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●「死」。生の終了。死の創造。かれ伊耶那美の神は、火の神を生みたまひしに由りて、遂に神避(かむさ)りたまひき。。
面倒くさいややこしい、真面目でも不真面目でも真面目な、やっつけたくともやっつけられそうな、関わりたくても係われない、決心してもすぐというわけにいかない、馬鹿にしようとも馬鹿にできず馬鹿にもされない、そんな問題です。
それらを意識してか創世記では、
「 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」
と、知識において死が与えられています。
ここからわたしなどは、欲望においてはどうなる、感情においてはどうなる、実践知識の選択においては、意志そのものはどうなると、牧師も宗教家も説明してくれそうもない疑問がでてきます。
聖書では知識に関してだけは死を説いています。何でも喰っていいと言っていますから、五感感覚からの欲望には「死」はないといっていることになります。
お互いの裸を観賞し合うことも始めには存在していなかったと言うつもりらしいです。相手の裸を見る事に無関心であるはずはありません。子供でも老人でも、エッヘッヘです。
そこで神さんは知を知った事を怒ることになりますが、おもしろいことに、知識を得る事に関しては何も怒りを示さず、欲望次元にシフトしています。
そして相変わらず智恵の流出を防いでいるようです。「 3:24、神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。」
これは神の混同か思い違いか全能の指示かで取り方は変わってくるでしょうけど、よほど欲望次元の人間性能に拘泥していたようです。
神といってもその元はモーゼの記述で、モーゼはスメラミコトに教えを請うていますから、ここでは完全に消化しきれていない痕跡となっています。あるいは、スメラミコトはモーゼには欲望次元から出る事を教えなかったのかもしれません。
ユダヤ教には死後の世界の思想が無いという事ですが、これはあくまでも五感感覚の欲望実現を目指す上で必然的にそうなっていくので、「 善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」は不問にされているのでしょうか。
旧約の世界はわたしの知らない事ですから手出しをしない方がいいですね。しかし、欲望次元と死に関しては何か言う事が出てきそうです。
古事記では「 神避(かむさ)り」といっていますが、二千年このかた「死ぬこと」と読み替えています。 神避(かむさ)りが死という事になってしまいました。神避(かむさ)りを元の五千年前の意識に戻せるかどうかに挑戦です。
間違いを言いふらすと嘘つき少年ですが、真面目に美文にするとノーベル文学賞になります。上手に嘘ついてお釈迦様と言われる人もいます。神避(かむさ)りを死とする現代の理解が正解であるとは限らないのです。
「死」に関しても人に間する全次元からのさまざまな語り方があります。肉体的とか、精神的とか、存在的とか、感情的に死は快楽とか美だとかもいわれています。智恵のリンゴを食べた御蔭です。
智恵のリンゴの効用は、解説では「死」とは命がなくなる事、と言った後は命の無くなり方を追求していくと「死」の解説をした積りになれることです。これは「死」を解いたのではなく「生」の無くなり方を説いたものです。
能書きが多くて「死」を解説できないのではないかと思われているようですが、その通りで、そう簡単ではないです。
古事記は御中主の発展した姿でこの一神しかいませんから、当然ここから始めればいいことになります。それでは時間が掛かり過ぎますので、もっと近いところをみます。
また、黄泉の国の段落も用意されています。ここで「死」を説いたというふうな解説が多いですが、しかし、黄泉の段は「死」を説いたものではなくその扱いに関するものです。ですので、黄泉の段落の前に「死」が説かれているはずです。
前段は迦具土の神の段落です。光輝く神霊の神格化ととらえている方にはギブアップとなる内容です。もちろんわたしへのギブアップでも、読む方自身のギブアップでもどちらでもいいですよ。
では、「死」に突入してみます。
まず皆さんと同じように生の終了から入ってみます。
そして死の分析をして、
死の表現の成り方をみて、
死の独自のあり方の世界への係わりから、
死との決別を通して、
死の再生不二を共にする意思の築き方へ進み、
その方法ができれば表現することになるでしょう。
では。
生の終了。
【 火の神を生みたまひしに由りて、】【 遂に神避(かむさ)りたまひき。】です。
欲望次元では、欲をぱんぱんに満たして欲が無くなる事でしょう。消費充足によってもう欲はありません。欲は死にました。
知識なら知りたいことを知ってしまえばそのことに関しては終りでしょう。獲得記憶化によって疑問は判明し、別の話題へと知識は移動します。
感情は常に一時のもので思いだすのも難しいことです。感情はその時その時を生きていて、起きた感情はその場で消滅死に絶えていきます。
