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「天地」と一秒か数千年か
2009/11/24(火)
「天地」と「天地の初発の時」
天地天地と全然埒が明かない。
要するにわたしは理解していない。
いや、理解はしているのです。天地なんていう単語は簡単で誰でも知っています。
誰に問うてもそれなりに返答はあるし、わたしだって返事はできる。
それなのに前に進まない。
わたしの頭の中はこんな感じです。
古事記で天地と読む。天地なんてもともと知っている言葉です。
ブログに天地と書き入れる。
自分で見て書いて知っていることですから簡単です。
誰かの解説(http://homepage2.nifty.com/studio-hearty/kototama_ver.1/)を読んで勉強して、引用したり真似たり知ったかぶりをしたり、とにかく天地とタイプしました。
自分で書くのだから自分で書いた画面を見ています。天地と書かれたことはすぐ納得確認できます。
わたくしはもうここでつっかえるのです。
さっき見た天地と今書いた天地とが一致しないのです。自分で天地と書いてそれを見る、きっと一秒か二秒経つことでしょうが、そこでもう前と後ろ、さっきといまの天地が同じでない感覚を受けます。
天地と書き出してから数日が立経ちます。
古事記の天地を読んでから数カ月が経ちます。
天地という言葉を知ってから数十年が、古事記に天地と書かれてから数百年が、人々が天地と発音し始めてから数千年が、それぞれ経過しています。
いつも天地アメツチです。パンツをはかない時代から火星探索を準備している時代になってもアメツチ天地です。
問題はなんでしょう。
知識情報量の差ですか。
こうやって書いてくると今度は反対に、書いたものを見る、さっきと今、知識情報量の数千年の違い、等が全然その違いが見えず同じではないのかと感じられてくる。
問題はなんでしょうか。
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始めの「天地」と今の「天地」
2009/11/25(水)
始めの「天地」と今の「天地」
始めの天地と今の天地の間に何が起こるのでしょう。
その二つの天地の間は、たったの一秒間だったり、数千年だったり、あるいは始めの天地はあるが次の天地が無かったり、その逆だったり、とにかくひっちゃかめっちゃかです。
一瞬の時が流れた、瞬きをしたというだけで、さっきと今とは別物です。
わたし個人的にもそうだったり、世の中全体がそうだったり、いろいろあるでしょう。
そのまたたきの間に何人が死んで何人が産まれ、何人が恋して何人が失恋するか、尺度の取り方は自由です。例の取り方はこの世にあるものどんなものでもかまわない。
でも変わりなく常に天地といっている。内容が全く変わっているのに同じ言葉を使う。例えて言うのが面倒くさいくらいです。
さて天地があるのは分かったとして、では何故始まるのでしょうか、。始まらせるのは何でしょうか。
言葉尻を捉えた小学生みたいな質問かもしれない。
「生きている自分の生命意志(言霊イ)が何かをしようとする瞬間、瞬間」
わたしが天地と書く時それは何を指しているのか。
要するにわたしの意識は「何を指しているのか、とか何を理解しているのか、何を知っているのか」とかを気にしている。
まるでだめ夫のやりかた。
自分でビンタを張っても変わりなし。
じぶんのやっていることは
自分で読んだり書いたりしている天地を画面に見たり、書いたりしているだけ。
たまたま天地とは何かが知りたいからその話が続いている。古事記の上巻でいう天地とは今の心の宇宙のことだともうとっくにケリはついている話。
以下引用。
今朝初めてこの世に生まれた心になることだ。
毎日が天地の初めであり、刹那刹那が創造の出発である。
生まれたばかりで何をやってよいか判らなかったら
先ず、呼吸をすること。食事すること。
何は出来なくとも部屋の掃除、庭の草とりはやれる。
目先の簡単な仕事を自分の仕事として全霊を打ち込んで行ったら
やがて人生の万事一つ一つ意義が見出される。
それ等のことを退屈し手を拱いている者は主体性、創造性のない死人である。この事を判らず抽象的な理屈に赴こうとすると、せっかくの教えがつまらぬ話に聞こえる。
