頭(かしら)には 大雷(おほいかづち)居り、胸には火(ほ)の雷居り、腹には黒雷居り、陰(ほと)には柝(さく)雷居り、左の手には若(わき)雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴(なる)雷居り、右の足には伏(ふし)雷居り、并せて八くさの雷神成り居りき。
雷神(いかづちかみ)とは、五十神である五十音言霊を粘土板に刻んで素焼にしたもの、と前に説明した事がありましたが、ここに出る雷神は八種の神代表音文字である山津見の神のことではなく、黄泉国外国の種々雑多な言葉・文字の事であります。高天原から黄泉国に来て暫く日が経ちましたので、伊耶那美の命の心身には外国の物の考え方、言葉や文字の文化が浸みこんでしまって、そのそれぞれの統制のない自己主張の声が轟(とどろ)き渡っていた、という事であります。ここに出ます黒雷より伏雷までの八雷神は黄泉国の言葉と文字の作成の方法のことで、言霊百神の数には入りません。 (島田正路著 「古事記と言霊」講座 より)
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【かれ左の御髻(みみづら)に刺させる湯津爪櫛(ゆつつまくし)の男柱一箇(をはしらひとつ)取り闕(か)きて、
一(ひと)つ火燭(びとも)して入り見たまふ時に】
イザナギは意志だけでは何もできないことを知りましたが、それにも係わらず意志ですから、自らを突き動かします。イザナギ(私たち)が持っているのは常に意識の五十音図規範です。愛しいと思うアの次元も、意志をぶつけるイの次元も何の変化を起こさせることはできませんでした。
待遠しさの心持ちにうながされて様子を見に行きます。どうしたのかという自分の気持ちを現わすのは、イザナギの現在までの手持ちの規範とその心です。正当な高天原の意識の運用法を自覚していません。
そこでいつもの癖で男柱である主体側のあ行で様子を見てみました。二つの見方があり、一つはあ行全体で、一つはあ行の各次元の一つを取ってみることです。
自覚的な規範運用ができないので、各次元の使用法に混乱があります。感情を話していると思うと、知っている知識の講釈になったり、思い付き次第こうすればよいああすればよいと言い合います。
また、あ行の一つの次元内での話し合いでも、誰もわ行への落ち着け方を知らず判らないので、ありったけの知識の披露と推測でああだこうだと言い合っています。
【蛆(うじ)たかれころろぎて、】
蛆はウの次元の心のことで、思い付き次第の思いや考え、浮かんだことのあることないことの主張です。
これはイザナギがそのように共感して感じていることで、イザナギの心の反映です。
直接的な事を対象とし、また相手として有るか無いかのざわめきを主とした話の元に、ごろごろピカッと渡り合う意識を指しています。その蛆が動きざわめく仕方を、八父韻に対応させています。
頭(かしら)には大雷(おほいかづち)居り、、思い着いた全体をそのまま出す意識、ア
胸には火(ほ)の雷居り、、胸に閃いた一つの灯火を全体のように受ける意識、ワ
腹には黒雷居り、、空き腹に手当たり次第のものを食ら(くら)っていくよう出す意識、ウ
陰(ほと)には柝(さく)雷居り、、陰を割き開いて(さく)お気に入りだけ受け入れるような意識、ウ
左の手には若(わき)雷居り、、手持ちの材料を分け(わき)与えるような意識、エ
右の手には土雷居り、、分け与えられたものに取りつかれる(つち)ような意識、ヱ
左の足には鳴(なる)雷居り、、あって静止しているのに(あし)まるでそれが成るように出してくる意識、オ
右の足には伏(ふし)雷居り、、あって伏されて(ふし)いたものを掘り起こして騒ぐような意識、ヲ
并せて八くさの雷神成り居りき。