大祓祝詞の話 五の1
人類の第二物質科学文明時代が始まり、その文明創造促進のための方便として作り出された生存競争社会の中に現われて来ました人々の罪穢が、人類全体の生存の危機をもたらす事となった現在、危機回避の唯一の手段である大祓の方法の開示を披露する祝詞の第四章に入ります。
大祓といわれますから、罪穢を祓うためには、今日地鎮祭や開所式などで見られますように、神前に供えてある幣(ぬさ)を持ち、神主さんが参集した人々の前に立ち、その幣を左右に振ってお浄めをする事と思われるかもしれません。
または人々の心の中の罪穢を調べ、良い内容はそのままに、悪い内容は悔い改めさせて罪穢を無くすというキリスト教の懺悔の如き方法と思われる方もいらっしゃるかも知れません。
罪穢の祓いといえば以上のような事が常識であると今日では思われています。けれど日本の布斗麻邇の原理に則った罪穢の祓いは今日の常識とは全く違ったものなのであります。
現在、私達の眼前に展開している人類社会存続の危機を転換して、第一、第二と続いた人類文明を更に飛躍させて人類の第三文明時代の創造を実現させる唯一の方法である大祓でありますから、これよりその大祓の内容を出来る限り詳細に説明して参りたいと思います。
先ずはその大祓の修祓の方法を字句を追って説明し、次にその精神的内容の説明に入ります。
斯かく出いでば
弱肉強食の生存競争の世の中が進み、その果はてにこの地球上が人間の住むに耐えない程生命の危険が増大した時には、の意であります。
天あま津つ宮みや事ごと以もちて
天津はこの場合政治を司る朝廷の、の意でありましょう。宮事の宮とは霊み屋やの意で、言霊の家即ち五十音言霊図を言います。天津宮事以ちて、の全部で「人類文明を創造する政庁である朝廷に於いては、政治の根本原理である五十音言霊の原理を操作・運用することによって」の意となります。
大中なか臣とみ
大祓の行事の最高責任者は政治の中心におられる天皇です。大祓の行事の対象となる人は宮中のお役人であり、また国民・民衆であります。大中臣とは天皇と役人・民衆の中間にあって、天皇の司る大祓の儀の代行者として取り仕切る人、今の行政府の総理大臣に当る役の事であります。
天あま津つ金かな木ぎを、本打切り、末打断ちて、
この文章の解釈が従来は最も困難であった箇処であります。天津金木の内容が不明であったためであります。言霊学が復活して天津金木が言霊五十音図の事であることが判明し、この文章の意味も明らかになりました。
天津金木とは音図に向って最右端の母音の縦の並びがアイウエオとなり、横の十言霊がア・カサタナハマヤラ・ワと並ぶ五十音図の事であります。現代の学童が学校で教わる五十音図のことであり、言霊学によれば人間の言霊ウの次元から発現する人間性能である五官感覚に基づく欲望現象を人間に与えられた五性能の一番中心に置いた時の人間の心の構造を五十音の言霊で表わした音図のことであります。
この天津金木音図を「本打切り、末打断ちて」とあります。音図に向って右の母音から物事は出発し、八つの現象子音の実相の変化を経過して、最後に向って左の半母音に至ってその物事は終結します。
でありますから、「天津金木を、本打切り」といえば音図の本である五母音の縦の並びを音図全体から切り離してしまうという意味であります。「末打断ちて」とは天津金木音図の半母音の縦の並びを切り離してしまう事となります。
千ち座くらの置おき座ざに置き足たらはして
千座とは道ちの倉くらの意です。生命の道理の構造と言った意味であります。「置き足らして」とは、生命の道理に合うようにすべてを置いて見て、という事、即ち「天津金木音図で示される人間の欲望を中心とした五十音図の中で、母音と半母音の列を切り離し、その母音と半母音の列と、中間に展開しているカサタナハマヤラの八行とを、生命の道理を示す構造の上に当てはめて置いて見て」という事であります。この作業が実際にはどの様なものか、は後程説明いたします。
天あま津つ菅すが麻そを、本刈断ち、末刈切りて
天津菅麻とは天津菅麻音図の事で、人が生まれたばかりの天与の心の構造を表わす五十音言霊図の事であります。菅麻とは「すがすがしい衣も」の意で、生まれたばかりの赤ちゃんの心の衣の事です。「本刈断ち、本刈切りて」とは金木の時と同様に天津菅麻音図の母音、半母音の列を音図から切り離してしまう事であります。
八や針はりに取とり辟つきて
天津菅麻音図の両端の母音・半母音の列を音図から切り離し、残った縦の八つの現象音の列を一列ごとに裂いてばらばらにしてしまって、という事であります。
天あま津つ祝のり詞との太ふと祝詞事のりとごとを宜のれ。
天津太祝詞音図に示されている如く、即ち母音の縦の列アイエオウ、音図の一番上の横の列アタカマハラナヤサワの精神構造が示す行法によって天津金木、天津菅麻の精神を宜りなおしてみよ、というわけであります。
以上が三千年にわたる生存競争時代を通して積もりに積もった人類のコンプレックスである罪穢を修祓する大祓祝詞の謂う方法であります。
この大祓祝詞が天津太祝詞子天皇によって制定されて以来、約四千年近い間、宮中に於いて六月と十二月の末に年に二回、天皇の御前に宮中に奉仕するすべての役職にある者を集め、大中臣がこの祝詞を称え、天下に向って宣言して今日に至ったのでありますが、制定された当時は兎も角、生存競争が熾烈となったここ二・三千年間に於いては祝詞を称える行事は続いていましたが、実際に大祓の修祓が実行された事は一度としてなかったのであります。
宣言はあっても実行なし、即ち「今にやるぞ、時が来たならば大祓が行われるぞ」と年に二回、宮中に於いて宣言されながら唯の一度として実行されなかったのがこの大祓祝詞の罪穢の修祓なのであります。
それは何故か、大祓祝詞の罪穢の祓いの方法を真に必要とする人類文明上の「時」が来なかったためであります。と共に日本人の大先祖であります皇祖皇宗の歴史創造の経綸上、この大祓の実行を必要とする迄の期間、大祓の真の意味を明らかにする根本原理であるアイエオウ五十音言霊の原理が宮中の天皇を初め、日本人・世界人類の意識の表面から全く忘却されてしまったからでもあります。
この期間、人々は大祓祝詞の意味を知る事なく過ぎたのであります。そして大祓の精神内容を呪示・表徴する神官による鹿爪らしい演戯・狂言様の仕草の儀式が行われて来ました。それは実際に大祓の実行を必要とする時が来るまで、大祓の精神内容を後世に伝える為の手段・演戯に過ぎないものであります。
聞く所によりますと、過去千年にわたり皇室・宮中の罪穢の修祓を委任されて来た阿倍の清明に始まる土御門神道の大祓の行事の中には、祝詞の「八針に取辟きて」の所で種々の色に染め分けられた布を八つに「ピーッ」と音を立てて裂く仕事が行われているそうです。
その様な仕草によって大祓の行法の真の意味を呪示・表徴したものと考えられます。けれどそれは時が来たならば大祓の真法の精神内容を後世に伝える手段なのであって、布を八針に引き裂いたからと言って罪穢が消え失せるものでない事は勿論の事でありましょう。
二十一世紀を迎え人類が第一精神文明、第二物質科学文明に次ぐ第三の文明を創造すべき時が来ました。第一精神文明の基礎原理であったアイエオウの五十音言霊布斗麻邇が昔あったそのままの姿で復活しました。その事によって大祓祝詞の精神内容も手にとる如く分かって来ました。
「来るぞ、来るぞ」と四千年近い間、予言されてきた大祓祝詞の全人類の罪穢を祓う大いなる力を実行に移す時となったのであります。言霊原理に則り、その行法の内容を説明して参ります。
西暦でいう二十世紀、二千年の間に積もり積もった人類の罪穢を祓う方法の開示であり、大祓祝詞の最も重要な箇処でありますから、分かり易く一行か二行の文章で力強く表現出来ればこれに越した事はありません。現にこの手段開示の祝詞の文章は「斯く出でば……」から「天津祝詞の太祝詞事を宜れ」と美文でもって簡単に説明しています。
しかし、この美文を現代人が容易に理解する為の説明はそう簡単には参りません。その一字一句の説明の段となりますと、人間の精神の精密な部分々々の内容を網羅した膨大な組織にわたっているものだからであります。そうでありますからご面倒でも少々難解で長い説明にお付き合い願う事となります。
先ず大祓の対象となる天津金木と天津菅麻の説明から始めます。図を御参照下さい。天津金木音図は先にお話しましたように、人間の持つ五つの性能の中の言霊ウの次元より発現する五官感覚に基づく欲望性能を五つの性能の中心に置いた精神構造を表わした五十音言霊図です。
即ち独走を始めた須佐之男命の音図なのです。人類が第二の物質科学文明創造の時代に突入して、外国では三千年前、日本では二千年前、精神文明の中心原理であった言霊布斗麻邇を政治の面に適用することを停止してしまった事で、時を経るに従い、弱肉強食の生存競争が熾烈となって来ました。人間の欲望性能が他の人間性能すべてを欲望達成の手段としてしまい、その世相は現代まで続いています。
この二・三千年間は言霊ウの性能が他の人間性能との協調を捨て、独走した世間相を現出させました。「勝てば官軍」「力の強い者勝ち」の世の中となりました。天津金木は今日までの社会を表徴する最も適切な音図という事が出来ます。
古文書に「天皇モーゼに天津金木を教える」とありますように、金木音図の言葉の横の並び「カサタナハマヤラ」は、その自覚に立つものは「百戦闘うも危うからず」(孫子)とある如く、絶対無敵の戦法の所有者となります。
旧約聖書に、エホバ神の「我は戦いの神、嫉みの神、仇を報ずる神」の宣言が見られるのも、ユダヤ民族が天津金木に依るカバラの原理の所持者なるが故であります。この様に天津金木という音図は一にも二にも戦いの音図であり、この音図だけを新入学の小学生に教える現代日本はまだ欲望と戦いの戦場としての日本と言う事が出来ます。