もし、意義が見出されなかったら皇運の歴史を聞いても、三種の神器、摩尼宝珠の学を教えてもらっても何の足しにもならぬ。
人の心は変転極まりない。今泣いた顔がもう笑う。
人の陰口を気にしたら一生こそこそと生きねばならぬ。
流行を追ったら一生見得を張ることになる。
心の中に間断なく浮かび上がって来る思いや欲望に囚われて、身を任せていると泡沫の人生を終らねばならない。
変転極まりない心の思い、欲望が捉え所のない泡のようなもの、と確められることが出来た時、人の心の視点が宇宙そのものに帰る。どんな境遇の下にあっても、生きていることが掛け替えのない尊い有り難いものであることを知る。
無門関公案第41の「達磨安心」にその消息を知ることが出来る。
心自体に安定を求めるのは不可能。その心は既に現象、心象であって実体ではないからだ。この時、変化そのものの心を静かに観ている者がある。観る者があるから変化を変化と認識出来る。この観るものを仏という。この観る働きを観世音菩薩という。
以上引用。
誰がわたしに天地と言わせたか。
天譲日天狭霧国禅月国狭霧の尊。
天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、天の御中主(みなかぬし)の神。次に高御産巣日(たかみむすび)の神。次に神産巣日(かみむすび)の神。この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき。
次に国稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる時に、葦牙(あしかび)のごと萌(も)え騰(あが)る物に因りて成りませる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。次に天の常立(とこたち)の神。この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまひき。
次に成りませる神の名は、国の常立(とこたち)の神。次に豊雲野(とよくも)の神。この二柱の神も、独神に成りまして、身を隠したまひき。
次に成りませる神の名は、宇比地邇(うひぢに)の神。次に妹須比智邇(いもすひぢに)の神。次に角杙(つのぐひ)の神。次に妹活杙(いくぐひ)の神。次に意富斗能地(おほとのぢ)の神。次に妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。次に於母陀流(おもだる)の神。次に妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。
次に伊耶那岐(いざなぎ)の神。次に妹伊耶那美(み)の神。
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天地か、天と地か、地天か、地と天か。
2009/11/26(木)
天地か、天と地か、地天か、地と天か。
天人地という、人はどうなる。どこにいる。
下から見れば地人天なのに何故そうならない。
本当は天地人という、人がいなくても天地はあるのか。
待てよ、中国の漢字読みと日本のアメツチがごちゃごちゃになってはいないか。
今は古事記の天土アメツチの話だぞ。
天地が初めて分かれた時、天と地が現れた時、という現代語訳がある。アメツチがもう最初から分かれている。
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「虚偽を除き真実と思われるものを定め、それを稗田阿礼に覚えさせた。」
序文にある文章です。
では、今ある古事記の上巻の物語は「虚偽」とされなかったのか、いま読んでいる上巻の物語は「虚偽を除き」さった「真実」なのか。一見一読すれば誰でも分かる「虚偽」である神話の話は何故廃棄されなかったのか。
千年二千年前の人間は子供の頭を持っていたとするつもりだろうか。
神話を創造するだけでも凄いことなのに、神話の形をとって真実のメッセージを隠したとなるとさらに凄い。もちろん隠すことの正当なる現代か未来における真実がなければならない。映画みたいに二時間もすればお話が終わってしまうのでは話にならない。
古事記は世界最高の智恵の産物、古代の聖者、孔子、モーゼ、キリスト、等がわざわざ日本にまできて教えを受けた(竹内文書)智恵の秘密を後に書き記した文書としたら驚くべきことだろう。
