精神元素「チ」の言霊と古事記。その1。
父韻全体の説明。引用だけです。引用元は一言メッセージ欄にあります。
①言霊チ。宇比地邇(うひぢに)の神。
❷言霊イ。妹須比智邇(いもすひぢに)の神。
③言霊キ。角杙(つのぐひ)の神。
❹言霊ミ。妹活杙(いくぐひ)の神。
⑤言霊シ。意富斗能地(おほとのぢ)の神。
❻言霊リ。妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。
⑦言霊ヒ。於母陀流(おもだる)の神。
❽言霊ニ。妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。
八神の名はすべて言霊父韻を指し示す神名であります。
古事記の初めから今までに現われ出ました神、天の御中主の神(言霊ウ)より豊雲野の神(言霊ヱ)までは言霊母音、半母音を示す神名でありました。
母音・半母音の宇宙は共に大自然実在であり、それが人間社会の営みの原動力となるものではありません。
高御産巣日の神(ア)と神産巣日の神(ワ)が噛み結ぶと言いましても、またアが主体、ワが客体と言いましても、そのアである主体そのものが客体に向かって働きかけを起こすことはありません。
実際に主体と客体とを結び、人間社会の中に現象を生じさせるものは大自然宇宙そのものではなく、飽くまで人間でなくてはなりません。
そうでなければ、人間自体の創造行為というものはなくなり、創造の自由もない事になり、人間は宇宙の中の単なる自然物となってしまいます。
人間という種が万物の霊長といわれ、神の子といわれる所以は、人間が自らの意志によって社会の中の文明創造の営みを行う事によります。
言霊母音・半母音を結び、感応同交を起こさせる原動力となる人間の根本智性とも言うべき性能、それが此処に説明を始める言霊八父韻であります。
この言霊の学の父韻に関して昔、中国の易経で乾兌離震巽坎艮坤〈けんだりしんそんかんごんこん〉(八卦)と謂い、仏教で石橋と呼び、旧約聖書に「神と人との間の契約の虹」とあり、また新約聖書に「天に在ます父なる神の名」と信仰形式で述べておりますが、これ等すべての表現は比喩・表徴・概念であって実際のものではありませんでした。
言霊学が完全に復活しました現在、初めて人間の文明創造の根源性能の智性が姿を明らかに現した事になるのであります。
言霊八父韻は、言霊母音の主体と、言霊半母音の客体とを結び、現象の一切を創造する原動力となる人間の根本智性であり、人の心の最奥で閃めく智性の火花であり、生命自体のリズムと言ったものであります。
その父韻を示す八つの神名の中で、一つ置きに「妹」の字が附せられています。それで分りますように八つの父韻は妹背、陰陽、作用・反作用の二つ一組計四組の智性から成っています。
以上、八神が次々に現われ出て来ます。そして更に同様な形で「次に伊耶那岐(いざなぎ)の神。次に伊耶那美(いざなみ)の神。」と続きます。続いて書かれていますから、前の八神と後の二神は同じ系列の神と思われ勝ちでありますが、実は関係は深いけれど、同じに取り扱うことの出来ない神々でありますので、後の二神は八神の解釈が終わった後に説明を申上げることといたします。
さて、新しく現出しました八神の名前を改めて御覧下さい。どれもこれもこんな名前の神様なんて本当にいるのかな、と思わざるを得ない奇妙な名前ばかりです。こんな名前を指月の指として持つ言霊とは一体どんな言霊なのであろうか、全く見当もつかないように思われます。
今までの講座で解説された母音言霊の神名は、説明をよく聞けば、「成程」と納得することが出来ました。けれど新しく現われた神名は、読んだだけでその想像を超えたもののように思われます。読者が本当にその様な感触をお持ちになったとしたら、その感触は正しいと申し上げねばなりません。
この八つの神名を指月の指とする八言霊――これを父韻言霊と呼ぶのですが――人類の歴史のこの二千年間、誰一人として口にすることなく、人類社会の底に秘蔵されていたものなのです。ですから、今、この謎を解いて「実はこういうものなのだよ」と申上げても、即座には頷き難いのも当然と言えましょう。
とは申しましても、言霊布斗麻邇の講座でありますから、奇妙だとか、難しいといっても、避けて通るわけにはいきません。これから言霊父韻というものの内容と働きについて、また父韻それぞれの働きについて出来る限り御理解し易いよう説明を申上げます。
「何故そうなるのだ」ではなく、「人間の心の働きの深奥はそのような構造になっているのか」と一応の合点をして頂くつもりでお聞き頂き度いと思います。勉学が進みます毎に言霊学の素晴らしさに驚嘆なさることになりましょう。
