飽咋の大人(あきぐひのうし)の神。「身禊」9。
次に投げ棄つる御冠(みかかぶり)に成りませる神の名は、飽咋の大人(あきぐひのうし)の神。
冠(かがふり)とは帽子のことで、頭にかぶるものです。五十音図で言えば一番上のア段に当ります。物事の実相はアオウエイ五次元の中のア段に立って見ると最も明らかに見ることが出来ます。芸術がア段より発現する所以であります。
飽咋の大人の神の飽咋(あきぐひ)とは明らかに組む霊(ひ)の意です。物事の実相を明らかに見て、それを霊(ひ)である言霊を以て組むの意となります。
大人とは主人公の事。御冠である五十音図のア段と照らし合わせて、物事の実相を言霊で明らかに組んで行く働きという事です。
以上で禊祓の行を実行する基準となる
・衝立つ船戸の神(建御雷の男の神)・
と、摂取する黄泉国の文化を整理・検討して、その内容や実相、また時処位等を明らかにする五つの働き
・道の長乳歯の神・
・時量師の神・
・煩累の大人の神・
・道俣の神・
・飽咋の大人の神
を解説いたしました。
これ等六神の謎解きについては御理解を得られた事と思います。これまでのお話で禊祓を行う下準備は完了しました。
これよりいよいよ禊祓の実行に取りかかる事となりますが、その実行する手順と手続きの内容を示す神名が極めて難解であります。先に詳細に説明申上げました「伊耶那岐の大神」と「御身(おほみま)」という事の意味を理解しませんと、禊祓の行の始めから終りまでが宙に浮いてしまうように、何の事かさっぱり分からなくなります。
頭の中でただ理屈の上で考えて頂くだけではお分り難い事となります。是非読者御自身が禊祓の実行者の立場に立ったつもりになって、言い換えますと、読者御自身が「伊耶那岐の大神」になられ、その御自身の「御身」を禊祓なさるおつもりでお聞き願い度いと思います。そういう事で古事記の文章を先に進めます。
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伊耶那岐は、もちろんわたし自分を含め誰でもは、一言話せば相手に自分の影となる物を与えてしまいます。相手はあるいは同調しあるいは反撥し話された話に載ってきます。
この伊耶那岐の与えた影はよもつ国では、まず、
自分の話に愛着を持つことの反応、
自分の話と同じでないことへの優越感に対する反応、
精神次元を勝手に解釈していく論議の増大、
そこから拡がる表現、
相手の反応に対応せず「見畏み」無視すること、
相手の思惟行為に則さない進行、
自分だけの独自の内容、
権威にすがること、
意志、意図の違いにしてしまうこと、
話し出すや否や性を作ってしまうこと、
等々として現れてきてしまいます。
これらはなぜどのように生じさせてしまったのか、伊耶那岐は自分の意識行為を・道の長乳歯の神・時量師の神・煩累の大人の神・道俣の神・飽咋の大人の神としてまとめました。
そこで、禊ぎの準備として、相手との関係を持つとはどういうことなのかを確かめます。
まず衝き立つ船戸の神の全体判断の俯瞰図を立てて分かったことは、
静的に、
●道の長乳歯(みちのながちは)の神。過去経験知識概念の違いから、相手の主張との関連性、連続性がみられない事。
●時量師(ときおかし)の神。相手の主張の変移と選択のリズムが相違している事。
●煩累の大人(わずらひのうし)の神。情緒感情も含め心に響く実体が双方に不明瞭さをもたらしていること。
●道俣(ちまた)の神。○客体、結論へと向かう分岐点が相違する事。
●飽咋の大人(あきぐひのうし)の神。○そして基本的な主張の構成法が相違する事。
等々を学び得ました。
そして次の段落では動的に検討してみます。