天津金木
ワラヤマハナタサカア
ヰ イ
ウ ウ
ヱ エ
ヲ オ
天津菅麻
ワ ア
ヲ オ
ウ ウ
ヱ エ
ヰニリミイヒシキチイ
天津太祝詞
ワサヤナラハマカタア
ヰ イ
ヱ エ
ヲ オ
ウ ウ
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大祓祝詞の話 五の2
次に天津菅麻音図について説明しましょう。
菅すが麻そとはすがすがしい心の衣の意味で、先に書きました如く生まれたばかりの赤ちゃんが天与に持っている心の構造であり、まだ人工的なものが混じっていない大自然の心という事が出来ます。
その五母音は天である言霊アを上に、地である言霊イを下に、その間にやがて人為の性能が加わるであろうと言霊オ・ウ・エが中に入る事となり、縦にアオウエイが並ぶ事は御理解頂けることと思います。菅麻音図を図でご覧下さい。
母音イと半母音ヰとの間にチキシヒイミリニの八つの父韻が並べてあります。言霊イ・ヰは人間の創造意志であり、八つの父韻はその意志の働きの振動ともいうべきもので、その父韻が母音アオウエの四次元の宇宙実在に働きかけて現象である子音を生みます。
ところが生まれたばかりの赤ちゃんは創造意志を持ってはいますが、まだその創造活動をほとんど発動はしていません。人為的活動をしていません。
そこでこの図に書き表した父韻の並びは父韻の作用の四音チキシヒを右に、反作用のイミリニを左に並べました。実は与えられてはいますが、活動していないのですから、その並びはどう書いても構わない事になります。全く菅麻音図とは大自然の中の人という生物の心の構造図なのです。
人間のすべての営みの現象はこの菅麻音図にある五十音言霊によって構成されますから、菅麻音図とは人間生命の一切を創造する親神である伊耶那岐の神の音図と呼ばれます。それは人間の営みの善悪、美醜、真偽、得失がそこから生まれて来ますが、この音図はこれから全く超越した次元であります。
以上天津金木、天津菅麻の両音図について説明しました。
次に天津金木を取上げて「千座の置座に置き足らはして」があり、天津菅麻の下に「八針に取辟きて」が書かれておりますが、これは大祓祝詞を最終的にこの文章に修飾したと伝えられます柿本人麻呂が祝詞の文章を称え易い美文調にする為に、詩的表現を用いましたので、その正確な内容から言えば「天津金木を、本打切り、末打断ちて、天津菅麻を、本刈断ち、末刈切りて、千座の置座に置き足らはして、八針に取辟きて、天津祝詞の太祝詞事を宜れ。」となるのであります。「千座の……」と「八針の……」の操作が金木と菅麻の双方の音図に掛かるのでなければ、大祓の修祓の意味が通らない事に依ります。
さて、これより大祓の精神内容に立入ることといたしますが、先ず気が付きます事は、方便として現出させた生存競争の時代の特徴である「我良し」の心の根本となる天津金木音図が修祓の対象となる事は容易に理解できる事でありますが、人間の心の営みのすべての根源法則である伊耶那岐の神の音図である天津菅麻が修祓の対象となる事は中々理解し難い事であります。大祓祝詞の文章だけからでは理解不可能に近い事です。
大祓祝詞全体の内容が古事記神代の巻によって呪示された言霊布斗麻邇の原理の復活によって初めて解明されました如く、大祓の天津菅麻の修祓の理由も、古事記の「身禊」の章における「禊祓」の手順の克明な開示に照合する時、初めて明らかに理解されるのであります。と同時に古事記の言霊原理による「禊祓」によって大祓の修祓が明白に浮かび上がって参ります。(「古事記と言霊」の「身禊」その二参照)。
古事記神代の巻の「身禊」の章は、言霊百神の中の七十四番目の伊耶那岐の大神より百番目の須佐男命までの二十七の神名によって、大祓の修祓の方法を詳細に述べています。
今、大祓祝詞が述べる天津金木、天津菅麻を天津太祝詞に宜り直す方法は、古事記の禊祓では「大禍津日神、八十禍津日神より神直日神、大直日神、伊豆能売」にかけての手順で心行くまで明白に説明されています。その古事記が示す内容によって大祓の修祓の意味を明らかにしましょう。
大祓も古事記の禊祓も、世の中に現われて来る種々の罪穢を、国家や朝廷が定めた規則に照らし合わせて、その善悪、美醜、真偽、得失等を調べ、それによって裁判の如く判定を下すという事ではありません。では調べないのか、と申しますとそうではありません。
綿密に調べ、社会に現出して来る一切の物事の実相を明らかにします。ただ違いますのは、調べた事をそのまま論あげつらうのではなく、その物事が国家・社会の歴史の流れの中にあってどの様な時処位を持っているのか、その物事を社会の文化・文明の中に吸収する時、どの様な変化をするか、を見極め、更に物事の責任者にどう説明し、命令すれば進んで納得し、生甲斐を感じてくれる事が出来るか、が勘案され、その結論が当事者に至上命令として発表されるのです。
如何なる善悪も、美醜も、真偽も、得失も、一切を捨てることなく、国家・社会・人類の文明創造の材料として摂取され、善悪・美醜……を超えた彼方に新しい歴史生命として甦えらせるのです。
コンプレックスである罪穢は歴史創造の中に吸収され、新しい生命となって生まれ変わるのです。これが大祓の修祓の方法であり、古事記禊祓の手順であります。
この時、大祓祝詞の謂う天津金木は、その「我良し」の生存競争の自我意識は新しい産業・経済・学問の社会創造の流れに汲み上げられる事によって自我は消失し、その才能が社会建設の奉仕精神として生まれ変わるでしょう。
では言霊が存在する言霊イの次元の構造を示す天津菅麻音図はどうなるのでしょうか。言霊原理はこの時、大祓実行のための基本原理であることに違いはありません。けれど基本原理であるが故に、行法の全面に主張される事はなくなります。
縁の下の力持ちの役に甘んじる事となります。古事記禊祓に於いて創造意志である言霊イの言霊原理の大禍津日おほまがつひ神として規制され、その隠れた役目に甘んじる事によって大直日(言霊ウ)、神直日(言霊オ)、伊豆能売(言霊エ)の絶対真理への道が切り拓かれることとなります。(以上の自我意識の葛藤の消失による人類文化の創造の精神内容は大祓の次の章で詳説されます。)
この処の消息をもう少し説明します。
言霊布斗麻邇の原理が復活し、この原理によって禊祓をしようとする時、この言霊原理を鏡として社会の種々の物事を新しい歴史創造の材料として吸収しようとする時、ともすると「言霊原理に拠れば、この様にするのは当然だ」と、原理の説明とそれによる説得に終始し勝ちとなります。
これは言霊原理の存在を認めた者には当然のように思われますが、古事記禊祓ははっきりとこのやり方を否定します。言霊原理を鏡としないではありません。鏡とした上で、更にこれを禊祓の方法として腹の中に呑み込み、その上で物事の現在から新しい歴史創造の役に立つ生命を吹き込む言葉を与えて生かして行くのです。
言霊原理を振りかざす事は「大禍津日」の「大禍おほまが」に当ります。その大禍を心の中に秘めて、新生の言葉を与えて「津日」即ち日である言葉の示す真理の結果(日)に渡す(津)言葉(至上命令)を発動すること、これが古事記の禊祓であり、大祓の天津太祝詞事、即ちタカマハラナヤサの天皇(スメラミコト)の御み稜い威づなのです。
そこで「斯く出でば……」から「天津祝詞の太祝詞事を宜れ」までのこの章の全訳を書いてみましょう。
人類社会の罪穢が積もりに積もって、社会崩壊の危機が迫った時には、政治の庁である日本の朝廷に於いて、天皇の政治の代行者である大中臣は、生存競争社会の基本精神構造である天津金木音図の中から、
主体を表わす「我良し」の観念の母音の列アイウエオを切り離し、
利害・得失のみを追及する目的としてのワヰウヱヲ半母音を切り離して、
母音と半母音の間に挟まれた、物事が初めから目的に行き着くまでの現象の経過を表わす八つの子音の並びを列毎に切り裂いて、
歴史創造の自由な発想の原点に帰り、
人間生命の道理に基づく天津太祝詞のタカマハラナヤサの禊祓の手順に改めて宜り直すこと、
また時代転換のために甦った来た天津菅麻である言霊原理を歴史創造の基本法則に据えながらも、
縁の下の力持ちの役目に留め、大禍津日より伊豆能売への発想の転換を成就されて、
そこから涌いて来るタカマハラナヤサの御稜威の光の下に、
社会の一切の物事を人類文明創造の材料として摂取し、
これに新しい生命を与えて歴史を推進させ、その創造の光の中に罪穢が必然的に消滅して行くよう務めなさい。
これが天津祝詞の太祝詞事であります。
以上、四千年程前、人類歴史の将来に備えて制定されました大祓祝詞の罪穢の修祓について説明いたしました。四千年の昔に、現代の人類が迎えるであろう社会崩壊の危機を予言し、更に弱肉強食の天津金木思想を人間生命本具の平和の社会に転換し、その時に復活して来る言霊布斗麻邇の原理の運用に誤りなきよう大祓祝詞と古事記による言霊の原理を遺して下さった私達日本人の先祖の深謀と遠慮に心より感謝の念を禁じ得ません。
外国に於いては三千年前、日本では二千年前、言霊の原理の世の中の政治への適用が停止されました。神話の謂う言霊原理とその活用である天照大神の岩戸隠れとなりました。太陽である天照大神(言霊イ・エ)は隠れ、日の光の反射光である月読命(ア・オ)と独走の須佐之男命(ウ・オ)の二つのみの世界となりました。
日である天照大神が隠れ、その代役を果たしたのは月の光の月読命の宗教・哲学・芸術活動でありました。月読命と須佐之男命はこの三千年間、それぞれの分野に拠って産業発展と環境問題、戦争と平和等の社会問題で事毎に対立して来ました。