日蓮は自分の教えなど今後出てくるだろう大法の前には太陽の出た後の蝋燭みたいなものとしたという、手紙が残っているという。その大法は何であったかの説明は無く、教え広めなかったし、教えられなかったし、その時ではないという自覚があったのだろう。
「日蓮が日本伝統の言霊布斗麻邇をどのように思っていたのか、知るに恰好の日
蓮の手紙があります。流されていた佐渡の国より弟子の三沢某という武士に送っ
た手紙であります。
我に付きたりしものどもに、真の事を言はざりけると思いて、佐渡の国よ
り弟子共に内な申す法門あり
此は仏より後、迦葉(かしょう)、阿難(あなん)・竜樹(りゅうじゅ)
・天親・天台・妙樂・伝教・義親等の大論師、大人師は知りて而もその心の中に
秘めさせ給ひて、口より外に出し給わず、其の故は仏制して言ふ、我滅後末法に
入らずば此大法言ふべからずとありし故なり。
日蓮は其使にはあらねども其時刻にあたる上、存外に此大法をさとりぬれ
ば聖人の出でさせ給うまで、先づ序文にあらあら申すなり。
而るに此の大法出現せば、正法像法に論師人師の申せし法門は、皆日出で
て後の光、巧匠の後に拙なきを知るなるべし。此時には正像の寺堂の仏像僧寺の
霊験は皆消え失せて、但此の大法のみ一閻浮堤に流布すべしと見えて候。
以上が三沢鈔(みさわしょう)と呼ばれる日蓮の手紙の文章であります」
謎解きに終わって楽しむものではなく、数時間後には解決して安心する映画でも無く、現実と将来が隠し秘められたという確かな過去の証拠によって支えられていて、今のこの世の人間に確認できるものが確かに存するもの、さらには将来の人類の平和に関するものでその手がかりが過去より一貫してあり存在しているもの、そのようなことを気づかせる書物が古事記の上巻である。
話が大きくなり過ぎた。
天地天地。。、、、、、、、。。
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天地の発生。
2009/11/29(日)
天地の発生。
天地は主体が客体に近づくきざしを持つこと、近づいていくこと、地に着いて成ったこと等、切り取り方によってそれぞれです。古事記では天地の初発の時とありますから、まずは発生することから始めたようです。
ここでいう天地とは「天」と「地」の二つのものが発生することではなく、「天地」という全体が発生することです。太極とか今中とかがそれに相当しますが、冒頭に出てくる初めての神の名である「天の御中主(みなかぬし)の神」という命名が実にぴったりとしているように思えます。
言霊学は言葉と心に関することの全体を包含していますので、ここでの適応は、わたしという主体が発生する以前のことになります。主体が発生してしまったら同時に他者客体もあることになりますので、それ以前の話です。
天地を解説するのに主体が客体をというふうに書いていますが、別々に分かれているものではありません。その分かれていない様子をやはり神の名で現すと、天譲日天狭霧国禅月国狭霧の尊というように対になったものの統一体で表現されています。(先代旧事本紀の巻1(神代本紀)やひふみ神示)
ですので天地の初発とはわたしが始まったと感じ思う以前の初めです。潜在性とか先天のとかに相当するでしょう。全ては連続性持続性の中にあるものですから、天地の次に山川となるようなものではありません。雪達磨が大きくなっていくようなものです。ついでに言えば、hp「神の数学」ではヒ1フ2ミ3ヨ4イ5ム6ナ7ヤ8コ9ト0タリで、ヒフミヨイムナヤの八つでことは足りている、8の次の9は0となって繰り上がった0に繋がるようです。
古事記の言霊学も同様に0から始まり次の0へ行きますがその間に八つの戸を押し開いて行く教えになっています。
天地の初めを心の世界の始めとすれば、何もないながら何かの兆しがあるとなります。前0が次の戸を開けて後0となっている状態です。
天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、天の御中主(みなかぬし)の神。次に高御産巣日(たかみむすび)の神。次に神産巣日(かみむすび)の神。
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あめつち。あの目が付いて地に成る。
2011/7/26(火)
