殿の縢戸(くみど)・騰戸(あがりど)・より出で向へたまふ 1。殿の縢戸(くみど)・騰戸(あがりど)・より出で向へたまふ
伊耶那岐の命が黄泉(よもつ)国に行ったときの段落にある、縢戸(くみど)・騰戸(あがりど)の考察です。
まず は資料として各種の引用を挙げておきます。
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原文。
『ここにその妹伊耶那美の命を相見まくおもほして、黄泉国(よもつくに)に追ひ往(い)でましき。』
ここに殿の縢戸(くみど)・騰戸(あがりど)・より出で向へたまふ時に、
伊耶那岐の命語らひて詔りたまひしく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命、
吾と我と作れる国、いまだ作り竟(を)へずあれば、還りまさね」と詔りたまひき。』
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島田正路氏の言霊学からの引用。
縢戸をくみど、とざしど、さしどなどとの読み方があります。また殿の騰戸とする写本もあります。この場合はあげど、あがりどと読むこととなります。縢戸と読めば閉った戸の意であり、高天原と黄泉国とを隔てる戸の意となります。騰戸と読めば、風呂に入り、終って上って来る時に浴びる湯を「上り湯」という事から、別の意味が出て来ます。
殿とは「との」または「あらか」とも読みます。御殿(みあらか)または神殿の事で、言霊学から言えば五十音図表を示します。五十音図では向って右の母音から事は始まり、八つの父韻を経て、最左側の半母音で結論となります。すると、事が「上る」というのは半母音に於てという事となり、騰戸(あがりど)とは五十音図の半母音よりという事と解釈されます。高天原より客体である黄泉に出て行くには、半母音ワ行より、という事が出来ます。騰戸(あがりど)と読むのが適当という事となりましょう。
伊耶那岐の命は伊耶那美の命に語りかけました。
「愛する妻神よ、私と貴方が力を合わせて作って来た国がまだ作りおえたわけではありません。これからも一緒に仕事をするために帰って来てはくれませんか。」
岐美の二命は共同で言霊子音を生み、次に岐の命は一人で五十音言霊の整理・運用法を検討し、建御雷の男の神という文明創造の主観原理を確認しました。この主観内原理が客観的にも真理である事が確認された暁には、また岐美二神は力を合わせて人類文明を創造して行く事が出来る筈です。ですから帰ってきて下さい、という訳であります。』
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本居宣長「古事記伝」を訳したHP「雲の筏」からの引用。
○自殿騰戸。この騰の字は、旧印本と一 本、また旧事紀でもこう書いてあって、「戸を騰(あ)げて」と読んでいる。だがこの読みはどう思 われるだろうか。
【戸は「開く」のみであって、「上げる」ということは上代にはない。延佳本と一本
には「縢」の字が書いてあり、「くみど」と読んでいる。此は説文に「緘の意味」とあり、詩経の秦 風小戎の篇に「竹閉コン(糸+昆)縢(タケのユダメナはモテゆいつく)」などの用例がある。
また 新撰字鏡に「條(正字は木の代わりに糸)は組、読みはクミ」とあるので、「くみ」と読むことはで きるのだが、やはり間違っている。ここは久美度(くみど)に無関係である。
久美戸については、 前述した。】いずれにせよ、この字は古来誤って伝えられたのであろう。いろいろ考えたが、脇 戸、前戸、後戸のいずれかではないだろうか。
というのは、玉垣の宮(垂仁天皇)の段に腋戸 (わきつど)という語がある。また後の文に「子細に黄泉の神と相談して見ましょう」とあるのを考 えれば、(黄泉の掟に背いて)ひそかに出て来たようでもあり、脇戸や後戸から出て来た可能性
もあるだろう。
【前戸は考えにくい。】また書紀の一書に「あがり(もがり)の場所に行った」とあ
り、仲哀の巻に「无火殯斂、これをホナシアガリと読む」とあるのを考え合わせると、「殯斂(あ がり)」の意味で騰の字を書いたのだろうか。そうであれば、騰の殿戸を上下誤って写したのだ ろう。【?濾陲涼覆法崑⑯貽①覆△靴劼箸弔△�蝓砲竜棔廚箸いΔ里�△襦�海譴楼嫐��磴Δ�◆崙 (あがり)」の用例である。】それとも、もとのまま「殿騰戸(トノのあがりど)」が正しいのか。
しかし 「騰戸(あがりど)」などという語は他に例がない。意味も思いつかない。とにかくよく分からない ので、取りあえずこの一字を無視して「とのど」と読んでおく。こうであれば、いずれにしても大き な間違いはないだろう。【仲哀の段に「勝騰門比賣」という名があるが、騰の字のない本がい い。】殿戸という語は、書紀の崇神の巻に「彌和能等能度(ミワのトノド)」がある。
【三輪の殿戸 である。】また高津の宮(仁徳天皇)の段にたくさん出ている。
○出向は「出迎え」である。古言 には迎と向を通用した例が多い。書紀の一書にはそのまま「出迎共語」とある。
○語詔之は「か たらいたまわく」と読む。【書紀にも「共語」、または「語之」とあり、ここは「語る、言葉を交わす」 という意味があって書いているのである。】万葉巻十三【十五丁】(3276)に「愛妻跡、不語、別 之來者(うつくしツマと、かたらわず、ワカレしクレば)云々」とある。
(以上、ここまで引用。)
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2。殿の縢戸(くみど)より出で向へたまふ
この段落での縢戸(くみど)・騰戸(あがりど)について考えてみます。
〇原文。
ここにその妹伊耶那美の命を相見まくおもほして、黄泉国(よもつくに)に追ひ往(い)でましき。 ここに殿の縢戸(くみど)・騰戸(あがりど)・より出で向へたまふ時に、
〇平易訳にすると
「いとしい伊耶那美の命に会いたくなって黄泉国(よもつくに)まで追いかけて行った。そこで境になっている縢戸(くみど)・騰戸(あがりど)から伊耶那美の神が出迎えた。」となります。
〇この精神的なl意訳では、
「意識が対象相手にそれは何だろうと向うとき、そこに相手対象から主体側に向って与えられるものがある、となります。
〇一般例をあげると、
私が対象を見るときには、対象が私に姿を現わす、私が相手を考えるときには相手側が私に向ってその姿を現わす、等の時の、相手対象から私への一線を超えたもの、扉を開けたものがある状況を指したものです。
