1・ちぎりとまぐわい
今回の原文です。
①【ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「然らば吾と汝と、この天之御柱を行き廻り逢ひて、美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)せむ」とのりたまひき。
②【かく期(ちぎ)りて、すなはち詔りたまひしく、「汝は右より廻り逢へ。我は左より廻り逢はむ」とのりたまひて、約(ちぎ)り竟(を)へて廻りたまふ時に、
③【伊耶那美の命まづ「あなにやし、えをとこを」とのりたまひ、後に伊耶那岐の命「あなにやし、え娘子(をとめ)を」とのりたまひき。おのもおのものりたまひ竟(を)へて後に、その妹に告りたまひしく、「女人(おみな)先だち言へるはふさはず」とのりたまひき。
説明の予定は
①美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)→実を取る間の食い合い。
②ちぎり・左右→実をちぎる・霊足り、実切り。
③女人先に言える→実体を先に主張するのはふさわしくない。
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日本の行事文化は言霊の原理を残すための方便として様々な方策がとられています。
今までの話を相撲で説明してみましょう。ただし正式な話ではないので、古事記の解釈のように現状を固執する方は比喩にもなっていないと感じれば、文句の一つも吐き出してもらって結構です。また歴史的にはこうで何時始まっのでというような、文献記録史実を探るものでもありません。二千年の歴史と今後の人類が相手ですから焦って喋るほどのことも別にありませんので。
ひがーし、にいーし、と主体側と客体側を呼び出します。(問いたまひいしく)
両者は土俵に上がりますが、本当にこの二人の主客でいいのか知りません。そこで塩をまいて清め、自らを何もないウ次元に戻します。(成り成りて)
と同時に塩は「しほ」と読まれ、「四霊」のことですから、ここで同じ実体次元にあらわれることができることを示します。つまり同じ土俵に登れるということです。相手を見つけました。同じ実体次元にいます。
土俵入り後に拍手を打って、両手を広げ、手の平を下に向けます。ここでは手を打つと音がします。成る成るは鳴る鳴るになって、主客の言霊を呼び合います。また同時に主客を取り持つ横並びになっているチイキミシリヒニの父韻を呼びます。
呼び合う場所はこの音図(五十音図)上で、両者のいる土俵上です。主体側ア行(東)から始まって、客体側ワ行(西)まで揃っていることを手を拡げて示します。つまり示している本体がここにいるということになります。そこで相手の在り方を確かめます。次に実体の在り方を示します。
主客の両力士は四股(しこ)を踏み、対峠します。四股は「四子」で主客のそれぞれが四つの次元世界を持つことを自ら四股を踏んであらわし、これから現象結果である子を産もう、勝負をしようというものです。
アワの主客に本人の父韻が揃うとそこで活動が起こり子音が創造されます。創造されていくということを示したのが掌を下に返して創造現象が下に(地に)出来るぞと言うことを示していきます。
しかし、ここでは二人による実際の創造行為(勝負)があったのではなく、客体側主体側それぞれの先天に創造に値するものが出来ていると言うことを示しています。国生み(子生み、現象生み、勝負生み)の要素の準備ができた段階です。
主体側は「成りあまれるところ」、客体側は「成り合わぬ」ところを両手を拡げ同時に見せ合って確認していきます。これで、さし塞ぎ、国生みなさむ、恰好が整いました。
勝負の始まるまでに何回か同じ所作があります。立ち会ってまぐわいを得たことを確認するまでのそしてこの過程の後で、お前はどうなっているのか、成り合わないところがある、余りがある、よしそれじゃさし塞いで国生みの勝負をしようになります。
その先天のあっち側とこっち側が出来ると、今度はそれらは勝負として現象現実化しなくてはなりませんが、直ちにではありません。
そこでついで、オノゴロ島、おのれのこころの領域、主体の領域と客体の領域を仕切りと言う形で示していきます。主客の持ち分を仕切りで提示し合います。
ここまでくれば、両者はそれぞれ自我が成立していますから、ここで行事が「見合って」と「みとる」まぐはひの準備を促します。
両者の立ち会いがあり、勝負が始まります。
「立合いは、世界では見られない、日本独自の方法である。その開始は、両者の暗黙の合意のみで決まる。仕切りを繰り返すうちに、両者の気合いが乗り、共にその気になった瞬間に立ち上がるのが本来の形で、行司は一般のスポーツのように開始を宣言するのではなく、確認するだけである。」(カッコ内はウィキから)
相撲はもともとまぐわいを力比べにしたものですから、女人禁制などないのですが、しかし完璧な女人禁制なのです。力士は実体をあらわすものとして、伊耶那美の神の側で現代的に言って女側をあらわすものですから、その本質は、「吾が身は成り成りて、成り合はぬところあり」と伊耶那美の命の答えたごとく、実体側女同士の相撲です。これを動かすには父韻の男の仕事となり、父韻が加わらなければ動きもありません。
わざと男とか女とか言って皆さんを惑わしていますが、古事記の言霊循環にはそれを固定することを蛭子を生むといいます。土俵に力士が上がっただけでは、女側実体が登場しただけで、相撲の勝負があっことになりません。こうして蛭子を生んで終わることもあります(不戦勝)。この場合は男側は登場しません。
女側実体(力士)を男の勝負にするのが父韻で、土俵入り後、掌を返してここからは父韻が主役になるということを示していきます。手を下にすることがなければ、いつまでも女の相撲です。象徴を固定して男とか女とかいうのはもう止めましょう。片方だけでは何も始まらないのですから。
相撲を岩戸開きとからますこともあります。
岩戸は(いは・五十葉の戸)開きでの天の手(た)力男の神は、手を「た」と読ませて「田・五十音図」を渡る「男」の働きを示す、父韻の働きを示していて、手に力のある男の神のことではありません。岩を放り投げる力のあるところから来た話のようですが、天照すは理想的な実践思想規範のことですから、世界建設に力のある規範を得ることが目的で、力を出すことが目的ではありません。
そのように言霊原理を隠して相撲を発明したようです。ですのでこの後、父韻の力とはどういうものかを探っていかねばならないでしょう。父韻の力はと何なのかを探らなければならないでしょう。
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言霊学もこのように具体的に語れれば分かりやすいのですが、そうすると今度は具体性が固定化され象徴となり動きのとれないものとなっていきます。
では、ちぎりとまぐわいの話を始めましょう。
2・ちぎりとまぐわい
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ギミの命、主客は同じ土俵に立てるところまできました。
立ち会ったもの同士がどうするかが課題となります。
今回の原文です。
①【ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「然らば吾と汝と、この天之御柱を行き廻り逢ひて、美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)せむ」とのりたまひき。
立ち合いてまぐわいをしよう、相撲をしようというわけです。二つに分けます。
①-1・【ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「然らば吾と汝と、この天之御柱を行き廻り逢ひて、】の柱の意味を探る。
①-2・【美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)せむ」とのりたまひき。】のまぐわいの意味を探る。
事が起きる、事象が起きるときには、その反対側の全世界が切り捨てられ無視放り出されて、そのことだけが残ります。猿にもちろん人間でもいいですが、ホイッとタマネギを投げ与えて受け取らす時、瞬時に全世界の捨象と引き換えにタマネギへの結びつきが行われます。タマネギと結ばれるには他の全てを捨象することです。その時全世界を捨ててでもタマネギを受け取る決定が瞬時に起きています。
タマネギの例を出されて思い当たればなるほどとなりますが、実際にはどの時点においても瞬時にこの選択捨象と結びつきが行われています。ただそれが連続していき、記憶に残りますので、常に世界が存続し続けているようにみえるのです。
この判定のセンターとなっているのが天之御柱です。私たち各自のこころであり、伊勢神宮の最深奥の秘儀といわれる象徴です。このセンターが働かないとタマネギは下へ落ち踏みつけられつぶれます。古事記はこの様子を「天之御柱を行き廻り逢ひて、」といってますがどういうことでしょうか。
今回の原文を普通に読むと、ギミのミコトの二人がいて柱が一本立って、三つの主役がいるように見えます。フトマニ言霊学の話は全くそのような神さん達のやることや物質の現れの話ではありませんので、男女神の二人がいるとか柱が立っているとかではなく、単にあなた、わたし、それぞれの一人の人の心の中にこの三者がいることを言っています。
