衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神。
衝き立つ、とは斎き立てるの謎です。判断に当って、その基準となる鏡を掲げることであります。
その鏡とは何なのかと言いますと、先に伊耶那岐の命が五十音言霊を整理・検討して、その結論として自らの主観内に確認した人間精神の最高構造である建御雷の男の神という五十音言霊図であります。
船は人を運ぶ乗物です。言葉は心を運びます。その事から言葉を船に譬えます。神社の御神体としての鏡は船形の台に乗せられています。
でありますから、船戸の神とは、船という心の乗物である言葉を構成する五十音言霊図の戸、即ち鏡という事になります。
衝き立つ船戸の神とは、物事の判断の基準として斎き立てられた五十音言霊図の鏡の働き(神)という事になります。此処では建御雷の男の神という五十音図の事です。
禊祓という行法の作業の基準として斎き立てた建御雷の男の神という五十音言霊図の事を衝き立つ船戸の神と呼びます。という事は、建御雷の男の神と衝き立つ船戸の神とは、その内容となる五十音言霊図は全く同じものであり、その現われる時・処によって名前が変わるだけという事になります。
では何故建御雷の男の神という一つの神名で終りまで押し通さないのでしょうか。そこに古事記神話の編者、太安万侶の深謀が窺えるのであります。この事について説明を挿し挟む事とします。
右のように書きますと、伊耶那岐の大神が自らの心の中に斎き立てた衝き立つ船戸の神が、前に出て来ました建御雷の男の神であるという事が自明のように思われるかも知れません。けれど実際には古事記神話の何処にもそんな記述はありません。また同時に言えます事は、これから後の言霊百神を示す神話の中に衝き立つ船戸の神という神名が唯の一つも出て来ないのであります。
言霊布斗麻邇の学問の結論となる「禊祓」の行法の判断の基準として不可欠な衝き立つ船戸の神の正体を明らかにせず、また禊祓の実践の最中にもその神名さえも書かず、ただ実践の最初にのみ「投げ棄つる御杖に成りませる神の名は、衝き立つ船戸の神」と一度だけ書いた太安万侶の意図は何処にあったのでしょうか。
それは禊祓と呼ばれる言霊布斗麻邇の学問の総結論に導くための人間精神の最高の行法が、単なる自我を救済する自利の道ではなく、また自分と相向う客観としての他を救う単なる利他の道でもなく、自らに相対する他を包含した自分、即ち客体と一体となった主体である宇宙身自体を清めるというスメラミコトの世界文明創造の業である事を後世の日本人に知らせるための太安万侶の大きな賭であったのでありましょう。
何故なら伊耶那岐の大神の宇宙身である御身という意味を理解しない限り、後世の人々が想像だに出来ない禊祓の真意義を説くに当って、太安万侶は古事記の神話という謎物語の中での最大の謎をここに仕掛けたのであります。それは考えに考えた末の決断であったのです。
「知らせてはならず、知らさいではならず、神はつらいぞよ」という大本教祖のお筆先はこの事情をよく物語っていると言えましょう。衝き立つ船戸の神の内容が建御雷の男の神であるという事は、古事記神話全体の文章の流れの把握によってのみ言い得る事なのです。
さて伊耶那岐の大神は御杖に続いて自分の身につけているものを次々に投げ棄ち、合計五神が誕生します。これ等の五神は禊祓の実行のため基準の鏡となる衝き立つ船戸の神とは違い、伊耶那岐の大神が自らの身体として摂取する黄泉国の文化を、その内容について詳しく調べる為の五つの条項を示す神名なのであります。その一つ一つについて解説をして参ります。
衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神 。「身禊」。3。
かれ投げ棄(う)つる御杖に成りませる神の名は、
杖(つえ)とは、それに縋(すが)って歩くものです。その事から宗教書や神話では人に生来与えられている判断力の事を指す表徴となっています。投げ棄つる、とは投げ捨てる事ではなく、物事の判断をする場合にある考えを投入する事を言います。判断の鏡を提供する意味を持ちます。
衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神。
衝き立つ、とは斎き立てるの謎です。判断に当って、その基準となる鏡を掲げることであります。その鏡とは何なのかと言いますと、先に伊耶那岐の命が五十音言霊を整理・検討して、その結論として自らの主観内に確認した人間精神の最高構造である建御雷の男の神という五十音言霊図であります。船は人を運ぶ乗物です。言葉は心を運びます。その事から言葉を船に譬えます。神社の御神体としての鏡は船形の台に乗せられています。でありますから、船戸の神とは、船という心の乗物である言葉を構成する五十音言霊図の戸、即ち鏡という事になります。衝き立つ船戸の神とは、物事の判断の基準として斎き立てられた五十音言霊図の鏡の働き(神)という事になります。此処では建御雷の男の神という五十音図の事です。
