成り余れる処、成り合わぬ処 【 成り余れる処、成り合わぬ処 】 1。
かの有名な古事記は H な古典だ、おおらかなエロ本だ、ということをどうしても信じさせている箇所です。
蘇る古事記といいながら、古代人の結婚セックスはかくかくという解説もあります。
国土(くに)生みと言っているから、国を作り固める話だというのもあります。
本文。 【 この吾が身の成り余れる処を、汝が身の成り合わぬ処に刺し塞ぎて、国土生み成さむ。】
エッチ、性交の言霊学での解説です。
この一節も男女の交合(身体の結合)に譬えて言葉の発声について述べたものです。父韻を母音の中に刺し塞ぐようにして声を出しますと、父韻キ「K」と母音ア「A」の結合でキア「K+A」=カ「KA」となり、父韻シ「S」と母音エ「E」でシエ「S+E」=セ「SE」となります。このようにして子音の三十二言霊が生れます。
---------------------------------------------------
動物、人間の雄雌で子が生まれる構造が、子音をうむ構造と全く同じということです。生物次元での生産子生みと観念次元での言葉の発生と社会生産での生活物質の創造が、動物のセックスと同じ仕組みであるということです。
人は長い歴史の雌雄別体による子孫繁栄を受け継いでいるのですから、人だけが創造できる言葉や生活物質の創造方法も、牛馬と変わらないセックスの方法を受け入れています、ということです。
人間にはエロとかエッチとか言いますが、そのように言うところが動物達と違うところです。
動物と同じことをしているのに人間たちにはエッチに、エロに感じられるところが、人間足るゆえんです。
ですので、動物と同じように【この吾が身の成り余れる処を、汝が身の成り合わぬ処に刺し塞ぎて】と言うところに、エロさエッチ加減を感じなければ人ではないということにまでなります。
上記の言霊学での解説にある、父韻母音を雄雌にすれば全く同じことです。
ただし、忘れてならないのは父韻母音と言うときには人の創造活動について言っていることですから、その感情、感覚、意思等の人間的な情感がすべて含まれています。
個人の思い、感情を多く述べているブログなどもその表明しているところは、その原理に至る構造次元にまで昇れば雄雌のエッチなのです。表徴表現と現実を混ぜることもです。
余りにも抽象しすぎるというか、余りにも単純当たり前すぎるからか、【この吾が身の成り余れる処を、汝が身の成り合わぬ処に刺し塞ぎて】を特別視扱いしすぎます。
つまり、人は何も理解してはいないけれど、言葉を自然に喋るようにマグアイの原理を自然に受け入れて、自分の思い、心情を述べているのです。
さて、ここでは一言一言いうたびにあなたもわたしもエロ行為を実践しているので、言葉の創造表現ができていくということをテーマとします。
ところが原理次元での話ですので、関心のない方には全く面白みがありません。
しかし一度知ってしまえば、古事記を抱いて寝るようになるでしょう。
だからといってわたしが知っているというわけではありません。まだマナビの途中です。
-------------------------
参照。
原文。【 ここにその妹(いも)伊耶那美の命に問ひたまひしく、「汝(な)が身はいかに成れる」と問ひたまへば、答へたまはく、「吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処(ひとところ)あり」とまをしたまひき。
【 ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。故(かれ)この吾が身の成り余れる処を、汝(な)が身の成り合わぬ処に刺(さ)し塞(ふた)ぎて、国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまへば、伊耶那美の命答へたまはく、「しか善けむ」とまをしたまひき。
【 ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「然らば吾と汝と、この天之御柱を行き廻り逢ひて
解説。
【吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処ありかっ】
子音創生の話を、古事記は人間の男女間の生殖作用の形という謎で示して行きます。男女の交合とか、言葉の成り立ちとかは人間生命の営みの根元とも言える事柄に属しますので、その内容が共に似ている事を利用して、子音創生を男女交合の謎で上手に指し示そうとする訳です。
伊耶那岐の命が伊耶那美の命に「汝が身はいかに成れる」と問うたのに対し、美の命が「吾が身は成り成りて、成り合わぬところ一処あり」と答えました。「成る」は「鳴る」と謎を解くと言霊学の意味が解ります。アオウエ四母音はそれを発音してみると、息の続く限り声を出してもアはアーーであり、オはオーーと同じ音が続き、母音・半母音以外の音の如く成り合うことがありません。その事を生殖作用に於ける女陰の形「成り合はぬ」に譬えたのであります。
【 我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。
「我が身」とは伊耶那岐の命の身体という事で言霊イを意味するように思われますが、実際にはその言霊イの働きである父韻チイキミシリヒニのことを指すのであります。この八つの父韻を発音しますと、チの言葉の余韻としてイの音が残ります。即ちチーイイイと続きます。これが鳴り余れる音という訳です。この事を人間の男根が身体から成り余っていることに譬えたのであります。
【 この吾が身の成り余れる処を、汝が身の成り合わぬ処に刺し塞ぎて、国土生み成さむ。
この一節も男女の交合(身体の結合)に譬えて言葉の発声について述べたものです。父韻を母音の中に刺し塞ぐようにして声を出しますと、父韻キと母音アの結合でキア=カとなり、父韻シと母音エでシエ=セとなります。このようにして子音の三十二言霊が生れます。
「国土生み成さむ」の国土とは「組んで似せる」または「区切って似せる」の意です。組んで似せるとは父韻と母音とを組み合わせて一つの子音言霊を生むことを言います。その子音、例えばカの一音を生むことによってカという内容の実相に近づける事です。区切って似せると言えば、カという音で表わされるべきものを他の音で表わされるべきものから区切って実相を表わす、の意となります。
人間智性の根本リズムである言霊父韻と、精神宇宙の実在である母音言霊との結合で生れた、現象の実相を表わす単位である子音言霊を組み合わせて作られた日本語は、その言葉そのものが物事のまぎれもない真実の姿を表わす事となるという、世界で唯一つの言葉なのであるという事を、その言語を今も尚話すことによって生活を営んでいる現代の日本人が一日も早く自覚して頂き度いと希望するものであります。
【 伊耶那岐の命詔りたまひしく、「然らば吾と汝と、この天之御柱を行き廻り逢ひて、美斗の麻具波比せむ」とのりたまひき。
