始めに。こころの原論の古事記。
こころの原論の古事記・目次を創りたい。
古事記を勉強する上で自分なりの目次を創ってみようと思いました。
また振り出しに戻って始めるつもりです。
古事記上巻神代の巻を『こころの原論』とする位置づけです。一切の物証は無視しています。こころだけが相手ですので一銭もかかりません。
古事記は神話でも無く、おとぎ話でもなく、世界で初めて解きあかされた人間の『こころの原論』です。
そればかりではありません。論じるだけならアイデア勝負みたいなものです。そんなものは既に世界の哲学者思想家宗教家学者によってわんさと出回っています。
古事記にはわざとこの世の経綸が隠された御こころがあります。数千年間アイデア合戦を指導し、数千年間経済興隆、欲望追求を目指させ、科学知識学術発展の為と称して時には戦争と殺戮も起こしてきました。
これ以上書くと暴露、裏、秘密探しの宝島冒険談に堕していきます。まだまだ厭わしい世の中が続きますが、わたしもせっかくこの世に産まれたのですから、自分のこころぐらいは自分で見つめたいものです。
対象は古事記の神代の巻だけです。それも御中主から始まって、ちょうど百番目の神様である建速須佐男の命までです。
この百神の解読がこころの、構造、発生、整理、運用、創造行為と一致しています。つまり、人間そのものであり、人の文明創造行為であり、言葉による交流でもあり、要するに人のいのちの秘密が解きあかされています。
そう簡単なものではないし、もともとはスメラミコトの為の学問でそれを元にして統治が行なわれていたものなので、とても取っつきにくいものでもある。
しかし、現在は民間に流布されて誰でもが学べるようになっています。それは現在の歴史家日本語研究者たちの意見とは違っているというか、もともと次元が違うものです。彼らは物証を必要としていますから、かれらのためにも速く見つかるといいとおもいます。
実は、宮中賢処にあると言われています。それが公表されれば三種の神器の意味、伊勢神宮の構造の意味、祭儀の意味、その他行事や器物、神社、神道等への疑問が自然と誰にでも解けるようになると言われています。
実際には既に、全秘密は解明されています。一万年近い古事記の思想内容による、人間のこころの真理による治世の歴史は知ることはできます。
ただ、わたし自身がまだ解いていないというだけです。知りたい方は、一言メッセージ欄からどうぞ。但し、知識として、ああそうか、そんなものかというだけのものではありませんので、それなりに注意が要ります。
さて、そのわたしの話です。神代の巻をどのような目次構成にするか迷っています。
神代の巻自身にも目次はあります。島生みと呼ばれるのはこころの全構造を示したものです。潜在的な心から始まって、心が具体化していき、イメージから媒体(もっぱら言葉)通して表現され、それを整理使用して、創造行為をしていくにはどうするか、どういう間違えがあってその対処法まで載っています。
その表現が外的な物証と結ばれ易いので非常な注意が要ります。たとえば「小豆島」とありますが、てっきり現実の小豆島と思ったりしてしまいます。しかし、おもしろいことにそこに分けの分からないように原典に注釈が記載されていることです。『小豆島、またの名は大野手比売』というように、わざわざ簡単な了解事項と思われるものに、ヘンテコリンな解説をしています。
そういったものを解いていくと、神代の巻全体が一貫してこころの原論になっているのが分かります。もちろん、わたしの解読など待つことは無く、最高のものが一言メッセージ欄にあります野で、そこで『古事記』をさがしてください。
目次
こころのエネルギー 『初発(はじめ)の時、』 (心の問題の出所)
天譲日天狭霧国禅月国狭霧の尊。
○ 古事記『初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、天の御中主(みなかぬし)の神。』
②こころのエネルギー。
天譲日天狭霧国禅月国狭霧の尊。(心の問題の出所)
文献にもいろいろあって、古事記では天の御中主(みなかぬし)の神から始まりますが、別の文献には多くの神が紹介されているのがあります。登場する神様の名前も数も順番も異なっています。おおくの文献が民間から出現して来るというのは、フトマニの言霊原理が後々は民間からでてきて解明され、皇室へ復言されるように仕組まれているからなのかもしれません。
それは伊勢神宮は内外で一つの宮となっていますが、外宮の豊受姫の神の材料が内宮へ献上され、アマテラスの原理に従って指示されわれわれへの施し物となる関係と似ています。
