黄泉国行きの夜行列車。
原文。【 ここにその妹伊耶那美の命を相見まくおもほして、黄泉国(よもつくに)に追ひ往(い)でましき。】
【ここにその】というのは、心の特徴である、前承する上昇循環の初めの時にということで、新たな出発点に立っていることを指します。
古事記で言えば黄泉国の段落以前が全部ここにあるということです。
黄泉行きの切符でも同様にそれを買う以前の全状況条件が主体側客体側に揃っていなければ、切符は買えません。金が有る無しだけ、意志があるだけでは伊耶那美の命に会いたくても何も動きません。
黄泉の段落以前とは、主客の先天条件、客体側の現象要素条件とそれを認識しいるこちら側の条件、要素を整理運用できる主体の働きとその相手対象となる実在のあり方、等が全て揃っていることをいいます。主体的な判断規範が黄泉国に対応していることが必要で、その規範を対応させる事が必要です。行く意志があって事故もストもなく切符も買えて出かけられる状態にあること、等です。
これらの条件が揃ったとき「ここにその」行為を起こします。その人の内容は実に、古事記の冒頭である「あめつち(吾の目を付けて智と成す)」の黄泉国に行くまでの展開です。
【 ここにその妹伊耶那美の命を相見まくおもほして、黄泉国(よもつくに)に追ひ往(い)でましき】は、ここに黄泉国に行きたくなって、黄泉国行きの夜行列車を探している、となります。
「ここにその」行為を起こす側の主体を見てみますと、直前に 建御雷(たけみかづち)の男の神が成立しています。この神は主観的な判断規範を持って世界に対応できる神様で、いわば我々成人の普通の状態です。ここでは黄泉国に行くのに夜行列車はあるのかという思いを持ったところです。
こういえば直ちにその思いに対してああだこうだの、有る無しの意見主張、思いつき経験教えや教義がわんさと出てきます。それが次の神、くらおかみ、くらみつは神、で理性知性という外見をとって語られるようになっています。ですので、切符を買えるのかなという思いはここまでのことが全部先天に含まれています。
主体側にとっては、自身の 〈自己規範とそれとの和〉 を求めることであり、相手対象となっている外部条件にとっては、〈客観世界にある規範とそれとの和〉 を求めることで、それぞれの 〈反省と自覚〉 を確立しようというものです。
イザナギが黄泉に行ったのは古事記の真意である言霊学上からは、イザナミに感情的に身体的に会いたいからではなく、すぐ後に続く文に【吾と我と作れる国】とあるように〈客観世界にある規範とそれとの和〉を求めることで〈反省と自覚〉によって客観世界の確立発展が可能か、主観と客観が共に働かなくても、客観側の働きだけで可能か、を究める為でした。
黄泉行きの切符でいえば、自動販売機はあっても、主体側の買おうという客がいなくても器械は自分自身で発券できるのかということです。客のいないのに発券をしてしまう自動販売機などは役に立たないものですが、実例をあげていけば分かりやすくても、ちょっとした問題とか込み入ったものとか抽象的なことでは、すぐに喧々諤々となります。黄泉国とは何かに関しても各人それぞれの建御雷(たけみかづち)の男の神が成り立っていて、くらおかみ、くらみつはが黄泉国に入る以前にくっついてくるため未だに定説をみることができません。
ですので黄泉国行きの夜行列車の切符などと言うと、くらおかみとくらみつはが既得の知識を持ち寄って噛みつきます。そしてそのまま黄泉国にみんなが飛び込むわけです。その過程と帰還方法が古事記には述べられていますが、その後の禊ぎ払えという方法を自覚的に習得しなければ、黄泉国から出てくることができません。
さて、黄泉国に行くための前提や条件は揃いました。行きたいと言う意志もありますが、その実行方法はなんでしょうか。生きている人間ならば死ねば黄泉に行くという主張もありますが、こころの世界では死ぬわけにはいきません。何故なら 【相見まくおもほして、】という生きた心の世界がなければ黄泉国に行けないし見ることもできません。この 【相見まくおもほして、】というのが生きた心の全体、【ここにその】の意味になります。
別の言葉で言えば、アメツチの吾の眼です。イザナギの心はこの 【相見まくおもほして、】より大きくも小さくもなく、こころをそこからしか展開できないし、判断規範の全体が含まれたものです。もぢろんこれは当初の心ですので前承する螺旋上昇循環の中で進行(変化進化転換)していきますが、天地の初発の時ということです。その心で【 追ひ往(い)でましき 】となります。
