その島に天降りまして、天之御柱を見立て八尋殿を見立てたまひき。
天之御柱とは人が自らの主体である言霊母音アオウエイの次元を自覚し、確立した姿の事を言います。この主体の柱に対して客体であるワヲウヱヰの半母音の畳わりの姿を国之御柱といいます。この主体と客体との二本の柱で示される宇宙の実在の有り様に二つの場合があります。この事は先にお話した事でありますが、二本の主体・客体の柱が合一した絶対の実在として心の中心に一本となって立っている場合と、相対的に二本の柱が主体・客体の対立として立っている場合とがあります。この二本の柱は一切の現象がここより生れ、またここに帰って行く宇宙の根本実在であります。
八尋殿とは文字通り八つを尋ねる宮殿の意です。宮殿と申しましたのは、心を形成している典型的な法則を図形化したものだからです(図①②参照)。この二つの図形のそれぞれの八つの間に八つの父韻チイキミシリヒニが入ります。この図形は基本数である八の数理を保ちながら何処までも発展します(図③参照)。そこで八尋殿を一名弥広殿とも呼びます。
天之御柱(国之御柱)と八尋殿を以上の如く説明して置いて、この文章の始めにある「その島に天降りまして」の意味について考えてみましょう。「古事記と言霊」の講座が始まってから前号までの話はすべて人間の心の先天構造即ち意識で捉える事が出来ない部分の説明でありました。そして今号より後天子音を生む話に移って来たわけであります。十七個の先天言霊が活動して、現象子音である淤能碁呂島が出来ました。「その島に天降りまして」とは岐美二神が先天の立場から己れの心を形成している三十二の子音の場所である後天の立場に降って来た、という意味であります。その後天の立場から見て、先天と後天を合わせた宇宙の構造を頭の中で図形を画いて見る状態を文章にしているというわけであります。すると、此処の文章は次の様に解釈することが出来ましょう。
「舌を使って八つの父韻チイキミシリヒニを働かせて、四つの母音エアオウの宇宙を撹き廻してみると、現象子音が生れて来ました。その音のそれぞれが自分の心を構成しているそれぞれの部分の内容を表現している事が分かって来ました。そこで今度は自分の心の部分々々の立場(淤能碁呂島)に立って全宇宙を見ると、自らの心の中心に宇宙の実在であるアオウエイ・ワヲウヱヰの柱がスックと立っている事が確認され、またその柱を中心として八つの父韻の原理に則して後天世界の構造が何処までも発展・展開している事が分って来たのでした(図④参照)。
天之御柱と八尋殿について世界の各宗教に於て種々説明されています。天之御柱の事を神道に於ては神道五部書に「一心之霊台、諸神変通の本基」とあり、伊勢神宮では心柱または御量柱(みはかりばしら)、また忌柱と呼んで尊ばれ、内外宮本殿床中央の真下の床下に約五尺の角の白木の柱によって象徴として安置されており、仏教に於ては単的に古い寺院にある五重塔で示されています。ここでは天之御柱と八尋殿について易経との関係をお話することにしましょう。
中国の易経という本の中に河図・洛書という言葉が出て来ます。その文章を引用すると「河、図を出し、洛、書を出して、聖人之に則る」とあります。この文章だけでは何の事かお分かりにならないでしょうから、説明を加えます。「河図」とは辞書に次の様にあります。「伏羲の世、黄河に現れた龍馬(りゅうめ)の背に生えている旋毛(つむじ)に象取(かたど)ったという文様のこと。」また「洛書」とは「太古、中国で禹王が洪水を治めた時、洛水から現れた神亀の背中にあったといわれる九つの文様。書経中の洪範(こうはん)九畴(ちゅう)はこれに基づいて禹が説いたものという」とあります。
この様に辞書の文章を引用しても尚お分りにならない事と思います。そこで河図と洛書を易経は如何に表わすかを図で示して見ます。ズバリ申上げますが、河図は天之御柱を数の図形で、洛書は八尋殿を数学の魔方陣の形で示したものなのです。
