『 心に何が起きているか。』
ブログ034 『心の五十個・金山』
話の前提。
人間の心は全部で五十個の言霊から成り立っています。ここでは心の構成要素はの五十音を扱います。言葉となって現れてくる心の無数な現象を扱うのではなく、心を構成するようにされた外国語のような指標を扱うのでもありません。
古事記では言葉の五十音全体は次のように現されています。
【火(ほ)の夜芸速男(やぎはやお)の神を生みたまひき。またの名は火(ほ)の炫毘古(かがやびこ)の神といひ、またの名は火(ほ)の迦具土(かぐつち)の神といふ。】
そこで五十個の言霊をどう操作運用して人間精神の究極の行動規範(鏡)を作っていくか、の問題となる。
【 この子を生みたまひしによりて、御陰炙(みほどや)かえて病(や)み臥(こや)せり。】
人間にはこれ以上の心の構成要素は無い、言霊五十しかないということ。これが眼前にある。
眼前に有るものに対する態度によってその人となり、考え方となりができていく。
通常は無意識無自覚に受動的に自分の心が客体の立場となっている。そこで気づき感じたものが自分の心に集められる。集めることは主体的な行為なので自分からしていると思い込むことができる。
【 たぐりに生(な)りませる神の名は 金山毘古(かなやまびこ)の神。次に 金山毘売(びめ)の神。】
反吐を吐くたぐりも自分がしているようだが、身体胃腸の不具合に依頼されて表現しているもので、胃袋に有るものしか出せない。
金山の金は平仮名片仮名の仮名のことで、出てきたものとして見れば、食べたものすなわち文字や表現されたもので、それらを食べた様子食べた食べ方の方から見れば、無茶食い無茶飲み不衛生さに無頓着だったりの食べた行為側の結果の現れで、言葉の音を発する側です。
この始めの段階では無自覚的に吐かされたものを集めることですが、吐くことは主体側の行為であり自覚的になると、生きた金魚を飲み込んで吐き出すとか紅白の玉を飲んで指定された色を出すこともできてきます。
吐くは印象が良くないので言葉を変えれば、感覚、感情、知識や選択肢を見て聞いて知って手に入れる等の、相手対象に付く(吾の眼を付けて智と成す)始めの段階です。
たぐり集める事を始めると直ちにその実体側と働き側の二面が現れます。そこで飲み方が悪かったと働き側をみるか、食ったものが悪かったと実体側をみるかの相違が出てきます。
しかしこの段階では出てきたものへの知識や反省はその後のことで、金山神の段階では物と行為が直接有る有ったというものです。
そこでついで、反省や疑問が起これば出てきたもの出した行為への知的な反省が出てきます。
次のように表現されています。
【 次に屎(くそ)に成りませる神の名は】
クソはうんちではなく出てきたものがうんちのようであることでもなく、自分の意識が係わったときに、係わって物事があるという了解の次に来る意識の状態です。
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ブログ035。『屎(くそ)』
【 次に屎(くそ)に成りませる神の名は、波邇夜須毘古(はにやすひこ)の神。次に 波邇夜須毘売(ひめ)の神。】
古事記の記述の速度は意識の動きの一つ一つの違う次元を独立して扱っていくので、実際にはほんの瞬間の出来事ですが、その内実は五十の言霊要素と五十の運用要素を丁重に示そうというものですから、学ぶ方もそれに見習わなくてはなりません。脳髄の動きは超超高速でいつかコンピューターをも凌ぐスピードを、古事記が既に解明していたことが明かされるでしょう。
自分の手元に扱うものがあると、自分の意識は次に何をするかです。
屎(くそ)をするでは手元に置けないのですが、反吐を吐いて手元に集めたものを見ると次には「何だこれは」という疑問が普通に置きます。その「何だこれは」という疑問の内容が「屎(くそ)」です。何がある何と何だ、長い大きい小さいとか黄色いとか桃色だとかを自然に見つめ分析し求めます。
それらの組み合わせその構成要素が気になっているのです。つまり有るものから与えられ感じ取った組む要素(組素・くそ)です。知的概念、記憶が顔を出して判定しに来たのです。
組む素・くそ)を判定する意識も当初は無意識無自覚にそうさせられています。見つめて判定しようとする意識はその行為の中で自覚的になりますが、上に書いた通り、心の働きの中では別の次元に属しています。
古事記はこの無意識次元での心の動きを全部挙げてから後に総括に向かいます。無意識的にも頭が働く構造を明かそうというものです。
その始めは「たぐり」でした。ついで「たぐり(たぐり寄せて)」を受けて「くそ(組む素)」になります。当面は無自覚的な心の動きです。しかし生物学で言う反射作用ではありません。物質相互の作用はそれとしてあることで、科学的解明には心の動きが最初から排除されていますから、心の学問とは関係しません。
こういうこともあります。言葉の上では有るものを直接に組む素(くそ)、つまり考え方の始めは分離分解分析することと主張されます。まずこれらを分析するとこうなるなどといいます。これは確かにまず分析するのが順当だと思えますが、 「たぐりに生(な)りませる・・次に屎(くそ)に成りませる」を省略して、次の「尿(ゆまり・小便のこと)」にすっ飛んでいます。
ゆっくり行きましょう。
手元にあるものをみて、その何であるかに関心を持ちました。その実体は要素を知ることです。
では要素を知るとは何かになります。
それが、波邇夜須毘古(はにやすひこ)、次に 波邇夜須毘売(ひめ)です。
現に五十音を刻んだ粘土板のように有るもの(はに)が認識了解するのに安らかに(やす)安定して、受け入れられるものになっていることです。不安定に揺れ動き判定名困難なものは、要素としては受け入れられません。
もちろんこれも実体側と働き側の両者がありますから、ヒメとヒコとなっています。
判定不能なクシャクシャな文字を書かれても要素としては受け入れられないのです。形の崩れたケーキは売れないし腐った果物も店に出せません。
しかし、外国の文字を初めて学ぶときなどは、音と文字、ヒコとヒメ、はそれぞれ独立した事象ですから、音の機能としてハニヤスなものとして覚えさせられます。文字を知らなくとも通じていきます。
さてたぐり集めて、要素を確認して、次に進みます。
【 次に尿(ゆまり)に成りませる】
