❶。おのれの心の締まりとわたしの存在について 。これ淤能碁呂島(おのごろしま)なり。
前回の、アホなことの続きです。アホと言うのはみなさんがわたしを言うので、わたしから言っているのではありません。
誰かにアホと言うとき自分の最高の知識の城に陣取りその天守閣から矢をはなっています。感情的にも結構気持ちのいいものです。なにしろ城の主となって最高の決断を下したのですから、自分と言う全体を断定的に獲得しています。
その言葉は当面は決定的ですから言った本人も受けた人も為す術がありません。それで終りです。それ以上に付け加える言葉はありません。要するにわたしはアホといわれて為す術がないのです。わずかにいわれた方に反撃の隙を探す時間があるかないかといったところです。
もしわたしが相手の隙を見つけそこを突つき始めれば、最終的にはロケット弾を発射して決着をつけなければなりません。理論家だとか論客だとか平気でそういったことをしていきます。殴る殴れとまで言う人もいます。同じ土俵内で踊らないと安心できないのです。たしかに横綱にはなれますが、土俵から降りられなくなってしまいます。その間にも事はどんどん進行していき、土俵から降りられないチャンピオンは遠く小さく、小さく遠くなり、見えなくなっていきます。
さて、いつでもどこでも古事記の出番です。
おのれの心を創る段。
【 ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、= 先天の言霊が活動を開始して、
【 伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、= 心の本質内容が働きだし、
【 「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」と、= 自分の心を形成すべく、
【 天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依さしたまひき。= 心とその表明器官である舌を使って、
【 かれ二柱の神、天の浮橋(うきはし)に立たして、= 現象を発声する契機、きっかけを取り入れて、
【 その沼矛を(ぬぼこ)指し下(おろ)して画きたまひ、= きっかけを実在世界に下して、
【 塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、引き上げたまひし時に、= 在世界に結合したものをが、
【 その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島は = 実在世界の現象を現す一つ一つの固有の領域となって
【 これ淤能碁呂島(おのろご)なり。= 一つ一つが心の部分を締めている心の島となる。
【 その島に天降(あも)りまして、天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。= 心に宇宙世界の根本実在である、天の御柱(心の実在五次元宇宙)と、八尋殿(心を形成する八つの働き)を創った。】
こうしておのれの心の素ができてきます。次は、
現象を創る段、まぐあいの段。
【 ここにその妹(いも)伊耶那美の命に問ひたまひしく、「汝(な)が身はいかに成れる」と問ひたまへば、答へたまはく、「吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処(ひとところ)あり」とまをしたまひき。
ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。
故(かれ)この吾が身の成り余れる処を、汝(な)が身の成り合わぬ処に刺(さ)し塞(ふた)ぎて、国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまへば、伊耶那美の命答へたまはく、「しか善けむ」とまをしたまひき。
ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「然らば吾と汝と、この天之御柱を行き廻り逢ひて、美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)せむ」とのりたまひき。
かく期(ちぎ)りて、すなはち詔りたまひしく、「汝は右より廻り逢へ。我は左より廻り逢はむ」とのりたまひて、約(ちぎ)り竟(を)へて廻りたまふ時に、伊耶那美の命まづ「あなにやし、えをとこを」とのりたまひ、後に伊耶那岐の命「あなにやし、え娘子(をとめ)を」とのりたまひき。
おのもおのものりたまひ竟(を)へて後に、その妹に告りたまひしく、「女人(おみな)先だち言へるはふさはず」とのりたまひき。然れども隠処(くみど)に興(おこ)して子水蛭子(みこひるこ)を生みたまひき。
この子は葦船(あしぶね)に入れて流し去(や)りつ。次に淡島を生みたまひき。こも子の例(かず)に入らず。】
こうして、始めて現象を産みました。しかも失敗作をです。
ところがおもしろいことに、この現象は実在五次元宇宙の世界のことです。こうすることによって、世界には普遍的に五次元実在世界が存在していくことになります。現象となるキッカケを持たない(八父韻を持たない)次元だけの世界(蛭子)と、その主客によって捕らえられただけの世界(淡島)です。
冒頭で先天の五次元世界が紹介され、主体の心が出来上がり、その心に載ったいわばイメージ概念だけの五次元世界ができました。
つづいて、イメージが表出されるために物象化される段階を迎え、ついで、物理的な形をとり、それが、相手に伝わり、相手にも了解される五次元世界と八父韻を通して印画刻印され、客観的な形となります。ここまでが冒頭五十神です。
出来上がり形となってもそのままなら死物で動かぬ心です。
この心の動き働きが次の五十神になります。古事記の書かれた目的は本来ここまでのようです。(三貴子まで)。こんなことは言っても言わなくてもたいした意味はなく、問題は百神による心の動きを習得することです。
もうなんべんも繰り返していますが全然駄目です。知的に理解していくことの駄目な見本みたいなものですが、やり方がわからないので仕方ない。
【 ここにその妹(いも)伊耶那美の命に問ひたまひしく、「汝(な)が身はいかに成れる」と問ひたまへば、答へたまはく、「吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処(ひとところ)あり」とまをしたまひき。ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。】
おのれの心とかわたしとか言う場合、そこに想定されているのは自分と言う一つの魂です。このブログではオノゴロ島はおのれの心で自分の心ができたことろだと、言ってきました。自分の心と言う場合にはどうしても自分と言う一人の人間が相手になっていると思います。それなのに古事記ではギミの二柱の命がでてきます。
どういうことでしょうか。
この段落はわたしが現象子音を産んでいく所ですが、ギミという二人のわたしがいつもいます。まずこの謎を解かなくてはなりません。
一つ千円のメロンを買うとき、高い安いは経済状況に応じて相対的な感覚が出てきます。
高い安いは金銭的な現象判断ですが、高低をもたらす食べたい欲しいという段階にまで下がってみましょう。
そこには金銭ではなく、欲望感覚があります。
それをさらにもう一段降りると、メロンがただそこにあるという存在現象を得ます。
そこではおいしそうとか高そうとか立派なメロンとかいった判断項目はなく、単に存在が確かめられているだけです。
そこからもう一段降りてしまうとそれは存在から降りることになりますから、メロンという存在を察知するいわば気の世界になったり、注意意識の世界になります。
だからといってこの世界をないがしろにはできません。
物事を注視することがなければ、メロンを買いたいとも思わなかったはずですから。
ではさらに、この物事を注視する心はどこから来たのでしょうか。
