古文書には何故目次がないのか。
多くの古文書、古文献には目次がありません。本文もづらづらづらと途切れなく書かれています。
わたしは前々から古事記の神代の巻に目次を付けて、手軽な考えるための要領となるものを作りたかった。かなり前にも試し作りをしたことがありますが、うまくいきませんでした。
現代の書物には必ず目次があります。要約、索引、検索用に本文の前にあったり後ろにあったりします。だいたいは読者への利便性が考慮されたもののようです。自分のためにも大まかなストーリーを定めてそれに沿うような方向を得るためにも用意される事もあります。
何々法とかいった文章の書き方を導入したものなどは、綺麗な見やすい目次が並びますが、項目の内容とは別の話です。
しかしよくよく見ると、文章が長い短いに関係なく、自分が書いていく時には、最初に目次を定めていても、書き出され書かれていく文章には目次の意識は無いようです。頭の回転、意識の流れに沿って考えた事を、思った事を連ねる事が多い。
読みやすい文章を書くというのはあっても、読みやすい目次を書いているわけではない。読者を思って書いてはいても、目次を書いているわけではない。
確かに目次と本文とは別のものですが、一つの書物、一人の人が成した書物なのですから別物というわけにはいきません。小説などは目次などあっても無くてもいいような作りですし、ベルクソンの哲学書は目次の言葉からそのページへ飛んでも何も見つからないというのもあります。
では何故目次を独立したものとして扱うようになったのでしょうか。古文書、文献に目次が無く、無くともやって行ける、それで普通である、という意識はどこから来ているのでしょうか。そこに近代、現代人の頭の構造に何か変化があったのでしょうか。
何か、、、、、手当たり次第に因縁を付けるブログみたいですね。。。。
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目次の大きな特徴は、判っている事を始め(あるいは終りに)に分割して書き記しているだけです。従って本文は目次から出ないし、目次は本文を閉じ込めます。
当たり前だ、そのために書いているものだ、というかもしれません。
確かにそうです。同意します。
と同時に、要するに、それだけのものでしかないということです。
目次で判っていることを本文でまた書くだけです。その理由付けは様々になるでしょう。
解説のため、読者のため、今後のため、記録しておくため、その他、です。
説明解説文、論文のためなどの場合には目次と本文に違いはありません。知っていることの再説解説です。過去に拾い集めたものを披露するだけです。+苦労、労力もですか。
しかし、そこには主体的な意識の働きは無く、既知概念に対する操作があるだけです。
考えに考えた末、練りに練った、とよくいいますが、古事記の言葉を使えば、
【 この子を生みたまひしによりて、御陰炙(みほどや)かえて病(や)み臥(こや)せり。】
【 たぐりに生(な)りませる、次に屎(くそ)に成りませる、次に尿(ゆまり)に成りませる、】
となって著書を産み出し、
【 火の神を生みたまひしに由りて、遂に神避(かむさ)りたまひき。
【 かれその神避(かむさ)りたまひし伊耶那美の神は、出雲(いずも)の国と伯伎(ははき)の国との堺なる比婆(ひば)の山に葬(をさ)めまつりき。】
著者の思想なり考えなり発見なりは著書の中にありますよ、ということになります。
それはそれで立派なことで作品を作ったことになります。しかし、これが禍の始まりとして直そうというのが古事記です。
かく言うわたしもこんなブログを作っているわけで、禍を振りまいていることになります。
そこで今回、目次という題目にかこつけて書き出したわけです。
古代人たちの健全な精神を見習えるかどうか。
さて、さて。
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冒頭-冒頭-冒頭
冒頭は始めの一つしかないのにこんな書き方をすると、またまた解釈の暴投が始まったと見られかねない。
でも、人の人生の始まりが誕生にあっても、それは、二人で始める新生活の始めではないし、自覚して意識を使用できるようになって生活費を稼ぐ行動をしていく人生の始めではない。子供を産めば始めに生れたのに今度は生んだ側に立つ。