比喩象徴暗示として心の世界を、神とか物とかの現象を提示しているだけで、心の働きで主体側の現象を創造するための方便です。古事記は、「こ」事記で子という、こころの現象創造の事を記した書物であることをお忘れなく。一人の人の心の内のギミのミコトと心の内にある「柱」の話です。
ここでは柱で示されるので行き廻りのイメージを強要されますが、平面になれば五十音図であり、物品ではヤアタの鏡であり、建物では鳥居や橋です。橋を渡る、鳥居をくぐる、鏡を回転する、音図の母音から半母音へ行く、柱を行き廻りと、それぞれ別々のイメージが喚起されて来るので、それらに共通の原理を見つけなければなりません。
そんなものがあるでしょうか。物象と成ってしまったものは様々であって、それぞれ勝手なイメージが喚起されて来るので、全てそのままでは受け取ることは出来ません。「この天之御柱を行き廻り逢ひて、」というのも比喩ですからこの物象からくるイメージも消去しなくてはなりません。それが出来れば、また後ですくいあげればいいのです。
ここでの柱はギミの命の外にあるようにみえます。柱があそこにあって二人が廻るような書きざまです。ミコト達の外にある物ならそうでなければ廻ることは出来ません。では柱はどこからきたのでしょう。
オノゴロ島に立てた柱からきました。その柱はどうしてできたのでしょうか。
こうして今ある姿から、その前の姿、始めの姿、出来上がる前の姿、準備の姿、要素の姿、計画の姿等々と以前へ以前へと言霊循環の姿を元に戻します。
すると物質の姿は、物象となり、イメージとなり、頭脳内の主体側が作ったイメージの姿となっていきます。
それをさらに戻ると自己存在といい主体というものが、受け身で成ったものであるところにまできます。つまり自分が作った物も、自分に作らされたものになってきます。
そうすると、自我以前の何ものかが働き、われわれ各自に依頼しているのではないかというところが出てきます。
「 柱を行き廻り 」と書かれていますから、そういった現象の姿を受け取らなければいいのです。音図の平面であったり、鏡の同心円であったり、橋、鳥居であったりしていますから、ギとミの間の何らかの行為であるものを掴めばいいわけです。
以上のような各経過、言霊循環の各時点で、各自の関心興味のある切り取り方をしていきますと、それぞれの意見が出てきます。そこでは循環している過程の流れを無視して、自分のお気に入りが主張されていきますから、それぞれが勝手な主張をするということになります。各人の主張はある過程のある部分の切り取られた型を現象化したものでしかないことを忘れることになります。
ここで判断規範という柱も同様です。時間的な判断規範の成長とそのあらわれができてきます。どのようなあらわれかといえば、十七神の古事記の冒頭の現れしかありません。
(馬鹿言うなそれしかないなんてはずはない、というところでしょうが、そういう主張の、感覚も感情も知識も選択按配も、全て十七神から出てきました。手間隙かけてそういった主張を一つ一つ解きほどいていきたいと思うこともありますが、この話はまた後にしましょう。)
どんなことになろうとも、いずれにしても十七神の原理しかこの世にはありませんから、各人の考えというものはその途中で出てきた中途半端なものです。というのも、スメラミコトしか十七神を通して語れる人はいませんから。
だれもが言霊循環を繰り返して、それぞれ自分を作り上げ、そこでその中の一つである私の作り上げたものが私の自我となります。人は十七の内のどこかに住み、どこかに留まってそれぞれがここが最上階と思うようにできています。つまり各人は逸脱できる原理を身につけてることになります。
(真意の見えない、聞いたことも見たことも無い考え方でしょう。私自身もびっくりするような書き方です。)
十七神を時間的に見た判断規範としての「柱」。
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今回は十七神と言いましても個々を解説するのではなく、十七神の流れを時間軸の心の成長としてみるだけです。本当は古事記の冒頭百神が出てくるまでの全体が精神の成長の軌跡で、成長するだけでなく後退や逸脱も起こるところで起き、悟りや神を知る場所もあるべきところであるというように、古事記はできています。
まず、何も無い次元層。
・事の始めはあることも無い事も知らないが、人としての意識の働きはあり、まるで自覚なしの段階にある判断規範としての「柱」です。いわば生物的な環境、遺伝、性格、家柄とか外部条件の相違などが、判断規範の形成に影響される次元層です。本人の自覚以前にある世界です。古事記では冒頭の一語目「天(あめ・吾の眼)」で示されている世界です。後の全時代のベースです。各人の判断規範としての「柱」を先天的に作ってしまいます。自我に成る萌芽をつくらされている次元で、それでも人としての判断規範の「柱」を立てていく次元です。
この段階で「然らば吾と汝と、この天之御柱を行き廻り逢ひて」となります。
(例証を好む方は自分でやってみてください。)
ウ次元層。
・次に五感感覚的な意識層ができてから出てくる判断規範の形成です。生物的な条件反射や欲望充足に則した判断柱を形成します。もっぱら自己の現在の欲望獲得に当てられます。自己というのは個人ということだけではなく、集団団体会社教団国家に至るまでその欲望に囚わられた柱を持ちます。前段の自然な生物的な性格を引き継ぎ欲望が加わった形で、他者が眼に入りません。
この段階で「然らば吾と汝と、この天之御柱を行き廻り逢ひて」となります。
ア次元層。
・次いで、ウ次元層の柱意識には欲しい欲しいだけで、他者への意識がありませんが、そこに自分と違う他者を意識するようになると、自他を分別する感情が出てきます。ウ次元では自分でも出所を知らない欲望に押し出された「柱」でしたが、ここでは、自分だけの出所を主張して行きますので、自覚の在り方だけは知っている「柱」を形成しています。しかしその実現だけが自分の基本的な要求ですから、他のことは知ったことではありません。
この段階で「然らば吾と汝と、この天之御柱を行き廻り逢ひて」となります。
オ次元層。
・次いで、過去、経験、概念、記憶と結びつくという重要な要件を引き連れてはいますが、過去知識しか勘案できない「柱」の形成があります。温故知新を金科玉条としますが、未来創造を過去の整理知識と取り違えることで見事な「柱」を作っているつもりになります。これは全過去世界を相手にする人間の重要な働きで、過去知識の興味関心お気に入りによる結びつきという勝手気ままな、本人にも不明で手の付けられない意識に支配されている「柱」の形成のされ方です。選択判断に自覚がなくじぶんの表層に浮かんできたものに便上してできたものです。
この段階で「然らば吾と汝と、この天之御柱を行き廻り逢ひて」となります。
エ次元層。
・次いで、自他の自覚の上で 「然らば吾と汝と、この天之御柱を行き廻り逢ひて」 という段階になり、そのような「柱」を作ります。
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土俵上にはギミのミコトの二人と柱があるよう見えますが、心の土俵にはギとミと柱のさんしゃに分かれた自分の心一つがあるだけです。
3・ちぎりとまぐわい
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①-2・【美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)せむ」とのりたまひき。】
いよいよ「みとのみぐわい」です。解は昔から多くあり、前回書いた通り各自が「天之御柱」を立てたところから、解を施していくわけです。
どれもがそれぞれの次元層での正解ですが、誰もが根本的に理解していないものです。根本的というのは「イ」次元でのスメラミコトの立場での了解をしている方はどこにもいないということで、私も前回ではエ・イの次元層での説明はしていません。できないから書けないだけで、どこかにエ・イ次元について書いてあることは真似事をもとにしてあります。
さて、「みとのまぐわい」です。読みは、
「実を取る、間の食い合い」 となります。
意味は、
主客がそれぞれ同等の次元に立ち話し合えるように、自分を相手の次元層に合わし、相手を自分と同じ土俵に乗せ合う今の間を設定し合うことです。
その後でではどうするかということで、「ちぎる、千切る(細かくする、次元を分ける)」となります。
古事記はエッチな本だ、みとのまぐわいは眼を見つめ合って見合いして性交するのだとかいうように、それぞれ自分の関心のある各自の柱の次元層から意見が出てきます。ですのでそれはそれで構わないので、その人の「みとのまぐわい」からでてきたものです。
古事記は心の原理教科書ですから、原理次元で解かなければ不十分なものとなります。原理次元というのは「イ」の心から解き明かすことです。前回では何も手を付けておらず説明していません。
あっちこっちから出てくる無数の意見がありますが、まとめてみればウオアエの次元の四種しかありません。それを四つの「間」ととらえお気に入りの「実」を取るとします。いろんな意見もそれぞれの「間」に収まっていたもので、その居間から引き出してきたものです。
問題はそれらを、正しい間違い良い悪いとか、文献上こうだ考証上こうだ、とかではなく、「イ」の次元から押し出してあげることです。あなたもあなたもどなた様も、それはそうなるあるべくしてなったと示すことです。その為には大元の原理「イ」次元に立たないとできません。
