2016.5.9
無藤 隆 子ども学研究特論(4)
第9章 批判的教育学
テキスト The SAGE Handbook of Qualitative Research, 4th ed. SAGE.
今日は、第9章「Critical Pedagogy and Qualitative Reserch」、つまり、批判的教育学を扱う。
「ペタゴジー」という用語は「教育学」と訳してもよいが、日本でいう教育学という場合と、指導法という場合があるが、この場合は教育学でよいと思う。
本章では、批判的教育学における質的方法を考えていく。批判的理論、批判的教育学、批判的研究など、いろいろな言い方があるが、中心は、批判的理論が教育学にどうかかわるかということで、言い換えれば、批判的な立場から学校教育のあり方を検討する立場であり、批判的な立場から新しいタイプの教育の場を作っていくなど、そのような流れを主に考えていく。
批判的な伝統は変化・進化している。クリティカルな理論や立場があり、ゆるやかに考えれば、社会批判という共通性がある(そして、違いもある)。
特に、過去35年とあるが、1980年代~90年代くらいを指す。1980年代から現在までをイメージしているが、その間に何が起こったかというと、前回、説明したが、ソ連が崩壊するなど世界的な政治情勢が1980年代において一変した。
古典的な批判的立場は、マルクス主義(=経済的な要因が人間存在の他のすべての側面の性質を決定する)の見解によるのであるが、それとともに、そういう古典的な立場を見直すというところから、特に21世紀から最初の15年には、新しい批判理論を作るという動きになった。
その動きの中では、世界情勢において、たとえば資本主義VS共産主義・社会主義、というように対比することはなくなった。資本主義は仕方ないが階級的な、日本でいえば経済格差をどう是正していくかを考えていく。
だから、中心はむしろ、自由主義とか、資本主義とか民主主義とかが成り立っている国々で、なおかつ、経済的格差や支配の関係がある国において、そこをどうしていくかが問題である。
少しややこしくなるのは、そこで暮らしている人たちが明確に問題にしている場合もあるし問題にしていない場合もある。特に、差別されていたり、格差の下にいる場合は、意識していないこともあり批判していないこともあるので、問題はそう簡単ではない。
基本的に、批判的教育学は階級対立を受け継いでいる。ただ、1980年代以降、さまざまな差別、つまりフェミニズムに代表されるような差別、人種差別、宗教対立があり、そういう中で、なおかつ批判的な立場をどう維持していくかを考えてみると、そんなに簡単ではない。
p.163
批判的な立場に立つ人たちがどういう流れかを見ていくと、マルクス主義に限らず、フランスのポストモダンの考え方や、ドイツのフランクフルト学派や、ビゴツキーやさまざまな立場がある。言い換えれば、そうすっきりと明確な立場には立てない。
ただ、批判的な立場としてある程度の共通性は、p.164の左側に7つの特徴が挙げられている。今日の講義で言いたいことの半分はこの7つの特徴である。
1)権力関係(power relations)
社会全体の支配と服従の関係で根本が作られていくということ。
2)イデオロギー(ideology)
批判的な立場では何を意味するか、事実と価値を分類できない。必ず、事実をとらえる人間の社会的階級的立場によって事実が決定される。それがイデオロギーという考え方。
3)社会関係(social relations)
すべての知識とか意味や概念である。資本主義的な生産と消費の関係によって媒介される。このような考え方も非常に古典的である。生産と消費、資本主義上の生産と消費、こちらに生産者と労働者がいる、という古典的な構図。でも、今はそういう構図はない。
でも、批判的議論を一生懸命やろうとしているが、単純な資本家vs.労働者、実際はそう簡単ではない。世界的に観れば、国内の貧困差よりも、先進諸国と貧困国の差の方が大きい。先進国の貧困者が貧困国に行けばお金持ちということもある。
4)言語と意識(language / conscious)
ここでいう言語と意識は特殊な用い方。
心理学者が意識するというときは、周りへの自覚…。
ここでいう意識は、政治的に目覚めているとか、資本の生産消費の関係をわかっている、自分たちが差別されていることに気付いている、という意味で使っている。
5)特権―抑圧(privilege / oppression)
特権とは恵まれていること、恵まれている条件を使えること。
これは、いろんな差別つまり社会的差別のことを指すが、重要なのは、貴族のように特権が与えられていれば平民との差異が見えやすかったが、現代社会では見えにくい。そういう状況の中では、差別されている人が差別だと思い、ひどいと思えば動いていくが、そうでなければ現状として受け入れしまう。それが問題である。だから批判的教育学によって自覚させていくことが大事である。
