(こころの島。四)、竺紫の島。父韻とは。
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○ 古事記『 次に成りませる神の名は、宇比地邇(うひぢに)の神。次に妹須比智邇(いもすひぢに)の神。次に角杙(つのぐひ)の神。次に妹活杙(いくぐひ)の神。次に意富斗能地(おほとのぢ)の神。次に妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。次に於母陀流(おもだる)の神。次に妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。 』
06こころの創造原理。父韻
(8)宇比地邇神・ 言霊チ (ウ)全体性
(9)妹須比地邇神 ・言霊イ (ウ) 全体性
(10)角杙神・ 言霊キ (オ)拡がる動き
(11) 妹生杙神 ・ 言霊ミ (ヲ) 拡がる動き
(12) 意富斗能地神・ 言霊シ (エ) 拡がりの保存収縮
(13)妹大斗乃弁神 ・言霊リ (ヱ)拡がりの保存収縮
(14)於母陀流神・ 言霊ヒ (ア)火花の先端にて、表面生
(15) 妹阿夜訶志古泥神・言霊ニ (ワ)火花の先端にて、表面生
○ 古事記『 次に竺紫(つくし)の島を生みたまひき。この島も身一つにして面四つあり。面ごとに名あり。かれ竺紫の国を白日別(しらひわけ)といひ、豊の国を豊日別(とよひわけ)といひ、肥(ひ)の国を建日向日豊久志比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)といひ、熊曽(くまそ)の国を建日別(たけひわけ)といふ。』
父韻チイキミシリヒニの八言霊の精神宇宙内の区分。宇比地邇の神・妹須比智邇の神、以下妹阿夜訶志古泥の神計八神の宝座のことであります。これ等八父韻言霊、八神は母音宇宙言霊に働きかけて子音言霊を生む人間の創造意志の智性の原律をすべて尽くしている、即ち竺紫(つくし)の島である、という事です。
この島も身一つにして面四つあり、とあります。八父韻すべては言霊イ(親音)の働きであります。身一つといわれます。その働きは二言霊一組の四組から成っています。面四つあり、の意です。この面四つ、四組の区別を左に並べます。竺紫は尽くしの謎 八つの父韻は言霊イ(伊耶那岐神)の実際活動のリズム 「身一つにして面四つ」の意味は作用・反作用の陰陽一対四組の知性の律の島です
竺紫の国 白(シラ)日別 言霊シリ
豊の国 豊(トヨ)日別 言霊チイ
肥の国 建日向日豊久志比泥別 言霊ヒニ
熊(クマ)曽の国 建日別 言霊キミ
右の如く並べて書きますと、三列目の肥の国を除く三行は白日別と言霊シリ(白、シ・ラ)、豊日別と言霊チイ(豊、ト・ヨ)、熊曽の国と言霊キミ(熊、ク・マ)としてそれぞれ五十音図表のサ行とラ行、タ行とヤ行、カ行とマ行と同じ行である事が分ります。
また白日、豊日、建日と日の文字があり、日即ち霊(父韻)を意味します。以上の事から容易に古事記の編者太安万侶の意図を察する事が出来ます。然も編者は容易に謎を解かれるのを嫌ってか、三行目の肥の国だけは長い別の名を用いました。しかしこの長い名前も、八父韻解説の章で述べました如く、於母陀流(面足)が言霊ヒ、妹阿夜訶志古泥が言霊ニと解けてしまっている今では、建日向(面足)と日豊久志比泥(阿夜訶志古泥)は容易にその類似を知る事が出来ます。
父韻ヒが心の表面に表現の言葉が完成する韻であり、その反作用として父韻ニが心の中心にすべての思いの内容が煮詰まる韻と分ってしまっているからであります。
建日向、田気霊向・たけひむか、言霊が日に向かっていく、(面足)言霊が心の表面に拡がる。
日豊久志比泥、ひとよくじひ(奇しき霊の)ね(音)わけ、(阿夜訶志古泥)あやにかしこき音。
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伊岐の島(伊耶那美、伊耶那美)までは次のようになっています。
淡路の穂の狭別の島
天の御中主の神 ウ
アとワ(淡路)の言霊(穂)が別れて出て来る(別)狭い(狭)区分(島) 言霊ウは主客未剖、アワはそこから分れます
伊豫の二名島
高御産巣日の神 ア
神産巣日の神 ワ
二名とはアとワの二音言霊のこと 宇宙剖判で主体アと客体ワに分れます この主と客に分かれることが全ての自覚の始まりです イとヰの現象を創造する働きの予めの区分
隠岐の三子島
天の常立の神 オ
宇摩志阿斯訶備比古遅の神 ヲ
国の常立の神 エ
豊雲野の神 ヱ
隠岐とは隠り神、三つ子とは三段目に現われる言霊という意味
言霊オ・ヲ(経験知)、エ・ヱ(実践智)は文明創造上最も重要な精神性能です
竺紫の島
宇比地邇神・妹須比地邇神 チ・イ
角杙神・妹生杙神 キ・ミ
意富斗能地神・妹大斗乃弁神 シ・リ
於母陀流神・妹阿夜訶志古泥神 ヒ・ニ
竺紫は尽くしの謎 八つの父韻は言霊イ(伊耶那岐神)の実際活動のリズム 「身一つにして面四つ」の意味は作用・反作用の陰陽一対四組の知性の律の島です
伊岐の島
伊耶那岐神 イ
伊耶那美神 ヰ
伊岐とは伊の気でイ言霊のこと
心のすべての現象はここから現われ出て、また此処に帰っていくのです
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天津磐境
言霊ウから言霊ヰまで十七個の言霊が全て出揃い、この先天構造図を「天津磐境」(あまついわさか)と呼びます
天津は先天の意 磐境は五葉坂(五段階の言葉の構造)です
この天津磐境が活動して五官感覚で意識することが出来る精神の後天現象が生れます
言霊五母音につきましては中国哲学(易行)では五行の木火土金水とか、仏教では五重塔で仏陀・菩薩・縁覚・声聞・衆生とか、キリスト教ではラファエル・ミカエル・ガブリエル・ウリエル・ルシファーの五大天使の名で示しています。
言霊父韻に関しましては、中国の易経に八卦、キリスト教では神と人との間の契約の印の虹として、仏教では仏となる為の守らねばならない八正道等などとして説かれています。
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フトマニ言霊がまずあって、その他上記のことは、フトマニ言霊に依拠したものと言うことです。例えば古代から中国を支那(枝葉の国)と呼んでいましたが、フトマニ言霊原理によって成立した国に対する枝葉の国と言うことです。もちろん学校で教えるように別の考察もありますが、字面を大切にする国ならばとっくに「支」の漢字は別のものとなっていたと思えます。もうじき古代の人的、文化的、精神的な国際、民族交流の大きさと謎は明かされることでしょう。
こころの創造原理 (父韻)こころの原論の古事記。
父韻とは
母音と子音はあっても、父韻は辞書にはありません。ぐぐって見ても、言霊学での父韻はありますが、他で言及された父韻は見つかりません。わたしは言霊学を読んでそのまま受け入れていたのですが、要するに全然理解普及はされていないということです。わたしは不明な言葉を喋っていたようです。父韻って分かりますか。
しかしまあ、何と、母と子はあっても父がいないまま、あるいは親がいないまま、人類は平気な顔をしていたわけですね。とはいっても古事記以外の学問、は発音発声として言葉を扱うので仕方のないことですが、発音発声としての言葉は単なる自然現象になってしまい、それに意味とか内容とかを追加して、比較分析していきます。古事記は人の意志による創造行為の言葉としての働きを見ていきますから、別の方向へ行ってしまうのでしょう。
問題はそうではなく、歴史、文化文明を造る主体的な人間の意志行為と言葉です。自然な営み、宇宙の営みとしての人間との係わり無い現象世界を調べることではありません。比較言語、比較文化と言っても単なる自然物として扱っているようおもえます。この世のものはあくまでも人の手が加わったものです。意志と主体との創造物です。それを単なる自然生成物のように扱うのなら、人は動物でもいいことになります。創造話し、おとぎ話し、神話を造った古代人はまるで、前人間としての、前近代意識人間としての扱いです。
人間社会の営みの原動力は、大宇宙界に生きている人間自身です。発音発声は確かに大自然の実在ですが、それが社会造営、関係創造の原動力となるのでなく、自然の関係、物と物との関係、物理運動を起こすだけのことです。発音も発声もそのものが何かを創造し働きかけるわけではない。
人の欲望、思い、選択、感動等が結び付いていなければそこに生じた現象は、人による創造行為になりません。人は人や物を欲し思い選び感じます。相手、対象と感応するには、人間的な動因、自然経過とは違う因果の流れがあります。
ここに人間特有の発声、発音としての母音でも無く、子音でも無く半母音でも無い、言霊「母音」「半母音」「子音」「父韻」があります。その「父韻」は人の根源的な創造行為の性能となっているものです。
これまでの捉え方では言葉を発すると、その音声等の物理現象で相手対象を指し示し、そこに意味内容を見ていき、伝達するとしています。その分析の中で、伝達の形態や音声の種類などを適宜に取り上げ、動物にまで還元したり民族的な比較の材料にしていきます。また意味などを比較していきそこに、共通性を神話とか風習とか集合意識とか共時性とかにしていきます。わけの分からないものは呪縛、とか神格化とかどこそこと共通の物語だとかで締めくくります。
もちろん解釈をする以上、解を提示しないと心が落ち着きません。説明の理由は正しいと言う名目を付けて自分の出発点にかき寄せ集めたものから始めますので、その自分が提起したことへの答えを出すことが問題になるだけです。それに成功すると自分の前提を忘れ一挙に飛躍拡大していきます。
母音と半母音子音だけで言葉を説明してきたことも同様で手持ち材料を、音声、発声、指示、意味、内容、最近流行りの言霊等としてしか見ていないので、その現象だけの解説になっていることが多い。流行りの言霊とかも、一つのまとまった言葉の現象を他の現象で解説されることが多い。
現象を現象で解説すると、古事記のこの部分は何々の神格化だ、この部分はあそこと同じ共通の神話だ、これは呪縛だ、祈りだ、希望だというふうになっていきます。流行りの言霊も同様で、優しい、愛の籠もった、肯定的なとかいうように、別の言葉現象を置き換えているだけです。もちろんこれらは理性的に理解されるものですから、心にぴっと来ることもあるでしょう。
しかし、いくらどのように説明解説しても現象が起きて来たことを説明できずまたしません。現象以前の説明材料を持っていないからです。確かに深層心理や脳内科学での物質の電位の動きなどが研究されています。意識とは物質だというのまであります。この場合にも同様なことがいえます。つまり研究を指導する思想規範を持っていないので、既得の概念知識に問い質しているだけになります。
話が大きくなり言霊学はいったい何様だという声が聞こえてきます。
父韻に近づけましょう。常にこころの原論としての古事記神代の巻に戻ります。
こころの発現の特徴は
「これ淤能碁呂島(おのれのこころろのしま)なり。
その島に天降(あも)りまして、天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。」
とあるように、自分の領域(おのれの島)の中に根本智性(天の御柱)を打ち立て、それを運用する(八尋殿)ことにあります。
八尋殿(やひろどの)というのがこれから説明しようとする父韻のことです。父韻は八つありタカマハラナヤサの八つに対応しています。
八つを尋ねる心の間と、八つの心を尋ねるその一つ一つの殿堂いうことです。
そのもっとも端緒の段階にあるのが、
「天地の初発(自分の領域の意識の始め)のとき
高天原に成りませる(その運用主体である)
神(働きの実体)の御名は
御中主の神」で、
実(み)と名(な)を掻(か)き混ぜる、掛け合わす主人公である自分の誕生ということになります。
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こころの創造原理 (父韻、引用)こころの原論の古事記。
父韻とは
以下引用です。
古事記 『次に成りませる神の名は、宇比地邇(うひぢに)の神。次に妹須比智邇(いもすひぢに)の神。次に角杙(つのぐひ)の神。次に妹活杙(いくぐひ)の神。次に意富斗能地(おほとのぢ)の神。次に妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。次に於母陀流(おもだる)の神。次に妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。 』
右の文章に出て来ます八神の名はすべて言霊父韻を指し示す神名であります。古事記の初めから今までに現われ出ました神、天の御中主の神(言霊ウ)より豊雲野の神(言霊ヱ)までは言霊母音、半母音を示す神名でありました。
言霊母音・半母音を結び、感応同交を起こさせる原動力となる人間の根本智性とも言うべき性能、それが此処に説明を始める言霊八父韻であります。
この言霊の学の父韻に関して昔、中国の易経で乾兌離震巽坎艮坤〈けんだりしんそんかんごんこん〉(八卦)と謂い、仏教で石橋と呼び、旧約聖書に「神と人との間の契約の虹」とあり、また新約聖書に「天に在ます父なる神の名」と信仰形式で述べておりますが、これ等すべての表現は比喩・表徴・概念であって実際のものではありませんでした。言霊学が完全に復活しました現在、初めて人間の文明創造の根源性能の智性が姿を明らかに現した事になるのであります。
これより説明いたします言霊八父韻は、言霊母音の主体と、言霊半母音の客体とを結び、現象の一切を創造する原動力となる人間の根本智性であり、人の心の最奥で閃めく智性の火花であり、生命自体のリズムと言ったものであります。その父韻を示す八つの神名の中で、一つ置きに「妹」の字が附せられています。それで分りますように八つの父韻は妹背、陰陽、作用・反作用の二つ一組計四組の智性から成っています。当会発行の言霊学の書「古事記と言霊」で八つの父韻について個々に詳細な説明があります。そこでこの会報では個々の父韻の説明の要点のみをお話申上げることといたします。
さて、新しく現出しました八神の名前を改めて御覧下さい。どれもこれもこんな名前の神様なんて本当にいるのかな、と思わざるを得ない奇妙な名前ばかりです。
こんな名前を指月の指として持つ言霊とは一体どんな言霊なのであろうか、全く見当もつかないように思われます。今までの講座で解説された母音言霊の神名は、説明をよく聞けば、「成程」と納得することが出来ました。けれど新しく現われた神名は、読んだだけでその想像を超えたもののように思われます。読者が本当にその様な感触をお持ちになったとしたら、その感触は正しいと申し上げねばなりません。この八つの神名を指月の指とする八言霊――これを父韻言霊と呼ぶのですが――人類の歴史のこの二千年間、誰一人として口にすることなく、人類社会の底に秘蔵されていたものなのです。ですから、今、この謎を解いて「実はこういうものなのだよ」と申上げても、即座には頷き難いのも当然と言えましょう。
とは申しましても、言霊布斗麻邇の講座でありますから、奇妙だとか、難しいといっても、避けて通るわけにはいきません。これから言霊父韻というものの内容と働きについて、また父韻それぞれの働きについて出来る限り御理解し易いよう説明を申上げます。「何故そうなるのだ」ではなく、「人間の心の働きの深奥はそのような構造になっているのか」と一応の合点をして頂くつもりでお聞き頂き度いと思います。勉学が進みます毎に言霊学の素晴らしさに驚嘆なさることになりましょう。
先ず父韻とは何か、を明らかにしましょう。それには一歩後に退いて、母音について少々お話しなければなりません。今まで出て来ました母音宇宙を指し示す神名の後には「独り神に成りまして身を隠したまひき」という文章が続きました。「その宇宙はそれのみで存在していて、他に依存することなく、現象として姿を現わすことがない」と解釈しました。その意味はまた、「自立独歩していて、それが他に働きかけることもない」とも受け取れます。母音宇宙自体が何かの活動をすることはないということです。他に働きかけることをしない母音宇宙から現象は何故現れるのでしょうか。
その現象発現の原動力となるものが父韻というものなのであります。
宇宙の剖判によってウの宇宙からア・ワ、オ・ヲ、エ・ヱのそれぞれの宇宙が現われます。その剖判して来た母音宇宙と半母音宇宙とを結んで、そこから現象(子音)を生む原動力となるのが言霊父韻、チイ・キミ・シリ・ヒニの四組八個の父韻というわけであります。父韻は働きでありますから陰陽があり、作用・反作用があります。そこで父韻は二つで一組、計四組で八父韻となります。
父韻とはどんなものなのでしょうか。譬えば頭脳中枢で閃く火花のようなものです。この火花が閃く時、母音と半母音宇宙を結び、現象を起こします。昔のドイツ哲学がFunke(火花)と呼んだのは多分この父韻の働きの事であろうと思われます。中国の易経で八卦と呼びます。仏教で八正道と呼ぶものはこの父韻を指したものと考えられます。但し、ドイツ哲学も、八卦も、八正道もすべて概念的名前であり、正しく八父韻を指したものではありません。呪示であります。
では八つの父韻は心の中の何処に位置しているのでしょうか。それはまだこの講座では説明していない言霊イとヰの次元宇宙に在って活動しています。但し、言霊イとヰの宇宙についての説明がされておりませんので、父韻がそこに在ると申しましても、どのようにして在るのか、の説明の仕様がありません。それ故、父韻の占める心の位置の解説は後に譲ることといたします。
八つの父韻のそれぞれの働きについて解説しましょう。勿論、父韻は先天構造内の動きであり、五官感覚で触れることは出来ません。ではどうするか、と申しますと、先ず父韻を示す神名を解釈すること、そして解明された神名の内容を指月の指として、筆者の研究体験をお話することとなります。読者の皆さまはこの話の中から活路を見出して頂きたいと思います。
以上で八つの父韻のそれぞれについての説明を終ります。八つの父韻は四つの母音宇宙を刺激することによって、一切の現象即ち森羅万象を生みます。人類に与えられた最高の機能ということが出来ましょう。
