<う>の発生。序。
「たとえば狩猟人が、ある日はじめて海岸に迷いでて、ひろびろと青い海をみたとする。」(吉本隆明著『言語にとって美とは何か』)
始めは何もありません。狩猟人の心は海については清浄無垢です。
狩猟人ははじめて青い海を見て、心の内面に何かが起ころうとします。この場合海を見ており、潮の匂いを嗅いでおり、潮騒の音を聞いており、また砂地の感触を足裏に受けていることが持続しています。しかしどれにあたるかは特定できません。ただ海を目前にしたとしておきましょう。
海の青さを気にしたとしたら、広々とした青は空しか知らなかったのかもしれないし、木々の緑と草原の緑しか知らないのかもしれないし、それらに対する海の青でしょう。
注意が目前の海にある限りにおいて、彼の心に何らかの起こるものが出てきます。注意が途切れれば海は存在しなくなり、何も起きません。また山に帰るでしょう。
ここに、注意意識の対象として何か分からないが、目前のものに対して注意が引かれ、それが彼の意識を占め、対象と結び付いて出現使用する兆しが出てきました。
ここに在ったのは感動かもしれないし、空とは違う青一色への共感かもしれないし、はじめて嗅ぐ潮風であるかもしれないし、緑の山野に対する足裏の感触で目前の青さの海原を踏みしめれるかという疑問であったかもしれない。
彼の心が海を注視すればするぼど、彼と海は対立的に向かい合うことになる。
目前の海は視界の領域の大部分を占めているが、だだっぴろいだけ。広大な海を前にして今まで動いてきたことがまるで蛆虫のうごめきのように感じられる。一面の青色の前に自我意識は存在せず嘘のように感じる。
海との自分との対比に気が付くと海の中に一点チョンと自分が居る。自分が居るからここに何かがあると思える。しかし、うごめく自分の姿が与えられる。だから一色しか無いのに何かあると思える。
一面の果てしない海は彼の心を陣取り彼の心の中心を占めていく。
<う>の発生。一。
海を目前にして狩猟人の注視は続く。
今や見たことの無い青い海原を前にして、見ていく自分の心と見られている海との相違が際立って来る。
海を見たから海が分かったのであり、彼の見るという行為に関してだけ、海はその姿をあらわしている。
海に対して自分は別物であることが分かったが、何が分かったのかその内容ははっきりしません。猟の獲物が無く海からうさぎが跳びだして来るのか、一面の青さは空以外には知らないし見渡す限りの緑の草原ではない、海は硬いのか柔らかいのかあそこを歩くと草を踏む感触はあるのかどうかははっきりしない。
目前の海を自分の心にどう結びつけるのか。海を指して海をなんというか彼の主体性はさらに高まっていく。彼には全体的な浮遊した脂が漂うような分別した自分と海との差異が見られず暗闇を目前にしているように思う。
ここで彼の主体的な見るという行為は海側から何を見ているのかと疑問を突きつけられて来る。彼に分かっているのは自分は海ではなく海は自分ではないということだけで、相手を指し示して明示することも出来ていない。
そこで狩猟人に過去の記憶による援助が沸き起こる。それは連綿とした記憶の連鎖となって、青色に関すること、潮騒の音に関すること、匂いに関すること、平らなこと、大きいこと、向こうに空があって一線を画していることなど、全ての記憶が動員されて、目前の海に同意を求めるように、海が出てきた記憶の何を受け止めてくれるかが検討されていく。
今の経験は過去の経験知識にどう結ばれるのか、過去の経験知識で今の経験を成立させられるのかが問われていく。
狩猟人が記憶を持ち出し考えを加えていくに連れ、目前の海は狩猟人の記憶にどんどん結び付いていく。
水だけど塩気がある、水たまりや池などよりさらに大きい、何が出て来るのかどう変化するのか検討もつかない、見た目には何も無いのに自分を誘い込む、自分はちっぽけな蛆虫のように感じさせさせられる、等の記憶が出たり入ったりして、適切なものが海と結ばれていく。
こうして記憶とその選択が海と結ばれようとしていく。
<う>の発生。二。
狩猟人は狩猟、山の生活、野原原野の生活からは海に相当する類の記憶を探すことはできなかった。従って自分の狩猟生活分野の現象からは独立したものであることを悟るだろう。それにもかかわらず彼の注意は持続して目前にある。
彼は目前に青い海原しかないのを見ている。
経験からも生活からも記憶からも類似を得られない彼は、海を見る態度自体を問うことになる。
(注。事物に対する名付け行為はおそらく数百年間の共同的な努力の賜物だろうと思われるが、ここでは天才的な狩猟人による名付け行為が成るものとする。同様に後の共通の了解が得られる過程も時間は短縮されている)