選択は決定実行されてしまえばもう過ぎ去った過去です。してしまった選択は常に現在に生き続けますが、結果がでたときに終わります。それ以降生きる術がありません。
ここでの欲を満たす、知ってしまう、感情を得る、実行してしまう、こと等が火の神を産む事です。活動行動生命の主体側の意思の現れが成ってしまえば、一段落を迎えます。
もうこれ以上産むこと産むものはない、生みたまひしによりて、遂に、、、、です。
これらの事は逆にも見る事ができます。
死の発生。
成ってしまった状態から、結果から、見ていくとこうなります。
欲しい欲しいとした欲望はもう無い、今は欲望の死の状態にいる。あれぼど欲に飢えていたのに今はない。無だ。
知りたい事は知ってしまった、答えは書かれ回答もし終わった、今は知識は記憶の中に退き不要になった。概念という記憶があるだけで何も新しく獲得する知識が無くなった。知識の働きは死んだ。わたしはそこに佇む。
わたしの感情もあの人の感情ももう過ぎ去った事、何も無い。あるのは思いで、あの時の感情しかなく今の時が無い。
決定後の行為はここにあるが、どうしようか不決断であったことが嘘みたい。選択を成した後に残るのは結果を取るか取らないかだけであり、それが済んだ後は自身がいるかいないかだけになる。
自分の係わったものを終わった所から見ていくと以上のように、生命の無い不動の自分が、自分の創造物の前に対峙することになります。
そこで新しい欲望がおきるにしろ、新しいことを得たいと思うにしろ、あるいは無いにしろ、人は前回の結果の上にのったところから始まります。そこでは新しい未習得未獲得のものは自分よりも常に上座に占めています。そこからすると自分はいつも下位であり小さい者であり何も無い者となります。
これらの意志、生命の終了はどこから来たのでしょうか。
【 この子を生みたまひしによりて、御陰炙(みほどや)かえて病(や)み臥(こや)せり。】子を欲しい、結果を見たい、何かを得たいしたいことがあるため、その子を産んでいくことに係わり病気になりました。
そこでは満足を得て充足が来たときに終了せざるを得ません。満足したのだからそれでいいじゃないかとなりますが、一時の結果に終わらない主体側の精神があります。
それがあるから社会も人間も発展してきたというかもしれません。確かにその通りですが、その内容は動物の弱肉強食と変わりません。不幸と戦乱を求めるものです。
そして結果としての富の集積、貯蔵が、主体側の意識の終了と共にできました。つまり、主体側は自分自身を得たのではなく、物質の結果、概念の記憶を得ただけです。
主体側の意思行為の終了のためにせっせと動き探し活動していた事になります。これは主体側と客体側を別々にみていくことでそういった見解がでてくるわけですが、なぜそうなるのか主客のそれぞれを確かめなくては次に進めません。
まず結果として出てきたものは何かが分析されます。カグツチの段落です。
意思行為の終了、生の行為の終了によって出来たものです。
火を求め、着火点火に成功すれば火を求める主体行為は終わります。そこにあるのは主体ではなくそれの染み込んだ客体です。そこからこんどは客体自身の運動活動が始まっていき、主体の出る幕は消えるというか、主体は客体の前に腹這い客体を立てるようになっていきます。火が消えないように火におべんちゃらを使うわけです。
そうしないと火は消えてしまい、当初の主体側の意識も消されていってしまいます。ですのでこんどは客体が上位の位置を占めその前に人が跪く物神、崇拝の構造が出てきます。
さまざまな宗教、教え、聖人の教義があっても死の観念が生の観念の上にある事を阻止することができませんでした。
そのはらいせに死後の世界に死の階層を求めたり、死後の魂の成長などを想定していくようになってしまいました。
ここまででは死という言葉はあまり出てきませんが、所々にある関連する言葉を死といいかえても構いません。というのも先が長そうなので急ぎの方はそうしても結構です。一貫性の無い書き方ならば駄目な見本となるだけで、単なる思いつきの集まりになるだけですので。
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【子の一木(ひとつき) 】について。
これは自分が係わったもの、俗には自分の唾をつけたものは自分のものになると思う意識のことを指しています。中国の映画でよくある場面で、盗みかっぱらえば自分のものになるばかりか、盗人の気に入らないものだと元の持ち主に買い取るように請求し、元の持ち主のほうも当然のこととして代金を支払います。あるいは事業の一端を担っただけなのに全体の完成に貢献した感じを得る事もあります。
古事記では五十の言霊、そのうち三十二の現象子音を創造してしまえばその後は一切必要でなくなります。その三十二の子音をまとめた意識になっているのが子の一木です。子音の一連の気、ここには全ての子音に同じ先天構造が含まれていますから、一と続きの木・気・き、というわけです。カグツチはそれの物象表現されたもので全体を現しています。