神倭王朝第十代崇神天皇以後二千年間、今日に到るまで、誰一人として口にすることなく時は過ぎて来ました。ただその存在は儒教に於て「八卦」、仏教に於て八正道、あるいは「石橋」という言葉で、またキリスト教では神と人との間に交(か)わされた契約の虹(にじ)として語られて来たにすぎません。
今、此処に八つの父韻が名実共に明らかになった事は、この父韻だけを取上げただけでも、人類の第一、第二文明を過ぎて、第三の輝かしい時代の到来を告げる狼煙(のろし)とも言うことが出来るでありましょう。人類に授けられた森羅万象創生の機能は父韻チイ、キミ、シリ、ヒニの八つです。たった八つであり、八つより多くも少なくもありません。この八つの父韻を心中に活動させて、人類は一切の文明を永遠に創造して行くのであります。
以上、妹背四組、八つの父韻チイ、キミ、シリ、ヒニについて簡単に説明をいたしました。お分かり頂けたでありましょうか。古事記の神名はすべて言霊の学問に関して禅で謂う所の指月の指だと申しました。「あれがお月様だよ」と指差す指という事です。ですから指差している指をいくら凝視しても、それだけでは何も出て来ません。指が指差すその先を見ることが肝腎です。今までお話して来ました父韻についての説明も矢張り「指月の指」であることに違いはありません。読者におかれましても、この説明にあります力動韻を自分御自身の心の奥に直観されますようお願い申上げます。
父韻のお話に添えてもう一つ御注意を申上げておきます。「父韻の説明を読んで自分の心を探ってみるのだが、八つの父韻がどんなものなのか、実際に心の中に起る何が父韻なのか、どうも分かりません」と言われる方が時々いらっしゃいます。どうしたら父韻の働きが分かるのか、一つのヒントを申し上げようと思います。
チイキミシリヒニの八つの父韻がアオウエの四母音に働きかけて、言い換えますと、八つの父韻が母音と半母音四対を結ぶ天の浮橋となって三十二の子音言霊を生みます。この子音言霊のことを実相の単位を表わす音と言います。父韻は母音(半母音)に働きかけて物事の実相の単位である子音言霊を生みます。その子音が生れる瞬間に於いて、その子音誕生の原動力となる父韻の動きを誕生の奥に直観することが出来ます。
でありますから物事の実相を見ることが出来るよう自分自身の心の判断力を整理しておく事が必要なのです。心の整理とは心の中に集められた経験知識を整理して、少しでも生れたばかりの幼児の如き心に立ち返って物事の空相と実相を知る事が出来る立場に立つ事であります。その時、実相を見る瞬間に、その実相誕生の縁の下の力持ちの役目を果たす八つの父韻の力動韻を直観することはそんなに難しい事ではありません。
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引用がダブり繰り返されますが、「人類に与えられた最高の機能」です、まだ足りないくらいです。引用したぐらいで理解されるものではなし、理解したからと言って何かが始まるわけでも無い。理解ができてやっと言霊学の山のふもとに辿り着いただけです。これから登頂が始まるところです。
こころの創造原理。父韻
(8)宇比地邇神・ 言霊チ (ウ) 全体性
(9)妹須比地邇神 ・言霊イ (ウ) 全体性
(10)角杙神・ 言霊キ (オ) 拡がる動き
(11) 妹生杙神 ・ 言霊ミ (ヲ) 拡がる動き
(12) 意富斗能地神・ 言霊シ (エ) 拡がりの保存収縮
(13)妹大斗乃弁神 ・言霊リ (ヱ) 拡がりの保存収縮
(14)於母陀流神・ 言霊ヒ (ア) 火花の先端にて、表面生
(15) 妹阿夜訶志古泥神・言霊ニ (ワ) 火花の先端にて、表面生
古代の交通通信関係の未発達な時において大和は世界の中心でした。現在は既に世界は一つの時代ですが、世界をまとめる中心が未だ隠されたままです。物質的な産業交易をまとめる勢力が集約されつつありますが、納得せず反抗する勢力は無くなることがなく、不安が増大しています。
古代においては中心を担うのはスメラミコトの役割でしたが、現代世界を担うスメラミコトがまだ隠れています。自らが動く為の思想規範を持たない為です。古代においてはフトマニと言っていましたが、現代語では言霊学です。言葉には神秘な力があるという普通に流布されている言霊のことではありません。
人の主体的な精神活動を調べて根源要素に名を付けたもので、精神の根源単位の霊に言葉の名前を付けたもので、単音としての言葉と霊とが一致していて一体となったものです。物理学の元素に相当するものです。
その人間の創造意志の根源律動を形成しているのが、父韻です。これからの段は自分の意志の根本律動を探すことです。ご飯を食べたいから、映画を見たいから、本を読みたいから等々のそれらの自分の根源を探そうとしています。何だか、ウソ、みたいな話です。しかし、古代大和はそれを発見したから、世界の中心になっていたのだし、スメラミコトノ伝統を残せたのです。
意識の始めのほんのゼロコンマゼロゼロゼロ一秒の世界を扱おうというところです。最近の脳内科学は古代大和に遅れること数千年を確かめようとするものです。
上記のように「身一つにして面四つ」、竺紫(つくし)の島の領域、伊耶那岐の実際活動の現れです。
こころの創造原理 (父韻。假りの名である神仏)こころの原論の古事記。
引用。
神と言い、仏と言う言葉が実はここ人類歴史三千年間の方便の世の假りの名であった事を知る。信仰に於て神仏として自己を超越した外に仰ぎ見たものが、実は自らが生来与えられていた五つの性能言霊母音イエアオウの宇宙であると知る。それは自らの心の住家である心の宇宙の構造を知ることである。
人間生来の性能の根元であるイエアオウ五母音が自らの心の住家であることを知る事によって、神仏を自らの外に信仰の対象として仰ぎ見ている時には自覚が不可能であった次の事項の認識が明らかに開ける可能性が生れて来る。
イ) キリスト教によって「父の名を崇めさせ給え」と祈りの究極の願望であった創造主の名が実は人間の心の最奥に働く生命創造意志、言霊イの実際の智性のリズム、言霊チイキミシリヒニであると知り、その働きの内容を人間自身の心の中に内観することが出来る。
ロ) 言霊父韻と母音との交流によって生れ来る現象の実相単位三十二の子音の確認が可能となる。
ハ) 人間の全精神構造を父韻・母音・子音の五十音図として自覚して、その原理の最高の活用法である人類歴史創造の手段である禊祓の大業を自覚し、皇祖皇宗の経綸に参画することが出来る。
ニ) 人間の歴史創造の営みの一切は架空なる神仏の為す業ではなく、平々凡々たる我等人間に課せられた崇高な使命であることを知る。
言霊 随筆・宇宙剖判(造化三神)
次にこの何か分らない生(うま)れ出ようとし、動(うご)き始め、蠢(うごめ)いているものが「何」であるか、という意識が働く時、瞬間的に言霊ウの宇宙は客観宇宙言霊ワとそれを見る主観宇宙言霊アに剖れる。
後天の現象界に於て、人間が瞬間的に物を見て、それが何だか分らないのが、「何かな」と意識を動かして、主観の意識を呼び醒まし、客観世界の物を実際に何かと確かめた時、即ち見る主観と見られる客観がはっきり分った時、そういう後天の意識の分別・認識を可能にする原動力となる先天内の活動とは、言霊ウの宇宙が、言霊アと言霊ワの宇宙に剖れるという働きなのである。
この言霊ウの宇宙が言霊アと言霊ワの両宇宙に剖れる事、これを宇宙剖判と呼ぶ。剖は剖(わ)ける、剖(わか)れる事であり、判とは分(わか)る、意識で捕捉するという事である。
心の先天構造内で宇宙言霊ウが言霊アとワの両宇宙に剖れるから、後天構造の人間の主観意識が客観のものをはっきり識別し、認識する事が出来る、という訳である。さらに言霊ア・ワの宇宙は言霊オエ・言霊ヲヱの夫々の宇宙に剖判し、後天構造に於ける人間の認識を実践へと進展させて行く。
以上、先天構造の中で宇宙剖判は心の今・此処に於て瞬時の休みなく行われている。その事によって人間は生活を創造して行く事が出来る。
最後に、ではその宇宙剖判を可能とする根本の原動力は何か。母音であり、また半母音でもあるもの、それでいて親音とも呼ばれる言霊イ・ヰと、その働きであり人間の根源智性である言霊チイキミシリヒニの八父韻である。これが人間の生の一切の根本原動力である。
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感想。
古代には精神の健全な時代がありました。そこではその健全さにおいて神や仏を拝む、おろがむ、愚かな行為が出て来る余地がありませんでした。
誰かがこういいます。「神とは肉体を持たない霊的実体であり、全能にして全知の宇宙の創造主、道徳の源泉である完全な人格である」
ここでいう神の概念を持つにしろ神の観念を持つにしろ、神なるものに与えられた神とは何々であるとの規定が、まるで人に必要でないのなら、神の出番はありません。
例えば神を全知全能の創造者とすることがあります。霊的な実体と感じ仰ぎ見ることがあります。
それらに畏怖を感じ仰ぎ見ることと、それらを自己外の超越力として拝むこととは別のことです。後者には歪められた自己のいびつな投影があり、自己の自覚が消失しています。
古代大和には古事記で流布された八百万の神はありませんでした。それは古事記と共に、それとともに造られた古神道と共に人工的に造られたものです。
フトマニ言霊の原理で動いていた古神道以前の健全な社会では、宇宙とは自らの心のことでそれによって生きていました。
地震雷火事親父等の自己を超越した力も、経験した自己の情感から逸脱することなく、拝む対象とならずそのままいつく、斎く、対象となりました。自分の経験をウ次元オ次元で語ることなく何も隠すことなく失うものも無かったからでしょう。
生産力が発達して以来人々にはウ、オ次元での所有物が知識が増え、それらを失う不安がでてきました。その為精神次元では現にあるものを無いとし、無いものを有るとする嘘の精神が発生してきました。
嘘、うそ、という言葉の語源ははっきりしません。おそ、とも言ったとありました。それを取り入れて思ったことですが。
うそは昔、うそおそだったのがうそになったかもしれません。うつしみ、うそつみ、うつせみ、等は「う」を現「うつし」とする現実のことを写す事実を写す意味が含まれています。
この現実を写すこころの構造が、偽りとして心を写す自覚と共に働けば、その写す行為は嘘になります。
例えば山太陽自然を見て直接こころの全体で「綺麗、美しい」と感嘆するとき、その感嘆に沿った自分の意識を表出しているときは、何も偽りがありません。
ところが同じ対象を言うときでも、それを一旦記憶の中に仕舞い込みその記憶概念で語ろうとすると直ちに自己との乖離を感じ出します。記憶概念には何故どうして如何に、あれとこれとはというような比較等々の恣意的な疑問がすぐまとい付くからです。
学校で教える「何にでも疑問を持ちましょう」というのは何にでも嘘をつきましょうと教えるのと同じです。もちろんそれなりに精神の発達に有益であるからですが、現にあるウ次元での扱いを教えていないので、嘘つきは良い子であるという教育になっているようです。
「うそおそ」「うそ」の「そ」は何かといえば、素粒子、元素の元、素、単位等のことです。ウ次元でもオ次元でも始まりのそれを一つ一つの全体として扱うならば、ア次元での感情情感が自分の自覚を現すように、ア次元では嘘が付けないように、また、ア次元以上(アエイ次元)には嘘が無いように、ウ、オ次元にも嘘が無くなることでしょう。
とはいっても日常生活では記憶による社会生活は重要なことです。つまり嘘による社会生活を構築していくこととなります。お金という物神、精神物質の所有対象に隷属するのが人間の普通の態度で、それと同じ構造で、不可解なこと、不可能なこと、不思議なこと、偉大なこと等、自分を超えたこと(ウ次元の素)を、オ次元の素として拝むのも普通のことです。
古代に、貯蓄所有による不安が無く、自分の精神世界での貯蓄所有を最大限に使用しているのが普通の日常であったときには、どこに神を拝む態度が出て来る余地があったでしょうか。どこに物神となるものに拝跪することがあったでしょうか。
精神的な自由と道徳的な自由選択が自覚を持って行なわれていた時代には、神を拝むことは存在しませんでした。世界の全宗教の共通項を取り上げれば、そこに何かを祭り上げる人間の精神構造が出て来るでしょう。さらに、そこで発見された共通項が人間に備わっているのなら、どこに祭り上げるものなど探す必要があるでしょうか。
古代はそういう時代であったし、文化の高度に発達したこれからの時代は古代同様に言霊学による時代になるでしょう。
こころの創造原理 (父韻。霊の有無)こころの原論の古事記。
引用。
霊の有無
言霊で説明出来ないものは独善であって認められません。そう解釈してしまうのが所謂経験知。媒体の作用なしに何か感じることがあるとしたら、四母音に働きかける八父韻の特殊な感覚。
霊の存在を先天以外にあるとしたら、それは途方もない考え。自分独自のものというのはない。もし有るとしたら誰にでも認められなければなりません。個々の霊力を持っているということが不思議でなくなります。
もし霊の存在を認めるとしたら、五十音のどれに原因をなしているか、何処と繋がっているか、早く見極めなければならない。生活や世界観の奥にあるものか、どうか。
五十音しかない、霊とか感受性とかいうものは有り得ない。有るとしたら言霊の学問をするにあたって悩むことになる。無いものを有るとするのですから。経験知の中のどれであるかを見極めることです。
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感想。
物質世界には元素の周期表があります。一番の水素から始まって百幾つあります。たいていの元素の説明には古代の四大元素とか五大元素とかがでてきますが、それが増えて十になり十一、十二になって百幾つになる様子が描かれていません。
宗教、古代思想では五大天使になったり、五大要素になったり、八正道とか八卦とかになっていますが、それらの数が増えていくどころか維持されています。
これはどういうことでしょうか。
答えは簡単です。古事記となって全て明らかにされています。
古事記の神代の巻の神の数を数えてみてください。
火のかぐ土の神を産んで病気になりますが、ここまでが五十神です。
たぐりに成りませる金山びこの神から五十数えるとスサノオの命になって、伊耶那岐、伊耶那美関係の神産みは終わります。その後はスサノオの新しい物語です。
ここにある五十と五十の神々はちょうどアイウエオ五十音図に対応していて、島産みの最後のふたご島、天の両屋の五十+五十に対応しています。
島産み全体が五十音図を二つ組み合わせた、百音図(言霊百神)の解説になっていて、四または五というのは母音の五行のことで、母音イの特別な律動を除外したときに四大になっています。
この母音行の実在を世界の宗教では創造者、全能者といっています。
八卦、八正道等は、五十音図の五行列から母音半母音を除くと子音だけになりそれが八つあることを指しています。また、特に、イ段の八子音の特別な働きを現したものでもあります。
この場合は働き行為が強調されています。
古代ではもちろんアイウエオ五十音とは言わず、フトマニといわれており、フト(二十)に示されるように二十数をもって代表させていました。この二十は濁音になれる言霊の総数です。(かさたは行)
マニは世界語で、日本神道で麻邇といいます。仏教で摩尼と呼びます。観世音菩薩が手に持つ円満玲瓏な摩尼宝珠とは言霊のことを表徴したものです。キリスト教旧約聖書にはマナmannaとあります。「マナは神の口より出ずる言葉なり」と記されています。ヒンズーでは「マヌ」と呼ばれます。ヒンズー教の最高法典をマヌの法典といいます。
ここから導き出されることは、古代(または現在にまで残っている)の宗教、思想の大本は古代大和のフトマニ思想に有るということです。別に言えば、古代大和より世界に与えられたフトマニの変形ということです。(古代世界での多くの偉人聖人が大和を尋ねた記録は竹内文書にあります)
古代世界では大和は世界のフトマニによる中心でしたが、現代においても再びこの大和日本の地にフトマニ思想が甦りましたので、中心となるにはもっとも適した位置にいます。ただし、フトマニ言霊思想を理解適応できるだけの伝統はあっても実在の人物がいません。
敗戦によって天皇は古事記との関係、スメラミコトの地位を放棄してしまい、現皇室は平民に成る(平成)ことを心がけているようで、古事記の秘密を読み直すニュースを聴いたことがありません。
二発の原爆の意味は古事記の意味を皇室の独占から切り離して民間へ流通させたことによって、飛躍的に実質が理解されて来たことにあるように思います。それほど古事記の内容は世界を相手にした濃い内容のものです。
今のところはあちこちからの切り込み観点が入り込む状態で、皇室自体が何を選択するのかを避けているようです。憲法改正等の話しもありますが、日本が世界の一国としての位置づけを示すのではだめです。
世界統治の頂点に立つかどうかを皇室と共に示す用意があるかどうかです。
そのような実質的な人材の出現にとっては、血統など何の意味もありません。皇室は単なる秘儀伝統の護持者であるのか、世界政治の統率の実行者であるのかを選択しなくてならないでしょう。
今回の6-4-2の項目では、始めはあの世の霊界について関心がありましたが、書き始めると上記のようになっていきました。
これは霊統と呼ばれ、血統によらない、霊、言霊、ひじりによる統治方面から見たものとなるでしょう。古代朝廷での実質的な世界統治行為の伝統があったからこそ、言えるものです。大払え祝詞として残っています。
世界を離れていながら世界を見通せる技術はフトマニ言霊学と皇室の伝統の中にあります。
こころの創造原理 (父韻。霊の有無)こころの原論の古事記。
引用。
霊の有無
言霊で説明出来ないものは独善であって認められません。そう解釈してしまうのが所謂経験知。媒体の作用なしに何か感じることがあるとしたら、四母音に働きかける八父韻の特殊な感覚。
霊の存在を先天以外にあるとしたら、それは途方もない考え。自分独自のものというのはない。もし有るとしたら誰にでも認められなければなりません。個々の霊力を持っているということが不思議でなくなります。