テレビ、パソコンをつければ画面が出てきてそれを了解します。
その時の主体わたしの意識の過程です。
スイッチを入れたり、閉じた目を開いて物を見たりする時の、対象の精神意識に与えられる過程ですが、第三者たる客観対象が何故精神意識に乗ってくるのか、その精神的な意味内容を示したものでしょう。
電気的、光学的、機械的、人の生理的な作用反作用の物理客観世界、それらの物理過程とはまた別に、主観において了解される世界を示しています。
ここでは二つの方向があり、
A。一つは伊耶那岐の神、( 主体の意志、意識の主体側の動き、働き)つまり私たちの心が、主体性を持ったまま意識活動をして行く方向、相手対象にいざないかける方向と、
B。二つ目は顔を出し出てきた伊耶那美の神、( 活動主体にあたたえられる意志、意識の客体側)の活動主客観客体状況に囚われる方向と、主体側にいざなわられ噛み合わす方向とがあります。
C。そしてここに出てくるのが、次の出来事です。AとBのいざないいざなわれることから出てくる現象があるということです。
AとBの相互の感応同交によって現象が現れますが、それの物理現象方面への逸脱が、黄泉国(よもつくに)に留まると言うことになります。
この章は黄泉国(よもつくに)の段落にあり、まず意識の囚われの構造が開かされ、当然次の経過は、囚われからの解放を自ら行なう禊祓の章への連絡となります。
問題はこの流れが意識の必然の経過であることを示すことで、最初から禊祓など必要としない清い姿でいることはない、黄泉国(よもつくに)を通過する必然の意識の構造の中にいることから始まります。
われわれはまず黄泉国(よもつくに)の「汚い(気田無い)」世界を通過する必然を通して、禊祓に向います。黄泉国(よもつくに)は現在では死者の国になっていますが、そのように考えてしまう根元の意識過程を古事記では示しています。
われわれにとっては清い姿は常に後から求めるものです。始めにあるなら、清いとか禊祓とかいう言葉も必要がないわけです。
私たちがまず物を見て了解することは、まず黄泉国(よもつくに)に入る、入らせられることから始まります。
このことの起こりは、冒頭にある通り、冒頭そして、【 言霊 ヲ】の、宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神、次に 【 言霊 オ】の 天の常立(とこたち)の神という、まず客体側があって、それを了解対象とする主体側があることと関連しています。
とはいうものの実際には同時進行です。近づくことは離れることみたいなものです。
スイッチを入れてパソコンの画面を了解するのに、どこに「汚い」があるのか、向き合う二人の会話の流れのどこが黄泉国(よもつくに)に足を入れることなのか、古事記に沿って明かしていきましょう。
「ここにその妹伊耶那美の命を相見まくおもほして、黄泉国(よもつくに)に追ひ往(い)でましき。 」
伊耶那岐の神は伊耶那美の神に会いたくなって黄泉国(よもつくに)にいきました。
黄泉国(よもつくに)は伊耶那美の神の領域です。
伊耶那美の神が黄泉国(よもつくに)にまでいく過程全部を再体験追試して行かないと、伊耶那美の神が「殿の縢戸(くみど)」から顔を出すことの意味が見えてきません。
「殿の縢戸(くみど)」の読みはまだ決まっていないようだし、漢字の用法、意味もハッキリしていません。
ここは各人の追体験によって自他との共有を確認していくことになります。
それは自分で考えた意見を出すのではなく、また自分のだけの経験を示すのではなく、共有できる元となる経験意識の源泉を探すことです。
共有するということだけなら、お互いのお気に入り一致が幅を効かす事になりますが、古事記のフトマニ言霊学の道では、現象で選ばれた共有ではなく、先天次元での共有の確保から始めます。
そこで、伊耶那美の神が顔を出してきた「殿の縢戸(くみど)」にどうしているのかを、振り返ってみます。
まず始めは、黄泉国(よもつくに)にいるお膳立てです。伊耶那岐の神が会いたいといえば会えるのですが、「殿の縢戸(くみど)」より出るという仕方でしか会えません。
お膳立てとは先天の実在構造全体の事になります。ここには主体側の活動意識とそれを受け取る全体が含まれています。そこで主体側は活動を開始して相手を客観対象とするから相手を認識するという事が起こるようになります。
活動主体側では自らが動く領域が形成され、その領域の形成される流れの中で相手対象なるものがそれぞれ了解されていきます。その一番の出来事はおのれの心の締まりの領域を作ることです。
この心の領域内で己の活動働きと己の相手対象とが統合一致していきますと、後天現象が起きてきます。後天現象は顕在意識で了解刺さる形をとるようになり、何かしらの物理的表現、五感に対応したあるいは脳内のパルス脳内物質の移動とかの、物質表現の形を取るようになります。
この物質表現、より直接的には言葉言霊の生成、となって、現象世界となったものが客体世界でです。
ここで主体側の意識世界と分かれて、物質物理側のみを追求していくと科学学術学理の物質世界に入ります。
一方物質物理世界に入ってしまえば、フトマニ言霊学から普通の言語学やや、言霊の話になっていきます。
『 この子を生みたまひしによりて、御陰炙(みほどや)かえて病(や)み臥(こや)せり。』とあるように、物理世界に堕ちていくかどうかの境目で病気になっていると表現されています。
そこで精神、心の働きの世界に居続けるには、自らが動き働いていける単なる物理物質でない事を示す事が必要になります。
それが自らにおける生きている証明である排泄行為に名を借りた、後天現象界における精神性、物の心を現わすということになります。
物質現象となってはいるが、その後天性には当初からの心、精神、伊耶那岐の神の働きが宿っている事を示しています。これが「和久産巣日(わくむすび)の神」です。
こうして物の精神性を生んでおけば、物のものたる所以は精神抜き、心抜きで自由に科学として研究ができるようになります。そこで伊耶那美の神の物質方面はフトマニ言霊学とは縁が切れ、「遂に神避(かむさ)りたまひき。」となります。
しかし、そこには物への執着愛着所有感等がこびりついています。その心に動かされますと、どうしても主体側は自らの心の動きを確かめたくなります。泣沢女(なきさわめ)の神の誕生です。
