奥津甲斐弁羅(おきつかいべら)の神、辺津甲斐弁羅(へつかいべら)の神「身禊」12。
奥津那芸佐毘古で禊祓の作業の出発点にある黄泉国の文化の内容を尽く生かす手段が分かりました。
また辺津那芸佐毘古でその文化の内容を人類文明の中に同化・吸収する手段が分かりました。
出発点の黄泉国の文化を生かす方法と終着点である人類文明に組込む手段とは、実は別々のものではなく、実際には一つの手段でなければなりません。人類文明に摂取する外国文化の内容の尽くを見極め、それを生かそうとする手段と、その内容を衝立つ船戸の神の音図に照らし合わせて、人類文明の中にその時処位を与える方法とは、実際には一つの行為・手段によって行われるものです。
そこで出発点の手段と終着点の手段は一つにまとめられなければならないでしょう。ですからそのそれぞれの間の隔たりは狭められなければなりません。その間の距離を狭める働きが出発点の奥津那芸佐毘古に働く事を奥津甲斐弁羅と言い、終着点の辺津那芸佐毘古に働く事を辺津甲斐弁羅と名付けるのであります。
この様にして摂取する外国文化の内容のすべてを生かし、更にそれを人類文明に組み入れる動作とがただ一つの言葉によって遂行される事となります。この禊祓の行為を仏教では佛の「一切衆生摂取不捨」の救済と形容しております。
以上、伊耶那岐の大神が自らの御身の中に於て外国文化を人類文明に組み込んで行く手法を示す奥疎の神以下辺津甲斐弁羅の神までの六神について解説いたしました。お分かり頂けたでありましょうか。
知訶(ちか)島またの名は天の忍男(あまのおしを)
以上お話申上げました衝立つ船戸の神より辺津甲斐弁羅の神までの十二神が人類精神宇宙に占める区分を知訶島または天の忍男と言います。
知訶島の知(ち)とは言霊オ次元の知識のこと、訶(か)とは叱り、たしなめるという事。黄泉国で発想・提起された経験知識である学問や諸文化を、人間の文明創造の最高の鏡に照合して、人類文明の中に処を得しめ、時処位を決定し、新しい生命を吹き込める働きの宇宙区分という意味であります。
またの名、天の忍男とは、人間精神の中(天)の最も大きな(忍[おし])働き(男)という事です。世界各地で製産される諸種の文化を摂取して、世界人類の文明を創造して行くこの精神能力は人間精神の最も偉大な働きであります。
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知訶島の領域。知識を叱りたしなめる知より大きく偉大な領域。
タ)
1。かれ投げ棄(う)つる御杖に成りませる神の名は、衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神。・取する黄泉国の文化の内容の他との関連性を調べる働き
2。次に投げ棄つる御帯(みおび)に成りませる神の名は、道の長乳歯(みちのながちは)の神。・取する黄泉国の文化の内容の他との関連性を調べる働き
3。次に投げ棄つる御嚢(みふくろ)に成りませる神の名は、時量師(ときおかし)の神。 ・現象の変化から時間を決定する働き、処位。
4。次に投げ棄つる御衣(みけし)に成りませる神の名は、煩累の大人(わずらひのうし)の神。・アイマイで意味不明瞭な言葉を整理・検討して、その言葉の内容をしっかり確認する働き
5。次に投げ棄つる御褌(みはかま)に成りませる神の名は、道俣(ちまた)の神。・言霊図に照合して物事の分岐点を明らかに確認する働き
6。次に投げ棄つる御冠(みかかぶり)に成りませる神の名は、飽咋の大人(あきぐひのうし)の神。 ・ア段と照らし合わせて、物事の実相を言霊で明らかに組んで行く働き
カ)
7。次に投げ棄つる左の御手の手纏(たまき)に成りませる神の名は、奥疎(おきさかる)の神。・何かを他の何かから始まりの処に遠ざける働き
マ)
8。次に奥津那芸佐毘古(おきつなぎさびこ)の神。・始めにある何かを或る処に渡すすべての芸を助ける働きの力
ハ)
9。次に奥津甲斐弁羅(かいべら)の神。・始めにあるものを渡して或るものとの間の距離を減らす働き・
カ)
10。次に投げ棄つる右の御手の手纏に成りませる神の名は、辺疎(へさかる)の神。・何かを他の何かから終結する処に遠ざける働き
マ)
11。次に辺津那芸佐毘古(へつなぎさびこ)の神。 ・終結点に向って何ものかを渡すすべての芸を助ける働きの力
ハ)
12。次に辺津甲斐弁羅(へつかいべら)の神。 ・終結点にあるものを渡して、あるものとの間の距離を減らす働き・
知訶島の領域を引用文でまとめてみました。