例えそれがぼやっと歩いていたとしても、家を出る前から決めていたことであるにしても、誰かが持っているのを見たからであるにしても、どのような状況からきたものであるにしても、現象として自分に降りかかってきたメロンがあることを確認することは、一方ではそこに客観的にメロンがあって、一方ではメロンを認知する主体意識があったことになります。
この主客のどちらが欠けてもメロンを見ることはありません。
しかし、注意してください。もちろん客観的にメロンが有る無しは主体側には関係のないことです。果物屋さん側の問題です。
ここでいう主客の問題での客観客体を物、物体として存在していると捕らえると、多くの思想哲学や精神宇宙の考えのように、全ては最初から決まっているとか心がものを生み出すとかになっていきます。
ここでいう客体は、主体側によって捕らえられるものは主体側に客体として形成されていたということで、ものとしてあったとことを指していません。あくまで心の中での宇宙が主客を考えているということです。
心の宇宙の中では客体側は主体側の考え感じる通りのことをその宇宙から提供します。こうして主客の一致同一性が確保されるのです。ここにわたしが熟れたおいしそうなメロンと言うときには、メロンは熟れたおいしそうな顔を現すのです。
そしてとうとう次の場面を設定しなくてはならなくなりました。
それはメロンと遭遇する前にはメロンのことを考えも思いもせず家でただテレビを見ていた、いわばメロンとは直接関係のないゼロ次元があったということです。
当然にこのゼロ次元がなければことは始まってはいませんでした。
このゼロ次元の主体側がイザナギの神で客体側が妹イザナミの神です。
つまり心の始まりがここにあります。
メロンを買おうと出かけるにいたるきっかけをつくった世界です。
ついでに、イザナギ・ミのイザは去来と書いていました。芭蕉の弟子の名前です。去来とは心が一定せずころころ(オノゴロ島)変わり移り行くことで、こころそのものを指します。
イザナギはそのような心の働きかける名の付けられる対象に働き動いていくキ・気を受け持ち、
イザナミはそのような心の働きかける名の付けられる対象の働きかけられる内実が示されることを受け持っています。
ここまでくれば、心とは一つの魂じゃないのかと始めに心配していたことは、余計なことであったことになります。心とはイザナギとイザナミの二神の統一体で、後に伊耶那岐の大神と名付けられていくものです。
既に、ここにいるわたしとは、先天構造をもたらすそれ以前のイザナギとイザナミの統一した御柱だという答えが出てしまいましたが、まぐあいをしてどのようにわたしという現象を生むか見てみましょう。
いままで書いてきたことからわかるように、まぐわいは私自身の中で一人でおこすものです。決して男女間の行為を意味するものではありません。
この段落は秘密の真言をつぶやくような所で、呪詛の内容は自分を試す以外には手がありません。
❷。おのれの心の締まりとわたしの存在について 。これ淤能碁呂島(おのごろしま)なり。
手掛かりとしてこころの成り余れる処と成り合わぬ処を探しましょう。
それを発音発声に取れば、母音は息の続く限り同じ音がします。音が鳴り合わぬことです。また父韻はチイキミシリヒニで例えばチならばT+iで、チイーーーで、母音の発声に移る前に、鳴り余れる処があります。
この吾が身の成り余れる処≪T≫を、汝が身の成り合わぬ処≪i≫に刺し塞ぎて、国土生み成さむ≪Ti≫ということになります。各段同様です。
ここではたしかに男(父韻)が先に発せられないと母音と合体できません。【伊耶那岐の命、まづ「あなにやし、えをとめを」とのりたまひ、後に妹伊耶那美の命、「あなにやし、えをとこを」とのりたまひき。】
T+ i でTi、チの子音が生れましたが、発音やローマ字表記ではそうなっても実際の意味はなんでしょうか。店先にメロンを見つけた場合にはどうなるのでしょうか。オノゴロ島に天降りまして、天之御柱を見立て八尋殿を見立てたまひきとの関係は?。
申し訳ないがわたしもわからないのです。何べんも読み直しても???です。
今回は、成り余れる処と成り合わぬ処が同じ母音に関していること、つまり実在世界であることに気がついた。それは冒頭の高御産巣日(たかみむすび)の神と神産巣日(かみむすぴ)の神の関係と同じらしいこと、読みに「た」があるかないかの違い、に気がついたことです。これらは心の主体と客体に関してのことらしい。
心の主体が心の客体と結ばれ心の現象客体を創造していく過程に関してのことらしい。御柱は主客の合体した一本の柱ですが、主から客へ行くにはその支柱内で八つの部屋を通過する、ことらしい。八つは主体側から働きかける四つと、それに答える客体側の四つの左右からの出会いに相当するらしい。
なんとかちょっとだけ。
わたしが店先にメロンを認知した時のこと。
わたしはメロンを知っているのでメロンを見つけることができますが、メロンを知らない場合はそうはいきません。またメロンが店頭にない時も当然見つけられません。経験記憶概念としてメロンが頭脳内にあることが、先天的にまず必要です。
このメロンというわたしの頭脳内の概念はいままでの経験知識で、メロンとはどういうものでどういう味で色で大きさで形でいつ出て幾らで、といったわたしの得られた情報内での隠れた知識となっています。それがメロンというオノゴロ島です。
この頭脳内のオノゴロメロン島には、わたしが店頭に立った時に多くの他の実在する果物からメロンを見分け分離し、他のものから個別化させる起動因となる、実在を見分けるものと個別化させるものとがあります。
また一方客観事物メロンを含む果物類は店頭に並んでいて、わたしの頭脳内のオノゴロメロン島に対峙していますが、店頭のもの達はオノゴロメロン島とはまた別にわたしの頭脳内を刺激しているものです。そこでわたしの頭脳はこちらの方面にもオノゴロ果物屋さん島みたいな物をつくっていきます。果物屋さんだけでなく、隣の客を見たならばオノゴロ隣の客たち島や、オノゴロ財布の中身島などが、その時々の状況に応じてできていきます。
0・そこでは実に多くのオノゴロ島ができています。五感感覚、知識、感情から出てくる無数の島の中にいるのが果物屋の店頭に立っているという状況です。それらは全部実在としてわたしに与えられていますが、ただ、あるあるありっ放しみたいな状況です。
そこでわたしはそれらの中で、他のものたちとは違った「鳴り余った」メロンに結びついたわけです。「鳴り余った」ものはみかんでもリンゴでもなくメロンというわけです。
1-2・まず始めはメロンは目前にパッと現れてきて、大きいおいしそう高そうとかいう判断辞はまだでてきません。この出現の動きを仮に右まわりとすると、それを受け入れ持続していく力動因が左回りという形であります。こうしてそこにあるものの存在を受け続けるのです。そうでないとその後が続きません。
3-4・次にその持続する存在は自分の主観内の実在世界に問うて何物であるかが明らかにならなくてはなりません。これも同様に右回りとすれば、それを保持して保証していく左廻りで自分の規定していこうという判断に結びつく働きがひつようです。
5-6・そこで、これはこれでありメロンはこのことであるというような、決まった結論へと収束して自らを表明する準備が必要となります。その動きを受けるのが他者へ向かい拡大していく社会性というか共有生を促す動因です。
7-8・そして、表面的に自他ともに納得のいく表現が表に出てきます。出てきたものはそれを固定しないと行方不明になるので、ここにそれらを名目として成り立たせます。
こうして八父韻での「成り余れる」ところが、「成り合わぬ」ところと合体して、メロンの認知につながります。
何を言っているのか分からないと思います。私自身が同意しています。
×××
もう少し。
0・の段階で店先に立っていますが、目前にアッ、何かアル! 果物らしい、というだけのものです。その後で自分の意識の対象としての果物があると判定していくことでしょう。自分がこちら側にいて向こう側にはいろいろあることが分かります。
そしてメロンが探され選択されるわけですが、
分からないついでに独り言。
メロンに眼がパッと向かうときの「成り余れる」処は何か。T + i= チ の T とは?