ここで泣沢女(なきさわめ)の神が出てくるという事は、主体側が自ら生んだ後天世界に関心を持つこと事で、主体の意識と関係ない物理的な、あるいは学問的な関心をむけることとは違います。
主体の意識と関係ない知識概念上の関心を向けられた、伊耶那美の神の客観世界方面の現象は、泣沢女(なきさわめ)の神によって主体側の関心を引くことが無ければ、それで終りです。そのようなものとしては埋葬をして行くということです。
しかし、ここにはまだ「泣沢女(なきさわめ)の神」の介入してくるもう一面の伊耶那美の神がいます。
つまりここでは、伊耶那美の神の物理現象世界の作用反作用探求はフトマニ言霊学とは関係ないので、埋葬しました。
が、伊耶那岐の神によるイザナギ自身の投影を自分で確認する世界がまだ残っています。
ものの世界に対するイザナギの心の検討からは、イザナギの判断規範が生じてきます。
そこで生じたイザナギの判断規範は、彼自身、自分自身によって切れ味を試されることになり、その相手がまず客観世界になります。(黄泉国(よもつくに))
そしてついで、自分自身のことになっていきます。(禊祓)
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3。殿の縢戸(くみど)より出で向へたまふ時に、
こうしてイザナギは伊耶那美の神の物質現象世界を見たくなって、コンタクトを取りにいきます。
イザナギが愛しく思って見たいのなら、相手はそのようでなければなりません。
憎しみの対象であるのなら相手もそのようでなければなりません。
ご飯を食べたく思ったら向う相手もそれに対応していなければなりません。
このようにイザナギの心に相手側は相当する反応がなければ、出会いは成り立ちません。
その相手と相当する反応を示したものが「殿の縢戸(くみど)」です。
「殿の縢戸(くみど)」はその関係を示す象徴表現です。
色々な訳、読みがある中で、ここでは「くみど」を取ってみます。
「くみど」は「組み戸」「組み十」です。
殿とは「との」または「あらか」とも読みます。御殿(みあらか)または神殿の事で、「との」は「十野」とすれば、五十音図横列十の配列の野のことで、そこにある宮殿の戸になります。
イザナギの意志、意図に沿ったイザナミ側の受け入れの扉です。イザナギが叩いた扉の向こうは、猫に小判、馬の耳に念仏でなく、テレビのスイッチを入れるのにバットを振るうのでなく、誘うに対応した誘われる相手でなければならないということです。
では何故、相手側は黄泉国(よもつくに)にいるのでしょうか。黄泉国(よもつくに)いる相手としかイザナギは対応できないのでしょうか。
前回に一応イザナミが黄泉国(よもつくに)に行く必然は示したつもりですが、もっとはっきりした方がいいみたいです。
要するに後天現象創造行為は黄泉国(よもつくに)を創生することであり、客観世界とは黄泉国(よもつくに)であると言った方がはやいことになりそうです。
それには黄泉国(よもつくに)とは死者の国ではないことを示さなければ、頑固な常識に邪魔されて了解しづらいでしょう。
私たちはフトマニ言霊学を心の原理論として扱っています。そこからはたとえ死者の国があったとしても、その国の精神的な意味合いを求めるものです。
宣長では、つぎのようです。
○黄泉の国は、【「よみのくに」とも「よみつくに」とも読める。「よみつ」と言うのは、祝詞にある。しかし、】「よもつしこめ」、また書紀に「よもつひらさか」など、例が多いので、「よもつくに」と読んでおく。単に「黄泉」
とある場合は「よみ」とする。この「よみ」は、死んだ人が行って住む国である。
この解釈から逃れるには、日常時の死ぬことや、古事記の前段での葬る等の解釈を人が死ぬという意味合いから解放しなければなりません。
よ。余。それ以上に余分。
自分の行為をよく見ますと、自分の成したことは、精神意識内において成したと了解されています。
それなのに現実現象界はものを作り出す、客観世界の創造という現象結果の世界を見出しています。
この見出された現象世界はそれ自体で誰でも意識できる対象世界となっていますから、当初の成した当人からすれば、余計な、余分な世界です。(というのも心の精神世界においては既に心において了解されていて、その当初の成した当人とは別の現象世界となっているものだからです。
よ。予、あらかじめ。
するとここに当人が成した世界であるにも関わらず、当人の所有所持を超えた、それ以上の客観世界ができています。今度はその「余」の世界があらかじめ与えられた「予」の世界となって、全人に先天の世界となってあらかじめ備わった世界となっていきます。
黄泉という漢字は中華表記ですから、大和言葉としては漢語の意味を取るようになったのは後のことです。大和言葉では黄泉ではなく、「よみ」と平仮名で示されます。そうすると「よみ」はヨとミで、ヨに関しては上記の通りです。
人のどのような行為、考えであっても、結果現象を生むことがヨミのヨになっていきます。精神以上の余分なものが生成されると同時に、その余分なものが予めあるものとなっていく、古事記の冒頭で言えば、宇摩志阿斯訶備比古遅の神 言霊ヲ(半母音受動側)が天の常立の神 言霊オの前にあることと重なります。
つまり伊耶那美の神の予めの姿=黄泉国(よもつくに)の姿がここにあります。
そうすると今度は予めの余分な成された現象世界を全体としてみていくことになります。
よ。世。この世全体。
ここでは人の成したことの全体が現れてきます。人の成したことは、欲望感情感覚世界の実現、知識概念科学学問探求世界の全体、宗教芸術感情情緒の世界、政治道徳配分の世界のどれかですから、それらをまとめて世ということになります。
そして成すということの根底にイザナギの意志と意図があるわけです。
以上のようにヨミを見てくれば死者の国だという意見も受け入れられるようになるでしょう。黄泉国(よもつくに)は死者の国というのことではなく、死者の国と共通性を持つということになります。
それは出来上がってしまい動かずに予めある世界ということです。死者に動くという属性は後から与えられたのです。
客観現象を創造することが全てヨミの国を創造することになります。
私たちの人生とは黄泉国(よもつくに)を創造することになります。このようにして次世代に予め与えられたものを用意していくのです。
ところがここで落とし穴に必然的に落ち込むのが人の意識だというのが古事記の主張です。