ゆまりは小便です。古事記の安万侶さんは面白い人ですね。書紀では「尿(底本はしかばねにさんずい+毛)を『愈磨理(ゆまり)』と読む」とあるようです。ここまで来ると頓智の一休さんでも分からないでしょう。安万侶も千年経ったら分かればいいように作っていますから別に急ぎではありません。
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ブログ036。『 尿(ゆまり) 』
【 次に尿(ゆまり)に成りませる神の名は 弥都波能売(みつはのめ)の神。】
たぐりよせる--かなやま
組む素--はに安らか
ゆ埋まり--みつはのめ
と進んできます。
書紀には「尿を『愈磨理(ゆまり)』と読む」とあるので、ここから「愈」を Y+u → 「イ」埋(ウ)まり、を導き出した先人は凄い。
と言うことで私たちは気楽に、尿(ゆまり)は、五(イ)埋(ウ)埋まりのこととしています。
後は上手に「五埋まり」「いうまり」「ゆまり」「尿」まで説明して納得してもらえればいいわけです。
これにはどうしても人間世界には五次元しかない事を納得してもらわなければなりません。
神の世界も霊界もそんなものはなく、次元上昇した十次元とか十二次元とかの精神世界もありません。神とか霊界とかの言葉が使用されていますが、実体としてあっち側にそんな世界があるのではなく、人の意識界でのことや心での経験に神と名付け霊界と名付けられるものがあると言っているだけです。
神とは人間であり、幽界とは人間界であることは既に分かっているのに、知りたくない承知したくない気分が続いているだけです。
さて、波邇夜須(はに・やす)とあるように埴輪のハッキリした輪郭を持った安定して使用でき安らかな実体と働きを見いだせないものは、取り上げることができません。
ではハッキリしたものとは何でしょうか。無数に有る現象の中からハニヤスの状態に有るものを選ぶということでしょうか。取り寄せ集めた材料からそれを選択していくことでしょうか。これは集めた材料の差異区別から分類することになります。
しかし古事記のフトマニ言霊学では実体の差異を分類して総合し全体像を得ることではありません。
分類される材料は既に五十しかなく五十以上も以下もないのです。無数の現象を前にして冗談を言っているのではありません。
実体実在の差異から分類すれば、五十どころか際限なく分類が続くか、定理とか定義とか約束事で区切ったところに無理やり押し込めるかになります。古代において世界の成り立ちを無理やり幾つかの元素に当てはめていました。
それは仮の約束事から始めたものであって、実際は違います。
本当は私なりあなたなりの主体の活動によって動き始まっていくことで、前記のたぐりよせる、組む要素も主体の働きかけでその姿が現れ出てくるのです。
そこて主体の働きかけである五(イ)埋(ウ)まり、Y+U=Yu、愈磨理(ゆまり)、尿(ゆまり)です。
五(イ)埋(ウ)まりは五つ有る心の穴を埋めることで心を五つに分類することです。分類するといっても心をあっちそっちこっちと肉屋さんみたいに切り分けることではありません。心は一つでまとまって(自分の中で矛盾し反発しながらも)動いていきます。この動きを実体を写したスナップ写真にすると五つになるということです。
例えばどういうことかといえば、このブログ主は何を言っているのかと疑問が起きていると思います。自分の知識に反応している疑問というスナップ写真をとったからです。
ところが疑問を知りたい疑問の内容を解決したいというのはそのような欲望で、知りたい疑問内容と知りたい欲望とは別なことです。
疑問への知識内容と知りたい欲望は別ですが、さらにこれをよくみると、自分は知識内容を選択していて知識欲を選択しているというまた別な次元が内包されているのに気づきます。
そこで知識、欲望、選択という三つのそれぞれの世界が写るスナップ写真ができました。この心のスナップ写真を見るとこれらを全部見ている眼があることに気付かされることになります。欲望なり知識なりが気になっているときには他のことが眼に入らなかったのに、心には自分の全部をみる眼がありました。これは感情や情感となって全体を規定していきます。
知識が有ろうと無かろうと、知識が自分の中で矛盾していよう、自分を規定している全体感情があります。感情は疑問内容とは関係なくそれ自身で独立したスナップ写真となります。こうして最初に持った、このブログ主は何を言っているのかという疑問に自分のそれぞれ独立している四つの心があることに気づきました。
そして五つ目の心です。
心があり出てくるのは当たり前のことですが、あまりにも当たり前すぎて忘れていることです。疑問を持つ心はどこから来たか、疑問を知りたい欲望はどこからか、疑問を選択したのはどこからか、疑問を持つ心に感情がどこからでてきたのか、これらの元々の源泉があることを忘れています。それが心の意思です。
こうして心の五つ(欲望、知識、選択、感情、意思)が埋まりました。
誰のどんな、心の現れであろうとこの五つのスナップ写真となって現れてくるものです。
ところで感の良い方なら、【 次に尿(ゆまり)に成りませる神の名は 弥都波能売(みつはのめ)の神。】のみつはのめのミツハは三つはのめで三ではないか、五に成りませるのが三では奇怪しいと思っていると思われます。
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ブログ037。『 弥都波能売(みつはのめ) 』
弥都波能売(みつはのめ)は「三つ葉の芽」のことです。
五埋まりの五が三に成るのではなく、三の芽になります。「三」という何かしらの重要なものの芽です。古事記は心の理想的な創造規範を作り出しそれによって行為する道理を説いたものです。古事記の結論は三貴子を創造することですが、ここではこの三貴子の芽が既に芽生えていることを示しています。
人は合目的的に行為し考えます。これは何だ、これをどうしようの「これ」を目指して人は考え行為していきます。目的となっているもの、「これ」は当初はイメージでした。イメージが物象と結ばれ言葉となって表出され相手側で聞かれて了解されどういうものとしての「これ」であるかが分かりました。「これ」とは実は後の姿の三貴子のことです。
【 次に五埋まりに成りませる神の名は 三つの葉の目(みつはのめ)の神。】
有るもの実体現象を整理操作して、たぐりよせる--かなやま、 組む素--はに安らか、 五埋まり--みつはのめ、まできました。心の実体現象(言葉)を心のあり方に沿って五つにしました。