もし霊の存在を認めるとしたら、五十音のどれに原因をなしているか、何処と繋がっているか、早く見極めなければならない。生活や世界観の奥にあるものか、どうか。
五十音しかない、霊とか感受性とかいうものは有り得ない。有るとしたら言霊の学問をするにあたって悩むことになる。無いものを有るとするのですから。経験知の中のどれであるかを見極めることです。
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神懸かり
神懸かりは、自分の人生の中に必要な時に出てきます、光として保存されている、無くならないし場所をとらない。二千年も三千年前のことが俄かに蘇る。字を書けなかった人が突然、字が書けるようになったりする。
不思議は良いも悪いも世の中にたくさんある、見世物的な修行もありますし、精神力じゃない、霊力で。暗くしたり、隠したりするのはインチキですけど。そんなことは霊懸かりじゃない、そんなことが出来ないことはないというだけの話。
本当に大切なことは、その人だから出来るんじゃなくて、その人の因縁でやらされる。建て直しをこれから私たちがやらなければならないのですから。言霊の学問以外、どうしようもないということです。
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人間というものは奥の奥のイ段の次元に意識のフォーカスが合いますと、音は誰でも聞こえる、その音が聞こえる心に達するとそれだけで世界が動く。心そのものを征服といったら表現が覚束ないですが、観察の眼が行き届いた時に世界が動く。
この眼を「経綸」と言うのです。世界の歴史はこの経綸によって動いています。だから言霊の学問を勉強してその域に少しでも近づくと、次の世界はどうなるか、どうしなくてはならないか、が分かってくる。どこにも行かなくても分かる、坐っていながらにして分かる。-----------------
感想。
物質の世界が元素でできていることが分かったように、精神の世界も精神元素でできています。
それは五十個あり多くも少なくもなくちょうど五十個で、一つ一つ性質を持ったそれぞれ違った五十個となってなって、周期表のように並べたものが五十音図です。
物質の世界には元素以外には実在を主張できる元素は無いように、新しい元素を勝手に考え出したり、適当に固めなおして新しい元素を創造したりすることが出来ないように、精神世界にも五十以外の精神元素はありません。
勝手に元素は造れないにも係わらず、精神世界ではそれに類したことはそこいら中で行なわれています。複雑な精神がたったの五十の精神元素しかない、五十の言霊で出来ているといったら当然疑いたくもなります。
さらには自分の考え、アイデアをみんなが懸命になって表現する競争状態ですから、そんな中で、あること無いこと書こうと考えようと思いつこうと、人間の意識はたったの五十個しかないよ、なんていったら、たったの五十個がどうして一億人、64億人の意識に展開していくのかと、ケリが飛んでくるくらいです。
物質も互いに掛け合わせれば新しい元素が出来るわけではありません。精神もその多様な現象にもかかわらず内実は十七の先天性を構成する言霊(五母音、五半母音(ウ-ウは一つ)、両者の間をかけ持つ父韻が八つの十七)と、子音が三十二で計四十九、言霊を文字表現とした全体を現すンの五十の言霊で構成されています。
これは全世界共通ですが、その現象の展開には、濁音半濁音半母音等を足したり引いたりで、母音の数も子音の数も一定していません。ただ一つ日本語のみが、人間の全精神内実を表現することの出来る言語体系となっています。古代の聖人達が人間精神を見つめ現した数が五十で、その聖人達は一つ一つの精神に言葉とその発音を配当して五十の音図を造ったのです。
それに基づいて出来たのが大和言葉で、もともと全意識の表現であるために、そのために大和言葉で表現できないものはないということになります。よくどこそこの民族はあるひとつのものを表現するのに五つも六つもの違った表現、あるいは十幾つものそれぞれの状態に応じた表現があるといわれています。大和言葉なら五十通りに表現できるでしょう。なぜなら、意識というのはどんなものも五十の言霊で成り立っているのが解明されているからです。
このように大和言葉においてのみ、人の意識は完全に表現できます。ただその時代その場所において必要がないので発達していないだけで、大和言葉から日本語になった現代でも日本語の柔軟性を驚嘆する声が常にあるのは、五十音の大和言葉が元になっているからです。
大和言葉は元素同様に一つ一つが意味内容を持った別々の言霊で、単音が単位となっています。流行している話し言葉、その単語の全体に意味があるという言霊とは違います。はやりの言霊の場合にはあるまとまった言葉の霊、内容を言霊と言って、言葉の魂のことでコト・ダ・マと濁ります。
大和のスメラミコトの学ぶ言霊は単音元素ですから言葉と魂が同一ですので、コト・タ・マと言って濁りません。
霊の有無、神懸かりのことですが、一見この世の不思議です。
嘘だ、そんなものは無いという人達は科学的に証明しろとか、追体験をさて欲しいとかいって、出来なければ×点を付けます。しかし、残念ながら彼らには体験できずそのチャンスが無いのですが、実際にあるから彼らと彼らの思考法を取り入れた者達には不思議現象となっているわけです。
経験している当人には日常的なことさえあります。しかし、あることを知っていて体験している場合でも、それらを特別な人間以外の意識現象にしています。人助けにしたり、金儲けにしたり、個人の修養にしたり、団体となって固まったりしています。
しかし、人の意識は五十の現れ以外にはありません。それらの超常現象もその中のどこかに含まれていたものが、溢れ出て膨れたものです。
例えばこんなふうにも見てください。あなたを照らした光は写真に撮られたり、誰かに見られたりしています。その距離をだんだん延ばしていき、今の技術なら宇宙ステーションからでも見られるでしょう。さらにもっと延ばして、考えられるだけ延ばして100億年先まで行くこともできるでしょう。光は弱くなりますが、ゼロには成らず、限りなくゼロに近いが増幅すれば顔が見られることになるでしょう。そこで100億年先のどこかで誰かの意識と波長がぴったり会うこともあるでしょう。そのときその誰かは、昨日夢の中でヘンテコナ生物らしきものを見たぞ、顔の真ん中が高くなっていて穴みたいなものが二つあった、なんて話がでないとも限りません。
地球には全宇宙から何十億年前からの情報が到達しています。地球自身の生命情報も、誰がいつどのようにそれらに感応してしまうのかわかりません。そんなことをしたいと頑張っている人もいるでしょう。先祖の光やその生活の様子が廻り廻って、誰かの意識に照り代えることもあるでしょう。先祖の霊を見たり紹介したり、話したりする人もいるでしょう。
しかし、いずれの先祖も物欲追求、競争社会でえいやぁやっている人達が多そうで、今後の新しい人類を導くどころか、一緒に連れて行ってこれから造られる新社会を見せてあげなくてはならないようです。
いずれにしても、人の五十の言霊の、とその運用機能のどれかが感応肥大するに過ぎません。
こころの創造原理 (父韻。引用)こころの原論の古事記。
父韻に関する引用。
随筆・宇宙剖判(造化三神)
次にこの何か分らない生(うま)れ出ようとし、動(うご)き始め、蠢(うごめ)いているものが「何」であるか、という意識が働く時、瞬間的に言霊ウの宇宙は客観宇宙言霊ワとそれを見る主観宇宙言霊アに剖れる。
後天の現象界に於て、人間が瞬間的に物を見て、それが何だか分らないのが、「何かな」と意識を動かして、主観の意識を呼び醒まし、客観世界の物を実際に何かと確かめた時、即ち見る主観と見られる客観がはっきり分った時、そういう後天の意識の分別・認識を可能にする原動力となる先天内の活動とは、言霊ウの宇宙が、言霊アと言霊ワの宇宙に剖れるという働きなのである。
この言霊ウの宇宙が言霊アと言霊ワの両宇宙に剖れる事、これを宇宙剖判と呼ぶ。剖は剖(わ)ける、剖(わか)れる事であり、判とは分(わか)る、意識で捕捉するという事である。
心の先天構造内で宇宙言霊ウが言霊アとワの両宇宙に剖れるから、後天構造の人間の主観意識が客観のものをはっきり識別し、認識する事が出来る、という訳である。さらに言霊ア・ワの宇宙は言霊オエ・言霊ヲヱの夫々の宇宙に剖判し、後天構造に於ける人間の認識を実践へと進展させて行く。
以上、先天構造の中で宇宙剖判は心の今・此処に於て瞬時の休みなく行われている。その事によって人間は生活を創造して行く事が出来る。
最後に、ではその宇宙剖判を可能とする根本の原動力は何か。母音であり、また半母音でもあるもの、それでいて親音とも呼ばれる言霊イ・ヰと、その働きであり人間の根源智性である言霊チイキミシリヒニの八父韻である。これが人間の生の一切の根本原動力である。(この説明は後の機会に譲ることとする)
父韻
どんなに反省しても人が合理的なことを言ったとしてもぐるぐると廻っているだけで解決しない。識者と言われている人たちもみんなそうです。「あなたどう考えているの?」って問いただしますと自分では納得していても個人的な経験知や恣意から離れていない。
宗教のアもしくは芸術のアを少しかじっている、宗教に於ける自我と文学に於ける自我を自己満足で語るに過ぎない。真理としての理論でなくてね。
いかに宗教界に人がいないか、昔は今のような説教をしますと破門されましたよ。どこが間違っているか指摘する上人がいない、正しいものが打ち立っておりませんから「そういうもんだろう」と思われてしまう。
父韻を説明するに結局は伊豆野目に落ち着く、理論的な父韻は嘘っぱちの父韻、父韻が全てを創造するのですから、イ次元に存在してイの働きそのもの、伊弉諾尊の一切の働きが父韻、ということは創造そのもの、創造が分からなければ父韻は説けないということになります。
創造の光ですからイ次元に足を置かないと父韻は説けないということに気が付きましたから、だから何を言ったところで嘘っぱち。理論的には間違いはないでしょうが。何にもない所から一切を創造する原動力は無一物から万物を創造する、その最初の力動が父韻、最初の最初ですから伊豆能目というのです。
経綸から見た世相
商売でも八つの父韻が動いているのは確かでしょ。八つの父韻の一つ一つは何一つ変わらない。ところが父韻の並びを換えるとウの段がイとエのウとしての内容の働きとして変わってしまう。今まではウが現在は三千年間独走していてイとエは隠れてしまっておりますから。
ウが後のアオイエをリードしてしまっている。でもウの本分を言霊から見ればア・カサタナハマヤラ・ワです。天津金木の一つ一つの音の実相は変わらないのですから、イという段階でウを見てみるとウ・ツクムフルヌユス・ウに換えることが出来る。内容は変わらないのに見る見地が違いますから全然違うものにすることが出来る。
そんなこと人間日常茶飯事的にやっておりますよ。「あの野郎,嫌な奴だ」と嫌うけども反省して,自分の心の中にそのような感情を持っていたことを気を付けさせてくれるために私にあんなことを言ってくれたんだって思えば、相手の言ったことが自分に当てはまって自分の本心が分って「有り難いな」と感謝すれば、言われたことは同じなのに心持は改まってしまうでしょ。それと同じ。
それを感謝だけでなく経綸で言えば、ライブドアのH氏が威張り腐って有頂天になっていて「金で買えないものはない」って豪語していた。真面目に働いている人から見れば「何と傲慢な野郎だ」って。だけど努力とかを視点に置かないで経綸の上から見れば数と操作と伝達手段いうものを視点に置けば、精神的なものも数という尺度で計ればあながち悪いことではないという前兆がする。
アワ島
そういうような変わり方をするのを淡島といいます。常にうたたの泡のような方法なんです。常に変わることを主とするやり方。それでアワ島というんです。あぶくの島ともいうんです。
なぜこういうことが全世界で行われていて、疑問を持たないのか。政治家は、怠けてて途中の経過を言わないんじゃないんですよ。わかんないんです。政治家のことをけなしてるわけじゃないんですよ。どんな政治家が出ても、これっきしなんですよ。
なぜかっていうと、だんだんと変わっていく時間についての状況と、物質の変化についての状況を適切に判断して、それで一瞬一瞬その適切な変化の判断に相応して仕事をしていく、チイキミシリヒニという八つの父韻の自覚が欠如しちゃってるから。このチイキミシリヒニというのは、五十音図のイ段にあるんです。イ段にあるっていうことは、命そのものの力なんです。人間の命そのものの力。
この、命という、人間が生きていく上で一番大切な、命の直接の働きである八つの父韻というものの認識が欠如しちゃってるから、永遠の業を作っていっちゃう。何百回、何千回、何万回教育基本法を編纂し直しても、お子様の泣き声が聞こえてくるだけにすぎない。
この天津磐境というものの目を持って政治なり教育なり経済なり、また科学を取り扱わないかぎり、すべては暴走しちゃいます。命のリズムを忘れちゃってるんですから。
淡島のほうは「葦の舟に乗せて世界に流した」って、書いてないんですよ。これは、人間の自意識というものが出て以来、必然的にこれに行くべき問題ですから。宗教の水蛭子(ヒルコ)を世界に広めたというのと違って、世界に広めなくても広まっちゃう。ということで、世界の混乱はすべて淡島にあるのです。
釼・玉・鏡
今日もええ天気です。洗濯は早めに取り込まないと、ネ。
三種の神器は「草薙の剣・曲玉・八咫鏡」と言われても何のことかさっぱりだろう。そこで具体的に説明してみよう。会報「199号」から。
古代の朝廷ではこの太祝詞音図のア段ア~サまでとして朝庭「百敷の大宮」と呼んだ。
●釼(つるぎ)/古代の日本の釼は双刃(もろは)である。釼とは人間の持つ判断力の表徴である。双刃は片や“断ち(たち)”を、もう一方は“連気(つるき)”を表わしている。
人が物事の内容を知るには、そのものを分析即ち断たなければならない。その判断力は「太刀」である。断ってその部分々々の内容が分かったら、その内容を総合して元の姿に戻す必要がある。この総合の働きを連気(釼)という。草薙釼とは人間の持つ天与の釼即ち判断力の表徴なのである。
●曲玉/人間天与の太刀(たち)の判断力を以って人の心を分析して行くと、最終的に五十個の言霊(ことたま)が現われる。この要素を曲玉で表現する。
言霊とは人の心の究極の要素であると同時に言葉の究極の要素でもあるものである。即ち人の心は五十個の言霊で構成されており、それより多くも少なくもない。これを表徴するのが八坂の曲玉である。何故真円ではないのか、人間の心はコロコロと変転極まりないからである。
●八咫鏡(やたのかがみ)/人の心を分析して、五十個の言霊で構成されていることが分かったなら、次に天与の判断力の釼(つるぎ)の総合力で元の心の姿に戻す作業が行われる。
そして最後に人間精神の最高理想の構造に到達する。この五十音の言霊で構成された最高の構成図を天津太祝詞音図という。この五十音図を八つの父韻を基調として並べた八角構造の音図のことを八咫鏡(やたのかがみ)と呼ぶ。
五つの母音、四つの半母音、八つの父韻、三十二の子音、これだけが今此処で活動している全部、それが言霊の学問の締めくくり。
日本書紀は父韻から説明が始まるということは言霊の学問を心の中に認めて、何かが起こったときに「ああすれば、こうすれば」の選択智、言霊の学問を以て世の中を動かす操作活用法です。日本書紀の撰者は舎人親王、とねり(十音り)ですから父韻を暗示してますね。
。父韻の並び
反省する時に父韻を自覚するには、何故人を批判する心が起こってしまったのか、起こしてはいけないと思っているに起こって、自分の意思と関係なく宇宙と結びついてしまったキ(角杙神)・ミ(生杙神)であることがわかる。
よく人の名前を思い出せない時、なんかの拍子にひょいと思い出す“ヒ”の於母陀流神、思い出すまで心の中で誰だったっけ、もやもやしている妹阿夜訶志古泥神の“ニ”、それ以上は捉えることが出来ないのですから。
分からないのは八つの父韻の並び方で次元が違ってきますでしょ、俳句や和歌を捻った時に自分の心の並びがアの父韻の並びア・タカラハサナヤマ・ワと並んでいるか、それぞれの次元の現象の父韻の並びを観れば、それに対してどのように答えればいいかが自ずと分かってくる。
高天原へとどのような言葉をかければ引き上げることが出来るか、それが大直毘、神直毘、伊豆能売である言葉が分かってくる。必ず反省でもって、アとワの前にはウがあって、その前には宇宙があるんだよ、を言い聞かせておけばいい。
分かれていることを意識できないのですから、でも実際は分かれている、でも分かれていないということを知っておればいい。
。
自分の心を知りませんと何も始まりませんから、それで言霊の学問はア字の勉強を薦める。日常の行為の中でのすべての所作に働くのが父韻、茶碗を引き寄せたり、差し出したりするのもそう、人間全能の根源にあたる。
父韻を分かるには、こういう考えはいけないとか、こう思ってはいけないとか、気をつけていても、瞬間に判断してしまっている、そこを分かればしめたものなんです。自分の心は法則でなりたっていると考えませんと分からないことなんです。
。日本語の法則
日本語の仕組みは母音と父韻と子音の五十音でなりたっております。音と韻の違いは何か、母音は実在音、この世になくてはならない音、父韻は実在しない。ですがその働きで子音の現象を生み出す。
それは人間の知性の中にのみ存在する。母音は例えば「アアア・・・」と発しますと息が途切れるまで続き無くならない音。聞こえないだけで常に鳴っている。仏教では梵音といいます。
それが聞こえるようにするのは父韻。自分の生命というのはウオアエイの宇宙の中に住んでいる。チ(Ti)という父韻がアの母音(A)に働きかけるとTiA、タになる。
本当はTiAなら分かりやすいでしょうが、分からないのが正直なところでしょう。イ段のチイキミシリヒニの父韻がアウエオの母音に働きかけて子音になる、それが日本語の法則。どうしてそうなっているのかを考えてしまうと永遠に分からない。
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こころの創造原理 (身体意識)、こころの原論の古事記。
