客体。言語の発生。
「心の先天構造が活動することによって、後天の現象(出来事)が発生します。意識で捉えることが出来る現象が現れるには、意識で捉えることが出来る以前の、意識で捉え得ない心の先天構造の活動を必要とします。先天活動があるから後天活動が発生します。」
これを知っているだけで凡百の思想家、哲学者、宗教家達の遥か上方にいることが出来ますが、知ったところで何でもありません。知的に超越していても、本職達の知識量、努力、経験、真面目さ、思慮の多様さ等々にはかないません。体裁でしかないものに惑わされず、自分の範囲で出来る運用の範囲を広げていけばいいのでしょうと思います。
ところで古事記神代の巻は心の原論ですから人間のどんな文化活動にも適応できます。古事記の表現には言語発生に関したものが多々あります。文頭にある「なりませる」も「鳴りませる」でその後の言語発生を暗示しています。
言語論は多くの思想家が挑戦していますが誰も成功していません。ただ一人というかただ一つを除いて、つまり、五千年以上前に完成していたフトマニ言霊学の安万侶さんによりなった神代の巻の呪示を除いて。最初の五十神をその通り追っていけば五十番目で言語が発生する仕組みとなっています。
単音の言葉、「う」なら「う」が発生するのは五十行程を通してですが、現代までの思考にはどこにもそのような解説はありません。いわばわれわれは五千年遅れています。
こういったことは能書きに属することで、ならばお前やって見ろといわれて当然です。できることならホイホイとやってみたいところです。もちろんわたしがやるだけでなく誰でもが言霊学によってスイスイとできるようにまもなくなるでしょうから、別段急ぐこともないのです。なにしろ現代人は五千年以上遅れているのですから、お前がやって見ろというようなことではないのです。
吉本隆明という人がいて言語の発生についてのべています。
「たとえば狩猟人が、ある日はじめて海岸に迷いでて、ひろびろと青い海をみたとする。
人間の意識が現実的反射の段階にあったとしたら、海が視覚に反映したときある叫びを<う>なら<う>と発するはずである。
また、'さわり'の段階にあるとすれば、海が視覚に映ったとき意識はある'さわり'をおぼえ<う>なら<う>という有節音を発するだろう。
このとき<う>という有節音は海を器官が視覚的に反映したことに対する反映的な指示音声であるが、この指示音声のなかに意識の'さわり'がこめられることになる。
また狩猟人が自己表出のできる意識を獲取しているとすれば<海(う)>という有節音は自己表出として発せられて、眼前の海を'直接的にではなく象徴的'(記号的)に指示することとなる。
このとき、<海(う)>という有節音は言語としての条件を完全にそなえることになる。」
この方は詩人でいわば「自己表出」の専門家ですので、引用文を見ても分かる通り、自己表主のさわりの前に自己表出の叫びがあるのを記述したものです。それらは全て現象となっているものを分析したものです。
ひろびろと青い海を何故「う」と言うかという問いに、それは「う」と呼ばれているからというものです。
現象を現象で説明する国語辞典みたいなもので、「う」の叫び、「う」のさわり、「う」で指示、「う」の意識、「う」の自己表出、「う」という象徴、という具合に前提となった「う」を繰り返しています。「う」の周りを回って全方向からみるのも解答のうちの一つです。
しかしこれではなにも「う」の発生を説明できません。引用にもある通り「発するはず」としかいえません。言霊学のよって立つ始めは「う」が成り立つ以前に戻ることです。「う」であるか「け」であるか「き」であるかそんなことは分からないところまで戻ります。零地点です。そうしないと「う」が出てくることはありません。
始めて海を見た狩人に「う」と言わせた先天構造を探すことです。
こうすると広い青い海がなぜ狩人に「叫び」を起こさせ、「う」を発語させたかという答えが必要となります。
この引用文では海を「う」という言語を既得の言語としていますから、「<う>と発するはずである。」というふうに「はず」で済ましています。というのも詩人という「自己表出」の専門家ですから仕方ないでしょう。それは後に、言語は表現であるとなりながらも、言語の共通性を指示表出の中に押し込める欠点ともなります。
狩人に「う」と言わしめた先天構造が、浜辺に済んでいる人たちと共通ならば、狩人がこれは「う」ですかと漁師に聞くときには、漁師はすんなりと「う」だよと答えるでしょう。上記の引用には漁師と狩人の先天構造が同じだから青い海を見て「う」と共通の言葉を発することが、全然抜けてます。