先ず父韻とは何か、を明らかにしましょう。それには一歩後に退いて、母音について少々お話しなければなりません。
今まで出て来ました母音宇宙を指し示す神名の後には「独り神に成りまして身を隠したまひき」という文章が続きました。「その宇宙はそれのみで存在していて、他に依存することなく、現象として姿を現わすことがない」と解釈しました。
その意味はまた、「自立独歩していて、それが他に働きかけることもない」とも受け取れます。母音宇宙自体が何かの活動をすることはないということです。
他に働きかけることをしない母音宇宙から現象は何故現れるのでしょうか。その現象発現の原動力となるものが父韻というものなのであります。
宇宙の剖判によってウの宇宙からア・ワ、オ・ヲ、エ・ヱのそれぞれの宇宙が現われます。
その剖判して来た母音宇宙と半母音宇宙とを結んで、そこから現象(子音)を生む原動力となるのが言霊父韻、チイ・キミ・シリ・ヒニの四組八個の父韻というわけであります。
父韻は働きでありますから陰陽があり、作用・反作用があります。そこで父韻は二つで一組、計四組で八父韻となります。
父韻とはどんなものなのでしょうか。譬えば頭脳中枢で閃く火花のようなものです。この火花が閃く時、母音と半母音宇宙を結び、現象を起こします。
昔のドイツ哲学がFunke(火花)注1。と呼んだのは多分この父韻の働きの事であろうと思われます。中国の易経で八卦と呼びます。仏教で八正道と呼ぶものはこの父韻を指したものと考えられます。但し、ドイツ哲学も、八卦も、八正道もすべて概念的名前であり、正しく八父韻を指したものではありません。呪示であります。
では八つの父韻は心の中の何処に位置しているのでしょうか。それはまだこの講座では説明していない言霊イとヰの次元宇宙に在って活動しています。
但し、言霊イとヰの宇宙についての説明がされておりませんので、父韻がそこに在ると申しましても、どのようにして在るのか、の説明の仕様がありません。それ故、父韻の占める心の位置の解説は後に譲ることといたします。
八つの父韻のそれぞれの働きについて解説しましょう。勿論、父韻は先天構造内の動きであり、五官感覚で触れることは出来ません。
ではどうするか、と申しますと、先ず父韻を示す神名を解釈すること、そして解明された神名の内容を指月の指として、筆者の研究体験をお話することとなります。読者の皆さまはこの話の中から活路を見出して頂きたいと思います。
(注1。)「父がすべての被造物を生み出したその時に、父はわたしを生み、わたしは、すべての被造物と共に流れ出で、しかも父の内にとどまっていた。」
「神が被造物すべてを創造したとき、それに先だって神は、すべての被造物の原型を宿す、造られざるあるものを生まなかったであろうか、生んだはずである。」
エックハルトはこの「造られざるあるもの」を「火花」(Funke)と呼んでおり、それは
「自らの内に被造物いっさいの原像を、像なき原像、像を越えた原像を宿している」と述べている。
原像を生んだ神は「その独り子を魂の最も高きところに生む。神がその独り子をわたしの内に生むとき、
同じ動きの中でそれを受けて、わたしはその独り子を父の内へと生みかえす。」
純粋な有たる神が本質的には神性という無であり、無という神性に徹した我が、最高の存在になるというのは、初発に無と有を峻別しながらも、無の貫徹に終わる境地である。
「生むもの」と「生まれるもの」は、一方が能動、もう一方が受動であるという以外は全く同じ一つの「生」であると言われる。
エックハルトは一切の神イメージを持つことから脱し、神と合一した自己をも捨てた究極の無を目指している。(注、ここまで)
チイキミシリヒニの八つの父韻がアオウエの四母音に働きかけて、言い換えますと、八つの父韻が母音と半母音四対を結ぶ天の浮橋となって三十二の子音言霊を生みます。
この子音言霊のことを実相の単位を表わす音と言います。父韻は母音(半母音)に働きかけて物事の実相の単位である子音言霊を生みます。
その子音が生れる瞬間に於いて、その子音誕生の原動力となる父韻の動きを誕生の奥に直観することが出来ます。
でありますから物事の実相を見ることが出来るよう自分自身の心の判断力を整理しておく事が必要なのです。心の整理とは心の中に集められた経験知識を整理して、少しでも生れたばかりの幼児の如き心に立ち返って物事の空相と実相を知る事が出来る立場に立つ事であります。
その時、実相を見る瞬間に、その実相誕生の縁の下の力持ちの役目を果たす八つの父韻の力動韻を直観することはそんなに難しい事ではありません。
