ここに御佩(みはかし)の十拳の剣を抜きて、後手(しりで)に振(ふ)きつつ逃げませるを、
世界中の客観的現象の研究の考え方が誘惑しようとして追って来ましたので、伊耶那岐の命は十拳の剣を抜いて後向きに振りながら逃げて来ました。十拳の剣とは、前にも出ましたが、物事を十数を基調として分析・総合する天与の判断力の事であります。この判断力を前手(まえで)に振ると、一つの原理から推論の分野を広げて行き「一二三四五……」と次々に関連する現象の法則を発見して行く、所謂哲学でいう演繹的(えんえき)思考の事です。伊耶那岐の命は十拳の剣を後手(しりへで)に振ったのですから、その反対に、物事の幾多の現象を観察し、そこに働く法則を見極め、それ等の法則が最終的に如何なる大法則から生み出されて行ったものであるか、演繹法とは逆に「十九八七六五……」と大元の法則に還元して行く、哲学で謂う帰納法の思考のことであります。伊耶那岐の命は十拳の剣を後手に振る思考作業によって、黄泉国の客観的に物事を見る種々の文化・主義・主張を観察し、その実相と法則を五十音言霊で示されるどの部分を担当すべき研究であるか、を見定め、それによって黄泉国の文化のそれぞれを人類文明創造のための糧(かて)として生かす事が出来るか、を検討し、その事によって自らの主観内に自覚されている建御雷の男の神という五十音図の原理が、黄泉国の文化全般に適用しても誤りない客観的・絶対的真理であるか、を確認しながら高天原に急いだのであります。 (島田正路著 「古事記と言霊」講座 より)
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後ろ向きに喋る
後ろ向きに喋りなさい、というのは、どういう人たちを対象に、その人達の言葉遣いで書くことになりますが、それがなかなか難しい。禊祓の大祓祝詞にある、アイエオウと下りてくる立場、アはスメラミコト、イは比礼佳くる伴男(ひれかくるとものを)、エは手襁佳くる伴男(たすきかくるとものを)、オは靭負ふ伴男(ゆきおふとものを)、ウは剱はく伴男(たちはくとものを)、でしょ。
スメラミコトの大御心を太祝詞音図に照らし合わせて、こうだと決めたら、どのように運用すべきか、というのを検討する、その言葉を一般の人に通じる言葉に翻訳して、庶民にも分かる言葉にして発表する。
今までと何ら変わらないことを言うのですが、言葉を厳選するのが難しい。自分で納得しても意味がありませんから。実際には太祝詞音図のエに照らし合わせてどうなのかが問題なんです。自分の心が音図から通ってこないとなりません。
言霊の学問から見て原理的に了解されなければならない。大概思ったことをウとオの次元に合わせて言ってしまう、その前に自分が言おうとする内容が、スメラミコトの大御心のままに出ているかどうか、次にエの太祝詞音図の段階に立っているかどうか。
以上は引用です。
http://imakoko.seesaa.net/pages/user/search/?keyword=%8C%E3%82%EB%8C%FC%82%AB%82%C9%92%9D%82%E9&vs=http%3A%2F%2Fimakoko.seesaa.net%2F&fr=sb-sesa&ei=Shift_JIS
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ここに御佩(みはかし)の十拳の剣を抜きて、後手(しりで)に振(ふ)きつつ逃げませるを、
世界中の客観的現象の研究の考え方が誘惑しようとして追って来ましたので、伊耶那岐の命は十拳の剣を抜いて後向きに振りながら逃げて来ました。十拳の剣とは、前にも出ましたが、物事を十数を基調として分析・総合する天与の判断力の事であります。
この判断力を前手(まえで)に振ると、一つの原理から推論の分野を広げて行き「一二三四五……」と次々に関連する現象の法則を発見して行く、所謂哲学でいう演繹的(えんえき)思考の事です。
伊耶那岐の命は十拳の剣を後手(しりへで)に振ったのですから、その反対に、物事の幾多の現象を観察し、そこに働く法則を見極め、それ等の法則が最終的に如何なる大法則から生み出されて行ったものであるか、演繹法とは逆に「十九八七六五……」と大元の法則に還元して行く、哲学で謂う帰納法の思考のことであります。
伊耶那岐の命は十拳の剣を後手に振る思考作業によって、黄泉国の客観的に物事を見る種々の文化・主義・主張を観察し、その実相と法則を五十音言霊で示されるどの部分を担当すべき研究であるか、を見定め、それによって黄泉国の文化のそれぞれを人類文明創造のための糧(かて)として生かす事が出来るか、を検討し、その事によって自らの主観内に自覚されている建御雷の男の神という五十音図の原理が、黄泉国の文化全般に適用しても誤りない客観的・絶対的真理であるか、を確認しながら高天原に急いだのであります。
以上は下記からの引用です。
http://homepage2.nifty.com/studio-hearty/kototama_ver.1/lecture/no175/no175.htm
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これらを参考にして、古事記の神代の巻を前にしてどう解説するかを考えてみたい。まだ勉強中なのにどう解説するかなどと大それたことを仕出かす積りはありません。古事記はどんな問題にも適応できるので、その練習です。
何しろ千数百年ぶりに島田正路氏によって蘇った思想です。『古事記と言霊』。