それにしても多くの文献がある。聖書は外伝がある。すべて秘められた内容の香を醸し出すもので、神という名前をつけられて直接口に入れることはできない仕組みになっている。その内容は何かと問えば、聖書には言葉は神とでていて、古事記では高天原に成りませるとでている。
ここで注意してもらえれば分かるように「成りませる」のナリは「鳴り」のことで、言葉が鳴る、と言う意味です。伊勢神宮に流れるのは五十鈴川で、アイウエオ五十音言霊の川です。鈴は横から見れば口を開け、言葉を発している状態を象ったものです。伊勢神宮は昔、柝釧五十鈴の宮さくくしろいすずのみやと言いました。みなさんはアイウエオ五十音言霊にお参りしているわけです。
人は言葉で考え、言葉の元で行為していきます。天という言葉の潜在先天性を、地という言葉の顕在後天現象とするには、高天原という成る、鳴る主体意識の働きが組み合わされなければならない。このように古事記は始まっているわけです。そこで登場するのはまず御中主で、それ以前の潜在性にまで行きたければ、まだまだあるよということになります。しかしそれは潜在領域のことで現象としてはあらわれていないので、「身を隠したまいき」だよと古事記は言います。
ここでは古事記には入っていないけど、連絡を付けるのに都合の良い神様として天譲日天狭霧国禅月国狭霧の尊を載せることにします。
「あめのみなかぬしのそのまえに、あめゆづるひ、あめのさぎり、くにゆづるつき、くにのさぎりのみことあるぞ。○チョンの○チョンの○チョンであるぞ」
とか、天の御中主の神に至るまでに次のように載せてある文献もあります。
●天神代[全7代]
01元無極躰主王 大御神(モトフミクライノミノヌシ_オオミカミ)
02中未分主 大神尊(ナカナシワカレヌシ_オオカミ)
03天地分主尊 大神(アメツチワカレヌシノ_オオカミ)
04天地分大底主 大神(アメツチワカシオオソコヌシ_オオカミ)
05天一天柱主 大神躰光神 天皇(アメハジメアメハシラノシ_オホカミ_ミヒカリノカミ_スミラミコト)
06国万造主 大神身光 天皇(クニヨロズツクリノシ_オホカミ_ミヒカリノ_スミラミコト)
07-1天御光 太陽貴王日 大御神大光日 天神(アメノミヒカリ_オホヒナカキオヒ_オホミカミオホヒカリヒ_アマツカミ)
07-2天御光 太陰貴王女 大神(アメノミヒカリ_オホインナカキオ_メオホカミ)
●上古代[全25代]
01天日豊本葦牙気皇主 身光大神 天皇(アメヒノムトアシカビキミノシノ_ミヒカリオオカミ_スミラミコト)[天日豊本葦牙気皇主]
02造化気万男 身光 天皇(ツクリノシキヨロヅオ_ミヒカリノ_スミラミコト)[造化気万男]
03天日豊本黄人皇主神 天皇身光神(アメノヒノムトヒノヒノミノシカミ_スミラミコトミヒカリノカミ)[天日豊本黄人皇主神]
04天之御中主神 身光 天皇(アメノミナカノシノカミ_ミヒカリ_スミラミコト)[天之御中主神]
これなどは現代までのどんな深層心理学者も及ばない深層構造の分析をしているように感じます。
ユングの夢の元型などは上古代の天日豊本葦牙気皇主 身光大神 天皇あたりと津島の領域にいる
心中でイメージが形内容とも全体として湧き出る- (24) 風木津別の忍男の神 言霊 ユ
表現言葉へ渡される準備---------- (25) 大綿津見の神 言霊 エ
イメージが外へ出ようとする場、内容と、----- (26) 速秋津日子の神 言霊 ケ
体、身体、客体、芽、----------- (27) 妹速秋津比売の神 言霊 メ
の言霊ユ、言霊メをくっつけたのかもしれません。
般若心経などは無無無無と続いて「無無明。亦無無明尽。乃至無老死。無明もなく、また無明が尽きることもなく、もしくは老死もなく」、無の続きようもなく無くなることもないで、知識概念の支那の国に向えば無しだけど、カラの韓の国に向えば全部引き上げられている。
上記の神名は有る有る有るの光だらけで現されているけど、般若心経は国万造主 大神身光 天皇、1天御光 太陽貴王日 大御神大光日 天神、天御光 太陰貴王女 大神あたりに該当するのではないでしょうか。
ここで取り上げる天譲日天狭霧国禅月国狭霧の尊は古事記にはありません。わたしは何とか取り上げてみたいのですが、それ以上は分析すればきりがないというよりそれだけの力がないので手出し出来ません。御中主が成りませる以前に「天地、高天原」がありますが、まだなんだか分けの分からない始まりのその前を担当している位置づけです。
上の系譜は物質の分析をして行き着くところまでいけない(2010年のLHC、要するに当時のオンボロ装置)、宇宙の果てを探してきりがなくまだ遠い(暗黒流動、この宇宙のまだ先にいくらでもビッグバンがある)、そんな感じを受けるのが前記の上古代の神々の系譜です。潜在意識のその先天性みたいなもので、専門的に関心のある方に任した方が良さそうです。