狩猟人の主体的な注視が持続する限り海は彼に対してわたしは何であるかを問い続ける。そこで彼の頭脳は働き続ける。
端緒には混沌とした大いなる弾みのようなエネルギーの総体のようなものを得た。彼はこれを自分の総意としてその動きを自分の主として受け入れ、海を見つめている状況宇宙の中心に位置づけようとする。
それは自己意識内自分の発現を促すエネルギーとしてあり、自己意識の中心を占め、発現するならば現象の中心を占めてものの主になろうとしている。
ここの海の例では、主とは過去に依存しない、見続けていたい欲望、待ち続けていたい欲望であり、何も無いものを知りたい、過去に所有していた知識がちっぽけに見える新しい知識であり、自分を小さく見せる、自分の主体性がまるで狭い範囲でうごめいているようにしか見られない、常に寄せる波に反復される音に自分を奪われそれでいて何かを自分に産み落とすような情感を与える、総体として出てくる。
彼が海から受ける総体感にはどこか欠けたものがあり、何かを感じることは感じるが、海の主体性が感じられることは無く強制も命令も無く、単調な視覚聴覚の変化の中で、自分は歩き走るがそれをうごめくような小さいものとしてしまう。
そこで狩猟人は海からの誘発を受け入れるために手を尽くし、その感じを掻き集めたぐり寄せ自分を組み立てようとしていく。今ここにいて、その情感の不明さを開示したく、不明な状況に困惑しながら自己主張を確立していこうとする。
過去経験は海を示すのに役立たないことは分かっているので、いまここの経験にのっとって自分の心に跳ね返るものを探そうとする。海原は平坦で青く何の変化も無い。それなのに自分の心を動かして感じるものを生んでいく。不断に続く波か潮騒か。足元で小さく砕けて散っては消え去る泡達のせいか。
確かに自分の感じる存在がここにある。そうだそういえば今年の冬に一面の雪景色の中で一輪の梅の花が咲いていた。小さな花だった。それを見たとき春が来る喜びが生まれた。何かそんな感じに似ている。
<う>の発生。三。
狩猟人の頭の中は前記のような経過で働いていきました。そこで彼はあることに気が付きました。今までのことは自分の頭の中でのことだ。もしこのまま頭の中で造り上げたものを喋ったとしても、誰かここに住んでるいる人にこれは「ひ」と言うんだといわれるかもしれません。自分で勝手に創ったものと、共通して通じるものとの領域を明瞭にしておくことと気が付きました。
自分の心を見つめ問い、何かえたいの知れないものに誘われて頭の中に何らかの塊が生じてきていました。自分の喜びのためだけなら、何と名付けようと構わない。これは自分だけの経験で自分のために何とか名付けておくのも構わない。自分の名付けたことをここの住人に強制して公布するようなこともできない。住民たちは何と言っているか知らないがぜひとも一致していたいと思う。彼のそんな思いは彼自身に、自分の成り余った思いをどこか欠如しているものに突き刺したい感じを与えました。
彼は未然の互いに了解できない不祥事を防ぐため自分の領域と相手と共通する領域を分けることにしました。
彼は自分をふり返り頭の中を整理してみました。
はじめて海岸に迷いでてひろびろとした青い海を見ました。まず彼は海を感覚器官で知りました。と同時にそれは海から知らされていることでした。自分と海との分離が大いに感情に訴えました。
そこでかれは受けた感情から、目前のものを名付けようと自分に問います。直接間接の知識経験記憶が動員され海に結びつけられようとしました。残念なことに山野の生活との間に類似は見つかりませんでした。
しかし彼の海に対する思いは持続していて、何とか名付けたいと思っていきました。自分勝手に付けた名前ではなく自分も他も納得する、海と名前が、言い換えれば目前の現象の実相というか実体を指し示した名前を探したいと思いました。
自分の驚きだけで叫んでも通じないだろう、自分の感じだけで名付けても充分でないだろう、自分の意識だけなら独りよがりで他人は理解できないだろ、目前の海を指して意識を込めて発声音を他の人たちに命令することもできない。
それにも関わらず意識の内部には塊のようなものがでてきて、自分も海と同様な現象に成りたがっているように思えます。それを表出するだけなら海を見て十人十通りの自己表出で終わるだけでしょう。自己の意識と自己の指示表出だけですから何の共通性も見られず混沌が助長されるだけです。
狩猟人は自分の意識領域に過ぎないものはその範囲を出さないことにしました。内部の出たがっている塊のようなものは、海の実体、実相に結ばれない限り、意味を持ったとしても個人的な意味しかないので、この狩猟人は人為的な頭脳の使用法を止めて赤ん坊が乳を欲しがるように、言葉が現象を指すのではなく、言葉が現象であるような路を探しました。