神代の巻も同様です。それぞれは関連した進展を持っていて、その底辺、潜在性、先天性は共通で一本の柱が建っていますが、それぞれ独立した新しい話しの始めとなっています。本来の古事記は意識の発展を神の名とその物語で語ったものとなっているだけです。
それらの関連を見過ごし内容を見ないで一つ一つ別別の話としていくと、現在のような神話解釈となっていきます。もともと安万侶さんの企みもそこにあって、少なくとも千年は見破られないように、個別の話の集合と見られるようにしておきました。
ところがそんな中にあって、どうしても五十音の言霊循環としてしか理解できない、種も仕掛けも同時に埋め込んで言ったのです。神話として読んでいく場合その読み方の進展が、ある時気付いた場合には言霊の完成になるように書かれていたのです。こうして世界最高の頓智が現代にあるのです。
これは五千年以上も前から出来上がっていた古事記の内容、フトマニコトタマ思想を、暗記に次ぐ暗記に持ち堪えてきた、世界最高の神秘です。
ということで古事記の宣伝をしようとしまいと、古事記の真の内容のブログを書こうと書くまいと、古事記の決めた歴史創造の流れはかわりません。これもまた宣伝ですかね。ですので、皆が分かる分からないはさして急ぎのことではなく(そういう神示もありますが)、皆さんがそれぞれの態度で生活しているのがそのまま古事記の経綸に納まっているのです。
それぞれの魂の新しい始めがあります。但し、誰にでも明瞭に精神の変態、進化が現れるというわけではありません。知識の次元では、知ろうと欲して、調べ勉強して知ることになりますが、大抵はそれでお終いです。始めに知識を知ろうとしているからで、知れば当然、後は知りません。
意識の流れにおいては、これを超えなさいと、まず知識を捨てて高次の段階へ進みなさいと宗教が待っています。一応悟りなり見神なり降臨などがあっても、それらの個人体験をどうするか知っている方がいません。「荒野の叫び声」だけがこだましていきます。または金儲けに繋げます。
現象の形態は多様ですが、こころの本質は変わらず、例えば会社を大企業にまで造り上げて、そのノウハウを多くの文献、哲学、聖人から引用して書き記そうと欲望実現の方法を一生かけて実践してきたとしても、人の欲望次元の生活を拡大してきただけで、それに引用されている、思想宗教哲学等も欲望の奴隷として飾りとなっているだけです。
こういった世界は根深く、企業人、政治家も含め同等で、欲しい欲しいだけのことで、精神次元は欲望次元を現しているだけです。言葉の魔術に引っかかった青年達の人生の目標にもなっているくらいです。といってもこの欲望は人の始めの本質をも成しているものですから当然のことで、知りたい知りたいとブログを書き続けるのも最低の次元で欲望がうごめいているからです。
古事記はこういった人の心の形の多様に潜む本質部分だけを述べているものです。同一各次元(イエウオア次元)とイエウオア次元の上昇でのその本質部分においての変化変態ですから、それぞれには冒頭があります。
ただし、同一次元内での多様性は古事記の巻頭百神部分には無く、後半に扱われています。
百神部分は完全な原理の教科書ですから、常に五十音図全体を扱っています。
つまり、人の心魂の成長の五十音図の変態過程ということになります。
そこで古事記の構成は次のようになります。
冒頭 1。------こころの始まりでの先天の五十音以前。
天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、天の御中主(みなかぬし)の神。次に高御産巣日(たかみむすび)の神。次に神産巣日(かみむすび)の神。この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき。
冒頭 2。------こころの自己領域の始まりでの五十音の形成まで。
ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」と、天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依さしたまひき。かれ二柱の神、天の浮橋(うきはし)に立たして、その沼矛を(ぬぼこ)指し下(おろ)して画きたまひ、塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、引き上げたまひし時に、その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島は、これ淤能碁呂島(おのろご)なり。その島に天降(あも)りまして、天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。