このブログは何を言っているのかよく分からないというとき、その「分からない」という心を巡って、知識として分からないを中心にして、それとは別に知識を知りたいという欲望が有る無し、知りたいのはどんな知識課という選択、知識が有る無しとは又別に起きているその感情、そしてそれらの独立した表出を誘う意思、という五つをそれぞれに並べることができます。
これらは集まった材料や、心にあることを質的な違い次元の違いで並べてみようとするときに起こります。
現象に囚われた眼では実体の外的な違いしか気にしません。それらは赤であるか黄色か思いか軽いか答えは正しいか正しくないか、外部表象の概念の違いで区別するものです。
そこでは同じ次元のことを百にも千にも区別が可能です。正しいかとか正しくないかとか言ったところできりがないのです。ところが五つというのは心のあり方ですからそれ以外になく、正否の違いは単に知識概念次元での話にすぎません。
確かに心は正否の知識を気にするならどこまでもそれを追求する思いが起き重要な部分を成していますが、それが全てではありません。それどころか知的な追求は主体的な行為のようにみえますが、実際は無自覚な主体性のない行為なのです。心の判断規範が非常に恣意的です。それぞれが勝手な好みの規範を立てているだけのことが多いものです。心の全貌からする知識次元を立てているわけではありません。
それでも心の全体からする五つの次元世界の規範にもそれなりの重要度があります。ことに合目的的に考え行為していく人間にとっては、未来への選択に間違えがないこと、それを支える知識概念が充分に有用であることと、選択意志が自他ともに明瞭なことが必須です。この三者に健全な感情が載り、適度な欲望が加わっていきます。こうして心の五次元世界が一体化していきます。(エを中心に上下にアイエオウと並ぶ五埋まりができます。)
ここのミツハノメの材料の整理段階では、自らの判断規範を既に手にしているわけではありません。それどころか全てがそうせざるを得ない無自覚な強制的な依頼を受けて判断をしているようなものです。
ですので五埋まりの五の並びは、先天から依頼される形の「アオウエイ」の順になります。(天津スガソ音図)
無自覚な人の行為の仕方、自分は自分はという行為の仕方で自分はというのが前面にでますから主体的にしていると思い込みやすいものです。
したい欲しいというのが中心事項で、知識に関して言うならば知識そのものの内容にではなく、欲している知識(ウ)だけが満足されればいいというものです。
そのため欲望のウが中央にきてその両側を欲しい知識(オ)とそのための選択(エ)が囲み、感情(ア)とか意志(イ)とかは重要視されません。
こうして心の次元層を整理していきますと、主たる関心事となるものが中央にきてその両側を密接な世界が囲むという、三つの世界と両端の世界ができていくのが分かります。(アイウエオ五十音図の順はそれを示す一つの形式です。)
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ブログ038。『 初歩的な大枠 』
和久産巣日(わくむすび)の神。
通常は心の全体を考慮することはありません。せいぜい各次元内の相違をあげつらって自分の主張に満足しようとするだけです。それでも集めた材料、言霊五十音の整理の中から自分に関心がある当のこととそれに密接に取り入れられ部分と疎遠な部分ができることが分かりました。この分類は赤いとか黄色いとか正しいとか正しくないとかの同じ次元内での相違の分類ではなく、心を異にする心の分類で知識概念の正否に係わっているのではありません。
集めた材料を囲い込むと心の次元の異なった世界が五つ出来てきたのです。これで大雑把な内容がまず把握されてきました。これは感情の問題、これは知識の問題、と全然混ぜ合わせることの出来ない枠組みが現れてきます。日常では心の五次元がまぜこぜになりますが、落ち着けば今日と明後日の問題を同一次元で語っている場合が多いものです。腹を空かした子供に実存とは何かの哲学問題は必要かとか、事実の確認に感情問題を混入とかします。人は次元のごた混ぜを平気で行えるということで、その結果も人は主張できます。
各事象事物の次元の違いが出てきますと、次には各次元内での相違を見つけることになりますが、これには原理的な飛躍が必要です。ここでは各次元内の分類は次元の内容の違いをもってしてはできないのです。知識問題の疑問を解決するのに次元の違う感情を持ちだすことは出来ません(日常ではごた混ぜですが)。
つまり五十ある心の要素を五種に分類できましたが、その内容はまだです。内容を知るにはそのための規範が無ければ判定できません。しかし、判定できないからといって無効ではなく心の立場位置を確認することが出来るものです。
ここでオノコロ島の段落での蛭子(ヒルコ・霊流子)を思い出してもらうと、ここの話しがちょうどぴったり適応し合っていることに気づきます。
「女人先に言へるは良からず」とは母音を先にして子音を発音することはできないという話です。KaKiKu と言うのに、母音を先にして、aK iK uK として子音を創造できません。
しかし心の世界の分類通りに従っていますから、世界に向けて「流しうてき・霊流子」したと言うわけです。これは後に心の世界の次元層から、各次元内での一般共通性、例えば概念、になっていき、この共通性を集団の絆としていきます。抽象的な一般性ですか、これによってそれそれの枠組みが出来相互の立場が出来ていきます。集団(個人)の立場が個別的な内容が規定される以前に主張される所以です。
そこでここでできた神のことを、枠を作り枠で結び枠に治めるとか、共通項でくくる、共同体を構成する等々の全内容を確認したわけではないが、とにかくそれぞれの意識の初歩的な立ち位置が与えられる、枠ムスビの神ができたというわけです。
ついで、各内容を規定していく規範を探しに行きます。
意識では全てが超スピードで一瞬の内に起きていきます。ですので自分の頭に出てきたところを直ぐに表明してもその前後を無視した主張であることが普通です。
集めた材料要素を分類しました。ではそのあとどうするのでしょうか。
それで終わりです。
分析結果を出して指針を立てて実践があるというでしょう。
確かにその通りなのですが、良く見てください。
現象、整理材料のあり方となる次元世界が確定してしまう、その後にはなにもありません。反省して指針を立てて計画して等と言うかもしれません。しかしそれらは心の主体側の問題であって、材料要素のとり方とらえ方、主観に属する問題です。要素それ自体はいつまでもそこにあるがままです。