ここでのイザナギは創造するイザナギではなく創造されたもの=黄泉国(よもつくに)=伊耶那美の神の世界に関わろうというものです。出来上がった、動かない、死んでしまった世界への関わりです。
それが「ここにその妹伊耶那美の命を相見まくおもほして、」 という執着や所有感の囚われが出てきます
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4。殿の縢戸(くみど) より出で向へたまふ
『 ここにその妹伊耶那美の命を相見まくおもほして、黄泉国(よもつくに)に追ひ往(い)でましき。』
この文章は、仏教式に言えば執着に翻弄されるというところです。
執着はそもそも自分の片割れに対するもので、自分が作ったものへの執着です。
仏教では無と空をもって執着を去るらしいのですが、そんなことではせっかくの人生何も無いことになります。
古事記はそれらを全部生かす方法が取られています。
『愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命、』よと呼びかけ、その執着のまま、
『吾と我と作れる国、いまだ作り竟(を)へずあれば、還りまさね」と詔りたまひき。』
一緒に続けましょうというのです。仏教の教えを超えてそんなことができるのか、はたして私はできるのか、というところですが、縢戸(くみど)の話に戻します。
自分の対象への働きかけには、相手もそれ相応の次元になければなりません。それが組まれた戸、縢戸(くみど)ということです。
ここまででの話の特徴は、仏教でいう執着に答えるというところです。仏教では執着があるから無くす落すという風になるようですが、そもそもせっかく伊耶那美の神が答えてくれたのに、そんなもったいないことはできないというのが古事記です。
ただしここまででの内容では、イザナミの組まれた戸を了解するというところまでです。
戸(十)の構成はイザナミが出てこられるものでなければならず、今のところは主体側の判断規範である建御雷(たけみかづち)の男の神の規範に沿ったものです。
それはこの段階での伊耶那岐の神の主体の心の中だけでの対象を判断する世界としているものです。
例えて言えば、自分の確立しているお気に入りに沿ったものの判断でしかありません。
こういうと自分の判断対象を判断して何がおかしいと思うかもしれませんが、宗教や仏教なども個人行において、それの完成を目処にしているだけです。
しかし実際には他者がいて他者と関係する世界があって、全体があるのに、それらを個人行の完成において完結としてしまう宗教では、これからは何の役にも立たないものです。
古事記の黄泉国(よもつくに)に入る入り口はこういったものです。
宗教も仏教も古事記も同じ執着の国=黄泉国(よもつくに)の入り口に立ちますが、古事記以外の宗教思想などはそれを直接相手にする現象として扱うので、現象との格闘になっていきます。
古事記の思想だけが「まだやりつくしていないね。どうだい戻ってこないか?」と問いかけていくのです。
そしてこの道だけが、これからの世界に通じていくのです。
その道筋は黄泉国(よもつくに)を通過して、禊祓に行く段落で付けられますが、いつかまた扱うでしょう。
黄泉国(よもつくに)の導入部から奥は組み戸の内部構造を明かして、それへの対処法を述べたものです。
基本的には前段で伊耶那岐の神が「泣沢女(なきさわめ)の神」を生んだ後に得た、石柝(いはさく)の神、根柝(ねさく)の神、石筒(いはつつ)の男(を)の神、 甕速日(みかはやひ)の神、樋速日(ひはやひ)の神、建御雷(たけみかづち)の男の神、 闇淤加美(くらおかみ)の神、闇御津羽(くらみつは)の神の神々(思考、心の運用)にまで、対応し、ついで客観的な表現となっていくもの(文字)にまで対応するものです。
ですので黄泉国(よもつくに)の内容は客観的な表現となっているものに対応していますので、主体側の自律的な主体行為までは口にしていません。
ですので宗教人や禅などをしている場合も、個人的な表現に対する対応はできても、他者や社会と関わった対応は抽象的な返答しかできないのです。
章の最後には事戸を渡し、黄泉戸の大神と称号を与え、黄泉国(よもつくに)の戸とうつしみの戸との違いを完璧に現わします。仏教のように無にし空にするのではなく、「出雲の国の伊賦夜坂(いぶやさか)といふ」として肯定していきます。
(出雲はむくむく沸き出でる雲のような人の本来持っている伊賦、イブ、言う、表現する、坂、さか、さが、性、性質であるということ。)
この肯定の上に立って、単なる個人行の悟りで終わるのではない、禊祓の行程が次に来ます。
5。殿の縢戸(くみど) より出で向へたまふ
ではくみ戸の内容について見てみましょう。
とはいってもこれは、世界最強の厳密さでできた古事記の原理の前段を踏襲すればいいだけのことです。
前段とは、神名で示せば、以下のようになるでしょう。
泣沢女(なきさわめ)の神
石柝(いはさく)の神、
根柝(ねさく)の神、
石筒(いはつつ)の男(を)の神、
甕速日(みかはやひ)の神、
樋速日(ひはやひ)の神、
建御雷(たけみかづち)の男の神、
闇淤加美(くらおかみ)の神、
闇御津羽(くらみつは)の神
及び
現象となった表現の様式の八つの山津見の神たちです。
伊耶那岐の神と伊耶那美の神との創造によって子現象を得た後、伊耶那岐の神にとっては精神内の伊耶那美の神にかわって子現象(子の一木、ひとつけ)が残りました。そこで今度は子現象内にある客体側との交渉に入ります。
そこで子現象に対応する主体側が創生されます。これはいままでのように意識内での対応から出て、物質現象を相手とできます。とそのための主体が泣沢女(なきさわめ)の神です。女となっていますが伊耶那岐の神の現象に対応するときの姿ですから、当然男神です。
こうして精神意識次元での伊耶那美の神の神は今後は現象世界に隠れる形になります。死んだのではありません。
伊耶那岐の神は物質現象世界に対応できる泣沢女(なきさわめ)の神を自分内に取り込みましたから、こんごは客体世界と対応していきます。剣を抜く、斬るという物理的な象徴表現になっています。
これは黄泉国(よもつくに)の導入部では「相見まくおもほす」と感情全体次元になって繰り返されます。その繰り返される以前に、主体側の対応準備の可否を決めておくのです。
そこで物理物象での客観世界に対応できる主体側の姿を創造していきます。これらは冒頭の十七神(先天十七神)の繰り返しです。(どの場面も先天十七神の構造の繰り返しですから、いちいち言うことも無いのですが、忘れないために、そしていつも五十音図を思い出すために、言っておくものです。)
