宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神
宇摩志・・可美(日本書紀)
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「ウマシ」は「うまし国」などというのと同じで良いものを意味する美称
良いものを心に感じて讃める語。形容詞シク活用の語幹
美味い、上手い、巧い、甘い。うまは伊勢神宮をはじめ多くの神社で神の使い。厩戸王子、蘇我馬子など、うまのつく重要人物名。古事記ではマイナーでも外宮に祀られているトヨウケさまの「豊受山」が宇摩にある
宇摩志(うまし)とは霊妙不可思議なの意
阿斯訶備・・
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「アシ」は葦、「カビ」は黴と同源で、醗酵するもの、芽吹くものを意味する。ここでは「アシカビ」で「葦の芽」のことになる。すなわち、葦の芽に象徴される万物の生命力を神格化した
「訶備」は「黴」と同源で物の発酵すること、芽ぶくこと
阿斯訶備(あしかび)とは葦の芽のこと
比古遅・・
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「ヒコヂ」は男性を表す語句
「比古遅」は、男性への親称
比古遅(ひこぢ)は、辞書に比古(彦)は男子のこと、遅(ぢ)は敬称とあります。男子(おとこ)とは音子で言葉の事
以上は引用で構成した。
宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神とは何かの、易による回答は以下の通り。
坎―
坤‥水地比
坤‥坤為地、
巽‥地風升
兌‥風沢中ふ
艮―沢山咸
山雷頤の4-5変で天雷旡妄へ。主爻は水山蹇、地山謙。
山雷頤・・顎、飲食、言葉、
水山蹇・・悩み、留まる、→ 留まっている言葉→ 記憶。
天雷旡妄・・天真天命、自分勝手、望外のことまで。
地山謙・・信用、謙譲、内に自ら留まり外に従順。
本卦-主爻の山雷頤-水山蹇、及び之卦天雷旡妄-地山謙からすれば、宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神は次のように解せる。
(未完)。
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4。宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。次に
5。天の常立(とこたち)の神。
言霊ヲ、オ。宇摩志(うまし)とは霊妙不可思議なの意。阿斯訶備(あしかび)とは葦の芽のこと。比古遅(ひこぢ)は、辞書に比古(彦)は男子のこと、遅(ぢ)は敬称とあります。男子(おとこ)とは音子で言葉の事。「霊妙に葦の芽の如く萌え上がるように出て来る言葉」といえば直ぐに記憶の事だと思い当たります。寝そびれてしまった夜、目が冴えてとても寝つかれそうにない時など、過去の記憶が次から次へと限りなく浮かび上がって来ます。一つ一つの記憶は関連がないような、有るような複雑なものです。宇摩志阿斯訶備比古遅の神と古事記が指月の指として示した実体は、人間の記憶が納まっている心の空間(宇宙)のことであります。これが言霊ヲです。一つ一つの記憶は独立してあるものではなく、それすべてに何らかの関連をもっています。その関連が丁度葦の芽生えの複雑な形状に似ているために、太安万侶はこの神名を指月の指としたのでありましょう。
天の常立(とこたち)の神とは大自然(天)が恒常に(常)成立する(立)実在(神)といった意味であります。宇摩志阿斯訶備比古遅の神が記憶そのものの世界(言霊ヲ)であるとするならば、天の常立の神・言霊オとは記憶し、また種々の記憶の関連を調べる主体となる世界という事が出来ます。またこの世界から物事を客体として考える学問が成立して来ます。言霊ヲの記憶の世界も、その記憶を成立させ、またそれら記憶同士の関連を調べる主体である言霊オの宇宙も、それぞれ人間の持つ各種性能の次元宇宙とは独立した実在であり、また先天構造の中の存在で、意識で捕捉し得ないものでありますので、宇摩志阿斯訶備比古遅、天の常立の二柱の神も「独神であり、身を隠している」と言うのであります。
