天地=言霊アの芽が地に突き刺す全体の事象。
ア・言霊ア・高御産巣日の神・働きかける主体。感情。
メ・言霊メ・妹速秋津比売の神・言葉に組まれる直前のイメージとして一つに集約される現象の客体側
ツ・言霊ツ・大戸日別の神・創造知性の働きである言霊トが夜這いして言霊ヨである四つの次元宇宙にツッと近づき進む様子。
チ・言霊チ・宇比地邇の神・心全体人格全体がそのまま現象となって現れ出てくる。
天地の初発(はじめ)の時、-----精神活動の始まる瞬間。心の中に起きる出来事の全て
高天の原に、-----------------心の宇宙の何もない広々とした領域。まっさらな心の宇宙。(出発時)
成りませる神の名(みな)は-----出来事が起こる以前の心の働き、成立し始めている様子
天の御中主の神---------------心の宇宙の(天の)真中にいる(御中)主人公である(主)神
天地の初発の時-----出来事として分かる以前の心の先天活動。頭の中に何かの思いの兆しが動き始めました。勿論具体的な思いに成る以前の動きですから、人はそれ何だと表現するまでに到っていません。けれども何かが成立し始めようとしています。」
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天地と書いてそれ見て読んで納得するまでに一つのサイクルが流れる。ほんの一秒間が古事記の上巻で解明されている。といってもわたしは何も理解していない。未だに始めの天地から踏み出していないのだから。読んだこと書かれていることを写しているだけ。
まずじっとしてみる。
手を組んでただ座っているだけにする。
目を開ければ机の上が見えている。テレビだとか雑音だとか耳鳴りがしている。頭の中が白っーとしている。足を組んでいるので右足の踵が気になる。
そうこうするうちに、天地と今書き出した。
別に天地のことを考えてから書いたわけではない。数日前からの課題なのでそうなったのだろう。
誰が天地を書けと言ったのか。何処からでてきたのか。誰か頭の中に天地と言う言葉を知っているものがいてわたしを強いたのか。でも何故わたしは天地と書けたのか。そんな天地にどんな意味があるのか。何故天地と言う言葉に他のことを付け加えないのか。
これらの疑問の裏には数十年の教育とか人生とかがある。さらに天地ということばには、数千年の歴史がある。教育を受けた後のことは何とか思い出せる。しかし、二千年前の天地についての感覚はどんなものであったか、はっきりしない。
でもそれらに知識があろうと無かろうと天地は天地といわれる。百人が百様に天地といいそれぞれの使用法や意味を与えている。そこに一つの言葉、天地があるだけなのに。
天地を天と地の二つに区別するからうまくいかないように思われる。古事記に秘められた暗示象徴は時の来るまでは当然天と地の二つのものという理解のさせられ方を必要としていた。作者もそのように読まれることを願っていたのだろう。
ここでは天地を一つ一つの言葉にする。あ-め-つ-ちとして四つの言葉(言霊)にした後に全体を示したい。
まず仮定的に天地の内容を記しておくと、
天地=言霊アの芽が地に突き刺す全体の事象、
となる。
ア・言霊ア・高御産巣日の神・働きかける主体。欲望欲求、知識経験、感情情感慈しみ等が全体未分化なものとして私たちの創造意志が動きだそうとする働き。目覚めて、アーーというように、アー神様阿弥陀様というように。
メ・言霊メ・妹速秋津比売の神・言葉に組まれる直前のイメージとして一つに集約される現象の客体側。アの主体性創造意志が全体としてまとまり形に成りそうな芽ばえとなる。
ツ・言霊ツ・大戸日別の神・創造知性の働きである言霊トが夜這いして言霊ヨである四つの次元宇宙にツッと近づき進む様子。芽吹きのいつどこでどの次元のものか、どの次元を関心のあるものと意志しているかを決め突き刺そうと選択したくなる働き。
チ・言霊チ・宇比地邇の神・心全体人格全体がそのまま現象となって現れ出てくる。ア-メ-ツがそのまま現れてくる様子。言霊アの内容が欲望物つくり産業、科学知識技術習得、情感感じ取れるもの、等々に従って、それらの全体が現れてくる。
ばらばらに読むと分かりづらいですが、自分のやろうとしていること、考えようとしてしていることに具体的に適用するとうまくいくと思う。