石柝(いはさく)の神、は五十音図の五段の次元宇宙世界。物象となった、【 言霊 ウ】 天の御中主(みなかぬし)の神、 【 言霊 ア】 高御産巣日(たかみむすび)の神、次に 【 言霊 ワ】 神産巣日(かみむすび)の神, 【 言霊 ヲ】 宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神:次に 【 言霊 オ】 天の常立(とこたち)の神、 【 言霊 エ】 国の常立(とこたち)の神、 【 言霊 ヱ】 豊雲野(とよくも)の神、次に【 言霊 イ】 伊耶那岐(いざなぎ)の神、次に
【 言霊 ヰ】 妹伊耶那美(み)の神、の客体側次元世界です。
根柝(ねさく)の神、は客体側次元世界全体に対応する主体側の原動因たる【 言霊 イ】 伊耶那岐(いざなぎ)の神、次に 【 言霊 ヰ】 妹伊耶那美(み)の神でここでは既に、泣沢女(なきさわめ)の神にまで変身(変態)した八父韻です。
石筒(いはつつ)の男(を)の神、は主体客体側があってその両者を取り持たねば何も産まれませんから、その両者を取り持つ働きのことで、その働きによって現れる、縦横の連絡連結全体の象徴です。
甕速日(みかはやひ)の神、は先天意識内だけの出来事と違ってここでは既に子現象ができていますので、その物象現象に対する見方対応で、一つは、物象自身に対する見方、甕(みか)は文字のこと、への対応です。もう一つは次の、
樋速日(ひはやひ)の神、で物象現象の前記の体に対して、気、霊(ひ) に関するものです。
ここまで来ますと主体客体があるということにその両者の働きが加わります。そこで主体客体の全体を見つめるオノコロである、建御雷(たけみかづち)の男の神、 が創生されます。
そして、建御雷(たけみかづち)の男の神の働きである、次の二神が出現しています。闇淤加美(くらおかみ)の神、闇御津羽(くらみつは)の神で帰納法と演繹法を司ります。
ここで注意しなくてはならないのは、建御雷(たけみかづち)の男の神はオノコロとして自己規範のためにだけ創出されていることで、いわば自利小乗の個人エゴ規範です。禊祓もまだ経験していないし、黄泉国(よもつくに)に入る以前ですから何を禊祓するかもまだ知りません。
それでも自利小乗個人エゴというのは活発な働きをしますから、自分の限界である帰納演繹法を駆使して宇宙世界を解していこうとします。
そこで相手にしている宇宙世界とは実は、八つの様相で成り立っていますが、おおくの場合は、自分だけの気付き、お気に入りを解することしかできていません。
この八つの様相というのが゛、現象となった表現の様式の八つの山津見の神たちです。
以上述べたことが、伊耶那岐の神が黄泉国(よもつくに)へ行って対応できることの全体です。
つまり黄泉国(よもつくに)で会うことのできる伊耶那美の神の顔に書いてあることです。
6。殿の縢戸(くみど) より出で向へたまふ
殿の縢戸(くみど) より出で向へたまふ イザナミとの応対の後は、禊祓の章では
「吾(あ)はいな醜(しこ)め醜めき穢(きた)なき国に到りてありけり。かれ吾は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」
と言った、何と汚いところに居たものだという言葉を発しました。
ところがこの黄泉の章の最後では、「大神、大神、大神」と大変な持ち上げようです。
そして禊祓の章の文頭では、伊耶那岐の神は自身伊耶那岐の大神へと変身しています。これは余程重大なことです。
しかし残念ながら、ここの部分には、より偉大になったというだけの解説しかなく、島田正路氏以外の精神的な意味付けをしたものは見当たりません。
黄泉国(よもつくに)の章は、イザナギがイザナミと応対して、自身が大神となると同時に応対相手も大神となる過程を述べています。この論考では黄泉国(よもつくに)全体は扱っていませんから、「大神」については書くことはできませんが、文頭の一句である、縢戸(くみど)にもその始まりの芽があってしかるべきです。
縢戸(くみど)に大神の芽がなければ、締めくくりにも大神などは出てこられないはずです。その芽だけでも探してみましょう。しかし、山頂の火口湖はすそ野からは見えないように、大神の芽であることを指摘することはできません。
そこで先回りしてチョンボすることになります。
そうすると、チョンボ先の伊耶那岐の大神の禊祓の章では、始めは『 ここを以ちて伊耶那岐の大神の詔りたまひしく、「吾(あ)はいな醜(しこ)め醜めき穢(きた)なき国に到りてありけり。かれ吾は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」』となってます。
黄泉国(よもつくに)の始めは、いとしい人に会いたいでした。これが醜く汚いになっています。これで分かることは、古事記全体の冒頭である、あめつち=アの目が付いて地に成るのアの芽と同じことの繰り返しです。
始まりにはア段の目をもって物事の実相を見てゆけば明らかに成る、ということでした。ア段は感情、宗教、芸術の明らかに全体を見る目付のことです。
いとしい人に合いたい感情に包まれていながら、自分の中に汚い無秩序な予兆を内包できるでしょうか。
黄泉の章では、いとしい相手が蛆まみれであることを現わしています。ウジは象徴表現ですからもちろん蛆のことではありません。
イザナギが黄泉国(よもつくに)を訪ね、イザナミが出迎えます。それはちょうど、鏡を覗けば自分の顔が映るのと同じです。鏡は物理光学的な作用反作用で、身体生理上の出来事となって、自分を確認できます。
では自分の思い、考え、思想はどうやって自分の顔を見るのでしょうか。
イザナギは自分の世界を作り上げ、自分を他の世界に投影しようと黄泉国にいきました。鏡面上での像に相当するものが、組み戸です。
当初のイザナギとはいとしさの全体です。しかしイザナミがなかなかでて来ないのでどうしているのかなの疑問が起きます。
すると突然この疑問に取りつかれこの疑問が自分であり、自分そのものになっていきます。
ここに自分の疑問は、黄泉、イザナミ、客体世界を相手として疑問という自分の姿を映す鏡になっていきます。
実際思想はどうやって自分の顔を見るのでしょうか。
それは言葉においてです。そこでは言葉は文字であったり、話であったり、物理的には空気振動の濃淡とか、光点の集合とか、墨インクのにじみ痕跡であったりします。