ところが、その対立の構図は、生存競争時代の精神構造を言霊を以って表わす天津金木音図それ自体に見る事が出来ます。(図参照)。
金木音図を縦横で半分ずつに仕切り、その向って右の上の列を見ると、アカサタナとなり、これは「明あかき悟さとりの田たを成なせ」と読めます。
これは正しく宗教の心を表わします。即ち大自然の心である菅麻音図に帰ろうとする心です。また、その中心に言霊スが入ります。音図の向って右半分を主基田すきたと呼びます。
音図の向って左半分の上段はハマヤラワとなり、これは「端はをまとめて八つに並ならべて和わせ」と読めます。これは正しく物質科学探究の心です。音の左半分の真中に言霊ユがはいります。そこでこの音図の半分を悠紀田ゆきたと呼びます。
宮中に於いては毎年新嘗祭にいなめさいに、また、天皇一代に一度の即位の時の大嘗祭に主基・悠紀の田を定め、そこから獲れる新米の稲穂を天皇自ら主基田の月読命と悠紀田の須佐男命に言霊を表わす稲穂(イの名なの穂ほ)を献じて、ここ三千年の月読と須佐男の対立の構図が実は皇祖皇宗の物質科学探究のための言霊学による経綸なのである事を告げ、「物質科学文明成就の暁には天皇自ら言霊布斗麻邇の原理を以って、三千年の月読・須佐男の対立に終止符を打ち、第三の文明時代建設を親裁するぞ」との予告なのです。
この行事も大祓祝詞と同様、物質科学文明時代の終わりに当り、人類の危機を転換する方法の予告であり、同時にその実行法の呪示と言う事が出来ます。
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大祓祝詞の話 六の1
修祓
前号にて大祓祝詞が予言・宣布して来た人類の罪穢の大祓の精神的内容について解説いたしました。その修祓とは、人々の犯す罪穢の一つ一つを対象としてその内容を明らかにし、その上で宗教が従来行って来たように「汝等悔い改めよ」と改心・懺悔させる事によって罪穢を祓う事ではなく、世の中の人々の心の中に鬱積する種々のコンプレックスを歴史創造の中に取り込み、これに心の光、即ち言霊の光の言葉(霊葉ひば)による新しい生命を与えて、罪穢を消滅させて行くことだとお話しました。謂わばその大祓の内容のキーワードは「創造の光」でありました。御理解頂けたでありましょうか。
今号では、初めにその御理解を更に深めるため、大祓祝詞の大祓の内容を言霊原理そのものの立場から、人類歴史創造の言霊の光の言葉が何故人々の罪穢を消滅させる事が可能となるか、お話申上げてみたいと思います。その「何故可能か」を最終的に御理解頂くために、言霊の基礎原理・法則をいくつかの予備知識として取り上げることといたします。
第一に「時」とは何かという事です。現代人は過去・現在・未来と時は流れて行くと思っています。これが常識でしょう。しかしその時の中に生き、生活を営む人はただ時の中を流れて行くというだけでは説明できないことがあります。
人間は「今」に生きています。今以外に生きてはいません。「若者は未来に羽ばたく」と言い、「老人は過去に生きる」と言います。が、未来に羽ばたこうと希望を燃やすのは未来に於いてではなく、今です。老人が過ぎし良き時代を回顧するのも今なのです。人間の生命は今に生きていなす。
人間の心の最奥の単位である言霊は、イ次元の間にある「今」に存在します。これを「永遠の今」と呼んでいます。ですから図を御覧下さい。時を現わす図は(イ)となりますが、実際には(ロ)図なのです。煎じ詰めると、一切のものは「今」に備わっているという事が出来ます。この消息を禅は「一念普く観ず無量劫、無量劫の事即ち今の如し」と言っています。過去数千年、数百、千、万年…人類の経験はすべての人間の心の中に詰まっており、必要次第で現在意識に蘇えって来ます。
(イ)
(ロ)
今
過去
未来
イの間
言霊の会 1
大祓祝詞の話 その六 平成十三年七月十日・会報第157号
過去ばかりではありません。心の今の中に人間の将来の全ての可能性も詰まっています。一つの希望・計画の成功・不成功も「今」の中に見ることが出来ます。以上の事を言霊学原理に示される如く展開・活用するならば「今」に備わる人間の一切の記憶・意識を赤珠音図の父韻キチミヒシニイリの順に並べれば、人類の将来相とその予言が掌たなごころを示すが如く明らかになるに違いありません。以上の如く、今とは言霊イ次元の道(いのち)の間(ま)なのであり、人間の一切が存在する間なのです。
第二として、大祓の修祓の対象として取り上げられている天津金木について話を進めます。神話で謂う天照大神の岩戸隠れ以来、歴史的事実としては神倭朝十代崇神天皇による天皇と三種の神器との同床共殿の廃止以来、世界は須佐之男命の言霊ウの五官感覚に基づく欲望性能が他の現象界である言霊オアエの三次元領域をも支配する天津金木の社会一色の世界となりました。
言霊オ(学問)、言霊ア(宗教・芸術)、言霊エ(政治・道徳)の天与の三性能は、言霊オの欲望を達成する為の手段としてのみの存在となりました。言霊ウは他の三次元と協調して働くべき人間性能であるべきものが、今や完全に言霊ウの独走により他の三性能は言霊ウの傘下に入ってしまった観があります。
その状態が既に西欧に於いては三千年、日本に於いては二千年間続いています。この様な社会相を変革して、第一精神文明と第二物質科学文明との協調による人類の第三文明の時代を切り拓く為に先ず注目すべき仕事は、独走し、更に他の人間性能を支配している言霊ウの天津金木思想の修祓でなければならないでしょう。
天津金木が大祓されれば、必然的に人間の他の三性能言霊オアエも五次元並列の平等の関係を取り戻す事となります。大祓祝詞がその修祓の最初に天津金木を挙げたのも以上の理由であったからでありましょう。
大祓祝詞が制定された四千年近い昔に、日本人の大先祖である皇祖皇宗はこの事情を予見し、大祓祝詞を制定し、その修祓の第一に天津金木の名を挙げました事は、言霊布斗麻邇の原理による世界人類の歴史創造の御経綸が如何に素晴らしいものであるか、頭が下がる思いがいたします。
言霊の会 2
大祓祝詞の話 その六 平成十三年七月十日・会報第157号
第三に申上げたいのは、大祓の対象として挙げられている天津菅麻についてであります。天津菅麻五十音言霊図とは言霊原理の構造の基礎となる人間に与えられた五十音言霊という素材を生まれた時の、まだ人間知性が働き出る以前の不確かな状態で並べた音図であります。
この音図を出発点として人間の言霊ウオアエ各次元の精神活動の音図が完成されて来ます。すべてを生み出す根本の言霊図でありますから、創造神伊耶那岐命の音図とも呼ばれます。これは伊耶那岐の大神が言霊原理の最終結論を成就する行法である「禊祓」を始めるに当り、その行為の基礎とし、拠り所とした「竺紫つくしの日ひ向むかの橘たちばなの小門をとの阿あ波は岐ぎ原はら」の事であります。
伊耶那岐の大神は禊祓を開始するに当り、先ず対象となる一切のものをこの菅麻音図上に照らし合わせて、その時処位・実相を見極め、その見極めた内容を更に自らの内面性真理である建たけ御雷みかづちの男をの神という音図上に置き足らわして一切のものに新しい生命を与えて行き、その実行方法の誤りない事を極める事によって、言霊原理の総結論である三貴子みはしらのうずみこを手にしたのであります。
以上でお分かり頂けると思いますが、古事記の禊祓に於て天津菅麻は、その禊祓の実行以前の準備作業として物事の実相や時処位を決定する用を果たす基礎の役目となります。
禊祓の実行は更に建御雷の男の神という八咫鏡完成以前の、謂わば伊耶那岐の大神の内面にのみ自覚された建御雷の男の神、即ち仮初の言霊原理の鏡に参照して行われるのであります。
大祓祝詞が大祓の対象として天津菅麻を取り上げますのは、その音図が禊祓の準備段階に於ける必要を述べ、その音図に照合された物事の実相、時処位の見極めが直ちに善悪、美醜、真偽、得失の裁定・判断に直結されて、それが禊祓であると思われることを否定したかったからに他なりません。
禊祓も大祓も一定の原理に基づく諸事物の善悪……の裁判なのではなく、一切を文明創造の光の中に抱擁することによって罪穢・コンプレックスを解消させることだからであります。
第四として大祓の対象になる罪穢の善悪(エ)、美醜(ア)、真偽(オ)、得失(ウ)の相違とは何かについて考えてみましょう。
言霊の会 3
三十年以上昔、大祓祝詞の話 その六 平成十三年七月十日・会報第157号
私が言霊学の先師、小笠原孝次氏の門を叩いて間もなく、私は先師に「この世に神というものがあるとする時、何故人間に悪があるのですか。神があるなら、世の中にこれ程多くの悪がなくて社会文明を創造して行く事が出来ないものでしょうか。」師は言いました。
「お答えしましょう。その前に貴方に一つ質問します。悪とは何ですか。明瞭に言って下さい。」
私は言いました。「例えば人を殺すことです。」「戦争で敵兵を大勢殺して勲章を貰った人がいます。どういう事でしょう。」「私利私欲で人を殺すこと、これは悪です。」
「戦争で自国の利益を守るために宣戦を布告し、何万、何十万の人々を殺し、戦いに勝ち、大英雄と讃えられた大統領がいます。殺さなければ我が身が殺される場合もあります。これについてはどう思いますか。」問答をしている間に、私は何だか分からなくなって来ました。勢い込んだ口振りが当惑に変わりました。その時、師は次の様に教えてくれたのでした。
「本来悪は無いものなのです。謂わば光に対する影のようなものです。
影ばかり見ている人には影があたかも実在するもののように思われるでしょう。
けれど影は本来ないものです。
光が当れば瞬間に消えてしまいます。
影が何処かへ行ってしまったのではありません。