この【 追ひ往(い)でましき 】は行くとも出るとも解せるもので、物語の進行上は黄泉国に入っていくように見えます。黄泉国に行くように思われますが、実は 【 ここに殿の縢戸(くみど)より出で向へたまふ時に 】とある用に、美の命が出て迎えるようにもなっています。美の命が黄泉国の建物の戸から出て迎えたという解釈ですが、常に精神世界のことですから戸を開けたとか上げ下げしたとかは心の働きにとらねばなりません。
ここは生と死の会話の接点ですが、物質世界と心とは直接会話できません。そのように意識してしまうと五感感覚を持ち出すようになり生理学になってしまうでしょう。美の命はイザナギの命の精神上の片割れで、物質存在、霊魂存在ではありません。心の客体と客体の存在とは別のことです。伊耶那美の命が黄泉国で死者の身体を持っているのではなく、いざなぎの命の働きの相手側です。
心が物質世界、霊魂存在と交流し話ができるという思いを逆にすると、霊魂、物質界が主体側に働きかけてくるように感じることもできます。そこでは、死から生へ通路が開かれているように思われていきます。しかし、物は喋らないし死者に口無しです。
このように一方交通のようで対面交通ができてしまうのは何故でしょうか。 【 追ひ往(い)でましき 】という、入るのか出るのか、来るのか行くのか両方共に解釈できるのはどうしてでしょうか。同じことは後段にある坂の坂本に到るにも当てはまります。坂本をそのままとりますと、黄泉国は場所的に地下でなく上方にあるようにもとれます。笑い話にある、酒がもう半分しかないというのとまだ半分も残っているというのと少々似ています。
つまり、イザナギの命は自分の片割れはもう死んであっち側にいる、自分という半分はこっち側に生きていると思えるようです。ギ、ミの命は表裏の一心同体が離ればなれになったものですから、ミの命という物質世界が自分とは別々にあるとは思えません。しかし、そのように客観世界の物が話しかけてくるように思えるのです。
それが 【 ここに殿の縢戸(くみど)より出で向へたまふ時に】にあたります。客観物象側の美の命が語るようにイザナギが思い語っているのです。美の命が語るように自分が幻想を創造しています。黄泉国との対話ですから自証はできても証明他証はできません。せっかくの判断規範を持っているのに、証明他証ができないようではものの役に立ちません。
美の命を他人のような片割れとして扱うと他証のできないどうしようもない相手になってしまいますが、自分の姿を片割れとしてそこに見ますとそんなことは言っていられなく、正否善し悪しに関わりなく自分の元に引き寄せなくてはならないようになります。イザナギは結局黄泉国から帰って来るわけですが、事戸を渡して切り分かれるところはきっぱり離れますが、そこに行くまでに自分の片割れを全部すくいあげるような手だてを講じていきます。その初めの一歩が【 殿の縢戸(くみど)より出 】です。ギの命の方も 殿の縢戸(くみど)より出ることを理解しています。
【ここに殿の縢戸(くみど)より出で向へたまふ時に】と、ある一線を超えないと黄泉には行けません、あるいは黄泉から出られません。出る入るの一線のあかしをイザナギは証明しなければなりませんが、聖書には蘇ったキリストの身体の傷に触れる話があります。実体と実感を要求する者に、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」と、さらに思惟と感情そして選択決定へ到る道を提示しています。
宗教はキリストの言葉にもある通り、「信じる」か否か意外に語る言葉を持ちません。肉体としてか魂としてか判定に苦しみ、蘇りとは何か、死んだ現象に対しては宗教、キリスト自身が無力なのです。古事記のイザナギはそういった精神の無力をあかしていき、解決法を与え、立ち上がる理想の完成に導こうとしていきます。黄泉国はその話の始まる前段の設定となってます。
【 ここに殿の縢戸(くみど)より出で 】
【殿(との、あらか)】とは、天の御柱の立った八尋殿すなわち自分の使用する五十音図のこと、その内にいれば生きている高天原ですが、そこから出て行けば黄泉国で、その境の超え方があります。
殿とは「との」または「あらか」とも読みます。御殿(みあらか)または神殿の事で、言霊学から言えば五十音図表を示します。五十音図では向って右の母音から事は始まり、八つの父韻を経て、最左側の半母音で結論となります。
【縢戸(くみど、とざしど、さしど、騰戸とする写本もあります。この場合はあげど、あがりど)】 縢戸と読めば閉った戸の意であり、高天原と黄泉国とを隔てる戸の意となります。騰戸と読めば、風呂に入り、終って上って来る時に浴びる湯を「上り湯」という事から、別の意味が出て来ます。
