天の御中主(あめのみなかぬし)の神
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ひふみ神示 補巻 月光の巻 第四帖(791) 昭和三十三年十二月二十五日、旧十一月十五日(1958年)
あめのみなかぬしのかみのそのまへに、あめゆづる日あめのさぎりのみこと。くにゆづる月、地のさぎりのみことあるぞ。ののであるぞ。その前にあることわするるなよ。
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時空間(タ)とエネルギー(カ)の交点が後述の「マ」(間・真)であり、この原点を高天原(タカマハラ)という。タカマハラとは常に「今」の中に生きている。
「カ」はチカラ、エネルギーと前節で解説した。「力」、「(結)果」、「化」、「可」、「火」などから状態変化の様相が読み取れよう。
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ウ・天御中主大神は空間と、エネルギーとを結合し進化させ大調和なさしめる宇宙秩序大原理とみえる。
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ア:
吾・天、、高御産巣日(たかみむすび)の神。 言霊ア、。
広い宇宙の一点に何か分からないが、ある事の始まりの兆しとも呼ぶべきものが生れます。それに対し太安万侶は天の御中主の神という神名を付けました。言霊ウです。次にそれが何であるか、の問いかけが人の心に生じる途端に、言霊ウの宇宙は言霊アとワの両宇宙に分かれました。安万呂はその両宇宙に高御産巣日の神、神産巣日の神の名を付しました。言霊ウの宇宙が言霊アとワの両宇宙に分かれる事は、意識の対象として、即ち現象として捉え得る事ではありません。飽くまで心の中の実在の活動であり、意識によってではなく人の内観・直観によってのみ捉える事が出来る事でありますので、これを宇宙剖判と申します。剖判の剖は「分れる」であり、判は「分る」です。
何もない心の宇宙に初めて言霊ウが生れ、それが剖判して言霊ア(高御産巣日の神)と言霊ワ(神産巣日の神)が生れて来ますが、このアとワは一方は積極性の我であり、主体であり、片方は消極的な客体であり、貴方であることがお分かり頂ける事と思います。この私と貴方、主体と客体が感応同交をすることによって何かの出来事が生れます。現象が起ります。即ち現象である子音が創生されることとなりますが、この主体と客体の感応同交に於てイニシアチブを取るのは飽くまでも主体アであり、客体ワは主体アの問い掛けに答えるだけであります。
メ・
妹(いも)速秋津比売(ひめ)の神
言霊メ 水戸とは港の事であります。速秋津とは速くすみやかに、あきらかに渡す、という意味です。頭脳内の細い川のような所を通って先天の意図が一つのイメージにまとまって来て、終に川から海のように広い口腔に達し、そこが港、それから向うは海となります。言霊ケ、メはイメージが言葉に組まれる直前の集約された姿のことです。この明らかにイメージとしてまとまったものも霊と体、主体と客体を分け持っております。言霊ケは気であり、主体であり、また霊であります。言霊メは芽、目で客体であり、体であります。
言霊メは女(め)・目(め)・芽(め)・姪(めい)・飯(めし)・恵(めぐむ)・廻(めぐる)・召(めす)・雌(めす)・捲(めくる)等に使われます
ノ・
宣・能・祈、言霊宣り聴き治る、、天の闇戸の神。 言霊ノ、
闇戸(くらど)とは文字通り「暗(くら)い戸」で、耳の中の戸、即ち聴覚器官の事でありましょう。耳の中へ入り込んで行った言葉はこの闇戸に当って、そこで更めて復誦されます。言霊ノネは「宣(の)る音(ね)」に通じます。ここでも天の闇戸は霊を、国の闇戸は音を受け持ちます。闇戸で復誦されることによって空中を飛んで来た神名が再び真名に還元されて行きます