父韻は「人類に与えられた最高の機能」と書いておきながら、例え引用とはいえ、どんなものかひとつ見せて欲しいなどといわれるのを恐れている。出来合いの知識のように取り入れるだけの凡人なので、気が小さい。宝物の持ち腐れの例だろうけど、どれだけ宝を意識しているのかというところから見れば、お話にならないほど大したことはない。それでも読みにきてくれる方には、申し訳ない思いです。
そこでたいしたことないついでに、身体意識(高岡英夫)ということを耳にしたので、言霊との類似性をたいしたことないながら、探ってみたいと思う。単なる知的な取捨選択遊びになりそうですが、興味半分でやってみよう。
『高岡英夫著『センター・体軸・正中線―自分の中の天才を呼びさます 』(ベースボールマガジン社)より引用します(P5より)。
身体意識という言葉を学術的に概念として決定する際、私は概念の構成要件について厳密な検討を加えました。ある言葉を学術的概念として採用するには、概念化しようとする対象を、それを取り巻くもろもろの現象から切り分け、措定する必要十分条件を特定し、その言葉がそれらの条件を構成要件として完全に満たす事が必要です。今回の場合、私は次の9つの条件を構成要件としました。
(1)実体のごとく存在するが実体ではないという心理現象性
(2)身体の内部に実体があるかのごとき実感があるという体性感覚性
(3)実体のごとく存在する人には常に存在するという恒常性
(4)実体のごとく形があるという形状性
(5)形状が明確であり、時に幾何学的正確さを持つという形状正確性
(6)顕在意識にのぼることもあるが、他のことに意識がとらわれている場合も常に存在しているという潜在下心理現象性
(7)形状も場所も異なる複数個が同時に存在するという同時複数性
(8)身体の内にも存在するが身体の外の空間にも延長的に存在するという心理現象性
(9)外観からでも見える人には見えるという身体反映性 』
このように高岡DS理論の構成の根拠はきっちりとしてます。
まず、二大分類として、 『スティフルクラム (stiff fulcrum) : 固定支点、 フリーフルクラム (free fulcrum) : 可動支点』があるという。
その後、各DSの詳細各論になるが、代表的ディレクターシステムの解説として、代表的がどのような位置を占めているのかははっきりしない。中心とか代表的とか重要とか言われるが、その何がいつくの構成を持っていてその元に何が幾つの関係をもっているかは明確でないようです。
(こちら側の勝手な解釈で無理解であるかもしれません。その節はご容赦を。)
例えば次のような解説があります。
センター・身体を天地方向に貫く最重要のディレクター。武道、スポーツ、舞踊各分野で「正中線」「中心線」「軸」「体軸」「センター」など様々な名称で呼ばれて来たものの統一的な学術概念。体表面の力を抜き、中心部の筋肉を使用した効率の良い運動を可能にする他、快適な心境を生み出し、大所、高所に立った高い洞察力をもたらす。重心のコントロールとも深い関わりがある。
上丹田・頭部に形成されるディレクターで、観察力やシャープな思考力などを司る中心となり、論理力や組織力、意志力や行動力などの支えとなる。
中丹田・胸部に形成される塊状のディレクター。たぎるような闘志や勝利への熱い情熱、人を熱狂させる魅力などを生み出す。中丹田が形成されることで胸が温かく、情熱的になり、積極的に行動を起こせるようになる。
下丹田・下腹部に形成されるディレクター。安定しどっしりと重みのある姿勢と動作を作る。精神的にも、相手から強力な攻撃を受けながら、それをものともしない冷静沈着な意識・思考を生み出す。古来「肚」と称され、重要視されてきた。
ベスト・
肩甲部内側の曲線状のディレクター。肩甲・鎖骨部内を中心とする背・胸の流動的な運動を可能にする。普通、腕の運動は肩関節を中心に行われるが、ベストができると、あたかもこのラインが巨大な関節のようになり、上半身の運動性が飛躍的に高まる。
アーダー・肩甲部と腕を一体化してコントロールするためのディレクター。アーダーが発達すると、肩腕を質量・重量として高度に利用することが可能になる。
心田流・脇に地下の温性・熱性の気を導入し、中丹田やパームに供給するディレクター。脇を深く大きく運用し、上半身からの浮身と、飛翔感のある動きを生みだす。
パーム・人を励まし、心をやさしくする作用があり、手のひらを中心に発達するディレクター。『中丹田』のエネルギーが集まってくる。手の繊細かつ柔軟なコントロールを可能にする。温性であることが多い。
側軸・身体を正中面で半分に分割した時、左右それぞれの半身の中心を通るセンター。これがあることで身体を左右分立的に使用することができ、片半身だけを使って物事に対処できるようになる。また、センターの補強効果を果たし、身体を支えたりバランスを取るのに、より高度な安定感や身体づかいを可能とする。
リバース・人と人、あるいは人と物とを結ぶ放物線状のディレクターで、対象と自分との関係を強化する働きがある。人と話すのが楽しくなり、親和的な関係を築けるようになる。武道や格闘技の高段者の場合、相手の攻撃を察知し体が無意識に反応することがあるが、それは潜在的にリバースができている状態。また、観客にリバースが掛かると、人々の期待や熱狂を自分の中に取り込み、さらに自分を燃え上がらせるといったことが可能になる。
スライサー・身体を意識で切断・分離するディレクター。切断面が、あたかも潤滑油を塗られたかのようにツルツルと滑動することで、身体の拘束を解きほぐし、脱力した融通無碍な運動をつくりだす。
開側芯・股関節を脱力させ、下半身の運動性を飛躍的に高めるディレクター。軽快でシャープ、バランスのとれた高重心の運動をもたらす。
裏転子・強力な前方力を作り出すディレクター。裏転子が効き大腿裏面の大腿二頭筋が活性化されると、強力な前進運動や前方への圧力 (前方力)が可能となる。大腿前面の大腿四頭筋に頼った鈍重な動きとは好対照。
ジンブレイド・下半身を脱力させることで、滑らかで高速な移動を可能とするディレクター。ジンブレイドが働くと、身体の重みを最大限に活用した、相手に悟られないしなやかな動き出しが可能となる。心身共に最高のリラクゼーションをもたらすため、常識や既存の考え方を受け入れつつそれらに囚われない、自由自在な心境を生み出す。
舟・脇や股等に発達する放物線状のディレクター。身体を地面から切り離し、武術でいう「浮身」の状態を作り出す。このディレクターができると、柔軟で多様性に富むフリーな運動が可能となる。精神的には一つのことにとらわれない自由自在な発想が生みだされる。
流舟・上方へのモビリティ(運動性)を生み出す舟というディレクターにさらに前身力・前方力が加わったもの。あたかも龍の背中に乗って悠々と天空に舞うかのごとき、強大な前進力・上昇力をもたらす。
DSとは身体意識の構造と機能であり、そのシステムを構成する要素である身体意識をディレクターと呼ぶのですが、現実の現象運動の中に「実体のごとく存在するが実体ではないという、身体の内部に実体があるかのごとき実感があるという、実体のごとく存在する人には常に存在する」というDSを、再発見再構築したところがみそです。
物理的な身体運動に無いけど有るもの、有るけど無いものを見出したということでしょう。これは古事記では「一人神と成りまして身を隠したまいき」に相当することでしょう。あるけど隠れているものです。
そこから「このただよえる国を修め造り固め成せ」となるわけですが、「自らの身体を」と言い換えればそのまま通用していきます。つづいて自分の地盤の確認をして、天の御柱を立てて運動開始となります。
高岡DS論では、古事記のように母音半母音父韻子音の区別がなく、そのため重要とか代表的とかの言い回しとなっています。古事記の言霊学と比較は奇怪しいと思う方もいるはずですが、言霊学は人間のなす事全ての原論に該当しますので、身体運動に詳しい方がいればもっと上手に解析されるはずです。
センター、中心線を最重要とするところなど、御中主の神を思ってしまいます。
立ったり歩いたりするのは通常の動作ですが、生理学や神経による命令の伝達以外に身体意識を見ています。
何故人は立って歩けるのかは、先天的な構造の中で立って歩く姿を描けるから、それが後天的な主観意識の中に浮かびあがり、身体意識として現象運動を可能にするからです。
そこでセンターは立つ方向と地に付く方向とが同時に進行します。しかしセンターが立っただけでは歩けません。両側がつかえています。そこで前に押す力動が必要です。その形は古事記では面一つの四対つまり八父韻としてあります。DS論では各論として扱われているので、わたしにははっきりしません。
また2大分類として「フリー(フリーフルクラム)」と「スティフ(スティフルクラム)」(固定支点と可動支点)があるということですから、それを高御産巣日、神産巣日としていけば古事記のような体系性が出てくるかもしれません。
歩く姿は古事記的には、ワッと大一歩踏み出しその持続、歩くテーマのようなものを実行しそれを現そうとする、目標に集約収束しあるいは展開回転する、そして、感情表情を持ったようなあるいはその型しかないというような、というようなことになるでしょう。
身体運動にはそれと関係する各筋肉群があるので、そちらに視点を移せば各DSになっていくのかもしれません。
こころの創造原理 (言霊八父韻と歩くこと)、こころの原論の古事記。
言霊八父韻は、言霊母音の主体と、言霊半母音の客体とを結び、現象の一切を創造する原動力となる人間の根本智性であり、人の心の最奥で閃めく智性の火花であり、生命自体のリズムと言ったものであります。その父韻を示す八つの神名の中で、一つ置きに「妹」の字が附せられています。それで分りますように八つの父韻は妹背、陰陽、作用・反作用の二つ一組計四組の智性から成っています。
宇比地邇(うひぢに)の神・
宇比地邇の神とは心の宇宙がそのまま現象として姿を現す動き、となります。
言霊チの父韻・
言霊父韻チとは「人格宇宙全体がそのまま現象として姿を現わす端緒の力動韻」
妹須比智邇(いもすひぢに)の神・
須比智邇とは「須(すべからく)智に比べて邇かるべし」と読まれ、一度決意して身を捨てて飛び込んだ後は、その身を捨てた無我の境地が持続し、その人の人格とは日頃の練習の智恵そのものとなって働く、と言った意味を持つでありましょう。
言霊イの父韻・
父韻イとは「父韻チの瞬間力動がそのまま持続して行く力動韻」という事が出来ましょう。
角杙(つのぐひ)の神・。
言霊キの韻は掻き繰る動作を示します。何を掻き繰る(かきくる)か、と言うと、自らの精神宇宙の中にあるもの(経験知、記憶等)を自分の手許に引寄せる力動韻のことです。
妹活杙(いくぐひ)の神・
父韻ミは自らの精神宇宙内にあるものに結び附こうとする力動韻という事が出来ます。
意富斗能地(おほとのぢ)の神・
意富斗能地は大きな斗(はかり)の働きの地と読めます。物事を判断し、識別する大いなる能力の地という訳です。
妹大斗乃弁(おほとのべ)の神・
大斗乃弁とは大いなる計りの弁(わき)まえと読めます。意富斗能地と作用・反作用の関係にある事から、心の中にある理論から外に向かって発展的に飛躍していく働きと考えられます。
父韻リとは心の中の理論が新しい分野に向かって螺旋状に発展し、広がって行く働きであることが分ります。
於母陀流(おもたる)の神・言霊ヒ
面足とは心の表面に物事の内容表現が明らかに表わされる力動韻という事が出来ます。
妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神・言霊ニ
心の表面にはっきり表現として現われる時には、心の奥で過去のイメージが実を結んでいる、という事になります。この心の奥に一つの事の原因となるものが煮つめられて行く力動韻、これが父韻ニであります。
八父韻の一覧表
・・山腰氏・小笠原氏・古事記・・・・・・・・・・・・・・・・・
チ・陽出力・創造・宇比地邇(うひぢに)の神・・・・(ウ) 全体性の主体側、陽、能動、夫、作用側
イ・飛至力・繁栄・妹須比智邇(いもすひぢに)の神(ウ) 全体性の客体側、陰、受動、婦、反作用側
キ・陰掻力・収納・角杙(つのぐひ)の神・・・・・(オ)組み混ぜる主体側、陽、能動、夫、作用側
ミ・旋回力・整理・妹活杙(いくぐひ)の神・・・・(ヲ)組み混ぜる客体側、陰、受動、婦、反作用側
シ・透刺力・調和・意富斗能地(おほとのぢ)の神・・(エ)付き選ぶ主体側、陽、能動、夫、作用側
リ・螺旋力・滲透・妹大斗乃弁(おほとのべ)の神・・(ヱ)付き選ぶ客体側、陰、受動、婦、反作用側
ヒ・開発力・開顕・於母陀流(おもたる)の神・・・(ア)表面に拡がる主体側、陽、能動、夫、作用側
ニ・吸引力・成熟・妹阿夜訶志古泥の神・・・・・(ア)表面に拡がる客体側、陰、受動、婦、反作用側
歩くこととセンターと父韻。
前回、身体意識に関して、歩くとは『何故人は立って歩けるのかは、先天的な構造の中で立って歩く姿を描けるから、それが後天的な主観意識の中に浮かびあがり、身体意識として現象運動を可能にするからです。』と書きました。
これは生理的な生物学上の筋肉とそれに関係する神経の命令系統を扱うものではありませんが、意識による身体運動の起動する始めの部分を語ったものです。
今回は父韻を使ってもう少しやってみましょう。歩き始めようとする最初の一歩です。まず、
言霊チ・歩こうとする精神宇宙が直接現象として姿を現します。生理的筋肉、神経の命令系統等スタンバイが全体として立ち上がります。そこではセンターが立ち上がっていかなければ歩こうとする意志行為は遂行できないでしょう。主体的な歩こうという意志に火が付き火花が飛び散ります。
言霊イ・センターが立って動こうというとき、それを受け入れる天と地があってこそセンターが動けます。センターは天地を抜けるようにと言いますが、センターを支える反作用や抵抗を感じなければ同様にセンターも感じられません。その両者の創造性、陽出力があって初めてセンターが立つことを感じるでしょう。
言霊キ・ここでは歩くことですから前に前進しなければなりません。左右や後退等いろいろな選択肢の中から前進を自分に掻き集めます。立ったセンターに先進性を付与するか、自分が前進するセンターを探さなければなりません。
言霊ミ・センターの方向性が自分の歩こうとするセンターと一致するには、それに合一結ばれることが必要です。ここで意志の変更やすわることにしたなどということになれば、このセンターは歩くこととは結ばれません。
言霊シ・方向性に結ばれれば万難を排してそれが決定されることが必要です。そうでなければ動けないでしょう。センターは前進するという決定が下されます。
言霊リ・歩くセンターの方向が決定しても自分の心がそれを心から受け入れなければ動けません。逆からいえば潜在的に前進して歩く方向があるから自分の心もその方向が取れます。
言霊ヒ・そこで心は自分に都合の良い歩くという潜在部分と自分の心の両方を満たす言葉、行為、客観性を産み出す準備が整います。
言霊ニ・こうして行動の確固とした名目が立ちます。自分の心のめ一杯が歩くことで満たされ歩き始めます。ここでセンターは初めて歩くセンターとして確立して、第一歩が始まります。
その後はまたこの八父韻の繰返しになりますが、言霊ニ・まで行ったものが一旦、記憶へと集約されていますので、この八父韻の全体が今度は顔を出すことになるでしょう。
身体運動は身体の物理的な運動の習慣、記憶の世界となるでしょうから、今度はこの八父韻の全体が選択の対象としてセンターの前に立ちふさがります。運動者は自分の経験に沿った選択をせざるを得ません。
そこからあれこれの試行錯誤の訓練が始まるでしょう。訓練すればするほど迷うようになります。その代わり習慣として体得していくものがありますが、過去経験概念となって自分の身体を縛ることになっていきます。
話が逸れてきました。
センターに関してだけの八父韻から見た様子で、その各々の段階に更なる身体意識の、生理学の、運動学の、神経学の、脳内科学の詳細が、必要でしょうがここまで。
こころの創造原理 (言霊八父韻と歩くセンターと記憶)、こころの原論の古事記。
少しだけ考えましたので追加。
運動関係は何も知りませんが言霊学の適応ということでやってみます。DSは細かくあり過ぎてわたしには手がおえませんので、一括してセンターとしていきます。前回ではセンターという場合でもその内容は八つあり、更なる分析、要素付けが可能であることが示されているというだけで、内容は不勉強です。
そこでは立ち上がり歩く最初の第一歩が始まるところまでいきました。その第一歩はついで記憶となって、センターと共に意志や努力、経験や疑問や、挑戦や試し、習慣づけ等々を巻き込んで自分の形を形成し出します。
歩くという単純な行為ですが、分析要素は無限にあるし、各自の向かう関心興味も無限に開いているので、もしそこに頭脳で何かをしようと思うと莫大な量の問題や前提をクリアしなくてはなりません。
身体運動は精神世界、精神の運用世界と一見関係の無いようにみえ、行為の習慣づけ上位行為の修得を目指しているようにみえます。しかし、ここにも、言葉を発していかなくとも、その行為の先端には頭脳内による言葉を発する一連の経過が実在しています。
ヨハネ伝では太初に言葉ありきとあって、万のものこれによりて成りと記されています。このままでは言葉から始まったように見られますが,続いて言葉は神と共に在りとなっています。
ここの部分は古事記では冒頭の全部で展開され、蛭子を流したところまで続きます。古事記は千数百年前に書かれたものですが、そのもともとは五千年以上前に確立運用されていたフトマニ言霊学にあります。モーゼが日本に来ていたという記録がありますから、当時のスメラミコトがモーゼに与えたフトマニ学がユダヤの伝承の中から甦りヨハネの言葉になったものでしょう。
こういったとんでもない歴史観は敬遠されますので、ここまでにして、フトマニ言霊学を使用すれば何にも知らない高岡DS学、身体意識学にもある程度指導理論を提供できるかもしれないところを示してみましょう。
