投稿日: Jun 06, 2017 2:57:21 AM
今月は、無藤先生の2017年5月22日と24日の投稿をご紹介します。
「幼児期の終わりまでに育ってほしい姿」に関しての投稿です。
2017年5月22日の投稿
今と未来の融和的で対話的な関係の中に幼児教育の専門性がある。
幼児教育(保育所等保育)の専門性とは、今の充実を整えながら、そこに孕まれていく未来を予見し、その方向への歩みを助けるところにある。
今が肝心で、未来を展望することが今を抑圧すると言いつのる人たちがいる。未来こそ目指すべきだとして、今のありようを無視する人たちがいる。どちらも自体の単純化であり、プロフェッショナルであることの放棄だ。
喩えを言えば、未来の方向性は磁石のようなものだ。あちらに行けと示す。今のあり方は道を歩むことだ。その道草や道の曲がりくねりを含めて、歩くことの充実を求める。磁石だけで歩いていては迷子になる。だが、道の楽しさだけでは、どこにも行き着かないかもしれない。
しかも、子どもはどこかに行きたいのだ。今を充実し、そしてさらにもっと凄い充実がそこから生まれ、もっと素敵になると言う予感で生きていくのである。
幼児期の終わりまでに育ってほしい姿はその方向性だ。さらに、資質・能力は超長期の方向を示し、それは幼児期の終わりまでに育ってほしい姿に潜まされている。内容のねらいと内容は今と短期をつなぐ活動のあり方を示す。保育のプロセスとしての環境や遊びとさらにその底部としての養護性が今の充実を可能にする。
これらの関係が「幼児教育」の構造であり、その把握と自在な活用がプロフェッショナルであるゆえんである。
(投稿はこちら)
2017年5月24日の投稿
迷子保育にならないために。
幼児期の終わりまでに育ってほしい姿とは、遠くへの育ちの方向を意識して、指導していこうということだ。それと、普段の活動のあり方の指導とは同じではない。方向を意識しながらも、むしろ保育内容のねらいと内容を主に考える。
で、10の姿は、10個もあるが、磁石による方向を示すものだ。北西に向かって進路を取れっと言っている。日頃の進み方は道なりに沿って、寄り道しながら、楽しく歩みながら、時々大きな方向の誤りはないかチェックするのである。
道は、長く曲がりくねっている。You are walking on the long and winding road. Enjoy your travel, and in the end, you would find yourself at tht door into another wonderful world!
(投稿はこちら)
子どもたちは、無自覚のうちに多くのことを学んでいます。
「よし、今日はおみこしづくりを通して友達と協力する力を身につけるぞ-!」なんて思っているわけではもちろんなく、お祭りでいっしょにおみこしを見て心を動かされたこと、そのおみこしを自分たちでつくりたいという思いを抱いたこと、大きなおみこしをつくるには一人では大変なこと、友達と力を合わせたら大きなおみこしの色塗りも楽しく進められること、友達が自分には考えつかないような素敵なアイデアをもっていることなどに、遊びの中で気づいていきます。
しかし、保育のプロである保育者は、子どもたちの無自覚の学びに気づいています。今の子どもの姿から、明日の子ども、それ以降の子どもの姿を予想し、その育ちを支えられるような環境の構成や関わり方を考え、準備します。もし予想とは違って寄り道をしても、柔軟に対応しています。
教育実習の時、先生方が子どもたちの遊ぶ姿を見て、「きっと明日はこういう活動に発展していくと思うから、これを準備しておこう」「そろそろ、おみこしのあの部分がぐらぐらして壊れそうになるから作り直そうと、どの素材を何でくっつけたら丈夫になるかを考えるんじゃないかなと思うんだけどねー」と子どもの未来を見据えて準備をしている姿、さらには子どもが育つプロセスを見通して、あえて何もせず子どもたち自身が気がつくまで見守り、待つという援助をしている姿をみて、保育者の専門性ってこういうことなんだとわくわくし、自分もこのような援助のできる保育者になりたいと思ったことを覚えています。
「幼児期の終わりまでに育ってほしい姿」は共通していても、そこに至るまでのプロセスは地域によって、園によって、クラスによって、そして子ども一人一人によって異なるという多様性が、保育の独自性であり、醍醐味であり、楽しさであり、難しさでもあるように思います。
子どもたちの「いま」は、昨日の保育者の援助によって支えられていること、そしてその積み重ねが未来をつくっているということを、無藤先生の投稿を読んで考えました。
(執筆:清山莉奈,2017年6月1日)