最後に、ではその宇宙剖判を可能とする根本の原動力は何か。母音であり、また半母音でもあるもの、それでいて親音とも呼ばれる言霊イ・ヰと、その働きであり人間の根源智性である言霊チイキミシリヒニの八父韻である。これが人間の生の一切の根本原動力である。
精神元素「チ」の言霊と古事記。その2。
引用のみです。(引用先は一言メッセージ欄より入る)
古事記神代の巻冒頭百神によって与えられた「チ」の神名・ 宇比地邇(うひぢに)の神。 言霊チ
・神名の解。
「宇は地に比べて邇(ちか)し」
宇とは宇宙、いえ等の意味。人間の心の家は宇宙です
比地邇、人の心の本体である宇宙は地と比べて近い、
・神名全体の意味。
心の宇宙がそのまま現象として姿を現す動き、
・言霊「チ」の意味。
「人格宇宙全体がそのまま現象として姿を現わす端緒の力動韻」
生まれて今までの自分の経験を超えて、この世に生を受けた生命全体を傾けた誠意で事に臨もうとする心、この心を起こす原動力となる心の深奥の“火花”、これが父韻チであります。
心の宇宙全体を動かす力動韻
①言霊チ。宇比地邇(うひぢに)の神。
言霊チを示す神名、宇比地邇の神は「宇は地に比べて邇(ちか)し」と読めます。
宇とは宇宙、いえ等の意味があります。人間の心の家は宇宙です。
言霊アの自覚によって見る時、人の心の本体は宇宙であると明らかに分ります。するとこの神名は人の心の本体である宇宙は地と比べて近い、と読めます。
即ち心の本体である宇宙と地と同じ、の意となります。宇宙は先天の構造、地とは現象として現われた姿と受取ることが出来ます。
そこで宇比地邇の神とは心の宇宙がそのまま現象として姿を現す動き、となります。
太刀を上段に振りかぶり、敵に向かって「振り下ろす剣の下は地獄なり、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」と、まっしぐらに突進する時の気持と言えばお分り頂けるでありましょうか。結果は運を天にまかせ、全身全霊で事に当る瞬間の気持、この心の原動力を言霊チの父韻と言います。
言霊父韻チとは「人格宇宙全体がそのまま現象として姿を現わす端緒の力動韻」であります。
① 宇比地邇(うひぢに)の神・父韻チ
宇比地邇の神とは一つ一つの漢字をたどりますと宇は地に比べて邇(ちか)し、と読めます。けれどそれだけではまだ何のことだか分かりません。
宇を辞書で調べると「宇(う)はのき、やねのこと。転じていえ」とあります。いえは五重(いえ)で人の心は五重構造の宇宙を住家としていますから、宇は心の宇宙とも取れます。天が先天とすると、地は現実とみることが出来ます。
すると宇比地邇で「人の心の本体である宇宙が現実と比べて同様となる」と解釈されます。以上が神名の解釈です。
とすると、その指示する言霊チとは如何なる動きなのでしょうか。
ここで一つの物語をしましょう。ある製造会社に務める若い社員が新製品を売り込むために御得意先の会社に課長のお供をして出張するよう命じられました。自分はお供なんだから気が楽だと思っていました。ところが、出張する日の前夜、課長から電話があり、「今日、会社から帰って来たら急に高熱が出て明日はとても行けなくなった。君、済まないが一人で手筈通りに行って来てくれ。急なことでこれしか方法がない。頑張ってくれ」というのです。
さあ、大変です。お供だから気が楽だ、と思っていたのが、大役を負わされることとなりました。一人で売り込みに行った経験がありません。さあ、どうしよう。向うの会社に行って、しどろもどろに大勢の人の前で製品の説明をする光景が頭の中を去来します。夜は更けて行きます。妙案が浮かぶ筈もありません。寝床に入っても頭の中を心配が駆けずり廻っています。疲れ切ったのでしょうか、その内に眠ってしまいました。
……朝、目を覚ますとよい天気です。顔を洗った時、初めて決心がつきました。「当たって砕けろ。ただただ全身をぶっつけて、後は運を天に任せよう。」あれ、これの心配の心が消え、すがすがしい気持で出掛けることが出来たのでした。
向うの会社に着いてからは、想像した以上に事がうまく運びました。大勢の前で、自分でも驚く程大きな声で製品の説明が出来、相手の質問に答えることが出来たのでした。未熟者でも、誠心誠意事に当たれば何とか出来るものだ、という自信を得たのでした。
話が少々長くなりました。この若者のように、自分の未熟を心配し、何とかよい手段はないか、と考えても見つからず、絶望したあげく、未熟者なら未熟者らしく、ただ誠意で事に当たろうとする決心がついた時、人は何の先入観も消えて、広い、明るい心で事に当たる事が出来ます。
生まれて今までの自分の経験を超えて、この世に生を受けた生命全体を傾けた誠意で事に臨もうとする心、この心を起こす原動力となる心の深奥の“火花”、これが父韻チであります。