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天地、あめつち、言霊アの芽。こじつけ。
ア-メ-ツ-チの一語一語については前回書きました。今回もっと突っ込めればいいのですがうまくいくでしょうか。
あめつちのあを前回は、「ア・言霊ア・高御産巣日の神・働きかける主体。欲望欲求、知識経験、感情情感慈しみ等が全体未分化なものとして私たちの創造意志が動きだそうとする働き。目覚めて、アーーというように、アー神様阿弥陀様というように。」と書きました。
何だそれは、コジツケか、と怒る方もいるのではないでしょうか。ここでちょっと脱線してこじつけについて。
古事記と書いて古い事を記した文とは通常いわれていますが、もう一つの読みがあります。
よく日記をつける、旅行記をつけるといいます。ここのつけるの「つけ」に注意してもらうと、古事記をつける、こじつけとなります。飲み屋の女将さんに、今日のはつけといて、というと女将さんは帳面をだして金額を書き加えます。その帳面の表紙には「記」と書いてあります。つけ帳です。古事記は超真面目
なこ-じ-つけなのです。
古事記の序文にはわざわざ誤り虚偽を削ると書いてあるのに、なぜ出所の不明な神話など書き加えるのでしょうか。作者や当時の天皇たちはこじつけて書かねばならない事情と上巻の意義が判っていたことと思われます。
今回はこれだけにしておきます。
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天地、あめつち、あめ、言霊アの芽。
「あ」は吾と書き、自分のことです。
「め」は初めの時を扱っているので芽がでる時と解することができます。
天地の初発の時に当てはめると、吾芽(あめ)ツチの初めの時、自分の精神意識の芽がでる時となります。要するに自分が何か感じて意識し始める時、何かが起こるということになります。
あ-吾-自分-主体ですので、陰陽で見ていきますと片割れがいなくてはなりません。天が陽なら地が陰です。
アはあっても何もしなければ、何の現象も起こりません。アは主体的な意志をもって動くことが必要になります。そこでアは芽となって、アが揺り起こされます。
天皇の系統を神話から始めているのが古事記と言う人には理解しがたいことですが、自分の理解していることをもって、わたしの書いていることを否定していくその頭脳のメカニズムを各自見つめてください。
そこでいうアはこじつけを否定しようとする心です。その心は単に馬鹿らしいと食うにも喰えないというものや、習得獲得した今までの経験知識とは違い相いれないというものや、神道の神を信じているがこのブログでは神道の神の名を語っているだけとか、いろいろな心持ちがあります。その各自の全体的な思いが「ア」です。
そしてその「ア」が今動こうとしています。どのような形で文句反論が出てくるのか分かりませんが、各自のもっているある種のイメージが、それぞれの意志の強さや、時所位よって多様な形となって、自分を主張するために集約していきその芽を出します。「め・芽」です。
二つ続ければアメとなり、文句を言う方の主体意志を形成します。(陽側です)
主体側の創造意志は、わたしのブログという対象が既にあるので、このブログ内容をつつこうとします。すなわち、「ツ」のつつく、つきさす、つくです。創造主体意志の側は相手がなければ空振りとなります。そこでどうしても相手を探さなくてはなりません。天に対する地です。
これらは心の中頭の中での出来事で、これから始まろうとしているだけですので、何をもってどのようにつつき付くのかはまだ規定されていません。従って「ツ」の内容は全体的な印象を保持したままで、あなたの主体側の「ア」の時所位の不特定な全体としてこのブログの内容を対象としています。考え出てくるだろう内容は既に相手を形成しているかのように思えています。地をめざしています。
あめつちの初めの時とはだいたいこんな調子でいいのではないでしょうか。
上記は反目した意見を持っている方の天地の初発の時ですが、そんなこともあるかもしれないと心が揺れている方の天地の初発の時もあります。
ようするにこんな感じで古事記とは心とは何かを解明した世界唯一の書物だということを確かめようとするブログです。