そして現象表現。
冒頭 3。------こころの現象をもって客観現象をみる五十音の検討。
この子を生みたまひしによりて、御陰炙(みほどや)かえて病(や)み臥(こや)せり。たぐりに生(な)りませる神の名は金山毘古(かなやまびこ)の神。次に金山毘売(びめ)の神。次に屎(くそ)に成りませる神の名は波邇夜須毘古(はにやすひこ)の神。次に波邇夜須毘売(ひめ)の神。次に尿(ゆまり)に成りませる神の名は弥都波能売(みつはのめ)の神。次に和久産巣日(わきむすび)の神。この神の子は豊宇気毘売(とようけひめ)の神といふ。かれ伊耶那美の神は、火の神を生みたまひしに由りて、遂に神避(かむさ)りたまひき。
この子を生みたまひしによりて、御陰炙(みほどや)かえて病(や)み臥(こや)せり。
冒頭 4。------自覚されたこころ自身の五十音形成と客観事象の止揚へ。
ここを以ちて伊耶那岐の大神の詔りたまひしく、「吾(あ)はいな醜(しこ)め醜めき穢(きた)なき国に到りてありけり。かれ吾は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」とのりたまひて、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)に到りまして、禊ぎ祓へたまひき。
かれ投げ棄(う)つる御杖に成りませる神の名は、衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神。次に投げ棄つる御帯(みおび)に成りませる神の名は、道の長乳歯(みちのながちは)の神。次に投げ棄つる御嚢(みふくろ)に成りませる神の名は、時量師(ときおかし)の神。次に投げ棄つる御衣(みけし)に成りませる神の名は、煩累の大人(わずらひのうし)の神。次に投げ棄つる御褌(みはかま)に成りませる神の名は、道俣(ちまた)の神。次に投げ棄つる御冠(みかかぶり)に成りませる神の名は、飽咋の大人(あきぐひのうし)の神。
冒頭 5。------完成されたこころの五十音から始まることへ。
この時伊耶那岐の命大(いた)く歓喜(よろこ)ばして詔りたまひしく、「吾は子を生み生みて、生みの終(はて)に、三はしらの貴子(うずみこ)を得たり」と詔りたまひて、すなはちその御頸珠(みくびたま)の玉(たま)の緒ももゆらに取りゆらかして、天照らす大御神に賜ひて詔りたまはく、「汝(な)が命(みこと)は高天の原を知らせ」と、言依(ことよ)さして賜ひき。かれその御頸珠の名を、御倉板挙(みくらたな)の神といふ。次に月読の命に詔りたまはく、「汝が命は夜(よ)の食国(おすくに)を知らせ」と、言依さしたまひき。次に建速須佐の男の命に詔りたまはく、「汝が命は海原(よなばら)を知らせ」と、言依さしたまひき。
最後の№ 5 は完成された理想の結果ですが、これが新しい行為の始めとなります。
つまり冒頭 5 の全体が冒頭 1 となり、御中主となって言霊循環が始まります。
しかし、かならず 5 まで行けるということではなく、途中のそれぞれの段階で脱落回帰してそれを芯にしてまた元からはじめていくことが多いのです。
欲望次元の人は、オ次元の知識、学問も単に欲望獲得に従わされていきますので、学問研究の形だけになります。
また、成果結果をどうするか、途中の選択実行なども、エ次元の智恵の選択政治行為でなく、利益第一損得からの見解に支配され自己主張第一となります。引用されていた有り難い教え等は忘れられ脇に外されていきます。
古事記冒頭だけの目次作りを考えています。なかなかうまくいきません。
古事記自身には、目次の替わりに島生みという目次があります。冒頭にでは無く、途中に冒頭百神を分類した目次となっています。
目次が本文中にあることになります。
わたしもこれを真似したいのですが、今はまだうまくいっていません。
早くその心持ちに成りたいものです。
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最初と最後の冒頭
例えば、冒頭という場合、これは書けば、ぼ・う・と・う・の四文字です。
頭の中ではほんの一瞬ででてきます。
