あめつち。アの芽が付いて地になる。1。
古事記上巻は、天地の初発の時より始まります。
(原文)
『 天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、
【 言霊 ウ】 天の御中主(みなかぬし)の神。 次に 、
【 言霊 ア】 高御産巣日(たかみむすび)の神。次に 、
【 言霊 ワ】 神産巣日(かみむすび)の神。 この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき。』
次に、国稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる時に、葦牙(あしかび)のごと萌(も)え騰(あが)る物に因りて成りませる神の名は、
【 言霊 ヲ】 宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。次に、
【 言霊 オ】 天の常立(とこたち)の神。 この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまひき。 』
次に成りませる神の名は、
【 言霊 エ】 国の常立(とこたち)の神。次に 、
【 言霊 ヱ】 豊雲野(とよくもの)の神。
この二柱の神も、独神に成りまして、身を隠したまひき。』
次に成りませる神の名は、
【 言霊 チ】 宇比地邇(うひぢに)の神。次に 、
【 言霊 イ】 妹須比智邇(いもすひぢに)の神。
次に 、
【 言霊 キ】 角杙(つのぐひ)の神。次に 、
【 言霊 ミ】 妹活杙(いくぐひ)の神。
次に 、
【 言霊 シ】 意富斗能地(おほとのぢ)の神。次に 、
【 言霊 リ】 妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。
次に 、
【 言霊 ヒ】 於母陀流(おもだる)の神。次に 、
【 言霊 ニ】 妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。
次に、
【 言霊 イ】 伊耶那岐(いざなぎ)の神。次に、
【 言霊 ヰ】 妹伊耶那美(み)の神。 』
---以上冒頭の十七神の引用。------------
ここでさっさと結論を出しておきます。古事記を神話、民話や伝承、歴史、未開な思想等としている方には全く別の分野の話のことになります。上巻は五千年以上も前に既に完成していた、人の心とは何か、の完璧な解答教科書として残されたものなのです。心の事を書いたものですから、人の行なう全ての事象に該当しています。
≪古事記上巻の結論≫
上巻には【 】内の言葉はありません。古事記の上巻はそもそも、【 】内の言葉(言霊)を説明し、その整理使用法を述べ、ひいては言霊を用いて歴史を運用する人間の精神行為の適応法を述べたものです。
上巻の結論とは、それぞれがかっこ内の言葉となり、それを使用する人間の心の構造となって、それを使用して創造していく歴史文明創造行為であり、それらを導いた「心とは何か」を明かして示し、今後の三千世界を導く事です。
全てが比喩的に語られ、今までの歴史上知っている人がいても誰もが語るのをはばかれたものです。
「 世の元の大神(かみ)の仕組といふものは、神々にも分らん仕組であるぞ、この仕組 分りてはならず分らねばならず、なかなかに六ヶ敷い仕組であるぞ、知らしてやりたいなれど、知らしてならん仕組ぞ。」(ひふみ。21)
「 知らしてはならず、知らさいでもならず、神は辛いぞよ」(大本お筆先)
「 我に付きたりしものどもに、真の事を言はざりけると思いて、佐渡の国より弟子共に内な申す法門あり
此は仏より後、迦葉(かしょう)、阿難(あなん)・竜樹(りゅうじゅ)・天親・天台・妙樂・伝教・義親等の大論師、大人師は知りて而もその心の中に秘めさせ給ひて、口より外に出し給わず、其の故は仏制して言ふ、我滅後末法に入らずば此大法言ふべからずとありし故なり。
日蓮は其使にはあらねども其時刻にあたる上、存外に此大法をさとりぬれば聖人の出でさせ給うまで、先づ序文にあらあら申すなり。
而るに此の大法出現せば、正法像法に論師人師の申せし法門は、皆日出でて後の光、巧匠の後に拙なきを知るなるべし。此時には正像の寺堂の仏像僧寺の霊験は皆消え失せて、但此の大法のみ一閻浮堤に流布すべしと見えて候。」(日蓮、三沢某への手紙)
神でさえ語るのがはばかれ、日蓮は自分の教えなど、意味のない存在(「皆日出でて後の光」)とまで言っています。
直接言うことを避け御告げの形がとられたひふみ神示では、このことが明かされる事を、「 二二(ふじ)は晴れたり日本晴れ」と言うことから始めました。「二二」とは「ニニギの命」のこととをさし、二の二のギ(技芸)のことで、つまり三次的な技芸の世界のことです。
ここでも二二は譬喩として語られ、人々に富士と読ますようにしています。もちろんそれでも言葉として通じますから、それで構わないのです。「知らしてならん仕組ぞ。」という半分がありますから。
「二二」の実際の内容は次の通りです。一は言霊原理、原理の次(二)の産物は言霊原理による言葉、つまり大和言葉、そして、二の二の世界(ふじと読まされている)は言葉において行為創造する人間の活動そのもののことです。こうして、その時が今ここに来たのだから原理に則って二本足で歩めということです。
二の二は三次的な事という意味は別の表現もできます。一は言霊原理、原理の次(二)の産物は言霊原理による言葉で、その次の事を二の二と言いますから、言葉による交流創造の次元、人間行為の次元のことになります。言葉の原理とその表現法は先天的に与えられています。その先天性によって人間の創造活動、つまり、後天活動が眼に見えるようになるというのが、二の二です。後天現象のことです。
これを数霊でしめしたのが、「ヒフミヨイムナヤコトタリ」で、ひふみ神示では、
「 マコトとは 一二三四五六七八九十と申してあろう、
そのうらは十九八七六五四三二一 で、合せて二十二であるぞ、
二二が真理と知らしてあろう、
二二が富士(不二、普字)と申してあろうが、まだ判らんか。
(紫金の巻 第三帖)」
「 フトマニとは大宇宙の法則であり秩序であるぞ、神示では012345678910と示し、その裏に109876543210があるぞ、 九十(マコト)の誠であるぞ、合せて二十二、富士(普字、不二)(フジ)であるぞ。神示の始めに示してあろう。二二(富士)は晴れたり日本晴れぞ。」
と、示されています。
この二つの表現は方や1~10×2で20、方や11+11で22で、「20」と「22」を両方とも「22、(二十二、二二、フジ)」と言っています。
ここに富士山が出てくるのは、訳者の無理解の上にぴったりヒットした表現で、別に富士山が晴れて立派に見えるなんてことは全然関係ない事ですが、そういう素晴らしいというか、現象として現れるという事をいいたい為の譬喩です。
「20」と「22」の両方が同じ意味を持つというのは次の通りです。
1~10というのは、訳しますと、1・23456789・10のことで、あいうえお五十音図の各段、母音(主体)・子音(8)・半母音(客体)の全部で10のことです。この主体側が、八音を通過して、客体側に達すると、現象となります。ここで現象となっものが0、例えば単音の言葉、で、その0の上に同じ構造が循環されて、次の0を、つまり1~10を産みます。
その時に始めの0(下0)と出来上がった0(上0)、上0は次の循環の為の下0になる、の二つを勘定すると二二なるというわけです。
これらは単なる数霊での表現で実体を持ったものではありませんから、囚われても意味の出て来るものではありません。それはフトマニ言霊学によってしかその内容を明かす事はありませんので、フトマニ言霊学の勉強がどうしても必要です。
当て漢字を用いたければ、息吹を「ふ」と読んで(吹だけでもいいですが)、「息吹(ふ)示(じ)は晴れたり日本晴れとなるでしょう。息吹は言霊による言葉のことで、息吹を示す事によって、これからは今までのような無自覚なフトマニ言霊を使用しなくても良い時代が到来したということです。(ひふみ神示、地つ巻き、34)
古事記の上巻は言霊を明らかに示し見せて運用する法を教えたものです。数霊、神示、譬喩に囚われる時代は終わりました。
運用する主体はわれわれ人間で、「明らかに(か)、示し見せる(み)」ことを、かみ(神)、と言い、神とはわれわれ人間のことで、神道では神を拝む(おろがむ、愚か者が拝む)ことはありません。拝むのではなく、「いつく」のが昔からの神道です。
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【 】内の言葉は古事記上巻に記載はありませんが、冒頭の神名五十神と、それに対応するアイウエオ五十音は別の書物として、皇室の御賢所に秘められています。人類史上至高の「賢い」場所というわけです。
結論をまず挙げておきました。
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≪「物」と「者」。天地。≫【 天地の初発(はじめ)の時、】
【 天地の初発(はじめ)の時、】
≪「物」と「者」。天地。≫
神道には八百万の神々がいて、万物に神が宿るといわれる。
自然物や自然現象、抽象概念の神格化、有能な者の神化、等々、やたらと神がいて、古神道は自然崇拝、精霊崇拝だなどといわれてもいます。
石ころにも神は宿るので、当然人間にも神が宿っており、神の子供となっています。
ところが、神は人間の身近にいて普段から神と共にいるといわれていますが、神は人の力を超えた有能者ですから、いつでも人間は置いてきぼりです。
山川石ころが神であるわりには、人間が、わたしが、あなたが、父母が、生きている誰でもが神であると断言する神道、神の道、がありません。
せいぜい、死ぬと神になるという程度の事か、神の魂が備わっているといわれるだけのようです。何とも寂しい限りですが、人間側が神を拝んでいる以上致し方ないことです。
人間を神としてしまう神さんの居場所が無くなるからでしょう。人は、神の子、神の魂が備わっているといっても、あからさまには、人は神である、とはいいません。生きている内に神であると、死んだ後に自分の神としての行き場が無いからでしょう。
不思議な事に、日本神道の基となっている古事記を読むと、拝む為の神さんなどどこにもいません。拝むでなく、いつくといわれています。神を自然の神格化というのも、概念の連想ゲームから来た当てつけがすべてのようで、幾らでも観念を取捨して取り替えたりできます。
それでも、千年を越える伝統的な解釈の力が強いですから、真偽というより、既成概念の歴史的保守がもっぱら重要なこととなっています。
明治天皇から始まる真実の神概念の元での言霊学の歴史も、昭和天皇の人間宣言という形で終了してしまいました。その替わり、神と言霊と人間を結び付ける学問は民間に流れ根付いていきました。
千数百年の古事記の上巻の理解の大勢は変わってはいませんが、
島田正路 『言霊百神』 「コトタマノマナビ-古事記と言霊講座」
http://homepage2.nifty.com/studio-hearty/kototama_ver.1/
によって、完璧に塗り替えられ、古事記は言霊原理の新しい教科書となりました。
そこから古事記を見ていくと、つまり、言霊思想の出来た五千年以上前の古代大和の当たり前な考えからすれば、神が天地を作ったなどという考えは出てきません。
【 天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、天の御中主(みなかぬし)の神。】
冒頭の句は、神が天地を造ったなどとどうやっても読めませんが、千数百年間はそうやって通してきました。よせ集めた神話、民話、説話、伝承等を比較するとそうなるというだけのことです。古代人の知能程度からすれば古事記も同じだというだけです。
そこにはそのように解釈せざるを得ない人間側の問題が全く抜け落ちていて、いわれたままを信じてきた二十世紀もの、失われた真実の歴史があります。面白いことに真実の理解は失っても、実質である物質文明ははち切れんばかりの興隆の世紀となっています。
さらには、世界の歴史がこの古事記の上巻の思想から流れ出たものであると知る事になったらどうでしょう。に歴史とは人間の精神の動きの上に築かれます。では歴史を造った精神とはどこにあるのでしょうか。それは五千年以上前の古代の大和から発信されたというのが、古事記上巻から出てくる理解です。
それはあなたの勝手な解釈だという声が当然聞こえてきます。勝手な解釈だという心も多様ですが、それらがどのようにどうして出てきたのかを、上巻に沿って一つ一つ解き明かされていったらどうなるでしょう。全ての人の意見の出所が、バレバレになるということです。しかもその根拠がまたもや上巻にあるというのです。
最後の反論はそれは信仰だ信心だという事にまでなるでしょう。そして、最後の言葉は
「もしそれ然(しか)したまふ事を恨怨(うら)みて攻め戦はば」、
という感情の元に出てくるでしょう。
二十世紀の間守られてきた古事記の解釈をする側の最後の怨念が現れてきます。これはいままでの精神、物質両面の指導側の、全宗教指導者、政治経済側の指導者の怨念ともなります。
怨念は人が死んでも残る感情ともいわれるほど強いものですが、弱い立場の者が持つだけでなく、現代の全分野の指導層が持つことになるものですから、そのまま放っておけば世界の破滅に導かれるかもしれないものです。彼らにはせっかくしてあげたというプライドがあるので、それを無化されることに耐えられません。
これを解決する人は今のところはどこにもいません。
ただ解決する道が残されているだけです。
古事記の上巻を読み込む事です。
「もしそれ然(しか)したまふ事を恨怨(うら)みて攻め戦はば」の言葉は、上巻最後の物語「海彦山彦」からのものです。世界の旧体制最後の在り方を示し、新体制への持っていき方、すなわち、現代の生き方を示したものです。
一方、このブログを読んだり、言霊学の勉強をして意見を主張していきますと、海彦の「恨怨(うら)み」を受けることもあります。
【故、爾(そ)れより以後(のち)は、稍兪(やや)に貧しくなりて、更に荒き心を起して迫め来ぬ。
攻めむとする時は、塩盈珠を出して溺らし、其れ愁ひ請せば、如此惚(なや)まし苦しめたまひし時に、】
と、対処の法が述べられていますが、今のところわたしの理解を絶しています。ことに、「塩乾珠を出して救ひ、」出すだけの用意がこちら側には無いからです。
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≪初発の意見を一言でいうと≫【 天地の初発(はじめ)の時、】
古事記の解説をするはずなのですが、今回も「天地の初発」に関する事です。