すると、事が「上る」というのは半母音に於てという事となり、騰戸(あがりど)とは五十音図の半母音よりという事と解釈されます。
高天原より客体である黄泉に出て行くには、半母音ワ行より、という事が出来ます。騰戸(あがりど)と読むのが適当という事となりましょう。
御殿の差し戸を出るということは、主体の精神領域から出ることですが、どういうことを示したものでしょうか。人は考え思いそれを言葉で示します。こころの世界でいう「出る」とはなんでしょう。
半母音ワ行から「出る」とは具体的にいえば、なんということもありません。考えたことをしゃべる事、思った事を書き記す等、日常の普通の会話交流の創造のことです。つまり、ワ行から「出る」とは現象子音を創造することですが、創造したものに嵌まり捕らわれる事です。これが黄泉国です。
どこか死んだ先にあるわけのわからない魂の行き場所ではなく、時々刻々毎秒毎秒普通にしていることが、黄泉国を創造していることです。遠い遠いどころか、近い近い常に手に届くところにあります。
例えば、今書いた文章、今感じ考え喋ったこと等それらは頭脳活動の産物ですが、必ず物質的な物象という形をとって出現しています。頭脳の中で考えている時も、言葉という物象を扱いその物象の物質としての共通性があり共有できる為に、考えが進行し会話が成り立ちます。
黄泉国というのは、そこにできた物象に対して【相見まくおもほして】という思いが出てきたとたんに出来上がるものです。通常は執着、所有感、思い入れ、お気に入り等々の自己の領域に属したもの、という思いを持つと成り立つものです。自分の頭を使って自分で考えて自分で喋ってというところまでは結構な事です。主体的な心の行使が進行中ですから、自分の中にあって第三者にも伝わる物象として固定されてはいません。
それはまだ頭の中にあるから発表していないということではありません。発言発表していても、自分の主体側の意識が関わっている間は黄泉国に落ちてはいません。正しいとか間違っているとかではなく、嘘とか法螺とかでもなく、もしそうであっても主体意識の自覚内に捕らえられていて、自分の規範との対応が持続しているなら、黄泉国の意見とはなりません。
つまり、あっていようと間違っていようと正反いずれであっても、そんなことはその時点では確かなものとなっているわけでなく、自己規範から見られた意見考えをいうだけのことですから、もともと自分にとっては正しいか間違えかしかありません。他証された正しさはまだ先の話しです。ここの殿の縢戸(くみど)にまだいるということで、「出た」わけではありません。
このブログで喋っていることは通常では受け入れられていないものですが、私の書き散らしたことを【殿の縢戸(くみど)より出で】たものとして扱って、いろいろ反論や結論感想などを述べると、それは読者の方が勝手に作った黄泉国を相手にしているだけになります。
読み聞く方は相手方の結果客観現象として言葉を見てしまい易いからです。早とちりとか無理解誤解とかではなく、読み手側が自分で作った黄泉国を自分の相手にしています。そこから先は喧嘩別れしか知らないので何も建設的なものはありません。
自分の意見を規範内に留めておいても表現してしまいますと現象物質化・子音現象化・してしまいますから、言い出しっぺはお前だということになります。
そこで問題は出来たものへの態度、表現されてたものへの態度、簡単に言えば子音に対する態度になります。それが次の文章にある【吾と我と作れる国】ということです。
【 ここに殿の縢戸(くみど)より出で向へたまふ時に、伊耶那岐の命語らひて詔りたまひしく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命、吾と我と作れる国、いまだ作り竟(を)へずあれば、還りまさね」と詔りたまひき。】
わたしがこういうことを書いている、あなたがそれに疑問を持ち反対し納得する等々が【吾と我と作れる国】の国です。「国」は組(く)んで似(に)せる意ですから、主体側にとっては頭脳内の考え思いと称するイデアが乗って言葉になってそれに似せた物象(言葉)の創造になることで、読み聞きする客体側では表現物象を自分側の規範に似せて理解することになります。
ここでは表現という主体側の創造した表現物象が介在媒介しています。イザナギが創造した現象子音であり、イザナミとなった現象子音です。規範内の物象から「出る」と物質化されたものとなり、固定化されます。