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天地あめつち、ア芽。梅、ウ芽。
引用です。
梅。ウ芽
梅花破雪香 梅花(ばいか)雪を破って香(かんば)し
今日は見事な早咲きの梅に遭遇した。花びらがせめぎあうように咲き誇っていた。
【ウ芽】 「梅花雪を破って香し」と申しますのは、冬の白皚皚(ガイガイ)として何もない、白一色のところに、春に先駆けて、まだ冬も終わらないのに、梅が一輪、パッと蕾が開き出す。あ、もう春が近いな、という気配。それを「雪を破って香し」と表現したのです。
日本の古代人は、梅という花を、ちょうどなんにもない宇宙のなかから人間の意識がスッと出てくるときに例えて、「言霊ウの芽」で「ウメ」と名づけたのです。言霊のウが芽を出した。こういう意味です。
ウの芽ですから、何もないところ(天地の初発の時高天原に)から人間のウという意識が生まれはじめた(成りませる神の御名は)とき、それを天の御中主の神(言霊ウ)と太安万侶さんは謎々にしたんです。
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引用です。
言霊 岩戸隠れ
太安万呂さんっていう、非常に頭のいい方が、さもまことしやかに、神様の物語として言霊の学問を移し変えてしまったのです。「天地の初発の時高天原に成りませる神の名は天御中主神」。
さも「何千何万何十万年前に、そういうことが行われたのではないか」というような、まことしやかな神様の物語として説いた古事記というのは、それ以後1300年の間、人類全体をごまかし続けたのです。大変な力量です。
「そんなことあるか」って。「天皇の命令で作った古事記という本が、実は全然違う、言葉の原理を謎々で残した、謎々の本なんだよ」と言ったって、誰も信じるものはいません。それで1300年もの間、人々をごまかし続けたのです。
何とも言いようがない。滑稽だっていえば滑稽な、奇妙だといえば奇妙な物語でございます。
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引用です。
古事記の天地の初発の時から三貴子が誕生するまでを心の中で検証すると言霊の学問は卒業したということになります。
そのためにどういう道を踏んでいけば最後まで合理的に辿り着くことが出来るか。古事記の文章だけが通用する。天地の初発の時ってどういう心か、自分の心に何にも起こらない時、その意味は分かるか。
古事記に書いてあることを鑑にして、そのように自分の心がそのようになっているか。その間澱みなく休みない。古事記の内容は八咫鏡を文章にしたものということになります。
そう思いましたら、気も楽ですし、やり方も容易くなります。他の解釈に頼ると全て失敗してしまいます。千三百年前に太安万侶さんが書き残した細い糸は、ずーっと日本人の心の中に受継がれていて、糸電話のように、「もしもし」と言えば、ピンと張った糸を伝わり相手に通じる。
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天地アメツチ。あ芽。
言霊アの・(あ)
芽が・(め)
ツーッと・(つ)
相手客体、地に付く・(ち)
天地あめつちとは、言霊アの芽がツーッと相手側地側に付くことをいいます。
梅・、ウ芽の場合は何もないところから人間のウという意識が生まれはじめ、それを言霊ウとしました。
天地あめ、・ア芽の場合は相手を意識した主体の意識が産まれ始める、そのことを言霊アとしました。
こうして主体の活動がはじまり、天地の初発となります。
その活動が始まる時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、天の御中主(みなかぬし)の神。次に高御産巣日(たかみむすび)の神。次に神産巣日(かみむすび)の神の三柱が誕生します。
もうここからは高天原を天上の場所だとか、何々県の何とか地方に実在する場所だとかいう、捜し物をする態度は一切不要とします。
現実に対応するものは自分の心となります。
引用です。
「古事記の天地の初発の時から三貴子が誕生するまでを心の中で検証すると言霊の学問は卒業したということになります。