(出来なければ法螺吹き談義となりますが、フトマニ言霊学の精神原理論上及びその運用上の理解に達すれば、この世のスメラミコトとして誰でも世界運営に立候補できるほどの威力を持つものでしょう。竹内文書には天皇が天空浮船[あめのうきふね]に乗って世界運営に出かけたようですが、これなどは実際の飛行体を探すまでもなく、いつどこでも誰であっても相手の言うことや問題点は分かり解決の仕方を与えられるということの比喩でしょう。母親は自分の子供が遠く離れていても、その様子どのような問題にぶつかるかを知っているようなものです。)
言葉を出さずに考えているだけのときにも、思い込みぼやっとしていて何も無いようなときにも、頭脳内では超スピードで言葉の周回や、瞬間的な出現を可能にする待機や、検索探索巡回、選択取捨等々が行なわれています。
人が何かをするときには、どのような精神行為、身体行為であっても、その頭脳内には精神世界の凝縮による言葉が出てきています。実際に発声しないまでも、その一秒の何秒分ゼロコンマの短い時間に言葉による意識の流れがあります。言葉にさえならない言葉でもあります。
そこでは、言葉の無いときには精神活動が無い、と言ういい方は分かるように思えます。では言葉無くして活動、歩く等、していることはあるでしょうか。一見、活動することに言葉は関与していないように思えます。ブログをタイプしている時にいちいち付随していくわけではないようです。
何をタイプしたとかどうタイプするとか説明していくときなら言葉によりますが打ち出される文字が出てきても、その指先は何事も話す言葉を持っていず、修得された技術だけが動いていくようにみえます。条件反射的にことが進行していくようです。
しかし、よく見ると次のような経過があるようにみえます。
「た」という文字の出力をする場合でいくと、わたしはまずキーボードの前に座りますが、座った目の前にあるのがキーボードであることを知ってなくてはなりません。
ついで百もあるキーから「た」を選別することも知っていなくてはなりません。十指が自動的に置かれると言うときもキーという十指の対象が分かっていなくてはなりません。「た」というキーを指先の身体運動の対象にするには、既に言葉の活動で選択された「た」が存在していなくてはなりません。
こうしてみるとキーを叩く動作にも、頭脳内では超スピードで言葉の周回や、瞬間的な出現を可能にする待機や、検索探索巡回、選択取捨等々が行なわれているということになります。
では、連続して歩くときはというと、身体の自動運動のようにみえます。滑って転ぶ時などまるで意志とは関係なく起きます。自動とみえ強制されたとみえる場合でも脳内では超スピードの言葉活動は起きています。後から説明を試みようとすれば、経験したこと、有ったことを探し出して言葉と経験が結び付くように行き来します。
言葉無くして身体活動はあるかといえば、人である以上言葉は常に介入していきます。キーを叩いて画面に「た」が出力するとき、叩いた後はひとの知らない物理的電気的な経過で、出力後は視覚を介して言葉活動が介入してきます。
歩くときも、途中で人の知らない生理的な筋肉神経活動があり、歩いているという感覚を得るときからまた言葉の介入が始まります。言葉を発すること自体、途中の音声が空気中を伝搬することに人は手出しをできません。途中は自然過程となります。
ここの部分は古事記では、
11・・・・・ こころのイメージ表現
神名かな。--(発声伝達)
○ 古事記『 次に風の神名は志那都比古(しなつひこ)の神を生みたまひ、次に木の神名は久久能智(くくのち)の神を生みたまひ、次に山の神名は大山津見(おおやまつみ)の神を生みたまひ、次に野の神名は鹿屋野比売(かやのひめ)の神を生みたまひき。またの名は野槌(のづち)の神といふ。』
(36) 風の神名は志那津比古の神 言霊フ
(37) 木の神名は久久能智の神 言霊モ
(38) 山の神名は大山津見の神 言霊ハ
(39) 野の神名は鹿屋野比売の神 言霊ヌ
という部分に相当しますが、風木山野というように自然物の仲介を通過しなくてはならないようになっています。
「た」というキーを叩き、パソコンの物理的電気的構造に仲介を頼む、歩こうと思い一歩踏み出し、神経筋肉運動、あるいは地面の様子靴などの仲介に従うということになります。
例えば、この場合の筋肉運動ではこうなるでしょう。筋肉を動かす意志はあっても、筋肉内のことはしれません。神経の電気信号のやりとりがどうなっているのかもしりません。
歩くというセンターが立って歩き始めますが、身体もセンターも歩く意志から発生した歩こうという言葉とは別のところにあります。ですが、
(36) 風の神名は志那津比古の神 言霊フ ・
風・自分から出たもので、物理的な仲介をするもの、
志・自分の意志のこころざし、
那・ことごとく
津・都(つ)としてみやこと読み換え霊屋子と書き言葉の意味、
比古・働く男性、
風(ここでは身体行為、歩くこと、センター)となった自分から出てきた物象現象でも、そこには志がことごとく言葉として活動している。
(37) 木の神名は久久能智の神 言霊モ
木・気、霊、言葉の意味内容、
久久・久しくどこまでも、
能・よく、
智・智恵を保っている、
身体行為には当事者の気持ちがどこまでも盛られており行為中は一体となっている。
(38) 山の神名は大山津見の神 言霊ハ
山・気持ち意志の内容とは山(やま八間)のことで、八つの父韻のことで、
大山・八つの父韻全体の元で、
津・港、荷を渡す、
見・現れる、
36の他物となった身体行為の中にも、37の言葉の内容が詰められており、38の現象行為となって現れ、歩く姿が形成される。
山は高低起伏がありその人の持っている父韻の資質によってその姿が変わる。
(39) 野の神名は鹿屋野比売の神 言霊ヌ
野・山から降りて地上に渡される、
鹿屋・神の家、神名(かな)のこと、35以前は頭脳内でのイメージだったのが36からは確認できる姿となること。歩くイメージはあってもまだ現象となっていないものがその実際の姿となること。
野・野にきて身近になり自分なり相手なりの確認の対象となる。
古事記のここでの自然過程では言語の発生を扱っていますから息を吐き発音することです。自然媒介は空気とその振動です。歩くことでは自分の身体とその環境です。
ここの部分はセンターに当てはめれば、6-4-5で引用されたセンターが実在、実感として立とうとするところでしょう。
言霊学では32の現象子音があるので、センターもその数だけ導き出すことができるでしょう。上記四つはイメージとして確立されたセンターが物象として感じられ出し、自己確認をしようとするところまでのものです。
その次は、自分でありながら自分でないものを、あるいは自分でないのに自分というものを確認しようとするところになり、ついでその自他の実在を創出した確認になります。
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いままで言霊学を精神活動としてだけみてきたようですが、身体物質活動にも適用できることが、わたしの内で確認されました。精神と物質をひっくるめて文化文明というわけです。
また途中で自己外による橋渡しも必然のようなのが分かりました。自分が自分がといって、物質による仲介、外部への転化が無ければ行き詰まるようです。
こころの創造原理 (宇比地邇(うひぢに)の神。妹須比智邇(いもすひぢに)の神)、こころの原論の古事記。
豊の国 豊(トヨ)日別 言霊チイ
言霊チ、イ。上の言霊イは母音のイではなく、ヤイユエヨの行のイであります。
言霊チを示す神名、宇比地邇の神は「宇は地に比べて邇(ちか)し」と読めます。宇とは宇宙、いえ等の意味があります。人間の心の家は宇宙です。言霊アの自覚によって見る時、人の心の本体は宇宙であると明らかに分ります。するとこの神名は人の心の本体である宇宙は地と比べて近い、と読めます。即ち心の本体である宇宙と地と同じ、の意となります。宇宙は先天の構造、地とは現象として現われた姿と受取ることが出来ます。
そこで宇比地邇の神とは心の宇宙がそのまま現象として姿を現す動き、となります。
太刀を上段に振りかぶり、敵に向かって「振り下ろす剣の下は地獄なり、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」と、まっしぐらに突進する時の気持と言えばお分り頂けるでありましょうか。結果は運を天にまかせ、全身全霊で事に当る瞬間の気持、この心の原動力を言霊チの父韻と言います。
それに対し言霊イの父韻は、瞬間的に身を捨て全身全霊で事に当ろうと飛び込んだ後は、その無我の気持の持続となり、その無我の中に自らの日頃培った智恵・力量が自然に発揮されます。須比智邇とは「須(すべからく)智に比べて邇かるべし」と読まれ、一度決意して身を捨てて飛び込んだ後は、その身を捨てた無我の境地が持続し、その人の人格とは日頃の練習の智恵そのものとなって働く、と言った意味を持つでありましょう。
以上の事から言霊父韻チとは「人格宇宙全体がそのまま現象として姿を現わす端緒の力動韻」であり、
父韻イとは「父韻チの瞬間力動がそのまま持続して行く力動韻」という事が出来ましょう。
ここに力動韻と書きましたのは、心の奥の奥、先天構造の中で、現象を生む人間生命の根本智性の火花がピカっと光る閃光の如き動きの意であります。
宇比地邇(うひぢに)の神・父韻チ
宇比地邇の神とは一つ一つの漢字をたどりますと宇は地に比べて邇(ちか)し、と読めます。けれどそれだけではまだ何のことだか分かりません。宇を辞書で調べると「宇(う)はのき、やねのこと。転じていえ」とあります。いえは五重(いえ)で人の心は五重構造の宇宙を住家としていますから、宇は心の宇宙とも取れます。天が先天とすると、地は現実とみることが出来ます。すると宇比地邇で「人の心の本体である宇宙が現実と比べて同様となる」と解釈されます。以上が神名の解釈です。とすると、その指示する言霊チとは如何なる動きなのでしょうか。
ここで一つの物語をしましょう。ある製造会社に務める若い社員が新製品を売り込むために御得意先の会社に課長のお供をして出張するよう命じられました。自分はお供なんだから気が楽だと思っていました。ところが、出張する日の前夜、課長から電話があり、「今日、会社から帰って来たら急に高熱が出て明日はとても行けなくなった。君、済まないが一人で手筈通りに行って来てくれ。急なことでこれしか方法がない。頑張ってくれ」というのです。さあ、大変です。お供だから気が楽だ、と思っていたのが、大役を負わされることとなりました。一人で売り込みに行った経験がありません。さあ、どうしよう。向うの会社に行って、しどろもどろに大勢の人の前で製品の説明をする光景が頭の中を去来します。夜は更けて行きます。妙案が浮かぶ筈もありません。寝床に入っても頭の中を心配が駆けずり廻っています。疲れ切ったのでしょうか、その内に眠ってしまいました。……朝、目を覚ますとよい天気です。顔を洗った時、初めて決心がつきました。「当たって砕けろ。ただただ全身をぶっつけて、後は運を天に任せよう。」あれ、これの心配の心が消え、すがすがしい気持で出掛けることが出来たのでした。
向うの会社に着いてからは、想像した以上に事がうまく運びました。大勢の前で、自分でも驚く程大きな声で製品の説明が出来、相手の質問に答えることが出来たのでした。未熟者でも、誠心誠意事に当たれば何とか出来るものだ、という自信を得たのでした。
話が少々長くなりました。この若者のように、自分の未熟を心配し、何とかよい手段はないか、と考えても見つからず、絶望したあげく、未熟者なら未熟者らしく、ただ誠意で事に当たろうとする決心がついた時、人は何の先入観も消えて、広い、明るい心で事に当たる事が出来ます。生まれて今までの自分の経験を超えて、この世に生を受けた生命全体を傾けた誠意で事に臨もうとする心、この心を起こす原動力となる心の深奥の“火花”、これが父韻チであります。神名宇比地邇の宇(う)はすべての先入観を取り払った心の宇宙そのもの、そしてその働きが発現されて、現象界、即ち地(ち)に天と同様の動きを捲き起こすような結果を発生させる働き、それが父韻チだ、と太安万呂氏は教えているのです。当会発行の本では、父韻チとは「宇宙がそのまま姿をこの地上現象に現わす韻(ひびき)」と書いてあります。ご了解を頂けたでありましょうか。
この父韻を型(かた)の上で表現した剣術の流儀があります。昔から薩摩に伝わる示源流または自源流という流派の剣で、如何なる剣に対しても、体の右側に剣を立てて構え(八双の構え)、「チェストー」と叫んで敵に突進し、近づいたら剣を真直ぐ上にあげ、敵に向って斬りおろす剣法です。この剣の気合の掛声は「チェストー」タチツテトのタ行を使います。その極意は「振り下ろす剣の下は地獄なり、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」ということだそうです。
以上、父韻チを説明して来ました。父韻チは心の宇宙全体を動かす力動韻でありますので、人間の生活の中で際立(きわだ)った現象を例に引きました。けれど父韻チは全部この様な特殊な場面でのみ働く韻なのではありません。私達は日常茶飯にこの力動韻のお蔭を蒙っています。仕事をして疲れたので少々腰掛けて休み、「さて、また始めようか」と腰を浮かす時、この父韻が動くでしょう。また長い人生に一日として同じ日はありません。サラリーマンが朝起きて、顔を洗い、朝飯を済ませ、「行って来ます」と言って我が家を出る時、この父韻は働いています。気分転換に「お茶にしようか」と思う時、駅に入ってきた電車の扉が開き、足を一歩踏み入れようとした時、同様にこの父韻は働きます。日常は限りなく平凡でありますが、同時に見方を変えて見るなら、日常こそ限りなく非凡なのだ、ということが出来ます。
ただ、その人がそう思わないだけで、心の深奥では殆ど間断なくこの父韻は活動しているのです。この父韻チを一生かかって把握しようと修行するのが、禅坊主の坐禅ということが出来ましょう。禅のお坊さんにとっては生活の一瞬々々が「一期一会」と言われる所以であります。と同時にこの言霊父韻チを日常の中に把握することは、禅坊主ばかりでなく、私たち言霊布斗麻邇を学ぶ者にとっても、大切な宿題でありましょう。
●妹須比智邇(すひぢに)の神・父韻イ
妹須比智邇の神の頭に妹(いも)が付きますので、この父韻は宇比地邇の神と陰陽、作用・反作用の関係にあります。この父韻イのイはアイウエオのイではなく、ヤイユエヨのイであります。
神名須比智邇は須(すべから)らく智に比べ邇(ちか)し、と読めます。宇比地邇同様漢字を読んだだけでは意味は分かりません。そこで宇比地邇の神の物語を例にとりましょう。若い社員は、あれこれと考え、心配するのを止め、先入観をなくし、全霊をぶつけて行く事で活路をみつけようとしました。そして御得意の会社に白紙となって出て行きました。「自分はこれだけの人間なんですよ」と観念し、運良く相手の会社の社員の中に溶け込んで行く事が出来たのです。一度溶け込んでしまえば、後は何が必要となるでしょう。それは売り込むための物についての知識、またその知識をどの様に相手に伝えるかの智恵です。こう考えますと、神名の漢字の意味が理解に近づいて来ます。
須比智邇とは「すべからく智に比べて近(ち)かるべし」と読めます。体当たりで飛び込んで中に溶け込むことが出来たら、次は「その製品についての知識を相手の需要にとってどの様に必要なものであるか、を伝える智恵が当然云々されるでしょ。それしかありませんね。」と言っているのです。「飛び込んだら、後は日頃のテクニックだよ」ということです。父韻イとは飛び込んだら(父韻チ)、後は何かすること(父韻イ)だ、となります。重大な事に当たったなら先ず心を「空」にすること、それは仏教の諸法空相です。空となって飛び込んだら、次は何か形に表わせ、即ち「諸法実相」となります。仕事をする時、如何にテクニックが上手でも、心構えが出来ていなければ、世の中には通用しません。けれど心構えだけでは話になりません。テクニックも必要です。両方が備わっていて、初めて社会の仕事は成立します。父韻チ・イは色即是空・空即是色とも表現される関係にあります。御理解頂けたでありましょうか。
---以上----------------------
以下は父韻に関する古事記の記述です。
○ 古事記『 次に成りませる神の名は、宇比地邇(うひぢに)の神。次に妹須比智邇(いもすひぢに)の神。次に角杙(つのぐひ)の神。次に妹活杙(いくぐひ)の神。次に意富斗能地(おほとのぢ)の神。次に妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。次に於母陀流(おもだる)の神。次に妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。 』
上記八神は、
○ 古事記『 次に竺紫(つくし)の島を生みたまひき。この島も身一つにして面四つあり。面ごとに名あり。かれ竺紫の国を白日別(しらひわけ)といひ、豊の国を豊日別(とよひわけ)といひ、肥(ひ)の国を建日向日豊久志比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)といひ、熊曽(くまそ)の国を建日別(たけひわけ)といふ。』
(『 身一つにして面四つ』は身ひとつにしてが父韻で、面四つが対になっている上記八神のこと)
竺紫(つくし)の島の領域を指していて、
それぞれ以下のように対応しています。
豊の国 豊(トヨ)日別 (タ行とヤ行の暗示) →竺紫(つく・し)・し(イ段)につく→言霊チと言霊イ
、、、、(8)宇(ウ)比地邇神・ 言霊チ (ウ) 全体性の主体側、陽、能動、夫、作用側
、、、、(9)妹須(ス)比地邇神 ・言霊イ (ウからオへ) 全体性の客体側、陰、受動、婦、反作用側。。※「う」「す」でうす、臼になる。重要。
熊(クマ)曽の国 建日別 (カ行とマ行の暗示)→言霊キと言霊ミ
、、(10)角杙神・ 言霊キ (オ) 組み混ぜる主体側、陽、能動、夫、作用側
、、 (11) 妹生杙神 ・ 言霊ミ (ヲからヱへ) 組み混ぜる客体側、陰、受動、婦、反作用側
竺紫の国 白(シラ)日別 (サ行とラ行の暗示) →言霊シと言霊リ
、、、 (12) 意富斗能地神・ 言霊シ (エ)付き従う主体側、陽、能動、夫、作用側
、、、 (13)妹大斗乃弁神 ・言霊リ (ヱからアへ)付き従う客体側、陰、受動、婦、反作用側