この共通性の確認がないのも、詩人の特徴ですから、仕方ないことです。
言語を表現としてそこで終わってしまうと、わたしとあなたの関係がでてきません。「自己表出・指示表出」されたものはわたしのもの、あなたはあなたでそうしなさいとなってしまいます。
詩人であろうと画家であろうと、その「叫び」の中に、その「う」の中に、
空中を飛んだ言葉が人の耳に入り、復誦、点検され、煮つめられ、「あゝ、こういう内容だったのだ」と確認され、事実として確定される共通なものが必要です。それは引用で示されている「はず」で済まされるものではなく、どこのだれでもが、はじめて広々とした青い海を見たとき「う」という何者かです。
そこで当然狩人の態度の先天構造を知ることが必要になります。
「う」という何者か。
語源を見つけることまではある程度まで可能ですが、言葉を発生させるのはいたって困難です。
はじめて海岸に迷いでて、ひろびろと青い海をみた詩人と画家と思想家と家庭の主婦と学生と乞食と宗教家とその他大勢の集団がいました。これは集団でいなければ共通性がでないということではありませんが、共通性まで行く上での伏線としてです。もちろん狩人のように一人でも構いませんが、狩人が権力者のような場合には「う」と言わず、「て」と呼べ、と強制布告をすることにもなるので、そういったイメージを避けるためです。
集団の中に非常に腹を空かしひもじくて仕方ない者がいました。何かを食べることしか頭に無く木々の葉っぱの緑に飽き飽きしていました。この者が突如目前に開けた青い海を見ました。彼は見るもの見るものを食べるものと関連付けていましたけど、突然の青海原を見たのか見ていないのか一瞬不覚に陥りました。ほんのゼロコンマ何分の一秒の間それが続きました。直ちに不覚の頭が回転し、経験をかき寄せ始めます。自分は何を見ているのかを探しました。そこで確かに見ている自分と見られている目前の違いを得ました。
彼は自分で対象を意識して作ったのではありません。突然そこにあったものに関わったのです。あったものが彼に見られたのです。そこでかれはそれは自分ではない、何か目前にある青いものだと確認しました。
以上は意識内のことで言葉にはならず、対象があるのを感じたところまでのことです。
ついで、この意識内で感じられたものは何かという、それはどんな意図を持っているのか何故意識にまだ残っているのか等々全体的なぼやっとした感じが出来ていきます。この人の関心事は食べることですから、ぼやっとした感じもそちらの方に引っ張られていきます。あそこの青いものが全部食べ物であればいいなと思うでしょう。あるいはあそこから思い通りの食べ物が出てくればいいなと思うでしょう。空腹の元凶はあれだと思うかも知れません。ここでは青い海から空腹で何か食べたいイメージが形成されます。
はじめて見たので何であると示すことは出来ません。その変わり知っている限りの感覚、知識、感情が働きイメージ形成にくっついてくるでしょう。繰り返される波の音、その単調さ、潮の香り、だだっぴろさ、何も変化無く鼓動のように寄せる波うち際、腹の足しになるものか等々、空腹を満たす方向で波の音も、潮の香りも感じられていきます。
そこに出てくるイメージは、常に動く波、常に聞こえる波の音、常に香る潮の香、単調な動きに囚われるけれど何も変化しない出てこないもの、事が始まりそうなのに何も無い、動きを見ていても単純な繰り返しで今の動きは次の動きの始め、動きの中に何かを見ると続くものがまた同じものなので常に今に待たされる感じを受けています。
そこで空腹を訴えるものは何か来る来ると思って、何か出てくる出てくると思い、何か得られる何か得られるという感覚を得ます。
始めて青い海を見て、「う」とい発語をするには、海自身を、比較検討関連付けさせ、様々な有音節の中から選択行為が脳内で行われています。というよりその過程を無視していきなり<う>という言葉は出てきようがありません。この過程は脳の先天構造内で行われます。
この過程には五重の構造になっていて、「比較検討」というのは単に経験知識概念との比較にすぎません。腹を空かした者は五感感覚の欲望との比較が行われています。また選択実行すべきかの智恵を絞ることも行われています。詩人や画家ならばインスピレーションの全的な到来を待ち望むかもしれません。
もし誰かが「う」という時にはそれらの全てを反映して満足した、発語でなければ通用しません。この全てを満足に反映させるのが、ひとの創造意思次元で動かされ発せられたもので無くてはなりません。その次元からわき出たものである限り、だれにとっても共通で誰でもそこから印象を引き出すことができるからです。