「ノ」は「野」、「宣」、「乗」、「祈」でココロを広く波に乗せる所作。天之闇戸(クラト)神は言霊の宣りを聞いてかつ治まるを担当する。カタカナの「ノ」のカタチは滑り落ちるという意象で純正な波動が、形を創作していくとでも言いえようか。
言霊ノは宣(のる)・退(のく)・乗(のる)・野(の)・軒(のき)・残(のこる)・除(のぞく)等に
ミ・
妹活杙(いくぐひ)の神。
言霊ミ。昔、神話や宗教書では人間が生来授かっている天与の判断力の事を剣、杖とか、または柱、杙などの器物で表徴しました。角杙・活杙の杙も同様です。言霊キの韻は掻き繰る動作を示します。何を掻き繰る(かきくる)か、と言うと、自らの精神宇宙の中にあるもの(経験知、記憶等)を自分の手許に引寄せる力動韻のことです。これと作用・反作用の関係にある父韻ミは自らの精神宇宙内にあるものに結び附こうとする力動韻という事が出来ます。
人は何かを見た時、それが何であるかを確かめようとして過去に経験した同じように見える物に瞬間的に思いを馳せます。この動きの力動韻が父韻ミです。またその見たものが他人の行為であり、その行為を批判しようとする場合、自分が先に経験し、しかもそういう行為は為すべきではないと思った事が瞬間的に自分の心を占領して、相手を非難してしまう事が往々にして起ります。心に留めてあったものが自分の冷静な判断を飛び越して非難の言葉を口走ってしまう事もあります。これは無意識にその経験知を掻き繰って心の中心に入り込まれた例であります。
ナ・
(凝縮)、成・納・名、言葉の飛び交い、、鳥の石楠船の神、またの名は天の鳥船
言霊ナ 鳥の石楠船の鳥は十理(とり)の意で、五十音図の母音アと半母音ワとの間に八つの父韻が入って現象子音を生みます。母音・八父韻・半母音合計十の道理で現象が起るのは、主体と客体との間を鳥が飛び交うのに譬えられます。石楠船(いはくすふね)とは、五十葉(いは)である五十の言霊を組(く)んで澄(す)ます(楠)と五十音言霊図が出来上がること。船とは人を乗せて渡す乗物。言葉は人の心を乗せて渡す乗物。そこで鳥の石楠船の神とは「言霊の原理に則って五十音言霊図上で確かめられた言葉の内容」という意味となります。天の鳥船とは「先天(天)の十の原理(母音・八父韻・半母音)の意図(鳥)を運ぶもの(船)」となり、鳥の石楠船と同じ意味となります。
「ナ」は「成」、「名」、「納」。その真意はエネルギーの凝縮であり、鳥之石楠船神の属性は、鳥(言霊)飛び交い、香木の舟木に宿るの意。
言葉が耳に入り、復誦・検討され、煮つめられて「あゝ、こういう意味だったのだ」と了解されます。その了解された意味・内容が名(言霊ナ)であります。昔より「名は体をあらわす」と言われます。言葉が名となった事で内容は確定し、私と貴方との間の現象(子)が了解された事となります。言霊ナは言霊コの内容という事です。
言霊ナは名(な)・成(なる)・馴(なれ)・萎(なえる)・泣(なく)・治(なおる)・汝(なんじ)・七(なな)・魚(な)・菜(な)・字(な)等に用いられます。
カ・
(開動)、力・果、言霊の判断/分析、、大戸惑子の神。
言霊カ、 耳の孔に入って来た言葉は復誦され、次にその意味・内容は「こうかな、ああかな」と考えられます。掻(か)き混(ま)ぜられ、次第に煮(に)つめられます。煮つめの道具を釜(かま)と呼びます。この作業で言葉の意味・内容が明らかにとなり、有音の神名は完全に真名に還ります。大戸惑子の神は霊を、大戸惑女の神は音を受け持ちます。
言霊カは掻(かく)・貸(かす)・借(かりる)・金(かね)・返(かえす)・刈(かる)・神(かみ)・囲(かこむ)・考(かんがえる)・柿(かき)等に
ヌ・
貫・野・沼、波動の伝わり展相、、野の神名は鹿屋野比売(かやのひめ)の神、またの名は野槌(のづち)の神
言霊ヌ 鹿屋野(かやの)の鹿屋(かや)は神(かみ)の家(いえ)の意です。これを神名(かな)と呼びます。佐渡の島の真名が口で発声されて神名となり、空中を飛んで大山津見の言葉となり、山が裾野(すその)に下って来て鹿屋野の野に着いた、という太安麻呂独特の洒落であります。野に到って、そこで人の耳に聞かれることとなります。耳の鼓膜を叩くので野槌(のづち)の神と付け加えたのでしょう。