肥の国 建日向日豊久志比泥(ヒネ)別 (ハ行とナ行の暗示) →言霊ヒと言霊ニ
、、、 (14)於母陀流神・ 言霊ヒ (ア)表面に拡がる主体側、陽、能動、夫、作用側
、、、 (15) 妹阿夜訶志古泥神・言霊ニ (ワからウ、スへ)表面に拡がる客体側、陰、受動、婦、反作用側
追加・ こころの創造原理 (うひぢにの神。すひぢにの神)、こころの原論の古事記。うす
眼の付けどころの一つは、(8)宇比地邇神・の「う」と(9)須比地邇神の「す」です。
臼と鈴
「古事記」の神話はアイウエオ五十音言霊布斗麻邇の原理を言霊百神の物語として説いている。百神の初めは「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は天の御中主の神・言霊ウ」である。
次いで先天言霊十六、アワオヲエヱ、チイキミシリヒニ、イヰが現れ、心の先天活動が定まる。
次にこの先天の活動によって三十二の子音言霊、タトヨツテヤユエケメ・クムスルソセホヘ・フモハヌ・ラサロレノネカマナコが誕生し、
次にこれ等言霊を神代文字化する火の迦具土の神・ンが生まれ、言霊総合計五十個が出揃ろう。
次に言霊の神・伊耶那岐の神は五十個の言霊の運用・活用の方法を検討し、五十通りの手順を経て言霊学の総結論である三貴子(みはしらのうずみこ)=天照大御神、月読命、須佐之男命を誕生させる。言霊布斗麻邇の原理の完成であり、伊耶那岐の命の天地創生の事業は終了する。
人が人の何たるべきかの原理・法則をすべて検討し尽くして黙居した姿を言霊スという。スメラミコトのスであり、住居・巣・洲のスである。創造主神伊耶那岐の命の仕事は言霊ウで始まり、言霊スに終る仕事によって言霊百神という子、即ち言霊布斗麻邇の原理が完成する。
稲(イの音)を挽いて粉(こ)を作る道具に臼(うす)と名付けた太古日本人の心は誠に素晴らしい。
伊耶那岐の命の言霊ウよりスに至る作業により言霊百神の原理、即ち人が人たるべき根本原理であるアオウエイ五十音言霊布斗麻邇の学が完成された。それは臼の原理とも言われる。「古事記」が教え示してくれる百神創生の順序はとりも直さず天津日嗣スメラミコトが、文明創造のために言霊スの立場より立上り、臼の原理、五十音言霊の原理を活用・運用して政事(まつりごと)の処理に当った。
その活用・運用することを古代では「振る」と言った。その言霊は高千穂の奇振嶽(くしふるだけ)や石上神宮の布留の言本(ふるのこともと)等に遺されている。スメラミコトは人類文明創造の仕事、即ち禊祓に当たり、言霊スの座から立上り、臼の原理を振い終わって再びスの座に帰る。スの完了形として濁点が付き、ズとなって収まる。スから始まってズに終る。それが天津日嗣スメラミコトの仕事、即ち言霊五十音言霊という鈴を振ることである。鈴の語源である。
石上神宮の伝え言に謂わく「一ニ三四五六七八九十と称えて、これに鈴を結べ」と。伊勢神宮は裂口代五十鈴の宮即ち言霊五十音を祭った宮であり、石上神宮は布留の言本即ち五十鈴を振るい文明創造の曲を奏でる方法を祭った宮である。
臼と鈴の語源は世界文明創造の中の日本民族の根本的なアイデンティテイに関係しているのである。こころの創造原理 (竺紫の島。)こころの原論の古事記。
こころの創造原理 (角杙の神。妹活杙の神)こころの原論の古事記。
正確をきするため引用だけです。
○ 古事記『 次に竺紫(つくし)の島を生みたまひき。この島も身一つにして面四つあり。面ごとに名あり。かれ竺紫の国を白日別(しらひわけ)といひ、豊の国を豊日別(とよひわけ)といひ、肥(ひ)の国を建日向日豊久志比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)といひ、熊曽(くまそ)の国を建日別(たけひわけ)といふ。』
熊(クマ)曽の国 建日別 言霊キミ
● 角杙(つのぐひ)の神。妹活杙(いくぐひ)の神。
言霊キ、ミ。昔、神話や宗教書では人間が生来授かっている天与の判断力の事を剣、杖とか、または柱、杙などの器物で表徴しました。角杙・活杙の杙も同様です。
言霊キの韻は掻き繰る動作を示します。何を掻き繰る(かきくる)か、と言うと、自らの精神宇宙の中にあるもの(経験知、記憶等)を自分の手許に引寄せる力動韻のことです。
これと作用・反作用の関係にある父韻ミは自らの精神宇宙内にあるものに結び附こうとする力動韻という事が出来ます。
人は何かを見た時、それが何であるかを確かめようとして過去に経験した同じように見える物に瞬間的に思いを馳せます。この動きの力動韻が父韻ミです。
またその見たものが他人の行為であり、その行為を批判しようとする場合、自分が先に経験し、しかもそういう行為は為すべきではないと思った事が瞬間的に自分の心を占領して、相手を非難してしまう事が往々にして起ります。心に留めてあったものが自分の冷静な判断を飛び越して非難の言葉を口走ってしまう事もあります。これは無意識にその経験知を掻き繰って心の中心に入り込まれた例であります。
角杙(つのぐひ)の神・父韻キ
宇比地邇の神・妹須比智邇の神(父韻チ・イ)に続く角杙の神・妹生杙の神(父韻キ・ミ)の一組・二神は八父韻の中で文字の上では最も理解し易い父韻ではないか、と思われます。
角杙の神から解説しましょう。
角杙の角とは昆虫の触覚の働きに似た動きを持つ韻と言ったらよいでしょうか。
「古事記と言霊」の父韻の項で、この父韻の働きを「心の宇宙の中の過去の経験、または経験知を掻き寄せようとする韻」と説明してあります。目の前に出されたもの、それを「時計だ」と認識します。いとも簡単な認識のように思えます。若し、この人が時計を見たことが一度もない人だとしたらどうなるでしょうか。その人は目の前で如何にその物を動かされたとしても、唯黙って見ているより他ないでしょう。
「時計だ」と認識するためには、それを見た人が自分が以前に見た物の中から眼前に出された物に最も似ている物を心の宇宙の中から思い出し、それが時計と呼ばれていた記憶に照らして、「あゝ、これは時計だ」と認識する事となります。人間の頭脳はこの働きを非常な速さでこなす能力が備わっているから出来ることなのです。この様に、心の宇宙の中から必要な記憶を掻き繰って来る原動力、これが父韻キの働きであります。
以上のように説明しますと、「あゝ、父韻キとはそういう働きなんだ」と理解することは出来ます。けれどその父韻が実際に働いた瞬間、自分の心がどんなニュアンスを感じるか(これを直感というのですが)、を心に留めることは出来ません。
そこには“自覚”というものが生れません。そこで一つの話を持ち出すことにしましょう。
ある日、会社の中で同じ会社の社員と言葉を交わす機会がありました。日頃から人の良さそうな人だな、と遠くから見ての感じでしたが、言葉を交わしてみると、何となく無作法で、高慢な人だな、という印象を受けました。それ以来、会社の中で会うと、向うから頭を下げて来るのですが、自分からは「嫌な奴」という気持から抜け出られません。顔を合わせた瞬間、「嫌な奴」の感じが頭脳を横切ります。自分には利害関係が全く無い人なのに、どうしてこうも第一印象に執らわれてしまうのだろうか、と反省するのですが、「嫌な奴」という感情を克服することが出来ません。
或る日、ふと「そういえば、自分も同じように相手に無作法なのではないか」と思われる言葉を言うことのあるのに気付きました。「なーんだ、自分も同じ穴の狢だったんだ」と思うとおかしくなって笑ってしまいました。「あの人に嫌な奴と思うことがなかったら、今、私に同じ癖があるのに気づかなかったろう。嫌な奴、ではなく、むしろ感謝すべき人なんだ」と気付いたのでした。そんなことに気付いてから、会社でその人にあっても笑顔で挨拶が出来るようになりました。
この日常茶飯に起こる物語は、父韻キについて主として二つの事を教えてくれます。
その一つは、人がある経験をし、それが感情性能と結びついてしまいますと、それ以後その人は同様の条件下では条件反射的に同じ心理状態に陥ってしまい、その癖から脱却することが中々難しくなる、ということです。同じ条件下に於ては、反射的に何時も同じ状況にはまってしまうこと、そして反省によってその体験と自分の心理との因果に気付く時、自分の心の深奥に働く父韻キの火花の発動を身に沁みて自覚することが出来ます。因果の柵(しがらみ)のとりことなり、反省も出来ず、一生をその因果のとりことなって暮らすこと、これを輪廻(りんね)と言います。そこに精神的自由はありません。
第二の教えが登場します。物語の人は、嫌な奴と思った人と同様の欠点を自分も持っていたことを知って、「嫌な奴」の心がむしろ感謝の心に変わります。因果のとりこであった心が感謝の心を持つことによって、容易に因果から脱却出来ました。この心理の変化を敷衍して考えますと、八父韻全般を理解しようとするには、言霊ウ・オの柵にガンジガラメになっている身から言霊アの自由な境地に進むことが大切だ、という事に気付くこととなります。言霊父韻とは正しく心の宇宙の深奥の生命の活動なのですから。
人は世の中で生きて行く時、この父韻キミの働きを最もしばしば経験します。そしてこの働きは最も容易に認識する事が出来るのではないでしょうか。
●妹生杙(いくぐひ)の神・父韻ミ
角杙の神の父韻キと陰陽、作用・反作用の関係にある父韻ミを指示する神名です。この生杙の神という神名ぐらい実際の父韻ミにピッタリの謎となる神名は他にはないでしょう。
角杙の神の時、杙というものを昆虫の触覚に譬えました。人が生きるための触覚と譬えられる働き、とはどんな働きでありましょうか。変な例を引く事をお許し下さい。日本の種々の議会の議員さんが選挙で当選するのに必要な三つのもの、といえば地バン、看バン、カバンです。言い換えると、地バンとは選挙区の人々とのつながりのこと、看バンとは知名度、そしてカバンとは勿論豊富な選挙費用を持つことです。議員さんにとって選挙で当選したから一息、という訳にはいきません。当選したその日から、自らの三つのバンを更に大きく強く育てて行き、次の選挙への準備をすることです。地バンである選挙区の人々、今までに顔見知りになった人々へ、議員自身の影響力を更に売り込んで行かねばなりません。
どんな人にどの様に自分を売り込んだら良いか、その働きの最重要なものが言霊ミであります。言霊父韻ミとは、自分の心の中にある幾多の人々と、如何なる関係を結んで関心を高めて行くか、相手の心と結び付こうとする原動韻即ち父韻ミが重要となります。
どんな小さい縁も見逃してはなりません。縁をたよって自分の関心を売り込む力です。これは正(まさ)しく生きるための触覚であります。政治家にあってはこの生きるための触覚を手蔓(てづる)と言います。その他物蔓・金蔓・人蔓、手当たり次第に関係の網(あみ)を広げて行きます。
政治家ばかりではありません。この生杙という父韻ミは、人が社会の中で生き、活躍して行くためにはなくてはならぬ必要な働きであります。社会に於てではなく、人間の心の中との関係についてもこの触覚は重要な働きを示すでありましょう。
自分の心の中の種々の体験とその時々のニュアンスに結び付き(生杙)、またそれを掻き取って来て(角杙)、小説を書き、印象画や抽象画を描き、また既知の物質の種々の法則の中から微妙な矛盾を発見して、新しい物質の法則に結びつけて行く才能の原動力もこの言霊キ・ミの働きに拠っています。
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(執着) こころの創造原理。 こころの原論の古事記。
(執着)について。
執着はあることに心が囚われ付着離れられなく、思い切れないことです。
仏教語というのでどこに出て来るのか探しましたがまだ見つかりません。心が付着、付き不離になることとして始めます。
そこで「付く」の「つ」を取り上げることにします。執着を付くの「つ」とし代表させます。
古事記には「つ」の名のつく神様は多くいます。今回の角杙の神もツから始まっています。角と付くとじゃ全然違うよなどとおっしゃらないでください。何故角杙を角と読む他に「ツ」とも読み込まなければならないのか、やってみますので、よろしく。
まず、言霊「ツ」から。
言霊ツの神様は、大戸日別(おおとひわけ)の神です。
先天構造を構成する十七言霊が活動を始め、子音が生れ出てきます。それはタトヨの三子音言霊から始まります。
大事忍男の神・言霊タとは、先天構造の活動によって人間の全人格である宇宙そのものとも言えるものがターとこの世の中に姿を現わす姿であります。
次にその宇宙をどよめかせて現われた何かが、それが実際に何であるか、が全人格を表わす五十音言霊図の横の一列、イ・チイキミシリヒニ・ヰの十の父韻の戸を潜って調べられ、言霊ト。
次いで言霊図の縦の四母音アオウエの節の中を通って、起こって来た発想が四つの母音に内臓される人間の社会を構成する四次元の構造の中のどの構造に属するか、が調べられます。言霊ヨ。
執着と一言でいいますが、その何に付くのかの原理が必要です。カレーライスを食べるときに何に執着しているのか、辛味、香り、うま味、ご飯の温度、ソースの状態、皿とスプーン等々人によって執着するものが違ってきますが、それら当然のことが起こる所以を知ることが必要です。
そうすると上記の言霊タ、ト、ヨの三段階がまずあります。執着の付着、付くことは何かを選択しているように見えますが、それ以前に自分の欲望、五感感覚次元からの欲望と、経験記憶した概念との全体に結び付いています。
つまり先天的に自分が執着するものを頭脳内に形成しています。それが何であるかは大戸日別(おおとひわけ)の神さまのはたらきによって現れてきます。これは人間の数だけあります。そこに普通に執着する心が出来てきますが、その次元で執着するとかしないとかいっても、いわゆる悟りの次元にいないのですから誰が何を言っても根本は同じことで、執着を無執着と言い換えているだけになります。論議とか論破とかが無執着の殻をかぶって堂々巡りをしています。
それらとは別に、執着を固執する、しなくてはならない次元があります。神の恩寵を感じる、あの人を愛する、慈悲を抱く、ある技法の絵画音楽小説等に没頭するなど、執着しなければ先に進めない場合があります。前記のウ、オの次元ではなくアの次元でのことです。宗教家にしろ芸術家にしろ哲学者にしろ熱い血潮の無いところには、空虚な概念に執着する熱狂しかないでしょう。
さらに、神道で教えるエ、イの次元については、わたしなどでは手の出ない世界なのでここまでです。
さて、どんな世界に執着するのか材料が出揃ったことにします。ここで執着の神様、大戸日別の神・言霊ツの出番となります。
大戸日別とは大いなる戸(と)即ち言霊図の母音・八父韻・半母音計十言霊の横の列の(と)戸を通して先天の意図(日)である父韻の並び方が調べられ、その意図が現実に何を志しているか、が明らかとなり、「ツー」と姿を現わして来る姿であります。
(( 別の説明。大戸日別の神・言霊ツ
大戸日別の神の大戸とは、生れ出て来る二番目の神、石土毘古(いはつちひこ)の神・言霊トの示す言霊五十音図の横のイ・チイキミシリヒニ・ヰの八父韻によって構成されている戸(と)のことです。そこから父韻である霊(日)が離れて出て来る(別)働き(神)ということ。何処に向って出て来るか、と言いますと、第三番目に生れて来る石巣比売の神・言霊ヨ、即ち五十音言霊図の縦の五母音の中のウオアエの四母音に向って、ということです。心の先天構造が活動して、父韻と母音が結び付いて現象子音を生みます。と申しましてもこれは先天構造内部のことで、人間の意識では認識出来ません。そこで現象界にバトン・タッチされて、先天の動きと同じような動きが繰り返されて起こり、その中から実際の意図が何であるか、の検討が行われます。未だ何だか分らない意図が石土毘古の神の十の戸を通り、石巣比売の神である四つの母音の中のどれと結び付くか、に向って大戸日別の神・言霊ツと進んで行く動きであります。
言霊ツに漢字を当てますと、津(つ)、着(つ)く、付(つ)き、唾(つば)、終(つい)、費(ついえ)、突(つき)、……等が考えられます。 ))
普通普段に言われる執着の世界はウ、オ次元でのことです。物事に発端に対する自覚の無い世界のことです。しかし宗教、芸術等アの次元の世界にはことを始めるにあたって、重要な自覚が存在しますので、全て執着を無くするのが仏教だというのは、喋っている人の未経験からくるもので、全世界向けの単なる概念です。
以下引用。
尻手
岐の命は高天原を知って黄泉国を知りましたが、我々は高天原を知りませんでしょ。自分はこの世の中が嫌だ嫌だと、自分の心の中に天国を求めたいと言っても、知識の誘惑がものすごく追いかけてくるんです。
自分自身が知識に対しての信頼度とそれが勝っているのが偉いと思っている執着が。その執着から逃れたいと思いながらも、その執着から離れたらフワフワしてしまって自分が何処へ行ってしまうのだろうっかっていう不安。それを支えるのがアという信仰ですね。
岐の命は建御雷の男の神という主体の本義を知ってしまっていますから、逃げ帰りながら十拳剣を尻手に振る。今まで観て来た黄泉国の文化構造はどうなってるんだということを、高天原の原理に照らし合わせて知らせながらに逃げてくる。
今度、言向けやわしの時には尻手ではなくて、建御雷の男の神が大国主の命を言向けやわす時には、海の中に立てたとある。原理を正当に説くことによって、その原理を運用して相手を説得する時には立てる。
もっと深いもの
人類をエイから観れば社会を創ろうとする時に、祓っても最後まで残っている汚いもの、伊耶那岐命と伊耶那美命が結婚するということは離婚があり得ないということでしょ。二つが一緒になったらどうなるか、生命としてそう観ることないですから。それを証明するのは愛の極地にいたったときだけ。
それをイエス・キリストが磔になったということでキリスト教は謳っている。崇高な精神ですが、古神道では物語的に、ことなげに謂う。当たり前の世界なのですから。事実そう思う他ない。それが出来るから光の言葉になるのです。
だろう、じゃなくて、そのものズバリ。それをニュアンスで捕らえなければならないでしょ、現代は。そんなことを語っているお前は魂の掃除が出来ていないからなんだよ、それが神道の物言いです。そう言うのがはばかれるから金毛九尾だ、コンプレックスだ、とかの表現になる。