あめつち。あの目が付いて地に成る。
古事記の本文は、いわゆる神代記にあって、中下巻の皇統記は付随したものといってもよいでしょう。
序文にもある通り、乱れてきたのは、皇統の記録ではなく神代の巻の意味の取り方の方です。
本家皇室の記録には乱れは無かったのですが、神代の巻きを利用していた官僚たちが、地位や役目に応じてそれぞれ勝手な解釈をしていたのです。
皇統の記録を「諸家」が勝手な記録にしていたのではありませんし、もともと天皇家には連綿とした記録があるのですから、作り直す必要などありません。
考えても見てください。神話おとぎ話が 「正実に違い」 などと誰が思って正しいおとぎ話を作ろうとしますか。
これはひとえに神話部分の解釈に関する事です。古代の朝廷においても政治は、組織体を成して行なわれていますから、各執政者間、官僚間での運用理解に相違が生じてきます。
神代の巻きは執政運用の虎の巻としてあるものですが、全体の運用の秘密はスメラミコトが持っていました。各段階での実地用にも神代の巻きが使用さていました。 それが「諸家」といわれているものです。
教科書の原理は不変ですが、分担され実施される段階では原理は解釈し直されていったのでした。全体を知らない分権を受け持った者たちが、自分らの仕事に都合のよいほうに解釈を加え直して、「正実に違い」というものが、多くできたのです。
それらが多くの古文献です。古文献の相違は皇統の記録というより、神代の巻きに多くの違いが出てきています。各分権を受け持った者たちが共通の原理としていたのが、神代の巻きですが、他の部分を知る必要もなく与えられた権力行使の原理としていたので、その部分に都合よくなっていきました。
とはいっても、古事記の書かれた当時は天皇でさえ神代の巻きの意味は分からないようになっていました。護持された言い伝えはスメラミコト側にはありましたが、この正規の暗唱物語が、官僚たちによって多く形成され、それぞれを主張したのです。
すでに神代の巻きの真の解釈はスメラミコトによってタブーとなっていましたので、形だけでも「正実」なものを残す必要があり、解釈は千数百年後のこととされました。
さて、その古事記です。
古事記は「あめつち」から始まりますが、この「あめつち」が神代の巻き全体に敷衍されていくものです。
「あめつち」を漢語で「天地」と表記してテンチと読めば全ては何意味も持ちません。単なるおとぎ話の神話が「正実」かどうかと、やり合うだけのことになります。そして古代においてもすでに、「あめつち」を天地とした解釈になっていきましたから、そこに禍があることを、指摘し「正実」な記録が残し、官僚たちによる勝手な「天地(てんち)」が今後の歴史のスメラミコトに入り込まないようにしておいたのです。
この「天地」を「あめつち」と読むか、「てんち」と読むかの一点おいて安万侶さんは、千年の歴史を賭けたのです。
「天地」を「あめつち」と読ます仕方もいろいろと用意しておいた御蔭で、宣長によって公式に「あめつち」となり、明治天皇によって「あめつち」の研究が開始されました。
しかし残念ながら、漢語の天地の意味から逃れることができませんでした。形だけは確実に継承されていますから、その意味は出るものが出てくれば、当然分かるものとなっています。
こうして、島田正路氏の『古事記と言霊』ができました。
http://homepage2.nifty.com/studio-hearty/kototama_ver.1/
ここに、正式な解があります。
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「あめつち」というのは、以下の暗示表現です。
1 ・ アの芽(目、め)が付いて地に成る。
2 ・ アの芽が地に付く。
3 ・ アが芽生えて地に着く。
4 ・ その他、各人考えてください。
わたしは当初、2 で解釈していましたが、これは「天地」をてんちと読むことと同じと思い、あ-め-つ-ち、の通りになるように、 1 ・ アの芽(目、め)が付いて地に成る、としています。
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≪【 あ・あめつち 】の詳細。全体図≫。
2011/9/18(日)
≪【 あ・あめつち 】の詳細。全体図≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】
