ここにその妹伊耶那美の命を相見まくおもほして、黄泉国(よもつくに)に追ひ往(い)でましき。
文章をそのまま解釈しますと「伊耶那岐の命は、先に高天原の仕事を終え、本来の自らの領域である客観世界の国である黄泉国(よもつくに)に去って行った伊耶那美の命に会いたいと思い、高天原から黄泉国に伊耶那美の命を追って出て行きました」という事になります。けれど事の内容はそう簡単なものではありません。伊耶那岐・美の二神は共同で言霊子音を生み、生み終えた伊耶那美の命は客観的文明世界建設のため黄泉国に去って行きます。伊耶那岐の命は唯一人で五十音言霊の整理・運用の方法を検討し、終に自らの主観内に於てではありますが、人類文明創造の最高原理である建御雷の男の神という精神構造を発見・自覚することが出来ました。さてここで、伊耶那岐の命は自分の主観の中に自覚した創造原理を客観世界の文化に適用して、誤りなくその文化を人類文明に摂取し、創造の糧として生かす事が出来るか、を確認しなければなりません。その事によってのみ建御雷の男の神という主観内真理が、主観内真理であると同時に客観的真理でもある事が證明されます。以上の意図を以て岐の命は黄泉国に美の命を追って出て行く事となります。
この文章に黄泉国(よみのくに、よもつくに)の言葉が出て来ました。古事記の中にも上記の二つの読み方が出て来ます。特にその欄外の訳注に「地下にありとされる空想上の世界」(角川書店)とか、「地下にある死者の住む国で穢れた所とされている」(岩波書店)と書かれています。また「黄泉の文字は漢文からくる」ともあります。すべては古事記神話の真意を知らない人の誤った解釈であります。黄泉(こうせん)の言葉は仏教の死後の国の事で、古神道布斗麻邇が隠没した後に、仏教の影響でその様な解釈になったものと思われます。また「よもつくに」を予母都国、または四方津国と書くこともあります。予母都国と書けば予(あらかじ)めの母なる都の国と読めます。人類一切の諸文化は日本以外の国で起り、その諸文化を摂取して、言霊原理の鏡に照し合わせて人類全体の文明として取り入れ、所を得しめるのが昔の高天原日本の使命でありました。四方津国と書けば、その日本から四方に広がっている外国という事となります。また外国は人類文明に摂取される前の、予めなる文化の生れる母なる都、という訳であります。 (島田正路著 「古事記と言霊」講座 より)
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