現象物理世界では潜在性のそのまだ元々を探るのに、超最新の周囲27kmもある装置を建設して がんばっています。しかし数年もすれば要するに当時のオンボロ装置となるものです。そんなことなら奥の手を使って意識の領域を占いで調べられるかと疑いたくもなります。
わたしは一時易占いに凝っていました。その時に出した卦があります。(去年のわたしはこんなことをやっていたのですね。)lhcが意識領域に口だしするくらいの結果はあるかもしれないので載せてみましょう。
2009/11/5(木) 午前 4:35易占いで行こうその他占い
天譲日天狭霧国禅月国狭霧の尊の言霊学上の意味を問う
乾一
艮一天山遯
坤‥山地剥、、天地否
坤‥坤為地、、山地剥、、天地否
坤‥坤為地、、坤為地、、山地剥、、天地否
乾一地天泰、、地天泰、、地天泰、、山天大畜、乾為天
本卦、風雷益の一、二、三、四、六、変で沢風大過へ
風雷益は擬離為火です。
カタツムリ、亀、蟹、甲羅で卵、「ウ」、としました。
風雷益・五爻・孚もって君民応ず=主客応ず=言葉と実相実態の一致
沢風大過・転倒、あべこべ、文字言葉を使った主客の転倒した言語表現となっているが、その実は乾為天である。
離為火の為の参考。日本書紀参照。
「古(いにしえ)天地(あめつち)未だ剖(わか)れず、陰・陽、分かれざりしときに、
渾沌たること鷄(とり)の子の如くして、溟涬(ほのか)に牙(きざし)を含めり。」
非常にめずらしい卦。
もしうまく立派に読めれば、当然出るべくして出た卦。
うまくいくか。
天地が乾乾で、
六爻全体で離の卵、
風雷益の似離、
五-四の山地剥で殻を破る、
その心は山雷?の口から出て来る、
沢風大過の内部、受精卵の胎動、
そこから出てくるのは乾為天=0
天=0から始まって、地=0へ、又、その逆
0を産んで0に戻る
本卦に内包しているものは陰陽の地天泰(未だ分かれず)
残るは溟涬(ほのか)に牙(きざし)。
伊耶那岐が産まれない以前のきざしとは、
運命、天命、
あるいは隠れた天地否九四、有命、志行
とりあえず
< 感想です。
我ながら凄い卦が出たものだと思う。
易を始めてもうすぐ四年生になるが、
周易を始めるかどうかのきっかけを作った始めの卦が、
「未来は決まっているか?で水火既済の地天泰へ」だった。
この衝撃以来、易への信頼というより恐れが増してきた。
今回の卦では、神さんとの対話が易でできているようにさえ思える。
ところが三年しかない易の経験では知識がなく、解釈が思うようにできないのが歯痒い。
歯がゆさからの脱出法という卦まで取っている。
続けて、今後の易の勉強法というのまで問うている。
両者の答えは感じ取れ、知識経験による解釈易は放棄せよであった。
これは一般解ではないので皆さんには当てはまりません。
今のところ私だけのものです。
飛躍できるかどうかこの卦を問うのはとても怖い。>
天・先天的に、潜在
譲・ゆずる・(ゆする→ゆずる)・、(ゆれる揺れる、ゆする揺する→がその結果を顕す濁点か着いてゆずるとなる。表記法は例によって暗示、象徴、呪示。紀記と同じ。)
日・ひ・霊、言霊
天狭霧・先天的な主体、動く側、
霧・きり、き+り、き・目視化された気、り・ら行のりの動き・気のバイブレーション状の動き
国・く+に、組み似せる、組んで似せる、受動側、
禅・ゆすられる、
月・つき、付く、くっつく、両者が、日と月、統一体となる
国狭霧・後天的な客体、受ける側、霧
揺すり揺り動かされ主体意識とその客体意識に成りませる心に結びついた自己創造の気のバイブレーションで、そこから一切のものが産まれ成るエネルギーで充満していながら、静かに澄んで動かない状態にある。
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当時のわたしのオンボロ精神は結構興奮していたみたいです。ここでは譲るを揺すると読み替えると、潜在意識の初動状態がでてくることを発見した。
こころのエネルギー 『初発(はじめ)の時、』 (心の問題の出所)
天譲日天狭霧国禅月国狭霧の尊。
占いも人間意識のする技です。当たったとか外れたとか言って意識外の誰か何かが、現在では共時性とかが当たり外れを担当する神のように言われています。神を持ち出すと古い奴だと言われるのを恐れて、霊能だとか霊感霊視、オーラ、スピリチュアリティ、等々いろいろあります。
いずれも心の問題の出所を言い当てるものです。それには現象となって問題であるものと、潜在的先天的なものとがあります。この潜在先天的な部分を逆上ると、元無極体主の神様までいくわけですが、もちろん無無無の底無しですから、ビッグバンの前の前のビッグバンの前へといくらでも逆上れます。