【美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)】 みとのまぐわい・実を取る間の食い合い
同じ土俵に上がっても寝ころんだり、ランニングを始めてしまっては勝負ができません。呼び出しが両者を呼び出すように、対戦にふさわしい相手同士でなければ成らず、次元の違う横綱と小学生では、相撲という外見の恰好を作ることはできますが、勝負をして技を生むことはできません。
この恰好だけは相撲の形をしているというのが、後の「蛭子」生むということです。相撲の恰好をしているじゃないか、四股も踏んでるじゃないか、立派な相撲であるという理屈が成り立つ原理がここにあります。
詳細は【伊耶那美の命まづ「あなにやし、えをとこを」とのりたまひ、】の内容を語る時にします。
「実を取る」の「実」は、ウオアエ次元の実で神名を用いれば以下の通り。
【 言霊 ウ】 天の御中主(みなかぬし)の神。 ウ-ウの相撲、次元。
【 言霊 ア】 高御産巣日(たかみむすび)の神。 ア-ワの相撲、次元。
【 言霊 ワ】 神産巣日(かみむすび)の神 。
【 言霊 ヲ】 宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。ヲ-オの相撲、次元。
【 言霊 オ】 天の常立(とこたち)の神 。
【 言霊 エ】 国の常立(とこたち)の神 。 エ-ヱの相撲、次元。
【 言霊 ヱ】 豊雲野(とよくも)の神。
この四つの次元内でしか、技の掛け合いから相撲の現象を生むことはできません。上記のように女・ミ側が先に口を出すという相撲の形だけはつくれますが。
上に書かれた神名を見て、ウには相手がいないじゃないかと疑問を持つ方もいるかと思います。疑問を持つことは正当で、知りたいと思うことも正当ですが、残念ながら、答えと説明を聞いて納得することは、失礼ながら正当ではありません。(ひどいことを言うと思うでしょうが。)
つまり疑問の持ち方が、自分の興味関心気になったことから出てきたもので、それに引っ掛かった回答を得た場合には了解の種を得ますが、自分の疑問の出方が勝手に出てきたものであるのにもかかわらず、回答との関連を見出せないと、分からないとしてしまいます。
そんなことは当たり前なのですが、この自己意識のからくりに気づかれないと事は前進しません。
4・ちぎりとまぐわい
「み」
「みとのまぐわい」は、 「実を取る、間の食い合い」で、
意味は、 主客がそれぞれ同等の次元に立ち話し合えるように、自分を相手の次元層に合わし、相手を自分と同じ土俵に乗せ合う今の間を設定し合うことです。
日常起きること起きていること起こすこと全てに共通したこと、つまり何でもない普通のことです。人は朝起きてから「まぐわい」しっ放しということです。
主客にはそれぞれ「実・み」がそれぞれの実を付き合わそうというわけですが、主体側には能動の働きかけがあり、主体自らのいきさまを示しますが、客体は受動する側でありさま実体を提示する側です。
ここで主体が先か客体が先かで問題を立ててしまい、マルにチョンを入れる場合もマルが先かチョンがさきかで堂々廻りが起きます。(マルにチョンは古事記の言葉ではありませんが。)
その答えも何々が主体、何々が客体というようになりがちですが、そのように固定してしまうと言霊循環の意味がありません。一つの流れの中、組織、集団、考えの中では、主体が客体に客体が主体になったり交替したりしていきます。
言霊循環の特長、つまり人が生きていく特長は、前承する螺旋上昇循環ですから、主客はそれぞれ転化し合うのです。それを保障するのが言霊ウの働きです。う<あ・わ-う<あ・わ-う<あ・わ-・・・と創造連鎖は続きます。
途中のウは前承された新ウで、それ自体が次の段階の旧ウになり、オで表現すればオはヲになり、それ自体が新オになっていきます。これは常に一度ウに戻ることで成し遂げられることです。古事記の冒頭を言霊で書き直したときに、客体「ヲ」が先にきて主体「オ」が後になっていますが、十七神全体で見ますと、ウアワヲオエヱの客体がイヰ(チイキミシリヒニ)の主体の前にあります。
これは前承する言霊上昇螺旋循環の性で、常に言霊ウに戻って(古事記の表現では、あめつち、吾の眼が付いて地に成る、初発の時)いるからです。
ですので、同時進行といっても、主側が先といっても、客体側が先といってもそれぞれの切り取り方によるものですから、どの回答も正しいしどれも不十分ということになります。
これは「今現在の瞬間」を意識行為するのに、過去-今(オヲ)では客体側が先、今-今(ウ)では主客の同時進行、今-未来(エヱ)では主体側が先、の切り取り方ができますが、螺旋循環では、各次元内での主客もその後先は入れ替わることができ、新たな創造となります。
説明の方便や、ある切り取り方を説明する仕方として、オが主体でヲが客体というようにいえますが、螺旋循環の中でのスナップ写真ということです。
ついでにいえば、冒頭十七神は、ウ<ア・ワのアの主体側から始まりますが、客体側が全部揃った後でイが出てくるワ-アの、ウ<ワ・ア(イ)の構造をもっています。これはウオアエの客体側がイに引き継がれて主体化する前承の形を示しています。
ワの客体を引き連れて行かないことには次段での主体と成れず、「ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、」と、その主体的な働きを示せないのです。
百神全体で見ても、先天のウは、言霊要素と成る子音客体側ワの後で、金山以降の主体側の働きが出てきます。
ですので、「美斗(みをとる・実を取る)」の「み」とはこうした主客の関係全部を前承しています。
繰り返しますが、主体側に実が乗っていなければ手足が無いということで、自分自身の主体側の意図さえ動かすことができません。
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蛇足。
パスカルの「人間は考える葦である」を取り上げ、小林秀雄は次のように言う。
人間は考える葦だ、という言葉は、あまりに有名になりすぎた。気の利いた洒落だと思ったからである。或る者は、人間は考えるが、自然の力の前では葦のように弱いものだ、という意味にとった。或る者は、人間は、自然の威力には葦の様に一たまりもないものだが、考える力がある、と受け取った。どちらにしても洒落を出ない。
パスカルは、人間はあたかも脆弱な葦が考える様に考えなければならぬと言ったのである。人間に考えるという能力があるお蔭で、人間が葦でなくなる筈はない。従って、考えを進めて行くにつれて、人間がだんだん葦でなくなって来るような気がしてくる、そういう考え方は、全く不正であり、愚鈍である、パスカルはそう言ったのだ。そう受け取られていさえすれば、あんなに有名な言葉になるのは難しかったであろう。
5・ちぎりとまぐわい
「み」再説。1。
わたしのブログも気づいたこと感じたこと思ったこと閃いたこと等を書いているもので、
気づいた事等をお気に入りとして、自分の主張にまで持ち上げ、良いとし、自己所有していきます。
ですのでほとんど全員の皆さんの書くものと同じように根本的に駄目なものです。
「おいおい、
善良な他者まで巻き込んで、なんとひどい事を言う奴だ。」
しかし今までの世界史では気付きが戦争を起こし殺人を平気でしてきたのではありませんか。
「おやおや、気付きが、殺人戦争だというのかい、飛躍し過ぎじゃないかい。」
そうですね、それも私の気付きに過ぎませんからね。
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では、少々まともに「み」について。
「み」を漢字で表現してしまうと、実体実在のイメージが重なってしまいます。
実にしたり、身にしたり、味にしたり、その他にしたりで、使用される漢字の象に災いされます。これが漢字の良いところであり悪いところで、漢字では物に固執してしまい現象に執着してしまって本質を表現できないのです。古代から大和では漢字の意味を取ることと読みを取ることとを別々にしてきました。既に漢字民族の欠点を知っていたからでしょう。
そこで、大和の日本語で「み」に関して本質を語ってみろと当然突つかれるわけですが、前にも言った通りスメラミコト以外にはそんなことはできない相談なので、という意味は、本質を語る回答をしても理解できる人がいないということです。ですので、本質を語れなどと言うのは、そういう方の理解できるところまでにプラスアルファをくっつけるということになります。
このブログはまるで反応の無い一人相撲なので、本質を語れなどとはいわれることもないので、自分なりに少々まともなところを語ってみましょう。
といっても習い覚えた古事記の手順を真似るだけです。
「み」を語るのに漢字を使用し実、味、身、見、三などを当ててしまったり、陰部にしたりしてしまうと、どこに大和の「み」があるのかと途方に暮れます。古事記の表記は「美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)」で「美」で、漢字の象からの美からはまぐわいと結びつかないので「見」にして、陰部を見つめ合うというような理由をくっつけました。
それでも話の流れが上手い具合にできただけで、意味内容、本質が理解できたわけではありません。「み」が見になると、見つめる見合う見取る等々と拡がり、その拡張を良しとしてしまいます。「まぐわい」も「目合ひ」になってめくばせを性交の象徴にまでしてしまいました。