日常の考え方では、計画なり目的なりを持って実践しようということになるでしょうが、実践する主体の確立を忘れています。
それが、泣き沢めの話になりますが、その前に主体が介入できる条件がつくられます(豊うけひめ)。
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心の五次元(五十音図)のいろいろ。
金木音図・ アイ ウ エオ ・中心となる関心事はウの欲望。
赤玉音図・ アイ オ ウエ ・中心となる関心事はオの知識。
宝音図 ・ イエ ア オウ ・中心となる関心事はアの感情。
太祝詞音図・ アイ エ オウ ・中心となる関心事は選択。天津ひもろぎ。先天原理構造の音図。
すがそ音図・ アオ ウ エイ ・中心となる関心事は天然自然の心の動き。
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ブログ039。『 実体の無い大雑把な枠だけ 』
豊宇気毘売(とようけひめ)
【 この神の子は豊宇気毘売(とようけひめ)の神といふ。
かれ伊耶那美の神は、火の神を生みたまひしに由りて、遂に神避(かむさ)りたまひき。 】
ギミのミコトの直系でなく枠ムスビの子としてでてきます。どういうことでしょうか。
子というのは枠ムスビから派生して出てくる働きのことです。実体現象の次元、一般性や共通性が主張されると次に起きることは何でしょうか。
自分はこの精神次元にいる、と主張すること、例えば自分は腹が減って力がでないと主張すると、その主張は何を産むでしょうか。
豊ウケヒメです。
豊は十四の心の先天構造のことで、ウケは受け入れることあるいはその容器、ヒメは秘めている秘める能力があるです。
枠ムスビができると同時にその子として枠ムスビの働きに派生的に出てくる、十四の心の先天を表出し得るだけの器が秘められているということになるでしょうか。
自分は腹が減っているといっても何がどのようにか何を食べたいのかハッキリしません。私は欲望次元で赤ん坊のようにわめいているだけですが、「腹減った」という一般的な表現の中に既に、内容は確認されていないが、外部から持ち来らせるものに対してはそれらの内容を検討整理して受け入れることができる、というものです。
自分には知識があるからこの問題はこう解決するのだという時も、問題の知識内容が分からなくとも理性的に解決はできると言い張るようなものです。そして実際にある程度までは受け取りやり合うこともできます。よく、理由は後付けだと言います。しかしそこには既に大枠となった理由があります。
注意しなければならないのはそこにあるのは、外部から持ち込まれた要素材料に対応しているので、自分が生んだ心の対応ではないということです。
これが伊勢神宮の外宮にまず要素材料を持ち来たって、内宮の 天照大御神の裁可を仰ぐという形式になったものです。
さて、材料要素がどの心の次元に属するものかが分かるということは、有るというものに自分が意識をかける側と、相手対象をみる側とが自分にあることを了解していることです。実体要素の分別がついてもその内容が分かるには、自分のみる側と相手対象の見られる側の間を埋めていかなければなりません。ここに主体が自分をみる働きを確立しないと相手の内容を確認できない事情が起きてきます。
---以下引用。御倉板挙・ミクラタナ
「ワク」ですから。ちょうど伊勢神宮では、昔は世界中の文化を集めて、伊勢の内宮において天照大御神がその世界中の文化を神様の食べるご馳走として料理して、それでその料理の中から世界文明を創っていく。
それが天照大御神の仕事ですから、その仕事をするのに、御倉板挙(ミクラタナ)と申しまして、天照大御神の食べ物を並べるところ。天照大御神が言霊によって世界中の文化を材料として食べて、どの文化も傷つけたりすることなく、そのいいところは全部とって、それで世界人類の文明を創っていく。その心の食べ物を並べるところを御倉板挙と申します。
その御倉板挙に、豊宇気比売の神が大雑把ではあるけれども、多くの世界人類から集まってきた食べ物を、大雑把に区分けして、次元ごとに配分していく役目として、下宮にお祀りしてあるわけでございます。外宮でそういうように大雑把に選り分けたものから、天照大御神がその材料を応用して世界文明を創っていくという順序になるわけでございます。
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ブログ040。『 主体が出てくる準備 』
神避(かむさ)り
【かれ伊耶那美の神は、火の神を生みたまひしに由りて、遂に神避(かむさ)りたまひき。 】
金山から和久産巣日(豊宇気ヒメ)までは全て主体側から見られる相手対象となっている神々です。客観現象を扱っている主体側の働きです。冒頭の造化三神で言えば神産巣日に属し、イザナミのミコトに属する側、つまり実体側の神々です。
ここまででやってきたことは実体側世界の分類で五つの次元を確認してきました。そして言霊要素、客観実体の内実は分からないながら主体の感じ考える実践材料となっています。
そしてここに視点の転換が起きてきます。日常ではこんなことを意識することはありません。心の全貌を解明してしまっている古事記の記述があるからこその記述に沿って喋ると出てくる問題です。そしてしばらく自分の心に留まってみると、なるほどそういったことが起きていることに気付くのです。
この場面で言えば、内実実相の分かっていないボールみたいなものを手にして、その物質性に囚われる心を見る替わりに、ボールをぼやっと見つめている自分自身の心持ちがあることに気づきます。ボールの物質的な性質性格あり方など何にも気にしないことがあります。
そこでは主体側の見る意識だけが問題となっていて、自分がボールに吸い込まれたり、ボールが大きくなって自分を包み込んだり、自分がボールにくっついてしまったり、ホールが重たく不動になったり等々と、まるでそこにあるボールの姿をとらないことがあります。そのボールを見つめている主体がどこからどうくるのかの主体そのものが次のテーマです。
このテーマの中には客観物は存在できず、主体の主体たるその働きそのものが追求されます。そしてそれによって五次元に分類された客観世界(イザナミの)からは完全に手を切ることを要求されます。ところが、実体実相を知らないままでも主体が係わったお蔭で客観世界が定立されていったのですから、ここに主体は縁と未練を感じ執着心を得ます。