現在生きている人は誰でもそういった過去を忘れたまま背負っているわけです。なかにはそういったことの扱いが上手い人がいて、自分で意識するしないに関わらずコンタクトできる。そのコンタクトの状態のいろいろが様々な名前で呼ばれています。霊感師であったり、神からと称して文献を書き残したり、易の算木に霊威を込めたりということになる。
基本的には過去とのコンタクトが主で、未来に対しては格段の外れ率となっている。未来が当たるという場合でも輪郭のもやもや、非常に広い外枠の設定の中にいるのが普通となっている。
現在の地点に立って、どの時処位の過去がでて来るか普通は何も知りません。各人が何億年という過去を背負っているのに、そんなことを何も気にかけない頭脳に、あなたはいったいどうなっているのと聞きたいくらいです。先天頭脳内宇宙を記述した古代大和人もどうなっていたのか知るよしもありません。
ただ言えることは、神話でもなくおとぎ話でもなく、霊能でもないということです。誰でもが過去を背負っているが出てこられては困るから余計なこととして出さないだけのことです。縄文人が出てきてあなたの先祖はわたしだよといわれても、五百年後もあなたですねと言いながらどうぞお座りくださいと椅子を差し出すくらいです。
神々の系譜はもっとましなものです。
04潜在意識の中に何かが起ころうとしている。03出てきて起きるものは何だか分からないかでて来るものが何であろうとその豊かな全体が元にあって、02その豊かな全体は何かから動かされていて、01その動かすものはそれを突き動かす力があって、07動かす力には主体と客体の原因結果があって、06原因結果を生み出すものとして元があって、05その元と言うのは主客に分割されな以前の一本の柱みたいで、04その柱は生み出される地盤と同じ基盤にあって、03同様に形而上も同じ基盤で、02元は未だそれが分離していずに同一体で、01同一のものとして全体性としてあるもの。
意識の感じの始めに逆上ると、かすかに上記のように神々の系譜が意識の流れと捕らえられるでしょう。
そこで天譲日天狭霧国禅月国狭霧の尊を意識の始まり以前の先天内の神、働きとして、
天譲日国禅月、主客の胎動の霊と体。天狭霧国狭霧、その潜在的な活動。この二つの分かれ以前の、まだ何も産まれていないが、産まれさす統一的な能動の持ち主、とします。
このような意識内の構造なり働きを神、霊能、言霊、共時性、精神元素、○チョン、天照大神、等といろいろな呼び方がされてきます。安万侶さんの隠した問題はこころと言葉の全貌ですから、その方面から行きたいとおもいます。このブログを読む方も安万侶さんによって隠されたものを探ることに自動的に参加しています。いつかどこかで、ポッ、とあれは何だったかなーなどと思い出したくなる時があるかもしれませんよ。
こころの発生 (こころの発生、問題の提示)
(こころの島。一)、淡路の穂の狭別の島
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○ 古事記『天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、天の御中主(みなかぬし)の神。』
(1)天の御中主の神 言霊ウ (こころの発生、問題の提示)
なまじっか淡路島なんていうのがあるから、淡路の穂の狭別の島が淡路島になってしまう。淡路島の廻りには大小の島がまだあるのだから、それらのどれかが狭別の島となりそうだが、そこまでの追求はあまりない。現物を見つければ実証出来たとする方には、淡路島と淡路の穂の狭別の島の淡路が共通で、これで問題は解決しています。
言霊学でも淡路の穂の狭別の島の淡路の「アワ」を説明するのは簡単ですが、理解はしづらいです。
まずは簡単に「アワ」を説明する。
誰でも知っているアイウエオ五十音図を見てください。そのア段を辿ってづーっとよこへいくと、ワになります。これがアからワへの道、淡路です。このアとワを結んでアワです。
説明はこれだけのことですが、これが意識の中枢を占める問題で、これを解決したのがスメラミコトたちで、この中味によって神道、神社、皇室天皇が打ち立てられ、その儀式、器物、行事、建物がすべて大なり小なり五十音図の秘密を明かすための物象、象徴となっています。そこで超超簡単に言えば天皇とはあいうえおのことです。
現在五十音図は、アイウエオで一つしか教えていませんが、古代大和、朝廷にはまだありました。
あかさたなはまやらワ 。 金木音図。 五感の感情欲望の次元。
い--------ヰ