それではと、「美斗(みと)」の「み」を探しに行くと、探しに行く私なりあなたなりの手持ちの判断材料と方法は決まっています。要するに既知既得の判断を駆使します。そこに気付きや閃きなどが加わって自分なりに納得してそれなりの表現をしてしまいます。そこで大抵は納得し、すぐ喋りだすか書き出します。
つまり「み」を語るのに、実、味、身、見、美、三などを探して「見」を当てはめましたが、今度はこの「見」をもって、元の「み」へ行こうとします。一枚の写真を刻んで見つけた部分をこれがこの写真の核心だとしてそれで写真全体を説明しようとするようなものです。
見つけた物象から全体をたどろうとしますから、いつまでたっても写真を取った意図を見出せません。写真の意図が不明なのに、手持ちの物象をもって表現の全体を語ってしまいます。
そこでつくられるものは、「み」を「見」で語って、「み」にしてしまう同義反復、既得観念概念の反復です。
さてここでわたしは自分の事を棚に上げて文句を言っているように見えます。
しかし、他者のやり方は同義反復だから駄目だと言っているわけではありません。
人の意識の持ち方は同義反復しかできないのなら、そうしようというのです。
上記の通常の例では「み」を実、味、身、見、美、三などに千切るわけですが、「み」を千切ることなく同義反復できる道があるのではないかというわけです。
無垢の赤子や子供は何をして成長しますか。もの真似です。
意識的な大人、自覚した大人が無垢な赤子と同じようにしたらどうなるでしょうか。
そもそも同じようにする「もの」はあるでしょうか。
例えば理想的な全人的な文明創造行為を促すような判断基準があったらどうでしょう。
人は同義反復をしてしまう性能があるのなら、見つけた理想的な判断規範を真似るという思いも悪くはないでしょう。
古事記の全人類のための秘密がここにあってもおかしくありません。
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6・ちぎりとまぐわい
「み」再説。2。
理想的な判断規範をもって「みをとる」、理想的な判断規範をもって「まのくいあいをする」などといっても、どこにあるのか知らないし、あっても使用法を知らないし、使用できたとしても相手は理解できないし、理解されても受け入れられるかは知りません。言霊学が徐々に浸透してきているといってもそんなところです。
まずこれを書いているわたし本人があやふやですし、どうにかしようと文献や習得している人を探してもいないし、研究会とか横のつながりも無く全く個人の仕業でしかありません。つながりがあればあったでゴタゴタが起きるのは目に見えています。
中には島田氏の名前を語って本を書いたり、ブログを書いたりしている人も出てくるようになりました。皆さん個人の全力を尽くして理解したこと、気づいたことを発表しているので、基本的に全て「駄目」な見本です。(私のもそうですが。)
個人で考え追求して確かめなければ何にもなりませんが、アメノウズメが裸踊りをして、いいとか悪いとか、もっとやれとかとっとと引っ込めだとか言っているようでは、まだその時が来たのではなく、「八百万の神共に笑いき」ではありません。
「八百万の神共に笑う」古事記の言霊学の種はすでに蒔かれましたが、
根付き、芽吹き、成長するかどうかはわれわれ次第です。
【美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)せむ」】 の【美斗(みと)】を「みと」とし、「みをとる」とし、イメージし易いように「実を取る」と漢字を当てはめておきますが、大和言葉の「み」は漢字の「実見三身等々」で固定しないようにしてくださいと注意を促しておきます。
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古事記での「ミ」は妹活杙(いくぐひ)の神が配当され、妹とは角杙(つのぐひ)の神に対する妹背で、活杙(いくぐひ)は生きた杭という判断規範の働きで、自分の方から相手方に近づいていって自らの杭(判断規範)を当てめようとします。その働きから「み」が出てき、従ってその規範は既得のもので言霊ヲの系統をもっていて、過去-今のなりさま、実体側を確認しようとします。
事が身につく、身になる、などそのものづばりの表現、バラの実が成った、桜を見に行こう、「道は一を生じ 一は二を生じ 二は三を生じ 三は万物を生ず」の三で、自らに実をもってそれを身にして三(第三者としての現象創造)を作ろうと見に行くのです。
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美斗(みと)を「実を取る」とするのは、なんとかイメージできるかと思います。
古事記に深入りをしていきますと、禊ぎ祓えというのがでてきます。
禊ぎは「みそぎ」で「身(み)を削ぐ」ことです。禊ぎ祓えは古事記のクライマックスですからそう簡単には登れません。
「みをとる」と「みをそぐ」では同じ「み」について述べているのですが、向き合う方向が逆です。
「みを取ろう」として今まで考えてきたのに、「みを削ぐ」となります。各人の判断規範を持って、「杙」を持って、「鏡」を持って、努力するように駆り立てられていたのに、今度は削ぎ捨てろというのです。
わたしが言うのではありません。禊ぎ祓えの段落では、「投げ棄(う)つる」「投げ棄(う)つる」が連続して出てきます。さらにはそれだけでは充分でなく「滌(すす)ぎたまふ」「滌(すす)ぎたまふ」で、とうとう「洗ひたまふ」にまでなります。
こうして徹底して「みを削ぐ」のです。
そんな状態で文章を書けると思いますか。聞いたこと知っていること習ったこと大事に抱えている過去概念大量の知識などそんなものは捨てろ、思い付きも閃きも感情も意思も濯げ、残るのは何があるのか知りませんが、全部洗えということです。
「みを取る」話が「みを削ぐ」話になってしまい、どうなっているのだと、それぞれの立場からの文句が聞きたくなりました。
最近自分の書くことは、人にかまをかけることが多くなったようだ。
小粒納豆の食べ過ぎか。
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7・ちぎりとまぐわい
「と」。
「みと」の「と」。「みとのまぐわい」は、 「実を取る、間の食い合い」
主客双方に「み」があればその「み」同士に係わりができ作用反作用ができます。
一つは、自然なもので、物と物との自然な力の移動による作用反作用過程にあるもので、自然では主体側の「み」と客体側の「み」は「み」の属性によって物理的変化をします。
もう一つには意思の介入による変化作用反作用があり、人が考え行動すること、これが古事記のテーマです。「みを取る」です。
人は吾の眼が着くという意識の活動によって事が始まりますので、その活動相手実体が四つの次元世界、ウアオエ、の実体となり、それらに八つの意思の作用因、チイキミシリヒニ、のはたらきが加わるというのがこじきの主張です。
主体側には意図を持つ主観があり、その主観を言葉なり物なりの物象としてあらわすことになりますが、そこに主観だけがあって主体がなけれは主観はあらわれず、主体は動けません。意図(こころ)は主観と主体に剖判し、意図の内に主客の関係を作ります。
同様に、言葉なり物なりの物象は物としてあるだけで、自然の作用反作用の過程を辿るだけですが、物理現象として心の外側にあるのではなく、それらが主体内にあるという扱いを受ける時には事情が違います。みかんとか貴方とかいう物体を取る、「みを取る」のではなく、心の宇宙にある「みを取る」のです。
そこでは、主体側の「み」は主体の持つ主観、意思、意図、働き、いとなみ、等であらわされるいきさまのあらわれとなります。
相撲ならば相手のまわしを掴むことになりますが、まぐわいでは何を掴むのでしょうか。
まぐわいでは「「汝は右より廻り逢へ。我は左より廻り逢はむ」を掴みます。これは「左」と「右」で、「左・ひたり・霊足り」と「右・みきり・身切り」を示し、進行回転方向を指すものではありません。
次段の文章に「汝は右より廻り逢へ。我は左より廻り逢はむ」として出てきます。
「みと」というのは、「左」と「右」(「ひたり・霊足り」と「みきり・身切り」)の「み」を「と」るということです。何を意味しているかというと、客体を主体が選択することで、古事記冒頭の客体側ウアオエを、主体側のイ(チイキミシリヒニ)によって選択することです。
主導権は常に主体側にあり、意図なりいきさまとしてあるものを、実体とむすばれることによってあらわれてくるものを物象化することになります。
Aという働き・いきさまが相手側と結ばれることで、はたらき・いきさまは同じなのにあらわれが違ってでてきたり、また、同じ相手客体を選択したのにそこに結ばれたはたらき・いきさまは違っていたりしててきます。
これらはそれぞれの時処位の一致不一致、居間の出入りの仕方の違いによっておきます。
言葉の発生で説明すれば、「T」の同じ父韻が相手の母音と結ばれるとき、母音が変われば、TA・TI・TU・TE・TOになり、同じ母音が違ったはたらきである父韻と結ばれると、TA・KA・MA・HA・RA・NA・YA・SAとなるようなものです。
こうして八つの父韻が四つの母音のそれぞれの「マ」を行き来出入りして、意図を創造していくことを「間の食い合い・まぐわい」としました。
「と」は戸に通じて居間の戸になります。各戸によって各次元層は区切られています。
