豊雲野(とよくもの)の神
「次に成りませる神の名は、国(くに)の常立(とこたち)の神。次に豊雲野(とよくもの)の神。この二柱の神も、独神に成りまして、身を隠したまひき。」
国の常立の神、言霊エであります。国家・社会が恒常に(常)成立する根源宇宙(神)という事です。天の常立の神が「大自然を恒常に成立させる根源宇宙」であるならば、国の常立の神は国家・社会を恒常に成立させる宇宙ということが出来ましょう。次の豊雲野の神は言霊ヱであります。言霊エは選ぶ、で道徳・政治行動の主体を意味します。
それに対して言霊ヱの豊雲野の神は道徳や政治活動で打ち立てられた法律とか、道徳律に当たるものであります。豊雲野の神という言霊ヱを指示する指月の指の意味は何なのでしょうか。それは後程明らかにされますが、ここでは簡単に触れておきましょう。豊雲野の豊(とよ)は十四(とよ)の意です。人の心の先天構造を表わす基本数は十四で表します。雲は組の呪示です。野とは分野・領域のこと。豊雲野の全部で先天構造の基本数、十四個の言霊を組むことによって打立てられた道徳律の領域である宇宙、ということになります。道徳律とは道徳の基本原理に則って、「こうしてはいけない、こうせよ」という教えのこと。
言霊エのエの音に漢字を当てはめると、選(え)らぶ、が最も適当でしょう。
豊 → 十四(トヨ)個の言霊アイエオウ・ワ・チキミヒリニイシ/心の先天構造を構成する言霊数17言霊の中の代表言霊 → 演繹法数霊8+帰納法数霊6=14/東洋哲学と西洋思考を唯一統轄出来る世界で唯一の思考原理を持つ
言霊ヱのヱには絵(え)、慧(え)が最適でありましょうか。
何もない広い宇宙の一点に意識の芽とも言うべきものが芽を出します。言霊ウであり、また今・此処であります。次の瞬間、これは何かの心が加わると、言霊ウの宇宙は言霊アとワの主体と客体の宇宙に剖判します。私と貴方の立場に分かれます。更に意識が進展しますと、言霊アの宇宙は言霊オとエに、言霊ワの宇宙は言霊ヲとヱの宇宙へと剖判します。主体(ア)と客体(ワ)に分かれて、更に「これは何か」の心が加わると、アの主体からは今眼前にあるものと同じ経験をした事があるか、の言霊オ、さらには眼前のものをどう処理したらよいか、の将来への選択の言霊エに剖判します。次に客体の言霊ワから、経験知の蓄積である言霊ヲの宇宙と、それをどうまとめて将来に資するか、の参考となる道徳の教えの領域の宇宙言霊ヱとが剖判して来ます。上図に示します。
図に示されますように、これまでで四つ角母音宇宙が出現しました。そこでこの四個の宇宙からそれぞれ如何なる人間の性能が発現されて来るか、を確めておきましょう。
言霊ウの宇宙(先に発現時では何か分からないが、人間の意識の芽ともいわれるもの、と説明されましたが)、宇宙剖判が進展して行きますと、人間の五官感覚に基づく欲望性能が発現して来ます。そしてこの欲望性能は社会的には産業・経済活動となって行きます。
言霊アの宇宙からは、人間の感情性能が発現します。この性能は社会的に芸術・宗教活動に発展します。
言霊オの宇宙からは人間の経験知が発現します。経験知とは体験したものを、後で振り返り、記憶を思い起こして、想起した複数の経験の間の関係を調べる性能です。この性能が発展して社会的に所謂科学研究となります。
言霊エの宇宙から発現して来る現象は個人的には物事を円満に処理する実践智であり、これが発展して社会的になったものが一般に政治活動であり、道徳活動であります。ここで言霊オの経験知と言霊エの実践智とは全く違ったものである事にご注目下さい。
ここで、先に読者の皆様に研究課題として残しておきましたウ→アとワの宇宙剖判について説明申し上げることにしましょう。何もない宇宙の中に何か知れないけれど、意識の芽とでも言ったものが発現します。宇宙剖判が更に進みますと、言い換えますと、その芽に何かの意識が動きますと、その芽である言霊ウから瞬時に言霊ア・ワ、すなわち主体と客体となる宇宙が剖判し、現われます。主客の二つに分かれなければ、そのものが何であるか、は永遠に分かることはありません。そこで分かろうとすると、宇宙は更に剖判して、言霊オ・ヲが発現します。言霊オ・ヲは記憶であります。眼前にあるものが何であるか、は想起した記憶と照合されて、これは何々だと断定されます。