「ヌ」は「貫」、「縫」、「沼」に表現されるが、時空間の展相・貫きを意味する。沼は集中の意味である。水の集中、気の集中である。鹿屋比売神が言霊「ヌ」、波動の伝わりを支配する。
言霊ヌは貫(ぬ)・野(ぬ)・縫(ぬう)・抜(ぬく)・額(ぬか)・糠(ぬか)等に使われます。
シ・
意富斗能地(おほとのぢ)の神。妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。
言霊シ、リ。父韻を示す神名の中でこの父韻シ・リの神名からその父韻の内容を理解することはほとんど不可能に近いと思われます。意富斗能地は大きな斗(はかり)の働きの地と読めます。物事を判断し、識別する大いなる能力の地という訳です。人はある出来事に出合い、その事を判断・識別する事が出来ず迷う事があります。あゝでもない、こうでもないと迷いながら、次第に考えが心の中でまとめられて行きます。そして最後に迷いながら経験した理が中心に整理された形で静止し、蓄積されます。蓄積される所が心の大地という訳です。この働きから学問の帰納法が生れて来るでありましょう。
「シ」は「支」、「仕」、「志」、「知」の漢字に言霊のルーツを見るが、仕え徹するというココロの確認である。下津磐根の{S}の波動は純正である。
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以上全部引用だけ。
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「高天原に成りませる神の名(みな)は、天の御中主(みなかぬし)の神。」
神話の中で高天原という言葉は種々の意味に使われています。しかし此処に出る高天原は、神話が始まって間もない時で、まだ何も分かっていないことでありますので、「広い広い心の宇宙の何も起こっていない処」の意と解釈するのが妥当と思われます。
「成りませる神の名は、」の「成る」を文章通り神様の名前と解釈しますと、「成る」の字が妥当となり、言霊の教科書だから、と考えますと、「鳴る」の字が当てはまると思います。
次に「天の御中主の神」の意味を考えてみましょう。「天の」は「心の宇宙の」の意であることは容易に分かります。次が問題です。
「御中主」とは、文字通りにとりますと、「まん中にいる主人公」の意となります。何もない宇宙の中に何かの意識とまでは行かない、かすかな何か分からないものが出現しようとしました。そして宇宙は広い広いものですから、その何処に位置しましても、初めて生れ出た処が宇宙の中心と言って間違いではありません。
としますと、「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、天の御中主の神」の全部を、意識で捉えることが出来ない先天の心の動きとして表現しますと「何もない広い広い心の宇宙のまん中に、初めて何かが起ころうとする、目には見えない心の芽が生まれる宇宙」ということになります。
やがてはこれが人間の自我意識に育つこととなる芽であります。そしてこの「天の御中主の神」という神名に、宮中賢所秘蔵の言霊原理の記録は「言霊ウ」と名付けたのであります。
言霊ウに漢字を附しますと「有(う)」、「生(う)」、「産(う)」、疼(うずく)、蠢(うごめく)等となります。
古事記神話の冒頭の文章をもう一度書いてみます。「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、天の御中主の神」です。これが直ちに「広い、何もない宇宙の真中に、初めて何かが起ころうとする、そしてそれはやがて自我という意識に育って行く、その元の宇宙」となる、とどうして言うことが出来るのか。まるでこじつけではないか、と思われる方もいらっしゃるかも知れません。そのことについて少々申上げることにしましょう。