スメラミコトの為の思想ですが天皇の為になるかどうかはまだ分かりませんが、復言はされるといいます。
チンプンカンプンの古事記が相手ですが、記した本人にはこれでわかっていた分けですし、皇室においても伝わっていた分けです。
呪文のような書き方であろうと、暗喩、暗示文であろうと、当時までには理解されていたものです。しかし、実践施行はされていません。
短い般若心経の空の理解に、釈尊から一人だけに伝授されて空を悟った何代目かの現代の釈尊がいるらしいですが、古事記は書物としては伝わってきましたが、安万侶さんの後は千数百年間誰も理解した者がいませんでした。
というような事を書いたところで、空の思想とも、古事記のフトマニ言霊思想とも関係はなく単なる解説のつまになるだけです。解説というのはこういった横道が多い。
ということで、どう解説するかという問題を扱ってみようと思います。
上の二つの引用と共にもう一つ参考になるのが、母親が子に対する態度、われわれが自然に受け入れた言葉に対する態度や、武道の達人、宗教家芸術家の一言です。秘伝、真言などといわれ言った当人しか分からない、実は当人も表現の仕方をしらないからこれ以上言えないという事ですが。これらも、解説、習得、修得を考えるネタになるでしょう。
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上手な説明とか解説、とかをネットから拾うと次のようなものがあります。
目的を知らせる、分からせる、させる、改めさせる、感じさせる、人間関係をつくる
どんな目的の場合でも何らかの意味で分からせること(説明)が基礎になっています
ハッキリした話し方か …声を大きくハッキリと】、ナンプンで話すのか考えてあるか … 【リハーサルして時間調整を】、シリョウにそった説明になっているか…【資料にポイントを明記して】、ウキボリにすべき点はどこか …【重点思考での説明を】、マエモッテ、リハーサルしたか、… 【練習こそ上達の秘訣】、イッカンした話の筋になっているか。
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しかし、古事記の真の意図を話すのにはどうしたらいいのでしょうか。始めの引用中にある通り、自分で納得しても意味が無いということですので、どうしましょう。祭壇や神様に向かって祈りますが何か教えてもらえるところがあるのでしょうか。昔からの型通りを繰り返して何か真実を得るのでしょうか。気持ち感情の上では大いに得る事があっても、知識、実践にははてな?ばかりです。
古事記の解説などというと、知りたい、関心があるという事を知的に調べて、事実関係をみたり過去を当たったりして、知識を見せることだけです。ありもしない事をあったようにように見
せる事もあります。知的に作業しているという自負の奴隷になって突っ走ります。
般若心経もそうですが古事記の神代の巻も、どちらも知的な了解など屁の河童です。心経は知的な解説など空だという事ですが、古事記は禍で直さんとするものといいます。そんなところであれやこれや知っている事を並べ立てても、一歩も同じ次元に行けないし同じ土俵に立てません。
解説というのはそんなものでしかありません。上から、あるいは同じ土俵に立って知識を細工する事です。導くといいかたもあります。
分からないところを上手に教えるのならいいことと思われます。大事な知識を得て成功への実践行為に導きます。ものの始めに手ほどきをしてもらわなければ何もできません。
わたしの書き方は何か悪意のあるような、親切な解説を否定するような感じが含まれているようです。いままでお世話になっているものなのになんという事でしょう。
さて、達観した人、達人、悟った人、たちの解説は不親切、不十分なのが普通です。何も教えないというものさえあります。さらに私たちはここでは同じ日本語を使っていますが、いつのまにか喋るようになり、教えてはもらっても、解説されて納得した言葉は無いと言っていいでしょう。
私たちのコミュニケーションはそうしたあやふやな上に作られているのです。知らない内に体得修得した獲得した言葉を土俵としていて、そんな上で正しい解説だとか、親切な解説だとかは成り立つでしょうか。
そういった事を暗黙の内に了解していくと、神代の話は神話という事になります。最初から手を出さず手が出せずにいるのですから、全く正当な解釈です。ただしそこから知的な感心興味が芽生えていくと行き着く先はヒッチャカメッチャカになります。アイデアだけの思いつき勝負になり、もしくは財界人のように自分の分野限定で語るようになります。
達人、芸術家、宗教家等の短い言葉はそれしか語れないという彼らの身の上を現したものです。ベラベラ語るのは下いる取り巻き連中で、古事記と言霊の関係を語るわたしなどもそういった連中の一人です。
確かに、語らなければ分からないし、語ったところで分からないというところでしょう。そんな中で、最近ふと、解説とは何だろうかと思った次第です。
原文はこうなっています。
【 また後にはかの八くさの雷神に、千五百(ちいほ)の黄泉軍(よもついくさ)を副(たぐ)へて追はしめき。ここに御佩(みはかし)の十拳の剣を抜きて、後手(しりで)に振(ふ)きつつ逃げませるを、なほ追ひて黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本に到る時に、その坂本なる桃の子(み)三つをとりて持ち撃ちたまひしかば、ことごとに引き返りき。】
解説してしまうと、解説文に絡まれることが起きます。
桃の子三つに援護されているようではまだ自覚できていません。
さてさて。