この時、人間の思惟は二つの方向に分かれます。この物事が何々だ、と断定された時、その断定された事物と主体である自分との対立という事態から思考が開始されますと、言霊オの領域に属する思考となります。この思考形体を図示しますと、 の哲学でいう弁証的思考です。物事をすべて自分の外に見て考える思考です。これに対し、もう一つは、ウ→アとワさらにエとオ・ヱとヲと宇宙剖判を承知した上で、その進展の先に物事を解決しようとする思考です。この思考は言霊エの領域の思考です。その形式を図示しますと、 となります。言霊オの思考の数霊(かずたま)は三または六であり、言霊エの思考の数霊は四または八であると申せましょう。この事は講座が進むに従って更に詳しく解説申上げます。
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【 07 言霊 ヱ 豊雲野(とよくも)の神】 の心の言(こと)と霊(たま)
【言霊 ヱ を示す神名】
豊雲野(とよくも)の神
【言霊 ヱ を示す神名の解説】
豊 = 豊(とよ)は十四(とよ)の意です。人の心の先天構造を表わす基本数は十四で表します。
雲 = 雲は組の呪示です。
野 = 野とは分野・領域のこと。
豊雲野の全部で先天構造の基本数、十四個の言霊を組むことによって打立てられた道徳律の領域である宇宙、ということになります。十四を組む分野の実体。
【当て字の漢字】
言霊エのエの音に漢字を当てはめると、選(え)らぶ、が最も適当でしょう。言霊ヱのヱには絵(え)、慧(え)が最適でありましょうか。
【言霊 ヱ のこころの内容】 この項目引用のみ。
今までの心の先天構造を構成する言霊として現出したものは言霊ウアワオヲエヱであります。これ等の言霊の中で主体側に属するものは(ウ)アオエであり、客体側に属するものは(ウ)ワヲヱとなります。言霊ウは一者であり、主体でも客体でもないもの、或いは主体ともなり、客体ともなるものです。この様に分別しますと、まだ出て来てはいませんが、言霊イとヰも同様に区別されます。
すると主体側として母音ウアオエイ、客体側として半母音ウワヲヱヰの各五個が挙げられます。主体であるアと客体であるワが感応同交して現象子音を生むということは既に説明しました。更にまだ現れてはいませんが、この次の説明として出て来ます主と客を結ぶ人間の心のリズムである八つの父韻というものがあるのですが、豊雲野の神の「雲」が示す「組む」という働きが実際には主体である母音と客体である半母音を結び組むことを意味しているという事、また母音五、半母音五の中で、半母音五を言霊ワの一音で代表させますと母音と半母音は六、それを結び組む八つの父韻八、六と八で合計十四となります。
まだ説明していない言霊の要素を先取りしてお話申上げておりますので、読者にはよくお分りにならないかも知れません。これについては言霊エ・ヱの次に出て来ます言霊父韻と言霊イ・ヰの項で詳しく説明させて頂きますが、「豊」の字の示す十四とは、右に示しました母音五、半母音一、それに八父韻合計十四数のことなのであります。
これを先天構造の言霊数十七の中の基本数を表わす数としています。人間の実践智の性能とは結局はこの十四の言霊をどの様に組むか、の性能の事なのであります。これは言霊学の基本となる法則であり、豊の字は日本国の古代名である豊葦原水穂国にも使われております。
人は何か対処し、処理すべき事態に遭遇した時、先ずその事態が如何なる原因によって起ったのか、を調べます。この調査は経験知によって行われます。今まで過去に起った同じ現象と比べて、今回の事態が過去と同じか、違いがあるとすれば、それは何か、を調べます。以前起った現象と様相が全く同じであるなら、その以前に経験した対処法をそのまま採用すればよい事となります。この場合、経験知がそのまま実践智となり得ます。問題は起りません。