仏教の禅に「指月の指」という言葉があります。「あれがお月様だよ」と指差す指のことです。いくら指を凝視しても何も分かりません。指の指し示す方向をずっと見て、その方角の彼方にある真理に気が付くことです。その指し示している方向にある自らの心の真相を見つけることが肝要なのです。
古事記の神名はその案内役なのです。昔、呑み屋の客が酒を呑んで、「マダム、今日のはつけにしておいてくれ」と言います。貸しておいてくれ、という事です。マダムは帳面に酒代と名前と日付を書き込みました。月末までには精算するのが普通でした。そしてその帳面の表に「記」と書いてありました。記で「つけ」と読んだのです。古事記という字を改めて読んでみて下さい。「こじつけ」となるではありませんか。但し、ただの「こじつけ」ではありません。
古事記の編者太安万侶が、言霊学の真理を遥か後世の日本人に伝えるために仕組んだ、一世一代の後世の子孫に仕掛けた真剣勝負の賭(かけ)であったのです。人類の生命を賭けて、子孫に向って切った大見得であったのです。その意味で、古事記神話の神名はすべて指月の指であり、更に古事記神話全体が指月の指である、と申すことが出来ます。
もう一つ気が付いたことを申し添えることとしましょう。「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、……」とありますように、撰者太安万侶は神話を読む人に「天地の初発」とは「人間の心の、何も起こっていない宇宙から、今・此処に何かが始まろうとする時なのだ」ということを知っている、という前提で文章を説き起こしています。
でありますから筆者自身もこれからは、安万侶氏の意に添って解説を進めて行こうと思います。「人の心の真実の本体は精神宇宙そのものなのだ」ということの自覚・自証を伴いませんと、今後の解説は単なる情報「あっ、そういうものなのか」に終わってしまうことでしょう。
然しそれを越えて、自らの自覚・自証を伴った理解を確立なさる時、その学問は、それ自体が社会を、日本を、そして世界を動かす精神的原動力となって人類の第三文明時代の創造の行動の鏡となることでしょう。耳学問から実践のエネルギーの発動へ、関心のある方は御質問をお寄せ下さい。一問一答の中に光を見出して頂き度く存じます。
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天の御中主(みなかぬし)の神 ≪ひとの原始的な意識≫ 言霊ウ。
1-意訳
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≪心の宇宙の始めの時、心の世界に、揺り動かされ目覚めて最初に成立し始めようとするの心の姿を、ひとの原始的な意識といいます。≫
2-古事記
●
『天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、天の御中主(みなかぬし)の神』
3-テーマ
動きだした意識の今此処での一点、受精した卵のよう。
貼りつくこと。
宇宙の根源神とも言われる御中主の神を、「貼り付くこと」だなんていったら怒られそうですが、この貼り付くことが意識の中で起こらなければ何も無い。貼り付くは自分と対象の一体感を現すちょうどいい比喩となります。
その一体感の初めの時ということです。
一方貼り付くだけだと、後にわたしという意識の全体になっていくインパクトがないので、その衝動も含めなくては成りません。
4-言葉解説・指し月の指
天の」は「心の宇宙の」の意であることは容易に分かります。
「御中主」とは、文字通りにとりますと、「まん中にいる主人公」の意となります。
無理やり神名を分解することもないのですが、言霊大和言葉というのは単音が基本ですから、やはりどこで分離しても同じような意味になっていくようです。
天・あめ・・・心の宇宙
み・実、身・・・
な・成る、鳴る、泣く・・・
か・掻く、貸す、返す、輝く・・・
ぬ・縫う、貫く・・・
し・静まる・・・
心の宇宙の実相(ミ)が成りでて(ナ)心にかがやき(カ)、心を貫き通して(ヌ)事を達し落ち着く(シ)実体