吉本さんのは<う>という経験的な言葉を発するというだけで、人たちの創造意志次元から沸いてでてきたものではありません。詩人も主婦も大臣もそれぞれ感覚、知識、感情は違いますが青い海を最初に見た原初の創造意思から来る揺り動かされるものは同じです。これが、言語の共通性の心の先天構造基盤となります。
それはまだ全然言語ではなく、イメージでもありません。先天構造基盤はイメージ化され、言葉に結ばれ、相手に届き、検討され、了解されて、言語現象が受け取られたその内容ができるのです。この先天構造内にいろいろと名付けられるものが存在していなくては現象とならないのです。
これが、狩猟人に変わって空腹な者がいたり、主婦や宗教家たちがいる理由です。自己表出とか指示表出とかあるものを指し現す以前に、心の先天構造内に後に出てくる全ての規定していく言葉の根拠を打ち立てる事が必要です。
まぁ、五千年遅れの世界最新の言語論になっているでしょうか。わたしのは書き方がまずいので、他の方が上手に記述されることを望みます。神代の巻をそのままなぞれば何も知らなくてもこれくらいはできてしまいます。専門知識をお持ちならばもっと凄いことになるでしょう。
================================================
つづき。客体。言語の発生。
言語の発生。その2。
もうすこし続けましょう。まだ言葉は全然生れていませんので。
青い海と結ばれそれは自分ではなく目前の対象物だと確認はされていますが、何故青い海が自分に現れたのか、その意図は彼には不明です。単純に物を見ることでも、関わりを持ち、もたらされた対象相手からの意図は主体側には解けない謎となっています。(永遠の女性)
空腹人は目前の変化の無い胎動のようなものを青い海から感じ、狩猟人は叫びの中に新しい始まりの感情を得るでしょうし、政治家はここを飛行場にすればどうなるかと考えるヒントが得られるかもしれません。
これらに共通しているは、
【 いまここに始まる変化の無い胎動があってそれがわれわれの意識活動の元になっている、そういった感じのあるものです。】
そこで意識活動の主人公が目前にあるという意識はわれわれ自身の創造意識と共感交流して、われわれ自身による創造へ赴かせます。
ここに、主体側の活動が始まります。ここに目前の青い海を名付けることによって創造する人間活動が始まります。
狩猟人は空の青と木々と草原の緑の世界から突如海を見ます。「人間の意識が現実的反射の段階にあったとしたら、海が視覚に反映したときある叫びを」発します。「あっ」です。<う>ではありません。自分が相手を見て了解したときです。
吉本さんの場合はここで既に間違えています。野道をあるいていて、道端の土の中から何かつくしのようなものが出ている。「人間の意識が現実的反射の段階にあったとしたら、道端のものが視覚に反映したとき」、何だろうと思ってよく見ると「あっ、人の手だ」。この場合「て(手)」という叫びは起きますが、言語を発生したものでも作ったものでも無く、単に既得の知識概念の繰り返しです。海を見た時も同様で決して言語の発生の端緒を示していません。
フトマニ言霊学では先天構造内にその端緒を見てきました。
ここからはその先天構造の意図が現象となって相手に了解されるまでのことになります。
まず、先天性が主体となっ確立されなければこの先進めません。
先天性は意識で操作できる依然のものですから、頭脳内に置き換えねばなりません。
先天性はイメージを形成します。
イメージは頭脳内のもので現象ではありません。形を与えなくてはなりません。
形は表出(表現)されなければ現象となりません。
形があっても了解されなければ意味はありません。
相手ににおいて了解確認されて始めて、内容が事実として発生します。
事実となった内容は記憶として保存されていなければ使用できません。
記憶がなければ、新しい芽の始まりが出てきません。
種の芽が出るというのは、花が咲いて果実となったその種から芽がでるということで、その種ができてくる先天構造がなければ芽は出ません。
上記の過程にはそれぞれ主体側の意図と客体側の意図の受け入れの構図があります。
始めにある「叫び」もそこに主体側の先天的な構造内での意図があり、それを受け入れた目の前の青い海があります。先天内でこの両者が結合しない限りなにも起こりません。
いくら自己表出をしようと、それに見合うだけの相手客体が無ければ自己表出というものは不能です。
自らの方には自覚があり、言うこと感じていること考えていることが分かっていても、芸術家、詩人、宗教家たちの欠点は自己表出というものを相手側において完結できないことです。相手に対しては基本的な要求となってはいますが、結論はときの流れに任せられ相手次第ということになり、相手に対する自覚がありません。