そのためにどういう道を踏んでいけば最後まで合理的に辿り着くことが出来るか。古事記の文章だけが通用する。天地の初発の時ってどういう心か、自分の心に何にも起こらない時、その意味は分かるか。
古事記に書いてあることを鑑にして、そのように自分の心がそのようになっているか。その間澱みなく休みない。古事記の内容は八咫鏡を文章にしたものということになります。
そう思いましたら、気も楽ですし、やり方も容易くなります。他の解釈に頼ると全て失敗してしまいます。千三百年前に太安万侶さんが書き残した細い糸は、ずーっと日本人の心の中に受継がれていて、糸電話のように、「もしもし」と言えば、ピンと張った糸を伝わり相手に通じる。」
そんなはずはないという通常に習得されている意識の(言霊ア(あ))芽生えがあるはずで([め」)、そこからすれば、このブログに書かれたこと(ツーッとの(つ))、を考慮に入れること(相手につく(地につくの(ち))、で何らかの意識が創造されていく。これがあ-め-つ-ち(天地)の内容です。
従って高天原は、この章の中の高天原とは簡単に心の宇宙の何もない広々とした領域の事です。透き通っていて清らかな大きい心の宇宙の事であります。
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天地アメツチ。あ芽。
言霊アの・(あ)
芽が・(め)
ツーッと・船着場・渡し場・(つ)
相手客体、地に付く・(ち)
天地あめつちとは、言霊アの芽がツーッと船着場に相手側地側に付くことをいいます。
梅・、ウ芽の場合は何もないところから人間のウという意識が生まれはじめ、それを言霊ウとしました。
天地あめ、・ア芽の場合は相手を意識した主体の意識が産まれ始める、そのことを言霊アとしました。
こうして主体の活動がはじまり、天地の初発となります。
その活動が始まる時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、天の御中主(みなかぬし)の神。次に高御産巣日(たかみむすび)の神。次に神産巣日(かみむすび)の神の三柱が誕生します。
もうここからは高天原を天上の場所だとか、何々県の何とか地方に実在する場所だとかいう、捜し物をする態度は一切不要とします。
現実に対応するものは自分の心となります。
引用です。
「古事記の天地の初発の時から三貴子が誕生するまでを心の中で検証すると言霊の学問は卒業したということになります。
そのためにどういう道を踏んでいけば最後まで合理的に辿り着くことが出来るか。古事記の文章だけが通用する。天地の初発の時ってどういう心か、自分の心に何にも起こらない時、その意味は分かるか。
古事記に書いてあることを鑑にして、そのように自分の心がそのようになっているか。その間澱みなく休みない。古事記の内容は八咫鏡を文章にしたものということになります。
そう思いましたら、気も楽ですし、やり方も容易くなります。他の解釈に頼ると全て失敗してしまいます。千三百年前に太安万侶さんが書き残した細い糸は、ずーっと日本人の心の中に受継がれていて、糸電話のように、「もしもし」と言えば、ピンと張った糸を伝わり相手に通じる。」
そんなはずはないという通常に習得されている意識の(言霊ア(あ))芽生えがあるはずで([め」)、そこからすれば、このブログに書かれたこと(ツーッとの(つ))、を考慮に入れること(相手につく(地につくの(ち))、で何らかの意識が創造されていく。これがあ-め-つ-ち(天地)の内容です。
従って高天原は、この章の中の高天原とは簡単に心の宇宙の何もない広々とした領域の事です。透き通っていて清らかな大きい心の宇宙の事であります。
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天地(あめつち)とは、主体の言霊アの芽(兆し)がツーッと相手側の船着場に付くことをいいます。
その精神構造の原理を指したものですので、人の心の事象、心の行為の全てに適応できます。心の事象行為は肉体を動かしますから、この世の出来事全てにも関連してきます。
駅から帰る途中で果物屋さんにおいしそうな柿を見つけて買った。たったこれだけの日常行為にも天地の重層構造によって成り立っています。
上記の一部分を切り出してみましょう。