ですので現象として現れているのが雑多多数であっても、係わった意識の一貫性によってまとめられるという事です。ほんのちょっとの唾をつけるだけで全体を主張して行くには、かなりの飛躍が必要に感じられますが、それを受け持つのが感情です。
手を付けた量がごく少数であろうと、そこにある感情はそのものの全体に拡がりますから、そのまま自分のものという意識も出来てきます。
●「死」。死の分析の準備。子の一木(ひとつき)。比婆(ひば)の山。
前回、【 火の神を生みたまひしに由りて、】と産む事によって自分を実現していく積りが、本当は自分の終了した姿を描いていく事を見ました。ここでの文章の読み方は、「火の神」をそういうものとして産んでいくとすれば、水でも他でもなく火の神を産んでいくことになりますが、「生みたまひし」を主に読んでいくと主体の全体の行為が浮かんできます。
その後の解釈は公式的な神道の解釈になるか言霊学の理解になるかに分かれていきます。ここに古事記での特徴的な書き方である、何々によりて成りませる、ということを適用しますと、【 火の神を生みたまひしに由りて、遂に神避(かむさ)りたまひき】は、神避(かむさ)りという何かの神か毘古と毘売かが誕生したことになります。
実際私たちの意識ではものを産んだ後にどのようなことが起きるでしょうか。
産んだ後には愛着執着慈しみあるいは憎悪嫌悪とう様々な感情の流れが訪れます。
ここで生んだものにプラスかマイナスかの意識の係わり方でその後が変化していきますが、古事記はここで物語の進行上では名は泣沢女(なきさわめ)の神を登場させます。
これは「泣く」ことではなく、出来たものに名を与える形容するのにああだこうだ、嬉しい悲しい、こう思うああ思う、こうだったらいいのにああだったいいのにと、騒ぎ立てることです。すなわち所有意識の感情表現をするわけです。これがものを生んだ後に起こることですが、人は自分の感情を直ちに確かめにいきます。
マイナスの方向へ行くと不動、結果、客観、お終い、死の方向へ向かい、プラスの方向へ向かうと、進展、動き、希望、主体、今後の方向へ向かいます。どちらの方向へ行くにしてもまずは自身の意志を確かめようとします。生んで作ったものは自分でしたことか、はてな、というわけです。
ここでの説明が腹這いて泣くというと大げさというより、自分の唾をつけたものかどうかの白黒をつける重要な精神行為となります。それの説明に例によって五十音図が引き合いに出されています。
愛(うつく)しき・・・感情の成立。
子の一木(ひとつき)・・・自分の生産物の象徴的な表現となった言霊の一連の全体。
御枕方(みまくらへ)・・・五十音図の頭。ア段の感情世界。
御足方(みあとへ)・・・最下段イの精神意志の世界。
葡匐ひて・・・アからイへと幾度となく往復確認をつけるため。
哭(な)きたまふ・・・それぞれの段において、それぞれの自分の世界において探しまくる様子。
御涙に・・・自らの結果が出てくること。
香山(かぐやま)・・・書かれた山、表現され結果として現れた生産物。
畝尾(うねを)・・・生産物表現されたものの象徴となっている五十音図の畝、横の並び。
木のもと・・・木はアオウエイの母音行。五つある畝の根下、一番下の畝。イ段(伊勢の御柱の)こと。
そこに出来たのは、名は泣沢女(なきさわめ)の神。・・・イ段、つまり、自分の意思行為であり、自分の意志が根元にあるという確認。
このように根元においての自分の意志の創造行為が確認される度合いに応じて、そのものに対する態度も変わってきます。こうして取り敢えずは自分の生産物であることを確認していきますが、それは決して自分の主体を確認したことではありません。相手側のものの範囲内にあります。(分かりやすく雑に言えば主体であると同時に客体であると、言っておきましょう。)
【神避(かむさ)りたまひき】にはそれだけのものがなければ、死ぬに死ねません。しかしそれだけのものを持っていなくても死に至る病はあります。これ以上創造するものは無いといっても、あるけれど病んでいる時にも死は訪れます。
わたしはよく生産物とか現象とかいいますが、頭脳内での精神行為だけの場合でも、そこで使用されているのは超スピード回転している言葉という生産物のことも含んでいますので。
そこにあるものは各人の全人生ですからそれは非常に大きなものです。そればかりかその人の元にやってくるもの、その人が受け付け役をしていた時の全てもあります。この自分にやってくるものもなく自分からも行く事がなく、あっても何の創造性もなく思われると、【神避(かむさ)り】と隣合わせとなります。
そして死に飛び込む事が一つの創造することと一致しているとの感覚を持てばそうなることでしょう。なぜならそこにはもう愛着も執着もないからです。
愛着を超え執着を殺したらそのもの、自分の創造したものとの間の係わりが途絶えます。愛着も執着もなければ猫に小判みたいなものですから、相手対象との関係がでてきません。ではそれらはどうなるのかといえば、客観実在となってあちら側にいつまでもいることになります。