上巻の出だしを、この世の宇宙世界のことの「初発」にするのは間違いである、と主張していくわけですが、既に千年以上も常識となっているものをどうするのかと、心配される方もいると思います。
コペルニクスのように客観世界を扱うのなら、学問的証拠を集め、、権威筋の脅迫を排除して、事実を集めて勝負できますが、上巻は心の原論の教科書であるということになると、そう簡単にはいきません。主観そのものと、過去の全歴史を扱うからです。
結局、こちら側が学識学問知識概念等を集めに集めても、その喋り方書き方がどのような形になるにせよ、相手の経験知識にしか訴えない事は自明の事です。そこから出てくるのが、賛成であろうと反対であろうと、知識概念での判断でしかありません。
そんな事は既に千年以上も続く間違った常識としてあるのを、またもや、違った概念知識の元で喋ろうとするだけのものです。学問的な新発見とか新研究とかいって、発表されるものをみれば、観点の移動しただけのものです。
今回の古事記の言霊学に関してはそういった事を繰り返すわけにはいかないのです。賛成されようと反対されようと、大したかわりは無いのです。いずれの人々も何も知ってはいないからです。
わたしもその口の一人です。何も知らずに受け売りをしているだけです。賛否いずれかの反応があればそれなりの応答もするのですが、せいぜい受け売りか、自分の頭を使ったか、いずれにしても、記憶概念のこね直しでしかありません。
もうそんな事をやっている時じゃないよと、多くの神示や予言が出現していますが、未だに誰一人として分かっている人がいません。ただいわれた事を白状しているだけで、それをみて、解説をする人たちがいるだけです。
解説は概念ですから、解説同士の戦争が終わりません。自分のお気に入りがあっちにあるかこっちにあるかだけの違いなのに、片足をあの世につっこんでいる事を悟りません。
少なくとも解説者は仏教の空の悟りぐらいは得ているのを、最低条件としたいくらいです。悟りが人生の目標だなんていう人たちは、悟りが最低条件でしかなく、そこから最初の一歩が始まる世界があるなんていうと、返って悟りを人生の目的として固執したくなる事に幸せを感じるのではないかと疑います。
初発を右に行くか左に行くか真っ直ぐ行くか斜めかで、行き着く先が違ってきて、結果も違います。時には止まったりとんぼ返りしたり放棄したりというのもあるでしょう。途中を飛ばして結果だけの見栄えを良くしたものもあります。
マラソンレースのゴールは同じなのに、同じ人類人間として産まれてきたのに、その結果は何故無数の変化違いがあるようにみえるのでしょうか。人の初発の時なんて、男女のまぐあいです。皆同じようなものです。、
さて、天地の初発とは何かです。
ここで面白い事を言ってみましょう。
いままで初発に関していろいろと書いてきましたが、それらを一言でいうと何でしょうか。
途中で賛成反対馬鹿らしい等々いろいろあったでしょうけど、そういった反応も全部ひっくるめて、いままでの事を一言で表現して下さい。
死後とか霊魂とかの話をすると、あれこれ、小さい経験大きい経験、わたしの意見あなたのいけん人それぞれの意見、等々とどこまで行くのか分からなくなるほど拡がります。
天地の初発に関してもそんな感じでしょう。物理世界、宇宙世界のあれこれ、精神主観世界のあれこれが、天地の初発になっていました。
ついでにいままでの事と死後霊魂のそれぞれの意見も味噌胡麻にひっくるめて一言でいうとなんというでしょうか。
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≪初発の半分≫【 天地の初発(はじめ)の時、】
世界最高の精神の教科書である古事記の上巻の、始めに書かれた言葉を間違えたら、世界最低の理解となります。出だしを間違え、出発する方向を間違えたら目的地に着きません。
しかし、当初に間違えるようにさせられていたらどうなるでしょう。間違える事が当然で百パーセントの人たちがそれで納得している図です。宗教を信じて神がいるとか、あの世があるとか、霊魂は不滅とか、間違わされていたらどうでしょう。
間違いを保証するかのように、大昔から、言い伝え神話説話として神霊魂あの世の話をしておき、それを記録記憶し残し、大小様々な経験を神霊魂あの世に結び付けるようにさせられていたらどうでしょう。
どんな不幸があっても、どんな災難があっても、魂がうちひしがれないように、神霊魂あの世が用意され、希望を失わないように神霊魂あの世からの返答が、全部はきけないけど半分聞かれるようになっていたらどうでしょう。
全部を聞きたいのに許されず半分しか聞けません。その半分というのは信じればということで、努力すればということで、経験すればということで、与えられればということです。そのような仕組みの中に、人は生きていくようにさせられていたらどうでしょう。
誰がそんなことをするのですか。神ですか。創造主がですか。
その返答に一言付け加えてみませんか。「人間」という言葉を。
神のような人間がした、創造主のような人間が計画したと。
神霊魂あの世に問いかけると半分は神霊魂あの世自体が答えてくれます。これは誰にでも共通です。全部答えてくれないので正解ということができません。何故そんな半分の仕組みがあるのですか。
答えてくれた半分は、人の基本的な生き方の要求であったり、未来の目標であったり、いまここでは手に入れることのできないものの提示であったりして、これも誰にも共通です。何故そんな半分の仕組みがあるのですか。
ここまで聞いてくると神とはこの半分を与えるものという感じがしてきませんか。どのような難しい問いにも簡単な問いにも、問いかけた人にはその力量に応じて必ず半分は答えてくれます。残りは本人次第なのか神様次第なのかわからない、未来への時の経過の中に置かれます。
この半分答えるものが神であるとしてみましょう。
そこで突然にここで古事記が出てきます。
古事記の上巻は総てを答えます。どのように答えるかというと、
【 この時伊耶那岐の命大(いた)く歓喜(よろこ)ばして詔りたまひしく、
「吾は子を生み生みて、生みの終(はて)に、三はしらの貴子(うずみこ)を得たり」
と詔りたまひて、】
とこのように、子を産んだことに満足します。子とは結果を得たこと、答えたこと、現象を創造したこと、です。
宗教の神さんが半分しか答えないというのとは大変な違いです。さらに、結果を得たことに「大(いた)く歓喜(よろこ)ばして」、しかもその答は丁重に三つにわけて答えられます。
キリスト教も愛による歓喜の恩寵を語ります。しかしそれはすぐ人知れず隠され個人の聖域に秘められてしまいます。決して社会政治の運営、産業文明創造に与しません。
【 すなはちその御頸珠(みくびたま)の玉(たま)の緒ももゆらに取りゆらかして、
天照らす大御神に賜ひて詔りたまはく、「汝(な)が命(みこと)は高天の原を知らせ」と、 言依(ことよ)さして賜ひき。かれその御頸珠の名を、御倉板挙(みくらたな)の神といふ。
次に月読の命に詔りたまはく、「汝が命は夜(よ)の食国(おすくに)を知らせ」と、言依さしたまひき。
次に建速須佐の男の命に詔りたまはく、「汝が命は海原(よなばら)を知らせ」と、言依さしたまひき。】
高天原の精神原理と、精神の文化文明感情と、精神を元とした学問産業方面に分けられる、人間の全性能に対応する答です。
古事記の思想によってできるのに世界の大宗教ができないというのは、おかしいと思いませんか。
実は世界の大宗教は古事記の思想(フトマニ思想)によってできたものです。また世界の歴史もフトマニ思想を適用したもので、古代大和のスメラミコトがユダヤのモーゼを指名して世界建設にあたらせたものです。巷で言われるようにその逆ではありませんが、そんなことは歴史的な証拠が出てくれば済むことです。
そこで新しい疑問が起きます。神さんが今までしてくれた半分だけの答とはなんだったのか、です。それが月読みの答られた半分ということになります。
全世界の宗教の神さんたちの返事というのはこの月読みさんの答の半分側なのです。古事記というのは、全世界の宗教の神さんたちに半分だけは答えるように指導したものなのです。
世界の教典、神話、伝承を読み直せば、それらの内容の実相がフトマニ思想にあるはずです。何故なら、世界中の教典、神話類はある実相を元とした譬喩を概念的に述べたものですが、古事記の上巻は実相そのものの表現となっているからです。
天地の初発の、天地が何故実相そのものであるか不思議に思うでしょう。それは遅れてやってきた中華の言葉の影響下にいるからです。
「あめつち」
古代の大和の言葉使い「アメツチ」に戻してみれば、アの芽がツーッと結ばれて地に着くことを、あ・め・つ・ち、と表現したのです。
ものごとの始めは「あっ」という全体感が喚起され(芽)、それがわたしの意識と相手対象に結ばれ(つーっ)、付き合わされる(ち)ことで実際に始まりことが起きます。
パソコン画面の文字列を読む場合でも、スイスイと文章を読んでいるつもりですが、その読んでいる始めの始めの時には、文字列を見て「パソコン」の「パ」と判断する以前には、「パ」と意識の相互の感応があって、「パ」意識が「パ」と納得する過程とその連続が存在します。
このような意識、心の始まりを了解しないと心の動きが全部宙ぶらりんになってしまいます。古代に心の原理が発見され、フトマニ言霊はその法則なのです。
上巻は一見譬喩のように書かれていますが、そこで使用されている言葉は、言葉そのものの実体を示しているのです。
「はじめ」
「始め」も同様で、葉によって示された芽、ということで、ものの出てくる始めを指し、葉という出て来た現象の立場を示すために「し」に濁点をつけて過去になっている事を現し、ことの始めの芽が現存していることを示しています。
始めは初めとも書きますが、これは中華の言葉を使用しているから、言葉が違うから、漢字が違うから、内容も違うだろうというようなものですが、分けたければ先天構造内での初めと、後天現象での始めになります。しかし、その大和言葉の心の構造は同じです。
それを表現の違い、言葉のよってきた違い等の現象を突つきだし始めると、この千数百年間の結果が導かれるのです。こうして意見の違いが起きます。
古事記上巻の一字一句はこのように書かれているので、神話のように説明概念を使用したものではありません。概念を使った譬喩ではなく、指示、呪示、指し月の指、です。指のその先にある、「あっ」と意識が芽生えたその地中にあるものが、古事記の上巻です。
表現の違いが心と主張の違いになるのが知識の特徴です。
表現は違っても同じ思いになれるのが感情の特徴です。
宗教というものは神さんの答が半分しか得えられないものなのです。古事記のフトマニ言霊思想によって三千年間にわたって神さん自身がそのように指導されていたものです。
つまり指導したのはフトマニ言霊思想を造った人です。聖(ひじり)と呼ばれ、霊(ひ)知りのことです。政治社会指導者としてはスメラミコト、実言(ミコト)によって統一する(スメル)、といわれました。
世界宗教の創造者たちが古代大和に教えを請いに来ていましたが(竹内文書)、スメラミコトはフトマニ原理の全部を知らせませんでした。精神原理を教えても物質条件がそろっていないからです。そこで宗教は半分だけ答える事を仰せつかったのです。
ですので、「天地の初発」を字句を解説してきた今までの千数百年年間は、古事記を奉った後の半分だけを示したものです。フトマニ思想の実質内容からすれば全く間違ったものですが、内容を理解する言葉になるためには必要な解釈でした。
さて、前回の「 いままで初発に関していろいろと書いてきましたが、それらを一言でいうと何でしょうか。」の解答です。
それは、一言でいうと、知識です。
頭の中にあるときは、記憶で、でてきて表現されると概念です。
頑張って研究して勉強して整理されていけば、学問になります。
知識を持っている人は知者になり、学者になり、学者馬鹿になります。
知識に類する言葉は沢山あり非常に重要な人間性能です。しかしそれだけのものです。
勉強ばかりして頭でっかちで役立たずとは母親の言葉です。とっさの判断が必要な時にあれはなんだ何故かどうしてかなどと考えていたら車に轢かれます。学問知識は飢えた子供たちの何なのか、科学者というのは情けが無く人の心が理解できない、と言われます。
天地の初発を知識で解していけば、知識で終わります。知識次元のことだからと断って置かないと、知識の無能力、無気力、無効が露呈します。
古事記の上巻は心の原理となっている教科書ですから、そんな次元で留まっているわけにはいきません。
●●●●●
≪機縁。縁起≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】
始めが肝心なので「始めとは」何かについてついて調べていたら、仏教の縁起、機縁、十二支縁起なるものを見いだしました。
「釈迦は縁起について、
私の悟った縁起の法は、甚深微妙にして一般の人々の知り難く悟り難いものである。」(ウィキ)なんていうのもありました。
十二支縁起の要素 をウィキから。
無明(むみょう、) - 過去世の無始の煩悩。煩悩の根本が無明なので代表名とした。
行(ぎょう、) - 志向作用。
識(しき、) - 識別作用
名色(みょうしき、) - 物質現象(肉体)と精神現象(心)。
六処(ろくしょ、) - 六つの感覚器官。
触(そく、) - 六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること。
受(じゅ、) - 感受。
愛(あい、) - 渇愛。
取(しゅ、) - 自分の求めるもののために馳求する位。
有(う、) - 存在。
生(しょう、) - 生まれること。
老死(ろうし、) - 老いと死。
記録されている仏陀の言葉は聞く方に都合良くなるように編集されていて、仏陀がこれだけは語っているらしいという事で、もちろん仏陀の本音を現したものではないのは、どの仏教書においても同様です。
記録者は相変わらず、(無)意識領域と、五感感覚領域と、情動感情領域とを分類しているようです。それが理解できる範囲内にあったからです。神示とか、神の言葉とか、キリストが語ったとかいうのも、もちろんそのものずばりを全部記録しているわけではありません。
これらのものをそのまま書かれたものとして受け入れ、「始め」なら「始め」として、そこから出発するのが大衆と僧と学者たちの態度で、釈迦はその事を「 私の悟った縁起の法は、甚深微妙にして一般の人々の知り難く悟り難いものである。」と言っています。
取り上げられている十二を良く見ますと、結局は総て経験領域のことを指しているだけのことです。つまり、釈迦の言葉と教えをを聞く方の、弟子の都合の良い事だけを記録しているだけのようにみえます。
その他にまだ言っていない事がある、隠れた言葉があるというのではありません。一を語ればそれが総てを語る事になるのですから、不足な部分などあるはずがありません。経験領域で語れないものがあるけれど、経験として現象しないから語らないだけで、もともと、大衆、弟子僧、学者たちは語れないものを語る相手になっていないということです。