6)抑圧(oppression)
あちらが得してこちらが損している…ではなく、男性は常に得して女性がひどい目に遭っているのではない。女性は働く機会に恵まれていないことが差別と見る人は見るが、家庭の中にいて幸せだろうという人もいる。差別と言われると難しい。そこに複雑な関係はある。一方が得をして、一方が損をする、という差別を言っているわけではない。
7)階級、人種、ジェンダーの再生産(the reproduction of systems of class, race and gender oppression)
そうったものが再生産されるシステムを見直さなければいけない。批判的教育学は、こういうことを目指すものである。
過去35年間の中では単純には言えない、ややこしい関係がある。そのような背景の中で、差別的関係が厳然として存在している。
p.164 右
もう一つ、この論文で言おうとしていることは、さまざまな差別を研究するための質的研究の手法、ブリコラージュ(bricolage)である。ブリコラージュはいろいろな人が使っているが、それを批判的な教育学の形に発展させていく。ブリコラージュとは「器用仕事」という意味である。もともとは、人類学のレヴィ・ストロース(Levi-Strauss)が、『野生の思考(The Savage Mind)』という本を書いた中で展開した論である。未開の部族があったとする。レヴィ・ストロースが研究したのはアマゾンだが、そこにインディアンの部族がいて、必ず、何でも屋さんがいて、実際は鍛冶屋であるが、そういう人は、なんでも修理するから器用である。ブリコラージュの特徴はとにかく手に入る材料を使いながらいろいろな道具を使いながらなんとか対応していくということ。現代文明社会だったら、いろいろな道具があるだろうが、そういう未開の部族はそういうものはないので、そこらへんにある適当なものでてできるかと間に合わせる。それをブリコラージュと言う。質的方法というのは、ブリコラージュだと最初に言ったのは本書の編著者デンジンとリンカンである。
そのブリコラージュの考えが必要である。簡単にいうと、社会構造を批判することが大事で、使える手立ては何でも大事なのである。ブリコラージュという手法は、質的方法等いろいろなところで使っている。
世の中でいう質的方法というのは、おおざっぱにいうと、個別にやり方が明確であるやり方を明確にやっていく場合と、その場の問題や内容に応じてさまざまなやり方を組み合わせていく場合がある。明確なやり方の代表がグラウンデッド・セオリーであり、対立する方は、役立てばいい、さまざまな方法を組み合わせた方がいい、目的が大事という考え方である。
だから、方法論の厳密さや、方法論的明確さを求めるのではなく、世の中の見方を変えていくのが必要である。それを、意識(コンシャスネス/consciousness)と言っている。解放的意識(emancipatory)をエンパワーすること。エンパワーという言葉は多義的で、「権力付与」と訳す場合もあり、「励まし」という意味もある。権力付与は社会的だが、エンパワーは幅広く使われており、使う人によってさまざまである。
医療の世界では、患者へのエンパワーメントが進んできた。今は、医者が勝手に決めることはなくて、医者は治療法を説明する義務がある。場合によっては、セカンドオピニオンを進めたりもする。以前は、患者がセカンドオピニオンを得たいと言った途端に、もう来なくていいと言うこともあった。権威主義的である。今は減ってきたが、治療法ABCとあって、Aは7割治るが、Bはお金がかかる。Cは副作用がとなった時は患者に選ばせる。
患者は、「わからないからお任せします」はダメで、同意書にサインさせる。批判的教育学では、このようなものはエンパワーとはみなさない。それが実質的にどう機能するかはわからないが、批判的教育学の立場からは、もっと根本的にあり方そのものを変えていかないといけない。その中で、医療に対して、近代的な医療を重視する立場もあるし放棄する立場もある。
要するにこの論文で言おうとしていることは、方法論はブリコラージュを用い、使えるものは何でも使う。その研究を通して個人をエンパワーメントし、解放的意識を育てる。
これは、過去35年間の経験の中で、この分野で形成されてきた考え方だが、その人たちの見方を変えたうえで、その人たちが当事者となって社会変革していくんだという考え方になるようエンパワーメントして解放意識を高めていくことが大事である。