悪も本来無いものです。
心の光が当れば、その瞬間に消えてしまいます。
何処かへ移動していなくなった訳ではありません。
ですから悪は本来存在しません。
強いて言うならば、悪は善が何であるか、を人間が分かるためにのみ仮に存在する、という事が出来るでしょう。」
この教えを聞いている間に、私の心は深い感動に包まれて行きました。師は善悪についてのみ話をされました。けれど美醜・真偽・得失の相違についてもほぼ同様のことが言い得る事に気が付いたのであります。先師のこの教えはそれ以来、私の脳裏に留まり、「古事記と言霊」に於ける「禊祓」並びに本講大祓祝詞の「太祝詞事を宜れ。」の内容解明に決定的な判断の基礎となったのであります。
言霊の会 4
大祓祝詞の話 その六 平成十三年七月十日・会報第157号
先師が教えてくれた「光と影」の内容を、言霊原理による人類文明創造を呪示する古事記「禊祓」の章では、事細やかに「大禍津日、八十禍津日……大直日・神直日・伊豆能売から綿津見三神・筒の男の三神」の処で説いております。その間の消息を此処で簡単に復習して、大祓の眼目を言霊学によって説明する準備の第五といたします。
古事記の禊祓に於いて黄泉よもつ国の文化を人類文明創造の材料として摂取する場合、
道の長乳歯の神より飽咋の大人の神までの五神の働きで黄泉国の文化の実相が詳細に調べられ(「古事記と言霊」参照)、
次に奥疎の神より辺津甲斐弁羅の神までの六神の働きで、摂取される黄泉国の文化の現状と、摂取された後にどの様に変わる事になるか、が調べられます。
次にその様に変わらせる事を可能にする方法が求められます。
そこに現われるのが八十禍津日の神と大禍津日の神の二神です。この二神の働きは共に文化創造に欠く事が出来ない基礎原理ではあるが、飽くまで基礎原理であり、縁の下の力持ちの役目に留まる事が確認されます。
この二神の内容が禊祓または大祓の重要な眼目の部分となりますので、簡単に説明します(図参照)略。
黄泉国
影の世界
無自覚
短山
高天原
光の世界
自覚
高山
五十音言霊図を上下に型どった百音図から両側の母音と半母音を除いた間の八十音は、物事の現象に関係する音です。
この八十音は上下が中間の横線を境として対称となります。この上下対称の音図は何を意味するか、と申しますと、そこから古事記の八十禍津日の神の内容が浮かび上がって来ます。
横線を境に対称となる一音一音は同じ音であり、同じ実相を表わし、姿としては何ら変わるわけではありません。では何故上下に別れるのか、といいますと、上は光の世界であり、下は影の世界であるからです。
光の中の上段は高天原天国であり、言霊原理自覚の世界であり、大祓で高山たかやまと呼ばれる領域です。それに引替え、光のない下段は黄泉国地獄であり、言霊原理無自覚の世界、大祓で短山ひきやまと呼ばれる領域です。
●
大祓祝詞の話 六の2
同じ音、同じ姿でありながら、どうしてこうも違うものとなるのでしょうか。実の所、この世の姿は唯一つ図の上段の姿以外には何もないのです。それが違ったものになるのは、人類が禁断の実を食べ、天照大神が岩戸隠れして以来、人々は自らの心の光の自覚を失い、光の言葉を忘れてしまったからです。
言霊の会 5
大祓祝詞の話 その六 平成十三年七月十日・会報第157号
概念という便利そうな観念に基づく言葉を喋るようになり、その言葉で構成された見地から物事を見る時、物事の光の当らぬ影ばかりを見ることとなり、当然物事の実相を明らかに見る事が不可能となります。「葦の髄から天井のぞく」業ごうを背負わされてしまったのであります。
では、どうしたら闇の中に閉ざされたものを光の世界に導くことが出来るのでしょうか。古事記の禊祓を更に辿って行く事とします。
八十禍津日の神の働きで人間の心の光と影の対称のからくりが明らかにされました。この対称が明示されても、それだけで影から光の世界へ行けるものではありません。
また大おほ禍まが津つ日ひの神の所で説明されているように、言霊原理(菅麻音図)を土台とする言霊法則を学べば光の世界は開ける、と分かっても、すべての人々にその原理の自覚を促す事が出来る訳ではありません。
それが為に、八や十そ禍まが津つ日ひも大禍津日も「禍」として直接にそれによって光の世界に導く事は不可であると規制され、八十禍津日も大禍津日も禊祓を行う基礎原理であるに留められます。
そして禊祓成就の真法として神かむ直なお日び(オ)・大おほ直なお日び(ウ)・伊豆能売いづのめ(エ)の三神が登場します。
闇から光へ導くために八十禍・大禍は基礎原理に過ぎないから駄目であり、津日即ち日に渡されます。
日は霊で言霊であり、光の言葉の事です。その光の言葉に渡す方法が神直日・大直日・伊豆能売の三神であります。
そしてこれ等三神ならば黄泉国の文化一切を高天原の光の世界へ導く事が出来るのだ、との確認が底・中・上の三綿津見の神によって出来上がり、
そこで日に渡す実際の光の言葉の配列が底筒男(エ・テケメヘレネエセ・ヱ)、中筒男(ウ・ツクムフルヌユス・ウ)、上筒男(オ・トコモホロノヨソ・ヲ)の三神であり、
その光の言葉配列成就による禊祓を行う基礎原理の結論が、天照大神・須佐之男命・月読命の三貴子(みはしらのうずみこ)であります。
以上の事でお分かり頂ける事と思いますが、世の中の事物を闇から光の世界(高天原の創造世界)に引上げる方法は、それらの事物を光の言葉、即ち言霊原理(言霊イ)に基づいた言霊操作の智恵(言霊エ)より出る言葉を与える事なのであります。
世の中の言霊ウ・オ・エ次元に展開する物事を、その姿を何ら破壊することなく、そのままの姿で影から光の世界、黄泉国より高天原へ引上げ、物事が実際に存在する真実・実相の世界の歴史創造の材料として生かし、新しい生命に蘇えらせる唯一の道が光の言葉「霊葉」なのです。
言霊の会 6
大祓祝詞の話 その六 平成十三年七月十日・会報第157号
少々難しい話が続きました。右の禊祓の方法を後世に伝えるために、天神様と尊ばれる菅原道真が作ったと伝えられるおとぎ噺ばなし「桃太郎」についてお話しましょう。
「昔々、おじいさんとおばあさんがいました。おじいさんは山に柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました。……」と噺は始まります。このおじいさんとは伊耶那岐の命のこと、おばあさんは伊耶那美の命と言います。
おじいさんとおばあさんが合わさって一人になった姿を伊耶那岐大神と言います(古事記「身禊」の章参照)。
おじいさんは山に柴刈りに行きました。山とは八父韻原理 ■のこと。
柴は霊葉、現象子音言霊のことです。
先にお話しました心の光と影の処で、影の世界から光の世界へ物事を引上げる唯一の道は言霊原理に基づいた現象子音(霊葉)の事と申しました。
おばあさんは川へ洗濯に行きました。川とはアからワ、エからヱ……と流れる竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原の川の瀬、即ち伊耶那岐大神が禊祓をした川の中つ瀬の事です。
洗濯とは勿論、伊耶那岐大神の人類文化創造の「禊祓」を謂います。
川上から大きな桃が流れて来ました。桃は百もの事で、言霊百神の古事記の原理の事。
この原理がおじいさんの柴、即ち霊葉である現象子音言霊の配列(綿津見・筒男)の確認によって完成され、言霊百神の原理が完成し、その中からこの原理を運用・活用する言霊エの完成体である桃太郎が誕生します。
桃の原理の総結論である三貴子の中の桃太郎(長子)である天照大神のことです。
桃太郎(言霊エ)は犬(イ)、猿(ウ)、雉(オ)、熊(ア)を家来とし、おじいさん(岐)とおばあさん(美)の作った岐美(黍)団子を持って鬼が島を征伐します。
鬼とは言霊オの似、即ち黄泉国の文化のことであります。めでたし、めでたし。
言霊の会 7
大祓祝詞の話 その六 平成十三年七月十日・会報第157号
大祓祝詞の「天津祝詞の太祝詞事を宜れ」という事を現代に生きる人が実行する場合、現実にどんな事を成し、またどんな事が起るのか、を説明するに当り、その予備知識を五乃至六箇条にわたり準備をして来ました。
これ等の予備知識を心に留めながら、この現実の社会に起って来る一切の出来事を摂取・処理して、人類文明創造のための材料として新しい生命を与える言霊原理に基づく現象子音で綴られた言葉を発して、一瞬の今・今・今の此処に於いて業縁の闇の世界から光の高天原の世界に引上げる事によって罪穢を消し去って行く方法如何を改めて述べて見ましょう。
「天津宮事以ちて」
天皇(スメラミコト)が人類文明創造の政治を行うに当って……
「大中臣、天津金木を、本打切り、末打断ちて」
天皇の代行者である大中臣は、ここ三千年間、他の人間性能との協調を拒否し、独走して他の性能(アオエ)すべてを自らの言霊ウである欲望達成のための手段として来た天津金木思想の内容とその手段(カサタナハマヤラ)を大中臣の心の中にすべて理解して、……
「千ち座くらの置おき座くらに置き足らわして」
大中臣の心中に自覚している言霊によって構成された生命の原理(五十音言霊図)に照らし合わせて、眼前の出来事の内容、並びにその出来事が起って来た歴史過程等を、今・此処の一瞬に働く八父韻ア・カサタナハマヤラ・ワの配列に於いて把握し、――
「天津菅麻を、本刈断ち、末刈切りて、八針に取辟さきて」
物事を処理するに当り、どの様な方法をとるかを決定する心の構造の原因である菅麻音図の母音と半母音を除いた後の八つの父韻の道理に基づいた、物事を対象として外に見る対処の思考方法を一切御破算にし、白紙に戻し……
「天津祝詞の太祝詞事を宜れ」