ですので十二支縁起のどれかを取り上げて、そこから話を始めると、話題を提供したり、いい話を聞いたり、勉強になったり、これからの研究の材料にはなるでしょうけれど、伊耶那岐の大神の『吾は御身おほみまの祓はらへせむ』とのりたまひて、のようになりません。
始めとは何かを語ろうとして、何かの始めなるものを持ってきます。それは動機であったり、目標であったり、準備であったり、前世であったり、語る人の立場をそれぞれ表明するだけです。それらは、学者の論文になったり、聖職者のお説教になったり、犯人探しの立脚点になったり、ブログの感想になったり、それぞれの形を取ります。
個々の現実にあたっては立派な成果が得られるものですが、意識という現実に対しては、始めとは何ですか、には答えられていません。それらの態度から答えようとすると返って、ぶつかり合い主張のし合いになって収拾がつかなくなります。
「はじめ」が肝心で、始めを語るのに始めに頭にきたった、感覚なり思いが始めになっているようです。起承転結や正反合、帰納とか演繹を好んだり、ダイレクトが大好きというその人の好みに応じて、「はじめ」もいろいろです。
こうなると確かに始めはあるけれど、いろいろあって「はじめ論」などとんでもないというようなことになりそうです。それでもビッグバンなど、未だに通用しているようで、科学的観察によるといえばそれが通る事もあります。
客観世界なら観察と経験から正しいとか間違っているとかいう事もありますが、主観世界のことになるとなかなかそうはいきません。宗教による対立はうまくいかない最たるもので、宗教感情を持つという事では納得し合っても、ではその始めを何々の神にするとなると、たちまち始めの神さん同士の戦争が始まり、相手側を殲滅しようとさえしています。
結局、哲学も宗教も思想、学問も科学も、それらを元にした解釈も、自らの依って立つ基盤とそこからの主張と、もしできれば相手を打ちのめす腕力を構築しているだけです。こうした言い方が不満なら論理とかも付け加えておきましょうか。
一つのことを始めようとしているのですがなかなかうまくいきません。
それもそのはずです。誰にとっても始めの始めがいい加減だからです。始めてしまったことに対しては人はそれは自分が始めたのだ、始めて始めたのだから、特許だとか独占権だとか自分の唾をつけて囲い込む事に熱心になります。
それらは一見現象として、造った人がいて造った物があるからですが、では、その元をただされたらどうなるでしょう。例えば、人は言葉で考え言葉を出して考え行動します。出来たものも言葉で評価し言葉を交えて理解し合います。
全ての始めは言葉といっても言い過ぎにはならないくらいです。例えば全ての始まりは神さんからという人もいますが、神さんという言葉はどこから来たかと問うと、神さんからという言葉になります。
人はこのように、多かれ少なかれ無視している言葉から出発していますが、自分が係わり造ったものに関しては、自分が始発だというわけです。始めの動機も、目標も、準備も、自分自身が、自我が、自己意識なり感覚なりが、始めだと主張していきます。
日記だブログだなどといって毎日意見を発表しているわたしなども、自分の考えを書いている積りになっています。真面目であろうとなかろうと、内容があろうとなかろうと、自分のものであるという積りに変りはありません。
全員が全員、何時どこでどのように与えられたか分からない言葉によって、気付いた時には英独仏語ではなく日本語をしゃべっていただけです。本当に自分の造ったものでしょうか。全員が日本語環境の中にいるのだからそれでいいと言っている時代でもありません。
聖書には大昔言葉は一つだったと記載されています。聖書を信じる人も神は信じても、こういった一つの言葉などと言う事実関係をみる場合には信じない事もあるでしょう。ところがこれは二重の意味で真実で、まもなく三番目の意味も加わるでしょう。
一つ目は人の性能から見ていく場合があります。あっ、空を見ろ、スーパーマンだ、隕石だ、という場面を考えてください。この時上空のわけの分からないものを識別する以前、あっ、という時のアッ、にはその時の状況が全部含まれている感情表現となっています。
次にある人は、オッ、という声をあげ、オッ、スーパーマンと言います。この時にはその人は何らかの識別が出来て、アッ、という驚きから、オッ、という対象の判別を表現しています。
オッ、スーパーマン、を聞いたそばにいる人は、スーパーマンとは何だか確かめる為に自分の記憶を探り、あれじゃないこれじゃないと選別して、エッ、スーパーマンといいます。
アッ、は自分を超えた崇高な、わけの分からない感動、不思議な思い、明らかな全体性に通じているので、アッラー、アーメン、阿弥陀様、等のアとアッ、スーパーマンのアッ、とは皆同じ世界共通語です。
もしこの人間性能から言葉が出来ていれば、言葉は一つです。アは世界語です。
二つ目は実に、この人間性能からできた言葉の体系があり、大昔はそれが共通語となってました。それは日本の大和言葉です。そのために比較言語学によって収拾された日本語が世界のあちこちに散らばってるのです。
そして三番目には、今後の世界は、日本語に統一されるということではなく、日本語の大和言葉の構造から指導が行き渡るようになるでしょう。
始めとはを巡って、人の性能と大和言葉というキーワードを得ました。
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≪「阿米都知(あめつち)」≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】
初めがあれば終りがありますが、それも始めについての考え方の相違で幾らでも変化します。初めのビッグバンを受け入れても終りは不明です。仏教では初めも無く終りも無く今今です。努力目標、行動の目的を設定している場合はそれに到達して終りです。概念を使用すれば頭の中で終りが今つくれます。
天地(あめつち)から始まりましたが、天地を「てんち」と読めば、世界や地球や宇宙や人類の始めという事で、科学的な検証をしていけばいいのですが、大和言葉の「あめつち」と読むとたちまち困難を強いられます。
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宣長の「古事記伝」は次のようにいいます。
「 天地は「阿米都知(あめつち)」を漢の文字で書いたもので、天は「あめ」である。
なぜ「あめ」というのか、その意味は分からない。
そもそもいろいろな言葉の起こりを突きとめることは極めて困難であり、それを強いて解釈しようとすると、必ずおかしな解釈が出てくるものである。
【昔も今も、語源の解釈は、十のうち八、九は外れている。一般に皇国の古言は、ただその物や事をあるがままに、安易に呼んだだけで、特別な理屈があるわけではないので、そうした心映えをもって古い書を解釈するべきであるが、世の「物識り」たちは、そういう上代の言語を話していた人々の心をよく考えず、ひたすら漢意によって解釈しようとするので、どれも的外れだ。その漢国でも、上代の言葉はさほどうるさい詮索もなかったのだが、かれらの風俗として、何事も理屈を先立てて、言葉の意を解釈するにも、とにかく理屈を通そうとするため、みなこじつけである。ところが最近、古学が始まって以来は、漢意(からごころ)で解釈することの悪い点を悟る人もあって、何とかいにしえの心をもって説こうとするようだが、それをなし得る人は、まだまれである。】
しかしながら、全く解釈しないで済ませるわけにも行かない。考えつく限りのことは、試みに言ってみてもいい。その中には、たまに当たっていることもあるはずだ。私にも、こうだろうかと思っていることはあり、それを述べてみる。
天(あめ)は空の上にあって、神々のおられる国である。【この他に理屈で細々と論じ立て、あるいはその形までもあれこれと推し測って言うのは、みな外国で言うようなことで、いにしえの伝えではないので、問題にならない。】
地は「つち」だ。名前の由来には、思い当たることがある。後述する。「つち」と言うのは、元々泥土(ひじ)が固まって国土(くに)になったから言う名前で、小さいのも大きいのも同じように呼ぶ。小さいのはひとつまみの土も「つち」と言い、広く海に対して陸地も「つち」と言うのだが、天に対して「あめつち」と呼ぶときは、海も含まれる。
【新撰姓氏録で、海神(わだつみ)の子孫も地祇に入れているのは、地(つち)は海をふくむからだ。
○私は以前、「あめつち」は古語ではないだろうと思っていた。理由は、一般に古い書物を見ると、「あめ」に対しては必ず「くに」と言い、「つち」とは言わないからだ。
天神―地祇(あまつかみ、くにつかみ)、天社―国社(あまつやしろ、くにつやしろ)、神名でも天の某の神、国の某の神となっており、天邇岐志(あめにぎし)、国邇岐志(くににぎし)云々、などの名、また書紀には「扇レ天扇レ国(テンをとよもし、クニをとよもし)」とあり、同雄略の巻の吉備の臣尾代の歌にも、「阿毎(あめ)にこそ聞こえずあらめ、矩ニ(イ+爾)(くに)には聞こえてな(天には聞こえないだろうが、故郷には聞こえて欲しい)」など、みな「あめ」に「くに」を対置しているので、「あめくに」が古言であり、古い本に「天地」とあるのも、「あめくに」と読むべきだと思っていたのだが、
後に師(賀茂真淵)の「くにつち」の論を見てからは、やはり「あめつち」が古言だと思うようになった。
師の考えでは、「くに」と言うのは限りの意味である。東国で垣(かき)を「くね」と言うので分かる。
「つち」と言うのは、皇祖神(伊邪那岐、伊邪那美)が天沼矛(あめのぬぼこ)でかき回した陸地の初めをもって名付けたものである。
ということは、「つち」は天に似て広く、「くに」は限りがあるので狭いように思われる。
だから「あめつち」とは言うが、「あめくに」とは、上代には言わなかったであろう。
「くに」は限りの意味だというのは、天照大御神と月読命は、天の昼と夜を分けてお治めになるが、須佐之男命が天に上がったとき、天照大御神が「我が国を奪おうとしている」と言ったこと、皇祖神は「月読命は夜食国(よるのオスクニ)を治めよ」と言ったこと、また須佐之男命には「海原を治めよ」と命じたが、「その命じられた国を治めなかった」とあり、
万葉集巻二の人麻呂の挽歌(167)に「天皇之敷座國等、天原石門乎開、神上上座奴(スメロギのシキマスくにと、アマノハラいわとをヒラキ、かむあがりアガリマシヌ)」とあるなど、
みな範囲を限って治めるところを、天でも「くに」と言う。
これらを考えると、「くに」は本来「あめ」の対語ではなかった。
だが天つ神、地つ祇、また神名に天の某、国の某とあるのは、地はある限りすべてが天孫の治める領土であるため、自ずから天に対して「つち」と言うべきところも「くに」と呼ぶことになった。天つ神、国つ神というのも、神名なども、天孫が地上を治められるようになってから名付けられたからである。しかし広く天に対して並べて言うときは、「あめつち」と言って、「あめくに」とは言わない、と言う。
彼の考えには、これはどうかと思う部分も多いが、ここではいい意見だと思うところを選んで引いた。】
確かに「あめつち」という言葉が出ているのは、万葉巻二十【三十二丁】の防人の歌(4392)に「阿米都之乃、以都例乃可美乎(あめつしの、いずれのかみを)云々」とあり、
また【四十一丁】(4426)に「阿米都之乃、可美爾奴佐於伎(あめつしの、かみにぬさおき)」、【師が言うには、いにしえの東人はさかしらな心を加えず、言い伝えられた言葉をそのままに言ったので、京の物知り人の歌よりも、かえって古言の参考とすべき点が多いということだ。
「つち」でなく「つし」なのは、東国方言であろう。】
また同五【七丁】(800)に、「阿米弊由迦婆、奈何麻爾麻爾、都知奈良婆、大王伊麻周(あめへゆかば、ながまにまに、つちならば、おおきみいます)」などがある。」
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宣長の見解も物理世界に還元したときの「あめつち」ですが、この二千年の間、もう一つの物理世界のことを忘れているのです。
それは意識という物理世界です。
意識は精神世界の出来事と思っている人がほとんどですが、それらの人々も意識が物理世界と切っても切れない関係にあることは知っています。知ってはいても、精神世界の自由で独立した在り方からどうしても、精神の物理世界との関係を断ち切りたく思うようです。
精神の顕著な表明は言葉ですが、言葉としての現れは全くの物理現象です。皆さんは画面の光点を見ているだけですが、それを読んで文字とし意識の現れとしています。どんな文明世界にあっても、意識の現れは物質世界におんぶしないと現れません。
言葉は空気振動です。空気の濃淡には何の意味もないのです。スピーカーの音も同様で愛を語る言葉、どなる言葉、賛否を求める言葉以前にまず、空気と器械条件に左右されています。
それがより人間の近くで、人間そのものの頭脳内で解明されていくのが脳内科学です。言葉の流れに沿って、頭脳内の化学物質の分泌とか、電気信号とか、イオンの交換とか、幾らでも物理研究の分野があります。
ところが幾ら頭脳内の物理化学物質の移動や発生を研究しても、それらは所詮脳の物理現象の研究で、スピーカーの物理振動や画面のドット数の研究みたいなもので、言葉の物理方面の学問にしかならないのです。
古事記の上巻は人間の頭脳を、その心の在り方に沿ってそのまま述べた全く恐ろしい、心の原理教科書です。
この心は意識であるが物質でもある関係を正確に述べていきます。しかも百の神の名を借りてたった一つの言葉が完成し、それが循環して複雑な言葉になることを示しているのです。
上巻の冒頭出だしを「てんち」と漢式に読めば、一切は不発です。宣長の引用文にもありますように、「阿米都知(あめつち)」と読めば歴史は開きます。
それを古事記のフトマニ思想といいますが、すでに八千年以前に人間の心の原理とその運用法として完成していたものです。フトマニ言霊学はノーベル賞級の頭脳が千人集まっても到底手がでない代物です。
それが為に大和は昔から、世界で唯一の特別な国になっているのです。
大和を受け継ぐ現代の日本は社会も政治も心も目茶苦茶ですが、どんなことがあっても滅びないのは、大和言葉の崇高な人間の秘密を各日本人が受け継いでいるからです。その物理的表徴が天皇と皇室、その祭儀、神道文化なのです。
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≪アメツチ。アのメが地に付く≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】
今日は一つ法螺吹き話を。