「葦牙(あしかび)のごと萌え謄(あが)る物に因りて成りませる神の名(みな)は、宇麻志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。」
「葦牙のごと萌え謄る物に因りて」といいますと、読者の皆様は先ず何を連想なさいますか。人の心の中で、こういう状態になることを経験した方は多いのではないでしょうか。それは間近に処理しなければならない重大な事で、どうしてよいか分からない問題を抱えた前夜のことなど、床に入っても寝付けず、頭の中は過去のいろいろな出来事が走馬灯の如く駆け廻っている時の状態こそピッタリではないでしょうか。葦の芽も茎の四方八方、上下何処からでも新しい芽が出て来て、何処が始めで何処が終わりだか分からない程入り乱れます。その様な状態で現出して来るもの、それは宇麻志阿斯訶備比古遅の神というわけです。宇麻志は霊妙な、の意。阿斯訶備は葦の芽のこと。比古遅は男の子の美称、と辞書にあります。全部で霊妙な葦の芽の様な複雑な関連を持った原理の実態、といった意となります。これは一体何なのでしょうか。一言でいえば人間の心の中にその様に現出して来る経験知識であります。この経験知識が畜させされている心の宇宙、即ち言霊ヲであります。人間の経験知識は他の経験知識と複雑・密接に関連しながら、言霊ヲの宇宙に収納されているのです。この言霊ヲに漢字を当てはめて、その内容を説明すると、緒(を)や尾(を)などが考えられます。生命(いのち)の玉(たま)の緒(を)と言えば、それは記憶のことであり、尾では「尾を引く」の言葉もあります。また言霊ヲを端的に表現する文章が仏教禅宗無門関に見ることが出来ます。
【牛窓前を過ぐ】 五祖(法演和尚)が言った。「譬(たと)えば牛が窓前(そうぜん)を過(よぎ)って行った。頭角や四蹄が皆過ったのに、どうして尻毛は過ぎ去ることが出来ないのか」(無門関第三十八)
「天(あめ)の常立(とこたち)の神」
天の常立の神とは、大自然(天)が恒常に(常=とこ)成立する(立=たち)実体であり、主体であるもの(神)と説明することが出来ます。それは言霊オのことです。宇麻志阿斯訶備比古遅の神(言霊ヲ)が経験知識そのものの宇宙とすると、天の常立の神(言霊オ)はその経験知識を記憶し、それを活用する主体の宇宙ということが出来ます。言霊オに振漢字をすると、男(お)、雄(お)、牡(お)等が考えられます。
わたしがわかんなくなると、静かな夜に、ここにちゃんと鉛筆を置いてじーっと目をつぶってるんです。
それでふっと目を開けるとね、白装束のちょっと年とった人がまわりを10人ぐらい取り巻いてるんです。それで、『こうしろよ』『ああしろよ』って言ってくれるんです。だからそのように書いて、あとで読んでみると『わかったー!』っていうことになるんですよ」っていう話をしていただいたんです。「ああ、そんなもんなのかなぁ」って。だから、わたしが書いたときも白い人出てくるかなあ」と思ったら、一向に出てこない(笑)。全然出てこない。
わたしのやってることが、そういうことに頼らないっていうことを、わたくしの先生から教わっちゃったからです。「太安萬呂さんが古事記の神話を書いたときから現代に到るまでの出来事は、あなたの心の中にはちゃんと生きてるんですよ」って。宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコジノカミ)のところにちゃんと詰まっちゃってるんですよ。だから、そういう白い人は要らないんだって。自分に問いなさい。自分に問えばいいんだって。
今日は剣を解説してみよう。物を切るだけに働く刃物は刀(かたな・片名)という。剣には切ると同時に、その切ったものを繋げる働きの意がある。剣とは連気(つるぎ)である。
切って分析したものを再び統合して元の全体に返すことによって物事の道理を掴むこととなる。人間の心の問題として見る場合、切ったものを総合して元に返したということは、単にバラバラにしたものを一つにくっつけた事ではない。
分析して部分部分の仕組を明らかにし、その上でその物事自体が人間の文化にとってどのように役立つか、を考えながら総合したことである。言霊オ「天の常立神」の分析は自然に対する調査であり、言霊エ「国の常立神」の総合は人間の文化活動である。
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精神元素「ヲ」の言霊と古事記。その1。
