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ブログ 019。 次元の飛躍。日蓮、三沢抄。
意識は十四の次元を瞬時に循環飛躍して上昇階段をのぼります。
誰でもが十四の次元を瞬時に判別し駆け上り連続し継続していきます。
これは古事記にそう書いてあるから、解読して読み込んだ場合に言えることで、どこの誰も思想家も哲学者も科学者もそんなことを原理として体得している人はいません。
古代過去において多くのスメラミコト、安万侶、フトマニの講習を受けた宮廷人は知ってたでしょう。フトマニ言霊学を隠没してからは、千数百年間は誰も知らず、
少数の智者宗教家たちがその一端に気付いていました。日蓮は、この大法が出たら自分の教えなど陽が昇った後のロウソクの灯火と言っているくらいです。
日蓮の三沢抄です
「而るに去る文永八年九月十二日の夜たつの口にて頚をはねられんとせし時より・のちふびんなり、我に付きたりしものどもに、真の事を言はざりけると思いて、佐渡の国より 弟子共に内な申す法門あり
此は仏より後、迦葉(かしょう)、阿難(あなん)・竜樹(りゅうじゅ)・天親・天台・妙樂・伝教・義親等の
大論師、大人師は知りて而もその心の中に秘めさせ給ひて、口より外に出し給わず、
其の故は仏制して言ふ、我滅後末法に入らずば此大法言ふべからずとありし故なり。
日蓮は其使にはあらねども其時刻にあたる上、存外に此大法をさとりぬれば聖人の出でさせ給うまで、
先づ序文にあらあら申すなり。
而るに此の大法出現せば、正法像法に論師人師の申せし法門は、
皆日出でて後の星の光、巧匠の後に拙なきを知るなるべし。
此時には正像の寺堂の仏像僧寺の霊験は皆消え失せて、
但此の大法のみ一閻浮堤に流布すべしと見えて候。
各各はかかる法門にちぎり有る人なれば・たのもしと・をぼすべし 」
訳。
しかしながら、去る文永八年九月十二日の夜、竜の口において頚をはねられようとした時から後は、私についてきた人達に本当のことを言わないでいたのではかわいそうだと思って、佐渡の国から弟子達に内々に申し上げた法門がある。これは仏以後、迦葉・阿難・竜樹・天親・天台大師・妙楽大師・伝教大師・義真等の大論師や大人師は知っていても、しかも心の中に秘され、口より外には出されなかったものである。その理由は仏が制止して「私が入滅の後・末法の時代に入らなければ、この大法は言ってはならない」と言われたからである。日蓮はその御使いではないけれども、その末法の時にあたっているうえ、思いがけずにこの法門を悟ったので、聖人が出現されるまで、まず前ぶれにあらあら説くのである。しかしながら、この法門が出現するならば、正法時代や像法時代に論師や人師の説いた法門は、みな日が出たのちの星の光のようなものであり、巧みのあとに拙さを知るようなものとなろう。この時には正法時代や像法時代の寺堂の仏像や僧等のの利益はみな消え失せて、ただこの大法だけが一閻浮提に流布するであろうと説かれている。あなた方はこのような法門に宿縁ある人なのだから、頼もしく思われるがよい。
もちろん日蓮に帰依している人たちにはこの大法というのは日蓮自身の仏法を指し、日蓮自身の教えが「皆日出でて後の星の光」 とはしていませんが、日蓮自身の事を言っています。
こんなことを言ったからといって私が大法(フトマニ言霊学)を知っているわけでもないので、今のところは単なる雑学で、見解と主張の大小の違いです。
さてフトマニ言霊学の運用は古事記の冒頭百神をそのまま適応していけばいいだけのものですが、実際にやってみるとうまくいった試しがない。
泳ぐには水に入ること、心の運用には十四領域に入ることですが、いざとなると失敗だらけ。
このブログ019では、領域から領域へ渡るのにどうするのかという疑問を飛躍ととして表現したのですが、相変わらず何も進歩はありません。
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ブログ 018。 ハジマリ、はじまり。
古事記の冒頭は意識のなんたるかを述べたもので、その世にも不思議な完璧な原理です。
例えば、「始めとは何か」と考える時も冒頭の百神を適応すれば解答になるという恐ろしいものです。
もちろん解答するのはこちら側の人間のすることで、程度がありますからそれぞれになってしまいますが。
なにしろできる限り真似ていけばいいのです。言霊学は昔はフトマニといいましたが二十真似から来た言葉です。二十を上手に真似ればいいのですが、そう簡単ではありません。