この「出て」固定化されたものは第三者的な姿を取りますから、主体側と客体側と第三者側との関わりが可能となりますが、そこにあるのは物質的な姿をとったものに対する関わり方です。それぞれの相手の内容は自分の規範に「組んで似せる(国)」を作る形になってしまい、それぞれを推測してあなたはこうだという姿を提出していきます。
一旦固定された形を提出しますと、【ここに・ここにその】と原文にありますように、前承する意識の螺旋上昇循環の進行の次段の初めに戻ることになります。つまりまた「0」から始めることになります。
その「0」から始めるサインが「黄泉戸喫(へぐひ)」で、黄泉国の食べ物を食ったという表徴をいて用いてイザナミの返事としています。
これはイザナミがギの命の誘いに返答したというとではなく、ギの命が「あるものをあったものとする」黄泉国の世界、「あったものをあるものとする」象徴を、食物を食べたと言っているのです。食べればその内容が分かり残っていき、残ったものが今も分かるという「言霊ヘ、国の久比奢母智の神」を象徴したものでもあります。「へ」食いです。
黄泉国に入ったものに、生きた精神内容は無いはずだがあるように見える、形となって固定してしまったものなのに今に蘇る内容を喚起してくるといっことを指します。
イザナギはその秘密を解こうとイザナミと名付けられた物象に問う形で示したのです。注意しなくてはならないのは黄泉国に入って美の命が語っていることは、ギの命の片割れ、イザナギ自信の黄泉国に落ちるか落ちないかの境にいる言葉ということです。常にギの命の行為が、つまり私自身あなた自身の精神行為が主題となってます。
イザナギは行為して現象を作る主体側ですから、できたもの、喋ったもの、書いたものが気になるです。【相見まくおもほして】。そこで形に成ったものに対して自身主体側の精神行為の及ぶ影響範囲を確かめたかったのです。
書いたものを訂正したり喋ったことを考え直したりという現象になりますが、ここでは精神世界での原理上の話です。
心の世界(高天原)を出てしまった後で自分の関わりを見ようとします。あるいは、さらに良いものが作れるのではないかとか、形となった世界にも心によって【吾と我と作れる国、いまだ作り竟(を)へずあれば】と言えるのでないかと、確かめたいのです。
そこにイザナギが見たものは、イザナミの返事を借りた自身の片身である黄泉戸喫(へぐひ)しつした存在物達です。存在として既に発表され出来固まったまっものですから動きません。 当然【いと久しくて待ちかねたまひき】です。
それでも最初の感情があり持続していますから、知りたくて待ちます。その内容が次段です。
【 ここに伊耶那美の命の答へたまはく、「悔(くや)しかも、速(と)く来まさず。吾は。然れども愛しき我が汝兄(なせ)の命、入り来ませること恐(かしこ)し。かれ還りなむを。しまらく黄泉神(よもつかみ)と論(あげつら)はむ。我をな視たまひそ」と、かく白(もお)して、その殿内(とのぬち)に還り入りませるほど、いと久しくて待ちかねたまひき。 】
ここに「殿(五十音図)」から出て、また入ったとあります。美の命の位置は言霊循環の中でギの命に対するものでその都度変わります。ギの命が主体主観の立場をとれば客体客観側になり、美の命が現象子音として現れてくる時にはギの命は先天全体になり、ギがあ行に立てばミはわ行になりといった具合です。当初は高天原精神界に対する黄泉国現象界であり、黄泉国に降りてそこにいる時には「殿」の内外になり、今度は、美の命が「殿」の内に戻りますから黄泉国内での位置の分担が出来ます。
ギの命は来るなといわれましたが松明をつけて後を付けます。このことは「殿-五十音図-子音と先天-父韻と母音-ワ行とア行」というふうに元へ戻ります。肝心なことはここではギとミが分離したままで、ギの命が自分のいない片割れを見に行ったということです。
言ってみれば、主体側の意図意志目的のはっきりしない出来上がった世界を見ることになります。古事記を千数百年前に出来上がった書物としてだけ見ますと、それは何だこうだという見解が無数に出てきます。
それを表現したものが蛆(うじ)、雷(いかづち)で、うじゃうじゃ、わいわいガヤガヤ勝手な事を言い合い戦い合ってる世界のことです。
このサイトは古事記とは心の運用原理教科書ですから、他と比較したり論争したりする蛆も雷もいませんが、心の整理運用に関するサイト内蛆と雷はいます。
続けましょう。