フトマニ言霊学を勉強していきますと、この三千年間の人間の文明が総て間違いの上に築かれていたのが分かります。今の世は、まず神や創造主、全知全能とかいう者を造り与えて、拝むようにしました。
現代の世界宗教が成立する以前には、世界中に創造神話民話想話がありました。そこでは必ずいつも神がいたという事にはなっていません。
現代の世界宗教の成立を保証する人間たちの持つ消沈し萎縮する心持ちから発していません。もっと自然で、自然な態度で、より事実的なものに結びついた想話より発しています。
現代の世界宗教のように人間のマイナス感情の慰めを考慮に入れていないので、おおらかで明るいものです。
こうやって書けば仏教やキリスト教といった現代の宗教全体は、一つの通過点に過ぎないように見えてくるでしょう。せいぜい二、三千年の宗教でしかないのです。
それに引き換えフトマニ思想は優に五千年以上前から完成していたものです。もちろん古事記の上巻によって書き示されたのは千年ちょっと前ですが。その思想はづっと以前から受け継いだものです。
なぜ五千年などと言えるのかは、もちろん大体の事ですが、易経(周易)の記載から計算したものです。黄帝(こうてい)(紀元前2510年~紀元前2448年)、神農は紀元前2740年ころの古代中国の王、伏羲(ふっき・ふくぎ、紀元前3350年~紀元前3040年)に足す事の二千年です。
易経の構造と古事記の冒頭とはまるで同じ事を書いてありますが、易経は、八卦という形の数霊を扱い概念の説明しかしていません。易の説明は太極から始まりますが、八卦にいたるまでその概念を取り入れたものです。もちろん歴史事実も多少あります。
古事記の冒頭は実体内容そのものを譬喩的呪示的に示したもので、概念ではありません。概念を語るには実体内容がなければ語れませんが、その概念を数霊的に語ったのが易経です。
ここでの問題は何故易は、八卦の概念を説明できてもその実体内容に言及がないのかです。
その答は実に簡単で、フッギが古代大和へ渡って、日本の竹内文書にも記載がありますとおり、大和のスメラミコトによって易の実体内容は伏せられたまま、八卦の数霊が与えられたからです。その実体内容とは古事記の上巻そのものの事です。
古事記冒頭の神が、1-2-4-8-2に分類されている事に気が付けば、易経とは古事記のコピーである事がすぐ分かるはずです。もちろんその為には、古事記の神々を心事物の実相ととらえる真実の読み方がなければなりません。
ひと度概念が成立してしまえば、概念の一人歩きは自由自在です。易は概念が一人歩きする構造でしか現されていません。ですので幾らでも異なった解釈が同じ卦に適用できます。それを避ける為に事前のお話し合いとか、お呪いとかがあります。
古文書にもよく「八」の数字は出てきますが、易経も「八」で構成されています。この「八」の実体は冒頭の1-2-4-の後の八神のことで、二神が陰陽の対になっている、ウイヂニから妹アヤカシコネまでのことで、人間の思惟の力動因のことです。
古代においてこの力動因が発見された御蔭で、大和が世界の中心となって現代の歴史が計画創造された、経綸と言われるものの実相です。その運用実行者がスメラミコトで、現代まで家系と物象だけを残しています。
「八」は別の言葉でいえばあいうえお五十音図の両側母音行を除いた八音のことで、ア段でいえば、学校で教わるのはあ・カサタナハマヤラ・わ、ですが、皇室では、タカマハラナヤサ、です。要するに心の働きの事です。
こうして支那の国には宗教の代わりに儒教の基となる概念が与えられ、五経の筆頭になりました。
これらのことから言えることは、人間の物質文明の繁栄を目指した社会建設の始めには、宗教を打ち立てて置くことを命じた人がいるということです。
今後の物質文明の創造に伴う人の悲惨悲嘆からの意気消沈や憂いを払い、明日の活力を保証し、あるいは、間違っていてもやりすぎてしまっても、解釈によって正当化できる概念を用意して置いた誰かがいたということです。
このように前もって下準備がなされていたので、その敷かれた線に沿って人間文明が創造発展してきました。
神を作っておいて人々の悲嘆からの意気消沈を予防し、かといって行き過ぎた時には概念操作によって破壊、殺人をも正当化をするようにしておいたのです。
歴史はあいうえお五十音図に則っていて、歴史を作ったスメラミコトとはあいうえお五十音図のことで、文明社会の今後の成り行きはあいうえお五十音図を理解したひとによって運営されていきます。
ただし、いままでの歴史はあいうえおの順でしたが、これからは、あいえおう、の順を使用する五十音図によります。
あいうえお、から、あいえおう、へは昆虫に変態があるように人類にも魂の変態が飛躍が必要です。外部的な物理的な条件はそろいつつありますが主体側のまるでそろっていません。フォトンベルトに突入すれば誰でもがシャワーを浴びるように、魂が上昇するというわけではありません。
古代にあいうえお五十音図で歴史を始めたように、あいえおう五十音図を使いこなすスメラミコトが出現しなければ変化は外見だけのことです。
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今回の話が法螺と聞こえる人は、人間のこの過去からの三千年間の精神の動きを正常に受け継いでいる人たちです。
今回の話を本当のことだと思う人たちは、これからの三千世界に係わりが出てくる人たちです。
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≪アメツチ。事実の始め。≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】
行き詰まったり、気が散ったりしますと誰かのブログを覗き込みに行く事があります。
ニギハヤを解説したものを見つけました。どこに行っても、当方とは立脚点が違うので、ブログ主の意識がどのように逸脱していくかをみるだけです。全ての人が二千年の逸脱の上に乗っていますから、どうこう言う事もないので、自分に納得する為のものです。
例え間違っていても単なる個人的な問題ではありませんから、考え方見方の相違という事でもありません。
ですので、これが事実だ、とこちら側から言っても相手側から言われても、歴史が動くにはまだちょっと速いのです。事実とは人間側の受容の仕方ですから主張したところで無意味なのです。
裁判にしろ、単に物を見る単純行為にしろ、あるいは戦争にしろ、これが事実だとか、事実にもとづいてとか、というのは簡単に不正と不義と虚偽に変化するばかりか、それらが真正の正しい明らかな事実となって逆転することもあります。後はせいぜい歴史が証明するだろうなどというだけでしょう。
ニギハヤを解説したブログも、別名「天照国照彦天火明櫛甕玉饒速日尊(アマテラスクニテラスヒコアメノホアカリクシミカタマニギハヤヒノミコト)」を引いて、そこに気に入って言葉、「甕(ミカ)」、を見つけ、イメージや記憶概念に助けられて解釈を拡大し、瓶になり、亀となって、「 嫌気」を得て、「この辺で今夜はやめときましょう。」とそれなりの成果があって満足したようです。
これはこの人に限らず誰でも同じで、賛否を寄せるコメントもブログ主と変りがありません。もちろんこう書いている私自身も同類です。
誰に対しても、発言発表が間違っていても、概念の飛躍を止める事などできません。
ここでミカの真意を述べるより、同じミカを使った、皇室の儀式に壺切りの儀式があるとだけ言っておきましょう。
http://homepage2.nifty.com/studio-hearty/kototama/lecture/no219/no219.htm
さて、事実とは何かは、心において何かを了解するところに起きます。
心の外側に見ていけば、客観物象の相互作用を云々して科学的な事実ができます。それを心に引用してこれが事実だという人もいます。
言葉の客観事実として、ミカ、かめ、瓶、亀、、、、と言うように続きます。これを歴史的、文献的に整理運用していけば、立派なミカの学問事実となります。
またそれとは別に、心の内側に見ていく事実があります。これがここでの曲者です、というより、人にまとい付いた諸悪の根源とも、偉大な正義の根源ともなるものです。
ミカという古語を心の中にまで戻す工作が行なわれます。これを解明しないと真相は示されませんが、知らなくとも歴史文明は創造されてきましたから、知らなくてはならないということでもありません。
返って知らない方が、ああだ、こうだ、そうじゃない、こうじゃない、と精神文明の発展に寄与するものです。最初から知ってしまっていたら何も起こらない静かな日々が続くようなものです。
しかし、知らないまま総てが忘れられてしまっては、元も子もなくなります。収集された文献も、過去遺産も、文化も総て台無しになってしまいます。そこでどうしても、やはり、真相は出なくてはならないのです。
「 知らしてはならず、知らさいでもならず、神は辛いぞよ」(大本お筆先)
戦前まではこのように神が逡巡する時代なのです。
これはいつの時代にも言われる言葉ではありません。中世ならば日蓮のように知ってはいても、「自分の教えなど太陽の出た後の蝋燭でしかない」と、人間側が引っ込みます。
現代は人間がこれ以上引っ込めないところまで引っ込みました。その象徴は天皇の人間宣言で、古事記は神話だとしてしまったことです。
こうなった以上は、幾らどんな偉い神であろうと、八百万いようと、神々に出る幕がないのです。
後に残っているのは、人間天皇であり、われわれ人間だけです。
ところが、人間が人間に語るには真実を語るだけでは意味がないのは、すでに見てきましたし、日常誰でも納得していることです。
もう人間しかいないのに、人が人に真実を持って語る力が無いのです。真実を語っているのに、自由に反対され受け入れられないのです。
それでも未だに神を拝んでるのなら、拝むの語源である、おろがむ=愚か者が神がむ、そのものです。
あるいは、古事記を神話としたのは間違っていた、本当はこうであると訂正するしかありません。しかし、天皇は一度しか発言しません。ですので、訂正は効かないのです。
そのような時にでも古事記は心の運用原理で、心の鏡ですから解答は用意されています。
『 次にその禍を直さむとして成りませる神の名は、
(39) 神直毘(かむなほひ)の神。
(40) 次に大直毘(おほなほひ)の神。
(41) 次に伊豆能売(いずのめ)。』
伊豆能売(いずのめ)とは、みいずの眼(芽)ということで、禍を直す権能を持ち直しなさいとなります。
そうすれば、芽(眼)が出て、花が咲き誇るでしょうと、古事記は続けます。
そうして、花が咲き誇った神が出てくるとちょうど百になります。
黄泉の国から返る時、桃の子に助けられました。桃とは百の原理のこと、古事記の冒頭の百神のことです。正月には餅をつき食べます。餅とは百道、百の道、百の原理、あいうえおの言霊要素五十と運用要素五十の原理のことです。鏡餅は言霊要素五十と運用要素五十の二段で百(も)道(ち)になります。心の鏡です。
『 ここに左の御目を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、
(48)天照らす大御神。』
『 次に右の御目を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、
(49) 月読(つくよみ)の命。』
『 次に御鼻を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、
(50) 建速須佐の男の命。』
みいずを戴くことにより、
『左、ひたり、霊足り』となって、
『右、みきり、実切り』言霊実体を運用し、、
『鼻、はな、花咲く』心の人間文明の開花に導かれる、というわけです。
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事実を語る始めには権威が要ります。客観事実と権威は結ばれなければ正当な主観事実となりません。
権威だけに偏った事実を選ぶと、生活、学校、社会、政治、宗教でも小さく薄い事実だけの権威がのさばるようになり、それを助長します。個人の次元でも、書いたこと喋ったことの権威への寄りかかりが、自分と相手への最後の決め手になってしまいます。論ずる内容を持ったものは総てその口です。
権威の源泉は事実などではなく、禁止命令の力の大きさです。その力が客観事象と結びつくと、真実にしたい場合にはそれが真実となるのです。恣意性がまず第一となってしまいます。
ですので、事実とは相手より強ければそれが事実となっていきます。科学的事実も同じことで相手との論争に勝てばいいのです。
とは言いましてもこれは単に知識学問次元でのことで、その他の人間次元には適応できません。フトマニ言霊学は人間の全性能次元に対応したものですから、さらに奥へ進まねばなりません。
では事実を語る始めをどこに置くのでしょうか。
アの眼を地に付ける、あめつちにあります。
ニギハヤ
二の技能が早く速やかに明かすミコトで実体は五十音図。
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次に御刀の本に著ける血も、湯津石村(ゆずいはむら)に走(たばし)りつきて成りませる神の名は、甕速日(みかはやひ)の神。
御刀の「前(さき)」から今度は「本(もと)」と五十音図表の整理・検討の段階が進展して来た事を示しています。始めに五十個の言霊を整理し、並べて和久産巣日の神なる音図、即ち菅曽音図を手にしました。次にその初歩的な菅曽音図を分析することによって五十音言霊自体で構成されている人間精神の構造を確認する作業が進んでいます。その人間の精神構造である道理(血)が「湯津石村に走り着きて」即ち五十音言霊図に参照されて、確認されましたのが甕速日の神という事であります。
甕速日の甕(みか)とは五十個の言霊を粘土板に刻んで素焼きにした五十音図の事です。速日の日は言霊、速とは一目で分るようにする事の意。甕速日全体で五十音言霊図全体の内容・意味が一目で分るようになっている事の確認という事です。音図の内容の確認には大きく別けて二通りがあります。一つは静的状態の観察です。五十音言霊がその音図全体で何を表現しているか、を知ることです。どういう事かと申しますと、この五十音言霊図は菅曽音図か、金木音図か、または……と、この五十個の言霊が音図に集められて、全体で何が分るか、ということの確認です。これを静的観察と言います。
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≪「神一厘の仕組み 。あめつち。≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】
言葉は言霊循環の法則に則って上昇循環しながら積み重なっていきます。つまり基盤となる冒頭が重要で、「アメツチ」が全部分かれば、古事記の上巻と古代神道、天皇、その儀式、日本語、日本文化、日本人の精神性も全部も分かったという事になり、そこから出発している古代世界の歴史、宗教、思想と経綸と言われる現代までの営みの奥の院が解明できる事になります。