日本の古文献竹内歴史には「鵜草葺不合王朝五十八代御中主幸玉天皇の御宇(みよ)、伏羲(ふぎ)来る。天皇これに天津金木を教える」と記されています。天津金木とは言霊原理の中の言霊ウ(五官感覚に基づく欲望)を中心に置いた五十音図の法則の事を謂います。天皇は伏羲に天津金木音図そのものを授けず、その法則を中国の言語概念と数の原理に脚色して授けたのでした。伏羲は故国に帰り、この法則を基礎として「易」を興したと伝えられています。中国の書「易経」には「伏羲が始めて八卦を画し、文王が彖辞(てんじ)を作り、周公が爻辞(こうじ)を作り、孔子が十翼(よく)という解説書を作った」と記されています。この様な易学の発展の途上で、日本並びに世界の文明創造上の方針の転換が実施され、天津金木を含む言霊の原理は世の表面から隠没することとなりました。その結果、易の起源が日本の言霊原理であることも秘匿されました。従って易の起源は空想的な事柄に設定されたのです。そこに現れた物語が「伏羲の世、黄河に現れた龍馬の背に生えている旋毛に象取って河図(かと)の法則を考案し、また禹王が洛水から現れた神亀の背中にあったといわれる九つの文様から洪範九畴の洛書を説いた」というおとぎ話となった訳であります。
「中国文化五千年、わが国の文化二千年」という言葉が常識となった今日、日本の言霊学と中国の易経との関係を右の様に書きますと、読む人によっては「何を迷事(よまいごと)を言って」とお笑いになるかも知れません。けれど前にも述べました如く言霊学の天之御柱・八尋殿は共に物事の実相の究極単位である言霊によって組立てられているのに対し、中国の河図・洛書は実相音の指月の指あるいは概念的説明である数理によって表わされています。どちらが先で、どちらが後なのか、は自(おの)ずから明らかであります。この一事を取ってみましても、日本国の紀元が今の歴史書の示す高々二千年なるものではなく、世人の想像も及ばない程太古より始まっている事、またその時代に行われていた国家体制が人類の精神的秘宝である言霊原理に則って行われていた事、また今より二千年前、神倭朝十代崇神天皇の御宇、皇祖皇宗の世界文明創造という遠大な計画の下に、この言霊原理が政治の原器としての役割の座から一時的に故意に隠される事になったという事実に思いを馳せる事が出来るでありましょう。
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「古事記と言霊」の書には、子音創生の章の中に「思うと考えるという事」なる一節が挿入されています。これについて簡単に解説を加えることにしましょう。現代では「思う」と「考える」とはほとんど同じ事と考えられています。しかし日本語の原点である言霊学から見ると「思う」と「考える」という事は違った意味を持つ事になります。「思う」とはその文字に見られますように田の心の事です。これだけでは言霊学との関りは分りませんが、田という字の意味を説明しますと、明瞭になって来ます。この講座が先に進み言霊五十音を使って人間の各次元の心の構造を表わす段階に入りますと、縦五音・横十音の五十音図が出来上がります。これを昔田と呼びました。それは人間の心のすべて、即ち人格全体を表わします。「思う」という人間の心の動きの内容はこの田の心という事で明らかに示されます。「思う」とは、人間の精神構造はそれを知ると否とに関らず、厳然と決まったその構造の法則が存在し、その法則から物事の結論は必然的に導き出されるという心の働きの事です。一を知っていれば十は自ずから導き出される、という哲学で謂う演繹法のことです。この心の働きは図形で表わされ、その動きの数霊は四または八であります。
「考える」の語源は「神帰(かみかえ)る」です。種々の出来事を観察し、それらの現象が出て来る共通の原因(神)を突き止める(帰る)の意です。十から元の一に帰るやり方です。これは哲学で帰納法と呼ばれます。その心の働きは図形で示され、その動きの数霊は三または六です。
この「思う」と「考える」の二つの心の動かし方は、人間の頭脳内に於ても、また人類の歴史の上でのこの三千年間は共に相容れることなく平行線をたどり、歴史創造の主導権を競い合って来ました。地球上の地域は「思う」は主として東洋に於て、「考える」は西欧に於て発展しました。今、ここに日本から第三の思考法、言霊布斗麻邇が昔の姿そのままに復活を遂げました。その数霊は五または十であり、その言霊的意味に於ても、また数霊的意味に於ても、「思う」(宗教)と「考える」(科学)の双方の心の働きを共に生かしながら人類の福祉のためにコントロールすることが出来る精神機能を発揮させる時が来た事を教えてくれます。