天の御柱とは主体を表わす五母音アオウエイ(伊耶那岐の命)の事であり、それに対する客体の半母音ワヲウヱヰ(伊耶那美の命)の柱は国の御柱と呼ばれます。この天の御柱と国の御柱は先にお話しましたように相対的に双方が離れて対立する場合と、絶対的に主体(岐)と客体(美)とが一つとなって働く場合があります。今、この文章で伊耶那岐と伊耶那美が天の御柱を左と右から「行き廻り合う」という時には図の如く絶対的な立場と考えられます。その場合の天の御柱とは、実は天の御柱と国の御柱とが一体となっている絶対的立場を言っているのだとご承知下さい。
八つの父韻は陰陽、作用・反作用の二つ一組の四組より成っています。即ちチイ・キミ・シリ・ヒニの四組です。伊耶那岐と伊耶那美が天の御柱を左と右の反対方向に廻り合うという事になりますと、左は霊足(ひた)りで陽、右は身切(みき)りで陰という事になり、伊耶那岐は左廻りで八父韻の陽であるチキシヒを分担し、伊耶那美は右廻りで八父韻の陰であるイミリニを分担していると言うことが出来ます。
-------------------------
【 成り余れる処、成り合わぬ処 】 2。
もちろん両者は男女の陰部を象徴したもので、その実際の動きが言葉の発生と同じで、人の創造活動と同じということです。
物事を考えること精神の表明行為が男女間の交合と同じ構造であることを探ってみましょう。人も動物進化の線上にあるのですから、動物が喰って寝るように人も同じことをするし、意識思考を持つといっても、前承する次元を引き継いでいます。
ただそれが意識において動物次元とは根本的に違った人間という変態を得た形で行われるので、自分の元の姿を忘れてしまうのです。
人間は動物だというのではありません。生物動物界からの先天構造を引き継いでいるのですが、それだけでは人でばありません。意思による創造行為をしていくので、動物とは違った新しい次元の中にいます。
ですので、【 成り余れる処、成り合わぬ処 】というのも、動物並のそれを言うのではなく、人としての【 成り余れる処、成り合わぬ処 】 を言っています。つまり意思行為の【 成り余れる処、成り合わぬ処 】 を探ろうというものです。
動物世界から引き継いではいるが、人間として立ち上がって以来、人である【 成り余れる処、成り合わぬ処 】 とは何かと言えば、古事記冒頭の十七の神名で示された意思構造です。この十七神から始めることが人の思惟と実践の始めです。
今のところは世界の思考の標準とはなっていませんが、将来のためにも今を創造するためにも誰もが理解へ向かう挑戦をしてもいいものです。しかし残念ながら未だに実戦向きの教科書原理としての記述があらわれてきません。心ある方はどうぞ挑戦してください。
ではここから後は、セックスの話は出てきません。【 成り余れる処、成り合わぬ処 】 となっている十七神がとって変わります。
原文、 【 この吾が身の成り余れる処を、汝が身の成り合わぬ処に刺し塞ぎて、国土生み成さむ。】に古事記冒頭の十七神を配当してみます。
【 成り余れる処、】が、
(8) 【言霊チ】 宇比地邇の神(うひぢにのかみ)
(9) 【言霊イ】 須比地邇の神(すひぢにのかみ)
(10) 【言霊キ】 角杙の神(つのぐひのかみ)
(11) 【言霊ミ】 生杙の神(いくぐひのかみ)
(12) 【言霊シ】 意富斗能地の神(おほとのぢのかみ)
(13) 【言霊リ】 大斗乃弁の神(おほとのべのかみ)
(14) 【言霊ヒ】 於母陀琉の神(おもだるのかみ)
(15) 【言霊ニ】 阿夜訶志古泥の神(あやかしこねのかみ)
【成り合わぬ処 】が、
(1) 【言霊ウ】 天の御中主の神(あめのみなかぬしのかみ)
(2) 【言霊ア】 高御産巣日の神(たかみむすびのかみ)
(3) 【言霊ワ】 神産巣日の神(かみむすびのかみ)
(4) 【言霊オ】 天の常立の神(あめのとこたちのかみ)
(5) 【言霊ヲ】 宇摩志阿斯訶備比古遅の神(うましあしかびひこぢのかみ)
(6) 【言霊エ】 国の常立の神(くにのとこたちのかみ)
(7) 【言霊ヱ】 豊雲野の神(とよくもののかみ)
で、
【刺し塞ぎ】が、
(16) 【言霊イ】 伊耶那岐の神(いざなきのかみ)
(17) 【言霊ヰ】 伊耶那美の神(いざなみのかみ)
です。
男と女が交合する、わたしがあなたと話す、わたしが物を作る、わたしが何かを考える、父韻(岐)と母音(美)がまぐわいする、あなたがブログを読む、等々です。
【国土生み】は現象結果に関することですが、【刺し塞ぎ】という当初の意思の実現です。
何と言うこともありません。俗な言葉使いで言えば、自分はやりたいことをやる、を神の名を借りてあらわしたものです。
このあらわし方が余りにも完璧であるため、古代より人類の宝として伝えられてきているのです。
釈迦も、孔子も、モーゼも、キリストも、その偉大な秘宝の話を聞きつけて古代大和にまできて教えを乞うています。(まるでおとぎ話のようですが、世界の歴史は古代大和のスメラミコトの一言から始まったということです。)
【 成り余れる処、成り合わぬ処 】 3。
八つの【 成り余れる処】神がアウエオの【成り合わぬ処】を刺し塞ぐと国現象結果が生まれます。簡単な掛け算をしてもらえれば分かる通り八四で三十二通りしかありません。これが単位要素となって組み合わされ八百万になります。
人の創造現象単位が三十二しかないというと少な過ぎると感じるかもしれませんが、物質界でも元素は百ちょっとで、原子単位ならもっと少ないです。人の世界は男と女の二つの単位要素しかありません。
【刺し塞ぎて】の言霊学での説明を始めの章に載せておきました。
「父韻を母音の中に刺し塞ぐようにして声を出しますと、父韻キ「K」と母音ア「A」の結合でキア「K+A」=カ「KA」となります。」
これはヒントですから、実際にはどうなるのかというと、そう簡単には分かりません。
あなたは私のブログを読みます、わたしはあなたに「もしもし」と声を掛けます、時間が来たからでかけよう、等々主体側が客体側に「刺し塞ぐ」のです。それぞれの現象結果、子音現象を得ます。「K+A」=カ「KA」を得ます。
しかし、「K+A」=カ「KA」といわれても、何か分かったわけではありませんが、自然の過程は滞ることなく続きます。
そこで各人は各人なりに分かるなり分からないなりにそれぞれの理解、不・無理解を得ています。
例えば「今とは何か」という疑問があります。
分からないから疑問を提出しているのに、理解、不・無理解を得るというのはどういうことか、と思えます。
しかし疑問を出す人の「今」という言葉は、その本人から出た言葉で、本人が他人に通じると理解している言葉です。形式上、形の上だけだ、内容は無い、といってもその本人に「今」という言葉が至った全過去が後に控えています。
そういった裏側を見るのが好きな方は、彼は知っていながら質問をしているから迂闊に答えられないなどと相手を計ったりして思うこともあります。
「今とは何か」という疑問では何を刺し塞ぐのでしょうか。
どこに父韻があるのでしょうか。
【 成り余れる処、成り合わぬ処 】 4。
要するにこういうことになるでしょう。
人は自分の知っていることを質問にして出すということです。知らないから質問するのではありません。知っている事をまず確認するのです。それに対比、対応する形で自分の知っている範囲を拡大したく質問するのです。