【 かれ左の御髻(みみづら)に刺させる湯津爪櫛(ゆつつまくし)の男柱一箇(をはしらひとつ)取り闕(か)きて、一(ひと)つ火燭(びとも)して入り見たまふ時に、蛆(うじ)たかれころろぎて、】
「左、右」というのは霊足り・ひたり=ひだり、身切り・実体が切り分析できる=みぎのことで、主体側と客体側のことです。
「 御髻(みみづら)」は左右に分けられた主客の出発点と終着点及びその間にある実体子音(身、実)の連なりで、五十音図の母音行反母音行とそれぞれの横のウオアエ四段に、イザナギのイ段を加えたものです。
五十音図は 言霊現象要素五十(客体側・ミ・実きり)と言霊運用要素五十(主体側・ギ・霊足り)の二つが合わさったもので、この全体が「湯津」です。五百箇(いほつ)の略で、五を基調とした百個ということで、人の心の要素と人の心の運用の全体です。
爪櫛(つまくし)は髪をすき削る櫛で、五十音図を縦方向の歯と見たものです。髪は神で自分の心のことで、両端(母音と半母音)と上段で鳥居の形、上段にしでを付ければしめ縄です。大神神社(狭井神社)の鳥居。くぐれば現象子音が出来て言葉行為となり、拝殿の前でよこから見れば口を開いた形をした鈴を振り、二拍します。二拍は十本の指を二回あわすことで二十、自分の言葉と行いの過去未来に間違いが無いように祈ります。五十音図の「かたさは」四行二十字にのみ濁音がつき、過去-今-未来への一連の流れが保証されます。
ここでは母音段の一つをとって灯(ひ・霊)を付けました。
イザナギは主体である自分がいなくても黄泉国では思惟活動創造行為ができるか疑問に思い、自分の主体意識の一つに霊(ひ)を灯したのでした。人の意識は共通の底辺を持った五層の自立した次元層になっています。(五重の塔の起源)その一つに霊(ひ)を灯したのです。地下の黄泉国は暗黒だからでは精神的な話になりません。
意識の次元層などというと魂の世界も含めて十次元だ二十次元だなどと気付いただけの次元数や、最近流行の次元上昇だとかを持ってきますが、おとぎ話とか希望の世界の話ではなく心の現実界のことです。次元上昇を言う方たちには現実の心の次元に関しては、点とか面とか空間とか時間とかで済ましてしまい精神的な意味は何もありません。
古事記のイザナギのこの世の現実の人の心の次元とは、
言霊ウ次元-意識の兆しが「ウ」っと立ち上がる心の世界、
言霊ア・ワ次元-心が立ち上がり自分がいることが「ア」ッと分かると同時に相手の実在に気づいて「ワ」っとする心の世界、
言霊ヲ・オ-相手がいることに気づくとそれを知り探り確かめようとする心の世界、
言霊エ・ヱ-知識の相手を選択按配修めようとする心の世界、
言霊イ・ヰ-意志、意思の能動因となる縁の下の力となる心の世界、
で、この言霊アイウエオの五つの次元をいいます。
五十音図の五段が人の心の全てということです。
次元上昇を脳波の振動数の上昇とか想念の物質化宇宙人との通信とかにした場合、単なる人の物理生物物質条件の変化というだけのことで、言霊ウ次元の物質条件とそれに対する欲求欲望のことで、人の心の次元の最低段階にいるということです。
(ここの段落はそういうものがあったとしての話で、生理的に生物的に変化があっても、 そういった次元上昇に関しては心の次元は常に最低のウ次元でしかないということです。宇宙人と交信できるようになるといっても、悟りのサを得るわけでもありません。)
古事記ではそういった次元の扱いを、【蛆(うじ)たかれころろぎて】と言っています。ウの次元のお話をよってたかってうじゃうじゃころころ言い合うと言っています。
そしてその様子を威勢はいいがやかましいだけの雷(いかづち)にたとえています。
赤子の泣き声のように、いつ始まりいつ終わりとどまることを知らず、声出し放題泣き放題ところかまわず主張し放題を例えたものです。
その主張は知的であったり論理的であったり、感情的であったり思いつき気づきであったりで、熟慮も考慮もあるでしょうが、意思の動因(い)に突き動かされ、それが自分にカッと明らかなものとなり(か)、自分の頭脳にこびりついたまま(つち)出てきます。いかつち(雷)です。
ピカッという閃きをそのまま出してしまうことです。
イザナギの父韻の働きが加わっていないため意思の主張、アイウエオ次元のなんでもかんでもが出っぱなしになります。そのあり方の八種を雷神としていますが、ギミの二人で生んだものではないので、言霊百神には含まれません。
●○●●○●この下工事中●○●●○●
---------------------
メモ
左右の御目(みめ)⇒身実体と眼意識
身(実)と意識(眼) ・ 実体の意識--各アの間を通してワの間とする