例えば、「み」は主客、自他共に同じ時処位の話でないと、あっちとそっちのすれ違いとなりますから、主体側は自分の意図(霊・働き・いきざま)に沿った「み」を提供し、客体側にその「み」に相当するものを、意図に沿ったものとして探し出すことになります。
主体側の始めの意図である「ウ」がア・ワに剖判して、働きと実体、いきさまとありさまに剖判します。机上のあるものを見る視覚の話にしますと、私は当初机上に「ウ」である何ものかを感じそれを見ようとします。
○そこで私は自分の全体的に感じている姿が何であるかをあらわすために、感じているものを実体的に得る方向と、主観的に得る方向とに剖判します。アの主体そのものを「ア・ワ」に剖判します。
というのも机上にあるものへの態度はいろいろで、何をどうするかが違い、ここではなんだろうと見て知りたいですが、一方机上には様々な物体があり感じられたもの、目標のものに行き当たらねばなりません。最初からあれは何だと知っているわけではないのです。日常生活では瞬間のできごとで、既に知っていることを口にするというだけのように見えますが、その成立過程を探っていますので、書き出すとこうして長くなっていきます。
言霊学を勉強している方はウがアワに剖判することは知ってますが、アが剖判することに首を傾げます。あるいは「ア」は「オ・エ」に剖判するのではないかととらえていますが、「ア」の主体の「働き」は自分の「体」お上に乗っているから主体と成れるのです。
古事記の言霊循環は前段は全て承る構造をいいますから、ウ<ア・ワに剖判した後の「ア」は、それを取り上げれば二循眼の始めの「ア」、つまり、循環上昇した後の「ア」・二順眼の「ア」という始めの「ウ」の位置を与えられているものです。
何か手品みたいな書き方ですが、階段を昇った上段は次の階段の下段になっています。その段も昇り始めと同様に剖判していくというものです。剖判はウ<ア・ワだけにあるのではありません。
○これがお分かりになれば、、客体側も剖判しないと主体の相手をできないということです。つまり客体の「ワ」は客体側の「ア・ワ」に剖判しているのです。
相手のまわしを掴もうとするとき、まわしは客体としてまずありますが、まわし自身がつかまれる働きを持つものとしていざなわれないと、掴んでもらえないのです。まわし側も主客に剖判してつかませるはたらきを主体側に与えています。
これによって主体側の働きは客体側のうけみの働きと結ばれ、主体側の実体側は客体の受け身の実体と結ばれ作用反作用が起きます。
ウはア・ワに剖判し、ア・ワそのものもア・ワに剖判し、その後につづくものも全部同じ構造をもっています。( ということは、どの時点においても蛭子、淡島の逸脱が可能であり、黄泉国への転落も可能になるということになります。次段では「女が先に言う」というかたちで伏線が張られています。)
いつまでたってもアワ島(淡島、淡路島)をどこかにある島、奇形の子の事として、ここだあそこだという考え方が止みません。二千年間そう理解させられてきたなどといっても、チンプンカンプンです。アワ島を創造するのは人間である事の原理規範なのです。
ですので「みを取る」の「み」は剖判した実体側の事で、主客共に自分の実体を提供し合い提供され合い(いざなぎ合い)主客の作用反作用を起こさせるというわけです。
ここで注意しなくてはならないのは、「う」は剖判して「ア・ワ」になりますが、「う」そのものは剖判しないという事です。
またまたインチキ手品みたいなことを言っているとされます。「ウ」が剖判するといっているのに「う」そのものは剖判しないという、矛盾も甚だしいと感じる事でしょう。
その回答の秘密は伊耶那岐の神にあるのですが、通常なら古事記の経過上では既に順番として、解説済みのところです。
わたしのこのブログでは、原文を細切れで取り上げていて、一貫性がないために、あちこっちにとふらふらして、迷惑をかけています。
そうならないためにも、わたしは一貫したものを書かねばならないようです。
8・ちぎりとまぐわい
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①【ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「然らば吾と汝と、この天之御柱を行き廻り逢ひて、美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)せむ」とのりたまひき。
「まぐわい」
前記の6・7・では、主客とはいっても単に主体が客体に働きかけるのではなく、主客がそれぞれ働きと実体に剖判しているそれぞれの相手に働きかける事を示しました。
その過程で始めの「う」はア・ワに剖判し、新しい現象としての「ウ」になります。ここにある新「ウ」そのものは剖判せず、あめつちの「つち(着いて地になる)」になります。
さて今回は「まぐわい(間の食い合い)」に移ります。
単に主体側が「喰う」ではなく、主客の双方が主体側の働きかけによって「食い合う」というところがミソです。
単純な視覚上の何があるのかなと物を見ることでも、自然な知覚現象というだけならば、見る側と見られる側の光学上視覚上の問題です。しかしここでは言霊学での見る心を扱っています。
見られる相手は主体側の態度で別々の様相を示すことになります。
つまり、ここでの物を見る行為をする主体側は見るという働きと、その働きを可能とする物象条件になっている実体とに剖判しています。
この剖判した主体が相手の次元世界に係わるとその次元での現象が生じます。その際主体側が欲望を満たしたくリンゴを食べたいのに、セザンヌのリンゴの絵を探し出してきても物の足しにはなりません。絵画のリンゴ側ではその芸術性を主張しているのに、主体側になんの素養もなければリンゴの絵は動かず単なる絵の具のリンゴというだけの状態になります。主体側には何もいざなわれるものが無いからです。
ここで客体側は四つの次元世界がありますからこれが四つの「ま(間)」となります。
この間・居間にはそれぞれの住人がいますが、それぞれの次元層にいるためにお互いに顔を合わせることがありません。
注意してもらいたいのは顔を合わせないというのは原理上のことで、日常普段では平気なでかい面して出入りをし自分を主張し、それで当たり前です。これは直ぐ後で「女人先に言える」の内容になっていきます。女人というのは受動客体実体側のウワヲヱの象徴です。
一方主体側にも働きかけの仕方の違いがあり、これには妹背の四通りで八種があります。同じリンゴを語っていても話が合わない等の現象を引き起こす大本です。
この両者の主体側の実体次元(ア)が客体側の実体次元(ワ)に、働きを通して何かその意図意思を仕掛けるわけです。
主体側はまず自分の意図に沿った次元世界を選び、それを相手側客体に自らの働きをもって結ばれようとします。主体側は自分の居場所の間を選び、相手とまぐわいする間を選びます。
相手側は主体をいざない、これはどうかこれではどうかと誘います(受動的に誘う、つまり誘われる)。ですので受動側もそれなりの実体の間を提供し、主体の働きの反応反作用を与える間を示すのです。
この交互作用を言霊学でまぐわい、間の食い合い、といいます。
多くの居間を尋ね各戸を開ける居間の食い合いという表徴になっていき、うまが合えば「みを取る」ことになります。男女間にも四十八手というのがあるとおり、その居間に出たり入ったりして相手内に意図を実現しようとするものです。
主体と客体への剖判をいきさま・はたらきとありさま・実体とします。
実体に関しては割りと話が通じますが、主体側の働きを話すのはとてもむずかしい。はたらきは実体の上に乗って目に見えないからです。
例えば机の上でリンゴを転がします。父韻というのはこの転がりを四つの陰陽で語ることになります。
一、転がるリンゴの直接性の全体の陰陽の視点。(ウ・ウ。チ・イ。)
二、転がるリンゴの過去から今になっている陰陽の視点。(オ・ヲ。キ・ミ。)
三、転がるリンゴの今から未来に向かう陰陽の視点。(エ・ヱ。シ・リ。)
四、転がるリンゴの様相の表層か中心に向かう陰陽の視点。(ア・ワ。ヒ・ニ。)
五、ここに意思が加わり、
0(れい)、ここにレイ(霊)の先天があります。
これが全ての人間の活動の原点となる原理で、一万年前からの古代大和の人類の遺産です。
それを伊勢は「柱」であらわし、古事記は「みとのまぐわい」と言葉であらわしました。
物象として表徴してしまうと物質では現しきれませんから、その穴埋めにあれこれあること無いこと思い付き閃きが加わって今に至っています。
「みと」・みを取ることにおいて、主体側の意図の主導のもとに、時処位を同じくすべく御柱を廻るということです。柱を廻るというのは、チキシヒの主体側の働きと、イミリニの実体側の反作用、左回り右廻りと述べたものです。
まぐわいは間の喰い合いで、主客の次元差、時間差、場所の違いを無くして共通の土俵に上がることをいいます。差を無くす、時処位を同じくするといいますが、差があれば話が食い違うし間合いが合わないわけです。
こう書くと時処位が合っても合わなくてもまぐわいはあるようですが、実際にすれ違いでそれぞれかってなことをして勝手な主張をすることはあります。というよりこの勝手きままないい加減な世界が重要なことです。
まぐわいでは主体側の主導していく意図だけがものを言い、創造するだけではありません。
「み」を取るまぐわいですから、「取る」主体の行為よりも、「み」の実体だけ取ることができます。女側が先に喋るということです。
