研究自証していく。泣き騒ぐ。あくまでも自分がやる。
研究自証していく
そこのところを改めて強調させていただきます。あくまでも今日で終わらせていただきたい、その箇所は自分の心の中の伊耶那美命が代表とした客体としてあったもの、客体を構成していたものも自分の心の中のものだと研究自証していく段階に入るわけでございます。
御枕方(みまくらべ)に葡匐(はらび)ひ御足方(みあとべ)に葡匐ひて哭(な)きたまふ時に、御涙に成りませる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもとにます、名は泣沢女(なきさわめ)の神。
和久産巣日ですからどうならべても良い状態を土台として伊耶那岐命である私自身が自分の心の言霊を観るという仮定で文章が始まります。主体である伊耶那岐命は心、客体である伊耶那美命が言ということになります。
それで五十音図の左五母音を頭、半母音が足、頭が枕ということで、伊耶那岐命が行ったり来たりして、一番下の涙が垂れてくるところが何であるかを探っていく。
泣き騒ぐ
悲しくて泣いた、父韻が泣き騒ぎます。成ると泣きをかけた。行ったり来たりすることで主体と客体はどのような関係にあるのかな。例えばあの事件はこういうことで始まって、こういうことで終わったな、始まりはどうだったろう、結末はどうだったろう。
一つの事件は必ずここから始まってここで終わる。頭の枕の方から足へ、足から頭へ、ということは自分の事件をあの人に相談したのだけれど、こういうようになるようになったと家に帰ってから、その人の言ったこと、自分がどう感じたかということ、それを全部自分の心の中で反芻して、結論はどのような父韻の動き、言葉を交わしてそうなったのかなと、その順序がだんだん分かってくる。
泣き騒ぐと分かってくると言う意味です。友達と諍いして、家に帰って、あの人どうして怒ったのだろう、自分が何か言い過ぎたのかなとか、それでも、後になって良かったから言い過ぎたのではなく、あれが発端となって落ち着いた。
アからワへ順序だって結末になったのだから良かったなというような時に、父韻の並びが分かってくる。けれど、父韻の一つ一つがどのように泣くのかが分からなければ分かりません。
あくまでも自分がやる
http://imakoko.seesaa.net/article/153735485.html
黄泉の国という所を読みます。
かれここに伊耶那岐の命の詔(の)りたまはく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易(か)えつるかも」とのりたまひて、御枕方(みまくらべ)に葡匐(はらび)ひ御足方(みあとべ)に葡匐ひて哭(な)きたまふ時に、御涙に成りませる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもとにます、名は泣沢女(なきさわめ)の神。
我が汝妹(なにも)の命と申しますのは伊耶那美命のこと、子の一木(ひとつき)とはタトヨツテヤユエケメクムスルソセホヘフモハヌラサロレノネカマナコの子どもを生んできた順序です。32子音、ンを知れますと33子音にかえて、愛しき我が汝妹は客観の世界へ行ってしまった、死んでしまったんだなということでございます。
今まで伊耶那岐命が主体、伊耶那美命が客体として活動していたわけです。伊耶那美命が黄泉国へ行ってしまいましたから、自分が研究すべき対象は自分の心の中にある32の子音ということになります。
そこで区別をつけておきませんと、伊耶那美命がやることで自分とは関係ないとお思いになるといけませんので、あくまでも自分がやるということを前提にしてここは読みませんと本筋から離れます。私が言おうとしたところはそこにございます。
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