その上で、天皇御自身と全世界が一つの身体であるとの自覚の立場に立ち、眼前の世界で起っている出来事がすべて天皇御自身の過去身が「そうなれ」と命じた所の結果であり(ア・カタマハサナヤラ・ワ)、天皇御自身の責任であると受け止め、その結果の全内容を材料として、
言霊の会 8
大祓祝詞の話 その六 平成十三年七月十日・会報第157号
天皇の大御心の内容である天津太祝詞音図に基づく歴史創造の方法ア・タカマハラナヤサ・ワから発する言霊子音の光の言葉で、それに新しい生命を賦与し、実行の叶う手順を示しながら「かくせよ」の命令を発令する事であります。
その天皇の大御心の言葉は、眼前の出来事を一瞬々々、その場で影から光へ、破壊から創造へ、混乱を調和に、悲観を歓喜に、暗黒世界を光明世界に変え、世の中の罪穢は一瞬々々歴史創造の中に消えて行く事になります。
以上、「天津宮事以ちて……天津祝詞の太祝詞事を宜のれ」の大祓操作の言霊原理による説明を申上げました。
言霊五十音は今・此処「中今」に存在します。その言霊五十音を一瞬の次元イの間に於いて操作する天津宮事の政治は、歴史の中に起る種々の出来事の時処位並びにそれが起ってきた由来のすべてを言霊図によって把握し、摂取して、それ等を材料としてスメラミコトの歴史創造の法則、ア・タカマハラナヤサ・ワの天津太祝詞の順序に置き換える光の言葉・現象子音の言葉の命令を下す事によって皇祖皇宗御経綸の歴史を創造し、その創造の瞬間々々としての光の中に、過去のコンプレックスである罪穢は必然的に消滅して行く事になります(図参照)。
タカマハラナヤサ
カタマハサナヤラ
高天原黄泉国
言霊自覚 言霊無自
覚実の世界虚の世界
光の世界 影の世界
高山 短山
今・此処
●
大祓祝詞の話 七の1
先月号において大祓祝詞の眼目とも言うべき「天津祝詞の太祝詞事を宜れ。」の文章の言霊原理による説明が完了しました。大祓祝詞の罪穢の修祓とは個々人の行為の善悪の判定・裁判のことではなく、世の中に集積される罪穢を人類文明創造の材料として摂取し、言霊原理に基づく光の言葉、即ちタカマハラナヤサの歴史創造の行為の中に取り込んで行き、影を光に、悲歎を歓喜に、混乱を調和に転換し、皇祖皇宗の人類歴史創造の経綸を推進して行く事でありました。
「天津祝詞の太祝詞事を宜れ。」の意味が以上の如く解明され、御理解頂きますと、その個所に続く大祓祝詞の文章は一貫した筋が通ったものとして理解する事が可能となって来ます。先ず大祓祝詞の解釈を次に進めることにしましょう。
斯く宜らば、天津神は、天あめの磐いは門とを押し披ひらきて、天の八重雲を嚴いづの千ち別わきに千別きて聞きこしし召めさむ。国津神は、高山の末、短山の末に上りまして、高山のいほり、短ひき山のいほりを溌かき分けて聞し召さむ。
斯く宜らば――
大祓とは天皇(スメラミコト)の人類歴史創造の光の中に影である罪穢を自然消滅させることであると宣言されると、いう事であります。
天津神――
先に天津罪とは人間頭脳内の言葉の原理、即ち言霊原理の秩序を乱す形而上の罪であり、国津罪とは個人や人間社会の秩序を乱す個人的な形而下の罪であると言いました。天津神とはその天津罪に対応する言葉で、言霊の原理を自覚して、その原理・法則を活用して社会の政治を司り、人類社会の歴史創造に直接携わる人のことであります。
天あめの磐いは門とを押し披ひらきて――
磐門は五十い葉は戸とのことであります。五十音言霊の原理・布斗麻邇は長年月の間、社会意識の底に隠されていました。神倭朝第十代崇神天皇による三種の神器と天皇との同床共殿(床を同じくし殿を共にする)制度の廃止の事実であります。
この決定以来、日本の朝廷の政治は言霊布斗麻邇の原理に頼ることのない、弱肉強食社会に於ける権力政治に移行することになりました。その結果、わが国伝統の精神原理は日本人の潜在意識の底に隠れ、生存競争社会が現出し、その社会土壌の中から人類世界の第二の物質科学文明が花咲いたのであります。
言霊の会 1
大祓祝詞の話 その七 平成十三年八月十日・会報第158号
この人間生活に便利な科学文明は誠に結構な物質的恩恵を与えてくれる半面、この生存競争社会を人類生命存続の危機という想像もつかない運命の中に人々を叩き込むことになりました。正に人類文明転換の時であります。
この時に当り、数千年来朝廷に於いて称えられ、予言されて来た大祓祝詞の「天津祝詞の太祝詞事を宜れ。」の大宣言に応えて、天津神が立ち上がることとなります。
即ち法華経の「従地涌出の菩薩」の譬えの如く、復活した言霊布斗麻邇の原理を学び、これを活用して人類の第二文明時代を第三の生命文明時代へ転換する偉業に携わる人々が世の中に輩出し、その結果、この地球上に大昔にそうであった如く天津日嗣天皇(スメラミコト)の人類文明創造の朝廷が成立し、精神と物質双方の究極の真理を供えた平和にして豊潤な社会が建設されて行くこととなります。
天の八重雲を嚴いづの千ち別わきに千別きて聞きこし召めさむ――
天の八重雲については祝詞の初めの所で説明しました。それは天津太祝詞音図の八父韻の並び、タカマハラナヤサの順序が示す生命の調和をもたらす根本原理の事であります。
「天の」は先天構造の意。
八重雲はそのタカマハラナヤサの先天構造から現出する生命調和の法則のことであります。
「嚴の千別きに千別きて」とは御稜威(嚴)の道理(千)を諸々に黄泉国の文化それぞれの上に投入して、生命調和の道に摂取して行く事であります。
「千別け」とはそれぞれの内容を生命の道理の構造の中に取り込んで行く事、と言った意味です。
「聞し召さむ」とは、天皇の宣言を聞いて、その内容を理解して、その趣旨の沿った行為でお答えするの意であります。
①
短山
黄泉国
無自覚
国津神は――
高山
高天原
自覚
天津神が五十音言霊の原理を活用することによって朝廷の政治を行う人であるのに対し、国津神とは天津神の行う政治の下に、その恩恵を受ける国民の事であります。
高山の末、短ひき山の末に上がりまして――
短山のルビに「みじかやま」と書いてある古い祝詞の文章に出会う事がありますが、意味は変わりません。
言霊の会 2
大祓祝詞の話 その七 平成十三年八月十日・会報第158号
高山・短山の事は先月号にて触れましたが、ここで再び説明することとしましょう。言霊原理の結論である天津神籬ひもろぎ、天津太祝詞図の母音は上よりアイエオウと並びます。この並びを上下にとった百音図を作りますと、上下の中央の横の線を境に言霊図は全く対称形となります(①参照)。
この百音図を昔、百敷の大宮と呼びました。この百音図を構成する対称の上下の音はいずれも同じ音であり、実相も同じでありますが、その状況は全く違って来ます。上は光の世界、下は影の世界、上は高天原、下は黄泉国、上は言霊自覚の世界、下は無自覚の世界であります。
こうお話してもお分かり難いかもしれませんので、仏教の六道輪廻の教えを例に引きましょう(②図参照)略。この図は人間の心の進化の順序、下からウオアエイを上段にとりました。
仏教ではその進化を衆生(ウ)、声聞(オ)、縁覚(ア)、菩薩(エ)、仏陀(イ)と教えます。下段はそれと対称的に上から人間(ウ)、修羅(オ)、畜生(ア)、餓鬼(エ)、地獄(イ)と示されます。
上段は仏教自覚の世界で、下段は無自覚の世界、上下対称のそれぞれは行為の内容は似ていますが、境涯は全く極楽と地獄の違いとなります。(ア)の項を例にとりましょう。
上段の(ア)は縁覚の悟りの次元です。心の一切の束縛から離れ、心の自由を得た初地の仏の自覚の境涯です。ところが、
下段の(ア)は畜生界であります。自由に振舞うこと畜生の如く、大小便を垂れ流し自由、善悪の識別もなく傍若無人の行動となります。
他の(イ)(エ)(オ)(ウ)の諸次元についても同様な事が言えます。自覚の有無、光の有無が想像もつかない相違をもたらす事をご理解いただけるでありましょうか。人間とはその心掛けによって神ともなり、また獣にもなるとはこの事を言うのであります。またこの人間の分際を知り尽くした皇祖皇宗の人類歴史創造の経綸の御苦心も窺い知ることが出来るというものでありましょう。
「高山の末、短山の末に上がりまして」の高山の末は言霊ア、短山の末も言霊アであります。言霊アの境地に視点を置くと物事の実相を最もよく見ることが出来ます。
高山のいほり、短ひき山のいほりを溌かき分けて聞し召さむ。――
「高山のいほり、短山のいほり」とは五百理いほりの意で、五(アイエオウ)を基本原理として組み立てた百音図の法則の事であります。
言霊の会 3
大祓祝詞の話 その七 平成十三年八月十日・会報第158号
そこで高山のいほりとは、百音図の中の上段の原理、短山のいほりとは下段の原理という事となります。
「溌き分けて」とは、「書き分け」の謎です。上段の法則と下段の法則とを書き分けるとは如何なる事なのでしょうか。上段は言霊原理自覚・活用の高天原の世界の原理であり、政治を行う方の物の見方、即ち言霊原理そのものの世界の事です。下段は言霊原理を自覚せず、黄泉国の物の考え方、即ち概念的知識を基本とした考えを以て生活を営む人々の集まり方であります。
政治を行う場合、朝廷の政庁に於いて、言霊原理に則り「かく為せ」の方針が決定されましても、その上段の決定をそのまま国民に示しましたのでは、言霊原理を自覚しない国民の側はその内容・方針・目的が理解出来ません。そこで「書き分け」が必要となって来ます。
言霊原理から見た真実の宣言を、国民全体が理解し、喜んで受け入れ、実行出来るよう、世間的な言葉即ち概念的な言葉に書き直して発令されます。これが書き分けであります。、
