次に淡島を生みたまひき。こも子の例に入らず。
水蛭子が現象の実相を生まない行為に譬えられるとしますと、同様の行為はもう一つ考えられます。それが淡島です。淡島の淡はアワで主体と客体を意味します。このアとワとの間に天の浮橋、チイキミシリヒニの八父韻が懸かれば現象が生まれる事となります。ところが、このアとワは天津磐境の先天構造の中のアとワそのものではありません。心の先天構造に於ては、広い宇宙の一点に何か分らぬが何かが、即ち意識の萌芽とも言うべきもの(禅で謂う一枚)が生れます。言霊ウです。その次に何かの人間の思考が加わると同時に言霊ウの宇宙が言霊アとワの宇宙に剖判します。この場合のアとワは言霊ウの宇宙が剖判して現われたアとワなのです。
ところが淡(あわ)島のアとワは、頭脳内の心の先天構造の動きである「宇宙→ウ→ア・ワ」の過程をネグレクトして、主体である自分と客体である現象とに別れた所から思考が始まる事なのです。ですから淡島の心の運びは天津磐境と呼ばれる人間の心の運びの原則とは全く異なる思考方法となります。(この事については「思うと考えるという事」の章に詳しく説明しました。)この事から現象(客体)に対する我(主体)とは先天構造の中の純粋な主体を表わす言霊アではなく、その人の自我、即ちその人自身の経験・知識等の集積である自我であるという事になります。そのため、自我が見る対象の現象は実相を現わす事がなく、自我という経験知識が問いかけた問に対してだけに答えるものとなります。概念による思考形式が此処から始まります。その結論は物事の実相を表わす事が出来ません。淡島即ち実相が淡くしか見えぬ心の締まりと呼ばれる所以であります。これも人間の心の正統な子の数に入れません。