<う>の発生。四。
言葉がそのまま実相となり実体となる、現象を指す言葉がそのまま現象の言葉となって、言葉を発声した人の指示内容や自己表出を統合している言葉、発語する人の意識によって変化してしまわない、そのような言葉を狩猟人はさがしに行きます。
目前の海は誰にも海として現前しています。人それぞれによって受け取り方受け入れ方が違い、海の説明感じ方は千差万別となります。狩猟人は緑の草原を歩く感覚しか知りません。海の沖をみてあそこを歩いたらどんな感じかなと思っているかもしれません。
十人よれば、百人よれば、あるいは千人、百万人よれば海への指示表出はより明確さが増すでしょうが、きりの無いことです。ところが海はそこにあって、そこに居るもの誰にも思うものだけを思わせる力を秘めています。そこにいる人の思いの百パーセントをそのまま誰にでも返してくれます。
狩猟人はそのようなことは海だけに関することではなく、人間の意識活動に共通であることを知っています。つまり百万人一千万人あるいはたった独りの自分の海への思いが、海を指して名付け親になれることを知っています。彼はいま海岸で独りです。自分の心を見つめる以外に方法はありません。
いままでは頭の中でいろいろことが湧き出てきていました。ある程度形を持って創造もできるようになってきました。しかしそれらは未だに言葉となっておらず頭脳内にあるだけです。今度はこれを、現象としてしかも現象が実体を指すものとして発語させなくてはなりません。
いわば脳内イメージが言葉に結ばれ発音されなくてはなりません。さらには発音は相手の耳にあるいは自分の耳に到達して、目前の海がなんであるかが検討され自他ともに了解されなくてはならない。そこで了解されればさらに他の人たちにも共通の言葉となることもできるだろう。
狩猟人は自分の心と心に跳ね返り実をもたらすものは何かと発見創造を試みていきます。
そこで狩猟人は常に自分の意識内容、指示表出はそれだけとしては意味の無い自分だけの通貨であることを知っています。万人を超えたものから受け取るものだけが、万人にまた還元されていくのを知っています。
そこにあるのは、青くひろびろとした海と自分とその両者の感応と、その両者に感応を起こさせる何者かです。さらに狩猟人は言葉を知っています。あいうえお五十音は彼の中にあります。
<う>の発生。五。
狩猟人は浜辺に座り込み名付けに使用する古代文字群を書き綴りだし確かめています。
数千年以前の古代には既に各種の文字は存在していて、五十音図もあった。狩猟人がそれらを使用せずに海を見て名付けたとすれば、単なる彼だけの名前でしかなく、社会的な共有性も無い。ここでの<う>の発生で問題としているのは、個人が自分なりの意識や意味内容を込めて命名することではない。言語社会での命名を解明している。
海に対して、芸術文学上での命名も、自分の得た感情からの命名も、経験記憶からする命名も、新しい交流のための命名も、それらの全ては検討されていった。さらには狩猟人に対して何か誰かが自分を押し出して狩猟人に働きかける不明瞭なリズムか力動のようなものも検討された。
狩猟人の手元には自己の名付けたいという主体的な意志と、名付けるのに必要な文字群と、名付けを受け取る自分の心がある。
かれは一つ一つ文字を発語しては確かめていった。海は「ハ」か、「フ」か、「ヘ」か、「ホ」か、「メ」か、「ム」か。
さらに彼は自分の主体的に問う姿勢を問題にした。
「ハ」というとき自分の頭の中にある言われぬ塊に海は「ハ」だしっくりくるか。
「フ」というとき塊が言葉と結び付きたくて動く方向に「フ」はあるか。
「ヘ」ならば、いまここでの体験内容と結び付くか。
もし、「ハ」ならばハというとき自分の意識はそれを納得するか。
「ハ」といって、それっきり後が続かないのでは言葉の交流ができない。
何よりも「ハ」というと、自分の心に海が煮詰まるように、現れるか。
「ハ」は目前の海という総体の印象を持続して行けるか。
そして「ハ」といえば自分は自分の表現が確立されたと思えるのか。
これらのことが一つ一つの文字種において検討されていった。思いつきや驚嘆から発せられた奇声さえも考慮の対象としただろう。文字を一つ発してはその都度心に問うていった。(いったい何日何年かかっただろうか。驚異的な持続力と忍耐だ。)
ここまでで彼は海の命名には過去の記憶も経験もその類似性を見いだせず、自分の心に問うことしか方法がなくしかも自分だけの個人的な印象には依らないことを知っている。自分の心の動きを動員して、文字との対応も検討した。ただしそれは文字一字だけだった。何故二字じゃないのか、三文字では現せられないのかと、さらに手間隙のかかる整理検討が必要とされていった。