神名宇比地邇の宇(う)はすべての先入観を取り払った心の宇宙そのもの、そしてその働きが発現されて、現象界、即ち地(ち)に天と同様の動きを捲き起こすような結果を発生させる働き、それが父韻チだ、と太安万呂氏は教えているのです。
当会発行の本では、父韻チとは「宇宙がそのまま姿をこの地上現象に現わす韻(ひびき)」と書いてあります。ご了解を頂けたでありましょうか。
この父韻を型(かた)の上で表現した剣術の流儀があります。昔から薩摩に伝わる示源流または自源流という流派の剣で、如何なる剣に対しても、体の右側に剣を立てて構え(八双の構え)、「チェストー」と叫んで敵に突進し、近づいたら剣を真直ぐ上にあげ、敵に向って斬りおろす剣法です。この剣の気合の掛声は「チェストー」タチツテトのタ行を使います。その極意は「振り下ろす剣の下は地獄なり、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」ということだそうです。
以上、父韻チを説明して来ました。父韻チは心の宇宙全体を動かす力動韻でありますので、人間の生活の中で際立(きわだ)った現象を例に引きました。けれど父韻チは全部この様な特殊な場面でのみ働く韻なのではありません。
私達は日常茶飯にこの力動韻のお蔭を蒙っています。仕事をして疲れたので少々腰掛けて休み、「さて、また始めようか」と腰を浮かす時、この父韻が動くでしょう。
また長い人生に一日として同じ日はありません。サラリーマンが朝起きて、顔を洗い、朝飯を済ませ、「行って来ます」と言って我が家を出る時、この父韻は働いています。
気分転換に「お茶にしようか」と思う時、駅に入ってきた電車の扉が開き、足を一歩踏み入れようとした時、同様にこの父韻は働きます。
日常は限りなく平凡でありますが、同時に見方を変えて見るなら、日常こそ限りなく非凡なのだ、ということが出来ます。
ただ、その人がそう思わないだけで、心の深奥では殆ど間断なくこの父韻は活動しているのです。
この父韻チを一生かかって把握しようと修行するのが、禅坊主の坐禅ということが出来ましょう。禅のお坊さんにとっては生活の一瞬々々が「一期一会」と言われる所以であります。と同時にこの言霊父韻チを日常の中に把握することは、禅坊主ばかりでなく、私たち言霊布斗麻邇を学ぶ者にとっても、大切な宿題でありましょう。
宇比地邇(うひぢに)の神。『日本書紀』では泥土煮尊(うひぢにのみこと)、その他にも泥土根尊とも記されている。
父韻チとは「人格宇宙全体がそのまま現象として姿を現わす端緒の力動韻」
精神元素「チ」の言霊と古事記。その3。
八父韻を連続相から見ると、
①言霊チ。宇比地邇(うひぢに)の神。
❷言霊イ。妹須比智邇(いもすひぢに)の神。
③言霊キ。角杙(つのぐひ)の神。
❹言霊ミ。妹活杙(いくぐひ)の神。
⑤言霊シ。意富斗能地(おほとのぢ)の神。
❻言霊リ。妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。
⑦言霊ヒ。於母陀流(おもだる)の神。
❽言霊ニ。妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。
となります。
この連続相には時間の持続と空間の連続が含まれ、時間は空間の変化として示され、空間は時間の内容となっています。時間が止まったようだという比喩は場面、空間の不動としてよく表されています。
八父韻を次元相から見ると、
○主体、陽側、 ●客体、陰側。
ウ次元・①言霊チ。宇比地邇(うひぢに)の神。---❷言霊イ。妹須比智邇(いもすひぢに)の神。
対応する神名・天の御中主の神 。 ---天の御中主(あめのみなかぬし)の神
オ次元・③言霊キ。角杙(つのぐひ)の神。 ---❹言霊ミ。妹活杙(いくぐひ)の神。
対応する神名・ 天の常立(とこたち)の神。 --宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。
エ次元・⑤言霊シ。意富斗能地(おほとのぢ)の神。---❻言霊リ。妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。
対応する神名・国の常立(とこたち)の神。 ---豊雲野(とよくも)の神。
ア次元・⑦言霊ヒ。於母陀流(おもだる)の神。 ---❽言霊ニ。妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。
対応する神名・高御産巣日の神(たかみむすび) ---神産巣日(かみむすび)の神。