こうする事によって天皇(スメラミコト)の政治が広く国民の生活に適合し、国民は喜んでこれに従う事となります。即ち「聞しめさむ」となる訳であります。概念的、経験的な知識による言葉から発想された方針や計画がそのまま概念的な言葉を以て発表される時、その政治を受ける側の経験知識との齟齬・誤解が生じ、混乱が生じます。
光が当らぬ影の領域の政治に付きまとう混乱・騒擾はすべてここに起因します。けれど言霊原理に則った光の言葉を書き分けた概念的な言葉の宣言には誤解を生む余地はありません。「光と影」として前号で詳しく説明いたしました。
大祓の文章を先に進めます。
斯く聞しめしてば、皇御孫命すめみまのみことの朝廷みかどを始めて、天下あめのした四よ方もつの国には罪と云ふ罪は在あらじと、科しな戸どの風の、天の八重やえ雲ぐもを吹き放つ事の如く、朝あしたのみ霧夕ゆうべのみ霧を、朝風夕風の吹き掃はらふ事の如く、大おほ津つ辺べに居る大船を、舳へ解き放ち、艫とも解き放ちて、大海原おほわたのはらに押し放つ事の如く、彼方おちかたの繁木が本を、焼鎌の敏鎌もて、打ち拂はらふ事の如く、遺る罪はあらじと、祓ひ給ひ清め給ふ事を、――
言霊の会 4
大祓祝詞の話 その七 平成十三年八月十日・会報第158号
斯く聞しめしてば、――
大祓祝詞の眼目である「天津祝詞の太祝詞事を宜れ」が実行され、天津神である朝廷に於いて政治を執り行う人達は復活した言霊の原理を以て黄泉国の文化の上に投入し、そのすべてを人類歴史創造の糧とし、吸収して行く事によって大祓の宣言の趣旨にお答えし、国津神である一般国民は朝廷の言霊原理による新しい政治が国民に理解出来るよう、その内容を平易な文章に書き直された法令によって納得し、従う事になるならば、……という意味であります。
皇御孫命すめみまのみことの朝廷みかどを始めて、天下あめのした四よ方もつの国には罪と云ふ罪は在あらじと、――
数千年にわたり朝廷に於いて、六月と十二月の年二回、予言されて来た大祓の宣言が実行に移されることになりますと、天孫降臨と神話に謳われます言霊原理の自覚・保持者、霊知りの邇々芸命の集団がこの日本に国を肇めて以来の天皇の政庁を始めとして、全世界の国々には、長い間に溜まっていた諸種のコンプレックスである罪は消え去ります。
そして三千年にわたる暗黒の時代とは全く違った新しい文明時代の幕が切って落とされる事となります。では大祓が毎年宣言・予言され、その基礎原理である言霊の原理が社会の表面から淫没していた長い歴史の時代は、日本の朝廷はその間如何なる経過・変遷を経て来たのか、を振り返ってみましょう。それについて恰好の先師の文章がありますので、敬意を表し此処に引用することとします。
『その昔、行われた天孫降臨は、世界の高天原地方から生命の主体の原理を把握した覚者神人の団体が、平地に降って、合理的な国家社会を地上に創設した事であった。その人類最初にして然も永劫不変、天壌無窮、万世一系の道義社会の責任者、指導者、経営者が天津日嗣天皇として、全人類に祝福された伝統を、その間必要な或る時期には天の岩戸隠れ、入涅槃の過程を辿りながら、また時に当面の経綸の企図方針に応じて、幾度か皇朝の変革維新を行いながら、三種の神器であるその原理そのものの伝統は、今日まで連綿として悠久一万年に亘る歴史を経過しつつ、高天原日本のうちに継承保全して来た。これが皇御孫命の朝廷の歴史を通じての真姿である。
●
大祓祝詞の話 七の2
天皇が毎年行って来た新嘗祭及び大祓の「御贖みあらかの儀」は一代に一度行われた即位式大嘗祭の儀を小規模に繰り返す式典であって、「御麻」「節折よおり」「壺」等の儀がある。この祭典に執行されるすべての仕草(動作)と、これに用いられるすべての器物は、悉くこの不変不滅、恒常普遍の伝統の原理を形と動作を以て示し現わした黙示であり、呪事呪物である。
すなわち此の仕草と器物は文章(言葉)を以て示された大祓祝詞に内臓されている原理と一体をなすものであり、また言霊五十音布斗麻邇であるこの原理を同じように呪文を以て黙示してある古事記、日本書紀の内容ともまた同一の意義を有するものである。
呪文呪事を呪文呪事と知ってその謎を釈いて、その真態を現わす時、神道とは唯一の系列の布斗麻邇三種の神器の原理であることを知る。
崇神朝に於ける三種の神器の同床共殿廃止以来、正法が隠没している像法末法の二千年間に於ける天皇の最も重大な仕事は、斯くの如き黙示(呪文、呪事、呪物)として示されている原理の意義を式典の形を以て継続保持することにあった。
それはやがて再びこの原理の実体を以て、いずれ新しく創造される人類の第二の文明である科学をその原理の中に綜合摂取し、またその像法末法の間に発生した罪穢すなわち社会内容の矛盾撞着を贖い修祓するための人間性の不滅の原理を、祭典の形りで今日まで保存する事であった。
二千年の経過の後、今日世界に罪穢が横溢充満し、矛盾混乱が頂点に達して、再び新たな天孫降臨すなわち天の岩戸開きが必然である歴史的な時期がいよいよ廻って来た。
宮中や神宮に於ける呪事である儀式祭典の動作は猿芝居だと評されている。その本物ではない芝居の仕草だけを、中実わきまえずに、よい年寄達が衣冠ものものしく、鹿爪らしく勿体ぶって、何時までも繰り返し演じているだけで事が済む時代ではない。
「五串立て御酒おへまつる神主のうずの玉影見ればとぼしも」と古歌は揶揄やゆしている。呪文呪事の謎を釈き、芝居の型を黙示本来の生粋の姿である言霊に還元して、以て言葉と文字で示す申す神の顕示たらしめて世界に開明する時である。
言霊の会 6
大祓祝詞の話 その七 平成十三年八月十日・会報第158号
全人類の精神的な至宝であり、凡そ人間たる以上、民族人種の区別なく、誰でもが持って生まれているが故に、人類の共通普遍の財産である三種の神器、言霊布斗麻邇を把握運営する責任者は、尠すくなくとも過去三千年、祖先の努力と守護によって原理の連綿たる伝統を保持して来た天孫民族日本人である。
この時この日本人が蹶起して、今日までの岩戸隠れの時代のものとしての朝廷あるいは政府とは、その存在と意義と使命を異にする世界の高天原日の本の政庁、法庁、教庁を新たに復元建設し、この原理の内容をみずから聞召し自覚し、全世界に普く釈き明かして、比類なく優秀なこの道理を以て、劫末澆世の極に到っている人類社会を大祓する時、歴史の此処にその三千年にわたる自然生活(天津菅麻)、生存競争(天津金木)の渾沌が整理されて、人類文明は永劫不変の調和を実現する新しい時代に向って、輝かしい第一歩を踏み出すこととなる。』
(小笠原孝次氏著「大祓祝詞解儀」二十八~九頁)
長く先師の文章を引用いたしましたが、祝詞の「斯く聞しめしてば」とは、この引用した文章が示す如く、皇御孫の朝廷が一万年にわたる変遷の歴史の末に、大昔に在ったと同様の政治の機構と内容を整え、世界人類の第三文明時代建設に向って機能し始める事を意味しています。祝詞の此処より以下の文章は、その本来の天皇の政庁・教庁が活動を開始する時には次の如くになるぞ、という事を述べることとなります。
科しな戸どの風の、天の八重やえ雲ぐもを吹き放つ事の如く、――
古事記上つ巻「子生み」の章に風の神、名は志し那な都ど毘ひ古この神とあります。言霊フのことです。心の先天構造の内容(志)のすべて(那)を言葉(都・霊屋子みやこ)とする働き(毘古ひこ)の事であります。
人間頭脳内で心の先天構造(十七言霊・天名あな)が活動を起こし、それが先ず何なのか、イメージが形成され(未鳴まな)、次にその未鳴に言葉が結び合わされ(真名まな)、次に口腔にて発音され(神名かな)、現実の言葉となって空中を飛びます。この様に人間頭脳内の正系の働きによって発音・自覚された言葉によって天津日嗣天皇の人類文明創造の政治の訓令(天の八重雲)が全世界に向って発表され(吹き放つ)、各地に滞りなく伝えられるように、という意味です。
言霊の会 7
大祓祝詞の話 その七 平成十三年八月十日・会報第158号
朝あしたのみ霧夕ゆうべのみ霧を、朝風夕風の吹き掃はらふ事の如く、――
高天原の言霊布斗麻邇の原理に則った実相そのままを表わす言葉ではなく、黄泉国の個人々々の経験知識の言葉による社会には必然的に歪が生じ、世の中全体が霧に包まれた如くに真実の相が把握できなくなります。そこに陰陽(朝夕)の塩盈みつ珠、塩乾ひる珠(父韻)の操作宜しき政治の運用によってその霧を吹き掃い、明るい実相に満ちた世の中を実現することのように、の意であります。
大おほ津つ辺べに居る大船を、舳へ解き放ち、艫とも解き放ちて、大海原おほわたのはらに押し放つ事の如く、――
大津辺とは港のこと。大船の舳とは舟の船首、艫とは船尾のことです。では船は何を表すかと言いますと、仏教で謂う大乗・小乗、即ち人の心を乗せる乗物の事であります。伊勢神宮の御神体である八咫鏡を乗せている船形の台、これを御み船ふね代しろと呼びます。
大船とありますので、大乗の乗物の事で、祝詞の大船は大船中の大船である人間精神最高の構造を示す天津太祝詞音図のことであります。地球人類を乗せて、物心共に豊かで調和のとれた世界歴史創造の海を航海するべきこの精神の大船は、ここ二・三千年の間、船首も船尾も港の岸壁に繋がれて海に乗り出す事がありませんでした。
天照大神は岩戸深く隠れてしまいました。代って須佐之男命(八拳剣)と月読命(九拳剣)という船がわがもの顔に大海原を往き来していたのです。
大船である五十音図の船首とは五母音の並びの事であり、船尾とは半母音の並びの事です。御承知の如く須佐之男命の八拳剣の判断力は主体を表わす母音の並びと、客体を表わす半母音の並びの双方の自覚を欠きます。
月読命の九拳剣の判断力は主体である母音の自覚はありますが、客体である半母音の自覚がありません。、
須佐之男命の物質科学は主体を捨象し、客体を抽象して、主体と客体との間の現象だけを追及します。