このような物象を相手にすることは、迦具土の神を検討して山津見の神々を産んだということで、すでに解決しています。
ですのでここでは、物理物象方面の分析整理は科学や実証学問に任せて、鏡を覗いたときにその映る自分の顔とは何かを、探求することが黄泉国(よもつくに)に行くことの意味になります。
そこでイザナギが見出したのが、組み戸です。
イザナミは組み戸の中から顔を出しますが、実は伊耶那岐の神の自身の投影を見ることで、組み戸はその鏡です。材料は五十音の単音アイウエオになった言葉で、材質は文字に秘められた言葉の内容実体、心です。
その組み戸の構造は全体が五十音図で、両側に母音行と半母音行があって、イ段の父韻があって、子音があります。
これは鏡という要素を構成していますが、その使い方運用法は、黄泉国(よもつくに)に入る以前に創生された神の名で示されている全部です。つまり禊祓以降の神々で示される使い方 運用法はまだ産まれていないので、知られていないということです。
そこでイザナギは自分のどんな顔を見たのかというのが、黄泉国(よもつくに)の章になります。
顔を映すのに鏡という便利な物象がありますが、思想を映すには何があるのでしょうか。一応言葉だということは分かっても、各人各様勝手気ままの本人次第では鏡とは言えません。
人の規範となる鏡として創造されたのが古事記の冒頭です。
五千年以上も前に完成していて、今これからの世界のためにとっておかれました。
世界はこの鏡の伝搬を待っています。
7。執着。殿の縢戸(くみど) より出で向かへたまふ
黄泉国(よもつくに)に向うイザナギの態度はまず、「美の命を相見まくおもほして、」どうしても逢いたい見たいという執着の態度です。
この執着心がなければことは何も起きません。宗教などは簡単に執着を切り捨てるなどといいます。一生をかけて解脱するなどといいますが、普通の当たり前の態度です。宗教的な執着を解脱する態度では、せいぜい自利小乗個人的な納得だけしか得られず、社会集団の中には出て行けません。
山頂で過ごす人間などには用はありません。
すそ野で過ごすわれわれは闘争社会、執着の世界に生きます。
イザナギも執着を持ってこの世に対したときに、イザナミの出迎えを受けました。
ところでイザナギが逢いたいという執着の中にいるときには、それが執着であるとは気付きません。自分の当たり前な心となっています。
執着と気付くにはそれを超えた高見に昇らねばなりません。普通はそこに登れないので、自分の状態であるものが当然自分だ、これが私だとしてしまいます。
そういった心の形成過程が前段で示され、その表現される形が八つの山津見の神です。
前段まででは主観的な心の形成ですから、執着を語る場合にも、ここまでの段階ならば、当然主観的な執着となります。主観的な執着とはあって当たり前自分はそれで当然ということになります。それを相対化できるには禊祓の段階へ、黄泉国(よもつくに)を出て高天原の段階へ行かなくてはなりません。
普通はそこまでに行くことはできず、それ以前に聞き覚えた知識概念が出てきて、それに執着していき二十日ネズミのグルグル回転をして、主張意見という概念学問執着の中へ飛び込んでいきます。
仏教宗教では、仏神の力を借りて超えようとしますが、古事記はここにある人間として超え統合する道を教えていきます。
執着の形成は前段にあり、執着の形が山津見ですので、その形を見ていきましょう。
『 殺さえたまひし迦具土の神の
(17) 頭に成りませる神の名は、正鹿山津見(まさかやまつみ)の神。
(18) 次に胸に成りませる神の名は、淤縢(おど)山津見の神。
(19) 次に腹に成りませる神の名は、奥(おく)山津見の神。
(20) 次に陰に成りませる神の名は、闇(くら)山津見の神。
(21) 次に左の手に成りませる神の名は、志芸(しぎ)山津見の神。
(22) 次に右の手に成りませる神の名は、羽(は)山津見の神。
(23) 次に左の足に成りませる神の名は、原(はら)山津見の神。
(24) 次に右の足に成りませる神の名は、戸山津見の神。』
殺さえたまひし、は検討するということ。
迦具土の神は、かくつち、書く(表現する)ことによって着いて地に成る(相手対象に着いて相手の地に自分の内容、心が成る)。
山津見は、八つの父韻の原理(やま)が働き着(つ)いて実(み)となる。
以下に八つの表現(文字)の表出原理を示してみましょう。
(17) 頭に成りませる神の名は、正鹿山津見(まさかやまつみ)の神。
頭部位を取ることによって全体を象徴することで、そのことで真の性質をあらわす。容姿容貌外見等の目につくところからきている執着。
(18) 次に胸に成りませる神の名は、淤縢(おど)山津見の神。
オドはオト(音)で、胸から息を出すところから外見表情を現わす力動を示す表現方法。声の発生、仕種の元、表現の元の力動を感じさせる表現への執着。
(19) 次に腹に成りませる神の名は、奥(おく)山津見の神。
腹は野原で一望にできるところ、その奥に、地中に原と関連づけられるような表現となるもの。原という全体に関連づけるようなものが足元手元にあるとする執着。
(20) 次に陰に成りませる神の名は、闇(くら)山津見の神。
陰は子の産まれるところ、闇(くら)はくくり出る、動きの一挙手一投足をよく見ようとする表現。分からないところを探し出すような執着。
(21) 次に左の手に成りませる神の名は、志芸(しぎ)山津見の神。
左は霊足り(ひたり)で充足している、手は動き働き方法、志芸(しぎ)五十城(しき)で揃っている全体。(手を)動かし働かすことで全体を完成させるような執着。
(22) 次に右の手に成りませる神の名は、羽(は)山津見の神。
右は身切りで、切られた身の部分に、羽(は)は言葉の単位要素で、部分部分要素要素を内容とするような表現。部分を強調するような執着。
(23) 次に左の足に成りませる神の名は、原(はら)山津見の神。
足は足りて動いて進んで行くこと。原は見える全体。見える全体を現わそうとする表現。動き移り変わる流れに執着する。
(24) 次に右の足に成りませる神の名は、戸山津見の神。』
戸は十(と)、右の足は身体の部分で基軸、全体十の中(五十音図)のどれか一つを軸とする表現。どれか一つを軸として他と差を付ける、他とよく区別するような執着。
こうしてイザナギは己の執着が上記のいずれかの部分的なものであるにもかかわらず、全体的な見地が無いためにそれだけが自分にとっての全部としていきます。