の対応がある。
時間のない空間は無く、空間のない時間はありません。
この時空は、人間性能の五次元の一つ一つに対応して、その拡がりに関してのみ時空を持っています。
例えば食事をしている時、口に入れた料理の材料は何だろうと考える時、その疑問と解決に向かう経験知識は、食べること味わうこととは別の次元にあり、また、皿の盛りつけが美しいと思う時、その美感情は食欲とも材料を知ろうという知識とも次元の違うものとしてあります。そして、目前の複数の料理の中からどれにしようかと選択をするとき、その実行決定は、味わう食欲とも疑問を持つ知識とも美感情とも違う独立した選択次元が存在しています。
このように時空とは五つの人間性能のどれかの一つの次元の拡がりと係わっています。通常は混沌とした状態で何も気づかず全ては進行していきます。
また、それ自体が、先天構造を示し、同時に後天現象として言霊となる二重性を持っている。
例えば、「このみかんは美味しい」という時、ウ次元の味覚にかんして「このみかんは」「美味しい」という現象が味覚の事実としてあります。もしここにその事実を認識する人間がいなければ、その現象があるのかどうか誰もしりません。さらに、みかんを味わう人がいたとしても、その味を表現しない場合とかできない場合とか、共通認識出来る言葉が無い時には「ウーウーアーアー」というだけで、何の現象なのか分かりません。八父韻は名を付けて表現し、主体側の内容を後天現象とすることができます。
○主観と客観、意識と物質存在の関係、考えた事と考えられている物との関係は、この八父韻の働きによって解説されます。
『 ここに一本の木が立っています。この単純な事柄と思える事についてかんがえてみましょう。
木が立っているなと見る人がいなければこの事実は成立しません。(主体側)
またその木が物として存在しなければ見る事ができず、やはり事実とはなり得ません。(客体側)
このように現象があるということは、見る方の主体と見られる方の客体の双方に関係しています。
(言霊ウ)見る主体(人)と見られる客体(木)との関係は、単に木があるなと感じる五感感覚だけではありません。
(言霊オ)この木は何の木だったか、植物図鑑では何の種類に属しているか、という学問の世界の関係もあります。
(言霊ア)その他、この木は絵に描くとすると何号のカンバスが最も映えるかな、という芸術的関係や、
(言霊エ)この木を切り倒して道路を作った方が良いか、それとも保存して環境保護を優先すべきか、といった政治道徳的関係も成立します。
見ている人だけで木が無いとしたら現象は起こりません。ですから人は現象にならない純粋の主体です。
母音ウオアエイです。(五十音図を見てください。または神社の鳥居の形を思ってください)
逆に木は立っているが、見る人がいないとしたら、木は現象にならない純粋の客体で、半母音ウヲワヱヰで表されます。
この主体のウオアエイと客体のウヲワヱヰがどんな交渉で現象となるのでしょうか。
緑の葉を付けた茶色の幹と枝の木が立っていて、人間の眼がそれをそのまま見るだけだと思われる方が多いことでしょう。確かにその通りかも知れないのですが、そう簡単なわけにもいかないのです。別の例を考えてみましょう。
お寺の鐘があります。棒で突いてみます。鐘が振動して空気を震わせ、空気中に波動が伝わっていきます。けれどこの波動自体がゴーンという音を立てているわけではありません。この波動が人間の耳に入った時、はじめてゴーンという音に聞こえるのです。突かれた鐘は、無音の波動を出しているだけなのです。
客体である鐘の出す波動と、主体である人間の認識知性の波動、またはリズムといったものがぶつかって、双方の波動の波長がある調和を得た時、すなわち感応同交(シンクロナイズ)した時、はじめて人間は鐘がゴーンと鳴ったなと認識することとになります。
もう一つ例を挙げましょう。雨の後に大空に虹がかかる時があります。この虹はそれ自体が七種の色を発しているわけではありません。七種の光の波動をだしているだけです。その波動が人間の認識の主体波動と感応同交する時、初めて七つの色の虹として主体の側において認識されることになります。
主体と客体がシンクロナイズしてそれぞれの現象を生むのですが、母音も半母音もそれだけでは結び付く働きを起こすことのない存在です。それぞれを結びつける能動的な架け橋となるものが必要です。
この役目をするのが最後に母音、半母音として残った人間の想像意志(言霊イ、ヰ)のじっさいの働きであるキシチヒミリイニの八つの父韻なのです。
純主体と純客体とを結びつけて現象を生む人間の創造知性とでもいうもの、その韻律が八つの父韻で表されます。主体と客体を結びつけるバイブレーションは、この八種しかありません。 』