「あめつち」はそれだけの内容を持ったものとして、天皇家によって護持されてきたものです。付随的に伝統文化、古代儀式、続く家系が残ったというものではありません。人間世界の将来を負ったものとして、無言の強制を強いられているのです。
天皇家も宮内庁も意味も分からず形だけを続けているのです。滑稽といえば滑稽、哀れといえば哀れ、神秘的といえば神秘的です。途中の歴史に何があろうと変えて来なかったのです。
天皇家などと出してしまいましたが、これを「神一厘の仕組み 」の段落で考えてみましょう。
「神一厘の仕組み 」というのは、われわれ各人、一人一人が最後の一厘ということです。誰々がということではありません。
「神一厘の仕組み 」は常に日本、あるいは世界、三千世界といった全体に対して出てきます。どんでん返しというのもあります。
つまり各人が、最後の一線を越えてみよ、ということですが、仏教や宗教で言われる悟りとか見神とかを最低条件とした、その上の次元におもむけということで、魂の人間変態をせよ、ということです。
九分九厘側からみれば、どんでん返しというのは、通常の日常生活で起きることの何かを指しています。日常生活とは言霊ウ、言霊オ、言霊アの世界の事です。
言霊ウ次元の世界は、五感感覚する欲望を充足する事、その発展した姿である、産業経済社会を指し、
言霊オ次元の世界は、経験概念知識を記憶によって操作すること、そこから学問、知識、科学が発展していき、
言霊ア次元の世界は、感情情動の世界で、そこから宗教、芸術が出てくるせかいです。
つまり言霊ウオア次元のことでこの世が満たされ、その内に埋没する事が九分九厘の完成ということです。言霊エとイの世界を等閑にしてしまうことです。
産業経済社会、学識科学とも、人間の意識を物質の富に閉じ込め、競争原理を発揮し競争心を起こして総てを収奪するか、世界ネットの網による観念でしかない金融商品を用いた世界略奪を目指しています。これはユダヤの役割で、成功するのは目前です。個人的な仕業となって現れています。
これに対して社会性を持たせようとしているのが、共産主義社会主義の影響下にある勢力ですが、すでに金融資本勢力に取り込まれています。中国は全人民が豊かになることを目指していますが、世界に対する影響力はありません。というのも、人民自身が金融資本中毒にかかって抜け出す意志を持てないからです。
世界の宗教組織は全く無力であることが明白で、何らの精神活動も誰も期待してはいません。日常生活での安心と安全を与えようとするだけで、精神活動、人間の魂の働き偉大さには口を噤んでもう手を出しません。
悟りとか見神とかは既存のものとしてありました。しかし、九分九厘の中に仕組まれたものですから、これからもどんどん出てきて、神の言葉を書くブログなどもあふれるようになるでしょうが、個人の言葉の中に引っ込まざるを得ないものです。
まもなく完了するこういった物質精神状況から、神の一厘が産まれます。
経済社会は金融資本を頂点とする世界支配が達成された後のことを知りません。世界にあるものをかき集めただけですが、その成功感に酔いしれた後の、言葉が聖書、モーゼには無いのです。何何せよ、と言われて三千年かけて世界を手にしますが、その後の仕事はありません。虚無に支配されます。
科学思想は物質原理、宇宙理論を打ち立てますが、ほんの一ミリも人間の心が分かっていないことを知り、絶望に陥るでしょう。
宗教は、世界制覇後の虚無、絶望には、自分自身を放棄することでしか対応するものがありません。
これらが、神の一厘の直前の様子です。空の理解とか悟りとかのそんな下の次元のことを指していません。アセンションだとか宇宙船だとか世界核戦争だとか、悪魔世界だとか、地球の大変動とかは、九分九厘のなかで騒ぐたわごとです。
(追加。神示では、よく災難とか攻められるとかいわれます。そのまま受け取って軍隊が攻めてくるとか言う方がいますが、これらすべて、大祓祝詞の中の国津罪、天津罪の焼き直し表現で、別に軍隊が攻め込んでくることではありません。時代的な脚色が背景にありますが、例えば、アメリカの音楽を聞くこと、イギリスの製品を買うこと、中国の文化を取り入れること等々のこと、要するに文明の交流のことを言っています。
大和日本が主体性を失くすことを心配したもので、取り入れるものは受け取り、そうならないものは理由をはっきり付けて返すといったようなことです。テレビ映画ネット等の取捨も含まれています。天変地変などは天津罪の譬喩で、例えば日本語を廃止して英語にしようとかいうものです。天津罪とは人間頭脳内の言葉の原理、即ち言霊原理の秩序を乱す形而上の罪であり、国津罪とは個人や人間社会の秩序を乱す個人的な形而下の罪。)
一人一人が最後の一厘となるというのは理想的に神が望んだことですが、実際には実現しないでしょうから、現実の実際のたった一人を一厘とする考え方もあります。その時は当然、スメラミコト一人のことです。この方さえ一人出現すれば全世界は丸く治まるのです。完璧などんでん返しです。
それが為に三千年間、形だけを保存して何も変化してこなかったのです。先程滑稽だなどと言ってしまいましたが、一般に生き死にするわれわれ日本人にもその半分は与えられています。つまり、五千年間以上変わらない大和言葉を話してきた事です。われわれは世界唯一の神国の住民です。
どのようにしてかといえば、スメラミコトもわれわれも「あめつち」を持ってというだけです。あるいは、「あ」・たかまはらなやさ・「わ」の「あ」によってです。「あ」というフトマニ言霊の原理の行使によってです。日本において「あ」(吾、我)が忘られない限り、「わ(和、輪、我)」と共に世界の最先端に実在し続けます。
古代のスメラミコトはあ・たかまらなやさ・わが心の創造原理である事を自覚使用した人ですが、われわれは無自覚です。
と、要するに、これからは、フトマニ言霊学の原理が世に出ればいいだけの話しですが、理解して解説できる人がいません。たったのこの、「あ」の一言さえ分かればいいだけなのですが、そうはいきません。
例えば、言霊だ言霊だといって「あ」を説明する人が昔からいますが、単なるアイデアと思い付きの観念に経験事象の香水を振りかけただけのものです。全然人間の精神の「あ」と「あ」の精神行為から発する全世界を説明できません。思い付きの寄せ集めになっているだけのものです。
千数百年間の努力をこんな風に言ってしまうのは失礼かと思いますが、もし失礼にあたるものを持っているなどと言う期待があれば、スメラミコトとして失格であることは明白です。せいぜい学者としての良心を傷つけられた、というぐらいのものでしょう。
何しろ一厘の仕組み話です。最後の最後のどんでん返しがそこいら辺に幾らでもころがっているのとは違います。われわれがゴソゴソ言ったところで、何かに突き刺さるということにはなりません。多くの発表されたものがありますが、総て現象次元での串焼きを刺しているだけです。
「あ」の主体は各人一人一人のことか、地球人口六十億の「あ」の主体を預かったスメラミコトかのどちらかです。その実体内容はフトマニ言霊学の使用です。というような実体の現れ方を、将来においてすると思われます。
最近は日月神示が流行で、せっかく神示が示されても、訳文が優しいので、読む人はただ流し読むだけで分かったような気になっています。多くの引用がありますが、優しい訳文に災いされて読み過ごすだけです。訳文は易しく読めればいいというものではありません。もともと内容は隠されているですから、易しくしたところで分かるようなものではありません。
さて、最後の一厘のどんでん返しとは最初のこと、始めに戻ることです。あめつちの初発の時、です。
古事記でいえば「あめつち」の「あ」のこと、神名でいえば天の御中主、島生みで言えば淡路の穂の狭別の島で、数霊でいえば「0」、ひふみよいむなやことたりでいえばたりの後の始めのヒ、等々です。二二は晴れたりの二としてもいいです。総て同じことを言っています。
これに対して別の意見があるはずですが、それはそれで結構なことです。三千年間「あ」が残って、われわれが保持してきたのですから、いいたい事はいくらでもあるでしょう。九分九厘のごたごたの中にわれわれはいるのですから、当然です。仏式で言えばそういったご縁です。
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「あ」の意識に達するのはそう簡単な事ではありません。宗教家、芸術家において少数が達しただけです。それらも単に概念知識を越えて、空を悟り、神意識と同体化したというだけで、その後が何も無いのは、どの宗教を見ても、どの芸術家をみても同じで、将来の結果を時の経過に委ね、個人の解釈の好き勝手にさせています。
もしそんな態度を個人の世界から社会に持ち込めば、混乱が起きてしまいます。教祖、開祖の教えを各人が実行しようものなら社会は目茶苦茶になります。ですので個人内で終りの無い基本目標に留まっているだけにしかなりません。
しかし、スメラミコトの「あ」とは九分九厘の、宗教家たちの獲得した最後「あ」ではありません。あ・たかまはらなやさ・わの各母音の始めの「あ(TAKAMAHARANAYASA のA)」です。それが自覚的に使用される「あ」です。
これがどういったものか、わたしには分からないし、解説されて分かっても意味のないものです。ただ、九分九厘の中にいるときの「あ」として分かり、どんでん返しの後は役立たずで捨てられて行くものらしいという事までは感じています。
伊耶那岐の大神のように、「あ」の始めを、汚きを吾は御身の禊祓せむとするのは、世界の六十億の魂を背負う自覚の覚悟の事ですから、こんなちゃちなブログを書いているわたしなどの出ることではありません。
ことに単なる知識に過ぎないものを主張するとなると、分かったとされる事共とは後天現象の一部が解けただけの事で、隠れたものの上塗りをしてさらに隠すようなものです。知識は始まってしまったことの再構成をするだけですから、始めそのものの「あ」については手がでないのです。
ではどうしましょう。
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≪日月、神示。≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】
ではどうしましょう、とカップ麺でもすすり、食後に眠りこけるのも一つの手です。
何故ならもともとわれわれには分からないように仕組まれているからです。ひふみ
の神さんが「まだ分からんのか」などというときがありますが、そのようにしたのは神さん側のほうですから、こちらがわは果報は寝て待てというわけです。
それでも人間側に働いてもらわないと神さんの方が困りますから、「魂をみがけよ」などと言っても無駄と知っていながら、御言葉を降ろすわけです。「神は辛いぞよ」なんて言われると神さんを介抱してあげたくもなります。
隠した裏の裏があって、分からないようになっているのなら、最初から神示など降ろさなければいいのです。わざわざ分からないものを知らせるにはそれなりの意図があるのでしょうが、もちろんそれが分かっちゃうと神さんの立場が困っちゃうから、謎々を与えておくだけにしたのでしょう。
人の旺盛な好奇心を揺さぶって謎々を解かしているわけですが、外見、形だけは解けても、実体内容は知らせないつもりである事は、みえみえです。要するに内容に関してはいくらでも、喧々諤々と勝手な意見を吐き出させて高みの見物をしているわけです。
高みの見物はこの世が目茶滅茶になるまで続けるようですが、それでも分かった者がいればさっさと世に出ていけと言っているようです。八通りに読めると言っているらしいですが、主体側の能動因の八通りを指していますから、それが出揃うのを待つのでしょうか。
ひふみ神示に限らず、古文書、偽書と呼ばれる古文献、古事記、御告げ、神道、儀式、等々のその真の内容はフトマニ言霊のことで、その真偽が掴めないまま皇統の記録にしてしまったものもあります。人間の秘密とは、日本、世界全部ひっくるめてフトマニ言霊学を紐解けば良いというところまでは分かりました。
現状ではこの数千年間喧々諤々ですが、フトマニ言霊学しかないということを認識した人は日増しに増えています。(一年間に二三人でしょうが。)わたしみたいに何も知らないものでも、ちょっとかじれば、宗教だとか、悟りだとか、ひふみ神示だとかに平気で口を出せるくらいの学問です。違う主張からみれば目茶苦茶ですが、それは、この世ではおあいこというもの。
ひふみ神示は全編を読んだわけでも無く、ネットで読むだけですが、どこをめくっても、見ただけでも、フトマニ言霊学で読んでいけば、この神さんも古事記の上巻のことを知らせたいのが良く分かります。
今回のシリーズの始めに書いた、二二は晴れたり日本晴れの、二二を「息吹(ふ)示(じ)」と読んだのですが、先程、神示もそう読んでいるのを「地つ巻き34」に見つけました。わたしのやっていることも結構いけているようです。(と、自画自賛)
となると、今度は、神とは一人一人の各人のこと、人間であるとわたしは言っていますから、それを神示に見いだしたく思うようになりました。
そんなことをすると、それを神示に確認した後、天明に強制した神とは何かを解かねばならなくなります。人間とは別に神がいるじゃないかとなりますが、勝算は無いものの、やはりその神さんは現実の人間であるという根拠らしきものはあります。
言霊学がまだ理解されたわけではないので、そんな事をやっても笑われるだけですが、神さんがやきもきする時代ですから、もう誰かが口にしているかもしれません。実際、いろんなところで、いろんな神との交流体験、霊魂との話はありますので、それらの神さんも実際の人間である事を証明しちゃえばいいわけです。
特別に何々の神、何々心霊としたって、どういうものか経験者自身が説明できないのですから、それらのことも本当は人間なんだよ、と言ってもおかしくないようにすればいいのです。でもこれはまだまだずっと後の事。
でも、古事記にずらずらと出てくる神さんたちは、われわれ一人一人の人間の事ですから、そのことを書くのが今回のテーマです。古事記の上巻は最初から「神」という文字を取って読んでも問題ありません。もともと神の物語ではありませんから、神などという名前が付いていると返ってややこしくなります。
またもう一つ注意しなくてはならないのは、ずらずら出てくる神さんたちは人間だといっても、一人一人に対応した神・人間という事ではありません。神の名前が八百万あれば個人が八百万いるのではありません。
わたしはここに一人、あなたもそこに一人、八百万の神とは一人の人の事を指しています。その一人の人は八百万語、八百万の方面から解説、説明され、その八百万によって説明される一人の人が八百万、60億いるということです。