古事記神代の巻冒頭百神によって与えられた「ヲ」の神名・
宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。言霊ヲ
・神名の解。
宇摩志(うまし)とは霊妙不可思議なの意。
阿斯訶備(あしかび)とは葦の芽のこと。
比古遅(ひこぢ)は、辞書に比古(彦)は男子のこと、遅(ぢ)は敬称とあります。男子(おとこ)とは音子で言葉の事。
・神名全体の意味。
「霊妙に葦の芽の如く萌え上がるように出て来る言葉」といえば直ぐに記憶の事だと思い当たります。
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を [ 大辞泉 提供:JapanKnowledge ]
[格助]名詞、名詞に準じる語に付く。
1 動作・作用の目標・対象を表す。「家―建てる」「寒いの―がまんする」「水―飲みたい」
・ 「ただ月―見てぞ、西東をば知りける」〈土佐〉
2 移動の意を表す動詞に応じて、動作の出発点・分離点を示す。…から。「東京―離れる」「席―立つ」
・ 「さびしさに宿―立ち出でてながむればいづくも同じ秋の夕暮」〈後拾遺・秋上〉
3 移動の意を表す動詞に応じて、動作の経由する場所を示す。…を通って。「山道―行く」「廊下―走る」「山―越す」
・ 「また住吉のわたり―こぎゆく」〈土佐〉
4 動作・作用の持続する時間を示す。「長い年月―過ごす」「日々―送る」
・ 「足引の山鳥の尾のしだり尾のながながし夜―独りかも寝む」〈拾遺・恋三〉
5 (「香(か)をにほふ」「寝(い)を寝(ぬ)」「音(ね)を泣く」などの形で)同類の意をもつ名詞と動詞の間に置かれ、慣用句を作る。
・ 「夜はも夜のことごと昼はも日のことごと音(ね)のみ―泣きつつありてや」〈万・一五五〉
6 遭遇や別離の対象を表す。…に。
・ 「逢坂(あふさか)にて人―別れける時に詠める」〈古今・離別・詞書〉
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『次に国稚く(くにわかく)、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母なす漂へる時に、葦牙のごと萌え騰る物に因りて成りませる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。次に天の常立(とこたち)の神。この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまひき。』
心の宇宙から言霊ウ、アワと剖判が起りました。しかしまだ先天宇宙の構造の話は始まったばかりで、それが確定されるのはまだまだ先の事であります。
「国稚く」の国とは組んで似せる、区切って似せる、の意。東京と言えば東と京の字を組んで名を付け、東京といる処の内容に似せたもの、という意味であり、また東京という処を他の処とは別に区切って、東京の地を際(きわ)立たせたもの、の意となります。「国稚(わか)く」とは、先天構造を構成する言霊ウ、アワの検討は終えたけれど、まだその区分は始まったばかりで、しっかりと確定されたものでない、即ち、稚い、幼稚なものであるの意。「
「浮かべる脂の如くして」とは、水の上に浮かんだ油のようにゆらゆら漂っていて安定したものではない、という事。
「水母(くらげ)なす」の水母とは暗気のこと。混沌としてまだ明白な構成の形体をなしていない、の意。
「葦牙(あしかび)のごと萌え騰る物に因りて成りませる」の意味は、濕地に生える葦が春が来ると共に芽を出し、またその枝芽から次々と芽を出し、何処が元で何処が末だか分らない程分かれた枝芽を出しますが、その姿のように、の意であります。
一つ一つの記憶は関連がないような、有るような複雑なものです。宇摩志阿斯訶備比古遅の神と古事記が指月の指として示した実体は、人間の記憶が納まっている心の空間(宇宙)のことであります。これが言霊ヲです。一つ一つの記憶は独立してあるものではなく、それすべてに何らかの関連をもっています。その関連が丁度葦の芽生えの複雑な形状に似ているために、太安万侶はこの神名を指月の指としたのでありましょう。
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・言霊「ヲ」の意味。