禊祓という行法の作業の基準として斎き立てた建御雷の男の神という五十音言霊図の事を衝き立つ船戸の神と呼びます。という事は、建御雷の男の神と衝き立つ船戸の神とは、その内容となる五十音言霊図は全く同じものであり、その現われる時・処によって名前が変わるだけという事になります。では何故建御雷の男の神という一つの神名で終りまで押し通さないのでしょうか。そこに古事記神話の編者、太安万侶の深謀が窺えるのであります。この事について説明を挿し挟む事とします。
右のように書きますと、伊耶那岐の大神が自らの心の中に斎き立てた衝き立つ船戸の神が、前に出て来ました建御雷の男の神であるという事が自明のように思われるかも知れません。けれど実際には古事記神話の何処にもそんな記述はありません。また同時に言えます事は、これから後の言霊百神を示す神話の中に衝き立つ船戸の神という神名が唯の一つも出て来ないのであります。言霊布斗麻邇の学問の結論となる「禊祓」の行法の判断の基準として不可欠な衝き立つ船戸の神の正体を明らかにせず、また禊祓の実践の最中にもその神名さえも書かず、ただ実践の最初にのみ「投げ棄つる御杖に成りませる神の名は、衝き立つ船戸の神」と一度だけ書いた太安万侶の意図は何処にあったのでしょうか。
それは禊祓と呼ばれる言霊布斗麻邇の学問の総結論に導くための人間精神の最高の行法が、単なる自我を救済する自利の道ではなく、また自分と相向う客観としての他を救う単なる利他の道でもなく、自らに相対する他を包含した自分、即ち客体と一体となった主体である宇宙身自体を清めるというスメラミコトの世界文明創造の業である事を後世の日本人に知らせるための太安万侶の大きな賭であったのでありましょう。何故なら伊耶那岐の大神の宇宙身である御身という意味を理解しない限り、後世の人々が想像だに出来ない禊祓の真意義を説くに当って、太安万侶は古事記の神話という謎物語の中での最大の謎をここに仕掛けたのであります。それは考えに考えた末の決断であったのです。「知らせてはならず、知らさいではならず、神はつらいぞよ」という大本教祖のお筆先はこの事情をよく物語っていると言えましょう。衝き立つ船戸の神の内容が建御雷の男の神であるという事は、古事記神話全体の文章の流れの把握によってのみ言い得る事なのです。
さて伊耶那岐の大神は御杖に続いて自分の身につけているものを次々に投げ棄ち、合計五神が誕生します。これ等の五神は禊祓の実行のため基準の鏡となる衝き立つ船戸の神とは違い、伊耶那岐の大神が自らの身体として摂取する黄泉国の文化を、その内容について詳しく調べる為の五つの条項を示す神名なのであります。その一つ一つについて解説をして参ります。
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● 衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神。-判断の基準、精神の拠り所を斎き立てる。
1、道の長乳歯(みちのながちは)の神。--物事の関連性、連続性を調べる。
2、時量師(ときおかし)の神。------物事の実相の変化のリズムを見極める。
3、煩累の大人(わずらひのうし)の神。--不明瞭さを排して言葉の意味をはっきり確認する。
4、道俣(ちまた)の神。---------物事の分岐点を明らかにする。
5、飽咋の大人(あきぐひのうし)の神。--事物の実相を明らかに見てそれを言葉に組んでいく。
古事記の神代の巻は「大く歓喜」できる理想の思想構造を完成する事を目的としています。それによって人は何故思考するかどう行為するかが解明され、全人類に与えられた意識するとは何かの秘密が明かされるものです。
ところがわれわれ凡人は簡単にはいかない。われわれにはよもつ国に持ち込んだ精神原理も無く、伊耶那岐の大神となる鏡も持たない。杖という判断基準も持たない。
確かに拠り所となるものはみられます。五感次元からの欲求に対しては倫理道徳的な禁止事項が、抽象概念による論議には経験検証が、宗教情感の次元では各個人による瞑想が、選択政治行為には実践の成果が等々が、前以てあるいは事後判断のために控えています。考えてみれば個人の段階にもそれなりの原則みたいなものはあります。