i は店先の全体の心の世界。そして、続いて、そこにある、
メロンの全体像が i になる。
メロンと言う T を生むには ?
心にあるメロンという主体意識=T が心の母音実在世界を掻き回してメロンと結ばれること。
メロンはわたしの心の中で出来たことで、客観実在のメロンを創ったわけではない。客観実在のメロンはわたしが意識しなくてもそこにある。
客観実在メロンはわたしの心のなかで、母音実在メロン=i となっている必要がある。
ここでT.i のT が働かず、i 側だけが働くと、上記1~8の偶数番号での解説だけが働くとという意味、
×××
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何を言っているのか分からないと思います。私自身が同意しています。
分からないついでに独り言。
メロンに眼がパッと向かうときの「成り余れる」処は何か。T + i= チ の T とは?
i は店先の全体の心の世界。そして、続いて、そこにある、
メロンの全体像が i になる。
メロンと言う T を生むには ?
心にあるメロンという主体意識=T が心の母音実在世界を掻き回してメロンと結ばれること。
メロンはわたしの心の中で出来たことで、客観実在のメロンを創ったわけではない。客観実在のメロンはわたしが意識しなくてもそこにある。
客観実在メロンはわたしの心のなかで、母音実在メロン=i となっている必要がある。
ここでT.i のT が働かず、i 側だけが働くと、上記1~8の偶数番号での解説だけが働くとという意味、
2・パッと目前に与えられたものがそのままパアーッと持続していくだけで、自分が存在せず状況だけが持続していく感じを得る。
4・自分の思い感じ考えるものがないのに、勝手に適当などれでもと結ばれ自分が置いてきぼりにされる感じがある。
6・自分の思う方向が無く選択肢がないので対象が勝手に広がり拡張しながら出て行く感じがする。
8・わたしの落ち着く先が無く自分が無視されて、対象がそれ自身で形を現していき主張をしている感じを得る。
T メロン+i メロン = Ti のメロン 。以下同様に父韻を通過する。
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ここに今メロンがあるという認識が成立しました。それはこの後どうなるのか。欲しいから買うとか重たそうだから次回にしましょうとかになるのですが、そのような行動判断が出る道筋を古事記に沿って大雑把に示しておきましょう。
メロンがあるのは分かりましたが、その自分とメロンに対する内容までは分かっていず、そのため態度も未定です。
それを吉備の児島の段階といい、吉く備(吉備)わった初期(児)の締まり(島)と言った意で、初期判断の材料はあるが、その内容はまだ詳細には確認されていない段階ということです。
次に小豆島 の段階で、前段の初期状態が自分に適用され、小豆即ち明らかに続く気の区分として自分の判断内容ができていきます。
次に大島となり、大きな価値・権威を持った心の締まりという意で前段の判断に沿って自分を大いに発露するときです。
次に姫島で 自分の表現、文字にしたり言葉にしたり等の段階です。
この後に黄泉国が挿入されます。黄泉国は表現された客観世界のことで、表現に縛られる様子が語られ、またそれから脱出する方法が述べられます。
ついで、知訶島で、知とは知識の事、訶とは叱り、たしなめるの意で、表現内容の不安、反省等が克服されていきます。
そして最後に、両児島となって、当初に成立した言葉を全面的に運用使用していく段になります。
こうして、「このメロンを一つ下さいな」となります。
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さて、メロンが一個手に入りました。
ではそこにあるわたしの存在とはなんでしょうか。
➌。おのれの心の締まりとまぐあいについて 。これ淤能碁呂島(おのごろしま)なり。
【美斗の麻具波比(みとのまぐあい)】をどうしてもやっつけなければと思うようになりました。
男女間の関係のことと思っている方には全然読む価値はありません。
また交合の意味以外の見解もありますが、それらに別の考えを提示するものでもありませんので、比較しようとしても無駄なことです。
古文書古文献での相違は、神代での記載に関するもので、天皇の歴史に関するものではなく、しかも、スメラミコトの血統の順番に関するものでもなく、神代の話の内容に関してのものです。いわゆる神話と言われている部分です。
この神話といわれている部分をある一つの言葉でくくると全ては解決します。
その言葉とは、こころ、です。
現代的言えば、精神宇宙、心的世界とか、認識創造とか、ハイヤーセルフとか、超意識、集合意識、共同幻想等々、思想哲学心理学等でいわれることの、元々の実在である心のことです。
古事記では「上古の時」の誤りや違えた部分と言っています。それは天皇紀ではなく、それ以前神代の形で言い現してきた、こころの運用法に関することです。
「上古の時」もまつりごと運用は官僚による分権でしたから、政の運用に各官僚やその組織に関わる者達の解釈が加わり、そちらの方面から様々な書き付けとして残されたものが多種多様と成り(偽書と呼ばれる古文献等)、元のフトマニ言霊学の原型が崩れていったのです。その誤りを正すということです。
こころの運用とその政への適用はスメラミコトの仕事でしたが、その要領を書き記すときには、語彙の適用上「神」という言葉が多用されました。心の現れ、働き等を「神」と言ってきたのですから、古代においては以降の人たちが解するような超人間である「神」などいませんでした。誰でも自分の心の働きや行為を神として、つまり自分自身を神と拝んで御利益を得るなんていう愚かなことは思ってもみません。(拝むの語源はおろがむ、愚か者が神を迎える)
古事記も含めた古文献、さらに、いろいろ伝わっている神言、予言、御告げ等もこころというキーワードで読み直すと、全て共通しています。
日本は神の国ではなく、上古から変わらぬ心の国です。その心とは古事記冒頭で呪示されている五十の神、つまり、あいうえお五十音のことです。
あいうえお五十音図は数千年の歴史を持つものです。この図を秩序正しく整然とした田んぼと見立て、(稲作の起源参照)て、心を下に書いたのが思うという漢字です。大和のスメラミコトが中国に与えたものです。
この五十音図は両側に母音半母音列があって子音を挟んでいます。子音には子音頭のTYKMSRHN があります。この両側の母音半母音の柱と子音頭(父韻)を結んだのが、鳥居です。結界のことではなく、ここをくぐればこれからあなたはこころの現象世界を生む、言葉を産んで真心を生み成せということです。(十の理、とり、2+8=10のイ、命)