う--------ウ
え--------ヱ
お--------ヲ
い 。。 宝音図。 芸術宗教次元。
え
あたからはさなやまわ
お
う
あたかまはらなやさわ 。 天津太祝詞音図。 やたの鏡、天照大神。
い
え
お
う
あかたまはさなやらわ 。 赤珠音図。 経験知識概念処理。
い
お
う
え
こころの御柱。 伊勢神宮。
あ
お
う
え
い
中を全部書くのは面倒なので止めます。(図がぶれています)
これだけ書くのでもう疲れましたが、古代大和の人達は何という忍耐でしょう。というのも、各五段はそれぞれあかさたなはまやらわになっていないのです。人の意識状態次元に応じて段行の位置が変化します。
図の両側母音行と半母音行と上部を元にしたのが鳥居です。人とは言霊五十音図を潜って産まれるでる者と言う事です。鳥は十の理(十理とり)で両側十の母音、その間を鳥交う子音達というわけです。
一番下の五段は伊勢神宮心の御柱の並び方です。
短い五尺の柱(150㎝)で下の二尺(60㎝)は地下に埋まっています。柱といっても屋根を支えるのではありません。人の心の宇宙の象徴です。真上には船台の上にやたの鏡があります。
鳥居の両端が統一された姿で、国の御柱と天の御柱の統一された人間精神の絶対性を示しています。
下五分の二が地中にある柱という変なものですが、こころの宇宙であるイの言霊による創造意志はまだその言霊エの選択行為ができずに、世界創造が滞っているということで、精神から見れば人間意識のエとイの段階はまだ隠されているということです。
しかし、その謎が言霊学によって解明されていますから、祭祀主であるスメラミコトが復言を受け入れれば地上に引き上げられることになるでしょう。何時までも埋めておく必要はなく新世紀の幕開きとなります。
鏡はこころの宇宙を使用するための最高の精神規範です。天照大神で象徴されています。
この鏡には五十音が八つに分類されています。上の音図の三番目のものです。あ段は、たかまはらなやさ、と並んでいます。このなかに高天原があります。この並びを駆使して新文明の創造が行なわれます。方形にすると天津太祝詞音図です。学校で習ったものとは違う配置で、いわばスメラミコトのアンチョコです。(こんな言い方をすると怒られるかな)
古事記というのはこの図解のことで、文章になったものです。御中主から始まって言霊の五十番目がカグツチで、その運用の最後に出現するのが三貴子です。五十と五十の百神います。八百万というのは古事記の神々からその神はどの現実に該当しているかと詮索してきた時にでてきた言い方です。本来は百神だけで、その他は運用の応用の為、理解謎解きのヒントの為に用意されたものです。百番目までの神が理解出来れば卒業です。知識はそれだけでいいのですが、その後は応用実践です。ただし少なくとも悟りとか宗教を理解卒業していなくてはなりません。わたしはここの部分は飛ばしています。このブログで勉強したいなんて書いている方がいますけれど、とんでもありません。
百神も神という名を借りただけで、その構造、その働きをさす為に使用されただけのものです。拝む対象としたり、霊威を乞うたり、ご利益を願う相手ではありません。神を拝むのは伊勢神宮に言霊原理を神として御祭神として祭って以来、神を信仰の対象とする仏教儒教形式の真似事として始まりました。
引用。
『拝む・おろがむ
日本人の本来は、新興宗教というものはないのです。なぜならば、信仰そのものがないんですから。日本人の血のなかには、神様の前に頭を下げるっていうことがない、そういう民族なんです。
なぜか。自分が神だってことを知ってたから。自分以外に神がないってことを知ってたからです。だから、拝むことをおろがむといいますな。「おろがむ」というのは、語源は「愚か」から来てるんです。
「愚か」っていうのはご存知でしょ。「あの人は頭がいい人だ」っていうときには「愚か」とは言いません。「頭がちいと悪いな」というときに「愚か」と言うんですから。
拝むべきじゃないものを拝む。それは自分を拝むことになりますから、拝む必要がないこと。それで、日本人の根本的な習性としては、神様を拝むっていうのは、ないのです。
二千年前に言霊の学問を隠してしまって、---どこに隠したかっていえば、伊勢神宮の本殿の八咫の鏡に隠しちゃった。それ以来拝むようになった。
だから、誰かさんの話で「何ごとのおわしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」。あそこに何ごとがあったのか、誰もわかんなくなっちゃった。』 (以上)