古事記の冒頭百神の内始めの十七神を、例を引いたり実際に適応したりして解説していくとこうなります。これだけでも凄いことなのに、まだまだ百神まで続くということです。
しかも、人間の認識行為の解明は古事記以前、数千年前に解明済みというのですから、それを手にした者がそれを元にしてまつりごとを行い、そしてそれを行う者をスメラミコトというのも頷けることです。
古事記を神話にしたり、実在の地名探しをしたり、該当する実物を見つけたり、神名から連想されたご利益をあてにするよりも、よほど面白いことと思いませんか。
古事記のそこに出てくる神たちは実に奇妙な名前の神様のオンパレードです。古事記が表されて以来、苦し紛れの解釈が千何百年間かありました。無いものをあるとし、あるだろうし、それも駄目なら信仰の対象にし、有り難みが感じられない時は神話にし、教訓を見出す時には古代人の単純さおおらかさにしたり、分からない時はそれは何々の神格化したものとして済ますようにしました。
実際は安万侶さんと朝廷のある意図によって、われわれ全員がそうなるように仕向けられていたのです。現在では時間が経ち過ぎたせいか朝廷(皇室)自体の存続の基盤を見出せなくなってきています。ただしわけは分からなくても祭儀と物象と血統は存続しています。
古事記の神様たち、もともとそんな神様達はいないのです。奇天烈奇妙な名前ばかりと思いませんか。そこから該当する現物を当てるようにさせられていたのです。それが出来ない時には信仰の対象にすることも許されていました。
信仰したくない者達にまで配慮して、この世の全ては神格化できるし神道はそういうことができるとしています。しかし八百万の神の八百万というのは一つには現実の物者たち、一つにはそれらを認識する人間の意識を指します。上手い具合に今までは現実の者物達を指していると言ってこられました。しかし全てを網羅出来る人間の心のことを言ってという意見が起きてきました。全てを対象にできるのは心、意識、認識しかありません。
古事記は神様の物語ではありません。神名に該当する現物とは人間の意識、心のことです。古事記の著者、それを命じた者、いつかはそうせざるを得ないと見抜いてい者たちが、二千年間は明かせないが、その時が来たら明かされなければならないようにと、苦心して出来た人類の為の一万年近い精神遺産です。
『 いわゆる「天地の初発の時」といえば、この二千年間、この宇宙のことだと思いこまされた。古事記を書いたのは、いまから千三百年くらい前の太安万呂さんていう方ですけれども、その千三百年間、太安万呂さんは「たぶん『天地の初発の時』と書けば、外界のこの宇宙を想像するだろうなぁ。へっへっへ」と、うまくだまくらかしてやろうと思ったでしょう。
大本教の教祖の出口なおさんていう方の神懸かりにこういうことがあります。「本当のことを知らせてはならず。知らせないでもならず。神はつらいぞよ」という神懸かりがある。本当のことを知らせてはいけない時代。だけれども全然知らせなかったら、永遠に知らないで済んだのでは困るから、「知らせないでもならず」。「神はつらいぞよ」ってある。
そのように太安万呂さんは、全くこの物語が外に見るこの宇宙の物語だと信じちゃって、永遠に信じられたんでは困るんです。だけど、この千三百年は少なくともそういうように信じてもらわないとなお困る、と思って書いたに相違ない。』
このトリック(崇神天皇の 同床共殿制度の廃止)も、現在では既に解明済みということですから、ますますおもしろい。(本物を読みたい方は一言メッセージからどうぞお入りください)
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宇比地邇(うひぢに)の神。9。妹須比智邇(いもすひぢに)の神。
言霊チ、イ。上の言霊イは母音のイではなく、ヤイユエヨの行のイであります。言霊チを示す神名、宇比地邇の神は「宇は地に比べて邇(ちか)し」と読めます。宇とは宇宙、いえ等の意味があります。人間の心の家は宇宙です。言霊アの自覚によって見る時、人の心の本体は宇宙であると明らかに分ります。するとこの神名は人の心の本体である宇宙は地と比べて近い、と読めます。即ち心の本体である宇宙と地と同じ、の意となります。宇宙は先天の構造、地とは現象として現われた姿と受取ることが出来ます。そこで宇比地邇の神とは心の宇宙がそのまま現象として姿を現す動き、となります。