ですので解答の理解は、自分の知っている過去知識概念に照らして、それに受け入れられその上に追加構築されていきます。既に保持している既得概念でも受け入れられないときは解答を受け取れないときですし、受け取れるときは既知の概念との整合性を自分の中に見出しているときです。
まず既知なことを反復させて自己領域を確保しないと、次に来るものの足場がありません。
これに同意してもらえれば、自分にある【成り余れる処】というのは、言霊学においては、男性に男根がくっついているように、人の過去の既知概念(記憶)のことになります。【成り成りて】というのは記憶が次から次へと湧き出てくることをいうのでしょう。
ここに問題があると思います。
記憶がむくむくと際限なく見境もなく出てくるのですが、【成り余れる処】というのどういうことでしょうか。記憶が出てくるのは自然な成り行き上のことで、どこに【成り余れる処】があるのでしょうか。出てくる物に対して【余れる処】というのは、ちと腑に落ちません。
これはこういうことでしょう。
例えば「今」というのは過去-今-未来の線上を貫いていきますが、今-未来の方向へ向かうには、過去-今の内に今-未来へ向かう原動力が含まれていなければ、過去-今も今にあらわれず、ましてや今-未来に顔を出すことができません。
「今」という一点の瞬間には、過去-今・今-今・今-未来の流れを形成する持続の動因が含まれているのです。(「今」を説明すると十七の要素になるというのが、言霊学ですが、いつか今とは何か論をやりたいと思ってます。)
この動因によって過去の記憶実在があったというだけでなく、あるものとして「今」に顔をだしてきて、あるだろうものとして成るのです。
人類の数十億年の記憶はむくむく成り成りて、どこかの誰かに対して「こんにちは」と出てくる蓄積されている状態です。これは全ての人に対して共通です。わたしもあなたも変わりがありません。
ところが人であることは、この数十億年の記憶の出方が各人全く別々であるということです。人も動物並の性質習性を受け継いでいますので、そこまでの生物的な記憶習性を研究することはできます。
しかし、同じ過去の記憶を相手にしていても出方は表現の仕方は各人違ってくるのはどうしてか、どうして個別的に個性的になってしまうのかは、生物学からは説明できません。
それはここに、人には、記憶の上に 【成り余れる処】がくっついているからです。
動物、生物次元では単に記憶としてあるだけです。生物にも様々な記憶があることは明らかになってきています。
人の場合はそれらの上に、働き、いとなみ、いきさま、なりさま、つまり、いきる、という働きが備わっています。
ですので【余れる処】というのはこの「いきる」働きのことになります。
いきるは、イマ(い)の動因(き)が流(る)れる、ことで、過去-今-未来を貫いています。
こうしてその御蔭で、湧き出る記憶があり、質問している最中にも、答えを受けているときも、聞き終わってからも、常に自分との反省循環対話ができるというわけです。
自分が直接係わっている記憶はその人の生きてきた全過去を示しますが、その記憶の由来は宇宙世界の全体から来るものです。
そこで自分に記憶があるといっても過去宇宙の全体世界が成り成りて来るので、どこの何のだれべぇであるかは、過去全体が鳴り鳴りて自分の出番を騒いでいるわけです。
【我が身は成り成りて、】と言っていますが、自分の過去全体が相手であって、自分のどの【身】が【我が身】となるのか分かったものではありません。
「今とは何か」という疑問を持ったとしても、自分で言った「今」にはその人の全過去の「今」に関する記憶概念があるのに、その人に(自分に)あらわれてくるのは自分でも知らず知らずにでてきた、無自覚の内に出てきた自分の過去の裏付けを持った「今」です。
【成り余れる処、成り合わぬ処】5。
【 吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処あり 】
【 我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり 】
【成り成りて、】を、鳴り鳴りて、として音声で説明されていますが、音声の分析や構成を知ろうというのではありません。オノコロ島というおのれの心の領域を立ち上げた後のことです。オノコロ島という自我領域を実体として見立てた後に、それはどのように運用されるのかを説明する段階です。
つまり自我の実在領域を「成り成りて」動かし動く姿を探ることになります。モノやコトがあるというだけでは何ものをも創造することには成りません。「子」を産むことに至るには、モノやコトの実在領域が動かねばなりません。
その「成り」です。それが現象結果としてあらわれて来れば、分析できる父韻、母音、半母音、子音になってきます。
ここではまだ原理の段階です。モノやコトがある場面に、「成る」という働きが加わり動き出すときには、そこに「成り合はぬ処」と「成り余れる処が出来てくる、というのを説明する場所です。
丁度、男と女の身体はあり、交合しよう「成ろう」という動きが出てきたところになり、その場面での「合わぬ、余れる」処とは何かというわけです。
そうすると、そこに実体実在として在る男女の自分自身の身体に対して、交合しよう「成ろう」という動きそのものが「余れる処」となり、実在としてあることが「合わぬ処」としてあることになります。
自分の身体で確かめてください。例えば鉛筆を持つことでも、水を飲むことでも、もちろん交合することでも、みんな同じ構造をもていることに気づきます。
その「成り成り」です。
【 吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処あり 】
【 我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり 】
肝心なことは、【合わぬ、余れる】ところが出来るのは、【成り成りて】という心のさて動きのあるときにでてくることです。【成り】という意思の発現、吾の眼が着くとき、【問いたまひしく、いかに成れると問う】時にあらわれるので、動きや意思の無いときはただの物質がそこにあるのと同じです。
眼を開ければ物が見える音が聞こえるといったことは、生物の作用反作用で、【成り】という意識行為が加わっていなければ、言霊学の始めに成りません。
言霊学の始めは何も無いところから始まりますが、そこに心の宇宙が無ければ水が上から下へただ流れるだけのようなもので、物質の運動を客観的に分析するだけのことで、心の世界の戸を叩き開いたことにはなりません。
さて、変な話ですが、何も無いのに、どこに叩き叩けるものが在るのか、というのが、【合わぬ、余れる】ところの正体です。【成り】を【鳴り】とするのも、現象結果となる音声を使った「譬え」で、それを古事記は男女間の営みとしたに過ぎません。「チーイイイ (Ti-iii・・)」にしろ営み交合にしろ、眼を開けると何かありそれは何だと気にするにしろ、その原理構造を抽出したものです。
そこでその正体を示さねばなりません。