ここで注意を要するのはあちら側にいるというだけですので、死んでいなくなるということではありません。あちら側にあるものに意識が向いていないというだけで、いつでもこちら側との意識の交流はできます。もちろんあちらのものは自分の精神主体ではありません。
ではどのようなものとしてあるのかというと、
【 かれその神避(かむさ)りたまひし伊耶那美の神は、出雲(いずも)の国と伯伎(ははき)の国との堺なる比婆(ひば)の山に葬(をさ)めまつりき。】の中にあります。
普通のイメージならばやはり葬るなんて言うのですから死のことになります。しかしこういう理解をしてしまうとわたしの間違いになります。
現代人の言葉づかいは名詞となってしまった、物となってしまったところから考えを始めていきます。あったものそれは何か、という問い方が得意です。しかし古事記は、動詞、動詞、動き、動きの連続です。つまりここでも、死、死、と説いているのではなく、納める、納める、葬る、葬る、と説いているのです。
出雲・・・とは出る雲と書きます。大空の中にむくむくと湧き出る雲と言えば、心の先天構造の中に人間の根本智性である父韻が思い出されます。泣沢女(なきさわめ)を思いだしてください。
伯伎(ははき)の国・・・と言えば母なる気(木)で、アオウエイ五母音を指します。聖書で謂う生命の樹のことです。(モーゼはスメラミコトに教えを請うています)
堺(さかい)・・・坂合い、さが・あい、性合いのこと、坂、性の上がりと下がりがイにおいて接点となっていること。後に【 かれそのいはゆる黄泉比良坂(よもつひらさか)は、今、出雲の国の伊織夜(いふや)坂といふ。】になる。現代の用語では必然性のことをいうが、さか、さが、まがに掛かってくる。
比婆(ひば)・・・とは霊(ひ)の葉で言霊、特に言霊子音を言います。子音は光の言葉とも言われます
伊耶那美の神は、出雲(いずも)の国と伯伎(ははき)の国との堺なる比婆(ひば)の山に葬(をさ)めまつりき。これを縮めると、・・・伊耶那美の神は、男と女の堺に葬(をさ)めまつりき・・・ちょっと酷い省略形を作りました。
男と女で子供ができるのとは違う形です。
伊耶那美は子供の中に納まっているという形です。
伊耶那美は伊耶那岐が目指した相手ですからなんとでもとれます。食べたくなったカレーライスでも、好きになった相手でも、このブログは何を言っているのか分からないということでも、日本の進路についてでも、なんでもいいです。
ギの命は自分の相手に応じて両者の子供、結果現象、生産物なりを創造しますが、では当初の妹伊耶那美さんはどこに行ったかというと、現象の中におさまって、比婆(ひば)の山に葬(をさ)めまつりきとなっているということです。
全然死んだということではなく、ただあっち側にいるということです。それを食べたり、思いだしたり、使用したりする度合いに応じて、愛になったり、憎悪になったり、死への誘いとなったり、創造への飛躍となったりしていくわけです。
伊耶那美は、たぐり、屎(くそ)、尿(ゆまり)、比婆(ひば)の山という具合に現象側、あっち側にいるという系統です。
それに対して、伊耶那岐の御涙に成りませる神は泣沢女(なきさわめ)の神、出雲(いずも)の国側にいて腹這い動き回る側です。
泣沢女(なきさわめ)の神、というのはここでの伊耶那岐の姿ですから、葬儀のときの泣く役割の女ということではなく、怒号のような男泣きですが、泣くのは女に多いことから伊耶那岐の態度の形容になりました。決して女の神さんがここで生れたのではありません。
そして主体側の御柱を廻る行為で、一体自分は何を思っているのかと自問自答していくことが次段です。
生き生きとした相手がいたはずなのに今は現象となって二人で作ったもののなかに納まった形でしか相手を見いだせません。伊耶那岐の創造意思行為が形の中に納まったということです。
好きな相手を見つめ続けていられるのは、相手から受ける印象、比婆(ひば)の山に葬(をさ)められている自分の印象が、伊耶那岐の命の詔(の)りたまはく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易(か)えつるかもがプラスに作用しているからです。
そこにある納まってしまったものは単なる物理的な、概念的な記憶となって現前している顔でしかありません。しかし、人はこの顔の前で顔を見て、何千回何万回という超スピードの頭脳内の回転によって、つまり泣沢女(なきさわめ)の神の這いずり廻る御蔭で、相手への好印象を維持しているのです。
そこでこんどは伊耶那岐は自問をして、なんで自分はそんな状態でいられるのか。相手にしているのは自分ではなく、結果、現象、単なる物象、記憶概念、ではないかと気付きます。
しかし、そこには自分で見た自分の輝いた瞳が反映されていますから、比婆(ひば、霊葉)の山、自分の魂を持った、注入された、プラスとマイナス、輝きと暗黒のものと見えます。
つまり自分のしていることは相手の物的な条件下にあるだけではないのかと、自分の疑問を晴らしにかかります。もしここで、いままで通りに自分と他者の関係で得た判断規範を使用していたなら、相変わらずの堂々巡りが終りません。