太刀を上段に振りかぶり、敵に向かって「振り下ろす剣の下は地獄なり、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」と、まっしぐらに突進する時の気持と言えばお分り頂けるでありましょうか。結果は運を天にまかせ、全身全霊で事に当る瞬間の気持、この心の原動力を言霊チの父韻と言います。それに対し言霊イの父韻は、瞬間的に身を捨て全身全霊で事に当ろうと飛び込んだ後は、その無我の気持の持続となり、その無我の中に自らの日頃培った智恵・力量が自然に発揮されます。須比智邇とは「須(すべからく)智に比べて邇かるべし」と読まれ、一度決意して身を捨てて飛び込んだ後は、その身を捨てた無我の境地が持続し、その人の人格とは日頃の練習の智恵そのものとなって働く、と言った意味を持つでありましょう。
以上の事から言霊父韻チとは「人格宇宙全体がそのまま現象として姿を現わす端緒の力動韻」であり、父韻イとは「父韻チの瞬間力動がそのまま持続して行く力動韻」という事が出来ましょう。ここに力動韻と書きましたのは、心の奥の奥、先天構造の中で、現象を生む人間生命の根本智性の火花がピカっと光る閃光の如き動きの意であります。
宇比地邇(うひぢに)の神・父韻チ
宇比地邇の神とは一つ一つの漢字をたどりますと宇は地に比べて邇(ちか)し、と読めます。けれどそれだけではまだ何のことだか分かりません。宇を辞書で調べると「宇(う)はのき、やねのこと。転じていえ」とあります。いえは五重(いえ)で人の心は五重構造の宇宙を住家としていますから、宇は心の宇宙とも取れます。天が先天とすると、地は現実とみることが出来ます。すると宇比地邇で「人の心の本体である宇宙が現実と比べて同様となる」と解釈されます。以上が神名の解釈です。とすると、その指示する言霊チとは如何なる動きなのでしょうか。
ここで一つの物語をしましょう。ある製造会社に務める若い社員が新製品を売り込むために御得意先の会社に課長のお供をして出張するよう命じられました。自分はお供なんだから気が楽だと思っていました。ところが、出張する日の前夜、課長から電話があり、「今日、会社から帰って来たら急に高熱が出て明日はとても行けなくなった。君、済まないが一人で手筈通りに行って来てくれ。急なことでこれしか方法がない。頑張ってくれ」というのです。さあ、大変です。お供だから気が楽だ、と思っていたのが、大役を負わされることとなりました。一人で売り込みに行った経験がありません。さあ、どうしよう。向うの会社に行って、しどろもどろに大勢の人の前で製品の説明をする光景が頭の中を去来します。夜は更けて行きます。妙案が浮かぶ筈もありません。寝床に入っても頭の中を心配が駆けずり廻っています。疲れ切ったのでしょうか、その内に眠ってしまいました。……朝、目を覚ますとよい天気です。顔を洗った時、初めて決心がつきました。「当たって砕けろ。ただただ全身をぶっつけて、後は運を天に任せよう。」あれ、これの心配の心が消え、すがすがしい気持で出掛けることが出来たのでした。
向うの会社に着いてからは、想像した以上に事がうまく運びました。大勢の前で、自分でも驚く程大きな声で製品の説明が出来、相手の質問に答えることが出来たのでした。未熟者でも、誠心誠意事に当たれば何とか出来るものだ、という自信を得たのでした。
話が少々長くなりました。この若者のように、自分の未熟を心配し、何とかよい手段はないか、と考えても見つからず、絶望したあげく、未熟者なら未熟者らしく、ただ誠意で事に当たろうとする決心がついた時、人は何の先入観も消えて、広い、明るい心で事に当たる事が出来ます。生まれて今までの自分の経験を超えて、この世に生を受けた生命全体を傾けた誠意で事に臨もうとする心、この心を起こす原動力となる心の深奥の“火花”、これが父韻チであります。神名宇比地邇の宇(う)はすべての先入観を取り払った心の宇宙そのもの、そしてその働きが発現されて、現象界、即ち地(ち)に天と同様の動きを捲き起こすような結果を発生させる働き、それが父韻チだ、と太安万呂氏は教えているのです。当会発行の本では、父韻チとは「宇宙がそのまま姿をこの地上現象に現わす韻(ひびき)」と書いてあります。ご了解を頂けたでありましょうか。
この父韻を型(かた)の上で表現した剣術の流儀があります。昔から薩摩に伝わる示源流または自源流という流派の剣で、如何なる剣に対しても、体の右側に剣を立てて構え(八双の構え)、「チェストー」と叫んで敵に突進し、近づいたら剣を真直ぐ上にあげ、敵に向って斬りおろす剣法です。この剣の気合の掛声は「チェストー」タチツテトのタ行を使います。その極意は「振り下ろす剣の下は地獄なり、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」ということだそうです。