人の意識の領域は十四の島(締まり)で現されていますから、「始め」というのも十四の始めがあって、人はそれぞれの次元を取り入れて自分の「始め」をあたかも「始め」であるように語るわけです。
「始め」を辞典などで引くと、
1 はじめること。また、はじめた時期。「勤め―」「タバコの吸い―」⇔終わり。
2 物事の起こり。起源。「国の―」
始原とは。物事の始め。起こり。原始。「
太初とは? 天地の開けたはじめ
等、始めははじめであるとしか述べていません。
これはどういうことかというと、日本語のはじめははじめと言えばはじめをそのまま表すようになっているということです。
余計な説明などしなくても、感覚的に知識的に感情的に実践的にはじめと言えばそれぞれのはじめを表します。
当て漢字をすれば端始芽みたいな感じになるでしょう。ここでは「し」は「じ」と濁るわけですが、「はし」という現在のあり方を了解したところから、つまり「はし」が在るという過去概念から出発するからです。「はし」が在ると了解されているものを持っているその「はじ・芽」ということでしょう。
そこで了解されている「はじ」が十四の締まりを持っている、つまり十四の「はじめ」が在ると、古事記はいうのです。
例えば、これは「考えの始め」、などと言うから、始めには知識の始めがある感情の始めがある問題解決の始めがあるというようなものではありません。
ややこしくなるのでここまでにしておきますが、「考えの始め」と言う時もそれぞれの現象の現れを「始め」と言うのではなく、その心の作用の全体を指します。
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ブログ 017。 飛躍の連続と持続
「イマココ」の一瞬を、十七の意識の活動と実体にして提出したのが、古事記の冒頭十七神で、千三百年前に安万侶が書き表しましたがその思想は既に一万年前には完成していました。この超人間的な思想を構築していたことを以て、スメラミコトが世界を秩序立てていたことは今後おおいに明らかになっいくことです。
人のどの心身の行為も飛躍という瞬間の連続です。 ここで書いているブログの成立に関しても瞬間の飛躍の連続です。例えばブログですから言葉を書く行為が示されるわけですが、わたしは今、「わたしは今」、と書きました。現象的にはパソコンを使用していますからドット点の点滅で考えが現されています。
ドット点の点滅は物理現象ですから意識も何も持ちません。それでも読めば何か意識上のものがあります。「わたしは今」という物理上のことは置いておきますと、文字も光点も取り入れないということになりますので、読まれた「わたしは今」はどこに在るかといえば読んだ人の記憶と書いた人の記憶にあります。
「わたしは今」と言ったことなどもう忘れたと言うのなら、それはそれでことは終わっていて、その言葉は宇宙全体に蛭子(ヒルコ・霊流子)として流され、次の因縁を待つわけです。
では記憶に残っている方の「わたしは今」の言葉の方はどうなっているかというのが、古事記の本来のテーマです。
「」内の言葉は一つの時間の流れの中にあります。一瞬だといいますが考えても書いても読んでも一瞬ではありません。そのことは「」内を分解して「わ・た・し・は・い・ま」と一字一字の単位要素にしても同じです。一つのまとまりです。
これを逆に長い方向に単位要素をとっても同じことになります。
私は数日間数年間同じテーマを考えていますから「わたしは今」というのはその数年間の同じ単位要素の上に載っているものです。これを個人から社会、歴史にへと拡大していくと、一万年前にスメラミコトが考えついた「わたしは今」の上に世界が載っていることになります。
瞬間というのは意識の切り取り方の一つです。
百年生きて死ぬ前に瞬間だった生を振り向くこともあれば、大好きなあの人と約束した時刻に会えなくて時計を見たらまだ一秒も過ぎてなくて、なんとも長く待ち遠しい思いをする、とかがありますから、意識の感じる時間を時計の時間に当てはめることはできません。
瞬間にはそれぞれ瞬間に立ち会ってその瞬間を感じたりして了解する特有の経過があります。古事記では人の意識領域を十四に区切って解説されていますから、瞬間にはそれぞれ次元の違う十四の瞬間があって、それぞれに了解されたものが瞬間として記憶されていきます。
それをトータルに説明すれば十四領域を網羅した百神での解説になり、古事記そのものの解説になり、途中で脱落停止などでストップしたまま飲み込んでしまえば、それぞれの領域での特徴的な瞬間ができあがります。そして瞬間が動く原理が冒頭の十七神となります。