常に古事記が世界最高の唯一性を感じさせられることがここでも起こります。人は自他との間でできた判断を使用していては埒が明かないのです。ここで古事記は一挙に十拳の剣を持ちだします。
剣はつるぎで両刃です。連気(つるぎ)と絶(た)ちの両方の判断を一挙に成し遂げることができる判断ということです。
●「死」。死への欲望。御佩(みはか)せる十拳の剣を抜きて、その子迦具土の神の頚(くび)を斬りたまひき。
伊耶那岐はあっちの世界に行ってしまったものは何だったのかと世界最高の剣を使用します。
しかしこの剣は現在ある最高の剣というだけで、これから伊耶那岐自身が作る理想の剣ではありません。
ここで注意しないといけないことは、もし現在最高の剣があるというのなら、それに対応した切られる側の現在にも最高のものがあるということです。
日常世界での最高最高は単に比較しただけのものですが、古事記は意識の判断規範をさしてのことですから、最高の判断とは最高の相手のことを指しています。
つまりここまでの話では伊耶那岐、それは各人一人一人の自分のこと、が相手対象、妹伊耶那美を見て納得したというところまでです。相手の「愛(うつく)しき」状態は比喩ですので、どんなことを適応しても構いません。但し、どんなことを適応されようと、それは最高である十拳剣の最高の相手であることです。
こういうとどんな相手対象が最高なのかといぶかることでしょう。もしそう考えるとそれは単なる相対的な比較概念の世界での発現でしかありません。最高の剣が用意されてしまっているのですから、全てが最高の相手対象物となってしまっているはずです。これは常識では理解できないところです。
しかしその対応を思わなければ古事記は理解できないということで、理解できないということが既に最高の理解でなければならないはずです。この頓智問答もどき、格好をつければ禅問答、を通過しないと次へは進めません。しかしこの進めませんということが既に進んだこと、になります。
今回は死について書いているので、少しづつ近づいてみます。
「死にたいという感情が出てきたらどうすればいいのか、どなたか答えてほしい」とネットにありました。
この人の書いた内容を
「死にたい」の欲望を重点的に取るか、
「感情」をとるか、
「出てきた」その知識概念を取るか、
「どうすればいいのか」の選択をとるかで、
それぞれ答えが変わります。
実際相談相手の返事もどの次元をとっているかでまちまちです。
これは質問者自身の中で迷いを迷っている状態が、回答者に現れている事になります。でももっと上手に質問してほしいなどと言っていられません。
さてここに、
【 ここに伊耶那岐の命、御佩(みはか)せる十拳の剣を抜きて、その子迦具土の神の頚(くび)を斬りたまひき。】
といって突然剣がでてきます。
私たちの方からは突然という感覚ですが、意識の自然な進展からは既に自然な多くの伏線が張られ、それの現象となっていくまでの一つの過程としてあります。ですのでわたしが突然と感じるのはまだ古事記の理解ができていないという証拠みたいなものです。
この段落では、
【 たぐりに生(な)りませる金山(かなやま)の神。次に屎(くそ)に成りませる波邇夜須(はにやす)の神。次に尿(ゆまり)に成りませる弥都波能売(みつはのめ)の神。次に和久産巣日(わきむすび)の神。この神の子は豊宇気毘売(とようけひめ)の神といふ。】というように、客体側の構造組織が出来上がった事に対応して、主体側の十拳の剣もできてきている事をしめします。
よく考えることが人の証だ、というふうに捕えている方が多いですが、考えることが先行した場合にはそこには思いつきの横行する規範が大手を振っているだけです。アイデア勝負みたいなものです。
上に省略した形で妹伊耶那美系統の出来事を列記しました。要するに現象のあらわれるまでのことは全てここに納まってしまい、それ以上のものはないということです。そうなれば当然妹伊耶那美はもうお疲れさまとなって家で休んでもらえればいいのです。全てが出揃い、後は主体側の何々するという分野になります。
しかしここでの主体側の動きは相手が現象客体となっているもので、それをそのまま扱ってしまうと学問知識科学の客観分野の死物、不動な物、繰り返しの効く実験分野、を扱う世界になります。
伊耶那岐すなわちわれわれ自身は動き意志して選択する主体ですから、妹伊耶那美とは別の世界も持っているのです。そこで妹伊耶那美の世界と主体の世界を橋渡しし、関係づけ、組み直していくきっかけを造るのが泣沢女(なきさわめ)であり、俗な言葉で唾を付けることです。
この主体側の行為の介在がなければ、あっち側はいつまでもあっち側です。あっち側にはあっち側の物質的な動きがありますからその通りに動いていきます。
そこで意識されたあっち側の様子が剣の判断において明らかになるのが次段です。あっち側は妹伊耶那美の領域ですが、伊耶那岐を受けれて新しい要素を産むことはありませんので、あっち側の不動な現象の象徴である【 その子迦具土の神の頚(くび)を斬りたまひき。】になります。