店先に並んだ柿を見る。
多くの通りすぎ消えていく視覚の中から皿の上に載った柿に視線がとらわれる。
柿の姿を見て、その色形からおいしそうという感情がでてきた。
店の人に一山欲しいと言う。
お財布を捜す。
払うべき金額を捜す。
金を集める。
相手に渡す。
柿を受け取る。
柿を買うという一つの行為ですが、一連のそれぞれ独立したサイクルの重層によって構成されています。
もっと細かく見ていくこともできるし、二つ三つをまとめてしまうこともできる。
どの何処の文章をとっても、それらを行為としてみても、主体の言霊アの芽のきざしがツーッと相手側に付くという説明譬喩は変わりません。
始まる前の何らかの全体的なものがあって、自分の意志主体側の行為が相手客体側に関係を持とうとツーッと近づいていきます。
主体はそれぞれの場面において、
おいしそう、欲しい、手に入れたい、等という欲望の次元、
幾らするのか、金はあるのかどこにあるのか、高いか安いか、等という経験の次元、
あれにしようかこれにしようか、買うことにしようか止めておくか、等という選択の次元、
食べて満足するか、お土産にすれば喜ばれるか、買うと嬉しくなるか、等という感情の次元、
を通過していきます。
次元として書かれた内容は精神上でのできごとです。
このように、人の行為と思惟はできています。
言霊アの・(あ)・芽(きざし)が・(め)・ツーッと・(つ)・渡し場、相手客体、地に付く・(ち)、です。
(あめ)は主体が目覚めること、芽をだすこと、見て見分けることをさします。主体とは自分のことですから吾です。
主体は客体を意識した時に主体と成るので、相手がいます。それを古事記では土(つち)と名付けました。
土(つち)は客体側であって、受け入れ、不動、柔順、静か、月、夜、母、田とか、いろいろな意匠で表現されます。土は受動側なので自分では動けないので、相手がつーっとやって来て自分に着地付着するのを待ちます。それが、つ-ち、つちです。
(あ)の内容の(め)が(つ)ーっと相手側の渡し場にに(ち)かづくです。
あ-め-つ-ちと四つの言葉をあめ-つちの二つにしました。
古事記では天地アメツチという一つの言葉ですので、アメツチ(天地)という一つの言葉を心の中に捜さなくてはなりません。
あめつちを無理してこの世の宇宙のか、どこかの国のか、何県のかと捜す必要はありません。
竺紫の日向が九州の宮崎県の日向国だとか、淡路の穂の狭別島はないけど淡路島ならあるとか、心の外にある外界に心を当てはめるのは逆立ちです。
心の方面から古事記に書かれた文を見て往けば、淡路の穂の狭別島はちゃんと実在します。各人のこころのはじまりのことを言っているのですから、淡路の穂の狭別島を持っていない人はいないのです。
でもこれはもっとあとで。
とするならば、人のすること成すことの全ては、あめつちでです。すなわち、あめつちとは人の心によって産まれたこの世でありその心です。
ものの始まり心の始まりの前に、天と地、陰と陽、主と客、に分かれる以前には、何か分からないがわたしをわたしたらしめ、相手を相手たらしめる何物かの潜在する動きがいつも霧のように流れている。そのような自分を揺する上にのっかかって、何かを意識し始める。
古事記は「天地の初発の時」と書き出されています。すなわちその前には何もありません。同様に心のはじまりの前には何もありません。しかし実際は何もないのではありません。ただそのものが始まる時にはそれ以前のものは別物だというだけです。
天地として動きだしたものはそのものとして始まりますが、孤立した系ではないので以前の系からの次元上昇があります。
店の人に一山欲しいと言う。
お財布を捜す。
払うべき金額を捜す。
金を集める。
相手に渡す。
買い物という一連の行為ですが、分析をすれば幾らでも細かくなっていきます。財布を捜すことと財布の中身を捜すこととは違う次元の行為です。古事記はそのなかのたったの一コマが上巻全体を使って説明されているという恐ろしい書物です。
不思議なことにその一コマの説明が同時に次元上昇の説明にもなっています。それは最初の出だしから始まっています。天地の初発の時というのはそのことの始まりであり、次元上昇の始まりなのです。文章でいえば「天地の初発の時、高天の原に成りませる神の名は、天の御中主の神。次に高御産巣日の神。次に神産巣日の神。」の三柱の神が、というよりその構成が繰り返してでてきます。勿論場面次元が変わりますから同じ名前ではないですが。