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ブログ 016。 タの間、カの間。
吾の間を「タ」で始まるか「カ」で始まるかで語り、その両者を原理の「ウ」で説明する。
天地をアメツチと呼んで、その意味は吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)恵と成すということに抵抗が無くなってきました。
高天原をタカ・アマの原と読めという指定があるので、此処は「タ」と「カ」の吾の間の原のことと見当は前から付けていました。
<訓2高下天1云2阿麻1下效此> タカのしたのテンをヨミテあまトイウ。
吾というのは自分の心・意識・あたしのことですから、タの間、カの間というのは意識の始まりに「タ」と「カ」が在るということになります。これは複数ある言霊五十音図で確認されます。幾つか種類のある五十音図ですが「ア」段の始まりを見ると「タ」か「カ」の二種しかありません。「タ」「カ」吾間の原です。
【天地の初発(はじめ)の時、高天(たかあま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は】
これの読み方は、
吾の眼(私の意識・心)を相手対象に付けて智恵と成す初発の時、心の精神宇宙に生まれるのは、「タ」の間の吾の意識、または「カ」の間の吾の意識という、自分の心を生み出す太初の神という読み方になります。
つまり当初から二重二面性をもった意識の活動が始まるということです。
古事記はその二者の働き実体を統合して説明するのに その初めを【 天の御中主(みなかぬし)の神】言霊ウ、と名付けました。
こうして古事記全体は無自覚な「カ」から自覚的な「タ」への精神の発展変態を全面的に展開するようになります。
どうやら古事記の解説は「タ」と「カ」の二系統を同時に、またそれと同時に段階的に循環を説明しなくてはならないようです。
(2013年七月二十三日)
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ブログ 015。
「右の頬を打たれたら左の頬を向けよ」
「右の頬を打たれたら左の頬を向けよ」(マタイ伝)は、撃つとか苦痛を受けるという肉体生物物理次元を借りた、精神事象を語っています。
生物五感感覚上でははっきりと苦痛となって加害被害の別が出ます。
また記憶経験上からはその被害加害を推し量ることができます。
そしてその行為に伴う感情も怨恨憎しみ卑屈忍従等が起きてきます。
キリストは左の頬を向けて忍従を受け入れる形でこれらの継続維持を教えたわけではありません。返ってそれ以上の苦痛を止める方法を示しました。
映画でも良くある場面です。煮るなり焼くなり好きなようにしてくれと腹をくくります。すると気が削がれてその場が治まります。
これは力には力での抑止力を使用することの裏返しのようです。
それに宗教的な衣をかければ、
「相手の気持ちの上を行って、相手を大きな心で包んでしまう、それが主の教えの真意ではないでしょうか。我慢して、無理して主の教えを守るのではなく、積極的に喜んで行うのです。」となるでしょう。
しかしこれでは相手の気持ちに勝ってその上を行ったという、一時的に相手をくじいただけです。
「へ、俺の手が穢れるわ」、と捨て台詞を残していくでしょう。
これでは「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」ということに失敗したことになります。
そこでイエスのすることは気構えを持って相手を包み込むと同時に、相手の暴力行為に満足を与えなくてはなりません。
馬鹿馬鹿ばかと子供は母親を叩き、バカバカバカと愛する人に叩かせます。
左の頬とは、あなたは今後も同じ事をするでしょうから、次に殴る人の為にわたしの左が開いていますからどうぞと差し出すことです。足りなければもう一度右もどうぞ、これで二人分ですね、と。
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ブログ 014 天・天・天
古事記の冒頭です。
【 天地初發之時。於高天原成神名。天之御中主神。(訓高下天云阿麻下效此)】
【天】が連続して出てきますが、「高の下の 天だけは あま と読め」、という注意書きが付いています。
読み下すと。
天地初發之時。 アメツチのはじめのとき。