けれど今度の事態が過去に似た事例を見ない出来事だったり、似た事例があったとしても、その他未知の要素が含まれているような出来事であったりした場合、経験した知識だけでは判断出来なくなります。この時、実践智という人間の性能が浮かび上がります。言霊エの実践智とは、言霊ウの欲望、言霊オの経験知、言霊アの感情の各人間性能をどの様に按梅して物事に対処したらよいか、を決定する智恵なのであります。この智恵も経験知と同様人間に生れた時から授かっている生来の性能なのです。
【眼をつぶって言霊 ヱ の自省】
武道や芸術創造には目標を実現する為の訓練はありません。
敵がこう攻めてくるからそのためにこうするなんていっていたら、実際の対応ができません。芸術創造においてもこういう目標に沿ってこうしたから作品が出来るのなら、その都度作品の方から問いかけられる自分の成長はありません。
宗教においての神との対話、悟りも幾ら目標を立て努力したところで実行できるものではありません。
普通に立てられる、行為と目標とは単なる既得概念の再確認とか再獲得をめざすものです。行ったことない未来、言ったことのない言葉、見たことのない景色には対応できません。
ところが人生の実践行為は一瞬一瞬が予測できない不慮の計画外の始めての要素に対応することです。幸い事故も起こさず処理できる範囲内でのことで済みますが、その場合でも目標を持っていたとか予定、目的行為の範囲内であったということはないといってもいいくらいです。
要するに知的に設定された目標に対するものではなく、一瞬一瞬に変化し方向の分からない事態に対応していくものです。簡単な会話においても同様です。なにも落語のアドリブだけが専売特許ではありません。この常なる選択に応じているのが心の実在である言霊エ-ヱの領域です。
いつどこでも対応できるのが心の凄いところで、平凡でもあり、普段なにも考えもしないところです。この対応範囲というのが豊雲野の豊・十四・ということです。わたしたちにはこの豊が人間として、国名として、豊葦原水穂国、与えられているのです。豊かになる繁る穀物とか葦原とかではありません。
【言霊 ヱ の先天 / 後天/ 現象での分類】
頭で分かり聞いただけで分かるのは学識の知識ですが、行為と共に分かるのは選択の智恵です。経験で分かるのは記憶の知識で、行為して分かるのは主体の智恵です。考えて分かるのは概念知識で、思って分かるのは才智です。考えてでてくるのは自分だけの真実ですが、思ってでてくるのは自他の真実です。
【言霊 ヲ 】 の霊、心、気、主体側 / 体、言葉、身、音、言、客体側での分類
行為を主体側から見て言うと、ウの次元の欲望行為、オの次元の知識行為、アの次元の感情行為、エの次元の選択行為になる。
それら主体側の行為がでて来る元の世界が同様に、ウ次元の欲望行為の元の世界、ヲ次元の知識行為の元の世界、ワ次元の感情行為の元の世界、ヱ次元の選択行為の元の世界となる。
今までの心の先天構造を構成する言霊として現出したものは言霊ウアワオヲエヱであります。これ等の言霊の中で主体側に属するものは(ウ)アオエであり、客体側に属するものは(ウ)ワヲヱとなります。言霊ウは一者であり、主体でも客体でもないもの、或いは主体ともなり、客体ともなるものです。
ここに意志による創造行為(言霊イヰ)が加わり主体側(母音側)から客体側(半母音側)への働きかけができてきて創造行為が実現していきます。この働きかけ方がTKMHRNYSk の子音頭となって現れて、各母音行と結ばれます。
母音がウオアエイ(5)でそれが結ばれる相手半母音をワ(輪、和)で代表させ(1)、その間を結んで豊雲野の雲(くむ)、組む働き(8)を加えると14(十四、とよ、豊)になります。