知識として読んで「あーそうか」というものではないので読むだけ時間の無駄ですから、次回にまた会うことにしてください。
意見を述べる権利があるなら知る権利もあり、それらにどのように反応しようと自由だということになっています。あなたの意見に従う義務もないし従わせる権利もない、思想の獄中へ放り込む気かと意気込んでいる方もいるかもしれません。
そういった方達にはまず落ち着いてもらって、こちら側は、古事記は千数百年間世界の人々を欺き続けてきたのですから、その見事な仕組みに納得し、遅ればせながら共感を共にしたいと思います。
まぐわい、とは。
言葉の解説。引用です。
「美斗の麻具波比せむ」の「美斗」とは辞書に御門・御床の意。寝床をいう、とあります。麻具波比とは「目合い」または「招(ま)ぎ合い」の意。美斗の麻具波比で男女の交接すること、の意となります。即ち「結婚しよう」という事です。
竹内文献には「ミトルツナマグハヒ」と書かれています。陰陽の綱を招(ま)ぎ合い、縒(よ)り合って七五三縄(しめなわ)を作ることを謂います。即ち夫婦の婚(とつ)ぎ(十作)(とつぎ)の法則に通じます。
前回書いたこと。
何を言っているのか分からないと思います。私自身が同意しています。
分からないついでに独り言。
メロンに眼がパッと向かうときの「成り余れる」処は何か。T + i= チ の T とは?
i は店先の全体の心の世界。そして、続いて、そこにある、
メロンの全体像が i になる。
メロンと言う T を生むには ?
心にあるメロンという主体意識=T が心の母音実在世界を掻き回してメロンと結ばれること。
メロンはわたしの心の中で出来たことで、客観実在のメロンを創ったわけではない。客観実在のメロンはわたしが意識しなくてもそこにある。
客観実在メロンはわたしの心のなかで、母音実在メロン=i となっている必要がある。
ここでT.i のT が働かず、i 側だけが働くと、上記1~8の偶数番号での解説だけが働くとという意味、
2・パッと目前に与えられたものがそのままパアーッと持続していくだけで、自分が存在せず状況だけが持続していく感じを得る。
4・自分の思い感じ考えるものがないのに、勝手に適当などれでもと結ばれ自分が置いてきぼりにされる感じがある。
6・自分の思う方向が無く選択肢がないので対象が勝手に広がり拡張しながら出て行く感じがする。
8・わたしの落ち着く先が無く自分が無視されて、対象がそれ自身で形を現していき主張をしている感じを得る。
T メロン+i メロン = Ti のメロン 。以下同様に父韻を通過する。
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思考の流れを途切れさせないために前回の文から始めました。
全ては心の中の世界です。
心の表れは五つの次元層となっています。まぐあいを性交として取れば、そこには感覚欲望上から、経験知識記憶上から、趣向感情上から、実践選択行為の智恵の働き上から、そしてその人の人格生命意思の発動表現上からの、五層の人間性能がでてきます。
【 ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、= まぐあいでこれらの五次元層のどれかがでてきますがそのどれが出てきても、その人の意識に関わらず先天的にもちあわせていたものです。この性能が活動を開始しました。
まずは先天的に始まることですから、本人には意識されていません。
【 伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、= 意識されたものは現象ですから、この段階では意識されていないものが動きます。本人は知らないのに何故本人が動くのでしょうか。この心の本質内容がギミの命として示されています。
一、心の五層へ向かいそれを誘う動因として、
二、心の五層に自らの働きを働きかけそこから自らを引き出す動因として、
三、心の五層に働きかけた結果の表現を得る動因として、
四、生れようとする現象の自己判断へ、
五、生れようとする現象の他者判断へ、
六、生んだ現象の自主判断へ、
七、生んだ現象の確立判断へ、
ここではこれから生もうとする所ですので、当面は一二三までの主動因になります。
【 「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」と、天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依さしたまひき。= 自分の心を形成すべく、心とその表明器官である舌を使って、
ギミは主動因側なのに命令を受ける側にいます。例えば強い決意の元によしやるぞという時でも、その人を取り巻く環境状況がその人の隠れている真の理由となっているようなものです。それでも、ことの起こりはその人が一歩ふは出さない限り何も起こりません。
【 かれ二柱の神、天の浮橋(うきはし)に立たして、= こうして主動因側と先天のきっかけが統合して、現象を発生する契機、きっかけを取り入れた動きがはじまります。動きの主はイザナギの方にあります。
イザナギ自身は元々原動力、動因ですが、自らを発現するには自分の身の丈に応じた形に自身を合わせなければなりません。これが、天の浮橋であり、鳥居であり、しめ縄等の横に繋がる部分です。前に八つの橋板と書いたことがあります。
これは超世界的な数千年以前からの発見で、人の意思の発動の形は八つしかないということです。古代から伝わっている八に関するものは全てここが大本です。八角堂、易の八卦等。
何故八つなのかが疑問ならば一生かけて別の見解を出せばいいし、それに類するものは多くありますが、現象の分類整理だけで終わったものばかりのようで、古事記のように心の先天構造で明かしたものは皆無です。
われわれもそのまま利用させてもらったほうが楽ちんです。
【 その沼矛を(ぬぼこ)指し下(おろ)して画きたまひ、塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、引き上げたまひし時に、= きっかけを実在世界に下して、実在世界に結合したものが、
ぬぼこは父韻による判断総合、塩は四つの穂(穂は霊、言霊、実在世界)で母音行。
【 その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島は = 実在世界の現象を現す一つ一つの固有の領域となって
したたり落ちて一つの大きな大陸や島ができるのではない。
一滴一滴がそれぞれ独自の心の領域を持っていることをいいます。
【 これ淤能碁呂島(おのろご)なり。= 一つ一つが心の部分を締めている心の島となる。