簡単に言えば【成り成りて、合わぬ、余れるところ】というのは「先天の成り成り」です。
伊耶那岐の神の「成り」と伊耶那美の神の「成り」、伊耶那岐の神のはたらき・いきさまと伊耶那美の神の実体・ありさま、です。
したい、欲しい、知りたい、見たいと伊耶那岐の神(私の、吾)の意思は発現していきますが、相手対象に結ばれず、客体側にめぐり合えないのなら、【 吾が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり 】となります。自身の意思が現象結果としてあらわれて来ないが、常に「成りたい成りたい」と騒いでいる様子です。
同様に伊耶那美の神側の実体・ありさまは、それがそこにあることを知らしたい見せたい成りたい成りたいと騒ぎますが、誰か何かに【刺し塞ぎ】、釣り上げ取り上げてもらわなければ、在りたい有りたいとあり余る全過去宇宙世界経験が【成り合はぬ】というわけです。
そこで両者は統合合一して選択された結果現象を得るまでは、【合わぬ、余れるところ】が続いていくという訳です。
そこで合一して得るものが「子」で、そのお話が百神を使用した「子・古事記」となります。
先天に【成り成り】の岐(ぎ)の神、美(み)の神があって、その動き始める時点では【合わぬ、余れるところ】二者なので、まぐわいをさせて、岐美の「子」を産むことで、岐の【成り】と美の【成り】を実現するという訳です。
「子」は両親から独立した第三者であるように、岐美からも独立した現象となります。この創造経過の詳細が古事記の冒頭五十神で示されています。
-------------------------------------------------
若干、「今とは何か」について。
もしここで「今とは何か」と言ってしまいますと、それを言った本人の現象言葉である「今」から始めることになります。
言った本人の全過去知識概念を披露すれば終わりになります。
言霊学では「今」と言う以前の先天から始めなければなりません。
ですので、「今」と言うときの原理はこうなるでしょうということから始めます。
いつか挑戦する予定です。
古事記の百神が世界を統率できるようにがんばりましょう。
【 成り余れる処、成り合わぬ処 】 6。
和尚に学僧が問うた。犬に仏性は有るのか、無いのか。和尚は「ない」と答えた。
上は禅公案の代表とされています。解ければ悟れるとかいわれているので、悟りに関心のある方は解いてみてください。
ここでは、悟りなどという無力なものを追求するのではなく、
【 故(かれ)この吾が身の成り余れる処を、汝(な)が身の成り合わぬ処に刺(さ)し塞(ふた)ぎて、国土(くに)生みなさむと思ふはいかに 】を実践しようとするものです。
古事記は「国生みなさむ」ですが、禅とか悟りとかには社会創造や世界改造への思いはなく、お前は「無」を悟っていないのかと入門僧をひっぱたくだけで、実践的には他の宗教と同じく無力で無為無策です。とは言っても、宗教実践と世界創造の社会的実践とは次元が違うので、それをごちゃ混ぜにするわたしがいけないのですが。
上記の公案に対しての無門禅師の言葉。
「しかしながらこの「無」をたんに老荘の説く「虚無」と理解してはいけないし、また「有る」とか「無い」とかの「無」と解してもいけない。」
「無の一字の別体験こそは、釈迦に逢うては釈迦を殺し、達磨に逢うては達磨を斬って捨てるのであり、」
【 成り余れる処、成り合わぬ処 】 と 無門関第一則
禅問答をするくらいの学僧ですから、仏性とか畜生に仏性があるかとかはそれなりに学んだ範囲で知っていることです。和尚さんに質問してもその答えが肯定にしろ否定にしろどちらでも予想はされています。
ということにしますと、学僧の質問の真意は何かということになります。一方和尚は学僧を見抜いて何を答えたのかとなります。
和尚さんを試してからかうつもりか、仏性とは何かの秘密の解釈が知りたかったのか、絶対無とどのように結び着けるか計ろうとしたのか、あまりにも簡単な分かりきった質問をして殴られてみたかったのか、何だか分かりません。
和尚は、中国語で「無」と言っただけでした。
その時代の中華の発音は知りませんが、とても短い一言だったのでしょう。解説を加えず、主語も述語もなく、比喩もなく、「無(中国語の発音)」でした。
ではもし和尚が日本人だったらなんといったでしょうか。
和尚さん、犬に仏性は有りますか、無いのですか。
和尚いわく。「な」「なし」「ない」「名」「成る」「那岐(な気)」「那美(な実)」 なんと答えるでしょうか。
「な」というのは「無」の訓読み「ない」の「な」を当てただけで、その「な」をとって漢字にしたものです。
何かおかしなことに気づきませんか。
「な」というのは相手対象の内容が了解され、それはこういうものなのか、ということで「な」が付いたもので、それを「名」といいます。
名が付いて、そのものの名の気(伊耶那岐)と名の実(伊耶那美)が成ってそこに「子」現象があらわれます。そしてそこに在るものを名付けるのです。
そうすると、「無」を日本語で読むと「な」となり、名があること名が成ることなのに、中国語の「む・ぶ」で読むと無いの意味になります。
正反対のこの二つをまとめますと、「ない(無い)」というのは、あるべく「な(名)」が無いということになりそうです。
そこで今度は、 【 我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり 】【 吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処あり 】に、大和日本と中華を当てはめることになりますが、あまりこんなやり方をしますと、独りよがりの妄想になりそうですので止めておきます。
別の角度からにしましょう。和尚は学僧を見抜いて、説明もせず解説もせず、何らかの文章も与えず「無」と言っただけとしましょう。(後半の文章は無門関では省略されています。)
学僧だって「無」と言うくらいは知っていたでしょう。しかし、なんの主語も述語も説明もなく一言で終わってしまいました。少しくらいは説明があると思っていたのに、面食らいました。
学僧は真剣に求めていました。和尚の答えが無であろうと有であろうと、その解説が必要でした。自分の質問には何らかの答えがあるものと思っていました。
そして、ほぼ単音でしかない解答を得て学僧は気づいたのです。
内容を説明されても、無の実体を解説されても、学僧である自分の心が和尚に向かっていたものは、内容内実の説明を得ることでないことに気づいたのでした。
答えを求めて得ようとしていたものは意義や意味とか内実内容の実体説明現象です。しかし、答えを求めるという内容の現象を得る以前に、自分は答えを求める疑問を発していた自分がいたことを知りました。
もしこの自分を放り出して答えを聞いていたら、確かに知識なり概念なりとして答えが返ってきますから、それなりに「子」現象を得ることになります。
ところがそこに答えを求める自分を確立していないと、得る答えの置き場も無いことに気づきました。