これが、1980年代、90年以降の決定的特徴である。要するに、解放的意識というものを、もっぱら担う部門と意識を持たずにそれについていかざるをえない群とを二分法にしない。さらに細かい規定は、エンパワーされる人たちが考えなくてはいけない。研究者がすることは、社会に対する目を一緒に考えるということ。
これは、この35年間に世界中の多くの人たちがこの分野の中で編み出してきたこと。
その時に影響を持ったのが、パウロ・フレイレ(Paulo Freire)というブラジルの教育者である。
p.164 右
パウロ・フレイレは、1960年代~80年代、ブラジルで活躍した教育者である。当時、ブラジルのアマゾンでも都市部でもきわめて貧しい原始的な生活をしていた。日本とはけた違いの貧しさだが、そこに暮らす人たちに生活の糧を与えるため、識字教育、つまり、文字の読み書きを教えた。
義務教育が徹底していなかったため、貧しい部族に字を覚えてもしかたないが、文明社会と接して、仕事したり商売したりするようになると、文字読んだり筆算できないと不利になる。だから、読み書きを可能にしようとした。具体的には、彼らの生活にとって必要なものを教える。彼らを小学校に放り込んでも脱落するか中退してしまう。また、国が与える教科書は、大都市圏の白人中心のやりとりが中心なので、無関係なものは頭に入ってこない。日本英語教科書も同様である。ブラジルの人たちにとって白人文化への憧れはないので、意味のないことである。自分たちが商売人相手に損をしている自覚的に考えられるようにしていかなければならない。消費社会の中で大量のメッセージが与えられていくが、
与えられるものを疑っていかないといけない。自分たちの生活に必要なものを学ぶ、つまり、経済的に搾取されることを学ばなければならない。
ブラジルのフレイレの運動はすべて成功したわけではなかったが、ブラジルは少しずつ豊かになり、テレビが入って一気に消費社会になってきた。
アジアやアフリカ諸国の中である時期大問題になったのは、人工乳が広まったことが問題になり、現在では、国連によって母乳を与える運動が推進されている。当時は、母乳をあげていると働けないから人工乳に切り換えることで母子を離すというメリットがあった。しかしながら、人工乳によって乳児死亡率が上がった。人工乳は水が不潔なため感染症で下痢を引き起こす。世界中の乳幼児の死亡原因の大半は下痢である。下痢の原因は水であり、水道が普及してないか、または、普及していても不潔であるという問題がある。日本人が東南アジアにいって下痢を起こすのは、水道が汚いからである。現在、たとえば、シンガポール、タイ、バリ島は、日本からの水源管理の援助があったおかげで、水道の水を飲んでも大丈夫になってきた。そうでないところは、汚れた水で貧しい層の色々な問題を支援するときに、立場は2つか3つにわかれる。今説明したのは近代主義的な立場である。前の言い方をすると、実証主義。ポスト実証主義である。
井戸を掘って村に水が流れるようにすれば、一気に下痢が減る。水道を普及させて、手を洗う習慣が入ってきたおかげで感染症が半減した。手を洗う習慣は、19世紀半ばまでは世界中であまりなかった。パリで水道ができたのは19世紀半ばである(水道自体はローマ時代からあったが)。
人工乳を普及させた人は、善意の場合もあったが、水道が汚くて感染症を起こす危険性があるとはその人たちは気づいていなかった。
もう1つは、人工乳を作った人たちが、ものすごく安い値段で途上国に売りまくった。それを、批判的教育学の人たちは、母乳の習慣を破壊したのは資本主義であると非難した。それはある意味、正しい。ただ同然で売りまくったのは明らかであった。
そういうものに対する疑いは、個別の正しいやり方の普及だけではなく、元々その地域でやっていたようなやり方を大事にしながら、自分たちで資本主義・商業主義的なものに対して疑う力を養い、搾取に対して自覚的にさせていかないといけない。
もう1つのあり方は、フレイレが「教師」であるということ。教育を重視し、単に読み書きだけを教えたわけじゃなく、権力に批判的な目を養うことをしていた。そこでは、教師という役割が、自立した研究者、専門家としての立場であると重視されていた。
つまり、生徒は学習者、それが主体的で、解放的な立場でなければならない。主体的といのは、幼稚園でよく使うが、そうではなく、政治主体のことである。自分たちの役割は自分たちで決める。
解放的(emancipatory)というのは、抑圧されている側が抑圧されていることを自覚して、それを解放していこうという意識を持つこと。そういう存在にしていくことだが、教師もまた、ある種の主体者にならなくてはならない。
つまり、世界中の多くの国では、学校教育、義務教育では、教えるべき内容が決まっていて、生徒に伝える伝達者が教師である。非常に極端なところでは、教科書で教え方が決まっていて、たとえば、5月9日の月曜日の11時には、全国の小学校の算数ではこれと決まっているような国もある。すると、生徒は言われたことを覚えるが、主体的で解放的にはならない。そのためには、まず教師が主体的、かつ、解放的にならなければならない。