もし海を何とか名付けたなら、海に類するもの、近いもの、関連するもの、海と心の通うもの、それらの全ても、整合性を与えられなくてはならない。海に与えた名前だけが孤立していることはあり得ない。それは海から受ける他の人たちの印象も整理されるものでなくてはならない。
与えられた名前から関連したものに拡がっていっても矛盾なく、類似関連したものから中心へと向かっていっても不整合性もなく、順当な今後が保全されているものでなくてはならない。
<う>の発生。六。
海への命名は全言語体系、言語生活の高度な整合性の上で行われた。
偶然の叫びや、意識のさわりとか、象徴指示とか、自己表出といったものは考慮の対象となって全て内包されていった。
古代の天才の強度な思惟操作によって海が名付けられようとしています。狩猟人はさらに万全の注意を持っていっさいの混乱を排除解決するための準備をも設定していきます。
いまこのままの状態で海を名付けてしまったら、自分にとっては始めてのことだろうけど、既にここの住人には知れ渡った言葉があるだろうし、今後よその国へ行ったときにそこの人たちと通じ合えるか、自分の名付け方の根拠が普遍的であるかを調べていきます。
自分の意識内容を込めて海を指示するには手持ちの言葉を適当に組み合わせてもできることです。自分の意識から出発する人はおうおうそういったことを平気でしていきます。そこで一致しないときは既成既得の言葉との衝突が起こることになります。しかし、それはそれで学問知識の整理構築には役立つものですが、全体的な整合性をもった創造行為には当てはまりません。
狩猟人の名付け行為はその場だけの名付け行為ではありません。全過去と既得の記憶と知識の総体を損なわずに行われる名付け行為です。それには緻密な精神活動が前提とされ、精力的で壮大な精神の持ち主でなければなりません。狩猟人はついに決行します。
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ここから先は狩猟人の精神行為とその活動がとてつもなくわたしの範囲を超えているためわたしには記述する力はありません。
何故、ひろびろと青い海をみて<う>と名付けたかについて、若干の私見を述べるだけしておきます。
現在わたしたちは<う>の付く言葉をいろいろ持っているのでそれらの言葉から<う>を抽出してみるだけです。
<う>は母音ですので、発音する上で自分を遮り抑えるものがありません。自分の息の続くかぎりうーーと発音できます。
このことから、人間性能に直接関わった何者かであります。経験知識がないと実現しないものではありません。従って経験を選ぶこともなく、経験を必要としない選択する思考以外のものです。
自分の息の続く限りということは、人間性能の発現がある限り可能となる何かです。
うーーという発音においては、自分と<う>とがまるで一体であるような何かです。
さて目前の海を見てみましょう。
広く大きく平らで見渡す限り同一でただ青く何も無いものとしてある反面、足元には単調に繰り返す波、その音、寄せる泡、静かに退く潮騒等、小さい動きの無限の反復があります。
眼を沖にやれば何も無い、だが足元には細かい動きがある。
足元の反復する動きには主体性は感じられません。一度二度の動きまたその動きだけに注意を与えると一時的に波が押し寄せる感じが得られるだけです。
沖の海と手前の海との対比が成り立ちます。何も無い変化が無い青いだけなのに、足元との相違に注意がいきます。沖の海から何かが現れるのではないか、沖の青さが波を作っているのではないか、沖の無変化平静さに比べると足元は何となく波の動きが、こそこそうごめくようで泡が生まれては消える瞬間的なものを感じます。
沖の海と手前の海との連続性を見ると、まだ現象としては現れない始原をあちらに感じこちらには何か動きはじめる予感を感じます。連続した一連の流の中では沖の海の中に動く気配を感じ手前側にはその結果を感じます。
以上のような感触から、動かないのに動いている、動き始める気配がある、動きは小さくうごめくようで、主体的なエネルギーの奔流のようなことはなく何かされるがままで、といった観念が与えられ作り出されます。
与えられた五十音で探ってみると、頭に父韻の付く制限され後から出てくる子音にはふさわしくありません。残るのは母音だけです。そして<う>になります。
海に<う>と名付けられました。生まれる、うごめく、うごく、うめく、海の<う>と、<う>の整合性は崩れていません。
<う>はおよそ五千から八千年前に五十音図を(当時既に存在していた)見て名付けられたといいます。