一滴がそれ自身心の領域を指します。そしてココロの領域は五十個です。心は五十の要素から出来ているというのが古代大和の発見です。
次に十四島を産みますが、ここに、冒頭の百神が配当されています。
心の要素を喜怒哀楽とか、感情欲望思考、深層表層、喜び情熱不活動とかに分けてもそれらは心の現象を整理するだけで、心そのものの実体内容を指したものではありません。
古事記は冒頭五十神でその神名を使って五十の心の内容を示しています。大変なことです。その一つ一つがオノゴロ島というわけです。
その特徴は単音が一つのこころの要素を示すことです。こうしてまた五十音図がでてきます。
【 その島に天降(あも)りまして、天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。= 心に宇宙世界の根本実在である、天の御柱(心の実在五次元宇宙)と、八尋殿(心を形成する八つの働き)を創った。】
古事記は言霊循環といってこころは言霊百神の上昇循環としています。心が螺旋循環するのですからその出来事も同様です。 オノゴロ島で書かれたことは同じ構造で、この心の現象を扱う段落にも現れ、以下どの段落も同じです。
ぐうたら寄り道ばっかりで、心におけるまぐあいは次回に。
➍。おのれの心の締まりとまぐあいと現象創造について 。これ淤能碁呂島(おのごろしま)なり。
こころで解された麻具波比(まぐはひ)。
ギミの命は浮橋の両端に立って塩の滴でおのれの心の島を創りました。そして、その島に天降(あも)りまして、天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てました。
橋の両端にいたものが、各島に心の次元宇宙である一本の柱を見いだしその内容を自覚しました。その柱の裏表にアオウエイの主体、客体の実在世界が刻まれていることです。
そこで橋の両端からその柱に身を移すと、言霊イをベースとした五層の心の世界が八つの間に父韻が入る形をとって出来ていました。
五十ある心の要素となっている島にはそれぞれ御柱と八つの間が備わっていますが、八つの間は言葉が拡がるように八つを単位として縦横に拡がるようになっています。
【 ここにその妹(いも)伊耶那美の命に問ひたまひしく、「汝(な)が身はいかに成れる」と問ひたまへば、答へたまはく、「吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処(ひとところ)あり」とまをしたまひき。】
イザナギが主体側の問う立場です。ミは受け取る側です。ギは何でも感じそのままを問うわけではありません。自分と同じ次元、同じ立場、同じ状況、同じ時間空間、感情等に関してミに問うています。そうでないと疑問が成り立ちません。自分が問うことを答えてくれる相手を見極めています。
ミの命はギの片割れですから、ギの問うたことをそのまま答えることになります。ミに成り合わぬ処があると答えられれば、そのままギに成り合わぬ処があるからということになります。
ナリを鳴りととり発音発声上のこととして、母音の鳴り止まないことを指摘しました。これはそのまま物事の性質としてもいいものです。意見を戦わす者がいる場合なら、それぞれが原則を主張するときには原則は維持され鳴り止まないことになり、腹が減って何か食べたいときには食物が手に入るまではお腹は鳴り止まないという関係です。
ここでは実在世界は誰かがそれを取り上げるまでは鳴り止まないということになります。この実在世界が人の心にあっては五層の重なり合ったイエウオアの言霊で示される人間性能の世界ということです。(話の都合上まずは先天世界から始まっています。)
【 ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。】
そんな疑問でありながら、つまり成り成りてというギミ同じものでありながら、唯一主体側にある余れるところがあるといいます。
これは冒頭三神のうち、タカミムスビの神とカミムスビの神の読みを比べた時のタの一字と同じ関係です。この二神は主体と客体、裏表陰陽、光と影等のように統一されたもの絶対的なもの一つのもの中央を指すものの相対的な見方から生れるものです。
ギの命は主体側で問う方ですから、自らの問う動因を表現しなくてはなりません。しかしそのための物象が必要です。手短に言えば意志があっても手段が無ければ表現できないということでしょうか。そのギの意思の表れが書き表す場合には、子音頭となっているTYKMSRHN・チイキミシリヒニ・です。古事記ではウイヂニから妹アヤカシコネまでの八神です。
意志とか思いとかを現したときにその表れは自分を表現していない、書いても自分じゃない、身体を動かしても自分とは違う、等々という感覚は常に持つものです。この意志と物象とも乖離感覚はここから由来します。
いずれにしても意思は表明されます。しかしそのままではありません。そのそのままではない感じの始めの部分にある、TYKMSRHN・チイキミシリヒニ・が成り余れるところです。
しかし、意思はチイキミシリヒニを用いないことには自分を表現できないのです。そこで意思の発現、チイキミシリヒニから見たときには自分自身が出っ張り余っているということになります。
この暗喩が男女間の行為として描かれているのは、上記の原則は人間の心と行為の原則であるのでどんな例を取り上げても構わないものですが、古事記の意図する千数百年間は真実が知らされることのないようにするための方便として、男女関係としてうまい具合に取り入れられたものです。まったく見事なもので、数千年の歴史を見る眼、経綸、があるのを感じます。
【 故(かれ)この吾が身の成り余れる処を、汝(な)が身の成り合わぬ処に刺(さ)し塞(ふた)ぎて、】
後は性交、まぐあいを連想させておけば千年間は安心していられると言うものでしょう。そしてその予見の通り現代の世を迎えました。目覚めの始まりです。
目覚めというまぐあいはそれを表明するには自分と言う身体を必要とします。何を言っているのか良く分からないという思いも、口に出さなくても頭脳内でそういった言葉の流れを経過して意識となっています。これもそれもみんなまぐあいのことです。
【 国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまへば、伊耶那美の命答へたまはく、「しか善けむ」とまをしたまひき。】
国、クニ、というのは組んで似せるのことで、何に似せるのかと言えば、イザナギの命に似せることです。つまり自分の意思に似せて、物象化することです。(国は領地ですが、領地意識の範囲ないにあると言うことを似せたものです。)