於高天原成神名。(訓高下天云阿麻下效此) たかアマのはらになりませるかみのみなは。
天之御中主神。 アメのみなかぬしのかみ。
言霊学を加味し、心の子事記として読みなおすと。
天地初發之時。 。。吾の眼を付けて智恵と成す(アメツチ)初めの時。
於高天原成神名。 。。タとカのア行のアの間の原(五十音図)に成りまする神のみ名は。
天之御中主神。 。。吾の眼(私の意識)というこころの宇宙の中心にあって意識活動の主となる元の実体。
古事記はこころの子の事を記した、世界唯一至高のこころの運用原理論教科書として残されました。
古代からこころの運用原理を心得た者がスメラミコトになってきました。
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ブログ 013 淡路の穂の狭別の「狭」について
知らぬが仏は、知っても仏になれない事をいうのでしょうか。
古事記では 『 子淡路の穂の狭別の島を生みたまひき。次に』と記されていて、今回は「狭」についてです。
事の始めが狭いところから別れ出てくるということをいったものですが、その狭いとは何かです。
分かりやすい例で、手を叩いて音を出すことを 見てみましょう。
拍手の音はどこからくるのかといえば、手を叩いたからですが、手の間隔を半分にして、またその半分にして、さらにまたその半分にしてと続けていきますと、何時までたっても手が合わせられず音が出ません。
ここは詭弁を学ぶところではないのですが、この「狭い」はココロの始めのどこにでも見付かる物です。
眼前の雄大な景色もモニターの画面も共にちっぽけな視覚像を狭い狭い水晶体に結ぶことで得られます。ここでも詭弁を遊べば、光点光子が網膜に近づき距離を縮め、さらに縮め半分の半分にしていき、狭く狭くしていき景色の光が網膜との間隔をどんどん縮めて狭く狭くしていった最後に光子が到達します。
ではそこで視覚像が得られるのかといえばそうではなく、光子が視覚細胞を刺激するだけの強さが無いと反応が起きません。この反応を起こす力も狭い狭い小さい小さい最小の単位力量を得られた時に、眼前の光景となります。
これらは視覚の物理化学電気的な作用なのでしょうが、各自の考えを発し言葉を話すときも同じでしょうか。
私の思い考え、ブログを読む見る読者、も五感の物理刺激が脳髄の狭い狭い領域に電気化学信号を与えることで起きるようです。
自分の考えを固執するのも他人の意見を否定肯定するのも、頭脳内のどこにあるのか分からないような狭い狭い領域から出てきた物です。頭脳の働き機能の局在化はかなり分かっているようですが、極所極所へと掘り下げられていきます。
言語を司る範囲を特定しても、それでもアイウエオのアの一言も創造したことはありません。
五感感覚を開けば器官に応じて360度の感覚が展開されます。それぞれの物理信号が受容器官に到達する直前はそれこそ「狭」ですが、ひとたび到達してしまえば全世界を得たように振舞えます。
こんな狭い狭い「狭」が世界全体と同等なのです。
淡路の穂の狭別の島・・・アとワ(淡路・主客)の世界(穂・言霊・意識)が別れて出てくる(別)狭い(狭)ところの領域(島)
つづく・・・?・・・
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ブログ 012 『言霊循環』
言霊循環。
先天構造内。
「た」を発音する側はそれを聞く側があることを前提としています(ひとりごとも含めて)。そこで両者間に共通の基盤がなければ通じ合えないので、このための先天構造があります。
例え単音であっても、単音の位置づけがなければやはり通じませんから、結局全体規範が両者間に存在していることが必要です。
この潜在構造は「た」と発音される以前のことです。
そこで発音側の心は「た」を発音したい意図を持ちます。
広く深く巨大な先天構造内に「た」を探します。その人の記憶全体が対象です。そんなところから出てくる「た」は意思されというだけで、形もどんなものかもはっきりしていません。
イメージ内。
そこで不定形な意図をイメージして先天内の「た」であることを抜き出さねばなりません。頭脳内では物凄い勢いでイメージが形成されます。その不正確な現れが夢です。夢を見ている時間は非常に短いのですが、その物語は長大なものとなることができます。
音を結び付ける。
うまい具合にイメージが形成されればイメージのの物象化が行なわれます。先天からきたイメージに形が与えられないと夢のようにふわふわで固定していません。ここで物象としての感覚機能が係わってきます。言葉になることを目指しているのなら音が探され、イメージと結ばれます。