これを古事記の言霊循環でいうと、ぼ・に百神、う・に百神、と・に百神、う・に百神で、四百神の連続が瞬時に行われています。
もっと脳内科学が発達すれば、意識の流れのスピードが測れるようになるでしょうし、その途中の過程も分かるようになるでしょう。
私たちは「冒頭」と簡単に一言でいいます。「冒頭」分解できない一語のように見えますが、古事記はその一語の発声完成までに百神の経過を分析して提出しています。
そしてその百神の最後に至るどの部分においても逸脱脱落があることを示しています。例えば、ボウトウと言うところを、アレアレ !!ボウだったか、ボオだったか、ボと発音した後につっかえることがあります。また、冒頭からイメージ連鎖によって暴騰、だったり、暴投、だったり、はては、宝刀、だったり、放蕩、だったり、自在に転化が起きます。落語のアドリブにも利用されています。
「冒頭」という一つの言葉を言うつもりが、脱線するわけです。これは一つの単語単位ではなく、その一つ一つの単音ごとに脱線、逸脱の基礎があるからです。その基礎となっているのが、一つの単音を発声完成するまでに百神を通過するということで、その不十分な姿が脱線です。
冒頭は四単音でしかありませんが、それは文となり文章となっていけば、莫大な数の百神の循環となります。そこで現象は無数無限の形をとりますが、脱線、逸脱の仕方は本質的には百通りしかないということになります。
古事記を利用して顕微鏡的に見ればこうなりますが、長いものとして見ると、例えば、言語の発達障害でも、イメージ形成での、表現選択での、表現での、受容側での、障害とかいうように言語了解までの一過程での百神の位置によって見方が変わることでしょう。
また人間意識の魂の成長などとしてみていけば、企業財界人、政治家、科学者、なども金が欲しい欲しい、地位権力、名声が欲しい欲しいの一生を通じて欲望追求に支配された人、人間成長のほんの始めの人、で終わってしまうこともあるでしょう。
神代の巻きの中には人の意識の次元が変わる多くの場面があります。ここではそれを冒頭と読んだわけです。自覚された意識を持った人間となるには最後の三貴子から始まる「冒頭」を体験手に入れることになりますが、これは誰でもが自覚的にというわけにはいきません。先天的には全人的です。
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最後の冒頭 。
【 この時伊耶那岐の命大(いた)く歓喜(よろこ)ばして詔りたまひしく、「吾は子を生み生みて、生みの終(はて)に、三はしらの貴子(うずみこ)を得たり」と詔りたまひて、すなはちその御頸珠(みくびたま)の玉(たま)の緒ももゆらに取りゆらかして、天照らす大御神に賜ひて詔りたまはく、「汝(な)が命(みこと)は高天の原を知らせ」と、言依(ことよ)さして賜ひき。かれその御頸珠の名を、御倉板挙(みくらたな)の神といふ。次に月読の命に詔りたまはく、「汝が命は夜(よ)の食国(おすくに)を知らせ」と、言依さしたまひき。次に建速須佐の男の命に詔りたまはく、「汝が命は海原(よなばら)を知らせ」と、言依さしたまひき。】
本来はこれが古事記の結論です。
しかし、生きている人にはここが常に冒頭です。そればかりでなく、この世の社会もこの三貴子の状態になって始めて新しい次社会への冒頭となるのです。
今までは世界の自覚的な政治社会の運営が成されたことはありません。
情報交通、産業経済、学問知識次元では、ウの欲望次元と、オの知識次元では、世界規模でことが成り立っていくようになりました。
しかし未だに智恵の政治社会は見えてきません。、
それは毎年毎日毎時、下からの、ウの欲望感覚からなる産業経済からの突き上げを受けています。同様に普遍化世界化した学問知識に突き上げられっぱなしです。それでもエの実践実行の智恵は出したがらず、過去にしがみついています。
北朝鮮イラン等が大人しくなってしまったら、危機を煽って金儲けをする対象が無くなってしまいます。ウ次元の下からの突き上げる側はまだまだ金儲けをやりたく、駒をいろいろに動かしたいと思っています。
例えば戦争は犠牲がでますが、局地戦では大した金儲けは出来ません。かといっ大戦の用意はできません。現物消費ではなく、人間の意識を消費して金儲けを考えるようになっています。株とか金融商品とか信用商品を駒を動かして、意識に訴えて上下させていこうとしています。