古事記には斎立て、斎祭れとあります。この斎イツキは拝むではありません。拝むは愚かからですが、イツキは衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神からでた言葉で、「かれ投げ棄(う)つる御杖に成りませる神の名は、」とあるように判断の基準を投入する規範となっているもののことです。規範を立てよということですが、そう簡単なことでもないしイツク(五作る)には人間の五つの精神構造をよく理解しなくてはなりません。
古事記によるあいうえお五十音図の解明のまず始めは言霊ウです。
突然こういわれると、ウッと詰まるでしょう。そうです、そのウです。
でもなんとかア-ワを片づけてしまいましょう。
五十音図は苗の縦横整然と植えられた田んぼに比較されています。その田の下に心を付けると漢字の「思」になります。五十音図は人の思いを現したもの、思いによる行為を現したものです。古代倭の賢者が支那に与えた言葉です。あるいは言霊五十音図を理解した支那人が作ったものです。
(語源辞典にある幼児の頭蓋骨がまだ縫合されていない処からというのより余程いいでしょう。日本は漢字の輸入国という学校の教えとは違いますが、もうじき全ての教えはひっくり返ることでしょう。ことに古代において大和がユダヤ与えた依頼命令(その逆ではなく)も明かされるようになるでしょう。トンデモ、陰謀論にならないように括弧の中に入れておきます。世界の主なる宗教や、言霊学との関係など一言メッセージ欄より入ってください)
さて、音図のア行は位置は変わり途中の配置は変わってもアの行き着く先はワで終わります。このア-ワは何を示しているでしょうか。というところで、次の、
4・・・・・ こころの自覚 主体と客体。
(2)高御産巣日の神 言霊ア (心の自覚、主体)
(3)神産巣日の神 言霊ワ (心の自覚、客体)
を書くことになりますが、それは次回です。
今度はウッじゃなくて、ムッとするでしょう。いずれも五十音ウ段です。
ヘェ何を言ってやんでェー。ここででて来るエ。
ホォそうかねー。ここででて来るオ。
何だか分けの分からないことを書き出しているようです。このこの分けの分からないという事を分かる以前が、淡路の穂の狭別の島です。ア-ワへいく以前の行くとか行かないとか以前の、そのような存在があるのじゃないかという段階です。自分が成立して相手が分かったのなら、4・・の 心の自覚、主体と客体になりますが、主客にまだ分かれて行かない段階です。
こころの発生 (こころの発生、問題の提示)
物事には始まりがありますが、その始まりを作る何かがあります。その始まる前の何かをよんで天の御中主の神と名付けました。
御中主を創造主とすると大変な事になります。この世には創造主が多過ぎるのです。ジャンケンをするかあみだくじを引くかしなければなりませんが、全智全能ですから結果を既に知っています。どの創造主もくじを引きません。そこで自分の民族の島を作ってそこから出ようとしません。自分のシマ領域の中でだけいいことを言って住民たちを外に行かせないようにします。しかし世界交通は発達していきそういうわけにもいきませんので、武力を与えてシマの拡大をするようになりました。それでも最高にでかいシマで地球止まりです。つまりどこかの創造主が地球統一するまで拡大は続きます。
神を信じる方達はその運動を助長しています。一方無神論者がいます。硬軟ひっくるめています。神はいないと言う方達も自分の主張不安を払拭する為の基盤を求めます。いまは科学思想全盛と言うことで科学を持ち上げて安心を買っています。
この両者の構造は同じです。自分に都合の良い客観事実と称するものを集めて、主張に沿って整理しているだけです。作られたものを都合よく改作しているので、創造主たる神から有無を言わさず自然に与えられたものじゃない。そこで御中主だけが自分は神という名はついているが、神でも無いし創造主でも無いと、創造主たちの戦列に加わりません。
冗談で擬人法で書きました。もしそういう神がいればというだけですので。自然科学の発達で神の締める地盤がどんどん削られていきます。精神科学、心の科学も止まることを知りません。現代はもう最後の砦である意志のなかにしかその場を見出せないくらいです。とうとうその砦も崩れようとしています。
もうじき誰でもが、神様たちに、神さんたちご苦労さまでした、わたしたち人間も神さまたちと同じ内容を身につけることが出来るようになりました、これからはお手数をかけることも無くなりますのでどうぞ安心してお休みくださいと、数千年の歴史に感謝をすることになるでしょう。
これから古事記の話が始まろうというのに、お別れのお話になってしまいました。わたしが話したくてそうなったのでなく、流れの成り行きです。2012年のせいでしょうか。