最初に主体側の意図によって主体に「み」があって、客体側と同等の「み」が見つかるや否や、「み」は「み」で勝手に作用反作用によって、自らを主張していきます。さらにこれに黄泉の見解、科学(概念記憶知識)の意見が加わります。
「み」は客体物象側ですから、主体の意図によって呼び出されにもかかわらず、最初から自らを表現されたものと主張でき、あっと言う間に一般観念の世界ができるというわけです。
9・ちぎりとまぐわい
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「ち」
②【かく期(ちぎ)りて、すなはち詔りたまひしく、「汝は右より廻り逢へ。我は左より廻り逢はむ」とのりたまひて、約(ちぎ)り竟(を)へて廻りたまふ時に、
②ちぎり・→実をちぎる・
・左右・→霊足り、実切り。
ここで、まぐわいしようと「かく期(ちぎ)りて」、つづいて、左右に廻って「約(ちぎ)り竟(を)へて」と、二回続けて「ちぎり」がでてきます。
「ちぎるはこれからのことについて、こうしよう、と互いに言い固めること。」ですが、契りの実体内容とそのはたらきの両者をちぎる事になります。なぜならここでは、イザナギは「まぐわいしよう」と言いましたが「ちぎろう」とは言ったのではなく、イザナミが言ったのでもありません。
両者は「ちぎる」ようにしむけられています。「ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、」というように、先天の父韻側のちぎると母音側のちぎるです。
この「ちぎり」は「地切り」で「あめつち」の「ち」のことで、「ち」は吾の眼が付いて地に成るの「ち」で、実体世界を四つにち切ることです。主側活動の相手側です。
また「ちぎり」を千きりとすると、千の働きをもち、道をあらわす父韻側のはたらきをちぎることにもなります。
はたらきの「ちぎり」はギの主体側のイ(I)を八っつに「ちぎる」ことで、他の「ちぎり」は客体側から提供された実体次元世界を四つのどれかに「ちぎる」ことです。当然千切った後には結ばれなくてはなりません。
黄泉国(よもつくに)でも千(ち)引きの岩の「ち」がでてきます。またそれは、「その黄泉の坂に塞れる石は、道反(ちかへし)の大神ともいひ、塞へます黄泉戸(よみど)の大神ともいふ。」くらいすごい「ち」の石です。
ちぎるの「チ」が凄いのは千切るときに千切る前の全体を手中にしているからです。ありさまとしては四つの次元、いきさまとしては八つの働きを、つまり自己自身、人間の全体を手にしているということです。それを千切ってしまおうというのも、ちぎりによってできる創造現象を得るためです。(子の事を得るこじき、というわけですね。)
逆にいえば人は全体をそのまま創造できない、手にした全体をこれですと直接表示できないということです。ただ一つ可能なのは、全体概念として概念を用いた言語表現の方法をもっています。それが次に直ぐ来る話になっている、蛭子、淡島でその伏線が「女人先に言う」です。
このように現実の創造にはちぎって男が先に喋ることが必要になり、虚像の全体創造にはちぎって女が先に喋ることが必要になります。(後述)
いずれも、自分の高天原、心の世界内のことです。客体というのは自分の外にある誰か相手をいうのではなく、高天原心の世界にある相手側のことですのでお忘れなく。
わたしも時々はごちゃ混ぜにして客体を自分の外にある物質現象にして語ることがありますが、頭脳内の客体と外の物質界の客体とはそれほども近く傍にあって寄り添っているものです。(→宇比地邇の神・(言霊チ))
この四つの次元層をそれぞれ間とみて、さらに父韻は八つありますから、その八つの間も加わり、間の和の取り方で三十二の現象子音ができるという説明です。
さて、それにしても自分のこころの内の出来事なのに、「ちぎり約束」しなくてはならないものでしょうか。ちぎりは約束というイメージが強く、男女間のちぎりのような確かな物理行為とならない言葉のようです。もしかしたらそこに、眼の付けどころがあるのでしょうか。
「ちぎり約束」はまだ現実ではなく現象でもなく、それは「ちぎり」を実行して実現させなくてはなりません。相手に語るイメージを持つだけでは相手に聞いてもらう言葉ではありません。リンゴのイメージだけではその甘酸っぱさは分かりません。
つまりここには「ちぎる」はたらき行為に乗って、千切られるものの世界があるのです。
こうして「ちぎる」はたらきは自身を実現しようと現象化に向かいます。
ちぎりを細切れにイメージしたり、男女間のくっついたりするイメージにしたり、あるいはまた、古事記の謎々式に「ちぎる」をチ気流としたりすることもできます。
「ちぎる」、チ気流・宇比地邇の神・(言霊チ)の気が流布する。気が流布するの実体側が右廻り、はたらき側が左廻りです。
この線に沿って今回の原文を見てみましょう。
①【ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「然らば吾と汝と、この天之御柱を行き廻り逢ひて、美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)せむ」とのりたまひき。
②【かく期(ちぎ)りて、すなはち詔りたまひしく、「汝は右より廻り逢へ。我は左より廻り逢はむ」とのりたまひて、約(ちぎ)り竟(を)へて廻りたまふ時に、
②間の食い合いをして、
・ちぎり・→実をちぎり取る・
・左(ひたり)右(みきり)・→霊足り、実切り。
主客で約束する段階ではまだ行為現象はありません。ちぎるという意図はありますが、まだ現象でなければ主体側のちぎる意図は、ちぎりは、どこにあって、どうやって相手に伝えるのでしょうか。
リンゴが食べたいという意図は、主体側はどのように作ったのか、何故リンゴを選択しているのか不明です。蜜柑かもしれないし牛肉かもしれない。ここに言霊チの宇比地邇のこころの気が流れ廻っています。これはどこかの誰かがリンゴを見つけて食べてそれにリンゴという名を与えられて以来、何千年も前から流布されているのです。本日はたまたまわたしにすり寄ってきたのです。
主体側はちぎる以前には全世界の過去を持ちます。アクセス関係しようと思えば時間を飛び回れます。全世界の過去はそのように準備されています。過去など無いものですが、アクセスするやいなや今あるものとなります。
「みとる」と「ちぎる」を原理的に述べると、冒頭にある通り、今の「イ」の一瞬とは、下記の八つの統合されたものです。
宇比地邇(うひぢに)の神(言霊チ)の、今現在の全体が出現して、
次に妹須比智邇(いもすひぢに)の神(言霊イ)の、今-今の全体が持続していき、
次に角杙(つのぐひ)の神(言霊キ)の、持続に過去全体が生じて過去-今になり、
次に妹活杙(いくぐひ)の神(言霊ミ)の、過去に結びついてそれが過去-今のミになります。
ここまでなら今有るもの・有ったものを現出させることになりますが、よくみると、今有る有ったものは、これから現出するものとはなっていません。過去-未来への進行形がこれからできていくという形をまだとっていません。
今までの言葉を使うなら、「ミ」ができましたが、まだ「ト」るまでに至っていないのです。そこで、
次に意富斗能地(おほとのぢ)の神(言霊シ)の、今-未来の内向する方向と、
次に妹大斗乃弁(おほとのべ)の神(言霊リ)の、今-未来の外向する方向に選択し、
次に於母陀流(おもだる)の神(言霊ヒ)の、今の-全体の開く心情感情と、
次に妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神(言霊ニ)、今-全体の煮詰まる心情感情になります。
しかし主体側は彼一人だけで自分の意図はリンゴを食べることだと言うわけには行きません。というのもこの一巡目の段階では主体側にリンゴという言葉はまだないからです。さらに何か食べたいものがあちら側にあるというのでもありません。もしそうなら相手対象に気づいているからで、その時点で現象創造が起きています。
ここに主体内における言霊循環の一巡目の先天構造があります。
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( ここにも疑問が起きると思いますが、先天構造があるとするなら、その構造は客体側としてあり、客体側が先に有ることになるのか、主体側の働きかけはどこにいったのか、となります。
これは既に冒頭の十七神が理解できていれば、どちらが先かという問題にはならないのですが、理解できていないということではなく、理解できていても了解できていないからです。
つまり、上記した今の「イ」の一瞬とは八つの統合体であることを心情で納得できていないからです。
これは説明を超えた事で、了解して納得し、思い込んで、自明なものとして、感情として自分に身につけない限り、幾らでも繰り返されてきます。
要するに、冒頭十七の言霊循環、十七神とは「一神」のことと納得了解することです。)
(書き方が下手で、何を言っているのか分からないと思います。母音とか父韻とか次元とか主体とか客体とか循環とかが、無秩序に出てきます。要するに人の普通の思考が、古事記の言霊学を語るときにたまたまこうなってたということで、テーマが違えば同じように喋っているだけです。人はそのように天の御柱を自由に上下できるということで、皆と同じです。)
(これを脱するには各自が冒頭の十七神を了解納得して自由自在に運用できるようになることです。