心の出来上がる順を【 あ・あめつち 】によって図示すると。
【 あ・あめつち 】。
〇 天地を【あ・あめつち】と読み、【あ・】の部分。 【 〇あ 】
・人間の頭脳内に何かが起こる。先天構造の活動になる。
↓
➊ 豊宇気毘売の神 (外宮) 【 先天●アからアに 。あ 】
・伊勢神宮の参拝する時の順序は、外宮から行きます。何故かと申しますと外宮の豊宇気毘売の豊(トヨ)は十四ということですが、先天構造を表します。宇気(ウケ)は食器です。先天構造によってこの世の中に生産されてくる精神的な一切のもの、これを先ず外宮で受け取る。
・原材料の準備。
↓
❷ 天津すがそ音図 【 アからメに 。め 】
・ そこで天津菅麻音図という大雑把な入物でもってそれを選別する。 (和久産巣日(ワクムスビ)の神という最小限省略された五十音図がここで出来上がります。これから以降は伊耶那岐命が心の構造として散策する基本としてこの和久産巣日(ワクムスビ)の神である天津菅麻音図を使用する。)
・利用できる材料の選択。
↓
➌ 天津太祝詞音図の先天のア 【 メからツに 。つ 】
・その次にミクビタナに並べる。
『ア(ア・タ・カ・マ・ハ・ラ・ナ・ヤ・サ・ワ)・たかまはらなやさ---』
・材料の活用イメージ化。
↓
(上全体がアに入る)
➍ 太祝詞音図。(内宮) 【 チからアメツチに 。ち 】
・そうすると内宮の天照大神がその並べたものを自由に操作して、世界の文明を縦貫に創造してまいります。
ア-タカマハラナヤサ-ワ
・実際の運用創造。
↓→ (ここに、五つの音図ができる)
◎ 自分のこころ。 【 アメツチの現象創造へ 】
・それからして言霊の学問には神様はおりません。天照大神なんていう神様はいないんです。天津太祝詞音図という人間の最高の心の構造、人間が持ち得るべき最高の構造、それに天照大神という名前を付けたに過ぎない。
・了解できる客観現象化。自分の心という事実を形成する。
↓
〇 自分の事実となった全体が天地を【あ・あめつち】となって、再度【あ・】の部分に納まる。 【 〇あ 】
・ 先天の宇宙、空、記憶、客観、となる。
・主体内における物象化、記憶、言葉、客体化。 【 ん 】となる。
↓
● 豊宇気毘売の神 (外宮) 【 ➊ 】に戻る。
↓
以上の【〇あ】から【➊❷➌➍◎〇あ】への上昇言霊循環をする。
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【 あ・あめつち 】 = 天地
天(あめ)の・天地(あめつち)の初発の時。
先天のアの芽の・天(アの芽が)地(チに着く)、始めの時。
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何という事もありません。精神活動も生産活動も、材料を集め目的に適うよう吟味して、創造していく、その工程のことです。思い起こせば誰でも知っている事です。神話物語というのは実はこんなことです。
下手にこんなことをシェーマ化すると返ってこんがらかります。勝手に真似てもいいし盗んでもいいしどうしても構いませんが、原理は五千年以上も前に古代大和で完成してしまっていたことを忘れないでください。つまり自分のものと主張する権利など誰にもありません。
これからはフトマニ言霊学で一儲けしたいと思うことができる時代になります。やりたい人を止めるわけにもいきません。神もいないしばちも当たりません。スメラの命になるか、金儲けをするかの選択ですので、どうぞ御勝手に。
問題は一体どこにあるのでしょか。日常の些細なことなのに、非常に拡がった問題となります。
スメラの発見した同じ原理が、大々的に世界宗教を成立させ、モーゼに命じて、戦争、貧困不平等悲惨を世界中に起こし、二千年以上もの間、わけも分からずに神道を保持させ、存在しないのに神という観念に人々を埋没させてきました。
真の古事記の解釈が分かった以上、そこから出てくるのが、文句たらたらなんていう事が考えられるでしょうか。
二千年経った後に古事記の思想の真実を知らさせる意味はなんでしょうか。
0) 大和が世界朝廷の指導の為
1) 全人間が悟りの状態であることを最低条件とする為。
2) 全人間が他人の為に働くようにする為。
3) 全人間が自分の自由を主張しても互いに不都合のないようにする為。