言葉、その記憶が収まっている出所。
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宇摩志阿斯訶備比古遅の神には珍しく説明がついています。上に引用しました。
説明には葦牙とあるのが神の名では阿斯訶備になっています。ここから葦の芽の出る勢いが結ばれているようです。どんなものか見たことはありませんが実際その通りなのでしょう。
葦は後に葦船となって再登場しますがこの時は、天津太祝詞言霊図のア段、タカマハラナヤサ、ワとイ段チキミヒリニイシ、ヰのアとシを結んでできたアシのことで、父韻を抜きにした原理原則(イ段)感情(ア段)だけの世界をいっています。当然宇摩志阿斯訶備比古遅の神にも該当するでしょう。四番目の出生でまだウの全体とア・ワの主客しか知りません。
そこで四番目に出るもの、宇摩志阿斯訶備比古遅自身となるものは何かです。
それは、そこに有るもの、ウ-ア-ワの全体として在るものです。
神名をもう一度見てみると、
宇摩志(うまし)とは霊妙不可思議なの意。
阿(あ)・斯(し)・父韻が無く現象が産めない
訶(か)・火
備(び)・霊(ひ)
比古(ひこ)・男子(音子)、活用、動き
遅(ぢ)・地となることに気が付きます。
そこから、霊妙に葦の芽の如く(うまし)、しかし父韻による現象化を成し得ず(あし)ただ萌え上がる火(ひ)のように言霊(び)の動きが出て来る(ひこ)言葉の下地(ぢ)となります。これは頭脳内のことならば記憶となり、あるいは意識の対象となるものを指します。
現象としてみれば、机上の鉛筆、ノート等、意識の対象にされれば全てヲになります。
精神元素「ヲ」の言霊と古事記。その2。
尾、緒、を。ヲに引っかけた公案です。
『 無門関 三十八、牛、窓檻を過ぐ
五祖が言はれた。例えば水牛が小さな窓格子を通り抜けるのに、図体のでかい頭・角・前脚・後脚とすべて引っかからずに通りすぎてしまったのに、どうして細くしなやかな尻尾の先っぽだけは通り抜けることが出来ないのか。
無門曰く もし是に対して逆のほうから真実の眼をもつて見抜き、価値有る一句を下すことが出来れば(三宝の恩(父母の恩・衆生の恩・国王の恩)上四恩に報いることが出来,下三(慾界・色界・無色界の生死を繰り返す迷いの世界)を授けることができよう。若しそれが出来なければ、もう一度尻尾を見直しなさい.
頌に曰く、通り過ぎれば穴に落ち 、引き返しても粉みじん。いつたい尻尾というやつは、なんとも奇怪千万さ。』(分かりやすいように言葉を補っています。)
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ある人の解。1。「私は、何事も完全に分かるということはあり得ない、と解釈したいです。必ず何かが残る。また残らねばならない。無門和尚の言う尻尾とは、完全に理解したという奢りを戒めるものであり、物事の奥の深さを示すものであり、常に限界まで追い求める徹底さを表すものでしょう。」
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ある人の解。2。「この公案の要諦は水牛の頭・角・前脚・後脚と尻尾が何の譬えであるかということである。水牛の身体は百句の世界(即ちあらゆる言語と文字の世界<原理・理論・学説・思想。哲学・教義・経典など、欲望・煩悩など>)を通り過ぎ、脱却して、百非の世界・不立文字の境地に達することが暗示されている。
さて残る尻尾は見性・開悟・自己本来の真面目・自己の心に仏を見出すことしかありえない。ここにも不立文字の重要な役割をみることができる。」
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ある人の解。3。「窓れいは窓枠ですか、牛が通って行く、頭角も四足もすっかり行ったのに尾っぽの先が残ったという、だれかれたいていこれやってます、なんですっかりなくならないんだという、云ってる限りはなくならないんですか、一転して下さい、これのみが仏の道です。」
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言霊ヲその1をやっていて、尾のことを思い出したので、引っ張ってきました。
皆さん尻尾は残り物という解のようです。
わたしの解。