感じ方、考え方、決心の仕方はそれぞれ違いますが、その違いが分かることは、その人もその違いの一つだからです。八百万の違いが分かれば、その人一人で八百万を背負っているのです。八百万の神とはそういった各人のことです。
こう書くと算数で考えて、あることを説明するのに始めのAで、ついでBで、次C、と要素を増やして行って八百万にまで豊かになるのが、八百万のことと思えるかもしれません。
新しい要素が足していかれ豊かになるって行くというのは、物質客体側の用件です。一円が八百万枚で八百万です。ところがそこにあるのは、一円で、一円をいくら勘定しても、一一一一一円です。
神示ではこういっています。
「扶桑の巻
一はいくら集めても一であるぞ、判らんものいくら集めても判らん道理、二は二、三は三であるぞ、一を二つ集めても二にはならんぞ、人民 大変な取違いを致して居るぞと申してあろうがな、 〇 (レイ)がもとぢゃ、 一(レイ)がもとぢゃ、結びぢゃ弥栄ぢゃ、よく心得なされよ。世の元、 〇 の始めから一と現われるまでは を十回も百回も千回も万回も、くりかへしたのであるぞ、」
一円が二円になるのは、一円がまず記憶に残りその上に新たな一が乗ります。三になる時は、二が記憶からでてきてその上に一が乗ります。二という以前に二はなく、三という以前に三はないのです。それぞれ前段の一、二の後の出来事です。
その記憶の繰り返しによって数が増えていきます。 「〇 (レイ)」というのが記憶部分です。
ですから「一」はいつでも「一」で、その正体、その今後も「一」でしかなく、「一」とは「判らんもの」というわけです。これが物質の成り立ちと運動と精神の成り立ち運動の根本的な相違です。
それでも、一円が二円になり、三四、、、、となっていきます。ところが良くみると、単体での二円は存在しません。三円四円、、、、、というひとつの単位は無いのです。あるのは観念上、概念、記憶の中にだけです。
ここから客体側には一円しかありませんが、勘定している主体側には、勘定している一円と勘定されて記憶となった一円の二つの存在ができていきます。これが剖判と呼ばれるもので、細胞分裂に例えられるものです。
ついでに、「何万回もくりかえす」というのは、言霊循環のことです。算数の頭で言えば一の次は二で、三になり、四、、、と続きます。あるいは小数点を付けて0.1なり0.2なり増やしていくわけですが、心の動きは違うぞよというわけです。古事記の上巻も日月神示も基本的にこの秘密を明かす為にあるものです。
日月神示も手を変え品を変え、あれやこれやと、神さんは辛い思いをしながら、分かるものには分かるだろうとこのことを説明していくものですが、その原理教科書はなんといっても古事記の上巻です。
二二は〇のことで、フジのことで、その実体は御中主の神です。何か神示みたいな書き方ですね。神示に気を取られていては、原理教科書である古事記がおろそかになりがちです。そろそろ戻ります。
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≪記憶の以前。≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】
自分の言葉が出てくる以前、ということは存在しています。
アのメが地に着く以前のことです。
天地あめつちの初発の時、と書いてあります。天地あめつちの初発の時、と書いてあるものを見ます。天地あめつちの初発の時、と読みます。天地あめつちの初発の時、と発音します。天地あめつちの初発の時、と聞きます。天地あめつちの初発の時、と了解します。天地あめつちの初発の時、が記憶されます。その後、天地あめつちの初発の時、はどうなったのか、どこへ行ったのか、知りません。それでも必要な時にまたでてきます。
古事記の冒頭は何だったかなと思う時、まず始めに、記憶に働きかける言葉になる以前の、わけの判らない時空間次元があり、そこにに意識が赴きます。記憶に直接働きかけるようにみえますが、それ以前があります。
記憶は人の大事な性能ですが、記憶とは何かのはっきりした回答は見たことがありません。無門関には記憶をテーマにした公案がありますが、回答できる坊主がいません。
現代は多くの記憶媒体が発達して、また脳内科学も進歩しているので、そういった方面からの解説が多い。記憶とは神経回路といわれ、脳の仕組みから説明されていますが、物理科学の説明でしかなく、記憶の働きは脳内化学物質の電気的な作用反作用になっています。
疑問を持つ心、ものごとの説明をする心、納得する心、心と記憶の関係は現代では未だに解かれていません。記憶を記憶されたもの、記憶するものがあるとして始めると、記憶以前にあるものとの関係が出てきません。実際は記憶以前のものがあるという了解の記憶の上に、新しい記憶が加わります。
昔、非常に珍しい病気のニュースを見たことがあります。頭も身体も考えることも普通の人です。ところがたまに起きることですが、どこかに行こうと歩いている途中で、踵を地に付けることができなくなります。あげた右足を地に付けようとしますが、地に付けられず前進できなくなります。同じ足を出しては戻し出しては戻しで、映画でよくふざけて見せる繰り返しの場面がありますが、あんな感じです。足を付けると穴に落ちるとかいう不安などの精神的要素はありません。ものを掴むときにもあります。そこにあるものを掴もうとしますが、手を出しては引っ込めを永遠に繰り返すようなことをします。最後は、医学的に脳内のある部分への外科手術のようなことで治りました。
『物質と記憶』というのがフランスの哲学者ベルクソンの著書にあるのを思いだしました。古事記の上巻は哲学者思想家宗教家が寄ってたかって突つこうと、世界に比類のない至高の心の原理書ですから、彼にかぎらず世界の思想家たちがどの地点にいるかを見なければならないのですが、まさかこの貧弱なわたしにその役目をさせるわけではないでしょう。
フトマニ言霊学から早く全世界の思想、宗教、哲学を総括してくれる人が出ないと、隠されたことの一部を知って後は秘密だと言い続けなければならない。わたしのように小さいことを見つけていい気になって書く楽しみなど、本当にケチな根性丸出しなので自分でも何とかしたいけれど、なかなか高天原に昇るのは大変なことです。
高天原の思想は誰にでも平等に与えられているのだけど、この三千年の間に、あまりにも多くのものがでてきてしまって、比較を絶する最高峰も相対の中に埋没してしまっています。相対関係の中にいると、次元の違う最高峰も相対的に解釈されます。まさに古事記の上巻がそうです。
天皇の権威付けだとか、歴史以前の神話だとか、国家の成り立ちだとか、世界から支那朝鮮から伝わった話だとかになります。相対関係の中にいるときには、そういった類のごたごたから抜け出ることなど思いも寄らず、そのなかで最上最良を目指して行くことが今までの歴史文明を築いてきた人たちのやることです。そのための勲章も褒美も沢山用意されています。それらも単に相対的だから輝いているのです。
しかしひとたび自分のことを内側に見ていくと、事情は一転するのです。百八度廻転するのではなく違った次元にいきます。
次元というのはアセンションでの意識レベル上昇次元とか、数学、空間時間でいう次元の、人間とは関係ないあっち側の世界のことではありません。2012年のアセンションというのは役に立たない宗教を自覚した代わりに、宗教に変わって出てきたものですが、相変わらず人類の魂も自分の魂も、行き着く先の自覚を一切持ち合わせていません。
人は心の家に住んでいます。家(いえ)というのは五重(いえ)のことで心の五重の家のことです。それが五十音図の母音側(主体)としてアイウエオになっています。その五重の一つ一つを次元といい、人には五次元しかありません。次元の上昇もなければ下降もありません。ましてや、十次元十一次元、、、がある、神霊位があるなどというのは、神話を作る人間の想話作用と同じものですから、現代人は何時まで経っても相手を批判する構造と、自己主張していく構造が同じであのに気付きません。
2012年の次は何次元にさせるつもりなのでしょうか。その次の次あたりになれば、人間のレベルが上昇して(?)五十三次元になって、念力で宇宙旅行ができるようになるというのでしょうか。人間というのは始めから終りまで五次元でしかありません。アイウエオの五次元のことです。この真理を見つけたからこそ古代において大和が世界政朝になって、多くの偉人を聖人を排出したのです。
概念の飛躍飛翔は自由ですが、知識次元でのことに過ぎません。勝手気ままな概念を地に着けるというわけです。この場合はオの眼を地に着けるですが、あめつち(天地)はアの眼を地に着けるですから、オ(言霊オ)の次元とは違ったア(言霊ア)の次元の使用法があるということです。
アには二重の意味があり、人間の性能次元では五つある内のその一つを成しているア、もう一つは人間の性能を一つのものとしてとらえたときのアで、この場合は五次元全体をアとします。冒頭はこのアです。
この五つの次元を、イで代表されると、イのメが地に付く、になって、イの地につく、いつく、五作る、になり、いつくは神に対する態度のことです。先程の経験記憶事象(言霊オ)から神に「いつく」ことは、おろがむ、おがむ(拝む)で、オでかむがむ、現代人の三千年前から続いている神への態度です。
アの芽は、地につく主体の動作と、地についている主体の状態との、二方向から見ていくことができます。
ということで、今回はここまで。
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≪支那の天地≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】
≪あめつち≫というのは何らかの実体を指した表現です。三千年間の歴史的な理解に依れば、この世の宇宙世界のことです。古事記の筆者も読者をその方向へ誘うように仕向けています。
しかし、ひとたび、あめつちが心の世界のことを表現していると分かった時には、大変なことが起きていることに気が付きます。上巻のどの部分、どの言葉、どの表現を取ってきても、完璧に心のことを表現している一貫性に連なっていることが分かるように書かれています。
あめつちをこの世の客体世界として理解していると、あれはあれ、これはこれと、一つ一つがバラバラです。それがために、あちこちで見つかる言葉は、この世のこと、歴史のこと、比較しようとする神話のこと、外部からの影響のこと、等々現実との対比を探している人には、分けの分からない譬喩や象徴であるとするしか理解できないようになっています。
言葉の意義不明が今でもたくさんあります。類推や比較や外国から来たものとされたのをあわせたらそれこそ大多数になってしまい、大和言葉そのものとして理解されたものはほんの少数でしょう。
それでも探し出した部分が比較されて、似ているところから、ただちに発見が主張され、類推の形をとっているとはいえ、真理真実の発見のように扱っていきます。これが今までの古事記解読の歴史となっていました。
「天地」などと漢字で書いてあれば誰でも、空の向こうの宇宙とかこの踏みしめている地上のことと思わざるえません。では誰が思うのかといえば、「天地」という漢字を知っている人がで、「天地」の意味を受け取っている人たちです。「天地」という知識があって、その意味から古事記の思想を類推してだけなのですが、ひとたび類推にしろその主張が成り立てば、意見は一人歩きしていきます。
こうして支那の国で始まった「天地」の理解から出発して、何でも当てはめていくことが始まりました。支那の国でいう「天地」以前の意味も意義もないとしていきました。
ところが面白いことというか、数千年を見据えた超知性的な眼というか、古代の人たちには到底かなわないというか、「天地」という単語が最初にあったのではなく、「阿米都知(あめつち)」という言葉が大昔からあって、それに「天地」を該当させただけであると、宣長が文献の証拠付きで発表しました。
そこで、「阿・米・都・知 (あめつち)」が「天地」となったことは分かりましたので、では「阿米都知(あめつち)」とはなにかを解くはずが、「阿米都知」は天地のことであるから、「阿米都知(あめつち)」は「天地(あめつち)」のことであるということになって、千年以上が過ぎたのです。
現代のわれわれは国語辞典を引いて済ましてしまいますから、そこで「天地」にはあめつちという読み方があると知ってそれで終りです。本当は逆に、「あめつち」に「天地」という振り漢字当て漢字をしてあるなどと思ってもみません。支那中国文化を取捨した主体である大和日本がいることを忘れていったのです。
問題は、あめつちのことになりますが、あめつちを「天地」の読み方の一つ、とすればそれ以上はなにも出てきません。せいぜい古代中国思想と「天地」を付き合わせるくらいです。そして今まではその見解だけがいろいろ出ていました。
「阿米都知(あめつち)・阿米都之(あめつし)」そのものを見ていかなくてはならないのですが、古事記伝で宣長がその意味は分からないと匙を投げてしまいました。その後の学者も宣長を見習っています。
「阿米都知(あめつち)」を「天地」にしたのはそこに似たものがあったからです。「阿米都知(あめつち)」の真の意味を残しながら、誤解に導くに都合のよい言葉でした。
何故最初から真のことを言わないのか、真実を発表せず、隠さねばならないのかは、世界の歴史の中での、真理を見いだした大和の負った経綸にあることで、現代のわれわれからの見解など何の意味もないものです。
これと同様なことは日常でも常にあること見られることで、古代大和の時代はそういった状況であったというだけです。例えば母親は自分の子供のウンチおしっこの始末をします。赤ちゃんのすることできることを知っていますが、どこのどの母親が赤ん坊にウンチおしっこの真実を告げて、自分と同じようにしろなどと言うでしょうか。
古代大和のフトマニ言霊原理を発見した聖人たちはそのような母親であったのです。
人類全体の精神の時間の流れを計ることを知っていたのです。単に大和日本での物語ではありません。世界全体が視野に入っていました。
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≪高天原へ≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】
ものごとを解説したいという下心を持っていると、いくら経っても解説した満足に到達しません。未だに冒頭の一句から出ることが出来ません。
言葉が言葉を生み、解説が解説を生み、アイデアがアイデアを生んで留まることがないためです。結局知っていることを全部白状すれば、それ以上は頭の中に何も無くなりますから、それで終りです。
その終りに各人なりの満足とか、自負心とか、不安とか、さらなる闘争心とか等々が出来上がれば一段落となります。