4) ・・・・・・・・・・・
等という前に、早く酔いをさまして、古事記の真実というのを、解明しておかねばなりませんが。
古事記は最初の四文字「あめつち」を繰り返し繰り返し説明しているだけですから、この「あめつち」をやっつけることにしましょう。
今度は、アメツチの四文字だけですか。本当に酔いは覚めていますか。
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初発の時の先天のアは、ア(ア・タ・カ・マ・ハ・ラ・ナ・ヤ・サ・ワ)で構成されています。先天内において出来上がったものとしてあるので、心の働きでそれが各次元において簡単に取り出され、自分の心、自我意識のベースとなります。
とはいってもそこから始まる確証があって始まったのではありません。今はこうして綴っていますが、一時間後に書き直したり、明日にもう一度書けば、違うことになり反対のことさえ書くことになることもあります。
でも、いずれの時点でも書いていく時には、自分が書いていて自分の作品であると思えています。記録に残してあるものを後で見れば、なんだこりゃ、ということになります。それぞれ今ここの現時点での表現ですが、何故違いが出て来るのでしょうか。今日と明日では時間差記憶差とかがあるからという面倒なことは省いて、いまの時点でも、自分でいろいろなことが提出できるのは何故でしょうか。
ここの事情は古事記では四番目の神さんの、宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)さんが役割を受け持っています。
古事記にはわざわざ、
『 次に国稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる時に、葦牙(あしかび)のごと萌(も)え騰(あが)る物に因りて成りませる神の名は、』と説明が付いています。
萌(も)え騰(あが)る物に因りて、というように時と場所を変えたらいくらでも、ごちゃごちゃと、これも自分だあれも自分だ、いまはこう考えた次にこう考えた、自分でもおかしいが全部自分だ、というものがでてきます。
それらが先天のアに含まれていればこそ可能なことです。しかそのようなことを誰が可能にするのでしょうか。矛盾した、背反した、イエスといいノーという、そういった意見が平気で出てくるのはどこからでしょうか。
子供の場合には今泣いたカラスがもう笑ったですが、大人でも変りはありません。
出てくるというのはそれなりの形をもったものですので、それなりの形成された構造があります。あれやこれやの、正反の、陰陽のごちゃごちゃにしろ整然にしろ、そういったものが、浮かべる油のごとく暗気漂える場面で燃え上がってくるのです。
その一つ一つがその人のものとなっていきますから、その人にとっては大層立派なものとなります。それがタカマハラナヤサ音図に内包されているわけです。そしてそれを築いた元があり、引き出す元があるはずです。
今度はここに出てくるのが、金木とも太祝詞ともちがう天津スガソという音図とおもわれます。これは創造意志次元を総括する心を現したものです。
意志はその自在さ勝手さによってこれを手なずけることができません。何時どこのどんな場面でという予定には無関心です。スガソというすがすがしさにおいて自由奔放で自然のままです。
神名の「ウケ」は食物のことで、食物・穀物を司る女神である
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言霊を適応した天地の初発の時。
アメツチノハジメノトキ。
以下引用。
<言霊ア>。ワ。高御産巣日の神(たかみむすび)、次に神産巣日(かみむすび)の神。
言霊ア。ワ。広い何もない宇宙に何かが起る兆しとも謂うべき動きが始まりました。言霊ウです。次に人間のこれは何か、の思考が加わりますと、たちまち言霊ウの宇宙が剖判して言霊アと言霊ワの宇宙に分かれます。
剖判の剖は「分れる」であり、判は「分る」です。分れるから分る、分かれなければ分らない。分るとはこういう事であり、それが同じであることを言葉が示しています。
主体と客体、私と貴方、始めと終り…
言霊ア(主体)と言霊ワ(客体)の感応同交によって人間に関する一切の出来事(現象)が生れ出て来ます。人間の一切の行為の元はこの言霊ウ、アワの三言霊から始まります。
