天地と高天の原が、 天の御中主の神の前に ある。
2009/12/6(日)
天の御中主の神は天地の初発の時、高天の原に成りませる神で、 天の御中主の神の前に 天地、高天の原が有ることになりますが、 どうしてもこの神様が何かから産まれ出てきてくれないと心が落ち着かない。
オノゴロ島(おのれの心の島)を造る時にいろいろとお膳立てをしてもらっているし、岩戸開きでも実に細々と準備がされている。
ここ冒頭では天地と高天原が用意されていて、その他古事記の話の中ではまず準備されたものを設定し、その中身から何かが出てくる構造になっている 。
準備されたものを「前0 」として、ひふみよいむなや、と八段階を上り、九つで事は足り満ちて次元の上昇した「後0」となって、今度はそれが新しい「前0」となってまた八段を昇り循環上昇していく。
これを「古事記と言霊」の116ページには
言霊スが明らかにされた今では、「天地の初発の時」とは正しくそれが言霊スであることを確認できることになります。
言霊スは何もない、のではなく、そこから一切のものが生まれでるエネルギーで充満していながら、静かに澄んで動かない状態です。
と書かれてます。
言霊スは先天であり、潜在であり、また前在でもある。
そしてその構造は、
天地の初発の時、高天の原に成りませる神の名は、天の御中主の神。次に高御産巣日の神。次に神産巣日の神。この三柱の神は、みな独神に成りまして、身を隠したまひき。
次に国稚く、浮かべる脂の如くして水母なす漂へる時に、葦牙のごと萌え騰る物に因りて成りませる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅の神。次に天の常立の神。この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまひき。
次に成りませる神の名は、国の常立の神。次に豊雲野の神。この二柱の神も、独神に成りまして、身を隠したまひき。
次に成りませる神の名は、宇比地邇の神。次に妹須比智邇の神。次に角杙の神。次に妹活杙の神。次に意富斗能地の神。次に妹大斗乃弁の神。次に於母陀流の神。次に妹阿夜訶志古泥の神。
次に伊耶那岐の神。次に妹伊耶那美の神。
ということですね。
これは天地と高天原の構造原理を述べたもので、経験理性で捉えると最後の 「 伊耶那岐の神。次に妹伊耶那美の神 」はではどこから来たのかとなりますが、むくむく入道雲さんの豊雲野の神を通過する無限持続循環のなせる技というわけですね。
参照。 豊雲野の神 (トヨクモノ)
名義は「豊かな実りを約束する地味の肥えた、そして慈雨をもたらす雲が覆う原野」。
原文「豊雲上野神」とある。「上」は声注(アクセントの注記)。 「雲」の平安朝アクセントは平平型(奈良朝もこれに準じて考えてよい)であるが、「雲上」と指示したのは 上上型に発音せよということなのである。そう発音すると、「豊雲、野」の意ではないことになるから、意味上の誤解を防ぐ ために声注を施している。そこで、この神名は、「豊かな野で、雲の覆う野」と解すべきである。
わたしは今でも原因を思うとその原因はと思いではその前はと思う。また、原因から始めると原因が何故どうして太り大きくなって、溜め込み成長するのか分かりませんでした。記憶があって、それが雪達磨のように周りに付いて太っていくといわれても納得し難いものがあった。
いま、古事記の先天十七神にその回答があるように感じています。
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高天原。1。
2009/12/29(火)
高天原。1。
ここでの高天原はまだ何も始まっていないまっさらな心の世界です。そこに心が始まろうとして初めの兆しがありました。時間でいえば時が動き始めようとする時です。その時に見合う心の宇宙の何もない広々とした領域が高天原です。宇宙や日本のどこかの場所のことではありません。もしどこかの場所を探したければ頭脳内の意識の領域を担当するところとなるでしょう。
時と場所の始めがでてきただけでは、まだ何が何だか分かりません。そこには何か有るものの存在が必要です。その有るものの存在は有る事と有る事を意識する主と客の二者が揃わなくてはなりません。
その二者があるというだけでは何も起きません。有って互いに関係を持つには同じ次元に立たねばなりません。
さらにそこに何かが起こるには創造意志の働きかけが必要です。働きかける主体意志とそれに応じるに相当した客体がなければなりません。
そこで、天地の初発には
時、
高天原、
主客、
次元、
創造意志、
が揃わなくてはなりません。これらが揃わなければ人の考えも行為も言語活動もありません。
これは古事記では