宗教世界ではもっぱら目前にある物質世界への執着を語りますが、肝心な執着心が現れる元を語れません。フトマニ言霊学ではうまいくでしょうか。
フトマニ言霊学では、アと言おうとしてアと言ってアと了解するほんの一瞬に百の意識の過程を見ていき、それが循環するとします。その過程は順次意識が進展する順であると同時に百がそれぞれの独立した次元世界を形成していて、それら全てを前承しつつ螺旋循環して発展していく姿をみせます。
循環しつつ各意識の言霊世界が独立しているという重層的な視点からは、各意識の言霊次元はそれが表出され現象となったときには、それぞれの時点の言霊として百の循環を通過したものとして出てきます。逆に言えば、百の循環のどの時点でもそれぞれの独立した表出が起きて、そのまま百の循環を通過したように振る舞います。
ややこしい言い方で申し訳ないですが、例えば今進行中の段落で言えば、実体言霊世界の内実を得ないまま得たように表出できるということです。実体材料の上で働き材料が無いと働けません。材料があって主体側が働くのは当たり前のようですが、働いている主体をみた時には、主体そのものの働きが問題であって、客観材料は脇に置いておけるのです。
客観材料だけを見ていくならその材料の次元各層を分類することまではできます。しかしそれ以上に進むには主体側のさらなる働きに寄らなければ成し得ません。そこで次には主体側の独自の規範が確立される順番となるわけです。
そこで主体は客観材料との縁を切ろうと奮い立つのですが、煩悩迷い、囚われ依存心、執(と)らし執着心はそう簡単にとれません。(あくまで瞬時に起きている心の内容ですので、いつかそういうこともあるだろうというものではありません。時々刻々誰もが通過している瞬時の内容です。)
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主客の問題。
ここの時点での主客の客は「神避り」で、黄泉国でイザナギの言った「事戸を渡す」と対になるものです。
「事戸を渡す」のはイザナギの意思行為で客観世界を振り切ったことですが、ここでは無自覚的に客体世界が退いていくことになります。
わたしも哲学分野を知っていれば世界中の哲学者と話したり、道場破りみたいなことをしてみたいところですが、風呂敷を拡げすぎになりそうです。しかし、今後後世において言霊フトマニの知性を持った方は、三千年の哲学史を整理位置づけそれぞれの主張の出てきたところを説明し、その拡大逸脱の理由をすべて説明する義務があります。フトマニ言霊学は諸学の一角を占めるものではないし、単に相対的な位置を主張するものではないのですから。
参考。
ウィキペディアでは、「世界を構成するものとして、「見るもの、知るもの(主体)」と「見られるもの、知られるもの(客体)」の2種類の存在を認める。客体とは感覚を通して知ることができるものであり、いわゆる物である。主体とは感覚を受け取るものであり、意識である。
主観と客観を論じるにあたっては、いくつかの伝統的な用語法が用いられている。多くの哲学者は、客観的実在という用語を、意識から独立して存在している事物を指すために用いている。これに対して、主観的実在とは、広い意味での意識に依存する事物を意味する。」
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【かれ伊耶那美の神は、火の神を生みたまひしに由りて、遂に神避(かむさ)りたまひき。 】
神避(かむさ)りはもちろん言霊学では「死んだ」ことではありません。簡単な俗な例をあげれば例えば、恋人が待ちに待っていたところにやっと現れれば恋人を待つという思いはもう無くなります。そんな観念は必要でありません。これが「かむさり」で主体の自主的自覚的な事ではありません。
(このような客観世界の消失は世界のどの哲学思考にも無いのではないかと思われます。推測です。)
この「かむさり」では何にも死んだものはなく、「君を待ちに待ったよ早く合いたかった」と口に出す出さないは別として、過去に概念知識に退いただけですので、いつでも幾らでもあの時はこうだったよと思い出すことができます。
「かむさり」の世界は後に黄泉の国で解説されますが、それも同様に死者の国では全然ありません。古事記は死者の国を説くことはありません。後ほど。
今まで疑問に思っていたことが分かったということも、疑問の「かむさり」です。繰り返します。死んだのではありません。
各実体次元で問題となっていた当のことが退いて新たな実体実在が出現したのです。それは主体側の働きかけによらず起きることも主体側が関心を持ち続けたためにおきたことでもありますが、新たな事の実相内容が分かったということではありません。単に関心事の結果が得られたということです。
そこで、それを了解するまでの過程があったことを片付けなければなりません。
【かれここに伊耶那岐の命の詔(の)りたまはく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易(か)えつるかも」とのりたまひて、御枕方(みまくらへ)に葡匐(はらび)ひ御足方(みあとへ)に葡匐ひて哭(な)きたまふ時に、御涙に成りませる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもとにます、名は泣沢女(なきさわめ)の神。】につながります。
日常では主体だ自分だと言って勝手なことを随分とやっているようですが、分析してみるといろんなことがあるものです。
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ブログ041。『 当の主体が出てくる 』
【かれ伊耶那美の神は、火の神を生みたまひしに由りて、遂に神避(かむさ)りたまひき。 】
【かれここに伊耶那岐の命の詔(の)りたまはく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易(か)えつるかも」とのりたまひて、】
結果現象を得たので、得てしまえばそれに至る過程はそこまでで終わりです。これが出産であり現象を得ることであり、創造の結果となります。
相手側実体世界の経過結果が現象としてあられています。材料も要素も過去のものとなり、変化変形破壊補強修復新しい創造その他になり、現在に移されているのです。原型を留めることはないこともあるでしょうが、死んで無くなったのではありません。その元の姿を伊耶那美の神といい、退いたのです。