物象との結合。 ことばの成立。
イメージは頭脳内の感覚機能と結ばれなと形をなしません。また、結ばれたとしてもイメージを形にしたものか、とんでもないものに乗り移ったのかも分かりません。うまくマッチしていかないと、とんでもない夢とか、夢遊病みたいなものとか、狐憑きとか、御告げをしゃべるとか、神がかりとかが起きます。「た」のイメージで発音するものが「こりゃこりゃ」なんていうことになります。
物象の移動。到達。
イメージと物象とのマッチがうまくいけば、物象とイメージが一体となって固定され、こんどは物質的なものとしての表出が始まります。既にイメージ内容が物象に乗っていますが、こんどは外見は物質の形となります。言葉ならば空気振動です。この物質をうまく使いこなせなければ相手に届きません。
復唱。
ここでも、発信側と受信側との両者間での共通の基盤が無いと相手に届かなかったり、届いているのに受信側に規範がないので受け付けられなかったりします。受動側に届いているのは物質の形をとっていますから、こんどはそれを解凍しなくては受け付けられません。
検討。
今度は相手側の頭脳内で物象をほぐして内容探しが始まります。発信側と同じ規範であることが納得されないと、物質部分だけが残ります。この物質世界に執着するのが黄泉の国に行くと言うことで、送受信側の主体性を働かせずに、物理的な側面に留まることになります。
煮詰める。
ここを乗り切ることが普通は全然自覚的に行なわれていかず、自動的に見過ごされていくところです。相手の送ったものを自分の規範で解して行ってしまいます。それでも一応相手のものを受け取ったのですか、それなりの検討結果を自分のものとしていきます。
それというのも、もともと送信側が相手の規範に沿って送ったものではないからで、物質的な形で送ったところで、手を離れてしまっています。相手の規範に沿ったどうしてもこう取らねばならないというものではないからです。
了解。
それでも、相手に届けば検討され相手なりに煮詰めて了解していきます。ここでは、無自覚な送り手側の、無自覚な受けて側の了解となります。送り手側が自覚的に発信していたのなら、送り手と受けての両者間には統一が産まれていきます。通常は欲望や知識概念などが介入していきますから、うまく了解ができません。
事実形成。
いずれにしてもそのような経過を踏まえて、受け手側と送り手側にそれぞれ事実結果と称するものが生じます。
こうして発音された「た」が聞かれた「た」となり、了承されて相手に所有されます。
先天へ 。
こうしてたかまはらの「た」は事実として出来上がりました。次いで同じ過程が繰り返されます。これが瞬時に脳内で起こることです。
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ブログ 011 【1。 結論とするに足る説明とは 】
結論に足る説明とはどういうものでしょうか。
各人は自分の頭で考えて自分の結論を持ち寄ります。小学校の時から自分の頭で考えようと教えられ、それが個人の自立と教えられていきます。そもそもそんなことを言い出すお前自身が自分で勝手なことを言っているではないかというわけです。
現代では聖人の教えも個人的、教典神の教えも個人的ととらえられ、神の言葉もお告げも相対化されています。誰がどんなことを書いても発言しても同じです。わたしの書くこともそれぞれ勝手に肯定され否定されはんぱくされていきます。
わたしは島田正路氏の『古事記と言霊』は肯定も否定もできない、目の前に富士山を見た様なものと感じました。目前の富士山を形容して示すことは無数にできますが、目の前に見てアーーーと声にならない声を出して富士山を見ている主体側の意識は、否定しようにも肯定しようにもどのようにしていいのか、そこに「ある」というだけです。
その「ある」という意識を人間の心全体に渡って書き示しているのが古事記の神代の巻であるという指摘は強烈でした。多少かじった御蔭で心の出所によって意見が変わることもあることが分かりました。
ある人はことの重要さに気がついているのに島田氏の文章を無機質と捕え、情緒的的な問題があるとしています少女のように言霊の威力とかお願いごととかに影響されているようです。またある人は感嘆を隠さずつづいて古事記の原文を忠実に読んでみたいなどといっています。いずれの方もわたし同様になにも分かっていないことを示しています。誰もが数千年の癖の上に載っているですから仕方ないところです。