実は窓も頭も角も太股も、尾尻も全部残り物です。残り物を残り物で解すると、小さな窓を牛が通れるわけありません。また、窓が小さくても尻尾は楽々通過出来るはずです。公案は両方ともその反対のことをいっています。そこでまともに聞けばそんなはずはない、そんな馬鹿なことはあるか、ということになります。そして偉い坊さんが言うのだから何かの裏があると、懸命に考えることになる。
多くはやり残しや完全にはやれない部分があるとして解をだします。しかし、そもそも坊さんの言うことを理解するしようとすること、その知識に答えようとすることが間違いです。完全であれやり残しがあるであれ理解することで解決出来る問題ではありません。別の人は牛は窓を通るのではなく、窓の向こうを通るのを見ただけだというのまであります。
どれか一つの言葉にひっか掛かるとその言葉を巡ってその人の全生涯全人生がでてきます。知識の総体がでてきてああだこうだといいだしまし。足りなければ研究までしだします。さらに欲望がありますから、こうなるだろうああなるだろうとなっていきます。尻尾は細いのに何故通過出来ないのか、その理由を必要としてきます。頭が通ったのは窓が大きいからだろうと決めつけます。自分の解を擁護しさえします。しかし、公案はそんなことはいっていません。
尾尻とは記憶のことで、窓を通過出来ないとは何時までもこだわっていることです。
図体とは過去のことで、窓を通過したとは過去になっているということです。苦痛も大問題も過去になって過ぎてしまっているのに、些細な尾っぽのことに捕らわれて小窓も開けられない例えです。公案では間違いやすいように大小で掛けてありますが、これは大きさの問題ではありません。
こだわっているとか過去とか今わたしは言っていますがそのことが問題なのではありません。坊さんの公案を聞いてしまっていますから、それに答えなくてはなりません。再度の質問を撃破するくらいの答えをしなければ公案の答えとなりません。ここは言霊ヲの項目ですから何とかヲで答えたい。
過去や記憶をどうして現在のこととして扱うのかそれを示せればいいように思うけれど、それでは未来がないから、未来に向かう記憶の使い方を示せればさらにいいと思う。しかし、過去も記憶も過去の領域のものなのにどのように未来に口出しができるのだろうか。公案もどんな宗教もそんなことはできた試しはないのに、真面目な問題になるだろうか。それが出来るなら宗教の限界の超え方になってしまう。(あな恐ろしや)
をは客観対象記憶の世界です。それに対する態度には二つあって、更なる記憶を持ち出してどういうものかと概念分析していく世界、もう一つはどうするかどうしようかの世界です。過去経験に閉じこもるのと未来選択へおもむく二つになります。
前者は窓の大きさとか角の長さとが気になり分析し合理的なかつ科学的な理性に納得出来る道を捜します。後者も合理性に則って未来へ抜ける選択出来る道を捜します。ところが両者とも窓とか尻尾とか通り抜けるとかの言葉を受け入れているのが問題です。
もともとありえないことを言っているのですから、子供が聞けば嘘つきは閻魔様に舌抜かれるぞといわれるところでしょうが、道の教えですので子供の率直な意見も参考になるでしょう。子供は何故坊主は嘘を言っていると見抜けたのでしょうか。子供も言葉を受け入れ牛が窓を通れないことを主張しました。尾尻もほら通れるじゃないかって実際にやってみたいでしょうが残念ながら実物はありません。
修業僧も子供も同じ言葉を聞きましたが、その言葉の理解には違いがあります。修業僧の持っていた合理的な科学知識はなんにも役立たず子供が一本取りました。
解の1、は「完全に分かるというには」と言っていますから、どこまでいっても理性で理解したいだけで、人間性能には悟性理解意外にもあることを忘れています。
解の2、は「不立文字」と言って身体は百句、尾は不立文字と分立してしまっています。
解の3、は「すっかりなくならない」と言ってやはり尾と身体が分かれています。
みんな頭も角も身体も尾も全てがをであることを等閑にしています。
をを何とか救いあげてみたいのでやってみましょう。まずをがどのように出来て、その過程でどのように間違うかをみてみましょう。そして、をの進むべき道をさがしてみましょう。
『例えば水牛が小さな窓格子を通り抜けるのに、図体のでかい頭・角・前脚・後脚とすべて引っかからずに通りすぎてしまったのに、どうして細くしなやかな尻尾の先っぽだけは通り抜けることが出来ないのか。』(公案38)