ここに退いた伊耶那美の神と伊耶那美の神の生んだ現象とができてきます。退いた伊耶那美の神は出雲(いずも)の国と伯伎(ははき)の国との堺なる比婆(ひば)の山に葬(をさ)めまつりき、となりますが、現象子供たちはどうなるのでしょうか。イザナミの手を離れた第三者となっています。そこでイザナギのミコトは次のように語ります。
「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易(か)えつるかも」
これはイザナギの働きに関する事ではなく実体側の変化現象です。イザナミ(客体側)が現象(子)の一続き(一木・ひとつき)になりました。
そこでイザナギは在るという現象を隈なく検討します。手にしている現象が一連の経過をへているのは何故か、そもそもここに現象を手にしているのはどうしてか、イザナギには根源的な問題です。
【 御枕方(みまくらへ)に葡匐(はらび)ひ御足方(みあとへ)に葡匐ひて哭(な)きたまふ時に、】
ここでイザナギの徹底した猛烈な検討作業が始まっています。
【腹這い】は腹を地に付けることです。腹は原っぱで五十音図の原のことで、頭脳内に在る先天の判断規範たるスガソ音図を、地に在る実在実体、手にしている現象と摺り合わす事です。
ここには二つの経過かがあります。客観を相手対象としてそれと擦り合わせをしていることと、もう一つは、客観を頭脳ないの判断規範に持ち来たって擦り合わせをしていることです。一般的に言えば前者はイザナミの神を相手にすることであり、後者は自分自身を相手にすることという、同じことをしているようで次元の違いがあります。
腹這いは相手に対することで、「哭(な)きたまふ」は自分自身に対することです。
ここではまだ相手対象となる客体と格闘している場面です。客体に関わり客体への執着愛着から抜けていません。客体側が相手対象となっていて、客体側の実在に左右されます。相手対象が消失したり踵を返してしまったり、流れが止まり中断したりすれば、現象が生まれません。ここまでは相手対象によって主体側の出番が有ったり無かったり左右されています。
しかしそこでひとたび得た現象を腹這いして検討している主体自身に注意を向けると勝手が違ってきます。ここでは泣き悲しむですが、次にでてくる「御涙」を導くためです。
主体内の音図の原を実在実体の客観世界の原とすり合わせをしていきます。頭の先から足の先までとは、ア行からワ行までということです。
何をするかといえば、泣くのです。鳴くの謎で、名のあるものは名を呼び、名のないものは名を探して鳴く(泣く)のです。
そうこうするうちに、泣く・鳴くことは主体内の独自の活動で、泣く事だけに関する主体側の行為が出てきます。出会えた恋人を見て起こした意識は全くその人のもので相手側のものではありません。
猛烈に検討したイザナギはそれが何でありどうするものであるかの自覚はまだなく、ただ自分の働きに関するものだという感触しかありません。猛烈に泣いて涙がこぼれ落ちます。
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ブログ042。『 無自覚に出てきた主体 』
【御涙に成りませる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもとにます、名は 泣沢女(なきさわめ)の神。】
【御涙に成りませる神は】というのですから、【涙】はきっと何かの暗示です。イザナギは猛烈に鳴くという自身の行為を検討しているところです。
涙はナミタ、名の実である田の謎でした。
イザナギの整理作業は金山始まり続いています。主体側の働きの子の一木(ひとつき)です。要素材料をたぐりよせ、明らかに使用可能な安定した要素材料を組み合わせていくと、事象があるという世界に五次元の階層を見いだし、各次元層のそれぞれ重要な隣接した三つの層を中心とした各次元に対応した判断規範ができていました。そこではまだ実在実体を集め整理しただけなので実相内容までは明らかになっていませんが、心の大枠を表現し立ち位置を示すのに充分な規範となり、これによってどのような問題、材料が持ち込まれても初歩的な対応が可能になりました。
以上は整理される側の一連の流れでしたが、ここに現象を受け取り検討している自分自身である主体を見る眼があります。それは自分自身の内容を見ることですのでいったん客観要素と応対しその現象を得れば、独自に頭脳内活動となって客観実在の制約を受けなくなります。こうして客体は客体として置いておいて主体独自の活動が開始されていきます。
主体側独自とは言っても、客体側要素材料の在ることから起きたことで、主体が自覚的意識的に立ち上げたことではありません。ですので主体は客体世界内の構造にそって動き・動かされていきます。(これを根本的に自覚して覆すのがみそぎです。)
そこでこの段、とその次では客体世界の構造に沿った、いわば無意識的な精神規範を基準にして、さまざまな判断のあり方が述べられていきます。その判断をもって客体世界を見ることを黄泉の国に行くといい、無自覚を反省して禊ぎを経て理想的な規範に到達するようになります。ここでは規範を無自覚に使用する主体のあり方が取り上げられていきます。(通常の判断活動は根本において無自覚ということで、どの場面においても自己主張することを妨げませんが。)
【御涙】は、ナミダ、名の実となる田、のことで、物事の実相に名を与えて明らかにする主体の働きを示し、そのような稔りをもたらす主体を田園に譬えています。この田園で(鳴いて、発音発生して)働くことで、事象の各次元層に係わる主体そのものが現れてきます。主体の働きは要素材料(ナミ田、名の実となる田)を相手にしないと自らを表出できません。
そこで【御涙】は頬を伝って落ちるものですからその様子を【香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもと】、根元としています。
【畝】は畑に作られた幾つもの土盛りで、ここでは主体側の畦(母音行)から客体側の畦(半母音行)へ盛られている実体世界の五つの次元層の事を指します。
【畝尾(うねを)の木のもと】は並んだ畝を平面ではなく立ち上がった【木】のように立体的に見て、五層を積み重ねたものとしてみて、その根元ということです。
【香山(かぐやま)】は書く山のなぞで、心によって表象され表出された五層の世界全体のことで、今は縦方向に見られた畝を持った田のことです。(天津スガソという音図のこと)