神代の巻では完全な創造規範を天照らすに与えた後、この世がひっちゃかめっちゃかになる道筋を示してます。例えば子供にこうこうこうですよこうなりますよと教えて納得させた後に、子供の勝手な行動が起きるようなものです。
今回の表題は結論とするに足る説明をしても、それも受けいれられないことはどうしてかということを示そうというものです。
古事記は完璧な規範を創造した後にそれが出てきます。人には自分で完璧な解を得ているのに自分でそれを破壊することがよく起こります。その心の必然を示したようです。古事記以上に人の心を知った書物はないとってもいいほどです。
そういったところからすれば、自分の考え意見と違うからと途中からあれやこれやと割り込んで来ることなど可愛いものといえるでしょう。完全といえる説明をしても自分でそれを破壊する心持ちがあることを説明していくのですから。
またしてもなにも理解していないうちからこういうことを書くわたしがいます。どうしようもない奴だ。
完璧に足る説明とはどういうものかというと、古事記では「淡路(あわじ)の多賀(たが)に住むこと」という表現を用いています。
淡路の多賀は解説されてしまうと何だそんなことかとなりますが、その解説を目前に富士山を見るのとその富士山を解説しようとするのとでは大変な違いです。
11-【 かれその伊耶那岐大神は、淡路の多賀(たが)にまします。 】
「 是の後に伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、神功(かんこと)既に竟(を)へたまひて、霊運当遷(かむあがりましなんとす)、是を以て幽宮(かくれのみや)を淡路の洲(す)に構(つく)り、寂然(しずかた)長く隠れましき。亦曰く、伊弉諾尊功(こと)既に至りぬ。徳(いさはひ)亦大いなり。是(ここ)に天に登りまして、報告(かへりこど)したまふ。仍(すなわ)ち日の少宮(わかみや)に留(とどま)り宅(す)みましぬ。」(日本書紀)
「 神功(かんこと)とは伊弉諾尊が言霊百神を生み、言霊原理を完成させた事をいいます。幽宮とは仕事を終え、隠居する家の意。伊弉諾尊が言霊百神を生み、その学問の真実を證明し終り、その自覚を持ちながら現象世界を静かに見ている所の事であります。
このようにすべてを自覚しながら、静かに現象世界を見そなわしている状態を言霊スと言います。
ではその隠居所は何処か、と言いますと、それを淡路の洲と申します。
淡路(あわぢ)とは古歌の「淡路島通(かよ)う千鳥の……」とある淡路で、言霊アとワの間、という事の謎であります。
伊弉諾尊(言霊イ)は主体(ア)と客体(ワ)の間を自らの働きである八つの父韻によって結ぶ事によって、この世の中の一切の現象を生んで行く自らの性能を自覚し、その上で永遠の今に言霊スの姿で留まっていらっしゃるのであります。」
「 また伊弉諾尊は人間精神の先天構造(日)の中の少宮に宅(住)んでいらっしゃいます。少宮とは母音の柱アオウエイ(天之御柱)の事であります。日の湧く宮でもあります。人間の営みである一切の現象は此処より発現し、そして此処に帰って行きます。伊弉諾尊はこの五母音宇宙の中に永遠に留まり宅んでいらっしゃるのです。」
「 古事記はこの事を先に挙げました如く「かれその伊耶那岐の大神は、淡路の多賀(たが)にまします」と短文で締め括っております。淡路(あわぢ)とはアとワを結ぶ道の意。その結ぶ路とはアとワの間を輪を画く如く伊耶那岐の命の働きである八つの父韻が廻って、アオウエの四母音に働きかけ、現象を生みます。
この図をアとワ、オとヲ、ウとウ、エとヱ、イとヰのそれぞれの母音と半母音を廻る円と考えますと、全体で円筒形の器が出来ます。
するとアワ、オヲ、ウウ、エヱ、イヰを結ぶ円形は桶を締める箍(たが)と同じ形となります。
伊耶那岐の大神はア(オウエイ)とワ(ヲウヱヰ)を結ぶ箍のように八つの父韻として働きながら、永遠に森羅万象を現出させて、人類社会を創造されている、の意であります。」
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分かりましたか、淡路の多賀。
分かったといっても精々、オの知識でのことです。
人の知識などほんの一分野でしかありませんからね。
言霊イ次元。分かりません。
言霊エ次元。分かりません。
言霊ウ次元。分かりません。
言霊オ次元。気にいった所だけ分かります。
言霊ア次元。分かりません。
----以下引用------