○和尚△和尚□和尚のどんな教えも有り難く聞くことができるかわりに、自分という自覚が無いために、概念知識として入ってくるだけのものとなりました。
和尚はそういったそういった幻影でしかない「無」の教えを与えることなってしまう危険を避けるため、学僧に単音で答えました。
学僧も自分の発した疑問を見れば、今までに得た学識の上にのッかかっただけのものに、説明という今までの知識で理解受け入れられるだけの知識を増やすだけと気づきました。
そこからすれば、一言だけの「無」も、主語述語付き解説付きの「無」も何ら変わりがないのでした。
さらに、答えが「無」であろうと、「犬」であろうと、「猫、馬」であろうと、同じことなのに気づきました。「猫」と答えられれば、「何だ、和尚の答えは頓珍漢だ」と思うし、その思いが出てくる自分をみれば、猫、犬、仏性について知っている知識の持ち主である自分の概念との混ぜ合わせであることに変わりはないのです。返って「有無」と答えられるより、どうしてこんな答えを与えてくれたのかと、考えるヒントになるかもしれません。
ここに答えの内容を得ることと、問いを発した自分の内容を得ることの違いがあります。
答えの内容を得ることは、あれやこれやの自分以外の新知識やヒントやきっかけを与える概念を得るでしょうが、答える相手の数だけ、和尚の数だけそれぞれに対応して取捨選択があります。
一方、答えの内容を自分とは外的な内容とせず、自分の発する問いそのものとすれば、自分は自分を見つけたようなものですからそれしかないものを得るでしょう。
あれやこれやと説明解説する坊主や学者の考えとかいうものよりは、「無」という単音の答えは余程気の利いたものとなるでしょう。
「みよ、お前の問いも『ム(無)』であるぞ」、と問いも無であるを知るのです。
こうして内容を得ようとした問いに対して第一則の和尚は「無」といわれたのでした。
ではその「問い」と「答え」は何であったのでしょうか。
それが、
【 吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処あり 】
【 我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり 】
ですが、宗教はここでの気づきを悟りとしてしまいますから、それに気づいて納得すればおわりです。古事記のように、ではどうするのか、「国を生み成す」という実践行為が出てきません。
禅はそれ悟ることが目的と成ってしまっているので、山から降りることが出来ず、降りてきても何の方策も持ちません。
「無の一字の別体験こそは、釈迦に逢うては釈迦を殺し、達磨に逢うては達磨を斬って捨てるのであり、そのとき、君たちは生死無常の現世に在りながら、無生死の大自在を手に入れ、六道や四生の世界に在りながら、すでに平和と真実の世界に遊んでいる。」
釈迦や達磨を殺すのは構わないですが、現実には毎日女子供が殺されています。
悟りを得て、「仏法の灯り(悟りの光)がパッと一時につくといった境地になることであろう。」と境地を求めるだけで、問いと答えを世界創造の内に置き直す道を知りません。
「然らば吾と汝と、この天之御柱を行き廻り逢ひて、美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)せむ」とのりたまひき。」
悟りには創造実践の意識はありません。悟りを実践しようというくらいなものです。
(いつもいつも中身は無いのにでかい口を聞くのはわたしの悪い癖です。読むに耐えないまずいことを書いているかもしれません。大目にみてください。)
【 成り余れる処、成り合わぬ処 】 7。
学僧の問いに、和尚は、
「(お前の問いもひっくるめて、) ム 」、と答えました。
和尚が問いに意味を見出したなら、答えなくてはならないでしょう。
お前の問いなど無いのだから ム というわけです。
答えられないから無視して逃げたという人もいるでしょう。
要するに現象次元で解答を求める人には、その人の得ている理解現象に沿ってその人に相応した解答がやってきます。それを出汁にして新しい組み合わせを作ると、さらなる次の解答が欲しくなるのです。
ですので和尚さんは、お前の理解している現象から出た問いにこだわっている内は、お前自身の問いは無いのじゃと言っています。
学僧に自分の問いかけの自覚が無い内は、問いかけに対する答えが期待されています。学僧は哲学談義が好きなので哲学的な答えを期待していたのかもしれず、最近悩んでいることがあってそれに関連した答えを得たいのかもしれず、動物と話すことの出来たアッシジの聖フランチェスコの物語を読んで犬に直接聞くことができるか知りたかったのかもしれません。
つまり問いの出方が恣意的であり、その理解が恣意的になり、恣意的に納得了解するしかないからです。学僧は自分の期待する方向、知っている方向、気に入る方向からしか答えを聞きません。自分の網に引っ掛かったものだけしか取らないというのでは、勝手すぎます。
言霊学で言えば学僧の問いは、父韻のどれか一つを取り上げて、それに対応する答えに反応するだけで、学僧の自我全体にから出たものではないので、真実の答えを聞く用意が出来ていません。
それでも学僧には(誰にでも)【我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり】ます。
お前の問いなど無と云われようと、間違っている問いと云われようと、期待されている答えを得るだけの問いであろうと、学僧の(誰でもの)問いがあります。
それが「む」という和尚の答えに成っています。
主語無し述語無し説明無し、「無」という単音(中国語は知らないけど)でなければならない理由が和尚にはありました。
大和の日本語では「ない」と答えた。
中国人の和尚が「無(中国語)」というと、漢字の無にまつわる歴史と意味内容から、「無」の概念が出来ていきますが、日本人の和尚は「ない」と言ったでしょうから、「ない」の概念に捕らわれます。
とはいっても実際は、現代までの日本人の和尚も「ない」とはいわず、中華の「無」という漢字を使うでしょうから、大和の「な・い」という言葉には関心が無いでしょう。
つまり「無」とは言っても、「ない・名がない」ということを「無」とすることはないでしょう。
返って無名、名無しという漢字に心が奪われ、意識表現で名前が無いということになっていくでしょう。
名は無いけれど意識は有ると主張する方もいるでしょう。どのように語るか一度説明してもらいたいものですが、夢を語る以上に上手に語れるものかどうか。
さて、お前さんの問いは無いのじゃと言いながら答えるのは矛盾していますが、「ム」というだけの答えとなりました。無い質問には答えも無いでしょうから、答えも「ム」ということになります。こんなことを言ってもことばの綾でしかありません。止めておきましょう。
問題は「ム」という問いと答えに「成り余れるところ、成り合わぬところ」を見出さないと先へ行けません。
古事記での「成り余れるところ、成り合わぬところ」は先天領域が提出され、直ちに自我領域の成立がオノゴロ島で説明されるところに出てきます。父韻の働きとしての「成り余れるところ、成り合わぬところ」です。