・アとワ(淡路)の言霊(穂)が別れて出て来る(別)狭い(狭)区分(島) 言霊ウは主客未剖、アワはそこから分れます
穂を既にたわわに実のなった穂とイメージすると大間違いをします。
淡路の穂の狭別の島。穂は火(ホ)で、火は霊で、昔は霊をホと読みました。また、穂は百(ホ)で言霊百神(御中主からスサノオまで)のことです。五十音図は原理五十、運用五十の両児島(また後ででてきます)の領域で百となって完成します。
ア段のタカマハラナヤサの運用をア-ワで代表させて、その運用に当たってまだ各種に分かれていない以前に、百の粒粒がまとまって一つの芽となっていて、収まり押し込められている出だしの狭い狭い領域、このことを言います。それは次第に自覚し、他者を意識し自己主張をはじめていって成長していくものです。なんということはない意識のはじめ、あいうえお、いろはにほへとがギューッ凝縮されたすがたです。
朝、パッと目が覚めたら周りに変なものが散らばっていた。パッと見たその瞬間はそれが何であるか分らない。ですが何かあると言う事は分る、それ以外は分らない。という時に天の御中主の神。パッと見た瞬間に何かあるなという意識、それを言霊の学問は言霊ウと名付けた。
「こんにちは」と声を掛けられ相手を認識する以前、文章を読んで何言っているのかと分かろうとする以前、わたしはここにいるけどわたしがここにいるそのはじめ、等々要するに始まり以前のいま此処現在の事です。めんどうくさいことですが、しかしそれを設定し見ていかない事には物事がはじまりません。
ですので天の御中主がこの世の月星太陽とか男女を作ったのではありませんが、人が意識をすれば全てのものがその人を中心として集まってきます。わたしが「宇宙」といえば宇宙に関するわたしの見聞、感想、感情、宇宙にいきたい等々、わたしの宇宙が集まってきます。まだ知らない宇宙これから知りうる宇宙等無限の宇宙の中から、わたしの宇宙と言う有限が生じてきます。「天の」というのはこの無限のことで、意識に集められるとわたしが、あなたが、だれでもが、御中の有限の主になるということです。
そういった、人の性能を欲望感情、知識智恵、選択行動、意志等をひっくるめた芽の以前の状態の精神世界をなんと言えばよいのかということで、言霊「ウ」と名付けました。ですので「ウ」はそれ自身で一つの精神世界を現しています。
古代大和は人の精神世界はどうなっているかと言うのを研究して、五十の心の違いを見出しその組み合わせの法則を発見しました。一万年近く前に解明されていたようです。それで持って作られたのが大和言葉でそのことばの原理によってつくられたのが、古代の大和の朝廷とその社会でした。
人の性能そのままを原理とした言葉と社会ですから、いわば理想社会です。歴史の話はここまで。
人の精神世界を現すとなると、この地球上の全ての知識創造物をしめすことと同じになります。極微極大へと常にひろがっていきますから、どんな記憶装置があってもまにあいません。ところが、一つだけ可能な方法があります。
こころの発生 (こころの発生、問題の提示)
3の3・ こころの発生 (こころの発生、問題の提示)
赤ちゃんはお乳を求めて泣きます。子供はあれが欲しいとだだをこねます。知識は自分のが正しいと言い張ります。それぞれの精神世界がありますが、腹をすかして泣く赤ちゃんにはかないません。だだには誘導して対処出来ます。知識は検証すれば納まりますが、検証不能な問題もあります。大声か武力で相手を倒せばその主張は通る世界です。多数決という暴力もあります。
なぜ赤ちゃんだけは無手勝流で、この世の全てに勝てるのでしょうか。それは赤ちゃんが言霊「ウ」の状態だからです。「ウ」に動き活動を現す「ル」を付けると「うる」になり、漢字のルビをふると「得る」になります。赤ちゃんの言霊「ウ」は未分化の全体性ですから、主体が何かを認知して客体の方へ向かう、ア-ワへ向かう道を知りません。だだっ子ならその途中で、ア-かさたなはまやら-ワの中間でだだっ子のア-ワを他のア-ワに変えることもできます。
赤子にはだだっ子のように多少付いている知識や人の心を読む智恵を誘導することもできません。ましてや腹減ったと検証証明することもできません。泣き騒ぐ今現在全体が「うる得る」だけです。宇宙の成り立ちも原子の成り立ちも全てはそのようなものとして受け入れるだけのものです。ですので赤ちゃんは「う」を得るのか、「ウ」以前(天譲日天狭霧国禅月国狭霧の尊)に捨ておかれるのかのどちらかです。この状態をわれわれが身につけた知識感情等の全てを持って再現出来ればいいわけです。そうすれば全宇宙はわれわれのものです。
