古事記=子事記=子の事を記す=言霊の現象を記す=言霊現象学
古事記を「ふることふみ」というふりがなを読んでいた時、「記」を「つけ」と読むことがあると知り、古事記とは「こじ・つけ」で、世界最高の言霊による人間精神こじつけ本と思っていました。昨日まではそう思っていたので、軽い気持ちでこじ・つけをしてきたようです。
ところが、今日からは古事記は「こじつけ」ではあるが、何の「こじつけ」かというと、神話による天皇権威とか歴史の「こじつけ」ではなく、実に何でもないこと、子の事、計画して産んで育てることに関する「こじつけ」であることに気付きました。
子というのは自分の分身のことで、自分の産んだ結果、自分の意図した現象、あめつち、アの芽という自分の意図が付いて地に実現したこと、「国土(くに・組んで似せる)を生み成さむ(自分の意図に組んで似せて産む)こと、から始まって上巻を通じて最後まで子を産む話の子のことです。
古事記とは 『子事記』 のこと、子という後天現象創造、精神による文化創造の、平たく言えば、思い考えた意図意思を実行実現する、それらを表明する言葉を発する普通のことであることに気付きました。
古事記神代の巻きは、神の名を語った、自分の欲し考え感じ選択していく、自分を実現していく何でもない普通の事のことです。この自分の位置が長であるか、国家であるか、世界であるかの違いがあるだけのことで、人の行なうことの原理となっている精神の動きを解明したものです。
全ての人に該当し、心の動きの精神原理として解明記されているので、人のどんな形態、地位、知識があろうと無かろうと、限りなく人の心の行いの真実を知らすものです。
精神は自分を表すこと、自分を自分で納得していく、自分を自分という子現象として自己表現しようとするのが特徴です。それは、他の人でも、集団となり、国家となっても、主体の心を持ったものが動く時には誰であろうと同じことです。主体の持つ精神内容を表現しようと、その精神宇宙に表面化しようとすることです。自分の思うことを実現し、つまり、自分という子を産むことです。
現代風に言えば、創造されるものを言語とすれば、神代の巻きは言語論となり、生き方にすれば人生論となり、政治統治とすれば権力治世論になり、子育てなら子育て論、産業運用なら経済論、要するに、人は創造するという性質を持つ者ですから、創造論=自分の子作り論となります。
そういった超超スーパー原理が神の名を語って述べられているわけです。
ことに古代の歴史主体である古代大和人たちは、自らを歴史の中にいる個人主体からから、大和民族を歴史主体にするというコペルニクス的大転回思想に到達しました。
これは個人が個人行為の主体であるという日常主体個人から、村落共同体を越え、足と思いの届く限りの世界全体を視野に入れた、大転換点を得たということです。何もない古代において、大和民族という主体を世界創造の主体として設定したのです。
学校で教わるのは単なる出来ごとの世界史でしかありませんが、古代大和は自らを主体とした歴史展開を意図しました。その原理が神代の上巻です。人の成そうとすることの原理ですから、個人を主体としても、世界歴史の主体を大和としても、同じ原理に沿って行なわれていきます。
大和民族を主体とするのなら、その中に留まって大和を強力にすればいいように思うでしょう。全世界の民族、歴史はそうなっています。相手がいることに気付いたならば、相手に負けないように倒せばいいだけの歴史です。現代もその原理は続いています。
しかし、大和の考えたことは全く別のことです。古代においても他民族、他国、視界の向こう側にも何かあるというのは知っていました。すでに、地球なり、世界なり、全体なり、自分を取り巻く他の世界があることが分かっていたのです。
大和の長たちは(スメラミコト達)、このわけの分からないけどある世界のことも視野に入れて、この地球世界全体を強力にしようという思いを抱いたのです。
これは現代人には思い付きのアイデアという範疇のものですが、古代大和では、そこで創造された言語規範の自動的で当然の行き着く先、誰もが思うアイデアでした。
全く人工的に創造された大和言葉の自然な結果です。大和言葉の創造の結果、その言葉を所持している民族が主体と成った時には、世界を相手にせざるを得ないという、強制といえば強制、自然の成り行きと成り行きなのです。これは五十音を使う現代の日本人においても深く無自覚的に修得されています。ここに他の民族と比較にできないものがあるのです。
いろいろ反論もある中で、簡単な反論を言えば、世界歴史は大和が主体なら、日本の出番が見えないじゃないかというのがあります。世界史というのは大和の聖人が古代において決めておいたものですから、そんなものがあるなら示せということです。