未練とも言えるし、分からないものへの執着ね、お前の思い描くものはまだ表面的なものでもっと奥があるんだよって、それが分かったところでお前は決して納得しないだろう、もっと深いものだよ、生命とは。ということでしょう。
こころの創造原理 (意富斗能地の神。妹大斗乃弁の神。) こころの原論の古事記。
引用だけです。
○ 古事記『 次に竺紫(つくし)の島を生みたまひき。この島も身一つにして面四つあり。面ごとに名あり。かれ竺紫の国を白日別(しらひわけ)といひ、豊の国を豊日別(とよひわけ)といひ、肥(ひ)の国を建日向日豊久志比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)といひ、熊曽(くまそ)の国を建日別(たけひわけ)といふ。』
竺紫の国 白(シラ)日別 言霊シリ
● 意富斗能地(おほとのぢ)の神。妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。
言霊シ、リ。父韻を示す神名の中でこの父韻シ・リの神名からその父韻の内容を理解することはほとんど不可能に近いと思われます。
意富斗能地は大きな斗(はかり)の働きの地と読めます。
物事を判断し、識別する大いなる能力の地という訳です。
人はある出来事に出合い、その事を判断・識別する事が出来ず迷う事があります。あゝでもない、こうでもないと迷いながら、次第に考えが心の中でまとめられて行きます。そして最後に迷いながら経験した理が中心に整理された形で静止し、蓄積されます。蓄積される所が心の大地という訳です。この働きから学問の帰納法が生れて来るでありましょう。
大斗乃弁とは大いなる計りの弁(わき)まえと読めます。
意富斗能地と作用・反作用の関係にある事から、心の中にある理論から外に向かって発展的に飛躍していく働きと考えられます。
父韻リはラリルレロの音がすべて渦巻状、螺旋状に発展していく姿を表わしますから、父韻リとは心の中の理論が新しい分野に向かって螺旋状に発展し、広がって行く働きであることが分ります。この様な動きの理論の働きは演繹法と呼ばれます。学問ではなくとも、多くの物事の観察から人の心の中に一つの結論がまとまっていく過程、また反対にひとつの物事の理解から思いが多くの事柄に向かって連想的に発展して行く事、その様な場合にこの父韻シ、リの存在が確かめられます。
● 意富斗能地(おほとのぢ)の神・父韻シ、妹大斗乃弁(いも・おほとのべ)の神・父韻リ
意富斗能地・大斗乃弁の両神名を指月の指として本体である父韻シ・リにたどり着くことは至難の業と言えるかもしれません。けれどそうも言ってはいられませんから、想像を逞しくして考えてみましょう。
意富(おほ)は大と解けます。斗は昔はお米の量を計る単位でした。十八リットルで一斗でした。斗とは量のことであります。北斗七星という星は皆さんご存知のことでしょう。北斗、即ち北を計る七つの星ということです。大熊座のことです。意富はまた多いとも取れます。沢山の量り、即ち大勢の人の考え方、意見が入り乱れて議論が沸騰する時とも考えられます。
そんな議論がやがて真実の一点に近づいて行って、その働き(能)が議論の対象である地面(地)にたどり着いたとします。沸騰していた議論が静まります。多くの議論の内容は消え去ったのではなく、出来事の真実を構成する内容として一つにまとまった事になります。まとまった状態は言霊スですが、まとまって静まることは父韻シということが出来ましょう。
理屈ポクって理解し難いと言う方もいらっしゃると思います。そこで平易な例を引きましょう。毎週月曜夜八時、6チャンネルと言えば、直ぐに「水戸黄門」と気付く方は多いことでしょう。このドラマの前半は悪家老、代官が悪商人と組んだ悪事の描写です。後半はそろそろ黄門様一行がその悪事の真相に近づいて行きます。ここまでは毎回新しい脚色が工夫されています。けれど最後の数分間は何時も、数十年にわたって変わらぬ結末が待っています。
最後に悪人一味の悪事が暴露されると、悪人達は老公一行に暴力を行使しようとします。すると御老公は「助さん、格さん、懲(こら)らしめてやりなさい」と命じます。善悪入り乱れてのチャンバラとなり、老公の「もうこの位でいいでしょう」の言葉と共に、助さん(または格さん)が懐の三つ葉葵の印籠(いんろう)を取り出し「静まれ、静まれ、この印籠が目に入らぬか」と悪人達の前にかざす。そこで一件落着となります。
この印籠の出現の前に、事件に関わったすべての人々の意志、動向が静まり、御老公の鶴の一声によって結末を迎えます。この一点に騒動がスーッと静まり返る韻、これが意富斗能地の父韻シであります。この大きな入り乱れてのチャンバラが、御老公の三つ葉葵の印籠の一点にスーッと吸込まれて行くように収拾されて行く働き、それが父韻シであります。水の入った壜(びん)を栓を抜いて逆(さか)さにすると水は壜の中で渦を巻いて壜の口から流れ出ます。父韻シの働きに似ています。この渦の出来るのは地球の引力のためと聞きました。水は螺旋状に一つの出口に向って殺到しているように見えます。父韻シの働きを説明する好材料と思えます。
● 次に妹大斗乃弁の神・父韻リの説明に入ります。大斗乃弁とは、漢字の解釈から見ますと大いなる量(はかり)のわきまえ(弁)と見ることが出来ます。
また神名に妹の一字が冠されていますから、意富斗能地(おほとのぢ)とは陰陽、作用・反作用の関係にあることが分かります。この事から推察しますと、父韻シリは図の如き関係にあることが分かって来ます。五十音図のラ行の音には螺理縷癘炉(よりるれろ)等、心や物質空間を螺旋状に広がって行く様の字が多いことです。そこでこの図の示す内容を理解することが出来ましょう。
「風が吹くと桶屋が儲かる」の譬えがあります。風が吹くという一事から話が四方八方に広がって行き、最後に桶屋が儲かるということに落ち着くのですが、ここで落ち着かないで、更に諸(もろもろ)が発展して行き、永遠に続くことも可能です。人の考える理屈が野放図に広がって行く譬えに使われています。これも父韻リの説明には不可欠の理屈の働きと言えましょう。また噂(うわさ)に尾鰭(おひれ)がつく、という言葉があります。
一つの噂に他人の好奇心による単なる根も葉もない推察が次々と加えられ、当事者や、または全然関係のない大勢の人々に間違った情報が伝わって行くことがあります。時にはそれが社会不安を惹き起こしたり、大きな国家間の戦争の原因になることがあります。
これ等の現象は人間の心の中の父韻リが原動力となったものであります。原油価格の高騰が伝えられた数日後、スーパーマーケットの店頭からトイレットペーパーが姿を消してしまったという話をまだ記憶に留めていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。
父韻リの働きを説明するために悪い影響の話ばかりして来ましたが、父韻リには善悪の別は全くありません。人間誰しもが平等に授かっている根本能力の一つであります。発明家といわれる人は、一つの発想、思い付きから次から次へと新しい発明品を発表して行きます。これも父韻リの原動力によるものであります。この根本力動の韻律によって人類は現在ある如き物質文明を建設して来たのでもあります。
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(意識と本質) こころの創造原理 (意富斗能地の神。妹大斗乃弁の神。) こころの原論の古事記。
ブログを散歩していたときに、見つけました。
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誰かの本からの引用のようです。次のようになっています。
『意識と本質』より
『「天地の始」、一切の存在者がものとして現れてくる以前の「道」
すなわち根源的「存在」には名前がない。
それは言語以前であり、分節以前である。
それを老子は天地分離以前という。
ところが名の出現とともに天と地は互いに分かれて「道」は「万物の母」となる。
言語によって無分節の「存在」が分節されて、存在者の世界が経験的に成立する。
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天地の始めというのは古事記の出だしですから、何か関係しているのかもしれませんが、ここでは引用した文面だけに絞り後のことは手を出しません。
非常に荒っぽい大雑把な文章と感じました。老子と言っていますが確認するのは大変なのでそこは抜かします。
すぐ目につくのはそこに引用され書かれている通り、前と後しか見えていないようです。以前に関しては有ると無い、以後に関しては有ると無い、それの繰返しのようです。有る設定に対してその前と後の二つの前提にそれぞれ有ると無いの二つがくっついているもののようです。
数行の引用文だけでこんなことを言ってしまうのも目茶苦茶かもしれませんが、もし古事記を意識して天地の始めというところから始まっているのなら、わたしのように勉強したての者でさえも見抜ける簡単な間違いを犯していますが、しかし、それは普通のことですから、古事記に沿っていえば、この子は葦船に入れて流し去りつ、になるでしょう。
古事記には上記の引用にある「名の出現」までに五十の手続きを経るように指示があります。冒頭の天地の初発のときから三貴子までで出現した名の運用まで百神を以て解説しています。名の出現までなら、五十番目の神カグツチまでです。
引用には「出現」の前後にそれぞれ「ある」と「ない」との判断が付いていますので、その後は勝手な敷衍が続くことになるでしょう。知的な理性的な運用の普通の判断に知識とアイデアの集積が追加されるだけのものとなるでしょう。それでも、そこには自己の判断と努力と所有欲と競争心が付着していきますから、当然執着した文書になり他人の批判など受け入れたくないでしょう。
老子の引用がありますが、単なる概念操作の上で老子による権威付けをしているだけかもしれません。あるいは長年の研究成果かもしれません。前回の記事に有る執着に関することも誰かのブログを見てのものですが、概念操作の行き着く先に悟りを設定しているような感じでした。今回の場合は世界に取って代わる思想選手権の一番を目指してるのでしょうか。そんな感じです。
両者とも昇っている山への多大な努力の結果が認められますが、その山の頂上は、悟り山、真理山のふもとにも達していないことが明かされるでしょう。昇る山が違うのです。そのためにはかれらと同じ、知性の概念山に立たなければならないわけですが、しかし、何でまた、わたしはこんなことを平気で書けるのでしょうか。
知識も年季も彼らに比べられないほど低くだめなわたしのどこに何が有るのでしょうか。しかも、反論はせず、間違いだという指摘もせず、正しいという意見も言わない。こんなことが許されるでしょうか。
わたしも論議論戦が好きな方だったので、観念的な言葉概念を見つけるとすぐに乗っていこうする癖がまだあります。今は古事記という精神原理のあんちょこが在りますからそれを大いに利用してみたいとも思います。
ことに言霊学を知ってからは、概念操作をする人達の努力と精力は凄いと思いますが、根本的に幾らやってもだめであることの見通しがついてきました。それらのチャンピオンベルトにはメッキさえされていないことも知りつつあります。
人には頂上のある山が五つあります。人の魂が住む場所を家、五重(いえ)という所以です。学問知識はオ次元の山に登るだけで幾ら高度なことを成し遂げても、次のア次元の山には達しないのです。醜い学者の人格は普通に見られるところでしょう。
だめなものは幾らやってもだめ、つまり最高のものが作れるのもその次元内でのことで、次の次元から眺めれば何の違いもありません。次元を取り違えどこでも登れるという彼らの信条は当面は貴重なものです。同情も同調もしませんが、むしろ、それなりに結果を出してしまうメカニズムの中で自己主張に泣き騒ぐ彼らの状態も理解できそうです。
古事記には御中主以前の記載はありません。御中主は潜在意識であり現象ともなる最初の次元にあるもので、それをさらに逆上るには、潜在意識の次元で説明しなければなりません。説明とは全て顕在部分に属するものですから、同じ土俵を離れるという設定になってしまいます。
古事記の最初の十七神は潜在-顕在する神として考察が誰でも可能です。引用文と引用主はその部分に入ろうとしている言及が見えそうな格好がありますが、しかしそれ以上ではないようです。
ところで竹内文書というのがありますが、それには御中主以前の神がぞろぞろでてきます。それらを全て潜在意識内でのこととすると、古代の聖人たちは潜在意識に到達し、その中で語る技術を心得ていたようです。勝手に考えられた潜在意識を並べたものではないと言えそうです。
というのも、竹内文書では御中主以後、古事記と共通の父韻を扱った後で、一挙に天照に飛んでいます。ところが古事記はここに百もの神名を導入して記述されています。これは明らかにここでの仕事の分担があっように思えます。竹内文書は潜在意識の領域を扱い、古事記は現象領域を扱うという分担のようです。
五千年以上前の出来事でしょうが、よくもまぁ、今日まで伝承されたものと感心してしまいます。それほど人の精神に与えたインパクトはでかかったようです。現代においても言霊学を知った後の衝撃は大きいものですから当然のことかもしれません。
今後古事記の言霊学を学校で教えるようになったら、素晴らしいことになるでしょう。
以下引用。
磯城島の大和の国
磯城島の大和の国。磯城島の「磯城」っていう字はですな、磯(イソ=五十)城と書くんです。五十の言霊で結界された国。
ですからこの学問と申しますのはね、自分の心に問うてみると、完全に答えてくれる学問なんです。「オレはこう言うように思ったんだけど、本当か」っていうように問うてみますとね、それでずーっと問うていくうちに、ほかのことまで全部わかってくる学問なんです。なぜかといえば、自分の命の学問なんですから。命に質問するんですから、必ず答えてくれる。ふざけちゃだめですけれども。ちゃんとした質問すれば、必ず答えが返ってくる学問なのです。
ですから、自分の心でもってちゃんと答えてくれたその答えは、決して間違いがない。万民に通じて正しい真理なんですから。それをもって堂々と、日本のこの伝統を発揮していく国にすればよろしいのです。
そういう機運がずーっと高まってきまして、高まると反対に世情はもっとやかましくなってきます。朝日が昇る前は一番暗いといいます。それと同じように、この学問がもうちょっとしっかりした芽を生やすときは、世の中が一番暗くなるときですから。その点に巻き込まれないように、自分の心をしっかり目を覚ましていれば、そばにどんなことが起こっても、その人は決して巻き込まれないんであろうと、わたくしは念じておるんですけれども、どうだかはわかりません。
人間は三千年の因縁っていうものがありますから。わたくしの先生の先生は、残念なことに進駐軍のバイクにはね飛ばされて、肝臓破裂で亡くなりました。山腰明将先生っていう方はね。気の強い方でした。そういうこともございますから、すべてがハッピーエンドになるとは限りませんけれど。しかし、人間はそんなことがあっても死なないんですから。ハッピーエンドなんですな、それが。
それよりも、何万年と続いている日本の国の完全な宝。崇神天皇以後の二千年間は宮中の賢所にしかない、世界人類の宝っていうものを、こうやって勉強させていただいているっていう、すばらしい幸福感がございますので、そのことを心の中心に置いて、ひとつ今後ご勉強くださいますように、一年の年頭に当たってお願い申し上げます。
(いろんな考え、but....。)こころの創造原理、こころの原論の古事記。
いろんな考えがあってもいいと、かたくなに主張する方もいます。
真理は一つじゃないですかと、柔らかに恥ずかしがりながら言う方もいます。
それらに尾ひれが付くと、いいとか悪いとか、見地だとか、方向だとか、それが普通で何でもないこと、になり、文殊の智恵になり、深くなったり広くなったり、視野が開けたなり、逆に宿命で、運命を背負っているとかになり、それぞれの結果や成果に対してまたまた多くのおまけが結ばれてきます。
こんなおちょくった人を馬鹿にした書き方はないんじゃないかと憤慨する方も、新鮮な視点を提供されたという方も、勉強になるのか結局何にもならないのものなのか、はてな?という方も、様々でしょう。
それが人間だ人生だ人の思いだ個性だ、に結びつける方もいるでしょう。当然、ブログ主はどうなのかと、質問する方もいることでしょう。
考え方というようなヤワなテーマならいいでしょうが、それを真理とか、岐路に立つときの決定とかになれば、世界全体に係わり人の命にも係わって来ることでしょう。恨みつらみ怨念となって幾代にもまたがることもあるでしょう。
このブログは古事記を心の原論とその活用として見ていくもので、古事記の見方としては百%誰からも相手にされていないものです。伝統的に(五千年以上のことでしょう)ほんの少数が係わっているだけです。ですので、いろんな考えの中にも入れてもらえないほどのものです。(しかし、昭和天皇の人間宣言以来誰でも自由に勉強は出来ます)
しかし、なんというすがすがしさでしょう。
この「すがすがし」はどこから取ったものか御存じですか。スサノヲが八またのオロチをやっつけた後で「我が御心すがすがし」と言うことろからです。
蛇を斬って「すがすがし」なんておかしなものです。さらに「すが」という名の宮殿まで創って歌を歌う。暴れん坊のミコトだったものが蛇を斬ったあとに「大神」に変身昇格しています。たかが山奥の老人夫婦を助けただけのことです。それでも大神になってしまうのも変と思いませんか。
ここにいろんな考えを出してもらったらどうなるでしょう。なんとしても安万侶さんの真意を知りたいものですね。今はまだ予想するだけですが、こういうことになるでしょう。わたしの予想。
スサノウはウの次元、欲望産業経済の興亡を達成しようとする神さんです。
高天原の精神世界にはない、物質文明社会の繁栄をいち早く要求してきました。彼はそのための原理方法を得たのですが、その適応には自信がありませんでした。そのため不安で萎縮した心持ちでいました。
我先にと発展する産業世界の最終局面に至ったときにどうするか、それが問題でした。現代は経済物質生産社会は、金があり過ぎ物があり過ぎ生産し過ぎでも人々には行き渡っていません。金は勝手に信用社会を築き自縛しています。