そのようなことが繰り返されていれば、局地戦はあっても大戦はないとう安心感の回復が早いので、世界規模での非常な短期間での金融勝負が行われるようになってきました。
これらのことは全てスサノオの仕組んだことで、実行部隊はモーゼのユダヤで、戦術はカバラ、その虎の巻はアイウエオ五十音図で、日本はいつでも虎の巻がありますからどのようにでも対応していました。
現物から商品、流通消費、紙幣売買、金融信用となり、自然天候を相手にし、とうとう意識を動かす番になりました。人の存在そのものも金儲け、税金の対象になるでしょう。
三千年の歴史の最終段階に近づいています。
この意識を利用して世界を動かす実験がとうぶん繰り返されるでしょう。
今回に北鮮の砲撃にも株価の大きな変動はありませんでした。この程度では動かないことを学びました。この程度の交戦なら金儲けに結びつかないようです。次は局地戦となってその意識への影響力が試されるでしょう。
現在では局地戦で消費されるものなどほんの小量となりました。それの意識への反応が何を産み出すかをみて、生産へ導こうとするでしょう。
意識による金儲けは、当然最高位を目指し、それを利用しようとします。
世界運用の最高意識は、あれやこれやと探されていくでしょうが、その頂点は世界宗教者会議のような物になるでしょう。
これがユダヤによって人間の欲望五感感覚と結びつけられ、人の本性が金儲けのネタとなるでしょう。
生きること、生活すること、空気を吸うこと、人を愛すること、霊界などがこじつけ利用されるかもしれません。
「 (ひふみ神示)
またたきの間に天地引繰り返る様な大騒動が出来るから、、、。戦の手伝ひ位なら、どんな神でも出来るのざが、この世の大洗濯は、われよしの神ではよう出来んぞ。」
「この道ひろめて金儲けしようとする臣民 沢山に出て来るから、役員気つけて呉れよ、役員の中にも出て来るぞ、金(かね)は要らぬのざぞ、金いるのは今しばらくぞ、生命は国にささげても金は自分のものと頑張ってゐる臣民、気の毒出来るぞ、何もかも天地へ引き上げぞと知らしてあること近づいて来たぞ、金かたきの世来たぞ。」
天地のひっくり変えるような大騒動は、原水爆戦争といったようなものではないでしょう。反戦争への意志はどこの国でも強いものになってきています。もっと意識に、あるいは五感本能に根ざしたものかもしれません。
ここまでくればあとは一歩を踏み越えればいいだけです。
そして。
全世界の人々は今までの宗教と決別し、新しい一歩をスメラミコトと共に歩みだすでしょう。
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後半は非常に怪しい戯言となっています。
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新しい一歩。
冒頭 4。------自覚されたこころ自身の五十音形成と客観事象の止揚へ。
【 ここを以ちて伊耶那岐の大神の詔りたまひしく、「吾(あ)はいな醜(しこ)め醜めき穢(きた)なき国に到りてありけり。
かれ吾は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」とのりたまひて、
竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)に到りまして、禊ぎ祓へたまひき。
かれ投げ棄(う)つる御杖に成りませる神の名は、(今までの判断基準)
次に投げ棄つる御帯(みおび)に成りませる神の名は、(今までの連続性)
次に投げ棄つる御嚢(みふくろ)に成りませる神の名は、(今までの変化のリズム)
次に投げ棄つる御衣(みけし)に成りませる神の名は、(今までの心の衣、拠り所)
次に投げ棄つる御褌(みはかま)に成りませる神の名は、(今までの分岐点)
次に投げ棄つる御冠(みかかぶり)に成りませる神の名は、(今までの実相感)】
伊耶那岐の大神は何から何まで脱ぎ去ります。過去を捨て去ると同時に得ていくものがあります。
しかし、そのためには自らに、「かれ吾は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」とのりたまう」ことが必要です。新しい一歩、新しい冒頭にたどり着くにはただ待つだけではできません。
黄泉の穢れを、向こうにあるものが自分にくっついたとすると、穢れと感じるものを払い落とすだけで、黄泉に対する態度考えは変化していません。