これでもわかるように、天の御中主の神は無限を創造する方向には向かわないのです。常に自分に向かう有限を生み出し、その有限を持って中心に据え、これぞ全世界であるとするのです。ここでいう中心に据える、をいろいろな言葉で言い換えることができます。自分の書いたことこのブログと言い換えると、これぞ全世界となり、自我自覚わが知識と言い換えるとこれぞ全世界となります。わたしに限らずそういった意識が人として自然と産まれるようになっているわけです。ブログを読む方もそれぞれの感想意見がこれぞ世界だとなってしまいます。
「神名は、という意味である。宇宙の根源の神であり、宇宙そのものであるともされる。」これはウィキの解説ですが、知識概念での解説ならば簡明です。各自の知識に言い聞かすと、なるほどと思えます。しかし一度疑問が起きると後は地獄です。自然科学や宇宙論から攻撃されればひとたまりもありません。最後には神話は信じないけど神は信じると言うような奇妙な世界に落ちていきます。
何かをしようと行為の開始を意識した時、その時点が全過去宇宙と全未来宇宙の中心です。そこにいるのは自分の瞬間の自覚体です。全方位に向かうことの出来る宇宙の中心です。「天(高天原)の中央に座する主宰神」とは自分のことです。
問題はこれがなぜ言霊ウであるのかです。そればかりではなく古事記の神々はじめの五十神は全部一対一でアイウエオ五十音対応しています。だれがこんな事業を成し遂げたのでしょうか。竹内文献には恐ろしく長い年月の神代がでてきますが、おそらくそのような長い年月をかけて完成されたと言うことを示しているのでしょう。聖人のひじりとは霊知り(ひしり)人のことですから、聖集団の研究を受け継ぐ長い伝統があったのでしょう。
かれらのしたことは古文献から読み解くしかありませんが、その成果の物象は神道、皇室、日々の日本人の生活等に残されています。これだけの物が残されている日本も凄いですが、(ただし百%近くは理解されていませんが)、古代大和の影響が全世界に見えると言うのはもっと凄いことです。その全ては言霊学にかんしたものです。
脱線ですので本線へ。言霊ウの発見とそれを天の御中主の神と指示したことは同じでありません。言霊原理を使用して政治社会生活をしていた古代にはわざわざ神を拝む必要がないからです。古代には天の御中主の神どかろか、どんな神も発明されていなかったでしょう。今以上に高度な精神生活で
輝いていたはずです。
ですので直接に「心とは何か、言葉とは何か、人とは何か、生きるとは何か、考え意識するとは何か」という問題とぶつかっていました。古事記のこころの運用篇となる第二部の始めにその様子がでてきます。
「『たぐりに生りませる神の名は金山毘古の神。次に金山毘売の神。』
たぐりとは嘔吐(おほど)の事でありますが、ここでは「手繰(たぐ)り」の意の謎です。金山毘古の金は神名(かな、ひらがな)の意です。言霊一つ一つを粘土板に刻んで素焼きにした甕を手で手繰(たぐ)り寄せますと神代文字の山(神山)が出来ます。精神的なもの、物質的なものすべてを整理する為には先ずすべてのものを手許に寄せ集めることから始めなければなりません。金山毘古は音を、金山毘売は文字を受け持ちます。」
とあるように材料となる資料収集をはじめました。現在の収集は分類のための収集ですから比較の為の計量です。しかし、心とは何かと言う問題はもともと計量されるものではないので、心の意味とその表現を集めることになります。それが毘古、霊、意味、主体、働き、能動等と、毘売、体、文字言葉、行為、表現、客体、受動等で現されています。、
金山毘古の心の働きの全部の動きが収集されたことでしょう。「されたことでしょう」という疑問と推測の混じった心の動きが全て集められ検討されました。次はそれらを分類整理組み合わせることです。古事記では次の文章に当たります。
数千年の聖人達の努力をわたしなどが追体験できません。ですのでいつも真似事です。古事記の凄いところは「されたことでしょう」という時の五十音それぞれの心の要素を発見したことです。「されたことでしょう」を国文法のように推量何々で終わらしているのでなく、五十のこころで表現していることです。
まず潜在的に「されたことでしょう」という心の動きを十七示してます。そして後天現象的な「されたことでしょう」を三十二で示し、イメージとして「されたことでしょう」でできていく過程から、表現されて了解されるまでをしめしています。現在のどんな学者も考えられない高度な頭脳です。その分析の始まりが「ウ」の「されていくでしょう」ということです。
ここまでこう書いてきても、何故「ウ」になるのかはまだでてきません。不可能です。われわれはありがたく使用させてもらうだけです。