おのれの心の吾の眼を付けて智に成す(あめつち)、どの場面にも働いています。
日常では問いと答えが成り立ってしまって現象となっていますが、吾の眼が付くという普遍的な創造意思として成り立っています。
イとヰの現象を創造する働きの予めの区分として先天構造内で働いていなければ言霊循環がおきません。つまり「成り余れるところ、成り合わぬところ」という父韻の働きは、先天構造内でも、意識内でも、現象を創造するときにもどこでも働いています。
単音が発音され相手に渡され、了解されて意味が納得されて社会的に通じるまでに言霊百神の循環がありますが、その循環の繰り返しによって文章が成り立ち、問いと答えが成立していきます。
公案では学僧も和尚も現象表現を用いますが、学僧の方は「有る無し」の現象の言葉を求めているのに対して、和尚は意識の用い方の次元にまで戻って学僧にそこからもう一度答えをひねってみなさいという意味で、一言「ム」と言っただけなのでした。
「ム」に主語、述語や説明が付いてしまいますと、学僧と同じ次元に堕ちてしまい、自らの答えを成立させる時間空間次元(時処位)の足場を失います。
自らの言葉の発生の根拠が無いのに、問いも答えも無いのです。
和尚は考えとか空観を得るとか悟り無を得るとかの時処位の色の付いた言葉を与えないために単音「ム」と言っただけでした。
そこで学僧が色の付かない時処位を持った言葉を感得すればいいのですが、それが宗教の限界です。その表現が「無」となろうと「悟り」になろうと「神との対話」になろうと、自らの感得したものを世界創造へ向けることを知りません。
古事記では「まぐわいしよう」と呼びかけますが、どの宗教も「国生みなさむ」ことをしません。
そこで古事記は無自覚なウ、オ次元ではどうなり、宗教のア次元ではどうなると言うことを示し、それらと「まぐわい」をして理想的な創造規範を作ろうと呼びかけています。
【 成り余れる処、成り合わぬ処 】 8。
学僧は蟻を踏みつぶして心を痛めたのか、自分を刺す蚊を叩いて自責の念に捕らわれたのか、質問の形は犬に仏性は有るかとなりました。あるいは神に仏性は有るか、釈迦に仏性は有るかと自分にはどうかと問いたかったのかもしれません。
質問の形はあっても、その内容は犬だっかのか何だったのか不明ですが、質問したい知りたいと「成り成りて、成り余れるところ」とは、彼の問うことそのものです。問うことそのものを普遍に有る彼のものとしないと、本当はお前、犬じゃなくて蚊の魂について知りたかっのだろうとか、動物界とか、生有るもの全体とかの抽象語とかへの解答になります。
ハイデガーの「時間論」の解説を読んでいたらこんなのがありました。
「 問いの構造の分析は二つのことに要約される。一つは、問いには三つの要素があること。もう一つは、問うことはあらかじめ問われている当のことの方から手がかりを得ているということである。 問いは三つの要素に分解できる。
1、問われている当のこと(Gefragtes)
2、問い合わすべき所(Befragtes)
3、問うことによって求めているところの何か(Erfragtes)
たとえば、駅に行く道を尋ねるとしよう。問われている当のこと(Gefragtes)は駅に行く道であり、問い合わすべき所(Befragtes)は通行人だったり、近くの店の店主だったりお巡りさんだったりする。そして、問うことによって求めているところの何か(Erfragtes)といえば、駅に行って電車に乗ることだろう。」
この分析はハイデガーのものか解説者のものか分かりませんが両者はつながりがあるのでしょう。
これを学僧の問いに当てはめれば、1、犬の仏性、2、和尚さんへの問い、3、犬の仏性の有無、になるでしょう。
この分析は一応時間の流れに沿って時間のあらわれる空間の知的な問いと問われる事の関係を示しています。
確かに時間と空間を見ている限りではよくできた分析ですが、蟻や蚊をいさめた自責の念や感情、夢に出てきた神さんや自分の仏性はあるか、腹が減って喰わねばならないという空腹感に仏性はあるか、とかには不向きな分析です。
取り上げる例がおかしいと言うかもしれませんが、言葉を返れば知的概念的な仏性を問う以外には当てはまらないと言う感じがするでしょう。生きることは喰うことです。喰うことは破壊殺戮に加担することです。喰うことに仏性はあるか?。
和尚さんの答えはそれらも含んでいますが、ハイデガーの解説者の方はどうだか分かりません。
以上のことを一言で言うと、時間と空間だけを考えているのでは足りていないということです。学僧も解説者もそれに気づいていませんが、和尚は知っていましたから、単音「ム」という解答をあたえました。この超短い解答の意味が分かれば悟りといわれるのですが、現代の解説はその反対のことばかりです。(私の書くものも長過ぎ。)
参照。
「 http://www.futomani.jp/kototama_ver.1/lecture/no177/no177.htm
時間とは空間の変化であり、空間は時間の内容という事が出来ます。時間のない空間はなく、空間のない時間はありません。そして時間も空間もアオウエイと畳(たたな)わる次元の中の一つの広がりについて言える事であります。時間と空間は次元の一部であるという事です。これ等のことは、宇宙の全容を示す言霊五十音図表について考えれば一目瞭然であります。その時間と空間の畳(たたな)わりが次元宇宙なのです。」
質問には質問内容の(イエウオアの)次元層があるのですが、質問している間にその次元層がこんがらがり混ぜ合わせられてしまいます。
学僧は蚊を殺した自責の念に駆られているのに、質問の形は犬の仏性を問うことになったりしています。どういうわけか人間にはこの次元層を自由に上下して扱うことが難しいらしく、常に取り違えていきます。
古事記ではウオ次元の「吾は黄泉戸喫(へぐひ)しつ」をしてしまったからだといっています。
「ここに殿の縢戸(くみど)より出で向へたまふ時に」というように、結論結果の出来合い概念から出発したからです。
犬の仏性で言えば、「犬・仏性・等」の出来合い概念( 譬え考えに考えたものであるにせよ、)を使用しているということです。
ですのでそこでは犬と言いましたが、土佐犬といったりブルドッグと言ったり蚊といったり豚と言ったりしてしまいます。
それらの表徴的な現象表現が何であろうと、学僧自身に本来あるのは、犬とか豚とかではなく、その言葉を発した自分の心の動きです。この心の働きはどのような表現に成ろうと、成り成りて余れる処となっているということです。この自身の湧き出る余れる処から出発しないと「吾は黄泉戸喫(へぐひ)しつ」になります。
今に見ていろ、今に見ていろと言って頑張っている内に二十年が過ぎることもあります。ここでは今とは二十年という瞬間のことです。「もう秋か、何故に永遠の太陽を惜しむのか」
二十年間、「ここに殿の縢戸(くみど・あがりと)より出で向へたまふ時に」でなければ、 二十年前の今というのは今も持続しています。
成り余れるのイメージが得られたでしょうか。
参照。(ハイデガー)