古事記でいうことは全く別のことです。自分の考えていることは全部完全に黄泉のやり方に則ったものだから、その判断基準を「禊(はらへ)せむ」ということです。
自分に持っている汚れの判断基準をいくら精巧精緻にし、能力を高め推理しようと決して自分の家からでていないということです。家の外観を見るのに部屋の中で、ありったけの科学的な分析を持ってしても、壁や床や天井の詳細をこと精密に述べるだけなのです。 そんな能力をいくら高度化して家の外観は見えません。
水浴び、水行をいくらしたところで、黄泉の国の考え方で穢れを落としたというだけで、黄泉の国での国内事業です。伊耶那岐は事戸を渡して黄泉の国を出国しているのですから、その意味を組まねばなりません。
決意。
いざ、いざ。
いざ、なぎたおす。
この冒頭 4。のいざ、いざ、いざ、なぎたおす、が成立していなければ、最後の冒頭 5。には達しません。
仏教でいえば、ここが悟りを得た段となります。
古事記はさらに進んでいきます。そんなことではまだまだ冒頭にも到達していないと言います。
ここまで。
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『創造的進化、第三章 』(ベルクソン)
前回で書いた、新しい一歩に関する、『創造的進化、第三章 』(ベルクソン)、に「かれ吾は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」とのりたまひて、」の解説を見つけました。もちろん彼が古事記を読んだということではないですが、非常に接近したものです。
ちらちらっと第三章をめくってみましたが、驚くほど古事記の構成に似ています。
第三章・生命の意義について--自然の秩序と知性の形式。
ここでは知性の発生を辿り、同時に物体の発生を跡づけてみることにしよう、となっています。
そのような試みは向こう見ずで、思弁より酷いように思われる、とまでいっています。
実際普通の理性的、知的、科学的な頭脳で思えばその通りで、知識第一を掲げる方達には残念ながら読むに堪えないものでしょう。
ベルクソンは哲学の歴史を振り返った後、「けれどもそのような方法は精神に骨がらみになった諸習慣の反対にあう」といいます。これは黄泉の国での出来事をさしています。
相手方に、「知性を生じさせることなどは口にしないでほしい。知性の発生をたどるためにもあなたはやはり自分の知性が頼りなのだ」と、言わせています。事戸を渡しています。
「そうした非難の思いうかぶのも無理はない」と、いいます。
ここでちょっと残念なのは、古事記では伊耶那岐の主体側が事戸を渡すのに、ベルクソンでは相手側に言わせてしまっていることです。
確かに学会とか多数意見にしめられた知識界にいるとそういった外野がわいわい非難するように思えます。しかしここで自身の知性の発生をたどるならそんなことを眼に入れることはお門違いです。
外野からくる意見たちに掛かり合うとその範囲内でしかものを言えません。ここの章はそれを乗り越えるためのものものですから、自分の方から事戸を渡す古事記のほうがよろしいかと思います。
しかし、それでは、まだ所持していない事戸はどこにあるかが問題になります。そこに意識の先天構造が、御中主から妹伊耶那美までの十七神の設定が、必要となります。これを実在世界の構造として示したのが古事記の凄いところです。
創造的進化を全部読んだのではないので、ベルクソンに先天構造があるとかないとかはいえませんが、事戸はベルクソン自身が渡すべきでした。
しかしその後に彼の素敵な文章がつづきます。
・ところが行動は円環をやぶる。以降を対比してみましょう。
【】かれ投げ棄(う)つる御杖に成りませる神の名は、衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神
。。。「私たちを所与のものの円環に閉じ込めることも理屈の本領なのである。ところが行動は円環をやぶる。」
(今までの判断基準)
【】次に投げ棄つる御帯(みおび)に成りませる神の名は、道の長乳歯(みちのながちは)の神
。。。「もし一度もひとの泳ぐところをみたことがなかったら、」
(今までの連続性)
【】次に投げ棄つる御嚢(みふくろ)に成りませる神の名は、時量師(ときおかし)の神