いよいよ現象子音となる言葉を生もうではないかとなります。
イザナギもそのままでは意志と言う原則だけの姿です。この原則と実在原則が組み合わされることを後に「女人(おみな)先だち言へる」といわれ、蛭子を生む原因となっていきます。
原則であるのに何故子細を表明できるのか、子細を表明しながら何故原則を隠せるのかとうとういろいろと表現はできますが、それらの変幻自在を演出するのが父韻です。
【 ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「然らば吾と汝と、この天之御柱を行き廻り逢ひて、美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)せむ」とのりたまひき。かく期(ちぎ)りて、】
まぐあいは双方から招き会い見取りあって、同じ土俵、同じ次元にいることが確認され「かく期(ちぎ)り」あわねばなりません。
ここまでは自分の心の現象を生むことですから当然のことですが、複数人数が議論をするときには、全然チンプンカンプンになるようなことも「かく期(ちぎ)り」あわねばならない原則から外れるからです。
【 すなはち詔りたまひしく、「汝は右より廻り逢へ。我は左より廻り逢はむ」とのりたまひて、】
そこでイザナギは左=ひたり=霊足り=父韻と母音を併せ持っていること、から、イザナミは右=身切り=身という父韻のない原則だけの詳細を持たない切れた実在、から共に廻って合一しようということです。
これは柱とそれを囲む八つの間という立体的なイメージですが、五十音図ややたの鏡のような平面で捕らえた場合には右左廻りはありません。
要はイザナギのひたり=霊足りである父韻の扱いです。
【 約(ちぎ)り竟(を)へて廻りたまふ時に、伊耶那美の命まづ「あなにやし、えをとこを」とのりたまひ、後に伊耶那岐の命「あなにやし、え娘子(をとめ)を」とのりたまひき。おのもおのものりたまひ竟(を)へて後に、その妹に告りたまひしく、「女人(おみな)先だち言へるはふさはず」とのりたまひき。】
ここに「ちぎり」が二回でてきますが、始めは同一次元の母音を探すことで、二つ目は父韻と母音の結合に関することです。こころが現象となって始まるところです。
このちぎりの行為は正しく行われるか不正にかはまだ分かりません。ただ、心はころころ変わるオノゴロ島でありそれによって千の道を現す千木、道気、ちき、となるものが現れたものです。神宮にはこの心の象徴が屋根の屋上頭にそびえています。
ひとはこの屋上頭を築かざるをえずそれが自身となっていきます。しかし正否は保証されません。あにはからんや、古事記はまず駄目の親玉をまず産んでいきます。駄目というのは間違っているとか悪い汚いとかではなく、まず原則を生むというとです。それは当然人の五次元層に対応しています。
【 然れども隠処(くみど)に興(おこ)して子水蛭子(みこひるこ)を生みたまひき。】
蛭子=霊流子で、父韻の内実を持たない原則だけの世界のことです。
【 この子は葦船(あしぶね)に入れて流し去(や)りつ。】
当然世界創造の基本となるものですから、世界中に流布されました。
【 次に淡島を生みたまひき。こも子の例(かず)に入らず。】
蛭子という原則の扱いはいつも始めと終りしか話しません。蛭子がいる所には必ず淡島があるということです。淡島というのは五十音図の始めのアと終りのワを結んだだけの世界ということです。
こうして人間性能に応じた五層の次元層が普遍的にできてきました。
いちおうまぐあいの話はここまで。
どういうわけか今回は非常に疲れています。まぐあいとうのは疲れるものなのでしょうか。
●●以下引用。
宇宙意志
それはすべて言霊‘イ’という宇宙の中に具わっている八つの父韻というものが大回転をして人間の心が住んでいる五つの宇宙を剖判させて、人間が何をするべきか、どうすべきかを休むことなく働いて頭をクルクル回転させながら、思考を纏めていく。
そのための一番根本になるのが五つの宇宙と八つの父韻。人間はこの働きで以って決ってくるのであります
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おのれの心の締まりと複数とは何か❶ 。これ淤能碁呂島(おのごろしま)なり。
突如、複数とは何かについて知りたくなりました。
複数とは。
1 数が二つ以上であること。⇔単数。
2 インド‐ヨーロッパ語などの文法で、人や事物の数が二つ以上であることを示す語形。名詞・代名詞、およびこれを受けて変化する動詞・形容詞・冠詞などにみられる。⇔単数。
辞書の答えを見るとやる気が失せてきます。
ここは言霊学の勉強をしていく所なので辞書の話しに引っかからないように古事記を参照してみましょう。
とはいってもそんな話があるのかと思っていたら、、、ありました。
古事記冒頭の前半五十神の話は単音の言霊の創造で、後半五十神は複数の運用法になっていました。
迦具土の神は五十番目の神です。ここまでで五十個の単音言霊が生れました。
そしてその次の文章を読んでいくと、どのように複数が発生していくか書いてあるではありませんか。
人が言葉を話すのは一続きのものとして話します。
単音の発生が父韻と母音とのまぐあいでできましたが、では、ひつ一続きの言葉はどのように了解されているのでしょうか。
単音から複数の言葉への飛躍はどこからくるのか。また、精神、心においてどのように理解されていくのか。
泣沢女(なきさわめ)の神の段の前後の引用です。複数とはを意識しながら訳していきます。
【 この子(火の夜芸速男の神)を生みたまひしによりて、御陰炙(みほどや)かえて病(や)み臥(こや)せり。
臥(こや)せりは病気などで臥(ふ)して寝ているようすですが、子安、子を楽に生むこと、安らかな子、安定して創出された現象子音、の意味でもあります。目前に実在実体とその表現となっている現象子音との間違いのない安定した姿が五十個あるということになります。
ここでの条件は単音が安定したもので、それぞれが実体内容を持っている事です。生物の細胞分裂では器官組織ができるまで待たねばなりません。
現象子音が出来ても物事を指し示しても、内容は示さずその人によるなんてことになったらひっちゃかめっちゃかです。創造された現象子音は安定していなければなりません。
【 たぐりに生(な)りませる神の名は金山毘古(かなやまびこ)の神。次に金山毘売(びめ)の神。】
たぐりというのはもちろんたぐり寄せる事、目前に反吐のように散らばってはいるが確かな単音の山を手前にたぐりかき寄せる事です。嘔吐は口から出るもの、もちろん言葉も。
しかし、単音をかき寄せても言葉となり文となる事はありません。ここでは単なる集まりです。単数から複数になっているものを、個の立場から見ていけば、単数が分裂して二つになったことにはなりません。
