大直毘(おほなほひ)の神。「身禊」17。
言霊ウの宇宙より現出する人間の精神性能は五官感覚に基づく欲望性能です。
この性能が禊祓の実行に役立つ事が確認されました。
この確認された性能を大直毘の神と呼びます。
この大直毘の神の働きによって、世界各地に於て営まれる産業・経済活動を統合して世界人類全体に役立たせる事が可能である事が分かったのであります。
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次にその禍を直さむとして
成りませる神の名は、神直毘(かむなほひ)の神。次に大直毘(おほなほひ)の神。次に伊豆能売(いずのめ)。
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通常の解説では大直毘(おほなほひ)の神と神直毘の神は同列に扱われ違いはないように見えます。
両者に有る「直」という漢字に禍されて、凶事を吉事にするとか禍を祓うとか説明されています。
このブログでは
神直毘(かむなほひ)の神を・噛み直し、向え直し・とし、言霊オの経験知識、概念理性世界を噛み直し、向え直し、主体を立て直す神とします。
そして、この?み直し・向かい直しを受けて、
大直毘(おほなおび)の神を、おお(大)、な(名)、おひ(帯)、として、大いなる名の帯びを構築するとします。
帯とは「禍」を生んだ父韻の配列とそれの検討によって生じた新たな父韻の配列です。検討の為投入された衝たつ船戸の神の音図、あるいは原則原理に照らして、ここに、
1、道の長乳歯(みちのながちは)の神、2、時量師(ときおかし)の神、3、煩累の大人(わずらひのうし)の神、4、道俣(ちまた)の神、5、飽咋の大人(あきぐひのうし)の神による、検討結果から「禍を直さむ」とする意志を持った新しい大いなる(大)順列を持った音図(名)の一連の生成をもたらす性能を持った父韻の(帯)神、大直毘(おほなほひ)の神が誕生します。
この一連の新しい帯、父韻の新しい実相に則した配列、によってどこでどのように「禍」を生じてしまったのか、それがウ段において検討されます。と同時に実相と一致した言葉を得る道でもあり、それらが可能である大いなる禍を直す帯というわけです。
神直毘(かむなほひ)の神と大直毘(おほなおび)の神の際立った特徴は、一方は主体の投入、建て直しと、他方は禍を直さんとする意志欲望が沸き起こるだけの父韻を得ることの違いです。
何かの中毒患者に身体に悪いから摂取は止めろと忠告するのは主体の投入と建て直しを指摘することです。しかし、当の本人達はそんなことは百も承知です。そこで彼らの「禍」を直さんとする意志欲望が沸き起こるだけの新しい言葉を見つけなければなりません。
以下参考のための引用------------------------
禊祓とは外国の文化を吸収し、それに生命の息吹を与え、そのままの内容で世界文明創造の糧にすることです。それには議論も宗教的恩恵も必要ありません。唯ただ明るい生命の言葉があるだけなのです。八十禍津日とは宗教の恩赦であり、大禍津日とは哲学的理論による止揚(しよう)・揚棄なのです。(止揚=弁証法的考え方で、矛盾対立する二つの要素(概念)に関連して両者を否定し、しかも一段と高い統一体に発展させること)そのことを古事記は「この二神は、かの穢き繁き国に到りたまひし時の、汚垢によりて成りませる神なり」と、指摘します。そして「その禍(まが)を直さむとして」とハッキリ言い切っています。これより先は一切の禍は通れませんよ、とシャットアウトしています。現代人が背負っている一切の天津罪、国津罪があれば、心の中にこの三神を見つけることは出来ませんよ、と「通行止」の立札を立てているのです。呆然と立ち竦(すく)んでしまいました。善い点など挙げるのは骨が折れますが、悪い点なら両手の指を何回も折る程ある身が一点の曇りも赦されない生命そのものの次元に入ることなど出来よう筈もない。他人事だと思って読んでいた歎異抄の親鸞の言葉「煩悩具足の凡夫、地獄は一定住家ぞかし」が他ならぬ私の身であったのです。頭を抱えこんで、のた打ち回る日々が続きました。
そんなある日、空いっぱいの雲の間に隙間が出来たのでしょうか、または地獄の底でのたうち廻る私を、皇祖皇宗が「哀れ」と思し召して、地獄の底に御手を差し伸べて下さったのでしょうか。一瞬、心の扉が開け、四つの母音(アオウエ)、三つの半母音(ワヲヱ)、三十二の子音が、生命の創造意志イ・ヰの息チイキミシリヒニの韻律につれて、それぞれの言霊独特の色彩の言葉が流暢に頭の中から飛び出して来たのでした。それはある一つの事件への絶対命令でありました。私が、置かれた立場の真相を把握した上で、その状態から解決の方向へ事態を動かす筋道が丹念に計算されるものの如く、実相として画かれて行く言葉の連(つら)なりでありました。この言葉によって、神直毘・大直毘・伊豆能売三神の内容を私の心の中に見つけることが出来たのです。言霊アの光は寂光と呼び、無礙光といいます。言霊イ・エの光は言霊五十音が発する五十種類の実相の光の言葉なのだということを知ったのでした。言霊百神はすべて人の心の中に見つける事が出来るようになりました。