ここでデューイの思想が入ってくる。デューイは学習主体とか指導主体という表現を使っているが、「学びの共同体」すなわち、ラーニングコミュニティのことである。生徒も主体的で共に学びあうが、教師もまた一員として、生徒とともに学びあっていく存在である。そうすると、その中では、そういった学びの共同体に属する生徒が、教育を受ける権利を得て、その教育のあり方をよくするためにしていく取り組みのことである。
より解放的な存在に教師もなっていかなければならない。その教育を通して、生徒の意識を変えていきながら、政治権力をひっくりかえしていくような、政治的方向を目指していくと考えられている。すると、解放的意識のみならず、解放的な活動へと展開していくことを目指すようになる。それによって、差別による社会の抑圧や、それを変えていく力を持つ。
ここのところで、この35年間のややこしさが入ってくる。それは何かというと、社会が資本家と労働者からなっており、資本家をひっくり返せばいいと20世紀の後半には誰も信じない。
もう、解放といっても、誰が敵かわからない。ここでいう「解放」は、悪玉を追い出してということではない。もっと世の中をややこしく考えていかないといけない。
解決にはならず、テロを招くだけである。そこを変えていくためには、抑圧された人々、当事者に、単に悪玉に対して戦えとアジるのではなく、その人たちに自分たちの状況を分析させる力や解明する力を与える。
それが、ブリコラージュである。特定のマニュアルに沿ったものではなく、特定の訓練されたものではなく、日常の中で解決する。ブリコラージュは批判的なだけではなく、社会の矛盾に気づくようにという考え方である。ブリコラージュという考え方は、そこで使える方法を何でも使う。現場における社会全体のあり方まで考える。
視野を広げるようにありたい。ここが質的研究とは少し違う。
多くは実践の現場においてであるが、批判的教育学はそれを超えて、学校社会を超えたところに目を向けて、自分たちのところにある矛盾を社会に広げて考えるということである。
すると、そこでは、知的活動、つまり、正義を求める倫理、その一体性が求められる。
公正であることが正義となる。立場によらず、貢献していく、それが正義。それを貫くことが倫理的である。そのことと知的活動というものが、密接につながっている。その正義というものを難しくしているのは、批判的立場においては権力関係である。そのことに気付くようにしながら、いかにして正義の方向を貫くか、調査研究を進める。権力そのものも、過去35年のなかでは、分散するように変わってきた。資本家対労働とも考えていない。男性vs.女性も、それはセットであり、男性が支配的で女性が従属的という世界はなくもないけど、あるとも言えない。そういう日常生活からして常識的ではなく権力が見えにくくなってきた。
p.171
最後に、ブリコラージュをベースにしながら、研究方法としてのエスノグラフィの展開を考えていく。
マリノフスキーが西太平洋で生活して調べていったことと同じように、すべての人は、その人の社会で生きているとすれば、幼稚園に勤める保育者は、その幼稚園におけるエスノグラファーと言える。日常生活で、その幼稚園のありかたを取り出すのである。
エスノグラファーの意識を持って、インタビューをしたり、いろんな技法を入れて、他の幼稚園で調査することもできる。いろいろな方法を組み合わせることでブリコラージュと言える。
同時に、調査する側・される側という関係の中で、エスノグラフィが、エスノグラフを書かれる人たちという関係ではなく、ぐるぐるとした関係である。エスノグラフが批判的であるということは、より大きな社会があって、その中での権力関係が複雑になっている。
フェミニズムからの批判は意味があったが、その一つである大きな政治的対立は、貧しい層は、常に差別される側として一体的であり一枚岩であったわけじゃなく、差別する中で、部族長がいて、従う者がいたり、あるいは家族の中で家長と従う者がいたりという関係である。
マイノリティの中での差別もあるが、そういうことにも自覚的になりながら、マイノリティの側が倒したらいい社会になるかと言うと、必ずしもいい社会になるわけでもない。
一人ひとりが、政治的な意味での主体である。女性も子どもも障害者も、政治的主体として変えていく。若い男性が全部を担っていいわけではない。他の人を代理するのではなく、
すべての人にブリコラージュを広めていくべきではないか、と主張している。
「批判的教育学」は、看板は大きいが、質的方法で考えたら小さい。
やろうとしていることは意味がある、と言えるかもしれない。