さらに原水爆化学兵器納屋地震兵器やらとかやらで、地球崩壊の直前までになりました。ちょうどスサノオが心配した状況の出現となったようです。しかし、オロチを静め、オロチ自信による社会の方針転換を果たさなければ、廻りから何を言おうと効き目はありません。ちょうど全宗教家が道徳家がよってたかって現代社会の腫瘍を指摘しても何も進歩していかないのと同じです。
問題は現代のウの次元を動かしている世界の人達自信の中に未来へ向かう方向転換の心が発生することです。それはあたかもオロチ自信の中に健全な判断力となる「くさなぎの剣」が産まれるということです。しかしそれはオロチの尾、五十音図の最終段階ワヰウヱヲのヲの到来のときです。終末です。
スサノオは剣のことを報告しに天照に会いにいきました。天照とはもちろん日本ことです。しかし、現在、報告を受け取る方がいません。昭和天皇は古事記とは関係ないといって、平成、平民に成る世を創ってしまいました。終末が近づきその時に新しい社会建設の判断力を得ましたと報告にくる、いわゆるユダヤ金融資本の向かう先である大和の日本には何も用意が調っていません。
ここから先はどうなるのか。?。
しかし、スサノオの描く未来はすがすがしさの上に成り立っています。
米ロは核廃棄に同調しています。中国は世界制覇をとっくに諦めています。中東では悪循環をお互いに斬りたくてもできないだけです。世界中で終末に対する準備が進んでいるのに、日本だけは未だに世界の中の一国気分から抜けていません。世界中が日本の指導を期待しているのに、その長たるスメラミコトが未だに眠ったままです。
改憲の話が出ていますが、世界連邦の長たる当然の歴史的立場を書き込めないのなら、なにをやろうと同じことです。オロチは尾に隠し持った剣に気づき始めています。しかし、その使用法を知っているのは、スメラミコトだけです。スサノオはその憂慮する終末でのこころの制約から解放され、十分に発達した物質社会、繁栄への道を見出し、晴れた心になったというのに、当の現代大和の日本が立ち上がれないのを見たら何ということでしょう。
未だに日本の科学技術文明がどうの、先端技術がどうのといっています。スサノオの制定した日本の役割はそんなところにありません。古代同様に全世界を指導することです。スサノオは、要するに現代の二十世紀のような社会を建設する見通しが数千年前に出来上がり、そのためのロードマップに間違いが無いという確信を得ているのです。
あとはこれがいろんな考えの一つでなく真実であることを知ればいいだけです。予想の段階ですからまだ先の話です。しかし証明するのに結果を待ってからでは遅過ぎます。もう死んでしまっています。他の人も同様で、馬鹿な意見だ嘘だと言っても証明できません。
そこでその途中経過がロードマップ通りか見ていけば最終的にはそうなるだろうという判断もできるでしょう。反対する人も、自分の意見なり相手の意見の、あれは正しい、途中はあっている、それはこうだったといって、ふらふらすることなく一貫した見解を提出していけばよいわけです。
しかしいろんな考えがあるという意見には、あるものはいいこれはだめというような、時と所によって対応して変化していくことを保っている変な下心があります。長期的な、スサノオのように数千年を見通すような、ことをしません。
彼はすがすがしいと言って歌ったのですから、現在の世界情勢もその範囲内にあるはずです。そのスサノオのロードマップとはあいうえお、あかさたなはまやらわ、の五十音図のことです。
さて、そこいら辺の学者、政治家とは違ってスメラミコトは世界の運営を背負っています。いろんな考えがあってもいいなどとは言いません。母親が自分の子供を育てるのにいろいろあっていいなどといいますか。
ウ次元(欲望、産業)とオ次元(学問知識経験)ではそうなるだけで、宗教芸術感情、道徳政治運営を、ウオの次元で扱うからいろいろあってもいいなどということになります。
しかし現実にはいろいろな意見の正反合、演繹帰納で発展していくようです。論議闘争を煽るものもあります。手出しができなくなると、いかなる意見も認めたい、というように衰弱した悟りのような言葉も出てきます。
確かにそれなりの出所があると認めるのは必要なことですが、そこから出て来る考えは自我に執着しただけのものです。もしそれらを全て総合するというのなら意味のあることです。そうでなければ誰でも自分の意見は言っても良いというだけのことで、個別の意見はその人の範囲内に修めておけばいいとおもいます。
いかなる考えも認めるというのは、欲望五感産業経済、知識経験概念記憶の世界では不可能です。誰でも自分で考えたことは最高になり自分の所有物になります。反対されれば不満を抱き、相手を殲滅しようとさえします。相手を認めるのは同調できる部分だけです。
いかなる考えも認めるというのは次の次元である宗教芸術感情の世界で花開くものです。モーゼをキリストが、キリストをモハメッドが継承していくようにです。画家は同じ花をみても同じ絵画を残しません。異なった表現を認め合います。ところが知識経験はそれを許しません。
子を育てるお母さんたちもそれぞれ一人一人違いますが、全てのお母さんたちはそれぞれの母親を認めています。そこには学問の世界のように醜い争いはありません。育児法の違い感情の持ち方の違いは当然でお互いに受け取り与え合うようにしています。
終末を迎えた後のスサノオのロードマップはわたしには分かりませんが、五十音図を参考にして多少書いてみましょう。
現在社会は神道で言う金木(音図あいうえお五十音のこと)の最終段階近くのら行にあります。ラ行は全て止めども無く動くことに関連しています。その元となるのは五感感覚からする欲望ですので、欲望のなすがままに、科学技術の発展の上に乗って極まることがありません。企業の目標などを見ると、目的を到達してその到達された目的が発端になるといった有り様です。
そこで起きるだろう終末とは、結果が自分のものにならないということでしょう。どのような高度な結果を出しても成果となって全て他人他物となっていくでしょう。それはラ行の言霊ラ、天の狭土の神、言霊ロ、天の狭霧の神の性質であることから来ています。( 狭土は他人のために注意を喚起し起こす、狭霧は他人のために切り開き起こしたものを提供する。古事記では音が耳に届いて鼓膜を槌で打つこと)
ここで二つの方向から新しい自覚が始まります。一方は受け取る側、他方は提供していた側です。ここで天照の仲介によって両者が合意に達する、あるいは一方的かもしれませんが、わ行がきます。話による輪と和になります。(須賀の宮の主の名前が八つ耳の神、全ての意見を聞き取る働きとなっています。)
ここで話し合われることは資本主義的所有の崩壊、自覚と信頼を基礎にした所有になるでしょう。そうすると全生産物の位置づけが変わってきます。今まではめくらめっぽうあるものは全部得るあるだろうものも全部得るだったものが、自覚した分だけ得るになっていくでしょう。
自覚による所有意識が浸透するにはそれなりの生産の運用が保障されていかなくてはならないでしょう。現代の技術力に問題はないでしょう。それは必然的に貨幣価値の前に拝跪することがなくなります。
ここら辺で終わりましょう。最後にわたしは古事記をウとオの次元を超えてアの次元で見ているのでしょうか。
とんでもありません。まだです。
それどころか、さらにもっとその上のエの次元、イの次元で見るものです。
父韻対応表。。こころの創造原理、こころの原論の古事記。
精神世界のあんちょこです。
●梅
梅花破雪香 梅花(ばいか)雪を破って香(かんば)し
天の御中主の神(言霊ウ)
日本の古代人は、梅という花を、ちょうどなんにもない宇宙のなかから人間の意識がスッと出てくるときに例えて、「言霊ウの芽」で「ウメ」と名づけたのです。言霊のウが芽を出した。こういう意味です。
ウの芽ですから、何もないところ(天地の初発の時高天原に)から人間のウという意識が生まれはじめた(成りませる神の御名は)とき、それを天の御中主の神(言霊ウ)と太安万侶さんは謎々にしたんです。
●淡路
余坐聴松風 余坐(よざ)に松風(しょうふう)を聴く
その次の瞬間、次に出てくる神様は、高御産巣日(タカミムスビ)の神・言霊ア、神産巣日(カミムスビ)の神・言霊ワです。ウからアとワに分かれます。
何かわからないがフッと見たときは、自分とそのものとがまだ一体であって、分かれていない。これを禅宗では「一枚」と申します。それは人間の宿命なんです。分かれないと分からない。
この消息は、人間が居て初めて現象が起こるということ。松風とは松の葉は「人」のように二つに分かれているところから。
●今ここ
この時が今であり、この所が此処(今・此処即中今)である。この宇宙の一点に於ける人間意識の芽生え、これを言霊ウという。古事記神名は天之御中主の神である。
次に宇宙の一点に芽生えたものが何か、の心が起る。と同時に一瞬にして言霊ウの宇宙は言霊アとワ(高御産巣日の神と神産巣日の神、主体と客体、私と貴方)の二つの宇宙に分れる。
この一つの宇宙から二つの宇宙に分れる事を宇宙剖判と呼ぶ。分かれる前の言霊ウは未剖の一枚(禅宗)であり、分かれた後の言霊アとワは剖判した二枚である。次の意識の段階で言霊アの宇宙から言霊オとエの宇宙が、言霊ワの宇宙から言霊ヲとヱの宇宙が剖判して来る
●剣
今日は剣を解説してみよう。物を切るだけに働く刃物は刀(かたな・片名)という。剣には切ると同時に、その切ったものを繋げる働きの意がある。剣とは連気(つるぎ)である。
切って分析したものを再び統合して元の全体に返すことによって物事の道理を掴むこととなる。人間の心の問題として見る場合、切ったものを総合して元に返したということは、単にバラバラにしたものを一つにくっつけた事ではない。
分析して部分部分の仕組を明らかにし、その上でその物事自体が人間の文化にとってどのように役立つか、を考えながら総合したことである。言霊オ「天の常立神」の分析は自然に対する調査であり、言霊エ「国の常立神」の総合は人間の文化活動である。
●国の常立神Ⅲ
日本書紀は書物の冒頭から国常立尊を説く。つまり言霊エである。
言霊エは言霊ウ(欲望)・言霊オ(経験知)・ア(感情)の三つの母音性能をコントロールして社会文化を創造して行く道徳・政治の活動の能力である。
他の三つの性能をコントロールして文化を創造する、という以上、その三性能についての全ての構造や機能等人間の心の全部について理解し尽くした立場に立つ事が出来て初めてそのことが可能となるであろう。
●言霊ヲ
「先生は私の理論に負けて答えてくれない」と言う。私は常々言っている事は「私の考えは一つもない」ということ。皇祖皇宗が言っていることを自分の心に照らし合わせて、これは真実だと確信したことだけをただお伝えしているだけで。私はこう思うと言ったことはありません。彼等にはその意味が理解できない。それは仕方がないことなんです。言霊ヲは宇麻志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。全部に引っ付いてしまってどこまでも触覚を伸ばす。
老子を間違っているという根拠はどこにあるんでしょうか。どうにもならんことでしょう。そういう質問をやたらとぶつけてくる。言って何になるんだっていうようなこと。世界の経綸に関係した、いわゆる聖者の言ったことを自分の儚い知識でもってそういうように判断して、それで自分を主張する。考えてみれば悲しい事、気の毒な事ではありますが、気が付かないのでしょうね。
そうかといって、辞めろといっても辞めないのですから。オの次元は何でも言いたい。自分が主張しないと自分がいなくなってしまうのではないかのように思う。そういう方には何も言わないのがよろしいです。何を言ってもつかかってきますから。自分が自分の因縁に翻弄されているハムスターと同じ。
●父韻
『 次に成りませる神の名は、宇比地邇(うひぢに)の神。次に妹須比智邇(いもすひぢに)の神。
次に角杙(つのぐひ)の神。次に妹活杙(いくぐひ)の神。
次に意富斗能地(おほとのぢ)の神。次に妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。
次に於母陀流(おもだる)の神。次に妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。 』
上記八神は、
『 次に竺紫(つくし)の島を生みたまひき。この島も身一つにして面四つあり。面ごとに名あり。
かれ竺紫の国を白日別(しらひわけ)といひ、
豊の国を豊日別(とよひわけ)といひ、
肥(ひ)の国を建日向日豊久志比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)といひ、
熊曽(くまそ)の国を建日別(たけひわけ)といふ。』
竺紫(つく・し)・シ(イ段)につくす。シは太祝詞音図タカマハラナヤサの最後、隠された忌柱(心の御柱、伊勢神宮)の一番下。
『 身一つにして面四つ』は身ひとつにしてが父韻で、面四つが対になっている上記八神のこと
竺紫(つくし)の島の領域を指していて、それぞれ以下のように対応しています。
○豊の国 豊(トヨ)日別 (タ行とヤ行の暗示) →竺紫(つく・し)・し(イ段)につく→言霊チと言霊イ
(8)宇(ウ)比地邇神(ひぢに)・ 言霊チ (ウ) 全体性の主体側、陽、能動、夫、作用側
(9)妹須(ス)比地邇神(ひぢに) ・言霊イ (ウからオへ) 全体性の客体側、陰、受動、婦、反作用側
○熊(クマ)曽の国 建日別 (カ行とマ行の暗示)→言霊キと言霊ミ
(10)角杙神(つのぐひ)・ 言霊キ (オ) 組み混ぜる主体側、陽、能動、夫、作用側
(11) 妹生杙神(いくぐひ) ・ 言霊ミ (ヲからヱへ) 組み混ぜる客体側、陰、受動、婦、反作用側
○竺紫の国 白(シラ)日別 (サ行とラ行の暗示) →言霊シと言霊リ
(12) 意富斗能地神(おほとのぢ)・ 言霊シ (エ)付き従う主体側、陽、能動、夫、作用側
(13)妹大斗乃弁神(おほとのべ) ・言霊リ (ヱからアへ)付き従う客体側、陰、受動、婦、反作用側
○肥の国 建日向日豊久志比泥(ヒネ)別 (ハ行とナ行の暗示) →言霊ヒと言霊ニ
(14)於母陀流神(おもだる)・ 言霊ヒ (ア)表面に拡がる主体側、陽、能動、夫、作用側
(15) 妹阿夜訶志古泥神(あやかしこね)・言霊ニ (ワからウ、スへ)表面に拡がる客体側、陰、受動、婦、反作用側
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眼の付けどころの一つは、(8)宇比地邇神・の「う」と(9)須比地邇神の「す」です。ウ-スの言霊循環。
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父韻の働き
(チ) 宇比地邇の神とは心の宇宙がそのまま現象として姿を現す動き、となります。
言霊父韻チとは「人格宇宙全体がそのまま現象として姿を現わす端緒の力動韻」であり、
(イ) 須比智邇とは「須(すべからく)智に比べて邇かるべし」と読まれ、一度決意して身を捨てて飛び込んだ後は、その身を捨てた無我の境地が持続し、その人の人格とは日頃の練習の智恵そのものとなって働く、
父韻イとは「父韻チの瞬間力動がそのまま持続して行く力動韻」という事が出来ましょう。
(キ) 角杙の角とは昆虫の触覚の働きに似た動きを持つ韻と言ったらよいでしょうか。
「古事記と言霊」の父韻の項で、この父韻の働きを「心の宇宙の中の過去の経験、または経験知を掻き寄せようとする韻」と説明してあります。
(ミ) 妹生杙(いくぐひ)の神・どんな人にどの様に自分を売り込んだら良いか、その働きの最重要なものが言霊ミであります。言霊父韻ミとは、自分の心の中にある幾多の人々と、如何なる関係を結んで関心を高めて行くか、相手の心と結び付こうとする原動韻即ち父韻ミが重要となります。
(シ) 意富斗能地は大きな斗(はかり)の働きの地と読めます。物事を判断し、識別する大いなる能力の地という訳です。
(リ) 大斗乃弁とは大いなる計りの弁(わき)まえと読めます。
意富斗能地と作用・反作用の関係にある事から、心の中にある理論から外に向かって発展的に飛躍していく働きと考えられます。
(ヒ)。於母陀流(おもたる)の神・面足とは心の表面に物事の内容表現が明らかに表わされる力動韻という事が出来ます。
(ニ) 妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神・ この心の奥に一つの事の原因となるものが煮つめられて行く力動韻、これが父韻ニであります。
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(チイキミシリヒニ)の順列は大自然そのままの心の音図となる。伊耶那岐、伊耶那美、言霊イ、ヰのあ後で父韻の使用法に挑戦してみたい。急ぎの方は一言メッセージ欄から入って、本物と対話してください)
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父韻の並び
反省する時に父韻を自覚するには、何故人を批判する心が起こってしまったのか、起こしてはいけないと思っているに起こって、自分の意思と関係なく宇宙と結びついてしまったキ(角杙神)・ミ(生杙神)であることがわかる。
よく人の名前を思い出せない時、なんかの拍子にひょいと思い出す“ヒ”の於母陀流神、思い出すまで心の中で誰だったっけ、もやもやしている妹阿夜訶志古泥神の“ニ”、それ以上は捉えることが出来ないのですから。
分からないのは八つの父韻の並び方で次元が違ってきますでしょ、俳句や和歌を捻った時に自分の心の並びがアの父韻の並びア・タカラハサナヤマ・ワと並んでいるか、それぞれの次元の現象の父韻の並びを観れば、それに対してどのように答えればいいかが自ずと分かってくる。
高天原へとどのような言葉をかければ引き上げることが出来るか、それが大直毘、神直毘、伊豆能売である言葉が分かってくる。必ず反省でもって、アとワの前にはウがあって、その前には宇宙があるんだよ、を言い聞かせておけばいい。
分かれていることを意識できないのですから、でも実際は分かれている、でも分かれていないということを知っておればいい。