淤加美(くらおかみ)と言います。十本の指を順に繰って(暗[くら])噛(か)み合わせる(淤加美[おかみ])の意です。そして十本の指全部を握った姿を昔幣(にぎて)と呼びました。握手(にぎて)の意です。また物事の道理一切を掌握した形、即ち調和の姿でありますので、和幣(にぎて)とも書きました。紙に印刷した金のことを紙幣と言います。金は世の中の物の価値の一切を掌握したものであるからであります。また昔、子供はお金の事を「握々(にぎにぎ)」と呼んだ時代がありました。
御手繰のもう一つの操作の仕方を闇御津羽と言います。闇淤加美(くらみづは)とは反対に、握った十本の指を順に一本ずつ「十、九、八、七……」と順に起して行く操作です。指十本を闇淤加美として掌握した物事の道理を、今度は指を一本々々順に起して行き、現実世界に適用・活用して、第一条……、第二条……と規律として、また法律として社会の掟(おきて)を制定する事であります。掟とは起手の意味です。闇御津羽とは言霊を指を一本々々起して行く様に繰って(闇)鳥の尾羽が広がるように(羽)、その把握した道理の自覚の力(御津・御稜威[みいず])を活用・発展させて行く事の意であります。
伊耶那岐の命は人間の精神構造を表わす埴土(はに)に刻んだ五十音言霊図を十拳剣で分析・検討することによって、主体内自覚としての理想の精神構造である建御雷の男の神を得ました。その構造原理を更に数霊を以て操作して、その誤りない活用法、闇淤加美、闇御津羽の方法を発見しました。五十音言霊による人間精神構造と数霊によるその原理の活用法を完成し、人間の精神宇宙内の一切の事物の構造とその動きを掌握し、更にその活用法を自覚することが出来たのであります。言霊と数霊による現象の道理の把握に優る物事の掌握の方法はありません。伊耶那岐の命の心中に於ける物事の一切の道理の主体的自覚は此処に於て完成した事となります。
奈良県天理市の石上(いそのかみ)神宮に伝わる言葉に「一二三四五六七八九十(ひふみよいむなやこと)と唱えて、これに玉を結べ」とあります。玉とは言霊のこと。言霊を数霊を以て活用することが、この世の一切の現象の把握の最良の理法であることを教えております。
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