つまりイの次元から自分を生かし始めていくことになりますが、それができれば、スメラミコトです。
スメラミコトが集まれば世界朝廷ができます。)
(こんな事が言える時代になりました。古代大和朝廷は世界朝廷としてよみがえります。
よみがえりの主体は、神とかキリストとか先進的な少数者とかでなく、過去に生きた全人類とその歴史、現代に生きている全人類とその歴史、これから生きていく全人類とその歴史です。
一言で言えば、あめつち・吾の眼が付いて地に成る、われわれのもっている意識です。)
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10・ちぎりとまぐわい
②【かく期(ちぎ)りて、すなはち詔りたまひしく、「汝は右より廻り逢へ。我は左より廻り逢はむ」とのりたまひて、約(ちぎ)り竟(を)へて廻りたまふ時に、
②ちぎり・→実をちぎる・
・左右・ひたりみきり→霊足り、実切り。
「ち」の凄いのは、実体側の全体を手中にしている事といいましたが、もう一方のはたらき側の凄さがあり、これによって世界の実践行動を決めて行きます。
ちぎりの「ち」が智慧の「ち」で、智慧によるちぎり、智慧の切り込みになることを見てみたい。まぐわいにも智慧は必要でしょう。(・・・なんか、智慧の無い書き方だな。)
智慧の特長は頓智の一休さんみたいにその場で間髪を容れずに出てきます。概念知識を扱う大人のぐうたら理性とかいうものでは処理しきれません。考えて出てくるものではありません。どこから出てくるものだといえば、不思議なことに人間の性能として備わっているものです。
今の一瞬が過去からきて未来へ行けるのは、今の一瞬の中に八つの動きを内包していて、それ自体に、過去-今-未来の流れを含んでいるからですが、その今-未来への内向と外向する方向を与えるのが「ち」の智慧です。
○
「ち」のはたらき側。
う<あ・わ。
今現在の「ち」は前段の「ち」をウの全体として、「ち」をウの位置に置き「ち」という全体がア・ワのはたらきの「チ」と・実体の「チ」に剖判します。ややこしい言い方ですが、ウ<ア・ワのウをチに置き換えるだけです。 (ただし「チ」の創造行為の過程のなかでのことなのに、それを実体として固定するのは精神意識の悪い癖ですから要注意。)
あ<オ・エ。 わ<ヲ・ヱ。
その各々に剖判した、はらきの「チ」と実体の「チ」は、
今度は、はたらきの「チ」は、過去-今の「(オの)チ」と今-未来の「(エの)チ」に剖判し、
実体の「チ」は、過去-今の「(ヲの)チ」と今-未来の「(ヱの)チ」に剖判します。
うあおえ。
以上を実体的に見ますと、うの「チ」、あの「チ」、わの「チ」、をの「チ」、おの「チ」、えの「チ」、ヱの「チ」の準備が整ったということです。こうして、「チ」の相手側客体が出揃い、「チ」に内包する主体自身の働きかける側の物理物象条件も整い、主客の相互作用反作用が可能になります。(ものとものとが相互作用するため。)
ちいきみしりひに。
そしてここにはたらきが乗り、主体と客体を結びます。主体側は自身の物象を動かし相手に向かい、客体側は自身の物象を開いて待ちます。
主体側は能動の「ちきしひ」ではたらきかけ、
客体側は受動の「いみりに」で受け入れます。
「ち」の八つの性格。 (この後で父母が結ばれて「ち」の現象へ。)
ち-い。「チ」の全体で能動、「イ」でそのまま持続。(今-今・ウの性格)
き-み。「キ」のこちらから行く能動。、「ミ」のあちらを来させる受動。(過去-今・オヲの性格)
し-り。「シ」の規範を中心へ収める能動、「リ」の規範を受け入れさせる。(今-未来・エヱの性格)
ひ-に。「ヒ」の表層に結ばれようとする能動、「ニ」の中核に煮詰まらす。(全体今・アワの性格)
「ち」のむすび。
こうして主体側の「ち」の性格が全部出揃い準備ができる。「ち」はそれ自体は「精神宇宙全体がそのまま現象発現に向って動き出す端緒の力動韻」ですが、それは結ばれ現象となったときにあらわれる成るものです。
「ち」の現象。
そこで最後に決定的な「い」の意思があって、父韻(はたらき・いきさま))と母音(実体・ありさま)が結ばれて子音(現象・なりさま)が出現します。
ち(・チイキミシリヒニ)はどこから来たか
「ち」そのものは実体側となってその上にあらわれますが、はたらきとしてはそれ自身では実在できません。「い」の意思が出来た時に意思のはたらきの一つで、「い」の剖判したもののあらわれとなっています。ですので「ち」も他の力動韻と根底で繋がっていますので、ころころと心が代わり変えることも出来るのです。
11・ちぎりとまぐわい
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
前回(10)の「ち」を十七神の原理に沿って真似してみました。その姿はさらに進んで「ち」の百神となって行きます。ということは「ち」ができれば他も同様です。
安万侶さんは原理を古事記として書いているので、私のやったようなことは書いていませんが、現代人の考えることなどすべて承知のはずですから、私の行き過ぎだなどということはありません。
そもそも言霊「ウ」の単音単位要素が百神に展開しているのですから、他の全ての言霊五十音も同様で、前回は「ち」を「ウ」の位置に置いたに過ぎません。そうしないと前承する螺旋上昇言霊循環をしません。
「ウ」がア・ワに剖判するというのは原理の表現としてもあり、同時に「う」の展開進行ですので、当然「ち」も「み」も「た」も「う」の位置にくれば剖判し百神となっていくのです。わたしも当初言霊学を学び始めたころは、「う」の剖判だけが頭にこびりついていました。全く、剖判するというはたらき側を見る目を無くされていました。参考までに。
後に、タトヨ・・・と続く子音も剖判に継ぐ剖判の歴史で、十七神構造の繰り返しですので、物指しみたいな一直線上にある切れ目とか目印があるではありません。
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①【ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「然らば吾と汝と、この天之御柱を行き廻り逢ひて、美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)せむ」とのりたまひき。
②【かく期(ちぎ)りて、すなはち詔りたまひしく、「汝は右より廻り逢へ。我は左より廻り逢はむ」とのりたまひて、約(ちぎ)り竟(を)へて廻りたまふ時に、
②ちぎり・→実をちぎる・
・左右・ひたりみきり→霊足り、実切り。
さて、ここに前承する螺旋上昇循環の一つの型があらわされています。
前段の【かく期(ちぎ)り】を受けて、【すなはち詔りたまひしく、】【「汝は右より廻り逢へ。我は左より廻り逢はむ」とのりたまひて、】と螺旋上昇して、後段の【約(ちぎ)り竟(を)へて廻りたまふ時に、】となって循環が完成します。
【期(ちぎ)り】が【約(ちぎ)り】に、下段が上段に、約束事が実際事になりました。前「う」が一巡して新たな「う」の位置についたのです。「う・す」の原型です。
ところが、古事記ではその結果は蛭子の誕生へと導かれることになります。実体を生んで、【言霊 ヲ 宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。次に 言霊 オ 天の常立(とこたち)の神 。】 を扱うことを説明するものです。
○ 今という八つの瞬間。( 馬鹿言うな。今という一瞬しかないのに八つの瞬間だなどと法螺吹くな。なるほど、確かにそういうことなのですが、古事記の原理を猿真似するとこういうことができてしまいます。お代は見てのお帰りだよ。)
今という球を転がしてください。動いています。
写真を取ると、大きな球が写っています。
宇比地邇(うひぢに)の神(言霊チ)の、今現在の全体が出現して、
次に妹須比智邇(いもすひぢに)の神(言霊イ)の、今-今の全体が持続していきます。
誰かが言いました。あっちからきて今目の前に在るのだ。
次に角杙(つのぐひ)の神(言霊キ)の、あっちにあった球の持続が今ここに生じて過去全体が目前にまで来て過去-今になったものだ。
次に妹活杙(いくぐひ)の神(言霊ミ)の、球が今ここに在るのは自分が認知了解しているから過去に結びついてそれが過去-今のミになったものだ。
ここまでなら今有るもの・有ったものを現出させることになりますが、よくみると、今有る有ったものは、これから現出するものとはなっていません。過去-未来への進行形がこれからできていくという形をまだとっていません。
今までの言葉を使うなら、「みとる」の「ミ」ができましたが、まだ「ト」るまでに至っていないのです。そこで、写真見ている他の人は言いました。
次に意富斗能地(おほとのぢ)の神(言霊シ)の、ここまで来た球はここから停止に向かい、今-未来の内向する方向へ向かうのだ。もう一人は言いました。
次に妹大斗乃弁(おほとのべ)の神(言霊リ)の、ここまで来た球はこれからあっちの方を目指して、今-未来の外向する方向に行くのだ。
また別の人は言いました。
次に於母陀流(おもだる)の神(言霊ヒ)の、この球は躍動感の在る、今の-全体の開く心情感情が得られると。いや、
次に妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神(言霊ニ)、この球は動きの無い、今-全体の煮詰まる心情感情を持つようになる。
そこで伊耶那岐の大神が言いました。動きを静止で語ることはわたしにも出来ないね、全部一つに丸めて投げてくれないか。