コ。まず公案を聞きました。聞いたときに向けられた関心は様々で、頭を印象に残す人、窓、角、尾尻と各人各様になります。
角を出しアンテナを立てて聞き取ろうとします。視力や聴力が在るように理解力もあります。この段階での理解力は正しく理解する力ではなく、聞いたことを理解するには自分の知っていることに結びつける力です。結ばれるのは自分の過去経験知っていたことに関してだけです。この時点で既に知識概念の限界があることになります。ところが自分の知っていることから出発するとそれだけが全体に拡がっていき、他のものを押し退け不要であるとしていきます。他人の意見も聞きましょうと謙虚な意見がでることもあります。凝り固まる。尾は大き過ぎたとか尾がちぎれて残っているとかの意見になる。
ソ。聞いたことを自分の中に結びつけるものが見つかると、それを所有した気になり、自己主張を守り固めようとします。やさしい言葉で自分の意見を持ちましょうなどと言われますが、その実体は自己所有をはっきり主張し他からの攻撃を防御し所有物の拡散を防ぎましょうということです。喧嘩の種を作らされてしまいます。相手を削ぐ、防御に力を注ぐ。尾は静止していると主張する。
ト。主張が見つかると、それが全体となっていきます。ある時ある場所で得た経験知識概念記憶であるのにもかかわらず、自分の心の全体に拡がってしまい、他のものを見ないし見えなくなります。こうして自分の意見はこの世の全体を代表するものとまでなっていきます。主張する本人にとっては全体を表現する意見には違いありません。セーブする人格を持たない人と渡り合うのは大変なことです。自分の作り出した尾の話しにすり変わる。
ノ。自己の全体を押し出すと同時に、それらを全て心の奥に煮詰め自己主張の中心をつくろうとします。廻りの見解経験の相違から来る当然な違いなどを利用して、こころの中に自分を煮詰めることによってそれを抽出して実体化しようとします。尾を焼いたり煮たりすれば良いと言い出す。
ホ。固まり出てきたものに名前をつけ表面を繕い内面の上昇してきたものを表現した、創造したというような顔をしだします。もともと自分の経験からきているものなので、何ぶんの一かの自分の真実はあるわけです。尾を平らになるまで叩く。
モ。こうなると、基準は自分にあることとなり、それを中心にまとめ結びつけようとしていきます。じぶんにとっては大事な生きた宝物ですから、自分側の有用性、有効性を久しく保持繁栄させようとします。自分が尾を持って別の扉からでていく。
ヨ。潜在的にこの世は自分の手のひら上にあると思うようになる。もっとおとなしく言うのならどうぞお好きなようにおやり下さいとなるでしょう。尾を弓矢のようにして飛びだささせる。
ロ。公案の解を得る目的が発端となってしまう。出題者にどのような尾か聞く。
キシチニヒミイリ、から
チキミヒリニイシ、へ
ト。牛の尾と言うのだからそれを思い起こす。
コ。その思い出された牛の尾を考える。
モ。尾の実相に結び付く。
ホ。尾はどういうものか説明をする
ロ。一般に拡大され世間的にも納得する尾を見つける。
ノ。それを尾と名付けられたものと決定する。
ヨ。そのように心も了解する。
ソ。結論として尾とはこういうものとする。
尾はこういうものだから格子を通れないことはないと確定する。
尾を取り上げればこういうことになるでしょう。公案は尾は通れないといっていますから、こんどは格子側を検討します。同じ経過を得て、当然格子を通れるということになるでしょう。
前者と後者の違いは出だしにあります。共に経験知識を目一杯役立てていますが、前者の場合は自分の知識を説明する為にさらに概念を持ち出してきます。後者は最初に浮かんだ尾しかみません。それ以外は自分の経験外、単なる知識としての概念です。
公案の文章全体ではどうなるかといえば、尾は離れずに後から着いて来るものですから、記憶について言っているあるいは自分の行為の結果そのもの、誰かのように頭と尾とを分けることなく、自分の創造した過去に着いて言っているとみるのが妥当なところではないでしょうか。もし分けるのなら、図体の方は過ぎ去っているのに記憶として実体が無いまま残っている状態、尾の方は実体はあるのに整理活用が出来ずにいる将来の無い状態というのもありでしょう。