< 言霊ケ、メ> 水戸(みなと)の神名は速秋津日子(はやききつひこ)の神、妹(いも)速秋津比売(ひめ)の神
水戸とは港の事であります。速秋津とは速くすみやかに、あきらかに渡す、という意味です。頭脳内の細い川のような所を通って先天の意図が一つのイメージにまとまって来て、終に川から海のように広い口腔に達し、そこが港、それから向うは海となります。言霊ケ、メはイメージが言葉に組まれる直前の集約された姿のことです。この明らかにイメージとしてまとまったものも霊と体、主体と客体を分け持っております。言霊ケは気であり、主体であり、また霊であります。言霊メは芽、目で客体であり、体であります。
<言霊ツ>、大戸日別(おおとひわけ)の神
大戸日別とは大いなる戸(と)即ち言霊図の母音・八父韻・半母音計十言霊の横の列の(と)戸を通して先天の意図(日)である父韻の並び方が調べられ、その意図が現実に何を志しているか、が明らかとなり、「ツー」と姿を現わして来る姿であります。
<言霊チ、イ>、宇比地邇(うひぢに)の神。妹須比智邇(いもすひぢに)の神。
宇比地邇の神は「宇は地に比べて邇(ちか)し」と読めます。宇とは宇宙、いえ等の意味があります。人間の心の家は宇宙です。言霊アの自覚によって見る時、人の心の本体は宇宙であると明らかに分ります。するとこの神名は人の心の本体である宇宙は地と比べて近い、と読めます。即ち心の本体である宇宙と地と同じ、の意となります。宇宙は先天の構造、地とは現象として現われた姿と受取ることが出来ます。そこで宇比地邇の神とは心の宇宙がそのまま現象として姿を現す動き、となります。
言霊父韻チとは「人格宇宙全体がそのまま現象として姿を現わす端緒の力動韻」で
言霊イの父韻は、瞬間的に身を捨て全身全霊で事に当ろうと飛び込んだ後は、その無我の気持の持続となり、その無我の中に自らの日頃培った智恵・力量が自然に発揮されます。須比智邇とは「須(すべからく)智に比べて邇かるべし」と読まれ、一度決意して身を捨てて飛び込んだ後は、その身を捨てた無我の境地が持続し、その人の人格とは日頃の練習の智恵そのものとなって働く、と言った意味を持つでありましょう。
父韻イとは「父韻チの瞬間力動がそのまま持続して行く力動韻」という事が出来ましょう
<言霊ノ、ネ>、天の闇戸の神。次に国の闇戸の神。
闇戸(くらど)とは文字通り「暗(くら)い戸」で、耳の中の戸、即ち聴覚器官の事でありましょう。耳の中へ入り込んで行った言葉はこの闇戸に当って、そこで更めて復誦されます。言霊ノネは「宣(の)る音(ね)」に通じます。ここでも天の闇戸は霊を、国の闇戸は音を受け持ちます。闇戸で復誦されることによって空中を飛んで来た神名が再び真名に還元されて行きます
<言霊ハ> 山の神名は大山津見(おおやまつみ)の神
山の神、また大山津見の山とは八間(やま)の意です。言霊八父韻チイキミシリヒニが発現する姿を図示しますと■となります。この図の八つの間に一つずつ父韻が入ります。またその図の平面の中央を面より直角に引き上げますと山の形となります。先天の意図が津島でイメージ化され、佐渡の島で音声と結ばれ、そして渡(わた)され現われ(津見)たものが言霊ハの言葉だという訳です。父韻ヒは「物事の表現が心の宇宙の表面に完成する韻」と説明されます。その実現の姿が言葉です
<言霊シ、リ>。意富斗能地(おほとのぢ)の神。妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。
意富斗能地は大きな斗(はかり)の働きの地と読めます。物事を判断し、識別する大いなる能力の地という訳です。人はある出来事に出合い、その事を判断・識別する事が出来ず迷う事があります。あゝでもない、こうでもないと迷いながら、次第に考えが心の中でまとめられて行きます。そして最後に迷いながら経験した理が中心に整理された形で静止し、蓄積されます。蓄積される所が心の大地という訳です。この働きから学問の帰納法が生れて来るでありましょう。
