投稿日: Apr 12, 2018 7:30:9 AM
前回の「納豆と汁」には後日談があります。
遠足のお弁当に納豆と汁を入れてほしいという息子のリクエストに困った私は、納豆の代わりに煮豆、汁の代わりに息子が三番目に好きな煮物で了承してもらいました。彩りに、トマトや卵焼きも入れました。
遠足から帰ってきた息子に尋ねました。「お弁当おいしかった?」。返事は、もちろん「うん!」です。そこで、気を良くして「何が一番おいしかった?」と聞いたのがいけませんでした。
返ってきた答えは、
「うさぎの耳」
難問です。
「うなぎのことかなあ。うなぎは入れなかったけど」と言うと、「ちがう、うさぎ」と答えます。
ここは子どものことばに寄り添って尋ねるべきかと、気を取り直して「そのうさぎの耳は長かったの?」と尋ねました。すると、「長かったら、お弁当に入らん!」と、もっともそうな返事が返ってきました。
短くったって入るものか、と思いながら、それ以上会話を続けることができず、「そうだねえ…」と、わかったかのように終わりました。
少し前に、上野ひろ美は、子どもの理解について、以下のように述べています。
子どもの理解は身体的なものを基盤にして成立している。子どもの概念形成は対象の客観的特徴ではなく、自分自身の行動や経験の「型」にもとづいている。子どもは具体的・経験的状況を離れては、概念を意識できにくいのである*。
彼は、いったいどんな経験を経て、どんな文脈から「うさぎの耳」という表現をしたのでしょう。今では、もう謎のままです。
こんな風に、大人の世界と子どもの世界でことばがすれ違っているのに、なんとなくわかっているかのようにふるまっているというのは、幼稚園や保育所の一斉活動で歌を歌う場合によくあるように思います。もっとも、歌の場合、大人ではなく、子どもがふるまっているのですが。
昨年秋、ある幼稚園の3歳児クラスで、降園前の集まりの時間に、「どんぐりころころ」(作詞:青木存義、作曲:梁田貞)を歌っていました。
ふと、担任の先生が子どもたちに「どんぐりは、どうして泣いたの?」と訊いたところ、子どもたちからは「痛かったのかなあ」という返事しか返ってきませんでした。誰も、「お山が恋しかった」「お山に帰りたかった」とは思っていなかったのです。
「どんぐりころころ」といえば、大正期につくられたかなり昔の歌であるとはいえ、子どもにとって、親しみやすい素材でストーリーができています。幼稚園や保育所では、子どもたちに身近な歌として取り上げられることが多いでしょう。
その担任の先生は、子どもたちが歌詞をわかってなかったということに驚き、さらに、「おつかいありさん」(作詞:関根栄一、作曲:團伊玖磨)についても尋ねたそうです。
この歌は、昭和のNHKラジオ番組『幼児の時間』用に書き上げられています。「どんぐりころころ」が終戦直後に小学校の教科書に掲載された歌であるのに対して、こちらは、さらに幼児向けに作成された歌であるといってもいいでしょう。
歌詞は以下の通りです。
※あんまりいそいで こっつんこ
ありさんと ありさんと こっつんこ
あっちいって ちょんちょん こっちきて ちょん※
あいたた ごめんよ そのひょうし
わすれた わすれた おつかいを
あっちいって ちょんちょん こっちきて ちょん
※〜※くりかえし
担任の先生が子どもたちに「ありさんたちはどうしたのかな」と訊いたところ、やはり、子どもたちはその状況を言うことができなかったそうです。
先生は、考えた末に、ぺープサートを作って「ありさんたち」の様子を示したということでした。
きっと、子どもたちには、これらの歌を歌うことは、歌詞の内容はよくわかっていなくても、一緒に歌う心地よさや語感、リズム感を味わいつつ、なんとなく通り過ぎる活動だったのでしょう。それはそれでいいかもしれません。
ただ、「どんぐりころころ」や「おつかいありさん」は、子どもにとって身近な素材がとりあげられ、子どもの目線で歌詞が作られています。どうして、降園前の一斉活動の歌だったのでしょうか。他の生活場面では歌われなかったのでしょうか。
先の3歳児たちは、あるときは、庭で葉っぱの落ち葉をたくさん集めて遊び、「葉っぱのお布団だあ」と喜んだり、落ちてくる葉っぱに気づいて「葉っぱの雨だあ」と呟いたりしていました。
落ち葉で遊んでいる時に、落ち葉にこんな風に色々な表現ができる子どもたちです。水辺に浮かぶどんぐりを見るような場面では、子どもたちは、「どんぐりころころ」の「どんぐり」と「どじょう」の物語がストンと落ち、”やっぱりお山が恋しくて”はどういう意味なのか、自ら知りたくなったりするのではないでしょうか。「どんぐりころころ」の歌が、体験から生きてくるように思います。
「おつかいありさん」も同じです。蟻は園庭でもよく見かけます。食べ物を運ぶ蟻たちと食べ物に向かう蟻たちがぶつかりそうになりながら働いている様子は、子どもたちもよく観察しているところでしょう。そんな場面と歌が結びつけば、この歌は、子どもたちが実感を持って口ずさむ歌になるのではないかと思います。
もちろん、歌の中には、歌詞に特に意味がない言葉遊びのような歌もありますし、歌詞が幼少期にはわからなくても、後から「ああ、こういう歌だったのか」というように、しみじみわかる歌もあります。
たとえば、「うみ」(作詞:林 柳波. 作曲:井上武士)です。これなどは、就学前後で歌われますが、歌詞はまったく子どもの生活感情と合いません。子どもは、海が広いとか大きいとかについては共感できるでしょう。が、海を見て、「海って、月はのぼるし、日は沈むよな」などとはまず考えません。「海だあ」と叫んだり走り寄ったりすることはあってもです。このシンプルな歌は、ゆったりとした三拍子で大人とともに歌う心地よさの中で記憶に残り、やがて、海の情景とともに思い出される歌であるかと思います。
今回の幼稚園教育要領の「表現」の「内容」には、以下のような項目があります。
(1) 生活の中で様々な音、形、色、手触り、動きなどに気付いたり、感じたりするなどして楽しむ。
(2) 生活の中で美しいものや心を動かす出来事に触れ、イメージを豊かにする。
(6) 音楽に親しみ、歌を歌ったり、簡単なリズム楽器を使ったりなどする楽しさを味わう。
「表現」の「内容」は(1)から(8)まで並記されていますが、それぞれは独立しているものではなく、相互に関連しあうものでしょう。しかし、(6)の「歌を歌」うという活動は、保育活動の中では、降園前には歌を歌う、季節の歌を歌う、というように、固定的な活動として置かれる場合も少なくありません。そのような場合、歌うことは、(1)や(2)の「生活の中」で「気付いたり」「感じたり」することや「出来事に触れ」ること等とは遊離してしまいがちです。「うみ」のような歌もありますから、歌によってはですが、子どもにとって身近な歌について、歌詞を再考し、子どもの体験と歌が出会う場面を「生活の中」で取り上げる工夫もしていきたいものです。
(執筆:山中文 2018年4月6日)
*上野ひろ美 「子ども理解」に関する教授学的考察 奈良教育大学紀要 第42巻第1号(人文・社会) 平成5年(1993)