人の精神はここからでてきて心となっていきます。豊というのは心の元のことで、心理学とか潜在意識とか精神学、精神世界とかでいろいろといわれますが、元の元をただすとこれ以外にはありません。この形を図示すると両端に母音半母音の柱が立ちそこに橋が架かる形、あるいは鳥居になります。(原始の一番古い鳥居を見てください。)
【五十音図上での位置】
主体の発動はそれぞれの次元のそれぞれの行為を現していきます。
五感感覚の欲望次元では欲望ウ次元での行為、今ある生きている欲望に支配されていてそれを得るための欲望です。
経験知識記憶概念の次元では知識次元での行為、経験知は既に過ぎ去った現象、または現象と現象同志を想起して来て、そこに起る現象の法則、または現象間の関連法則を調べることによって得られる知識です。
感情芸術宗教の次元では感情行為、今起こっている感情の現象をそのまま保持しようとする感情です。
祀りごと政治道徳の次元では実践智恵の行為、実践智とは今起っている現象に対し、如何に対処し、新しい事態に創造して行くか、の智恵のことです。
とそれぞれ異次元の行為があります。
そして最後に上記の四つの次元を発動に誘う意思の次元での行為です。
客体の受動はそれぞれの次元のそれぞれの規範約束事を現していきます。
五感感覚の欲望次元では欲望ウ次元での欲望満足させるという規範、
経験知識記憶概念の次元では知識次オ元での知識を検討し獲得するという規範行為、
感情芸術宗教の次元では感情ア次元での感情を保持する規範、、
祀りごと政治道徳の次元では実践智恵エ次元での道徳規範、
とそれぞれ異次元の規範があります。
そして最後に上記の四つの次元を発動に誘う意思のイ次元での意思の規範です。
豊雲野(とよくも)の神(言霊ヲ)は十四を組む野原の意味ですから今までにでてきた言霊領域をくむ(雲)実体のことを指します。と言っても言霊ウアワオヲエヱしか出ていません。
戸四組む、父韻(イ段十個)の働きを四つで、組む・十を四に組む。
伊予の二名(ふたな)の島を生みたまひき。この島は身一つにして面四つあり。面ごとに名あり。かれ伊予の国を愛比売(えひめ)といひ、讃岐の国を飯依比古(いいよりひこ)といひ、粟(あわ)の国を、大宜都比売(おほげつひめ)といひ、土左(とさ)の国を建依別(たけよりわけ)といふ。
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【島生みで示される言霊 ● の心の領域】
隠岐の三子島というこころの締まり。またの名は天の忍許呂別(おしころわけ)。
【言霊 ● の前後と造化三神(ウ<ア・ワ)構造】
●人間の思惟が加わりますと瞬間的に
【言霊 ● の言霊循環(百神)上での位置】
【古事記神代の巻での位置】
【 言霊 ● ということ 】
【言霊●の言語宇宙論での位置】
【言霊 ヱ の存在論での位置】
【言霊 ヱ の悟りでの位置】
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精神元素「ヱ」の言霊と古事記。その1。
古事記神代の巻冒頭百神によって与えられた「ヱ」の神名・
豊雲野(とよくも)の神。 言霊ヱ
・神名の解。
豊(十四〈とよ〉)を雲(組〈く〉む)野(領域・分野)の神(実体)といった意味であります。
・神名全体の意味。
今までの心の先天構造を構成する言霊として現出したものは言霊ウアワオヲエヱであります。これ等の言霊の中で主体側に属するものは(ウ)アオエであり、客体側に属するものは(ウ)ワヲヱとなります。
言霊ウは一者であり、主体でも客体でもないもの、或いは主体ともなり、客体ともなるものです。この様に分別しますと、まだ出て来てはいませんが、言霊イとヰも同様に区別されます。
すると主体側として母音ウアオエイ、客体側として半母音ウワヲヱヰの各五個が挙げられます。主体であるアと客体であるワが感応同交して現象子音を生むということは既に説明しました。更にまだ現れてはいませんが、この次の説明として出て来ます主と客を結ぶ人間の心のリズムである八つの父韻というものがあるのですが、