禊ぎはよもつ国で支配的な経験意識抽象概念思考を捨て去ることですから、1-の御杖は経験知識による判断基準ではないと同様に、6-の御冠は被り被った経験知を棄てて実践智で物事を見ることです。科学経験理性に支配されないということです。犬の仏性など科学的にどうやって検証するのか、不思議ですがそれが無という言葉に置き換えられると真面目に検討されていきます。
無にしろ犬にしろそれらの知的な判断は既に6-までのことです。もともと知的な意識をたしなめることが禊ぎですから、もう概念規定は必要でありません。
ですから7-以下は手、探り選択し創造する手のこと、にまとわりついた知識記憶を禊ぎすることが主題です。手の創造物、知識の創造物を禊ぎすることになります。ただわれわれは概念を背負った言葉を使用するので、それに捕らわれなければよいことです。
犬の仏性。
前提はわれわれは犬とか仏性とかの言葉の概念に捕らわれていること。
問題は幾ら経験知を集めても実践智には到達出来ないことで、実践智の出発にはほんのひとかけらの意志とか情感があればいいことです。それがうまく7-以下に出て来るかどうか。
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7。奥疎(おきさかる)の神。・何かを他の何かから始まりの処に遠ざける働き・途上(現在位置)にいる自分のものを対象客体の端緒へ持ち込みまとい付かせること。
犬好きは犬の気性を話し、坊主は色即是空などを持ち出し、宇宙、科学に関心のあるものは専門知識を持って、それぞれ犬や無の説明をし始めることでしょう。しかし説明概念は常に変化し、例えば宇宙の最深奥の星を発見するたびに宇宙の年齢は延びていきます。いまここで犬の仏性を問われているのですから、最新の発見であれ研究であれ概念知性の説明はたかが知れているということです。
そこで犬の仏性を犬とは何かの無とは何かの原理原則的な規定に持ち込んでも始点にたたずむだけのことです。これは奥疎(おきさかる)の神の負の使用法です。説明概念は時と共に煩雑にプラスでなら原理原則のシンプルさを利用すればいいわけです。
奥疎(おきさかる)の神は6-飽咋の大人(あきぐひのうし)の神に続くもので、6-での判断は最上位の冠(ア)による判断、情緒宗教芸術感性、宇宙を自覚した時の判断、五感意識で捉えられないもの、経験意識能力では表現出来ないものの領域から来る判断ですから、それを等を基としています。
ここでは犬の仏性は無いというので、犬とか仏性とかの知識内容ではなくその時その場の感じたこと、宇宙の自覚の判断を答えればいいだけです。その場に座り込んで座禅を始めてもいいし、『屁をこくのごとし』なんて言ってもいいでしょう。無門では「無」に結び付けてるだけのことです。
8。奥津那芸佐毘古(おきつなぎさびこ)の神。・始めにある何かを或る処に渡すすべての芸を助ける働きの力・自分を主張しようと他物を利用して事物の発端につなぎ留めようとする。
ところが返答するや否や、返答に使用されたものの存在が更に問われるのではないでしょうか。「ここは陽がさして暑いから経堂でやるのはどうか」などと言われ、存在の仕方行為の仕方を問われるでしょう。そこでもやはり答えなくてはなりません。奥津那芸佐毘古(おきつなぎさびこ)の神は精神行為の生んだ物との関係を全て問われています。
関係を築くには物象物質行為を創造せざるを得ないのですからそれについて問われます。「暑くなりそうですね、では」なんて答えたらやはりひっぱたかれるのではないでしょうか。「わたしはお日様です。ここにいます。」なんて答えはどうでしょうか。
恐らく追及の手はゆるめられないでしょう。
9。奥津甲斐弁羅(かいべら)の神。・始めにあるものを渡して或るものとの間の距離を減らす働き・自分の主張と客体間の終端との間を取り去り減らそうとする。
観念領域と存在領域で問われましたので今度は両者の総体を問われるでしょう。「陽を示せ」なんて言われるかもしれません。
奥津甲斐弁羅(かいべら)の神は始めにあるもの(自分)を渡して或るもの(太陽)との間の距離を減らす働き、自分を太陽とする働きですから今度はそれを示さなくてはなりません。そこでまた座り込んでもいいですが、同じことをするのは芸がないので、和尚さんを抱きしめるというのはどうでしょうか。
「辺」の神達はそれぞれの対の方向です。
架空の座禅会はこれで終わりますが、古事記はそれだけでは満足しません。
ここまでは準備というだけのようです。
というのも主体の行為に多かれ少なかれ客体側の存在の滓がこびりついていてそれらを祓い落としただけということのようです。
本番はこれから始まり、純粋主体とも言うべき主体内の禊ぎに入ります