ですので表現されただけの表出物は言語ではありません。
字数制限を超えそうです。後は各自古事記に照らして挑戦してみてください。
制限オーバーのためこのまま続けて後で二分します。
ものを見て発声するまでほんの一瞬ですが、ここまで書いてもまだ頭脳内の先天だなんだといっている始末で、いつ終わることやら。
「う」という発声が海に対するものだけではないことに気づいてもらえればいいので、空腹人が青い海を見て「う」といったならそれは海の<う>を指していません。そしてそれは起こりうることで、もしそこで「う」と発語されて通じているのなら、<う>と「う」の共通項が先天性の中に見いだされたからです。
そこで実際空腹人は空腹の対象として「う」と言いました。
馬鹿なこと、と言わないでください。私たちはまだそれが海であると知らないし、海という名前は付いていないのですから。だからといってどんな名前で呼ぼうと構わないということではなく、狩猟人が感情次元で<う>と言い(感情次元の最初の言葉はアですがここでは既にアからウへ移行を経過しているとします。)、空腹人が欲望次元で「う」といったのです。
前者は人間意識の感情で、後者は五感から来る感覚欲望です。後者の特徴は時と所を知らずに勝手にやりたい放題に顔を出すことです。ですのでここでも、空腹人の欲望が海を見て出てきたことにします。
欲望の特徴は無自覚にものを欲しがり得(う)ることです。空腹人は青い海を見て、うごめいているが変化のない胎動のような海から、自分の空腹の元になっている意識を受け取りました。また、自分の空腹から来る欲望を主していくと目前の始めての何者かに何か得(う)るものがあるように思えてきました。
そこで狩猟人に海を指して「う」と言ったところ彼も<う>と言って両者で納得しました。しかし空腹人の「う」は感情から来たものではなく欲望からです。海を指さしたの「う」へ行けば得(う)るものがあるだろうから急ごうというものでした。狩猟人のは青はいつも空にあって始めてみた地が青い印象を言ったもので空腹とは全然関係無いものでした。しかし、両者ともウで一致したのです。
二人が海岸へ行くと漁師がいて、二人は青い海をウと言ったら、漁師は当然の顔をしてウだと言いました。この下手な比喩から自己表出によっては、ものに名前がつけられないことを気づいてもらいたいのです。空腹人と狩猟人とは全然別の次元のことを共通の言葉として成立させていました。
「う」という言葉は現象ですから、現象を解釈しても「う」は発生しません。現象以前の意識で捕らえられない先天の構造から来るものですからそこを突かなければ解決しないものです。
この先天構造としてのものは、
【 いまここに始まる変化の無い胎動があってそれがわれわれの意識活動の元になっている、そういった感じのあるものです。】であり、
古事記では【天の御中主の神】で、
人間意識の要素でいえば言霊ウです。
それらの上に現象となり、発語された「う」が加わり、その後の体系が続きます。
現象となった「う」はそれ自身独立した客体ですから、幾らでも物質的に科学的に処理できます。それぞれ依って立つ学問上の基準が設けられて研究され主張が発表されていきます。
しかし、たとえ物質的に処理された単音の「う」であろうと、ひと度意識の上に載りますと、それは学問、科学の対象ではなく意識とその原理の対象となり、その成立のためには先天構造を打ち立てなければなりません。多くの場合はこの次元の違いが考慮されていないので、単なる物質的な学問対象であるのに、意識の対象であるように語ります。あるいはその逆も。
何かの現象を見て疑問を感じて、それを心の中心にしていきます。青い海を身で感動し叫びがでる所ですが、そこに現象としての<う>がすぐに提供され検討されてしまって、現象でしかない<う>を意識の方へまた移し替ると言うことをしているようです。
言葉の研究ですから現象を分析すると言うのはいいのですが、<う>という現象を全く捨て去って、狩猟人は何故叫んだかという疑問もできます。そこで狩猟人の心の中、意識を検討して叫びに至る過程、それが<う>になる過程が明かされれば、狩猟人に関してだけは<う>は解明でき、さらに共通言語となる方向へ向かうでしょう。
しかし、もんだいは個人から共通へ向かうことではなく、そもそもの始めの「う」に共通性を見いだすことです。先天構造内に共通性が見いだせなければはじめのはの字がでてきません。
はじめのはの字がでない所でひとまず終り。
==============================================