この田の元に涙が落ちました。
するとイザナギは自身が猛烈に泣き叫んでいる自分自身を見いだすのです。それが【名は 泣沢女(なきさわめ)の神。】で女らしく泣き叫ぶイザナギということで、泣き役の女神ではありません。
また、泣き叫ぶ自分自身を見いだすので、他者、客体実在と係わるのでもありません。それらは既に「かむさり」しています。
泣き整理検討している自分を見いだしますが、目前手持ちの要素材料の客観実在世界を相手にしていますので、全てイザナミが成立させた世界のことです。ですので自分を見いだすというのは、イザナミの反映された、それゆえ執着愛着の抜けない、客観世界の写し鏡という形をとります。これがいわゆるこの世に流布されている思想群として現れているものです。
その思想群の主体側が次にでてきます。言霊フトマニ学の思考法を除く世界思想のあれこれの原理です。
さて、この時点まででは、各実在世界層の検討で涙を流すと、各層に対しても下へ落ちるものがあり、「もと」のところに集まることが確認されそこに、 泣沢女(なきさわめ)の神が誕生しました。そしてそこに泣き鳴き騒ぐ自分自身を見いだし、鳴く自分の動因、泣く自分の活力の原因を感じました。各次元層を感じ考え思うのは、その「もと」に意思の創造原理たる動因が自分自身にあることを見いだしたのです。
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ブログ043。『 お寺の鐘がゴーン ・ 泣沢女(なきさわめ)』
【名は 泣沢女(なきさわめ)の神。】 ナキは名の霊、サワは流れの出てくるところ、メは萌芽意識で、物事が現象となって名を付け治める動因となるものです。主体(父韻)の働きで泣き騒ぎ物事に名を付け実相を示す元となる先天の起動韻となるもの。
手元に材料要素が集まりそれらをどう扱うかは、金山、波邇夜須(はにやす)、弥都波能売(みつはのめ)で整理運用され、和久産巣日(わくむすび)で大まかな規範ができています。次元世界が分類されそれらの木の元で、次元世界の違いを意識している自分がいることに気づきます。
ここからは主体側自身の問題です。次元世界の相違を見いだしたのは他ならない主体自身でした。イザナミの客体世界を扱いながらそこに主観独自の動きを見いだしました。
さらにそれは、客観世界の次元を分けてその次元内の事柄要素同士を見ていくと、関連性や連続性、配列相互の時処位、分岐点などがありました。それらの働きが主体自身にあればこそ主体はそれを表せるので、ここに次元層内での動因となってより細かいことをする泣き沢女がでてきます。
主体側の関わりが一連の連続性を表していく、ということにしないと客体要素の併置だけでは連関生はでてきません。
例えばここに物があるという知覚を考えるとき、実体実在の相違を意識してもその次元内での相違は、同じ実体での相違ですから、実体を見ている限り分かりません。それを示す規範が要ります。
そこで泣き沢女は、実体次元層の「木のもと」へ涙が落ちますから、「もと」となる創造意思、意思の動因が意志の次元、命の次元で働くということになります。ここではまだことの詳細を創造していくところまで話は進んでいません。ですので泣き沢女は原理としての意志の働きを見いだしたということです。
その内容が先人によって既に公開されている記述に沿って述べてみたいと思います。意志の働きは八つの連続した流れで出来ていて、それぞれが連続しつつ各自が独自に表出されるというものです。目的地に着く前に列からはみ出して独自な事をし出しますが、その独自性を形作るのもやっつの連続した動きの上で出てくるというようなものです。その活動を言霊イ段で象徴し、働きの流れを言霊チイキミシリヒニで示しています。
客観世界の反映が主観に載(宣)ります。
・イ・起動韻
・チ・与えられた実体客観世界を全体的に反映して主観世界を形成しています。
・イ・主観世界に形成されたものが心を推進していきます。
・キ・自分の精神宇宙に在るものを掻き寄せます。
・ミ・自分の方に引き寄せ結びつき
・シ・心の中心に向かって静まり納まる。
・リ・識別の力が心の宇宙の拡がりに向かう
・ヒ・心の表面に完成する。
・ニ・心の中心部に原因となるものが煮詰まる。
・ヰ・受動韻
イの起動韻が働く以前にも客観世界はあり、それらの反映は頭脳意識内に宣りますが、客観実体として何の性質も示さないのです。この始まりが重要なことです。実体世界があるという始まりは無色透明無味無臭無音無感なのです。
お寺の鐘がゴーンと鳴ってもそこに聞く耳が鳴ければ空気の濃淡振動が在るだけです。お寺の鐘が鯨や蝙蝠、藪蚊、馬の耳に「ゴーン」と鳴っているわけではありません。早合点を止めてみれば、お寺の鐘は鳴っていません。物理現象の作用反作用で空気の濃淡が移動していくだけです。
この空気振動と聴覚器官の実体だけを取り上げていくと、釈迦では色不異空、空不異色、色即是空、空即是色の教えが出てきます。しかし人間での場合のように同じゴーンにさまざまな意味内容見いだす教えは出てこず、無音の音を聞けのように直覚を得よのような教えになります。
イザナギは騒々しく泣き騒ぎ自らに騒ぐ動因となっている泣き沢女を見いだし確認します。自分の中に起動韻と受動韻が在るために相手対象と共感感応が起こるのです。音波振動の受容器官は聴覚ですが、聴覚に与えられた空気振動に言霊「イ」が反応しなければ、何の振動か分かりません。
言霊「イ」が起動する場合でも、「イ」の命の内容が、何の音かと疑問を持てば金の音となり、喧しいうるさいとなれば感情の音なり、腹に響いて食欲を起こせば欲望の音になり、生きるための気合の音と聞けば創造意志の音となり、期待した聞きたい音と聞けば選択の音となります。このように音の「木(霊)のもと」に働きかけ働き、揺すり揺すられ、いざないいざなわれて「イ」の内容が起動したときにのみ事象が起きます。
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ブログ044。『泣く自分・秘伝書』
お寺の鐘は鳴っていません、などと言われてびっくりしたのではないかと思います。人間の頭脳は超高速で回転し超高性能ですから鐘を叩けばゴーンとなり、ゴーンと鳴らすために鐘を叩くと思っています。数十億数百億年の宇宙の進化をどの人間も瞬間に開陳し実践するように出来ています。人間の歴史としてはここまでですが、人間はあまりにも全てのことを瞬時に受け行為することに慣らされている為、古事記のフトマニのように瞬時を百に展開する優雅で優美なことをすることが不得手になりました。