豊雲野の神の「雲」が示す「組む」という働きが実際には主体である母音と客体である半母音を結び組むことを意味しているという事、
また母音五、半母音五の中で、半母音五を言霊ワの一音で代表させますと母音と半母音は六、それを結び組む八つの父韻八、六と八で合計十四となります。まだ説明していない言霊の要素を先取りしてお話申上げておりますので、読者にはよくお分りにならないかも知れません。
「豊」の字の示す十四とは、右に示しました母音五、半母音一、それに八父韻合計十四数のことなのであります。これを先天構造の言霊数十七の中の基本数を表わす数としています。人間の実践智の性能とは結局はこの十四の言霊をどの様に組むか、の性能の事なのであります。これは言霊学の基本となる法則であり、豊の字は日本国の古代名である豊葦原水穂国にも使われております。
・言霊「ヱ」の意味。
国の常立の神・言霊エが人間の物事を創造して行く実践的・主体的行為の働きであるのに対し、豊雲野の神・言霊ヱは実践的智恵によって創造された各種の道徳並びにその規範に当ると言うことが出来ます。
言霊エ・ヱの道徳実践の性能は他の人間性能に依存せず、独立しており、また先天活動として実際に現象として現れることがありません。「独神に成りまして、身を隠したまひき」となる訳であります。
言霊オの経験知と言霊エの実践智とは現在同じように思われています。けれど全く次元を異にする違ったものなのです。経験知は既に過ぎ去った現象、または現象と現象同志を想起して来て、そこに起る現象の法則、または現象間の関連法則を調べることによって得られる知識です。
実践智とは今起っている現象に対し、如何に対処し、新しい事態に創造して行くか、の智恵のことです。両者には大きな相違があります。
人は何か対処し、処理すべき事態に遭遇した時、先ずその事態が如何なる原因によって起ったのか、を調べます。この調査は経験知によって行われます。今まで過去に起った同じ現象と比べて、今回の事態が過去と同じか、違いがあるとすれば、それは何か、を調べます。以前起った現象と様相が全く同じであるなら、その以前に経験した対処法をそのまま採用すればよい事となります。この場合、経験知がそのまま実践智となり得ます。問題は起りません。
けれど今度の事態が過去に似た事例を見ない出来事だったり、似た事例があったとしても、その他未知の要素が含まれているような出来事であったりした場合、経験した知識だけでは判断出来なくなります。この時、実践智という人間の性能が浮かび上がります。言霊エの実践智とは、言霊ウの欲望、言霊オの経験知、言霊アの感情の各人間性能をどの様に按梅して物事に対処したらよいか、を決定する智恵なのであります。この智恵も経験知と同様人間に生れた時から授かっている生来の性能なのです。
---引用と感想-------
『感情移入で質問した人の心と同じになれる。アという境地を知っているお坊さんならですよ。分かろうとして来る人は、バナナの叩き売りじゃないですけど、こんなもんでどうだ、みたいなことを言う、これはまだまだだなって分かる。』
バナナの叩き売りとは上手いことを言いますね。全くその通りの水準です。ついでに言えば、ブログを見に来る人はバナナの叩き買いというところでしょうか。わたしも他の仇ブログへ行きますが、バナナの叩き買いのために行く様なものですね。ブログに限らず2チャンとか新聞記事とか各種解説などは全て叩き売りと叩き買いで成り立っているわけですね。この感想文章からして「こんなもんでどうだ」ですからね。本当にエの言霊次元は難しい。
『その人に次元の違うことを言えば嗜(たしな)めてしまうことになりましょ?分からなくなってから出直しなさいというのも変な話でしょう。分からなくなってしまったの絶望の心なら直ぐ分かるはずです。人間はそういう風に造られている。』