。
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アの芽がつーっとアチら側へ近づこうとしはじ芽の時
2009/12/7(月)
天地の初発(はじめ)の時を、未だ神機の発動していない時とし、従って時間もなく空間も出現していないとしたり、神の一撃、ビッグバンから始まった時とか、数百億年前の天体が出来ようとしていく時とかにして、とにかく物理現象にむすびつけないと安心できないようです。
もう一つの天地の初発(はじめ)の時があります。ふと目と目が合って心を通わした初めの時とか、始めて富士山を見た時とか、始めてこのブログを読んで感想を持った時とか、精神活動の初発の時があります。
神様次元の話がなんで一目惚れにすり変わってしまうのだと怒る方もいるかもしれません。
一目惚れだって神様のお力添えがあればこそ可能だとすればどのような精神活動の話を始めてもいいとはおもいます。
何故天地の初発を言霊だ精神活動だとくだくだ何回も繰り返すのか。このブログは天地と書き始めてから一歩も進んでいない。何回同じ表題で書いているのだろう。古事記の神代の巻は神様の姿を借りた言霊の教科書、人間精神の認識の発生とその作用を解明した原理を提供している書物だということは既に分かりきっている。
それなのにまだ一歩を踏み出せない。初発の時には初発の内容がある。そのまた内容があってそのまた内容がある。持続の循環は過去に向かって無限に続く。中にはビッグバンと神様にまで来てストップする人もいますが。
何もない0はなく、前0としてそこから一切のものが生まれでるエネルギーで充満していながら、静かに澄んで動かない状態の言霊スがある。前0は潜在であり先天であり、前在であり、言霊スであると、一応こう理解はしています。
天の御中主の神。次に高御産巣日の神。次に神産巣日の神と、天の御中主の神が二股に分かれ行き、次に高御産巣日の神、次に神産巣日の神となることも了解できます。
しかし今度は男と女が子供を産むというように、二つが一つになる場合、画面に文字を打ち込んで文を作り確認するというように、一つの創造行為をしている場合、そういった時にはどうなるのかと疑問があります。
火のかぐ土の神という一つの言霊ンが出来ました。「子の一木」となっています。男と女が子供を産むというのなら分かりますが、これは御中主の神から始まっているので御中主の神が子の一木になったとすると、男と女はどこにいったのか不明です。
高御産巣日の神、神産巣日の神がいますからこの二柱をを男女としますと、男女の前にいる御中主の神とは何か、具体的なアイデアが出てきません。恋愛感情生殖行為欲求とするのかどうか不明です。
その後、たぐりから金山びこ、金山びめが出てきますが、産まれた子供のどこがこの金山びこ、金山びめに相当するのでしょうか。子供は一で、金山は二です。子供が二になるとはどういうことでしょう。
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たぐりという行為を始めるからか。それが初発の時か。見る時、動く時、ギミの命から突き動かされて始めて金山になる。
動かなければ初め、はじめ、端思芽、はじ芽、にならない。
アの芽がつーっとアチら側へ近づこうとしはじ芽の時。あめつちのはじめのとき。
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天地あめつち。 言霊ア。『ア』
<言霊ア>。ワ。高御産巣日の神(たかみむすび)、次に神産巣日(かみむすび)の神。
言霊ア。ワ。広い何もない宇宙に何かが起る兆しとも謂うべき動きが始まりました。言霊ウです。次に人間のこれは何か、の思考が加わりますと、たちまち言霊ウの宇宙が剖判して言霊アと言霊ワの宇宙に分かれます。
剖判の剖は「分れる」であり、判は「分る」です。分れるから分る、分かれなければ分らない。分るとはこういう事であり、それが同じであることを言葉が示しています。
主体と客体、私と貴方、始めと終り…