「現存在が時間なのです。――日常性における、また確実だが不確定な済みへの先駆における、このようなわたしの〈そのつどであること〉がです。現存在はつねに、その可能な時間的存在のひとつの仕方において在り、現存在は時間であり、すなわち時間はなんら同語反復ではありません。それゆえ本来的に現存在は、時間性であります。根本の原因は時間が時間的である、ということです。持続は、その済みであり、その可能性です。このもの(済み)への先駆において、わたしは本来的に時間で在り、『わたしは時間をもっている』のです。
時間がわたしのものであるがゆえに、多くの時間性が存在します。特定の時間は、意味の喪失というものです。…………将来的であること(その済みへと先駆すること)において、現存在は自分自身となり、その唯一の運命の唯一の〈このたびということ〉として、その唯一の、一回限りの済みの或る可能性において、見られるのです。」
ドイツ語には日本の五十音図のアイウエオに相当するものがないので、意識の次元層を五層に分け、またその働きを八種に分けることがないようです。
【 成り余れる処、成り合わぬ処 】 9。
学僧は質問をしたわけですが、何故質問ができたかと問うこともできます。質問ができるためには先天の条件なり前提が必要です。 学僧の質問には何故自分が質問できるのかという自覚がなく、自分の質問の由来を知りません。そこにもやはり時処位の三要素がなければ問いという現象はおきません。
質問が出るには質問の先天条件があります。時処位。
1)まず質問が出る以前の次元です。
学僧はイヌのガツガツした様子を見てイヌの空腹に仏性はあるのかと思ったかもしれず(ウの欲望)、学んだ通りに動物であるイヌにも仏性はあるのかと知りたかったかもしれず(オの知識)、尾を振って付いてくるかと思えば人には牙を剥いて吠え付く激しさ(アの感情)に仏性はあるかと疑問にしたのかもしれません。
学僧の次元設定が不定です。形式上知的な問いとなっているだけです。
2)次に質問が出る以前の時の変化です。
犬、あるいは本当に知りたかったこと、が問いとしてあらわれるわけですが、そのあらわれの時間の取り方が勝手に恣意で扱われています。その犬の全体か、犬類の全体か、蚊毛虫も含めた動物界か、吠え人に噛み付いているときか、満足して寝ているときか、犬の仏性を自分が噛みつかれながら考えたのか不明です。
相手対象の現れとなる時間の取り方が不定です。
3)犬の現象の変化、事の現象のあらわれは場所空間物の現象変化とあらわれますが、学僧が言うのは「犬」というだけで、何をあらわした犬なのか分かりません。
犬、相手対象の占める場所の変化、空間条件の変化、現象の変化の取り方が提示されていません。
以上の要件が満たされていないので、質問を聞く方も、あるいは第三者の声が加わるときも、それぞれ思い付き自在な条件が加わります。つまり現象の取り方が勝手気ままですので、応対する方も規範がありません。
和尚は最初からそのことを見抜きましたので、主語述語説明無しの一言で済ましたのです。もしそうでなければ、「成り合わぬ処」をさらしていく事になります。
和尚が犬の仏性に答えれば、○△□の仏性にも答えなくてはならなくなるでしょう。○△□を全部集めている暇はないが、それら全部を、未だ不明の物まで含めてまとめる事はできる、と和尚はいうのです。
「(お前の問いも含めて) ム」ですが、答えてしまったからには、「(俺の答えも含めて) ム」が加わります。
どこかの坊さんはそこから絶対無だという方向へ持っていきますが、無に取りつかれた囚人です。
古事記はどうするか。「(お前の問いも含めて) ム」、「(俺の答えも含めて) ム」が手元にあります。禅者なら元へ戻って両者の分裂以前の一者の境地(内外打成一片 (ないげだじょういっぺん))に悟りを求めるだけです。彼女と彼氏が抱き合う境地(空)を得るというだけです。
しかし、ここには古事記の言霊学があります。方や成り余れる処(ム)、方や成り合わぬ処(ム)があります。
「まぐわい」を求め、「国を生みなさむ」、子供を作ろう、新しい世界を創造しよう、現象を打ち立てようとします。境地を得るだけではなく、現実を得ようとします。
和尚は学僧に知りたい知りたい言葉であらわされる現象の意味を知りたいという精神の在り方を「無」といったのでした。よく見てみよ、言葉の問いはお前のものではない、そんなものに答えは「無」です。
この言葉の答えである「無」に、あるとか無いとか、無とは有だとか無とは有だとか、絶対無とか空とかのことを考え始めますと、言葉遣いは仏教禅的な恰好は示しますが、配置転倒置き換え自在の言葉に過ぎませんから、外見だけは禅みたいというだけです。
和尚はそれを避けるために主語述語説明無しで答えたのですが、受け取るそこから先は学僧側の問題ですから放置しています。空観を得る得ないはそっちの勝手ということです。
実はここのところは、和尚は、自身自分の経験内容を語る言葉、言語体系を持っていないので、禅者である和尚は自分を語る上位次元の山に昇ることができていないということなのです。和尚の空の解脱は和尚だけのものであり、それを体験した少数者の内輪の理解です。
仏教、禅は悟る悟る、空観を得るというのが目標ですから、それを得てどうするということを全然知らないのです。得た後は個別の事象に当てはめて自分を忘れないようにしていくので、抱き合う境地の保持維持から出られず、実際に抱き合い子を生み育てる普通なことができません。
確かに体験内容の「カーッツ(喝)」はあるのですが、それを得て保持して忘却しないことを心の目的としていますから、次の自体へ発展させることができず、「喝」の内容を心の中一杯に拡大充溢しようとしてしまいます。
それを助けるために、主語述語説明のない短い言葉が選択され、その言葉を解釈行為の目的とします。
それに合わせて現実行為の自分の形を作り、現象を生きる自分の名目としますから、そこを受け入れて、現実行為の行動を実践する彼方に、中身内容を見いだすようになり、その実を追求する人生になってしまいます。
悟りの中身を追求する人生となり、その基本要求に従い、自らの実現を未来の彼方に置き忘れるのです。追求の人生といいますが、確かに尊敬すべき態度ですが、イマココの今現在において何も完結したものを提示できず、結論は全て未来送りとしていきます。
【 成り余れる処、成り合わぬ処 】 10。
なんだか、たわごとのようになっています。
どうせなら和尚の悟りの次元を越えるなり、やっつけるなり、和尚相手に教えを垂れるなりしてみたいものです。
和尚の悟りなんてものは社会実践的には何の力もなく役に立たないのは誰でも知っています。役に立たない分だけその替わり、人々の生死をよく見つめ、清浄と汚濁を見つめ、真美と醜悪をよく見つめて表明してくれます。
でも、悟りという言葉の囚われ人の立場からです。普通に言えば悟った立場からです。立派などこからも文句をいわれる筋合いはなく尊敬を受けるものなのに、このブログではその反対です。悟ったという人たちの言うことが癪に障る気持ちがあります。(たわごとですので、付き合うことはありません。)
和尚の答えは主語述語説明のない非常に短いものでした。何故でしょう。