続日本紀には「中今」とあるそうです。
な・か・・成り出てくる(ナ)輝き(カ)の
い・ま・・動きだした持続する意思の力動(イ)が、混ぜられ丸められる(マ)、今ここに始まる実体、
でょしうか。中と今と二つに分けて、下の読み、カとマ、を取るとかま、釜、になります。釜はもちろん物を煮詰め完成させいくもので、釜の中から出てくるものが完成品となります。
その釜の中をずーっと最初の時まで戻ると、貼り付くこと、感じたこと、思ったこと、閃いたこと等のその初めになります。
5- 省略部
その後やがては「わたし」という意識になり、わたしの活動、わたしの創造となるもの、言い換えれば現象となったわたしが全て省略されている形。
出番が無く記述されていないのは、意思そのものを表出できないことによります。しかし、全ての始めと持続していく過程の根源にあります。
6- 解説△○□
初めて神の名が出てきました。天の御中主(みなかぬし)の神といいます。
何かを感じた、何かを思った、その時の最初の意識です。閃き感じ思ってもその最初の出だしは何が何だか分かりません。閃いてしまったこと、感じてしまったこと、思ってしまったことではなく、それらの始めの時に注意してください。まだ何々だと言い出す以前の姿です。
言霊母音は【ウ】が配当されています。何故、ウ、なのかは、八千年前の時代に古代の大和の聖人たちの努力によって、意識の始まりは言霊ウであり、人の意識は五十の要素で、それぞれが単音として言葉と結ばれ、五十音の言霊で心を組み合わせて行けることが発見されました。
その組合わせの法則に則って創られたのが大和言葉で、その言葉によって創られたのが大和文化でした。日本は未だにその系統の中で発展しています。日本は言葉の原理=心の原則に則った構造をもった世界唯一の国なのはそのためです。日本語も国家も全くの自然発生性のないが無いため比較対象の無い構造となっているのは周知のことです。
この類まれなる言霊ウの適応から始まっているのが、現在の日本の全てです。天の御中主が言霊ウであることは、安万侶さんは古事記には書いていないのではなく、わざと隠したのです。
古事記冒頭の三貴子までの神を数えると百ですが、その半分の五十神で、古事記の話がうまい具合に前半後半に分かれているのです。その前半五十神の一つ一つに五十音が配当されています。これは頭で勝手に割り振ったのではなく、何代にもに渡る聖人たちの精神事業としてありました。
安万侶さんはこと必要があって天皇の命令で、発案は神武で実行は崇神、書き仕上げました。しかし、古事記には言霊五十音図の運用、適用法は暗示呪示で書いてあっても五十音との関係は記載しませんでした。近年、五十音と五十神との対応は明治天皇が賢処で発見され、その内容は皇室ではなく民間に伝わりました。書き物はまだ賢処にあるらしいです。
http://homepage2.nifty.com/studio-hearty/kototama_ver.1/
これは知識として、ホーそうですか、という問題ではないし、関心があるからやってみよう、勉強すれば分かるだろう、というものでもありません。勉強して考えれば理解できるといった巷の学問ではないので、やっても知識を得るためだけなら無駄なことです。
と言いながらわたしはせっせと無駄なことをやってきています。いつかストップせざるを得ないはめに陥ることでしょう。
(最近朝鮮文献の返還の話がありますが、ここから皇室の誰かが五十音との対応を記した書に気づくかもしれません。)
7- 凡例
天の御中主の神とは自分の意識の始めのことですから、例を見つけようとすれば自分のやることなすこと全てで、幾らでもあるのですが、こういうものは返って当たり前すぎて例として見えなくなっています。つまらない逃げ口上など止めろ。
意識の始めに眼がくらむという経験があるように、ものの始めには何もはっきりしていません。
上で今中に関して、釜のことを言いましたが、これを言霊カ、マで言うと、古事記の物凄さの一端がでてきます。それは言霊カ、マに配当された名前にあります。