よくよく観てみると、ある旧い会員の方から手紙をいただいた。その会員の方は私がこの仕事をさせていただいて最初にいらした方なんです。貧乏のようだったので、この本を差し上げますよと言って、言霊の本を差し上げた。そうしましたら次の本を買おうとも何とも言ってこないで、どうしたのかと思って、勧めたのがいけなかったのかなと。
そうじゃなくて、図書館から次の本を借りてきて、書き写したと。熱心ですから、どのように成長されるかと。あにはからん、十九年経っているのに一つも分からない。こういう人が世の中にいるのかなと思うくらい、言霊のコの字も分からない。それでいて一生懸命。
【 2。結論とするに足る説明とは。 】
言霊イ創造意思次元。分かりません。
言霊エ選択実践次元。分かりません。
言霊ウ五感欲望次元。分かりません。
言霊オ知識記憶次元。気にいった所だけ分かります。
言霊ア情緒感情次元。分かりません。
知識は大事なものですが、人の一部を占めるだけのものです。
知識で分かるということは人間性能の一部の働きですが、その働く時は性能全体として一個の人格となって動いていきます。
では自覚的な全体的な自己として動くこと、そのような全体的な現れとなった解説はできるでしょうか。
そういった人達がいるとしてどのような解説になるでしょうか。
誰もが納得してどこからも文句も無く語ることができるでしょうか。
可能だと思える部分があります。
規則約束を決めた上での客観世界を語ろうとするならできるでしょう。いわゆる科学です。
しかし黄泉の国から出てきて禊祓までしてまた黄泉に戻るわけにはいきません。
もう一つ可能性がありそうなのが、自覚的な言葉をそのまま普通に使用している日常のままでいることです。
なんだそれはと思われるでしょう。
ただでさえ五次元の性能に眼が廻るのに、何ていうことを。
でもそれ以外に道がないかもしれません。
神とか創造主の言葉はその一族郎党、その信者たちだけに有効です。ということは郎党を引き連れればその集団には有効となることで、その論理を拡大すれば大和日本語を話す人は全て同じ一族郎党に属しますから、その間では繋がっているということになります。
表面的に反感対立があっても同じ大和日本語で知らせ合うことしかできません。
ここに分かっていようと分かるまいと、両者に共通な先天構造が共有されていることになります。
もしこの共有構造自身が喋りだせば誰でも同じ友達になります。
ところが喋るのは各個人主体となっていて別々です。
ですので各人が自分の頭を使って喋るのではなく、先天構造に喋らせるのです。
わたしが喋るのではなく、わたしは喋らされているということを聞く時があります。わたしが見たのではなくわたしは見せられたとも聞きます。
先天性が共通なのに現れは個人的という疑問を見つけて、追求していったのが速須佐(はやすさ)の男(を)の命(みこと)でした。古事記の神名は人間の心の実在の象徴的な表現ですので、スサノオは実在のするといっていいし、今現在のわたしでありあなたのこころのことです。くれぐれも歴史的に実在するかしないかなどというトリックに引っかからないでください。(腹が減った時の態度、物を欲しがる時の個別的な性格などを見てください。)
【 速須佐(はやすさ)の男(を)の命(みこと)、依さしたまへる国を治らさずて、 】
【 八拳須心前(やつかひげむなさき)に至るまで、啼(な)きいさちき。 】
彼は海の原、ウ次元の精神原理を賜ったのに、精神主体での運用の他に、客観世界での運用に関心を示し、追求するようになりました。それは歴史の動きを相手に非常に真摯真剣なものでした。
その結果物質世界の研究に精神世界での運用が持ち込まれ混乱が生じてきますが、その引き換えに物質世界の繁盛がもたらせられます。
【 「僕(あ)は妣(はは)の国根の堅洲国に罷(まか)らむとおもふがからに哭く」とまをしたまひき。 】
根の堅洲国、根=音、言葉のこと。物質世界の心の運用での表現。
堅州=片州、片方のスのこと。アイウエオ五十音図を半分にするとその中央にスとユがきます。ゆきでん【悠紀田】、すきでん【主基田】 の出所。
ハヤスサノオは言霊ウの精神世界を出て物質世界に行く許可を伊耶那岐の大神から得ます。スサノオの冒険によってこうして現代の物質世界の繁栄と殺戮の世界ができました。
こうして人々は、結論とするに足る説明はこうだなどと言い合いながらも全体世界を見通して全体を動かすことができる世界に到達したのです。
三千年前の世界では精神上でのウ次元の心の運用による社会が先行していましたが、現代ではスサノオによって、ウ次元の物質の運用社会が権力を持つようになりました。100パーセント近い人間が物質の奴隷となりました。