各自の五感から来る好み判断、宗教の教条、団体集団の規範、国の憲法等、それらは、個人の次元、特定集団、社会、国の為でしかありません。その作り方は物質の研究に頼り、その再現性が金科玉条となっています。パソコンってなあにと聞くと、百人が百人とも違うことを答えます。各人が規定した内容を無視してパソコンというカラの言葉を通用させます。魂が無く霊がないカラダ(空田、身体)が出来上がっています。伊耶那岐がよもつ国で見てきたもの達です。伊耶那岐は「御身」と言い、自分の性でそれらを創造してしまった「身」の一半の科を禊ぎしようというのが、次の物語となっています。
話しがほら吹きの次元に滑り込んでいきそうです。まずは自分の状況に還りましょう。
ここでいう禊ぎは伊耶那岐の行うように主体内の精神行為です。水浴びして個人救済をすることではありません。
問題はわたしには伊耶那岐のような判断基準が無いという事です。
ですので衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神を何として始めたらいいのか迷います。伊耶那美と一緒に作った世界の物質文化を醜め醜めき汚い国の物だと言い切れるまでの精神状態にありません。ですのでそこから始めるしかないでしょう。
----息抜き---------
コメントがありました。
記紀と聖書が似ていることは不思議ではありませんよ。元々1つの話なんですから。
人類が誕生して間もない頃、ある特定の地域で神から人間に与えられた知識を口伝えで受け継いだものを、各地に広がった伝承者が伝え、文字を使うようになって、陶板や書物に残したものです。新約聖書はまた別ですけどね。
2010/2/7(日) 午後 0:32[ いくお ]
コメントありがとうございます。記紀、聖書、各地の神話に似てる話があることはとりもなおさず全人類の精神構造に共通点があるということです。その共通の精神構造を言霊フトマニといって数千年前に古代日本の地でそれを基とした治世がおこなわれていました。古事記はその秘密を書き記したものでその実行者がスメラミコトです。現在は昭和天皇の人間宣言によって古事記によるスメラミコトの仕事は無いと否定されてしまいましたからスメラミコト空位の時代が続いています。
物質文化上の共通点に関しては速須佐之男命、及び古代天皇がモーゼに与えた命令によりユダヤを介した商行為が強い影響を与えていることでしょう。
次のHPを参考にしてみて下さい。『日本と世界の歴史』
http://homepage2.nifty.com/studio-hearty/kototama_ver.1/lecture/no201/no201.htm
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いくお氏が「元々一つ」と書いていますが、衝き立つ船戸の原則を立てることについて関連させればこういうこともあります。古代より各宗教はアーメン、アッラー、阿弥陀、アガペー、天(アメ)、アポロ等と上に立てるものを表現しています。それらをいつきたてて、崇(アガ)めることをしていますがその共通点は(ア)にあります。これは上を崇める場合はアを用いるという原則が人類共通の先天的な心の中にあるからでしょうか。神の名を集めて統計を取れば多い少ないは分かるでしょうが、心に響くのはどの音かという統計ならよりはっきりするでしょう。
続く五神はストリップをしてるように思えるので、御杖と衝き立つは男根のイメージを呼びます。そこで、衝き立つ船戸の神は
衝き立つ・立ち上げられた男性韻の力強い活動
船・言葉を運ぶもの
戸・女陰の戸を開けるで母音のことかと思いましたが、既に、鳥の石楠船、天の鳥船で子音の実体は産まれていて(言霊ナ)建御雷の男の神の音図も出来ているのでここは十(と)として母音から半母音へ渡るため一つ一つの戸を開けて全体を通過するとしました。(五十音図の横列)
全部で、物事の判断をするまず最初のことは、確かな父韻の働きによる全体的な原則を適宜に選択された母音から半母音にまで運びいれること、つまり十の行程を取ること、となるでしょう。
そこでそれがなぜ原則とか基準とかになるかといえば、対象となる次元の違いにあります。
振り返ると、
一、天地に対する高天原・物事の始め
一、伊耶那岐と伊耶那美に対する天の沼矛・先天
一、天の御柱に対する八尋殿・先天
一、カグツチに対する天の尾羽張・現象子音
一、八の雷神と黄泉軍に対する十拳の剣・半母音
一、十二神の衣服に対する御杖・本人
となり、鳥居の形をとった父韻と母音・半母音との関係となります。
よもつ国を訪問して客体の問題は既に片づいているので、残っているのは本人自身自分自身の意識活動だけです。
私たちのように建御雷の男の神の音図を持たない場合は、伊耶那岐と同じ行程を通って音図の完成に向かうこととなるでしょう。