首を切るのでなく、組まれた(く)言霊(ひ)を分析することです。対象の出来上がりを述べ、こんどはその整理分析総合の段になります。俗に言う思考法だとか分析法だとかビジネスに役立つ何々法といったものです。ここでの限界は単なる対象相手というだけで、主体、自分のことは棚に上げられています。
前段は客体側になったものでこちらは主体側になったもの、、次のような分析ができることになります。
石柝(いはさく)の神。。。人の性能世界の次元階層。
次に根柝(ねさく)の神。。。その世界を造る意志の構造。
次に石筒(いはつつ)の男(を)の神。。。その意思の働き。
次に甕速日(みかはやひ)の神。。。その現れの全体構造。
次に樋速日(ひはやひ)の神。。。その状態の変化。
次に建御雷(たけみかづち)の男の神。。。判断規範の全体図。
次に闇淤加美(くらおかみ)の神。。。一つ一つ組み込む判断法。握る。
次に闇御津羽(くらみつは)の神。。。一つ一つ起こしていく判断法。拡げる。
これがこの段階までの最高の剣の内容です。
この神の内容が先程の質問者の一つ一つに対応していきます。
「死にたいという感情が出てきたらどうすればいいのか、どなたか答えてほしい」との最初にある「死にたいという」欲望の出方に対してなら、上記の一つ一つがそれぞれ対応して、その文章にある事を繰り返しらせん状に対応させていきます。
質問者自身が冷静なら自分でやってもらえばいいのですが、自分の考えの出所が固定している事に気付いていませんから、自覚と自証はできても他証はできません。自分の死を考えるのに他証など必要でないとなりますので、そこでいわれる自覚と自証が全く不十分である事を知らせるのがいいのではないでしょうか。
しかし欲望には自覚は必要ではなく獲得所有するかしないかだけです。死の獲得には突然ということもあり、知的に理性的に納得させる次元にありません。理性概念を使用して考えを他の方向へ導こうとしても言う事を聞きません。死にたいという所有意識はそう簡単には消えません。
駄々をこねる児童と同じで、言う事を聞かそうとすれば反抗がおき、教えようとすれば反発されます。力で解決するのは薬の使用とか、カウンセリングという精神の強制指導とかになりますが、心身ともに反発する心を静めるのは容易ではありません。
1-欲望次元での死にたいは本人が何故そうなのかを分かっていません。原因となるのは一応、挙げる事はできますが、死と結び付けるのが如何にも唐突です。もちろんそんな事を言っても結ばれてしまったものですからそこから出発してしまいます。そこでその結びつきを断ち切る精神的物質的処方がでてきます。
2-自分内で選択を多くしそれを攪拌ができずに死に結ばれてしまうのを、心身から動揺を与えて忘れさす処方があります。一端結ばれたものは持続していきますのでそれに揺さぶりを心身面からかけることになります。
3-それでも端緒のほんの弾みであったものが本人の思い欲望の全体に取って代わる事がでてきます。自分の何かと較べて死への思いの方が既に大きくなってしまっています。それはほとんど自分の所有観念ですから知らず知らずに保持していきます。そしてその保持所有を自分で保証しようとさえしていきます。ここでは自分の経験や、想像さえ動員して死への思いを達成しようとします。次から次へと出てくる自己保存のメカニズム構造を断ち切らねばなりません。
4-死の欲望の所有獲得が確定しているときがあります。欲望の煮詰まりは行為にまでなっていきます。当初には分けも分からず突然にとりつかれた死の思いであったものが、いつのまにかここまで成長してしまいました。思いから行為への欲望へと変化してしまっています。この進展変化を止めなければなりませんが、本人は自分が勝手に造ったものである事に気付きません。そこでそれらを自分で後戻りさせるようにしなくてはなりません。煮詰まる思いを欲望を状況も含め止める事です。
5-行為への思いが固定してしまいますと、公言したり、何らかの表現を考えつくようになっていきます。そこでそれらの表現手段を絶つことですが、行為の条件、環境、等の具体化があればそれらを取り除くとか使用することのできないようにすることが必要です。
6-欲望としてあるものはどうしてもその実を何かと結ばれて実現しようとします。そうなると結ばれるものを欲望から遠ざけねばなりません。かといっても欲望が無くなったのでは無いので、今までの経過を元へ戻していくことになります。
7-ここで、自分の意志として死への思いができてしまうこともあります。この次元にまで来てしまうと意志を挫くこと、生命を与えることといった抽象性が加わり、変化する次元の予感などが加わってきます。意志はその意志を認めることで自分でも意志に対する態度がでてきますので、相手の死への意志を認めて誘導することになります。死への欲望思いの抽象性が高くなっていますから、そのまま相手を否定することなくプラスの方向へ導くことになります。
8-自分の死が新しい拡張された真の自分だという風になってしまうこともあります。そのまま後がなく実行のみと思ってしまいます。死への欲望思いを実現しようとする人にはその通りです。新しい自分新しい世界だと言うのですから否定のしようがありません。このような時には更にその言葉を拡大拡張していきます。その人の個人の枠を超えることにしまうのです。