月読命である宗教・芸術は主体の自覚はありますが、客体についての決定的結論は出す事が出来ません。宗教・芸術が世界人類全体の問題に結論を示すことが出来ずにいるのも、この理由からです。
この暗黒の二・三千年間、船首が真直でない、船尾の舵がしっかりしていない船が歴史創造の海を右往左往していたという事が出来ます。人類生存の危機が迫って来たのも当然であります。
言霊の会 8
大祓祝詞の話 その七 平成十三年八月十日・会報第158号
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この時、天照大神の天津太祝詞音図である十拳剣という完璧な判断力を備えた大船中の大船を、舳先の綱も艫綱も解いて、いよいよ世界人類六十億人を乗せて第三文明時代の大海原に出航させる事となるのです。日本の古歌はこの事を次のように称えております。
なかきよの とおのねふりの みなめさめ
なみのりふねの おとのよきかな
彼方おちかたの繁木が本を、焼鎌の敏鎌もて、打ち拂はらふ事の如く、遺る罪はあらじと、――
「彼方の繁木が本」とは並んで生えている木の枝が無数に分かれて茂り、何処が幹でどこが枝だか見当がつかなくなった状態の事です。茶の木は枝の先の茶の葉を摘み易くするために、枝先を円形に切り揃えます。そのため枝は四方八方に枝を分け、枝と本との区別がつかなくなります。 茶の木林などと呼びますが、これは複雑な哲学理論が入り組んで、論と結論の区別がつかない事に譬えられています。
この元も先も分からない枝を、「焼鎌の敏鎌」即ち鋭い鎌でもって、混み合っている枝をバサバサ斬り拂ってしまうように、個人の経験に基づく哲学理論のアイマイさを斬り拂ってスッキリと論・結論をはっきりさせてしまえば、という意味であります。
「焼鎌の敏鎌」という鋭い鎌(カマ)とは、古事記子音創生の順序、タトヨツテヤユエケメ、クムスルソセホヘ、フモハヌ、ラサロレノネカマナコのカマに当ります。この「カマ」とは、人間の心が言葉となり、空中を飛び、人の耳の中に入り、復唱され(ノネ)、それが何を意味するか、心中に煮詰められます。
その上でその内容(ナ)が明らかになり、結果(コ)が確定され、言葉としての現象が終結します。カマとは釜で、煮詰める道具でもあります。言葉の内容を煮詰める釜(カマ)、複雑な枝を斬り拂う鎌(カマ)、そこに言葉発生の正系の順序を経た言葉が、複雑な黄泉国の経験知の言葉を判別して行く厳正な作用を汲み取る事が出来ましょう。
以上のように、皇御孫命の文明創造の政庁の言霊原理に則った政治の布告が、その内容の実相そのままに世界の人々に伝わり、何の疑念もなく人々が第三文明時代建設の使命に喜び勇んで発進して行く事と
言霊の会 9
大祓祝詞の話 その七 平成十三年八月十日・会報第158号
なるならば、人々の心中にわだかまる一切の罪穢は消えてしまう事になりますから、の意であります。
そうなりますと、朝廷の政治の布告が作成され、人々に伝えられ、結果がどの様になって行くか、第三文明時代の政治状況が次に明確に述べられます。大祓祝詞の総結論であります。
高山の末、短ひき山の末より、さくな垂だりに落ち、沸たきつ速川の瀬に座ます、瀬せ織おり津つ姫と云ふ神、大海原おおわだのばらに持ち出でなむ。斯く持ち出で往なば、荒塩の塩の八百道やほぢの八塩道の、塩の八や百お会あいに座す、速はや開あき津つ姫と云う神、持ちかか呑みてむ。斯くかか呑みてば、気い吹ぶき戸どに座す気吹戸主と云ふ神、根国底国ねのくにそこのくにに気吹き放ちてむ。斯く気吹き放ちてば、根国底国の座す速はや佐す須さ良ら姫と云ふ神、持ちさすらひ失ひてむ。
以上、柿本人麻呂 の美辞麗句の詩的表現によって新しい四人の神名が出て来ました。これが第三文明建設時代に於ける政治の内容を示したものなのだとは読んだだけでは到底理解し難いことでありますが、解説を進めて行く事にしましょう。
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大祓祝詞の話 八の1
アイウエオの五十音言霊布斗麻邇の原理が昔あったと同様の姿で復活し、天津日嗣天皇の世界の法庁・教庁・政庁がこれまた太古にあった如く新しく創設され、この政庁の言霊原理に基づく人類の第三文明の創造が開始され、その歴史創造の中に長い間溜まりに溜まった人類の罪穢が消滅して行きます。
その有様は「日本人の大祖先が神鳴り(雷鳴)と喩えました人間の言語の先天構造を正確に自覚した頭脳から発する朝廷の文明創造の指令が世界の各地に行き渡り、緩急宜しきを得た政策が世界の暗雲を吹掃うように、また天津太祝詞の大乗の精神法則が世界人類を包み込んで、新しい歴史創造の大海に乗り出して行くように、言霊原理による正しい判断によって世界の複雑怪奇な混乱の自己主張の論理が一掃されてしまうように、世界を覆いつくした罪穢が残らず払われてしまいます。
ではこの様な新しい時代の政治とは如何なるものなのでしょうか。その状況が大祓祝詞の最終結論として次に述べられる事となります。この結論を示す大祓の文章は前月号の末尾に掲げましたので、その文章について詳しく解説して参ります。
高山の末、短ひき山の末より、さくな垂だりに落ち、――
柿本人麻呂特有の美文調に心奪われて読んでしまいますと、その文章に隠された言霊学の意味を見逃し兼ねません。天津太祝詞音図を上下にとった百音図(図参照)の母音は上よりアイエオウ、ウオエイアの十音となります。
上の五音の属する領域が高山、下の五音が短山に属します。その高山の末は言霊ア、短山の末もアです。その言霊アとは天津日嗣天皇(スメラミコト)の座であります。
天皇からその慈眼で見る世界人類のすべてを大御宝(おおみたから)または大御田た族からといい、天皇は人類と一体であり、この一体となった時の天皇を御身(おほみま)と呼びます。
天皇の坐おます座より「さくな垂りに落ち」とはどういう事か、と申しますと、辞書は「さかさ落としに流れ落ちる」とあります。状況だけから解釈すればその通りでありましょうが、これに言霊の意を付け加えますと、「咲く名足りに落つ」となります。咲くとは心の表面にいっぱい言葉として表現されることです。
言霊の会 1
大祓祝詞の話 完 平成十三年九月十日・会報第159号
「な」とは名で、物事の内容を意味します。「垂り」は「足り」の意で「十分に」という事です。「さくな垂りに落ち」全部で「心の内容が十分に言葉として表現されて下に伝えられ」という意味となります。
沸たきつ速川の瀬に座ます、瀬せ織おり津つ姫と云ふ神、――
言霊原理に基づく世界の文明創造の政治は、天皇を頂点とする百敷の大宮である朝廷から一瞬の懈怠げたい・逡巡しゅんじゅんもなく諸種の指令が発せられます。その指令が「さくな垂り」に発令され、速川の瀬となって流れ下るように実行に移されます。
瀬とは音図に向って最右の母音より計画が八つの父韻の意図のままに実行・実施され、最左の列である半母音で結果が出て指令は目的を達します。その実行の行為がアイエオウと順順に下に向って伝達されて行きます。ア段の天皇の座から発せられる指令が先ず直ぐ下のイ段に下る所にいる神が瀬織津姫というわけであります。」
この瀬せ織おり津つ姫(言霊イ)に続いて速はや開あき津つ姫(エ)、気い吹ぶき戸ど主ぬし神(オ)、速はや佐さ須す良ら姫(ウ)と四柱の神々が出現します。神道で祓戸四柱の神と呼ぶ神であります。
天皇(ア)より指令が天津太祝詞音図の母音の順序アイエオウと下達されて行く状況がこれから詳しく述べられる事となります。
かく申しますと、この四柱の神の内容と順序が、祝詞の一番初めに出ました「比ひ礼れ挂かくる伴男(イ)、手襁たすき挂くる伴男(エ)、靭ゆき負おう伴男(オ)、釼たち?はく伴男(ウ)と対応している事にお気付きの方もいらっしゃいましょう。
祓戸四柱の神とは天皇より発令・下達される指令が朝廷の四つの役職を経過して、実際の国民の中で如何様に実施されて行くか、即ち言霊布斗麻邇の原理による新時代の政治の内容が述べられているのであります。祓戸四柱の神と呼ばれる社会の罪穢の祓いとは、新時代に於ける文明創造の政治そのものである事が結論づけられて行きます。
瀬織津姫の瀬を織るとは音図に向って右の母音より左の半母音に向って流れる八父韻の生命の流れ、言い換えますと、五十音図の母音の並びを空間に、母音から半母音に向う父韻の並びを時間にとり、空間と時間の交差する彩(音図・心の衣)を織り成して行く働き、これが瀬を織るという事になります。言霊原理に則って人間の生命活動は五つの音図に作成されます。
言霊の会 2
大祓祝詞の話 完 平成十三年九月十日・会報第159号
天津菅麻(イ)・天津太祝詞(エ)・宝(ア)・赤珠(オ)・天津金木(ウ)の五つであります。
大祓祝詞の眼目はイアオウを中心に据えた四つの音図を検討して(大祓祝詞の文章には天津金木と天津菅麻の二つだけしか記されませんが)、それを材料として人類文明を創造するために天津太祝詞音図に宜り直すことであります。天皇から発せられる指令は先ず、瀬織津姫神(比礼挂くる伴男)の所で音図に照らして如何なる内容かが検討されます。
大海原おおわだのばらに持ち出でなむ。――
音図上の検討が終了しますと、一般社会への発令が決定します。社会へ広く発令することを「大海原に持ち出でなむ」と表現したのであります。何故その様な表現を選んだのか、と申しますと、それは人麻呂特有の美文調「荒塩の塩の八百道の八塩道の、塩の八や百は会あいに座す……」という文章に続けるためであります。即ち「大海原に持ち出でなむ」から「海の塩」の言葉を引き出そうとした訳です。
斯く持ち出で往なば、――