別の意見や新しい発見があると、各人の隠し持っていた感情に応じて、他の主張に対応していきます。その基本は、知っていることしか知らないという次元からですから、自分の過去概念、記憶知識との格闘になっていきます。
論争好きなら論争へ、謙虚なら受け入れへ、等と自分の得ている知っている同調できる反論できる範囲内での反応が始まります。
もちろん、一気に解説を終わることもできます。意志の変化を基本として、感情の変化、知識の変化、選択の変化があるようなときです。
それぞれプラスマイナスの方向へ行きますが、感情と知識次元では自己主張をした後でのことになります。選択の変化の場合には自己主張には関心が無くなっています。
このように始めといっても、継続といっても、中止といっても様々でそれぞれが始めの形をもっています。
そこで古事記の冒頭のいうことを聞けば、そこでは、
『 天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、 天の御中主(みなかぬし)の神。 【 言霊 ウ】 』
というのを見いだします。
「天地」は「阿米都知(あめつち)」で、「あ・め・つ・ち」で「アの芽が地に着く」です。
これは、上に記した解説する心の始めの、欲望、知識、感情、選択の、始めと継続と中止等々の心の動きの全体に対応したものです。この場合の全体を、言霊アとします。このように全体を指すことができる以前があるという、書き出しです。
この全体からお気に入りとして、しゃべり書くのがそれぞれ各人の記録作品ですが、そういった個々のものとしてでなく、全体として成りませるものがあるというのが冒頭の句です。
どこにあるのか。頭の中にです。記憶にです。意識にです。またそれらを表現できる物象である文字や言葉や絵などにです。この単なる頭の記憶に残るということではなく、その表象する場所もひっくるめて記された言葉が「 高天原、たかあまのはら」です。
どこかの高原地帯のイメージですが、この原という物象のイメージを含んだ精神意識のことです。心理学のように精神頭脳内のこととすると単なる脳内物理学となります。精神意識だけしか見なければ、観念論になります。
実際は高天原という心身、霊体、主体と客体の統一されている場所のことです。
高天原は記憶の場所であり、記憶の表現される場所でもあり、記憶が向かうあるいは記憶が出てくる場所でもあります。
記憶だ記憶だといっていると頭脳の働きのことのようですが、高天原というのは頭脳の働き以前にもある場所です。古事記でいう高天原は直接に頭脳を指しているだけではありません。
ヒントは「高天原」、たかあまのはら、たの・かの・あの・まの・はら、にあります。当て漢字をすれば、田の、火陽のように明かな、アの間の原、ということです。
原は拡げられた原理図、五十音図のことです。
田は古事記の冒頭の一連の百神のことです。カグツチまでが五十、スサノオまでが次の五十です。この百神がきっちりかっきり整然と並んで機能している構図を指します。
苗の間隔を空けることが収穫増になることから来たものです。その譬喩を用いて、この苗と苗との間の空間に含まれている、つまり、た・か・あ・ま・のことで、言葉は一つの連続で、一塊のように見えますが、実はその一つ一つが単音要素となっていて、その単音要素間が連絡していなければなりません。この単音と単音の間の連絡の秘密をいったものです。
その象徴が前半五十神、カグツチまでの言霊要素(五十音)とスサノウまでの後半五十神の運用要素(五十)になっているのです。世界最深奥の事実です。この最深奥の事実の発見から世界歴史が始まったのです。
人間意識の謎を解明したもので、大和の日本語はこの解明された人間意識の構造に基づいて作られた、完璧な人造言語体系で世界に類をみないものなのです。比較言語学は大和の日本語に適応できません。
この構造に基づいて行政を行なう人が世界政朝の長となるスメラミコトです。スメラミコトが学ぶ学問がフトマニ言霊学です。つまり古事記の冒頭の学問です。
古代にはスメラミコトの元に世界が運用されていました。その運用原理であるフトマニ言霊学に基づいて、世界中から訪れた異人達に世界史上の運営分担を与えていました。スメラミコトがモーゼに与えた経綸、釈迦に与えた経綸、等です。
闘争力で世界を従えるだけなら、奴隷がいればいいだけですが、奴隷の活用運用分野では別の能力が要ります。日々の変化のない再生産から産業経済の発展には相応の思想基盤が要ります。
動物次元の再生産から人間次元の産業生産までには、その間に介在した何ものかがあります。その中間を飛び越えないと、ニューギニアとかアマゾンの原住民に留まることになります。
この間を越え渡ることを、アの芽が地に着く(あめつち)と言い、田の、火陽のように明かな、アの間の原(たかあまの原)で行なえ、あるいは、その原を利用しろ、となります。
間というのは、何もしない無時間、空間の間のことではなく、話すこと書くことすること成すことの相手対象に行き着く途中の間のことです。対岸に行く橋のことです。
速い話人生はこの間を渡ることで、空無から生、そして空無へ渡ることです。人生がそんな調子ですから、人の成すこと全ても同じことです。人生とは間を渡ること、考えることも感じることも、皆同じです。
人生は人が生きると書き、ひとは一(ひ)十(と)のことです。生きるは、五切るで、切るというのは判断すること。一から十を用いて五つの次元を判断するのが、人という意味です。あいうえお五十音図の横十列、縦五段の全部のことです。
霊止(ひと)というのをよく見かけますが霊止は、ホト、で女陰ことです。霊止が生きるでは、人がいきるとするにはちょっと苦しい説明です。また、霊が留まるとしてしまうと、人そのものが霊であるということが無くなります。草木石ころにも霊は留まるとなると、石ころは人、霊止ですか、となる。
たかあま原のあに、あめつちを合体させて、た・か・あ・め・つ・ち・ま・の原を、作って解釈しても内容は変わりません。たかまの原と、たかあまの原と、たかあめつちの間の原と同じことです。
こういった書き方は宣伝文みたいなもので何か語ったものではありません。書く本人が理解していません。この間と言うのが曲者なのです。
マというのは心の動きからすれば、相手側に到達する直前に相手側にそれを受け入れられるかどうかの迷いを指します。巻く、混ぜる、丸める、等。
心のマの動きを自由自在に運用できることが、心の完成に近づくことで、アの芽が地に着いて(あめつち)、アの間が明確に照らされると、あまてらす(天照大神)になります。
こうしてアの心で始まって、アの心を得るようになります。
あめつちのアを巡って埒が開きません。実はアの言霊はタカミムスビに配当されていて、ここで書くにはまだ速いのですが、知識概念で書くとこんな調子になってしまいます。いつか意味のある文章になるかもしれないという期待で書いています。
つまり今書いていることはみんな駄目ということです。知的に何か主張できるものがありそうですが、知的な真実であっても、人生の真実となっていません。後出しでこんなこと書いて済みませんね。こんな調子でまだ続きます。
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≪初発の時。はじめ。≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】
始めのことを言って、始めの始めのそのまた始め、を言わないというのはおかしなことです。宇宙はビッグバンからといいますが、それ以前を探しています。宇宙物理学者も証拠が見つかるまでは恥ずかしいので言わないだけです。
物質の始めを求めて原子を想定していた古代の思想は、現実に原子が発見されてしまい、その途端に、そのまた始めは何か何かで、現在はどこまでいったのでしょうか。何かグルグル回す凄い器械があるそうです。
自分は母親から出てきて、母親もその始めがあって、という具合に始めとは相対的なことで、どこかで思考停止した時に絶対者が出てきます。最初から停止しているなら、そこから始めるしかないでしょう。
古事記では初発の時というだけです。相対的だとか絶対的だとかは言いません。今までの解釈上は最初に登場する天の御中主も絶対神のような扱いをされていますが、彼の声を聞いた人はいませんし、見た人もいません。あれこれ文献にでてきても説明されていませんから、人間側が勝手に都合よく考えたものです。
ビッグバンとか原子とか絶対者、神とかはそのように想定せざるを得ない人間側の問題で、人間側がその証拠を見いだすまで生き続けます。幸いに神さんは誰もその証拠を見いだせないので、神の始めの始めはなどと、問われないのです。
ですので古事記は、かしこくも、相対的であろうと絶対的であろうと、もし人間がはじめのことを考えるのなら、こういうことになると解明してくれています。初めというのは何かが 『 成りませる 』ことです。そこで今回は、「はじめ」、を扱ってみましょう。
古事記伝の扱い。
「 ○「初發之時」は「はじめのとき」と読む。
万葉巻二【二十七丁】(167)に、「天地之初時之(あめつちのはじめのときし)云々」、同巻十【三十二丁】(2089)に「乾坤之初時従(あめつちのはじめのときゆ)云々」、また書紀の孝徳の巻に「與2天地之初1(アメツチのハジメより)云々」などがあり、これらが「あめつちのはじめ」が古言だという証拠である。
ここに「発」の字を連ねてあるが、同じく初めという意味である。【字書に「発は起なり」と注がある。】事の初めを起こりとも言い、俗に初発(しょはつ)というのも、いにしえから「はじめ」と言うのに、この二文字を使い慣れていたからであろう。
【「初發」を「はじめてヒラクル」と読むのは間違いである。それはいわゆる「開闢」の意味に取り違えたのだ。天地がヒラクというのは、漢籍の言い方であって、我が国の古言ではない。上代には、戸などであればヒラクと言ったが、その他は花などもサクと言って、ヒラクとは言わなかった。
だから万葉集にも「天地のわかれし時」という例はあるが、「ひらけし時」と言う例はひとつもない。】このように「天地之初發」と言ったのは、単にこの世【仏教書には「世界」とあり、俗人もよく同様に言う。】の始めを大まかに言ったもので、必ずしも天地の発生を言っているのではない。天地の始めは、次の文にあるからである。」。ここまで。
せっかく宣長さんが解説してくれたのに、わたしの文庫本は「初めて発(ひら)けし時」になっている。まぁ、学者なんて、昔の見解を越えようとするするだけで真実とか真理とかではなく、主張とアイデアを出すことに関心があるのでしょう。いろいろ出てきたからといってそのなかに本物があるとは限らないのです。
一応、人真似しない、自分の頭でということでしょうが、文献めくって探し求めて整理して、推測してアイデアを出しても、自分の主張になって、相手を乗り越えても真理を得たことにはなりません。
いずれにしても、辞書を引いても、初めははじめである、としか語っていません。発音、文字表記なりがそのまま意味内容であるのは不思議なことです。仏教用語など無数の解説をしてもまだどこにも到達できないのです。お日様が昇った後の蝋燭の燈火というのもうなずけます。
ここで、そんならお前やって見ろ、と誰かに喧嘩を売られたいところですが、わたしみたいなものを相手にしなくとも、各人、ご自身が、数千年間の大和言葉を背負っているのを見直せばいだけのことです。
今回は聞きかじりで「はじめ」を語ってみましょう。馬鹿の一つ覚えのようにいけばいいのですが。
はじめは、はしの芽で、端の芽、橋の芽、ハのシのメ、です。
時間でいえば今、空間でいえばココです。
時間と空間が一緒に現れた者として、各人それぞれが、いまここ、いまそこにそれぞれいることです。
宇宙の初めなら何億年のもっと何億年ものことでしょう。宇宙形成はいろんな人が考えています。いずれにしても空間の大きさという概念の中にいますから、考えられた宇宙形成以前のことも秘密裏に思っていることでしょう。われわれは、ぱらぱらと調べて記憶している知識が宇宙の始まりです。
昨日読んだ本にはああだった、今日はこう書いてあった、さっきのテレビではこう言っていたで、つまるところ、その時その時の概念知識が宇宙の始まりです。その人の知識を得たときが、宇宙の始まりで、それい上のことは説明できず、明日になればコロリと変り、明日の今時分の知識での宇宙の始まりとなります。
馬鹿いうな、人の概念などに係わり無く宇宙はあるのだとい人も、それを説明することはできません。その人の最強最善最新の説明知識も、せいぜい今という時間以前の概念でしかないからです。明日の命など誰も保証してくれません。
数十年前は遠い星が見つかるたびに宇宙の年齢はこうだと言われました。何年前に光が届いたというだけのことですから、まだ光の届いていない星もあるのです。光で観測できるのがビッグバンの137億年前というだけで、人間には光以上の観測器械がまだないというだけのことです。
ちょうどこのことは人間の知識にも当てはまります。知識は最新の者ほど良質精密になりますから、それを獲得する経験が最近のものほと良いものだという傾向にあります。
ところが知識は過去の上にしか築けません。過去の知識を飛び越しますと、ただの推測概念、おとぎ話、科学的予想とかになります。つまり知識はゼノンの詭弁のように現在を越えることはできないのです。
つまり知識にとってのはじめとは無限に今に近づいたところにあります。
欲望をみてみましょう。面白いことに欲望には過去がありません。過去の欲望とは記憶のことです。欲望のことではありません。同様に欲望には未来がありません。明日のお昼もお腹が減って何か食べたくなるだろうげれど、その推量は欲望ではありません。
欲望は未来向かって持続していく限りつづきますが、過去に戻ることも、現在を飛び越えることも、未来で待つこともできません。
欲望にとってのはじめとはいまのここのことです。
さらに別の形がまだあります。選択按配すること、感情情動の世界と、創造意志の世界です。これらの、知識、欲望、選択、感情、意志の世界は全部別別の構造を持ったもので、後の、母音アイウエオの項目で語られます。
ここではこれら五つの人間性能を統轄的に述べている「初発(はじめ)のとき」を続けます。
人とは何かの概略。
欲望、過去無し、今のみ、、、、、未来無し、結論目的は完結しない 、、、、、、、(言霊ウ)
知識、過去有り、過去から今、、、未来無し、結論目的は完結しない 、、、、、、、(言霊オ)
感情、過去有り、今から続く、、、、未来有り、結論目的の提示のみで完結しない (言霊ア)
選択、過去無し、今において続く、未来有り、結論目的は完結する 、、、、、、、、、(言霊エ)
意志、過去有り、今、今、今、、、未来有り、結論目的は完結し常に働く 、、、、、、(言霊イ)
〇はじめ。
はじめは、はしの芽で、端の芽、橋の芽、ハのシのメ、です。
時間でいえば今、空間でいえばココです。