天地の初発の時、高天原-→○-御中主の神(○はスの神または天譲日天狭霧国禅月国狭霧の尊で古事記には登場しません)
主客---------→高御産巣日の神-神産巣日の神産
次元---------→宇摩志阿斯訶備比古遅の神。天の常立の神。国の常立の神、豊雲野の神と前三神。
創造意志-------→伊耶那岐(いざなぎ)の神。伊耶那美(み)の神。(と他八神)
に対応しています。
ブログの始めに完成された天地-心の御柱とはとして、次のように記しました。
言霊ア、歓喜、愛、ありがたい、安心、
言霊オ、右の目、夜の食国、経験知、悟性、精神的学問、文化、月読の命
言霊ウ、鼻、海原、五感、欲望、産業経済、建速須佐之男の命、
言霊エ、左の目、高天原、実践選択智、文明創造、天照大御神、
言霊イ、創造意志、潜在動因、イザナギ、イザナミの命
の五段階、五次元が統一され一体となった形で世界が創造されて現れます。が本当は時、高天原、主客、次元、創造意志も一緒にしなければならないと思います。
従って上位の高天原は行為すること創造することが喜びともなっている実践場になっていることでしょう。
最初から話が複雑になりすぎています。少しづついきましょう。
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高天原。2。
2009/12/30(水)
高天原。2。
高天原には多くの解釈があるそうです。
ここでは古事記の上巻は意識原論という扱いですのでそれに沿うように理解したいと思います。
まずは始まり意識の出始めです。時と処の初期設定がおなわれようとしています。天地の初発の時として場所と時の位置付けと流れを持つだろう心の兆しがあります。
そこで高天原とは心の運用の案内板となっています。ことの始まりですのでここでの高天原もまずは初期的なものです。しかし、タカマハラは天地の始めから始まってそれの出現を確実にしていく創造行為とその発展をもたらすものとして重要な手順を提供しているものです。
高原(タカマハラ)はタ・カマ・ハラと読み替えると、タ(田、言霊五十音図)のカマ(釜)によるハラ(祓え)になります。
タ・は精神宇宙の全体が現象として姿を現してくるところです。タは田で整然と植えられている稲を言霊五十音図に見立てものです。ここでは心の何もないところに意識の兆しが芽生えることです。それは他の場所を探すものとしてではなく、芽生え現れてくるそれ自体が場となります。目を開いて物が見え何だろうと意識が動き始める、その主体自身が場となることです。
その時にそれは何だろうとあちらのものに意識が移動してしまうと、そこからは対象を分析していく化学学問意識となって言霊の主体意識を失います。
カ・タの主体意識は宇宙にあるものの中から自分の次元にあったものを自分の場にかき寄せ集めようとします。この時も自分の時でないもの、自分の場所でないもの、自分の相手とならないもの、は選り分けられ自分の対象となるものに向かうことになます。
自分の思いに沿った物だけ欲しい物だけ自分の経験した物だけを通す態度ではありません。
マ・タで立てられた意図意識が形作られてくると、カでかき寄せられたものたちとの結びつきが始まります。そこで、他者へむかって理論や方向性の違いや自己主張が立てられ、カで集められた現象とそれらに結びついた自分で造られた主張との間を設定していきます。ちょうどカマ(釜)で材料をかき集め、混ぜられ煮ていくようなこととなります。
この間は目標の適宜さや、どこへどこまでどのようにどれだけというようにカの材料を変化させる間を計ります。うまくいけば真、誠となるというわけです。
ハ・カマで煮られて出てくるものは常にタの始めの意図意識に沿ったものです。そこに材料の変化変態が有っても自己の意図意識に変化変態が有っても現象と現象、意識と現象の間(マ)を産める物としてでてきます。それはあたかもタから見ていくとタの意図が引き上げられ表面に浮かび上がって来たように見えます。それは一つの個別なものとしてタの全体を代表するものです。
またハは葉で言葉です。マの目標を導くのは言葉です。カの材料の変化、マの間合いを現す言葉が誠へ導きます。
ラ・こうして表面に浮かび出て打ち揃った物は自分自身のラッパを鳴らすように事態の進展を押し広げていきます。原・ハラは祓えと読み替えられています。はらえとは言霊原理を持って意志行為を行うことで、個人の行う水行とは関係ありません。ここでの祓え(ハラ)はごく初期のもので、自己の主体内に留まることを言っていると思います。即ち己の腹を保持することです。
タに戻って言うことになれば兆しを見つめる目を逃さないということでしょう。
三貴子の段落では天照大御神に高天原は任されます。
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