言霊ア(主体)と言霊ワ(客体)の感応同交によって人間に関する一切の出来事(現象)が生れ出て来ます。人間の一切の行為の元はこの言霊ウ、アワの三言霊から始まります。
『ア』主体側。アの情感
アメツチノハジメノトキというのですから、誰かが何かがとにかく何だか判らないが、始める、始まるものがいる、あるいは、ある。
そうなると今までの読み方では創造主さんか神様が、始めるというのが普通でした。
ここでは神代紀は言霊の教科書であるということですので、これからは言霊学の上から読み解いていきましょう。
言霊は言葉にこもっている魂という意味で使用されることが多い。言葉を一つの単語として、美しい、幸せ、よしやるぞーがんばるぞ、というように使用して言葉内に秘められている何らかのエネルギーの内容を成就させたり、言葉に籠もっている魂を得たりしようとするものです。
ここではそのような普通の定義とも違います。
普通の定義では言葉の魂を言霊としていますが、ここでは単音の言葉そのものが魂です。
天地の初発という時の普通の言霊は天地または天と地の魂ということですが、ここではあめつちのア、あめつちのメというように一音一音が魂となります。
一音一音が日本人の心を形成している魂であり同時に言の葉でもあるという立場です。
従って天地は一つの言葉ですが、そのまえにアメツチという四つの別々の魂を持って成立していることを見ていきます。
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天地の『ア』
天地の初めの時とあるので 誰か始めた者がいるようにとりますが、天地あめつちの『あ』そのものを取り上げましょう。
上と同じ構文をつかって、『ア』の初めの時として誰が始めたのかみてみましょう。
わたしは天地のアと発音します。安万侶さんはアと記入しました。読者はアと読みました。それぞれにアの主体がいます。
主体はどこにいるでしょうか。机の前にいます。電車の中に、山に畑にいます。
では机電車等がアと発音し、アを書き、アと読んだのでしょうか。そんなことはありません。
全て頭の中で始まり、頭の機能働きの産物です。
アメツチのアと書き読み話す働きは解明できるでしょうか。
アと書き読み話されたそのアの主体とは何でしょうか。
主体の動作がいろいろありますが古事記は発音してその音が理解されることを主に取り上げているのでそれにならいます。
『ア』の言霊学上の説明は文頭に引用してありますが、わたしはアを発音してそれらを納得できるでしょうか。あめつちは知っていますがその中のあめではなく、アだけを取り出してそれを説明するのは始めてです。
わたしはアーどうしようかと少々困惑気味です。アッと手を打つよい思いつきアイデアがないものかと神様に祈りたい気もします。アーメン。ここに出てくる嘆息とか言葉の成り初めのものとか祈りの言葉にアが含まれています。それらにあめつちのアも追加してしまいましょう。 アーメンは日本語ではないけれど、何か共通の感じがありそうです。
わたしはあめつちという一塊の言葉を知っていますから、その初めのアを発音しました。しかしまだア・メツチまでにいたっていません。
あめつちについて書こうと言うのが今回のブログですから、その通りにしているわけです。
しかし何故アだけなのでしょう。これも言霊を単音としたのでそうなります。
単語を、あるいは文を言霊とする場合にはこうならないでしょう。
わたしはアを選択しましたが、その説明に手こずっています。なぜでしょう。おそらくそのような経験がないからでしょう。アに関する語彙も言葉も知らず、これから辞典を引くところです。 吾あれのア、天のア、明かりのア、感情表現のア、
天地という言葉が与えられているようにアも与えられています。ここでは既に知っているアについて何であるのかを探しているわけです。つまり知識経験の集積をしているだけです。知っていること知り得ることを集めて記していくだけでしょう。
ところが、アという言葉を発見、造り、使用し始めた時はどうだったでしょうか。辞書を使って簡単に集めることは出来ません。できればどのようにアが発生したのかもみたいものです。さらにできることなら、アに内在する言霊も掴んでみたい。
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