時間と空間が一緒に現れた者として、各人それぞれが、いまここ、いまそこにそれぞれいることです。
「は」は心的な事象の先端が出てきて、物象となるところ。
「し」は心の中心にまとめられていく。
「め」はイメージが言葉に組まれる直前の集約された姿のことです。明らかにイメージとしてまとまったものの体、客体方面。
全部で、今ここで生きている(五(い)きる)人の判断内容が主体的な心に何かが始まろうとする時で、心的事象が表面にでてきて他の物象と結ばれようとされ、それが心の中心に静まり治まって、集約された形になっていること、を指します。
人間の内面に何かの現象が始まろうとする時、という事です。それは主体的な心に何かが始まろうとする時です。それは「今」です。心の宇宙の「はじめ」とは、心の宇宙の中で何事かが起ろうとしている時の事であり、それは常に「今」であり、その処は常に「此処」であるということです。
上に橋の芽とあります。端、ならいいですが、何故橋かと?が着いたのではないかと思われます。この場合は主体的事象の初めの動きを指していて、橋の初めは土手、岸です。橋は中に浮かんでいるわけではないので、橋を渡る主体は土手に立ちます。
また、橋は心が相手対象を結ぶものです。その橋の入り口です。古事記にはよく橋のことが出てきます。というより、神代の巻きとはこの橋の説明といってもいいくらいです。心の動き方の象徴です。
高天原というのも実は橋のことです。天と地を結ぶということで、主体と客体、母音列と半母音列を結ぶことです。橋の内容はウヒヂニ以下八神のことです。
次段オノゴロでは直接橋といっています。次いで、八尋殿といい、まぐあいとは橋を渡る行為で、象徴数字で八ですから、八に関するものは全て橋(ウヒヂニ以下八神)のことです。上巻最後は、八尋ワニになります。
要するに心はその始めになる以前に橋、八尋殿、八尋ワニを通過する、心になるときも、心の現象を産むときも同じということです。
ですので、
『 天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は 天の御中主(みなかぬし)の神。』 となって、
ミナカヌシのはじめに高天原が有り、ミナカヌシが初めの神になるのです。
土手に主体が立ったときが初めですから、そこに絶対神を立てたらそれが始めになりますが、意識構造からすれば、その絶対神も橋を渡って来たものだということです。絶対神が橋を作ったのではありません。
では、はじめのはじめは何かというと、はじめを天の御中主としてその、御中主が渡ってくる以前です。
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≪はじめのはじめ。≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】
はじめのはじめ、とは一見ふざけた言い方ですが、はじめとは相対的なものだからどの分野にもあります。信仰のように絶対神がいるとか、宇宙はビッグバンから始まっているとかいう場合には、べつにそれ以前を考えることもありません。
はじめとは相対的なものですから、はじめのはじめといっても、またそのはじめといっても、内容は同じです。ですので≪はじめのはじめ≫を≪はじめ≫として考えてみます。結局はじめのはじめとははじめのことになります。ここでは心のはじめを取り上げてみます。
心のはじめといえば、何もない心というところに何かが、何と言われることも無しに、起きてくる、そのはじめを指します。見てしまった聞いてしまった、感じてしまった考えてしまった、そういった現象として与えられたものを、一切捨象したそのはじめです。
どんな例でも構いません。心のはじめを想定してください。あるいは実際に何かを始めてみてください。パソコンを起動するでも構いません。そのはじめに心を向けます。眼をつぶって最初に見たものを認識するでもいいです。ただし、現象として意識したものをどんどん剥ぎ取っていきます。
〇はじめのはじめ
心の中に何かをしようとという胎動が起きます。それはそのままわたしが起こした胎動であり、何かへ向かう胎動になっていきます。(あのめがちにつく)
また、胎動はあってもその胎動がどうなるのかまだ知りません。(はじめのとき)
胎動が手の動きになるのか口の動きになるのか、何かを感じるのか考えるのか、始まる以前には何であるのか分かりません。 ただ人間としての何らかの意識行為となるのは確かです。(高天原)
このように何か分からないけれど、何かに突き動かされ、自分が何かを動かすものを持っていて、何かに向かう、一塊の全体的な心の動きを得ます。 (成りませる)
そのようなものを自分が保持している状態を名付けて、今ここ、今中、といい、ウという自覚的な意識の言霊ウとなります。(神の名(みな)は 天の御中主(みなかぬし)の神)
ここではまだ心の中になにもありませんが、何かが起きる胎動があります。つまり、各人は、わたしは、何かが起ころうとする時を創造しようとしています。この時は一連の持続の始まりになるものですが、その始まりの時を今といいます。
今というのは、い・ま、イの間、のことで、いざないいざなわれる、揺り動き揺すられ動く、うめきうごめく、場所ができたという意味です。はじめというのは今の創造でもあります。
そこで人は、はじめの今と、持続のはじめの今の二重の今を創造しつつ生きていきます。はじめの今はスナップ写真のように切り取られた今を表現しますが、持続のはじめの今をも同時に現していきます。しかしこれは不動か変動かの立場の違いです。実際はスナップ写真の切り取られた今は記憶に蓄積され、次に出てくるときの基盤になります。
時間の働くところが空間という場所です。それはどこかといえば、ここにしかありません。ここというのは自分が働いている場所です。自我を感じる場所となっています。
この今ここに全てが乗るのですが、はじめの胎動の今ですから、わたしという、あなたという自我があるわけではありません。まず始めに自我があるとか、個性があるとかではありません。胎動のはじめの上に自己が形成されていきます。
つまり自我の始まり=本体の自我は空でありゼロであり、赤ちゃんのいないいないばぁー、なのです。空もゼロも、真空とか絶対ゼロではなく、人の心にとっての空、ゼロのことです。空即是色の空であり、人(ひ・と、一・十)の生きる(い・きる、五・切る)ゼロのことです。
それは自我といわれる以前の、まずある本体の自我です。何もない空の自我が、わたしの自我なのです。運命交響曲のダダダダーーンと鳴り響く直前の一瞬間の沈黙であり、蛙飛び込む水の音の聞こえる以前の静寂であり、ご来光を拝しアーーーという歓声が出てくる直前の神々しさです。これらが本体の自我です。
では自我、自我、と自分が、あなたが、自慢する自我はどこにあるのでしょうか。それは本体の空の自我の上に乗った後から着け加わった、現象のごった煮の自我なのです。半煮え、生煮え、煮過ぎ、等々の個性となっていきます。
胎動のはじめによって、時間の今と場所のここと、それらが働く主体の自分がでてきます。次は相手を見つけ対象に向かうことです。
対象の無いはじめはありません。心の主体がうごめくとそこに、何だか分からないが、何となくした、後にあるいは直後に姿を現す何ものかを相手対象としていることに気付きます。
はじめの本体の何も無い自我のはじめがあります。何も無い自我ですから、相手を対象とするものも、特定するものも当初は持っていません。
相手という意識も無いのです。日常ではすぐにものを見相手を知ることができますが、ここでの話は、心のはじめのほんの一瞬を開示しているので、長たらしい文章になっています。しかし、このことを見逃すのが人間社会の全混乱の元ですから、確かに、一見馬鹿らしいことですが、ここをうまく通過して欲しいと思います。
自我が空であることは、相手がいると知っていることも空なのです。画面の文字が分かって読んでいるじゃないかいいますが、その読み始めに心を移動してください。はじめのはじめ、今の今、ここのここ、針の穴よりも小さなところを通過するのです。
自分が空なら相手がいることも知らないのですから相手も空です。分からないから分かったへ行くのではなく、分からないから分からないことが分かったへ行くのです。
分からないことが分かったとして、この分からないことを定立しないと、次に進めません。分からないことが分かったということになると、分からないという判断規範ができたこと地なるからです。そこで今度はこの分からないという判断規範に、新しい事象が乗るのです。
自分のうごめく胎動があるけれど、うごめき働きかける相手がいないと分かったことになります。
そうすると、今度はそこで、自分がうごめき続ける限り自分を明かし相手対象とむすばれようとしますから、自分側の主体的な動きがでてきます。
これがエランビタル、l'elan vital(生命のはずみ)、で、ベルクソンによって生命進化を説明するのに使われましたが、日常に存在している生命の創造活動の源です。ここでは心の主体のうごめきです。
この相手と結ばれようとする心の動きは、相手は何だか分からないという基盤の上で行なわれます。ここに出現するのが、主体に対する相手側、客体です。
注意してもらいたいのは、客体といっても、最初から自分の外にあるなんらかの物質対象であるのではありません。この段階では、自分の外の対象という意識はまだ発生していないのです。はじめのはじめの段階の話が続いていることをお忘れなく。
自我の空の段階で、その自我がうごめき働きかけて、相手は空であることを了解します。この了解さえうまくいけばしめたものです。
今だに何も無い空ですが、自他ともに空であることを判定する規範ができたことになります。ひとたびこの規範ができてしまえば、今度は空でないものは、有、色、の方向へ持っていけます。
しかしここで、相手側の空の世界に首をつっこむと黄泉の国に行くことなります。黄泉の国というのは死者の国だというのは、この千年間通用してきただけの解釈です。言霊学では、自分の片割れである客観世界に落ちることをいいます。片割れは自分という本体そのものの半分のほうのことです。
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≪はじめのゼロ≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】
今回は、「 自我の空の段階で、その自我がうごめき働きかけて、相手は空であることを了解します。この了解さえうまくいけばしめたものです。」、というのを引き取って続けます。
どのようにはじめが空であることを了解したのかです。
はじめのはじめは空でしたが、はじめの胎動うごめきを内包していました。このうごめきが始まった途端に、自分が空であり、自分が向かう相手も空であることを知ったのです。この自他を知ったことが、また、新たな始まりとなります
この事情を述べているのが古事記では、国生みの最初に出てくる淡路の穂の先別の島です。アワ路というのはアイウエオ五十音図の母音側アから半母音側ワヰウヱヲへ渡る路で、穂の先別とは穂の元々出てくるところ、双葉の芽生え二股の松葉の根元のことで、一者が二者へ剖判していく(細胞分裂)ところの事情の島(しまり、領域)をさします。
他の文献には原初が天譲日狭霧国禅月国狭霧尊とあり、主体客体(天と国)が一体となっていてその霊と体(日と月)がゆすりゆすられ(譲と禅)朦朧とした(霧)狭い領域(狭)を統轄する神さんのことが述べられています。
全く見事な命名ですが、古事記には採用されませんでした。というのもこれは、はじめのはじめのはじめの類になってしまうので、はじめがきちんと説明されれば必要の無いことだからです。竹内文献にははじめのはじめのはじめの、、、、が載っています。
このことは言霊学を通してしか解明されません。無数の解釈はあってもご自由ですが、アイデアは真の解に向かいません。かといって言霊学を宣伝するわたしの解が正しいというのでもありません。各人の心が回答を寄せることです。
自分も相手も空ならそこからは何も産まれないはずです。しかし当初の直前の静寂、空、ゼロ、のときは、自分がゼロ、空であるにも係わらず次のことが進行していきます。
まず、自分がゼロ、空であることが分かるということが付け加わらなければ成りません。そのことで相手もゼロ、空であることを知ります。この統一的に自他ともにゼロ、空を知っていることから、自分が何か動きを始めようとするときには、自分以外のものを見ることができるようになります。
この動き始めようとすることは、前出の神さんの名前では譲と禅で共に、ゆずるです。ゆすりゆすられ、ゆりうごき揺り動かされる主体客体を、譲禅という漢字を借りて、ユズルと読ませて、胎動、うごめきを引き出すための暗喩で、漢字の意味はありません。古事記同様真の意味を隠したのです。
大和の古文献は全てこうなっています。何故隠したのかは歴史の、人類の歴史の解明となるものでいつか取り上げたい。急ぎのかたは、次へ。
http://homepage2.nifty.com/studio-hearty/kototama_ver.1/lecture/no201/no201.htm
(日本と世界の歴史 一~十四)
さて、穂の先別、松葉双葉の元は一つです。この一、二を生じるというのが、超秘密というか、何でもない日常のことですが、分かるようで分からないものです。
現象として一が二になると見てゆくと、全部の進行は分かるような気がします。スイッチを入れれば画面がでてきて、画面を見れば何か書いてあって、何かと見れば古事記と書いてある、というように連続しているようです。
ところがそれらをよく見ると、それらは自分のことではなく、変形された連続した物理現象なのです。力学的も作用点の移動による、電気信号の作用が発生して、科学処理された画面に燐点が発生して、、、、、等々というようにあくまでも物理作用の連続になっています。
そこには、気持ちや思いがあったはずですが、どこにも見えません。一が二になって、相手方は勝手な方へ行ってしまいます。このあっち側の世界が客観とです。または黄泉の国です。(ここの説明は後で)
そこで問題はそこに落ち込まないことです。主体を維持し持続していくことです。この原動力とそれが展開する時間場所が確保されねばなりません。それがゼロ、空、なのです。
やきもき、もどかしい言い方で申し訳ないのですが、持って回った言い方はわたし側の確信の無さの現れで、ここで一休みを入れないと、後はアイデアだけの観念になります。
一が二になるには、ヒフミヨイムナヤコトたり、を心に焼き付けることが必要です。ゼロからゼロへ行く方法、速い話が上巻の方法が心に確証されていないと、前に進めません。とはいっても、進む為の原典教科書ですから、進めるはずです。
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