引用すると。
大戸惑子(おほとまどひこ)の神。言霊カ。次に大戸惑女(ひめ)の神。言霊マ。
言霊カ、マ 耳の孔に入って来た言葉は復誦され、次にその意味・内容は「こうかな、ああかな」と考えられます。掻(か)き混(ま)ぜられ、次第に煮(に)つめられます。煮つめの道具を釜(かま)と呼びます。この作業で言葉の意味・内容が明らかにとなり、有音の神名は完全に真名に還ります。大戸惑子の神は霊を、大戸惑女の神は音を受け持ちます。
大いに戸惑うのが釜です。料理を作る場合など、出来上がる直前が大切です。それまではこうかああか、多すぎないか少な過ぎないか、と戸惑い掻き回し、出来上がり時間になったか、ここでいいかもう少しか、火を止めるかどうしようかと大いに釜の中を眺め困惑します。
この事情がちょうど意識の初めに相当します。相手対象とのコンタクトはあるもののはっきりしたものではない、見たことは見た、感じたことは感じた、手にしたことは手にしたが、その時は自分の意識は対象に貼り付いてはいても、なんであるかを明瞭にできないでいる。そういったほんの短い意識の流れる時間があります。この張りつき一体感があるが惑いの中にいる意識が、天の御中主です。
な・か・・成り出てくる(ナ)輝き(カ)の
い・ま・・動きだした持続する意思の力動(イ)が、混ぜられ丸められる(マ)、今ここに始まる実体、
始まりのその短い時間を説明すると、成り出てくる一体感、張り付き感がそのまま持続して自他を分けられず分からない困惑状態にいるということになります。自分が何したか相手が何だか分からない状態です。まずこういった状況があってことが始まります。
始まりの時はこれでいいことにして、言霊学は御中主を言霊ウとしています。始まりの直前の意識は【う】である事を体験しなくてはなりません。
山にいた猟師が突然目の前に開けた海を見ました。何かしなくてはいけない何かしようとして自分は何をしたいのかと一瞬反省が過る。パッと目の前に何かを見せられる。車窓に突如富士山を見る。大きいお腹、今日か明日かもうじき赤ちゃんが生れる。あっ、動いた。
以下引用。
「パッと目を開けたら変なものが前に落ちていた、パッと見た瞬間は分からない。
パッと見た瞬間が何であるか、分からないけれど、ここに何かある、それ以外は分からない、それが天の御中主の神という。偉くも何ともない。それを拝んでも何にもならない。
それなら見たもの全て拝まなければならない。だけどパッと見た瞬間、何かあるなという意識、言霊の学問を発見したニニギノミコトはそのことをよーく知っていて、その意識を天の御中主の神、言霊ウと名付けた。何かある、それ以外には有りえない、何かある。
何かわからないがフッと見たときは、自分とそのものとがまだ一体であって、分かれていない。これを禅宗では「一枚」と申します。それは人間の宿命なんです。分かれないと分からない。
誰だろう」というハッキリしない意識そのものが天の御中主の神(アメノミナカヌシノカミ)。どういうことになるのか、自分と相手に分かれる。」
8-注・・以下も引用ですが、ちと難しい。
「言霊の学問本来の考え方は人間は全て会う前から分かっている。
生命として宇宙として分かっている。会うということは既に結果なんです。始まりじゃない結果です。会ったということを心に受け止めておいて、それでどうしようかは次の問題に移る。
天の御中主の神というのは主人公なのです、でも、そのままに受け止めてしまったら獣と同じ。人間を足らしめているのは後の十六の先天言霊と三十二の言霊子音の運用によって三貴子の悟りが出来たときに初めて、‘ウ’という観念が有って然るべきと分かる。
‘ウ’が生を否定する死ではなくて、生きているそのものを認めることが出来る‘ウ’は、三貴子である天照大神、月読命、須佐之男命を自覚した時。それが何の矛盾もなく心に確認されたら、つまり、母音と数(かぞ)それに文字、が文明を創造する。」
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