結局その人があるいは自分がその次元を超えなければどうにもならないということですか。考え悩んで出て来るのは同じ次元の言葉だけですからね。多少は色が着きまたその分だけ愛着も余計にくっついて来ることにもなる。そうなるとグルグル廻りが始まる。
「分からなくなってから出直し」てこいとなるわけです。
そこで、元に戻るか、絶望するかどちらかだというわけですが、ここがさっぱり?。
『苦しくってもがいている世の中にいても、そこから抜け出すことはもっと苦しいと思いこむ、それこそ煩悩のなせる仕業ということ。泣き叫ぶほどおっかないそうです。人前でおいおい泣きながら「あなたにはこの苦しみが分からないでしょう、今までの人生から離れるということが」と訴える。』
自分の力で出来るものか、他力になるのか。どんな切っ掛け、どんなチャンスとめぐり会えるのか。
全滅して絶望しても「絶望の心なら直ぐ分かるはず」、そこまで突き放さなければならないのか。がつがつの犬に食事はフォークとナイフでするものですよという様なもので、おあずけを言い渡すようなものだ。
『それほどに今までの人生が楽しかったのか、死にたいくらいの絶望の淵にいても、過ぎてしまえば思い出になってしまう。恵まれた環境にいることが当たり前で努力することもない、だから感謝することもない。
どれほど自分が感謝という光から遠のいているか、それだけのこと。どんなに苦しくても、どん底に堕ちたとしても、安穏浄土があって、皆で仲良く暮らせるとしたら、その苦しみは苦ではなくなる。』
犬ならば犬の逆襲が始まる。絶望から解決が出て来る。どうしたらいいのか、過去経験など捜してはいられない、新しい知識で現状の分析をしたってフォークとナイフで食事ができるわけではない。
人間なら、何時までも何故と疑問を持ち、解いていこうしても、また疑問が解決したとしても一歩も行為を始めたわけではない。
何故苦しいのか、何故絶望しているのか、何故死にたいのか、何故豊雲野の神は言霊ヱなのか、何故ブログを読むのか、何故生きるのか、何故考えるのか、何故就職出来ないのか、そしてとうとう何故、何故なのか、になる。
『ここが居場所とするなら、何を言ったところで一歩も出ようとしない。自分から求めない限りは。自分から出ようとするなら何時でも何処でも出来る、もともと心は自由なんです。』
「何故」と付き合っている限り、牛の尾尻から逃れられないし、得られるものは知識と新しい知識を得た満足だけ。そこから科学、宇宙、ミクロの世界に旅立つのもいいでしょう。苦しみ絶望の原因を見つけるのもいいでしょう。しかしそこから一歩なりとも心の決定が出て来るものではありません。
『さて、わたしはどうしようかな』
生きる理由が見つからなく苦しく絶望している。
でも四六時中そんな状態でもない。大小便もするし、顔も歯も磨く、食事をすれば皿を洗い手を拭く、寝てる間はよだれまでたらしている、そんな中での絶望なんて時間にして何分もあるか無いのこと。
ほとんどは余韻、何時までもあるという思い、いままでそうだったという記憶、過去との比較から来るマイナス感、そして雰囲気に浸る心地良さや、劣等感覚へ落ち込む満足感、未来もそうだろうという執着。
実質たったの数秒、数分のこと、真に苦しい絶望が常に持続しているわけではない。想い出と雰囲気と記憶がそのほとんど全てです。
-そんなことを言われても、わたしの苦しみはここにある。
では、記憶や想い出でない、今の苦しみを見せてください。
-馬鹿なことを言うな。そんなもの見せられるか。
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実際にはこうしてそのまま立ち直れなくなることが多い。。
『和尚に僧が尋ねた。「私は新参者です。道を(苦しみ絶望から脱出する道を)お示しください」 和尚は「朝食の粥は食べたか」と聞き、僧は「食べました」と答えた。和尚は「では鉢を洗っておきなさい」と言い、そこで僧は悟った。