頭は素早く回転し過ぎ、こういえばこうなると原因と現象が同時に語られています。だから鐘をつけば音がするのは当然と思っています。ですが、音を聞くには聴覚で、聴覚が機能しなければ鐘がゆれ動くのを見て、あるいは腹に響く音圧を受けてというように、それぞれの受容器官で鐘をついたことを知ります。「泣く」といえば泣く原因結果の方を思ってしまい、泣いている自分自身を省みることがおろそかになります。
イザナギはイザナミの死を悲しんでいるのですが、落とす涙は自分のもので、悲しむ相手を思うことと、悲しんでいる自分を思うこととの二つがあることに気付くのです。イザナミの死を、相手対象を、悲しむ話はこのあと黄泉の国に向かいます。ここでは悲しんでいる自分自身を発見確認していくのです。
なぜ「悲しみ」の物語を安万侶は作ったのでしょうか。それは生命意志の言霊「イ」が「もと」にあることを示すためです。涙(ナミタ・名の実の田)は下の田の地に落ちそこに根付いてそこから稔り多き稲穂(イの名の霊)が花開き、花に名が付けられ物事の実相が表されるようになります。物事の実相を了解するには感情感覚から全体を見ると自分にはよく納得するものです。
そこで「イ」の対の位置につまり最上位に言霊「ア」がきます。感情は気が高揚しますから、気が上昇して言霊「ア」の位置は上にくるでしょう。そして、「ア」と「イ」の間に「ウオエ」の三者(後の三貴子)が入ることになります。
こうして感情と意思に挟まれて先天の心のスガソ音図(アオウエイの順)の起動韻(受動韻)となる「イ」の位置が与えられます。先天の「イ」の位置を示すために感情の話をしたのでしょう。
しかし、注意しなければならないのは、ここではまだ個々の現象結果を対比比較するまでに至っていないことです。頭の回転が速いのは結構なことですが、個別的な個々の現象結果を示す段に至る前の話です。地(田)の位置にイザナギ自身の心の働き全体である泣き沢女を見いだしました。どうどのように働くかは後に展開されます。
泣き沢女(父韻)が自分に確認される、地の「もと」の位置に「イ」があると確認されると、そこにはまず、「イ」から「㐄」への橋渡しが出来ます。
イ㐄が確認されると順次「エヱ、ウウ、オヲ、アワ」も確認され、ここに実体世界の領域ができてきます。
欲望を起こしている自分と自分の欲望の相手、疑問を持つ自分と疑問の対象となるもの、選択を按配している自分とその相手とうとうの、主体側の働きかける自分と客体の受動する側の橋渡しを、縁の下の力持ちである「イ」の意志が介在していることに気づきます。
この領域は客体側材料要素を得ているといっても、感情は感情である、疑問は疑問である式に主体側「イ」をそのまま客体とする「㐄」で表すので、個々の特徴はありません。オノゴロ島で出てきたアワ(淡)島はこのことを指します。起動側と受動側が直接にでてくる一般性・普遍性という形が現れます。
ところがこの「ア」から「ワ」(五十音図のアからワ)に直接橋渡しされる一般性の各実体世界に乗らないと、その次元内での話は通じなくなります。こうして一般性が実体化してきます。
この一般性は無色透明無味無臭の空の世界ですが、「それに何かの刺激が加えられると、無限に現象の音をだすエネルギーに満ちておりますので、宇宙の音を「無音の音」などと呼ぶ事があります。」
カネが鳴るという表現は一般的な表現で、どこのどんな何のカネがチーンゴーンカーンと鳴ったのか分かりませんが、このカネが鳴るという一般性の上で詳細個別性が理解されていくものです。
では何故個別的にさまざまな種や意見や観点が出てくるのでしょうか。現代では意見の相違を尊重し合うといいますが、その相違の出所を解明した思想家はこの三千年間にどの分野からも出てきませんでした。
フトマニ学では古事記の書かれるはるか以前に解決済みの論点でした。これは産業経済の物質社会の進歩と相反する構造を持っているため、そのままでは豊かな社会を疎外するものでした。そのため豊饒な社会の世界的な出現までは、フトマニ学の原理に替わる社会繁栄の原理を与えておいて、時の叶ったところで精神世界の原理が世界に伝搬するように考慮されました。現在はいろんな分野で精神世界の変態を求める声が出ています。
それらは全て数千年の先まで見ていた古代大和のスメラミコト達の仕事でした。数千年経った後に原理が消滅していては元も子もありません。そこで神話の謎のお話として精神原理を残しました。物理的に形式的に文化行事の分野で、そして何よりも世界に類例のない言語構造を持つ大和の日本語を作っておいたのです。その鍵を握っているのが皇室で、宮中行事の本質はフトマニ言霊学の形象化として残されました。(非公開のため何が行われているのか分かりませんが、明治天皇がフトマニ学の存在に気付いたように、皇室の誰かが気付いたときに世界全体が変化、変態脱皮に向かうことになっています。賢所には古事記の神名と言霊五十音の対応を示した歌の手引き書があるそうです。)
話が逸れたようですが、鍵となる歌の手引き書が今後の全世界の変態脱皮を促す「香山の畝尾の気のもとにいます」 泣き沢女というわけです。
もちろんこれが見つかったところで理解できるわけではありませんから、次元上昇とか革命とかが起きることもありません。それどころか誰も知らず何も起きないで時の進行だけがあるのかもしれません。というのも「イ」の次元はそれ自身は形に現れないものです。
同時に世界の泣き方も騒々しい限りです。
世界の前に全宗教、宗教組織は無力であることがハッキリしています。
どのような世界指導の意見も提言も何の役にも立たず、根本的な思想が求められています。
世界は既に全分野で連結されていますので、自分を立てることが必然的に世界を引き寄せることにもなります。
自分の結果を結ぼうとすれば世界とも結ばれなくてはなりません。
一人自分に閉じこもることも不可能になりつつあります。
知識情報は自分の取り入れていく範囲を常にこえていくようになりました。
ますます自分の表面に完成するものが他の世界を必要とされるようになりました。
自分において完成するものが無くなり、煮詰め留めておくことが難しくなりました。
世界は繋がっていて、その変態脱皮を感じる心は拡がっています。しかし誰も世界に指し示す規範を持ち合わせていません。
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