自分が考え喋っている時はそれが全部の世界を網羅したものと思っています。他の意見が出てこようものなら直ちに自己防御や反撥が開始されるところとなります。
イザナギに全体的な見地が無いといってもこの段階でのことで、禊祓を終了していなく高天原の見方ではないということです。もちろん、自己の主張をするための自分を中心とした全体規範は既にあります。無ければ他に対することもできませんから。
古事記は意識の、伊耶那岐の神の成長物語ですから、各所で同じ名前が出てきても、時処位が違います。同じ名前を持った幼児小学生中学生・・・というようなものです。禊祓以前の高天原を知らない段階ですが、自己規範は持っていますので、そこからは見ていきます。
8。執着。殿の縢戸(くみど) より出で向かへたまふ
組み戸から出迎えるイザナミはこの段階までのイザナギの自己規範の全体の投影で出迎えます。
一緒に戻ろうと誘いますが、(イザナギがいざないますが)彼女はなかなか出てきません。理由は「吾は黄泉戸喫(へぐひ)しつ。」でした。
これは聖書では禁断の知恵の木の実を食べることに相当します。聖書ではリンゴ(木の実)を食べたということですが、リンゴには何の意味も無いようです。神の言葉に従わなかった、たんなる象徴ですが、ここではどうなっているでしょうか。
「「閇(へ)」とは竈(かまど)のことであって」と古事記伝にはあります。
黄泉のかまどの飯を喰ってしまったというわけです。
竈はカマドで「カの間の戸」のことです。カの間とは、ア・カサタナハマヤラ・ワの五感感覚の欲望を中心とした心の持ち方の、その意識の並び方を一つづつ移動していくことです。五十音図のア段で、カから始まるものです。
まずカッと自分に来たもの、カッと自分に承知したものに自分の足場をおいて、それを直接の根拠にして意識を運営していくことです。自己意識においてカッとした確固たるものがくるのですから、どうしてもそこから出発せざるを得ません。
イザナギは確立された主体規範を持っていて、そこにカッとしたものがやってくるのですから当然の自分のものという思い、当然自己所有としているものとして扱います。何でもない日常の普通な意識行為です。
それに気付くまでが悟りの修行ですが、その後そこから禊祓を始めていくのが古事記です。まず悟った小乗自利の行、個人的な体験を超えていくことになります。宗教的には悟ればそれを維持してお終いですが、古事記のフトマニ言霊ではそこからが出発点となります。利他の原理を共有する作業に入ることになりますが、黄泉国(よもつくに)が分からなければ動けません。
話が勝手に飛びました。こうした思いついたまま書き散らすのが黄泉の意識の特徴です。書けば書いたで自分の主張として固執してしまいます。
イザナギは『 かれ左の御髻(みみづら)に刺させる湯津爪櫛(ゆつつまくし)の男柱一箇(をはしらひとつ)取り闕(か)きて、一(ひと)つ火燭(びとも)して入り見たまふ時に、蛆(うじ)たかれころろぎて、』というイザナミの姿を見ますが、じつは自分の姿の投影です。
ここの話は旧約聖書の創世記と繋がるところがあります。(モーゼはスメラミコトに教えを請うた。竹内文書)
主なる神は息を吹きかけアダムを作った。父韻の働きかけにより主体世界が動き出す。
アダムの美しい食べるに良い木と命と善悪を知る木。母音世界。
四つの川。母音世界から半母音世界へ流れ結果現象を生む川。
川の話の後に、受動客体側の表徴であるイブ、骨の骨肉の肉、を作る。
これらは古事記の冒頭と同じです。人の先天世界の話で、新約では後に原罪へと発展していきます。
主体世界が五次元であるのに四つの川しかないというのは、神自身がイ段にいて信仰の対象になっているからです。
善悪を知る実をとって食べるなというのは、古代にモーゼがスメラミコトから教えられたままか、教えてもらえなかった人間意識の秘密であったからでしょう。日々の食を集める時代に教えて実行するものではなかったからでしょう。
イブは受動客体側ですから、自分から主張することはありません。そのがわり自分の善悪を知る木の実を喰った出生、行為の出所を、蛇のせいにします。
イブはアダムの片割れですから、イブがアダムに勧めたのではありません。
聖書には、『3:6。女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。』となっていますが、その真意は、宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神の客体側の世界【 言霊 ヲ】がまずあったということです。
つまり「組み戸」のことです。組み戸のどれかに引っ掛かり執着したということです。キリスト教でも仏教でも執着は否定的に扱われてしまいますが、執着を超えていた視点がないので仕方ありません。
今回は黄泉国(よもつくに)の入り口の話ですのが、ここから先に行くと中に入ってしまいますので、止めておき戻ります。
山頂の火口湖は山頂に達しなければ見えません。そこまでの登山道さえどこにあるのか分かりません。ましてや理想的な意識の運び方など闇の中です。
古事記の冒頭であるフトマニ言霊学はまさにその運用原理となっています。超古代において既に意識の運用法が解明されていて、それが人類の宝であるとの認識が共有されていました。それによって大和の日本語という言語体系がつくられ、そして社会統治体系も作られていったのです。
それは世界の人間の歴史の原点となって地球上に散らばっています。古代においてそれほどのインパクトがあるため、現代にまでその原理と形式は引き継がれています。
9。執着。殿の縢戸(くみど) より出で向かへたまふ
今回は少々風変わりなことを書きます。日ユ同祖論として知られていますが、その場合はユダヤの動きが主体となっているので、日本側の方が真似事をしているという捉え方があります。また竹内文書での記載、ユダヤ教との類似性などから実証をこととして、史実とするものがあります。生理学的にも染色体の比較なども行なわれています。
ここでは、逆に聖書の記述にフトマニ言霊学の精神意識上の真似事を見出そうというものです。
といっても聖書は長大なので創世記に関してだけです。わたしは宗教を信仰し拝む世界にいませんので突飛な発言も出そうですが、人間の世界史上のお話しといった書き草風のものです。