以上、父韻チを説明して来ました。父韻チは心の宇宙全体を動かす力動韻でありますので、人間の生活の中で際立(きわだ)った現象を例に引きました。けれど父韻チは全部この様な特殊な場面でのみ働く韻なのではありません。私達は日常茶飯にこの力動韻のお蔭を蒙っています。仕事をして疲れたので少々腰掛けて休み、「さて、また始めようか」と腰を浮かす時、この父韻が動くでしょう。また長い人生に一日として同じ日はありません。サラリーマンが朝起きて、顔を洗い、朝飯を済ませ、「行って来ます」と言って我が家を出る時、この父韻は働いています。気分転換に「お茶にしようか」と思う時、駅に入ってきた電車の扉が開き、足を一歩踏み入れようとした時、同様にこの父韻は働きます。日常は限りなく平凡でありますが、同時に見方を変えて見るなら、日常こそ限りなく非凡なのだ、ということが出来ます。ただ、その人がそう思わないだけで、心の深奥では殆ど間断なくこの父韻は活動しているのです。この父韻チを一生かかって把握しようと修行するのが、禅坊主の坐禅ということが出来ましょう。禅のお坊さんにとっては生活の一瞬々々が「一期一会」と言われる所以であります。と同時にこの言霊父韻チを日常の中に把握することは、禅坊主ばかりでなく、私たち言霊布斗麻邇を学ぶ者にとっても、大切な宿題でありましょう。
9。 妹須比智邇(すひぢに)の神・父韻イ
須比智邇の神の頭に妹(いも)が付きますので、この父韻は宇比地邇の神と陰陽、作用・反作用の関係にあります。この父韻イのイはアイウエオのイではなく、ヤイユエヨのイであります。神名須比智邇は須(すべから)らく智に比べ邇(ちか)し、と読めます。宇比地邇同様漢字を読んだだけでは意味は分かりません。そこで宇比地邇の神の物語を例にとりましょう。若い社員は、あれこれと考え、心配するのを止め、先入観をなくし、全霊をぶつけて行く事で活路をみつけようとしました。そして御得意の会社に白紙となって出て行きました。「自分はこれだけの人間なんですよ」と観念し、運良く相手の会社の社員の中に溶け込んで行く事が出来たのです。一度溶け込んでしまえば、後は何が必要となるでしょう。それは売り込むための物についての知識、またその知識をどの様に相手に伝えるかの智恵です。こう考えますと、神名の漢字の意味が理解に近づいて来ます。須比智邇とは「すべからく智に比べて近(ち)かるべし」と読めます。体当たりで飛び込んで中に溶け込むことが出来たら、次は「その製品についての知識を相手の需要にとってどの様に必要なものであるか、を伝える智恵が当然云々されるでしょ。それしかありませんね。」と言っているのです。「飛び込んだら、後は日頃のテクニックだよ」ということです。父韻イとは飛び込んだら(父韻チ)、後は何かすること(父韻イ)だ、となります。重大な事に当たったなら先ず心を「空」にすること、それは仏教の諸法空相です。空となって飛び込んだら、次は何か形に表わせ、即ち「諸法実相」となります。仕事をする時、如何にテクニックが上手でも、心構えが出来ていなければ、世の中には通用しません。けれど心構えだけでは話になりません。テクニックも必要です。両方が備わっていて、初めて社会の仕事は成立します。父韻チ・イは色即是空・空即是色とも表現される関係にあります。御理解頂けたでありましょうか。
古事記はチという父韻に対して、宇比地邇神(ウヒヂニノカミ)という名前を当てております。少なくともチということに対して宇比地邇という神様の名前を、太安万呂さんは指月の指として当てたのです。宇比地邇の神様なんて神様いないんですからね。どこにもいないんです。それをよくご承知になっていただきたいと思います。
宇比地邇というのはですね、日本の古代の邇々芸(ニニギ)王朝の天皇の名前なんです。その名前をこうやって引っぱってきちゃった。「チに対しての説明に、この名前が誠に都合がいいから」っていって引っぱってきちゃった。縦横無尽に引っぱってくるんですから。島田正路って名前を太安万呂さんがもしこの世にいたら、「あ、この野郎トンマだから、使ってやろう」って、当て字にして使ってくれたかもしれない(笑)。
伊耶那岐の神様・伊耶那美の神様も、実際にいるわけではございません。実際に生きていた古代天皇の名前なのでございます。ほとんどの名前は、古代の天皇ないし皇后から引っぱった。
一切の神社神道でお祭りしてある神様は、そういう神様がいるわけではないのです。世が明けるまで、人間の心の拠り所として、そういう神社信仰としての神様をお祭りしたのであって、人間の命の本体としては、そういう神様はいらっしゃらないのだということをよくご承知になっていただきたいと思います。