。。。「あなたは水泳は不可能事だ、泳ぎを覚える為にはまず水上に身体を保たなければならないし、」
(今までの変化のリズム)
【】次に投げ棄つる御衣(みけし)に成りませる神の名は、煩累の大人(わずらひのうし)の神
。。。「したがってすでに泳ぎを知っていなければならないからだというにちがいない。」
(今までの心の衣、拠り所)
【】次に投げ棄つる御褌(みはかま)に成りませる神の名は、道俣(ちまた)の神。。。「実際理屈は私を固い土の上に」(今までの分岐点)
【】次に投げ棄つる御冠(みかかぶり)に成りませる神の名は、飽咋の大人(あきぐひのうし)の神
。。。「いつまでも釘付けにする。」
(今までの実相感)
つづいて、、
【】次に投げ棄つる左の御手の手纏(たまき)に成りませる神の名は、(主体側規範の動き)
奥疎(おきさかる)の神
。。。「しかしごく素直に恐がらないで水に飛び込むならば、」
(主体側の出発整理))
【】次に奥津那芸佐毘古(なぎさびこ)の神
。。。「沈むまいとばたばたしながらどうにかまず水上に身をささえ、」
(主体側の選択創造性)
【】次に奥津甲斐弁羅(かいべら)の神。
。。。「そうしてじょじょにこの新しいかんきょうになれて泳ぎを覚えることであろう。」
(主客の間隙を減らす)
【】次に投げ棄つる右の御手の手纏に成りませる神の名は、(客体側規範の受容)
辺疎(へさかる)の神
。。。「そのようなわけで、知性以外の道で」
(客体側の到着整理)
【】次に辺津那芸佐毘古(へつなぎさびこ)の神
。。。「認識しようとすることには」
(客体側の結果選択創造性)
【】次に辺津甲斐弁羅(へつかいべら)の神
。。。「理論上ある種の背理がひそむ。」
(客主の間隙を減らす)
。。。の後の文章は全部一続きの文章です。神名も同じ。
どうですか、驚異的な一致を感じませんか。
つづいて、ベルクソンは思考の飛躍を決心することを語り、古事記はみそぎ、上つ瀬は瀬速しを語ります。
ベルクソンの場合には上記の後、「とくかく思考は飛躍しなければならない。すなわち自分の環境から外にでなければならぬ。」、となりますが、古事記は上記の始めに「吾は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」と 詔りたまひてで、飛躍の決意をして、その実体内容が神々で現されています。その全体が知訶島というこころの締まりとなっています。
というのは、ベルクソンの場合は論文の関係上今までの思想、哲学をまずまな板に挙げていたわけですが、古事記の場合は、主体意識の流れそのままに、みそぎの材料として取り上げつつ止揚されていくからです。始めの二三を例にして違いを示します。
かれ投げ棄(う)つる御杖に成りませる神の名は、衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神
。。。「私たちを所与のものの円環に閉じ込めることも理屈の本領なのである。ところが行動は円環をやぶる。」
今までの判断基準からする理屈の本領が既に分析されているのでこうなりますが、古事記なら判断基準を突き立てつつ、過去の逸脱場所を指摘しそこから引き上げます。
次に投げ棄つる御帯(みおび)に成りませる神の名は、道の長乳歯(みちのながちは)の神
。。。「もし一度もひとの泳ぐところをみたことがなかったら、」
今までの連続性において見たことことがなくても、古事記なら道の連続性からその後のことが指摘されます。
次に投げ棄つる御裳(みも)に成りませる神の名は、時量師(ときおかし)の神
。。。「あなたは水泳は不可能事だ、泳ぎを覚える為にはまず水上に身体を保たなければならないし、」
今までの変化のリズムにおいて水中の経験がないとしても、古事記なら水中での主体側の時の経過の違いを分からせることができます。
一応こういった違いを書きましたが、さらにもっと後には、
「反対に、無性と生きものとの境界線を引くことからはじめてみよう。無性はおのずから知性の枠にはまり込むこと、生きものは手を加えなければ枠にあわぬことがわかるだろう。従って生きものに対しては特殊な態度をとって、実証科学とは違う目でそれを精査する必要のあることもわかってこよう。」
とありますから、ますますもって古事記と同じ方向にあることが分かります。
ここまでにしておきます。
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