そして個人枠を超えてもその人の言うことしようとしていることが正しいのか、他の人にも正しいのか、死という名目の確定だけしか自他ともに無いのか、そのように行為していくことの状況影響世界全体の動き、もたらせられる結果の自覚を問うことになります。
石柝(いはさく)の神のウの欲望次元世界を1-8にしてみました。
自分の生きる性能次元で不安定な状態をさらに知らせされれば、そこに知的な反省疑問比較が前よりも出てきます。したいしたい死にたいの欲望次元では、全ての欲望と同じく消費獲得してしまえば欲は無くなります。死にたいという欲望の次元では死んでしまえばそれで終わるのですが、未だに死んでいないとなれば、そこには欲望意外に知的な死に対する疑問があることになります。
その疑問が消滅しない限り死にたいという欲望も着いてきますが、死への疑問に自分の存在が移行してしまい欲望次元の死にたいと言う欲望が無くなることもあります。
死への畏怖、畏敬、あこがれ、などが出てくるときは死にたいという欲望はなく、死との同一性を望む関係になります。死にたいという欲望から死との同一性を求めるまでには多くの飛躍があります。
●「死」。死という客体への係わり。その子迦具土の神の頚(くび)。十拳の剣。
私たちの意識が働く為の
〇先天の言霊要素。先天意識領域。天の御中主~妹伊耶那美。
△先天自意識の発生。オノゴロ島。対自対他の発生。
□仕事運用領域の確定。十四島。
●後天の言霊要素。後天意識領域。大事忍男~カグツチ。
先天領域が用意され、ついで、
〇客体側の成立の動き、金山~豊宇気。
△主体意識の係わり方の発生。泣き沢女。
□主体側の仕事運用領域の確定。石柝(いはさく)~闇御津羽(くらみつは)
●後天の運用領域。正鹿山津見~戸山津見
後天の仕事領域が確定しました。
こうしてここに始めて後天の自意識ができました。
ここからが普通にいわれる、考えるとか思うとかの日常世界です。
古事記ではその始まりが黄泉の国です。
日常世界は黄泉国訪問から始まります。こういう風に書くと驚きですが、まだこの後、禍を直して歓喜へと続きます。
順番としては客観世界に対する十拳の剣の切れ味はどうなっているのかが検討されます。その始めは客観世界に向かう自分のつるぎはどうなっているか、ついで、それを受ける客観世界はどうなっているか、の二面が検討されます。
ここでは相手が客観世界で、自分につるぎがあるといっても客観に対してのつるぎで、その後に出てくる完成された自分自身に対するつるぎの前段階となる姿をしたつるぎです。
ですのでここでのつるぎは単なる客観相手のつるぎです。単なる客観相手などと大それたことを言ってしまいました。この世はそれで汲々としていて全人生はここに費やされているのに、まだ何かかがあるということです。それを知れば誰でもがスメラミコトとなれるものでしょう。血統以前の真実のスメラミコトの世界でのことです。
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【 ここに伊耶那岐の命、御佩(みはか)せる十拳の剣を抜きて、その子迦具土の神の頚(くび)を斬りたまひき。
ここにその御刀(みはかし)の前(さき)に著(つ)ける血、湯津石村に走(たばし)りつきて成りませる神の名は、
石柝(いはさく)の神。
次に根柝(ねさく)の神。
次に石筒(いはつつ)の男(を)の神。
次に御刀の本に著ける血も、湯津石村(ゆずいはむら)に走(たばし)りつきて成りませる神の名は、
甕速日(みかはやひ)の神。
次に樋速日(ひはやひ)の神。
次に建御雷(たけみかづち)の男の神。またの名は建布都(たけふつ)の神、またの名は豊(とよ)布都の神。
次に御刀の手上に集まる血、手俣(たなまた)より漏(く)き出(いで)て成りませる神の名は、
闇淤加美(くらおかみ)の神。
次に闇御津羽(くらみつは)の神。】
御刀(みはかし)のと刀を持つ手に血がだんだん迫る動きとして描かれています。血というのは道のこと、道理のことで、自分の使用する刀の道理、その働きです。
この後のみそぎでは刀は杖となりますが、判断規範の象徴です。みそぎですから自らの判断規範であるこれまでの刀も外すのですが、外した後の導きが刀から杖になったということです。
そこでの相手は自分自身の判断が直接の対象相手で、ここまでのように客観相手の影を切る事はしません。
つまり、みそぎ後の判断においては切った貼ったの刀を使用するのではなく、杖の導きによるというものです。
ですのでここでいわれる刀の判断規範は全て後の杖となって蘇るものとなっています。今までの人生は刀を求めての人生でした。しかし刀以上の杖があると示されたのです。
そこでこの数千年間求めていた刀の実体が次に明かされる番ですが、刀一般について、つまり判断力一般について学んだところを述べてみます。
おもしろいことに人間の判断力は三種しか持ち合わせがないのです。一見無数のその場に応じた判断があるように見えます。しかしよく見てみると全て相手対象に対する判断というだけです。妹伊耶那美の世界の様子に応じて判断が違うように見えているだけです。