単音が複数集まれば言葉になるのでもありません。
例えば十円硬貨を幾ら集めても、単位としての十円を見つめていただけでは二十円にも百円にもならず、相変わらず十円でしかありません。ここでは複数の内容はなく集まりでしかありません。
金山はひらかなの山で、ひことひめは表現現象の表れとその形、例えば音とその文字ということになります。
【 次に屎(くそ)に成りませる神の名は波邇夜須毘古(はにやすひこ)の神。次に波邇夜須毘売(ひめ)の神。】
ここでのクソはもちろんウンチのことではなく、組んで組織することです。一つ一つの単音の言霊要素を組あげていく事になります。組素です。
単音では安定した表現でしたが、組み複数化していくとどうなるか、やはり安定したものだと分かった所です。複数に組んでも安定していることを知るにはそれなりの根拠が必要です。
よく言語学では物を指し示してその名にしてしまいますが、名がその実体内容を指しているかは一切保証されていません。それに対してここでいわれるハニヤスは指し示した言葉(ハニ)は安定して(ヤス)いることを示し、名を与えることがそのまま実体内容を示す関係にあります。吉本隆明の言語論では指示と意味の同一性がありません。
世界で唯一のこういった関係を持ったものは大和言葉です。(大和魂の特徴はこのハニヤスにありそうです。)
単音の要素を組んでその安定した姿を見るには、何が必要でどうすればいいのでしょうか。
【 次に尿(ゆまり)に成りませる神の名は弥都波能売(みつはのめ)の神。】
ゆまりは小便のことで、いばり、ともいい、い・うまり、い・埋まり、いうまり、ゆまり、でちょうどうまい具合に、ゆまりを使用して、五(い)埋まり、の暗示にしました。五埋まりは五次元の人間性能アオウエイを指しています。
五十の単音言霊の山をいじくっていて、その仕分け整理をするわけです。ここでは複数の母音言霊の連続に意味のある安定したものを見いだす所です。そうすると小便のように流れていばりのイが地に付いて一番下に来ます。人間性能の創造意思を示すイがまず打ち立てられ、天の御柱に沿ってイエウオアと続きます。
学校で習う五十音図はアイウエオの順ですが、これも心の表れの一つで、まだ習っていませんが、多くの配列があります。ここの時点では心の働きが始めて動くときで原初の意識構造に沿った組み立て、イエウオア、になります。
ミツハは三つの葉、言霊のことで、後に三貴子に対応したエウオが中央にまとまった芽になっているということにもなります。
ここに誰でもが意識せずに既に、アマテラスを所有している根拠を見いだします。
単音の集まりが、人間性能の実在世界を示すイエウオアに沿って整理されていきます。ただの集まりの世界から人間性能に則した意味を持つ実在世界の初期像がでてきます。
【 次に和久産巣日(わくむすび)の神。】
母音列が整理されますと、残りはそれにそって、きちんと枠内に納まりました。ただし順番はまだ確定していません。しかし、こう思えばこうなり、ああ思えばああなり、こっちはこっちでこうなり、あっちはあっちでと言う具合に、心に思うことに沿って幾らでも組み合わせがでてきます。
ここから、思ったり考えたりする以前にまず形、型を習得せよという主張の根拠がでてきます。ところが同じ型、形だけにこだわるとそれは死物となります。和久産巣日のワクは沸き上がる湧き出るの沸くでもあり、確定されない混沌さも必要とされています。そうしないと次元を超えた世界での対応ができないからです。
五十音言霊の位置はまだ確定したものではありませんが、全ては枠内にキチンと収まるということです。
この枠内に納まるものを提供するのが、豊宇気毘売(とようけひめ)で、五次元宇宙(う)の気(け)がどのような形を取って提供され(皿、うけ)ようと全て受け止める関係にあります。
【 この神の子は豊宇気毘売(とようけひめ)の神といふ。】
伊勢神宮の内宮と外宮と同じ意味を持ちます。精神的物質的な人間創造物の全材料(外宮)と、人間の歴史、文化創造の原則(内宮)でどちらが欠けても成り立たず二つで一つのことです。
こうして単体から複数への架け橋ができましたが、問題は今まで単音、単体を創造してきた父韻はどのように複数となったものを自分に分からすのかです。十円玉を複数生んだからといって、二枚で二十円になるという意識を持っているわけではないのです。
【 かれ伊耶那美の神は、火の神を生みたまひしに由りて、遂に神避(かむさ)りたまひき。】
そこで必要なことはイザナミの死です。イザナミに手を出さず葬り去ることです。
イザナミは結果現象側の大神です。手を出さないというわけには行きません。二を生んだ後には三を生み、ついで百になりそして千四百になり、今度は五万六千になりますよ、次はもっともっとで十八億で、その次は一兆でいいですか、用意はできてますか、となっていきます。終りが無く果てが無く、イザナミに付き合うとどこまでも追いかけていかなければなりません。
その世界には複数があるようでないようで、果てしない複数が続いていきます。これが最高の複数だというものがありません。ですので通常は、言霊を言葉の威力と解していると、言葉の数だけ、いくらあるのか分からない言葉の数だけ言霊があるように感じていきます。何々の言霊、なんという言霊、こういった言霊という具合にキリのないものになっていきます。
この悪循環を断ち切るのが次の段落です。
【 かれここに伊耶那岐の命の詔(の)りたまはく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易(か)えつるかも」とのりたまひて、御枕方(みまくらへ)に葡匐(はらび)ひ御足方(みあとへ)に葡匐ひて哭(な)きたまふ時に、御涙に成りませる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもとにます、名は泣沢女(なきさわめ)の神。かれその神避(かむさ)りたまひし伊耶那美の神は、出雲(いずも)の国と伯伎(ははき)の国との堺なる比婆(ひば)の山に葬(をさ)めまつりき。 】
続く。
おのれの心の締まりと複数とは何か❷ 。これ淤能碁呂島(おのごろしま)なり。
イザナミが子を産むということは現象を産むことです。古事記では言葉を産むことが中心となって語られています。
【 かれここに伊耶那岐の命の詔(の)りたまはく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易(か)えつるかも」とのりたまひて、】
古事記伝の口語訳では「 ところで、ここでは「子一人」とあるのが普通だが、「子之一木」と言った理由は分からない」として、「愛しい私の妻を、こんな子一人のために失ってしまった」、カグツチのせいだと解説していました。