キリスト教では原罪といわれていて、原罪についてはいろいろあるようです。一方ユダヤ教では無いということです。その思想の元はアダムとイブが「木の実を食べたからではなく、主なる神の言葉に従わなかったからである。」というところからきています。
それを代表的な意見としても、神の言葉しか無いときには、それ以外には無いのですから従う従わないもないはずです。しかし狡猾な蛇がいたために、イブは神の言葉の影の部分を知ります。
ですのでここからすると、スメラミコトから教えを教わったモーゼがいいたいことは、神の言葉に従わなかったのではなく、神の影の言葉に従ったが、自分の言葉としなかったということになります。イブが他者である蛇を返答の理由にしたことを問題にしたようです。
禁断の果実の思い出は元々ありました。神に似せられて作られたアダム、そのアダム骨の骨であるイブ、つまり神の言葉の裏を代表するイブですが、自分を棚に上げにしたということになります。これはとりもなおさず神自身の持つ言葉の先天構造に裏となる相手対象があるということになりそうです。
その裏のイメージを蛇に象徴代表させたものですが、裏といっても物事の汚い裏側という意味ではありません。フトマニ言霊学でいう、言霊 ワの系列、 神産巣日(かみむすび)の神、宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神、伊耶那美の命、黄泉国(よもつくに)全体を蛇としたものです。
これを詳しく話すとお伽噺となりますし、その全文内容は古事記の冒頭にほかなりませんから、わざわざ、またまた象徴暗喩を用いることもありません。古事記では黄泉国(よもつくに)でイザナミが「吾は黄泉戸喫(へぐひ)しつ。」と反省しているのに対して、聖書では蛇のせいにしてしまうという違いがあります。
それは自分の意識を排除して、物と物の作用反作用の世界で起こったこととする意識を言っているようです。自分の中にある物理的な作用がやったこと、自分以外の物理力それによって行なわれた、自分の中の悪魔が、罪が、蛇が、戸喫(へぐひ)しつが、行なったというものです。
元々ある、先天的にある意識の活動を、働き活動して出来た後天現象であるもの、蛇という象徴で語ることが問題となっています。どの宗教も精神、魂の神との合一、神体験までは追求しますが、それ以降の心の禊祓にまで言及しているのは世界にも神道以外にはありません。
蛇の意識上の意味はオノゴロ島での淡島と蛭子の話と同じで、女が先に喋った、イブが蛇のせいにした、つまり客観世界を先に置いたということと通じています。客観世界は一つの川から分かれる四つの川、つまりイの意志創造から分かれるウオアエの次元と同じことを指しています。
そしてそのあとでイブを作ることなど、オノゴロ島のまぐあいに相当するところでしょう。創世記と古事記のそれぞれの冒頭はとても似通ったところが多いので、旧約をモーゼの作とすれば、モーゼは大和に教えを受けに来たというのも本当のことでしょう。
ただしモーゼの創世記では「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた」というように、父韻の働きが主たる神と同一でしかも信仰の対象になってしまっていますから、行為主体の解明は不明なままです。
黄泉国(よもつくに)の組み戸はここでは蛇と木の実の統一されたものとなります。木の実を食べて死ぬというのは身体が死ぬことではありません。創造意志の活動による生産生成物を物質の作用反作用の内に放り出すということで、そこに意志の介入を放棄することです。
というのも父なる神がその行為をして行くので人は父の御言葉の成すがまま、となってしまいます。蛇が喋る形をとるのは、この宗教では主たる神が隠れた行為しかできないためです。古事記のように伊耶那岐の神の成長記録といった現れ方はしていません。
そこで木の実(リンゴ)といった物象を動かすのに神の化身たる蛇が出てくるのです。聖書では信仰対象となっている神の言葉、御言・命、ですが、ここで化身というのは、光の神の影方面での現れ、イザナギに対するイザナミの関係と同じです。
古事記では岐美の神がいますが、旧約では岐美の神がそのまま主なる神であり、同時に父韻であって一緒に信仰の対象になっているため、自らの影の部分を語れないからです。ですのでイザナギが黄泉国(よもつくに)を通過したときのように自身の影の部分を全面的に受け入れる場面はありません。(スメラミコトがモーゼには教えなかったところでしょうか。)
ですので蛇に地を這えと命じ突き放すだけで、すくい上げる事をしません。イザナギがイザナミを大神としてすくい上げることとは大違いです。
聖書ではアダムの受動客観側であるイブの心は、アダムの影としては出てこず、蛇とか禁断の木の実とかいう物象で現わされます。聖書にわざわざ組み戸との類似を探すことも無いのですが、蛇が既に持っている狡猾さはやはり、主なる神から来たものであることは言っておきたいわけです。
仏教も宗教の次元では執着からの解脱を説くだけで、他力か自力の個人行に頼るだけです。自力か他力かの向こう側に執着の無い世界があるという努力目標があると、希望を与えます。どの宗教もその希望の与え方は、始祖宗祖の個人的な神体験、神秘体験を元としていますが、どれもこれも単なる個人行から出発したものなので、個と他者を結ぶ結び目とその運び方を知りません。
そこで信仰と人を超えたものへの結びつきを提示して、自らの経験で結ばれているものを、他者にも提供共生しようとするものです。これは創始者の明確な神との合一体験がそこで実を持って結ばれているところで終わっているからです。
平凡人の目からすればそれだけで凄いことですが、それだけのもので個人の次元からは出ていません。その当人だけが勝手に神になり超越した者となりとかになっていくだけで、他者社会との接点を虚空にしか置くことが出来ていません。
そこで平凡人集団とコンタクトをとるにはやはり虚空において仮想体験させて、共有するところを与えていくことになり、それが教団なり、本尊なりに、おみくじなり、神像なり、になっていきます。
これらの過程の大本がイブが自分を棚に上げて、蛇のせいにしたことでした。古事記ではイザナギの自覚的な禊祓によって乗り越える道が示されていますが、他の思想、宗教にはそういった道へ導くものはなく、信仰において行き詰まりが示されるだけです。
2012年になります。新しい世界は古事記の冒頭を思い直すことから始まります。
よいお年をお迎えください。