ここが、五千から八千年前に創造した五十音図に則った世界歴史を創造し始めた古代大和の凄いところです。示せるものがなく、反論を撃沈するものもなく、大和日本の出番など無いということ、それ自体が世界史の展開通りのことなのです。
文句を言われ突つかれる、そこにまさに、神代の巻きの展開に沿っていて、大和が顔を出さない理由があるのが分かります。
例えば以上のことを読んできて、お前のは詭弁にもなっていないと思う人もいます。賛否どちらでも構わないことなのですが、ではあなた方の考えを示してくださいというと、どうなりますか。誰もが文字か日本語かで示すでしょう。ある人は阿呆らしいという態度を示します。
では同じことを文字とか言葉とか態度で、アメリカ人アフリカ人に示してみれば、何も理解されません。当たり前だ、考えたことは頭の中心の中にあるのだというでしょう。ではその頭を示してください、その心の中を開いてくださいというと、お手上げのはずです。
アメリカ、アフリカ人に見せてどうするといったところで、日本人を廻りに集めても、頭の中心の中は理解されないのです。心は必ずその表明の為の物象物質を必要とするのです。頭の中心の表現において、物質的にしか表明されない構造を説明したのが、神代の巻きなのです。
その物質物象というのはまさに、主体の「子」なのです。この子は主体側見れば、主体の意図そのものではなく、内容を、言葉で表現した、物質化したものです。内容の次の次、二の次、二の二、ニニギということです。
この例は、大和の決めた世界歴史の主体側の内容は、大和の頭、大和の心の中にあって、その現象表現はこの五千年間の実際の歴史ということです。この五千年の世界歴史は大和の「子の事を記した=子事記」ということです。安万侶さんは隠語で「古事記」といったのです。
主体の頭の中を表すもので、最も主体に近く似ているものは、言葉です。(これを、マニといいます。現代語では真似ということです) しかし、旧約聖書でいうごとく言葉は乱されていますから、現在は日本語の中に半分だけは、古代大和の主体の意図を表明したと同じ言葉が残っているだけです。
それでも現代において言霊学を修得していきますと、古代大和が主体的に創造しようとしてきた数千年を見据えた世界歴史の元とつながり合えるのです。
これは単なるアイデアとして考え出されたものではなく、大和言葉ができた上での必然なのです。古代大和の聖人達は、大和言葉を作ったと同時にその言葉を使用するものを主体とする世界歴史も用意していました。
その途中での物象化段階では、心の意図はそこにある物質を介してしか解されない第三者になってしまうのです。この第三者に拘泥することが黄泉の国にいくということです。黄泉国という「子」を創造しないことには自分を創造できず、それに拘泥すれば自分でなくなることを穢れといいます。
冒頭の言葉「あめつち」の「アの芽が付いて地になる」「アの目指す意図が付いて地という形に成ることです。アの芽という子供が根付いて地に芽生え繁栄していくこととなります。
神代の巻きでは前半が言霊の誕生を扱っていますが、ギミの二人で子供を産もうから始まって、その最後が、まさに子の誕生、【 言霊 コ】大宜都比売(おほげつひめ)の神を生みたまひ、となっています。
ついで、精神の発現創造行為の運用の話になり、百番目の神を産む時に、 「吾は子を生み生みて、生みの終(はて)に、三はしらの貴子(うずみこ)を得たり」と宣言します。
途中は子供の健康診断や、子供に囚われて自分を忘れることや、子供から強制されること等の日常の事柄が挿入されていきます。
ですので、古事記で子というのは自分の生産現象を言います。
例えば、 人として何が大事なことなのか、と問えばその答は、「心の物差し、つながり、礼儀、理性、誠実、罪悪感、助け合い、言動、生きていること、等々、」 百人それぞれですが、一言で纏めれば、自分のしている結果現象のことになります。
それを場面場面に応じて、好みに応じてこうだと言っていくわけですが、その言うという全体が自分のしている現象結果を産むということです。
こうして、そこで古事記は問うわけです。百人それぞれの意見が出ることは子という現象結果を作る上でまともなことですか、と。どうして別々になってしまうのですか、と。
一つ一つの回答を見ていけば一見まともです。しかし、まとまりがありません。各人それぞれですから、それでいいのではとなり、個人主義、相手は相手、やりたければどうぞとなってしまいます。
古事記は特にこういった場面を想定したものではありませんが、精神の言論ですので、どのような場面にも該当するのです。これが世界運用で、政治で、宗教で等々となっていくと、百人十色で済まなくなり、個人の主張を通すだけの関係は険悪なものとなるでしょう。
「子」の事を記すには、整理分析では充分でありません。全体を見据えた自覚的な運用が必要です。
古事記にはそれは「三貴子」として実現されていくと記され、われわれをそこへ向かわせます。
古事記は『子事記』である。