カグツチは五十の子音の全体と個別を指す二つの意味があるので、わざわざ古事記は「子一人」とあるのが普通だが、「子之一木」とと書いているのですから、その意味を汲み取るべきです。
そうするとここでは一連の子音全体の意味となります。今は複数の問題を扱っていますから、全体というのを複数の単音の子之一木、一続きの子、とします。
そんな勝手なことが何故できるのかと奇怪しく思うかもしれませんが、古事記はその前に「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命」と添えられています。
これの意味する所は愛している私の命よ、というときの内容を受け取ればはっきりします。愛に特有な同一感覚、わたし・ギ=イザナミ=一続きの子と繋げれば、わたしとは一続きの子であるとなります。
ここに単音が複数になる根拠を見いだします。このうつくしく思う感情による同一性を保持していないときには、私の組み立てた言葉達は空虚なのです。単なる言葉の積み木となってしまいます。
ところがそれは単なる感情じゃないかといわれるのを知っているかのように、その内容を明かすのが次に来ます。十拳のつるぎという象徴を使った判断のことです。
【御枕方(みまくらへ)に葡匐(はらび)ひ御足方(みあとへ)に葡匐ひて哭(な)きたまふ時に、】
そこでイザナギは非常におおげさに騒ぎますが、それをそのまま自分の言葉を得たときの喜びに読み替えることもできます。実際にそれは三貴子のところで実現します。
いくつかの単音でできた言葉をみますと始めから終りまでが一続きとなっています。枕から足まで一続きの木、一体となっているということです。
言葉ではそうなりますが、ではそれはどこから来たのかというと前段の和久産巣日から出てきたのです。
この音図、枠結び、は過不足無く五十音を配置していますが、相互の関係や意味内容は確定したものではありません。丁度意味もなく分けも知らないで言葉がしゃべれたりするようなもので、内容は無くとも何かを指示はできているようなものです。
哭(な)きたまふは鳴きで発音することです。枠結び、和久産巣日、でいえばそこに鳴き騒ぐものがあるかどうかを探し見ることです。
たぐり寄せた言霊金山(かな等の表現)を使用に耐えるもので組み合わせを作って、人の五次元性能に合わせて五十音の枠組みはできましたが、まだどんな意味内容を持って心の表出を行えるかが整理されていません。
わたしが意見を述べても通じないのは相手に同じベースが無いからです。この主体側と客体側に共通共有される土俵を探し作らなければなりません。それを和久産巣日に見つけようとイザナギが泣き騒ぐというわけです。
それでどうするかというと、御枕方(みまくらへ)に葡匐(はらび)ひ、母音行の頭段のアにまとわりつき、次第にアオウエイへと下って、御足方(みあとへ)のイに腹這いまとわりついてそれぞれ自他に共通の、つまり、人間に共通した意味を生み出す性能の配列を見いだすために泣きたまふというわです。
するとそこで分かることは、人間性能の根本的な基盤である意思を持って行為創造する自他を突き動かす意思のイ次元が、見つかりました。
【】御涙に成りませる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもとにます、
香山は書かれ表現されたもの、ここでは五十音図、和久産巣日になります。畝尾(うねを)は各母音行から横に伸びている五つの列、あかさたなはまやらわ等、の「木のもと」一続きの気、言霊単音の配列、に涙が落ちたことが分かりました。つまり母音行の一番下のイ段に、人間性能を現す共有された共通の動因が発見されたのでした。
【】名は泣沢女(なきさわめ)の神。
この動因は人間誰しもが生れた次第持っている、チイキミシリヒニの配列になっていました。どの人もこの配列の上にのっかかっているために、共通性を得ることができます。
この配列の発見は五千年以上前の超発見で、そのために世界の歴史が動き始めたものです。古代の文献や予言や宗教家たち大王たちの探してきた人間の至宝です。(とういうように分かりもしないのに書くだけは書いておきます。後はご自由に。)
泣沢女(なきさわめ)は鳴き騒ぐということですが、鳴く本人はイザナギです。男泣きですが、女のように鳴くので女・め・とついたのでしょう。
ですが場面によって、天の岩戸では天手力男となって御手を引き出し、オノゴロ島では沼矛を指し降ろし、この後のカグツチのくびを切る、とかいろいろと表現されています。
強引な動力因の発揮のイメージが感じられますが、イメージで話したのでは何も明かされないでしょう。
父韻の自己発見。
イザナギが鳴き騒ぎ父韻を発見するのは謂わば、イザナギの自己発見みたいなものです。古代大和の聖人たちは相当な努力を費やして自らを発見したのでしょう。
イ段のベースに自身のチイキミシリヒニを発見したことは、他人においても同様です。古代の聖人たちは大いに鳴き騒ぎ、お互いを研磨したのでしょう。ここに自覚が無くとも他人との間で共通に通じ合える基礎ができました。私の文が読め他人の文が読め、話し合える元ができたのです。
複数となった言葉の配列がイ段のベースを介して誰にでも交流できるようになったのです。
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以下引用。
「 お寺の鐘がゴーンと鳴ります。人は普通、鐘がその音を出して、人の耳がそれを聞いていると考えています。正確に言えばそうではありません。実際には鐘は無音の振動の音波を出しているだけです。
では何故人間の耳にゴーンと聞こえるのでしょうか。種明かしをすれば、その仕掛人が人間の根本智性の韻である八つの父韻の働きです。音波という大自然界の無音の音が、人間の創造智性である八つの父韻のリズムと感応同交(シンクロナイズ)する時、初めてゴーンという現象音となって聞えるのです。
ゴーンという音を創り出す智性のヒビキは飽くまで主体である人間の側の活動なのであり、客体側のものでありません。鐘の音を聞くという事ばかりではなく、空の七色の虹を見るのも、小川のせせらぎを聞くのも同様にその創造の主体は人間の側にあるという事であります。八つの父韻の音図上の確認の締まりを泣沢女の神という理由を御理解願えたでありましょうか。」
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一、二を生じ、二、三を生じ、三、万物を生ず
この今は過去からきて、未来へいく
未完。
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