天皇の命令が言霊原理に則って沙庭され、検討されて、庶民社会に発令することが定まりますと、という事です。すると事はその次の段階である速開津姫神の所へ廻されます。祝詞の初めにある「手襁挂くる伴男」の仕事が始まります。
荒塩の塩の八百道やほぢの八塩道の、塩の八や百お会あいに座す、速はや開あき津つ姫と云う神、――
速はや開あき津つ姫神とは速く(速)明らかに(開)目的に達する(津)能力を秘めている(姫)役割(神)と謂った意味であります。
音図上で検討された天皇の意図即ち社会の現状を文明創造推進のためどの様な変革を実施すればよいか、そのためにどの様な手段・手順をとったらよいか、が検討・確定されます。瀬織津姫で決まった原則を、その実現のための方法が定められる段階の仕事です。それは言霊エの速開津姫神(手襁挂くる伴男)の仕事という事が出来ます。
では速開津姫神がいる「荒塩の塩の八百道の八塩道の塩の八百会」とはどんな処なのでしょうか。どんな処と言っても、地球上の場所ではなく、精神的な場の事です。「荒塩の……」は人麻呂の美辞でありま
すが、この言葉の中核となるのが「塩」の一字です。
言霊の会 3
大祓祝詞の話 完 平成十三年九月十日・会報第159号
塩しほを四し穂ほと取れば、イエアオウ五母音の中のエアオウの四音、即ち実際に世の中を構成する四つの次元の事となります。この四つが世の中の世の語源となります。
塩を機と取りますと、適当な機会という意味です。天皇からの指令が瀬織津姫の働きで音図上で検討されますが、ここまでは原則的な形式にとどまります。この決定を流動している世の中の最も適当なチャンスを捉え、状勢を変革し、文明創造を推進するか、は言霊エ(叡智)の働きです。言霊学でいえば、四つの母音に対する八つの父韻の働きかけの機会を常に見極めている事が要求されます。
どんなよい政策も、その施行のチャンスを逃したら、またその時の情勢判断を誤ったら、何の効果も挙げられません。「荒塩の塩の八百道の八塩道」即ち複雑に流動する世の中の状勢の中で「ここぞ」という一瞬に社会全体の実相を捕捉し、そこに適当な施策を実行する実践智(言霊エ)の能力、これが速開津姫神の働きです。
持ちかか呑みてむ。――
「成る程」「よし今だ」「チャンスは此処だ」と自ら納得することです。言霊エの能力はこの様に機(潮時しほどき)を自らが納得出来る程に機敏であることが必要とされます。天皇の座から発せられ、瀬織津姫の処で言霊図に基づいて検討された指令が、此処速開津姫神の処で社会の流動する現状とマッチする様、そして変革・創造の確実な気運となるよう計画が練られます。
斯くかか呑みてば、気い吹ぶき戸どに座す気吹戸主と云ふ神、――
速開津姫の処で時機・状況に則した指令の言葉が発せられますと、次に気吹戸主の処へ下されます。気吹戸とは心(気)が言葉として発音される(吹)処にある戸、平たく言えば人間の咽喉のどの事です。咽喉の働きで言葉が外界に飛び出して行きます。
気吹戸とは息吹が飛び出る門とであり、また咽喉のどとは宜のる門とで同じ意味となります。言葉が飛び出ることを、祝詞の初めには矢が弓から飛び出る事に喩えられて、靭負う伴男(オ)と呼ばれています。この社会に向って発せられる言葉は、瀬織津姫・速開津姫の働きで言霊原理に則った指令が、気吹戸主の処で一般社会の国民に理解出来るような法律、道徳、訓示の言葉に組み替えられて発表されます。
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大祓祝詞の話 八の2。完。 平成十三年九月十日・会報第159号
前号に説明されました「高山のいほり、短山のいほりを揆き分けて」の作業が行われ、国民に伝えられます。
根国底国ねのくにそこのくにに気吹き放ちてむ。――
根国底国ねのくにそこのくにとは太祝詞音図の並び母音アイエオウの最下段であるウ段のことです。
言霊原理によって正確に検討された天皇の指令が、一般国民に通用する言葉に書き直されて、最下段(ウ次元)の大衆社会に発表されます。気吹戸放つとは発表・伝達されるの意であります。
斯く気吹き放ちてば、根国底国の座す速はや佐す須さ良ら姫と云ふ神、――
根国底国にいる速佐須良姫とは政治上の恩恵を受ける一般大衆のことです。世の中が変わって第三文明時代となっても、この次元に属する人々の実相は変わることはありません。
速佐須良姫とは「さすらう」「放浪」「流転」の意味であります。
私の先師の言葉を借りますと『曠劫よりこのかた常に没して出離の期なしと観ず(教行信証)と親鸞は云ったが、神を知らず、仏に遭はず、天津日嗣の経綸を知らず、世界に対する自己の位置と意義を知らず、みずから輪廻を解脱する力なく、またみずからが輪廻していることの自覚のない大衆の境涯が速佐須良姫である。』
ではこのような一般大衆(速佐須良姫)に朝廷の指令をどのように伝え、自ら進んで遵守させるか、といいますと、祝詞の初めに出て来ました朝廷の役割の最下段(言霊ウ)にいる釼?く伴男が働く事となります。釼と言いますと、精神的には判断力の表徴であります。けれど政治的には釼は権力に通じます。天皇からの指令が最終的に下りて来て、一般大衆に接する処に釼?く伴男がいます。
指令がどの様に伝えられ、守らせるか、は釼?く伴男の判断に委ねられます。そして人々はその適切なお役人の判断によって喜んで法律に従い、協力するようになります。けれど大衆の中にはどうしても趣旨を理解せず、抜け道を考えたり、反抗する者も出ることでしょう。
その場合の釼はやむを得ず権力の行使という形で現われます。即ち罰則が適用される事となります。
第二文明時代の政庁は、その頂点より人民に接する役人まで、すべてが権力構造という事が出来ます。
けれど新時代の政庁の構造は頂点より最下段に到るまで公平無私の慈悲の政治です。
言霊の会 5
大祓祝詞の話 完 平成十三年九月十日・会報第159号
それでも私欲のため反抗する人にのみ権力の行使となります。権力と言われるものの意義が最小限に留とどめられます。
持ちさすらひ失ひてむ。――
一般大衆は何事にも熱し易く冷め易いと謂われます。何時の時代にも変わることはありません。天皇からの指令が社会の平和と福祉をもたらし、大衆は幸福の日を過ごし、鼓腹撃壌の歌を唄いますが、何時の間にかその幸福な日常に馴れ、終に忘れてしまいます。
政治を行う人々の日夜の労苦など少しも考えません。全く心許なく薄情の様に見えますが、良き政治の下ではそれでよいのであります。人々が一つの法令のもたらす好結果に馴れ、マンネリ化が始まろうとする時には、また新しい指令が下りて社会の雰囲気を一新することになるからです。
かくて政治の渋滞は起こることなく、一般大衆は世の中に何事も起こらない事に安心して暮らし、政治とその政治の立案・施行者の存在すら余り関心を持たぬ事となるわけであります。大衆が政治に関心を持つ事こそ非常事態の証拠というべきかも知れません。
以上、新しい時代の政治の様相について大祓祝詞の結論の文章を解説いたしました。現代という第二物質科学文明時代の終わりに当たる国際・国内双方の政治のエゴむき出しの緊迫した状況に比べて、今、申し上げました来るべき新時代の繊細にして鷹揚な政治状況は考えただけで楽しくなるではありませんか。
大祓祝詞の骨子となる部分は此処で終り、祝詞は一気に終章に向います。その文章を次に掲げます。
斯く失ひてば、天皇すめらが朝廷みかどに仕え奉まつる、官々つかさつかさの人たちを始めて、天の下四よ方もつには、今日より始めて、罪と云ふ罪はあらじと、高天原に耳振立てて聞く者と、馬牽ひき立てて、今年の六月みなつきの晦日つもごりの夕日の降くだちの大祓に、祓ひ給ひ清め給ふ事を、諸もろもろ聞し召せと宜る。四よ国くにの卜うら部べ等、大川道に持ち退まかりて祓ひ劫やれと宜る。
天皇(スメラミコト)が主宰する朝廷で仕事をする文武百官が、それぞれの心中の高天原に於いて耳振り立てて聞くべきもの、と言えば、アイエオウ五十音言霊音図、布斗麻邇の原理であります。これを天の
斑馬(ぶちこま、まだらこま)と呼びます。
言霊の会 6
大祓祝詞の話 完 平成十三年九月十日・会報第159号
百敷の大宮と呼ばれる天皇の朝廷の政治とは、天の斑馬という天津太祝詞音図上の政策決定に始まり、それを時宜に適した民衆の理解し易い言葉に書き分け、政策を隅々まで浸透させ、それぞれの地域から世界全体まで人類文明創造を推進さすことに終わります。
「馬牽き立てて」とは、二千年前の崇神天皇による言霊原理の隠没以前に於いては、六月と十二月の大祓の儀式の式場で斑馬である太祝詞音図の縦の各行を「タチテトツ・ン、カキケコク・ン、マミメモム・ン……」と言葉に出して朗誦し、百官に聞かせた事を言っています。 竹内古文献にその記事が載っていると聞いています。
「夕日の降くだち」とは夕日が傾く時の意。
「四よ国くにの卜うら部べ」とは朝廷のある都より見て四方にある国の意。卜部とは大祓の儀式を司る役人の事であります。
以上、長い間大祓祝詞の解説をして来ました。祝詞に使われる用語が言霊原理に照らしませんと意義不詳のものが多く、その一つ一つに註釈を加えながらの解説でありますので、思わず八ヶ月を要することとなりました。その長い期間のお話となりました事で、読者の皆様には大祓祝詞全体の文章が一貫した筋道の通ったものとして御理解頂けなかったのではないか、と思います。そこで大祓の文章を現代人に理解できる言葉で、文章の途中で何らの用語の註釈を加えることなく、お伝えしようと思います。平易な言葉にするため文章が簡単となり、時には奇異に感じる方もあるかと思いますが、祝詞の内容には変わりがない事を申上げておきます。
完。
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