こうして21世紀はまたもやこの社会の反転をもたらす時代となったのです。物質的な基盤はできた代りに精神基盤を失ったのです。スサノオの世界運用研究では21世紀にその日が来ると計算されていたのでしょう。
スサノオに許可を与えた伊耶那岐は2012年の4月10日がその日であると決めた様です。
海(ウ次元)の原をスサノオにまかし、岩戸の前で踊りの準備をしているのは、ウ次元のウズノメです。ウズノメが乗っているのはひっくり返された桶の上です。
桶はバラバラにならない様に上下がタガで絞められています。
【 かれその伊耶那岐大神は、淡路の多賀(たが)にまします。 】
淡路=言霊アとワの間、始めと終り、という事の謎であります。
始めと終りをグルグル巻にしてしっかり結ぶとタガ、箍、多賀ができます。
スサノオは根のカタ・スにいっており、ウズノメの豊穣さに魅せられて片側のユから湯の湧くようにでてきます。そして八百万が歓喜することになりますが、ここからは天の岩戸の物語になります。
かれその伊耶那岐大神は、あなたもわたしも、言霊イ創造意思次元の、淡路の多賀(たが)にまします。
かれその伊耶那岐大神は、あなたもわたしも、言霊エ選択実践次元の、淡路の多賀(たが)にまします。
かれその伊耶那岐大神は、あなたもわたしも、言霊ウ五感欲望次元の、淡路の多賀(たが)にまします。
かれその伊耶那岐大神は、あなたもわたしも、言霊オ知識記憶次元の、淡路の多賀(たが)にまします。
かれその伊耶那岐大神は、あなたもわたしも、言霊ア情緒感情次元の、淡路の多賀(たが)にまします。
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【 結論とするに足る説明とは。 3 】
人には五つの性能次元がありますが、結論だ説明だ何だといって相手にするのはもっぱら、言霊オ次元の知識概念記憶が相手になります。
論争だとか口喧嘩などでは他の次元層も顔を出して自論を応援させられますが、自分で決着をつけられない為に知らず知らずのうちに自分内の他の次元での応援を仰いでいるわけです。
これはオ次元の知識では決着が付けられないことを白状していることなのですが、知識を語って喧嘩しているのにまさか知的な分野以外での応援で雌雄を決しているのだとは言える義理ではありません。
知識が最後にやることは占いであったり夢であったり御告げであったり偶然であったりすることはよくあることです。同様に高度な政治判断、首相大統領の判断が飼い犬の一吠えで決まったり天気予報で変化したりもします。
これは別に茶化しているわけでもなく映画でも無く、理性的なといわれる心の動きから来るものです。
では理性自身に語らせ知的に双方を納得させる法はあるのでしょうか。
実は、ありません。
身も蓋もないことですが、こうなります。巷で見かける、あるいはどこでも見かけるのは合意といって知的に双方が納得したのではなく、途中で意を合わせたというだけです。
取り敢えずそういうことにしておく、取り敢えず納得の形をとる、取り敢えずやってみようとというわけです。
いや、合理的な説明の仕方がある、という方もいるでしょう。ですが合理性を求めるのは、各人の己を超えた経験、存在を認めているからです。あなたが好きでたまらないという神秘的な感情世界を大なり少なり自分で守る為に、合理性が当てはまる世界を自分で作っているのです。
論理の合理性を得た時の神秘感を語る人さえいます。美しいという人もいます。その権威を感じる人もいます。それらのわずかな経験がある為、知らず知らずのうちにそれらを保持していたいがために合理的であることに向かわされているのです。
こうして主体側の世界を無視して客観的にのみ見ていく黄泉国に行くつもりなら、もちろんそれもありですが。
ということで結論とするに足る説明などないというところで終りです。
こんなことなら最初から何も書かなければいいのです。
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ところが。
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さて、ここから古事記の本領が発揮されていきます。
古事記においてはそれが可能であると示されていきます。
わたしの勉強段階では、そのはずだというだけで、ここから物真似が始まるのです。
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