大斗乃弁とは大いなる計りの弁(わき)まえと読めます。意富斗能地と作用・反作用の関係にある事から、心の中にある理論から外に向かって発展的に飛躍していく働きと考えられます。父韻リはラリルレロの音がすべて渦巻状、螺旋状に発展していく姿を表わしますから、父韻リとは心の中の理論が新しい分野に向かって螺旋状に発展し、広がって行く働きであることが分ります。この様な動きの理論の働きは演繹法と呼ばれます。学問ではなくとも、多くの物事の観察から人の心の中に一つの結論がまとまっていく過程、また反対にひとつの物事の理解から思いが多くの事柄に向かって連想的に発展して行く事、その様な場合にこの父韻シ、リの存在が確かめられます。
<言霊ケ、メ> 水戸(みなと)の神名は速秋津日子(はやききつひこ)の神、妹(いも)速秋津比売(ひめ)の神
水戸とは港の事であります。速秋津とは速くすみやかに、あきらかに渡す、という意味です。頭脳内の細い川のような所を通って先天の意図が一つのイメージにまとまって来て、終に川から海のように広い口腔に達し、そこが港、それから向うは海となります。言霊ケ、メはイメージが言葉に組まれる直前の集約された姿のことです。この明らかにイメージとしてまとまったものも霊と体、主体と客体を分け持っております。言霊ケは気であり、主体であり、また霊であります。言霊メは芽、目で客体であり、体であります。
<言霊ノ、ネ>、天の闇戸の神。次に国の闇戸の神。
<言霊ト、ヨ > 石土毘古の神(いはつちひこ)の神、石巣比売(いはすひめ)の神
石土毘古の神の石は五十葉(いは)で五十音言霊、土は培うで育てる意、即ち八つの父韻の働きを示します。毘古は主体を表わします。石巣比売の神の石(いは)は五十音言霊、巣はその住家の意で、現象子音がそこから生まれて来る元の宇宙、即ち母音の事、比売は姫で客体を指しています。これだけでは何の事だか明らかではありませんが、言霊がタトヨ……と続く過程は島名で津島と教えられています。先天構造が活動を起し、現象が生れて来ますが、津島と呼ばれる過程で先天の活動が実際に何を意図しているかを一つのイメージにまとめる働きをします。言霊タトヨと続く働きを右の津島という島の意味と重ねてみますと次のような事が考えられて来ます。
先天構造の十七言霊が活動を起し、その先天宇宙が言霊子音ターと後天現象として姿を現わしました。けれどそれは先天活動そのものであり、意識の及ばぬ領域のことですから、ターと現われても何の事だか分りません。父韻はどんな並びになっているか、母音はウオアエ四次元の中の何の次元の活動か、を先ず調べる必要があります。そのため過去の経験の記憶を呼び覚(さ)ますこととなります。次元オの宇宙の中から五十音図の横の列の十音の並び即ち言霊トが、また縦の列のイ段を除いた四つの母音の並び即ち言霊ヨが思い起され、参照比較されます。それによって先天活動の実際の意図は八父韻の如何なる並びか、母音に於いてはどの次元の意図か、が測られます。
<言霊キ、ミ、>角杙(つのぐひ)の神。妹活杙(いくぐひ)の神。
言霊キの韻は掻き繰る動作を示します。何を掻き繰る(かきくる)か、と言うと、自らの精神宇宙の中にあるもの(経験知、記憶等)を自分の手許に引寄せる力動韻のことです。
以上引用。
「ア」主体側。アの情感
「メ」速やかに明らかに纏まる、芽。イメージが言葉に組まれる直前の集約された姿。
「ツ」津、渡し場のこと。その意図が現実に何を志しているか。
「チ」心の本体である宇宙と地と同じ。宇宙は先天の構造、地とは現象として現われた姿と受取ることが出来ます。そこでチとは心の宇宙がそのまま現象として姿を現す動き。
「ノ」宣る、復唱する。耳の中へ入り込んで行った言葉はこの闇戸に当って、そこで更めて復誦されます。
「ハ」端緒、周辺。先天の意図が津島でイメージ化され、佐渡の島で音声と結ばれ、そして渡(わた)され現われ(津見)たものが言霊ハの言葉だという訳です。
「ジ」静かに収まるっている、 迷いながら経験した理が中心に整理された形で静止し、蓄積されます。蓄積される所が心の大地という訳です。
「メ」速やかに明らかに纏まる、芽
「ノ」宣る、復唱する。
「ト」主体意志の戸を通る。そのため過去の経験の記憶を呼び覚(さ)ますこととなります。次元オの宇宙の中から五十音図の横の列の十音の並び即ち言霊トが、また縦の列のイ段を除いた四つの母音の並び即ち言霊ヨが思い起され、参照比較されます。
「キ」掻き繰って自分の方へ集める。自らの精神宇宙の中にあるもの(経験知、記憶等)を自分の手許に引寄せる力動韻のことです。
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