無門和尚の解説:この和尚は口を開いてはらわたまでさらけ出し、心の中まで見せてしまった。この僧はそれを聞いても本当の処がわからず、鐘を見て甕と呼んでいる。』
この修業僧には道とは何か、何故それが道となるのかという疑問があります。
和尚さんは心の中まで見せて答えました。
しかし、修業僧は道を知識で解決するものと取っていますので、本当の処が分かりません。
精神元素「ヱ」の言霊と古事記。その2。
『古事記』では豊雲野(とよくも)の神、
『日本書紀』では
豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)、とよくむぬ=十四を組む領域の
豊国主尊(とよくにぬしのみこと)、とよくにぬし=十四を組み似せる領域の
豊国野尊(とよくにののみこと)、とよくにの=十四を組む似せる領域の
豊組野尊(とよくむののみこと)、とよくむの=十四を組む領域の
豊香節野尊(とよかふしのみこと)、とよかふし=十四の言霊の香の霊妙な領域の
豊齧野尊(とよかぶののみこと)、とよかぶの=十四の言霊を木の株根とした領域の
浮経野豊買尊(うきふぬとよかひのみこと)、うきふぬ=(心と言葉を運ぶ)浮舟と十四の言霊原理の間隙の無い
葉木国野尊(はこくにぬのみこと)、はこくに=五十音図の箱型に組み似せた領域の
見野尊(みののみこと)=(十四の言霊の隠れ)蓑の領域の
の名がみえる。
豊雲野(とよくも)の神は世界をどう扱い、どう選択していくかのというときに出現する神で、精神行為、実践行為に発展していくものです。形而上的には道理、道徳、まつりごと、政治として発現していき行きます。人の行動行為の原点に閃き輝くもので日常行為の采配者でもあります。形而下的には前記の結果、出来事となるものでしょう。
お和尚さんは修業僧に「では鉢を洗って、ここからとっと出ていきなさい」と言いました。
これに関して、「日常の動作を習慣として、義務として、惰性でやっていたのでは意義はありません。それを自分の意志として、自分の生命の動きとして、一つ一つの喜びとして行うとき、そこに本質があります。」という解説がありました。
また、「何は出来なくとも部屋の掃除、庭の草とりはやれる。目先の簡単な仕事を自分の仕事として全霊を打ち込んで行ったらやがて人生の万事一つ一つ意義が見出される。」という解説も見つかりました。
確かに「一つ一つの喜びと意義」が見出されたら幸いです。
だがどこの修業僧が、どこの社会人が、主婦が、学生が、そしてわたしがそうした状態に成るというのでしょうか。世界は数千年に渡ってそういったこととは一切関係なくやってきました。数人の偉人と数百万の心ある人と、数百億の関係ない人達とがいただけです。
修業僧にとって道を指し示して欲しいというのも、悟りにまで行くまでの個人的な目標に過ぎません。心ある人達も何も横の連絡も無く自己を磨くことに励んでいるだけです。行と希望の彼方に目標の実現を設定しているだけです。たまに群を抜く人が出て来ると集団とか教派を作って閉じ籠もります。
希望のある人たちは善良であることを目指し、社会全体世界を目指し、愛を唱えて実行を目指し、光に浸ることを目指して、修行に打ち込んでいます。水行も健康増進やご利益獲得祈願に成り下がったものが多そうです。どんなに頑張っても個人の水行以上にはなっていないようです。
悟りというニンジン、愛という香水、光という闇をやたらとまき散らしていたのではないでしょうか。
今日もまた、おかしなことになってしまいました。(文句悪口が言いたいのではありません。わたしのあせりです。情けないことです。)
最後にまた引用文が見つかりましたので引用しておきます。
『 さぁ、悟るぞ、って言っても悟ることはできない、日常の中に真実はある、ただ大げさに言っているだけのことです』
『 常に今ここで自分はどうすべきかを思うときが悟りの始まり。』
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