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宇麻志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。
「次に国稚(くにわか)くして、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)える時に、葦牙(あしかび)のごと萌え謄(あが)る物に因りて成りませる神の名(みな)は、宇麻志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。次に天(あめ)の常立(とこたち)の神。この二柱の神もみな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠(かく)したまひき。」
「国稚(くにわか)くして」
「心の先天構造の内部がどの様な状態になっているか、まだその内部の実状を明らかにする作業がそれ程進展していないので、」の意であります。「国」とは組(く)んで似(に)せるの意。言葉を組んで、実際の状態に似るよう整えることです。その作業が成熟していないということです。
「浮かべる脂(あぶら)の如くして」
水の上に浮かんでいる脂(あぶら)のように形も定まらない、の意。前に述べましたように先天構造の内容がまだはっきりしていないで、浮遊する脂の如く不安定で、ということです。
「水母(くらげ)なす漂(ただよ)える時に」
水母なす、とは暗気の喩えです。一面がまだ暗くて安定せず、漂っている時、の意であります。
「葦牙(あしかび)のごと萌え謄(あが)る物に因りて成りませる神の名(みな)は、宇麻志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。」
「葦牙のごと萌え謄る物に因りて」といいますと、読者の皆様は先ず何を連想なさいますか。人の心の中で、こういう状態になることを経験した方は多いのではないでしょうか。それは間近に処理しなければならない重大な事で、どうしてよいか分からない問題を抱えた前夜のことなど、床に入っても寝付けず、頭の中は過去のいろいろな出来事が走馬灯の如く駆け廻っている時の状態こそピッタリではないでしょうか。葦の芽も茎の四方八方、上下何処からでも新しい芽が出て来て、何処が始めで何処が終わりだか分からない程入り乱れます。その様な状態で現出して来るもの、それは宇麻志阿斯訶備比古遅の神というわけです。宇麻志は霊妙な、の意。阿斯訶備は葦の芽のこと。比古遅は男の子の美称、と辞書にあります。全部で霊妙な葦の芽の様な複雑な関連を持った原理の実態、といった意となります。これは一体何なのでしょうか。一言でいえば人間の心の中にその様に現出して来る経験知識であります。この経験知識が畜させされている心の宇宙、即ち言霊ヲであります。人間の経験知識は他の経験知識と複雑・密接に関連しながら、言霊ヲの宇宙に収納されているのです。この言霊ヲに漢字を当てはめて、その内容を説明すると、緒(を)や尾(を)などが考えられます。生命(いのち)の玉(たま)の緒(を)と言えば、それは記憶のことであり、尾では「尾を引く」の言葉もあります。また言霊ヲを端的に表現する文章が仏教禅宗無門関に見ることが出来ます。
【牛窓前を過ぐ】 五祖(法演和尚)が言った。「譬(たと)えば牛が窓前(そうぜん)を過(よぎ)って行った。頭角や四蹄が皆過ったのに、どうして尻毛は過ぎ去ることが出来ないのか」(無門関第三十八)
「天(あめ)の常立(とこたち)の神」
天の常立の神とは、大自然(天)が恒常に(常=とこ)成立する(立=たち)実体であり、主体であるもの(神)と説明することが出来ます。それは言霊オのことです。宇麻志阿斯訶備比古遅の神(言霊ヲ)が経験知識そのものの宇宙とすると、天の常立の神(言霊オ)はその経験知識を記憶し、それを活用する主体の宇宙ということが出来ます。言霊オに振漢字をすると、男(お)、雄(お)、牡(お)等が考えられます。
「この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまひき。」
この説明は造化三神のところでしてありますので、此処では省きます。古事記の文章を先に進めます。
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