それは、和尚の個人的な体験、悟りという精神の変態から出てくるものだからです。この和尚の日常思考から脱皮した精神の変態を保障するのは、当人の体験内容しかないからです。説明するために他の言葉を用いると、和尚と言えどももう自分を表現できません。
それは何らかの一挙に与えられる全体了解、観という形で得るもので、知識や概念を学ぶように個々に見て個別的な差異を了解するものではありません。感情のように全体が目前に迫り、慈しみ、愛を伴う了解となります。
つまり意識の次元が違うので、知識概念の過去記憶をいじくり返すことでは捉えられず、説明できないものなのです。人の意識の成長には階段を一段一段上がる様な了解を得るものと、一挙に屋上に立ち街全体を見渡せる視力を付けるものがあります。
悟りは個人体験という範囲内で屋上に立つことです。しかし、屋上からの眺めは良くても、家屋自体を見ることができず、さらに上なる雲の上から見ること、大空から見ること、宇宙から見ることを知りません。またまたたわごとになってきました。
問いを発する学僧の次元で答えを与えると、「成り余れる、成り合わぬ」のままですが、さすが名著(迷著)として残った書物の和尚です、「ム」の一言でした。
本来ならここで、お前は悟っていないとひっぱたくことをして、相手学僧の真相を見抜いて導きの声をかけるはずですが、和尚にもそれはできません。自身で解脱せよというだけです。悩む人、病気で苦しむ人、人生に落ち込んでいる人に、悟れるように「喝」というだけなら、ロボットが言ってもいいのです。
宗教では実現することは相手に要求して任してしまい、愛と慈悲だけはこっちもちだよ安心していなさい、と実用的な声をかけません。
それを言霊学で止揚しなくてはならないのですが、そう簡単ではありません。
というよりわたしにはできません。
せいぜい、教科書の真似事を書き写すだけになります。
言霊学では、悟ることで終わることはせず、境地を得ることに満足せず、まぐあいし、くにを生み、子を生み、現象を創造していこうとします。全く普通のことですが、概念で理解しますと、悟りがえらく立派なように見えてしまいます。
普通の実践行為からすれば、悟りとか空観を得ることなど誰でもが無意識の内に通過していることです。
それを自覚意識化すると、その表現において地獄に堕ちます。またそうなるのを避けようとすると、彼方の目標を追求するという姿勢を取るしかなくなります。普通の姿に戻ればいいだけですが、概念知識の次元を超えたという自負があるため、相手概念を低次に見ると同時に、それを説明するのに低次次元の言葉を使用しなくてはならないというジレンマに堕ちていきます。
結局自分の経験を語る言葉を持てず、今現在の自己を放り出してあちら側にある自己とか自己の目標とかを相手にしてしまいます。
そこで言霊学がそのようないじけた心持ちを解放していくことになります。もっとも強烈に維持されている宗教者の態度の中に、神の存在とか神体験の実在が主張されています。これはその宗教者や取り巻きから実体験として支持されていますから、否定することでは収まりません。
どうしたらいいかはわたしにも分かりませんが、分かる必要などないよと言われるかもしれませんが、いずれにしても人間が経験したことは神がいなくても体験できることは徐々に浸透していくでしょう。
残るのは見神、神体験、神との交流が、神がいなくてもできること、人が神を創造して対話していたことを知るようになれば大部分の、神体験は証明されるでしょう。
さらに頑固に残るものとして、人間側から神を知ったのではなく、神から人に知らせがあったことを説明することでしょう。大部分の憑き人はあちら側から言葉や光が来たと主張します。
しかしそれも人の人たる由縁によることならば、神をあちら側に立てなくとも良い事になります。
自分の名前も書けないおばさんが御告げを降ろされ、何百枚と半紙に書き写しました。各教祖開祖の経験も似たようなものです。そのまま受け取ればどうしても神威神力を持ち出さざるを得ません。
しかし、自分の体験経験をよく見ると、知らぬ内に自分で何かしてしまっていることは日常茶飯事です。歯を磨くこと、歩くこと、便器に座ること等々無自覚無意識で行為されています。そういったことには、習慣とか反射とか記憶とかを出してきて説明をして、無学なものが文字を書くとはまるで違うというかもしれませんが、文字を知らないものが御告げを書くことにも、無自覚無意識の内に習慣反射記憶等が出てくることは当てまります。
それらの行為をしている時に、今までに聞き覚えた神とか創造主とか光とかの思いがポッと出てきて、行為とその行為者を結ぶときもあることでしょう。その経験が記憶され蓄積され、反復が望まれるようになれば、そこに何か新しい事態がおきないとも限りません。
夢の中でではなく、夢遊のうちに実際に何かをしてしまうことはありますし、起きているときに無意識的な事物が尋ねてくるときもあります。それらの経過を通過しているときに、各次元次元段階段階で神なり創造主なりが顔を出すこともあるでしょう。そこに顔を出してきた何ものかは、その経験者が常日頃想いを寄せていたものとか、口にしていたものかも知れません。
突然どこからか誰だかしらない誰かが顔を出してきたと言うより、人間側にそれだけの先天条件があったのかもしれません。
仏教も禅もその点は真面目で、後世の整備された体系の中に居すわった者(神)が、初発に返り咲き創造力を発揮したと言う何々神何々神はおとぎ話としています。
要するに、神はいなくても神体験ができる素地は人には備わっています。
古事記の神々は最初から人の精神性能を神の名を借りてあらわしているものですから、天の御中主の神とか、国の常立の神とかの神々がいるということではないのですが、人が神を作る意識構造のまにまに「神」という名を当てたものですから、その「神」が客体化していきました。
それが人の意識の任意の時点に夢遊無自覚的にあらわれると、最初からあちら側から来たものとして人は扱うようになりました。
あらわれるものが、その時との場で、ホットケーキやカレーライスでなくたまたま「神」であったということでしょう。もちろん常日頃意識に「神」が沈潜してからかもしれず、突如としてあらわれたものか、その時によるでしょう。
ですので、アメリカ、欧州には天照大御神はあらわれず、日本にはデルポイ神殿の神はあらわれないのです。
こうして神とお話ししたという人の神と、神を見たという人の神の多くは、自分一人の隠れんぼからあらわれた自分の片割れ(知り合い)でしょう。聞いたことも見たこともないデルポイ神殿の神さんは日本人とはお話した試しはありません。
こうして、神はいなくても神体験ができる素地は人には備わっているのが、確かのように思われます。
以上のことは神はいないということを証明するものではなく、神を創造することを証明するものの一つです。全く不十分なものであり、人の創造意思のイ次元の体験はわたしにはありませんから、たわごととしておいても結構です。
------------------------
もし人が「イ」次元に目覚め【 成り余れる処、成り合わぬ処 】のまぐわいを始めたら、どういうことになるのか想像もつきません。
◆◆◆ ここから下、工事中 ◆◆◆