○ 「ち」の今の全体が動きの中にある時には、過去-今-未来方向を取り、それ自身の動くはたらきと、ありさまを示す実体に結ばれる方向とに剖判します。
後半四神。はたらき側は自分に内向する方向と外向する方向が出来て、実体側ははたらきの終端表層で自らを開こうとする方向と、自らの内部に煮詰まり固まろうとする方向をとります。
○ 「ち」はこれらの今-未来の四つの方向のどれかを選択して自らを現すわけですが、「ち」のはたらき動きに過ぎませんから自身の実体を示すことができません。
そこで「ち」自身ははたらきと実体側に剖判して、自分のはたらきを自分の実体にのせます。これが主体側となります。前半四神。
○ ところが相手のいない主体とは一人相撲とか球も飛んでこないのにバットを振るものですから三振アウトです。この相手側が客体です。
○ ところがこの客体側にも問題があって、客体はものとして在るだけの木偶の坊です。廻しを付けるとか球を投げるとかして相手をさそいいざなわないと自分を構ってもらえません。そこで客体側も受動のはたらきと受動実体とに剖判して主体を待ちます。
○ ところが、こうしてあっち側とこっち側がそれぞれ用意を整えますが、両者が出会いまぐわえる力動因子がなければ、動くぞ行くぞ早く来いと言い合うだけで、両者が結ばれることは成りません。双方に要素条件が整っても働きかけがありません。
○ ここで意思の力動因子のイザナギがイザ出陣じゃとでてきます。
○ ところが、出陣したのはいいのですが、イザというのははたらきかけ全般ですから相手の顔を見ての事ではありません。どこにいくのか知らなければ話になりません。そこで「ち」の選択が出てきます。「ちきり」
○ こうした「ち」の選択はもともと瞬時に実行されるものとなっていて、相手を選択していきます。相手は四つの次元世界のどれかですが、どうしても結びつかないと主体側は自分を実現できません。「間の食い合い・まぐわい」。こうして現象(子事記の子)を得ます。
○ しかしまだ子(現象)を生んだのではありません。
○ 子現象を得る工程は、主体側による左回り、霊(ひ)足り廻り、客体側による右廻り、ミ切り廻り、となります。
柱を左右に廻りますと向こう側で出会ってしまいます。柱の影でコソコソ始めることになるわけですが、その後どうなるかというと柱そのものとして出てきます。出会い前の先天の柱が後天現象の柱(子音、後天現象等)となります。
次回に。
予定。
主体側による左回り、霊(ひ)足り廻り、
チキシヒの先天実体を伴った、霊(ひ)足り廻り、
客体側による右廻り、ミ(実体)切り廻り、
イミリニの先天実体を伴った、ミ(実体)切り廻り、
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12・ちぎりとまぐわい
まぐわいという一つの行為を主客の分担で、
「汝は右より廻り逢へ。我は左より廻り逢はむ」と、分別されたところからみないこと。
まぐわいという一つの行為の中で、
ギのミコト・主体側による左回り、霊(ひ)足り廻り、チキシヒを受け持ち分担し、能動側と、
ミのミコト・ 客体側による右廻り、ミ(実体)切り廻り、 イミリニを受け持ち分担し、受動側になります。
○ まぐわいを男と女のそれぞれ別々の行為と見ないで一つの行為として見てください。
そうすると合体をしている姿を全体的に動かす天上から見ている力動因があることに気付くでしょう。そうしたら左とか右だとかの方向を示す言葉にこだわらないでください。
○ 上から見てると合体を主導する側と受動する側が見えます。キーを叩いている場合でも上から見れば、叩いているわたしという主体と叩かれるキーボードという客体との合致がよく見えると思います。そこには左右はありません。その替わりに叩く方のわたしは「霊(ひ)足り」、叩かれるキーボードは「ミ(実体)切り」がある、といわれると何か通じるものが感じられることと思います。
○ 自分は主体だから主体側から出発するのだとすると、フトマニ言霊学に反します。前承する上昇螺旋循環です。前承するもの、先天構造を忘れないでください。主体が活動を始める前に主体がなければならないし、相手もいなければならないでしょう。
○ そこで、自分が出てくるのに自分がいると主体自身の出現が保障されなければなりません。淤能碁呂(おのごろ)島で「ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、」と、ここにいる主体に依頼があったことから始まっていました。
つまり、まぐわいでは、まぐわいしに相手側にいくことから始まるのではなく、自分のありさまを提示することからはじまります。
○ それが、霊(ひ)足りで、わたしはここに活動力をもって出現したということで、その内容は、チキシヒだということになります。
まずは、「ちきしひ」全体を含む「う」の位置にいる「ち」としてあらわれ、次いで、ち・き・し・ひに選択されます。
○ ですので説明上は「ち」がダブっているようにみえますが、最初の「ち」と循環した後の「ち」を同じ表記の平仮名で書いただけです。原文では、「期(ちぎ)り」と「約(ちぎ)り」で、こうした判別には便利な漢字ですが、逆にそうした実体判断の穴に落ち込んでいきます(つまり黄泉の国で生きるということになります。)。
○ 「ち」は下記の全体として出現してきます。→「ち」です。(始めの「ウ」のち)
その後下記を一巡して、主客の準備の運用が確認できたところで、「ち」なら「ち」、「き」なら「き」の選択が起きます。(「チ」となったち)
イザナギ側。
○ 能動主体の出現・ち。
○ 能動主体の出現・き。
○ 能動主体の出現・し。
○ 能動主体の出現・ひ。
イザナミ側。
○ 受動主体の出現・い。
○ 受動主体の出現・み。
○ 受動主体の出現・り。
○ 受動主体の出現・に。
(注意。主体と客体というだけでは、はたらき・動き・いとなみ・いきさまの無い実体物、物と物との結びの作用反作用しかないようにみられますので、主体-客体にもいきさま・はたらきがあるということを示すために、こう書きました。主体-客体の意味内容が了解されていれば、こんなややこしい書き方をしなくてもいいものです。)
(ついでに。親切な説明について。
説明は相手側が理解し、了解して、行動の指針となればいいものですが、行動の指針にならない理解だけが求められている場合には、記事の内容とは関係なく、知ればいいだけのことです。知って満足して「あっそういうこと」で流れ去っていきます。
ですので優しく上手に解説して理解されても、内容を理解したのではなく、知的に満足しただけです。幾ら上手に解説しても、あるいは下手であろうと内容の理解と知的な満足を得ることとは別のことです。
実際に、安万侶さんは古事記の上巻を神代の形にしたこういった書き方をしていて、当時のスメラミコトに了解されているし、千数百年後になってもそのままの形で島田正路氏によって内容は解読されています。幾ら分かりやすく解説しても分からない人は分からないし、分かったと言ったところで分かった範囲を自分内に留め置くし、それなりに満足するかしないかの差です。千年以上間違っていても大いに満足して信じることも出来るわけです。
安万侶さんの書き方で、分かる人がいるのですから、それ以上はごちゃごちゃ付け加えるなと彼は言っているかもしれません。われわれとしては、それはないよ少しは知りたいよ、というところです。
しかし、彼はさらに言うでしょう。「スメラミコトの学問を知ってどうするのか」。
わたしは、「チンモク」。
でも書けば書くほど指針が出て来るように思えています。とはいってもわたしだけのことですが。)
「ちきしひ」の解説は、どこにもありません。あっても分からないようになっています。
以下二つ引用。
汝は右より廻り逢へ、我は左より廻り逢わむ
伊耶那美の命は女性で「身切り」より廻り、伊耶那岐の命は男性で「霊足り」より廻り、その女陰と男根、成り合はぬ所と成り余れる所を交合することによって現象子音言霊が生れます。その際、岐の命は八父韻の中のチキシヒの四韻を、美の命はイミリニの四韻を分担する事となります。
この場合は天の御柱と国の御柱が一つになった立場で物申されておりますので、岐美の両命は一つの行為をすることになります。その場合二命は天の御柱を廻る一つの行為の八つの父韻を双方で受け持つこととなります(図参照)。そうなりますと、夫である岐の命は八父韻の陽韻であるチキヒシの四韻を、妻である美の命は陰韻であるイミニリの四韻を受け持つこととなります。美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)とは今で謂う結婚のことです。日本書紀には「遘合爲夫婦(みとのまぐはひ)」「交(とつぎ)の道」とあります。遘合は交合のこと、夫婦のまじわりのことです。交(とつぎ)とは十作(とつぎ)で、イ・チキシヒミリイニ・ヰの創造行為を表わします。「右(みぎ)」とは「身切(みき)り」で陰、「左(ひだり)」は霊足(ひた)りで陽を表わします。
以上これだけが島田氏の解説です。
「左(ひだり)」は霊足(ひた)り、「右(みぎ)」とは「身切(みき)り」と言葉の解説は分かりますが、実際の内容は何かは明かされていません。
内容を明かさないのは、わたしたちに解説してもどうせ分からないからでしょう。わたしたちが分かったといってもどうせ知的に理解しただけのことだからでしょう。言霊学の求める運用の水準にわたしたちは達していないからでしょう。