違いはその相手対象となっているものが、自分であるか、自己を超えたものであるか、他であるかの違いでしかありません。ここで自己を超えたものと言ってもその実際は勝手に造った他物であることがほとんどですから他のなかに含まれまれるようなものではなく、畏怖畏敬愛慈しみを持っているものです。
古風な言葉でなら、八拳の剣、九拳の剣、十拳の剣の三つの判断力です。後で繰り返されるでしょう。古事記は先天的な十拳の剣から自覚的な十拳の剣への変身変態が眼目ですが、その途中で不十分不完全な八、九拳の剣を通過しなくてはならないというものです。
当然前回述べた死の欲望にかこつけた八つの見解も、死を他物としたものへの見解です。十拳の剣まではほど遠いものです。
では上記八神について述べていってみましょう。
( ついでに。現在は神を柱を用いて勘定していますのでどんな神にも柱を付けていますが、本来は言霊母音行のイエウオアに関する神にだけ柱を用いているようです。)
ここまででは他物との係わりを示す八神ですので、結局自分の分析総合の不十分さへの自覚へ繋がるものとしてあるでしょう。
【 ここに伊耶那岐の命、御佩(みはか)せる十拳の剣を抜きて、その子迦具土の神の頚(くび)を斬りたまひき。】
刀を鞘から出しました。では、鞘から出すその鞘はどこにあるのでしょうか?そもそも突然出てくるつるぎもどこからでてきたのか。そしてつるぎは通常は覆われています( みはかせる、という表現)。
この部分は神秘な感動を誘うところです。生まれたての赤子が乳を求めて、乳房をすいます。わたしは、今日はあのブログでも読んでみようとページを開けます。ちょうど全く引用文の、【 ここに伊耶那岐の命、御佩(みはか)せる十拳の剣を抜きて、その子迦具土の神の頚(くび)を斬りたまひき。】と同じです。
いろいろ言い方はあるでしょうが、誰が何してどうした、という道理の進行を古事記は前(さき)~本~手上の三段階に分けて説明しようとしています。
その前に、例えば、赤子は先天的な行為、われわれは意思の主観的な行為でその両者は違うものという人もいます。ではどう違うのかというと、それらの二者の始めの仕方が意志か先天的かになるようです。それを更に進めると、神から与えられたものか人のする行為かになっていきます。どっちがどっちかというのはそれぞれです。
そもそもどんな人も神を他物として語る事はできますが、その人自身において、自分自身において神を証明した人は何十億分の数名だけで、後は真似事出まかせです。三番煎じの真似事ができるというのも大した事ですが、かなり詐欺か錯誤に近いものです。
そこで自証他証でき追体験検証のできる初発のモナドは自分自身になります。ここから出発すれば赤子が乳を吸うのは神から与えられた生命を明かすといっても、全ての行為は人の意志から始まりその意志は神から与えられたといってもいいでしょう。自分の意思行為と分かっていながら神から与えられたものという体験的な感じも得られるものです。
そこで、十拳の剣という道理規範など赤子には無いと言えば、それは大人からみた判断で、赤子は大人の忘れた最高の乳吸い行為をしているのです。と同時に先を読み込み全ての予測を立ててこう決断していったと言っても、たかが量的な選択行為が多いというだけで現実の一部の反映です。、
十拳の剣は先天的であろうと充分考慮を加えたものであろうと、数量を積み上げて最大にしたものではなく、人の五つの次元性能をその時その場において最大に発揮しているものです。あれが足りないから完璧でないとか、数が少ないから完璧でないとかいったものではありません。
赤子の乳のみ行為の瞳は素晴らしいものですが、大人が乳を吸うときの瞳に何がありますか。
という事で、十拳の剣を抜きて、その子迦具土の神の頚(くび)を斬りたまひき。
迦具土は全ての現象、表現されたもの、文字や芸術や生産物ですが、直接にはそれらのすべての 表象物を表現する五十の言霊です。この五十の要素を組み合わせれば全てが表現され、どのような生産物でも示す事ができます。
つるぎの向かう相手がすべての名前の付けられた対象ということです。その対象はそれに特有な組織構造、組み込まれた内容をそれぞれ持っていますから、そのクビ、組(く)まれた霊(ひ)を切るということです。
そこにある対象はそれで充足してるものです。あるいは物質の自然法則に従って動いていきます。そこで起きる十拳の剣は自然実在の反映になります。と同時に主体側のつるぎを用いますから、つるぎの精神実在の運営が反映されます。つるぎは勝手気ままに造られた判断をするのではなく、つるぎの自然実在の判断が進展していきます。
ややこしい言い方。
人の性能次元に応じて三つの違った判断がありますので、それが後に八、九、十拳の剣として反映されていきます。
欲望、知識次元では八拳の剣、宗教芸術次元では九拳の拳、言霊エ、イの次元では十拳の剣の対応があります。
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