ビジュアルデータというのは写真などであり、最近はビデオ、漫画なども増えた。エスノグラフィーを中心とした研究だが、写真がメインである。映画は1910年代くらいから始まり、ビジュアルデータは文化人類学で使われるようになった。今やデジタルカメラが主流になり、簡単にビデオ映像が撮れるようになった。ビデオそのものは18ミリに始まり、その後、ソニーがベーター、ビクターがVHSを出した。最初はビデオレコーダーとカメラが別の装置であった。ソニーの一体型ビデオカメラのハンディカムは30年くらい前に販売された。最終的に現在ではiPhoneくらいのサイズになった。この本で使われているデータは2007年頃のものであり、現在と比べると技術的には古いかもしれない。映像で撮るのは難しいが、音声の録音は容易になった。ハラスメント問題などもあり、たとえば採用面接での録音もなされるようになり、ネットで匿名によりその録音データなどを出すのは簡単になった。あらゆるところで録音されているという前提で話をしなければいけない時代になるかもしれない。ただし、デジタルデータは切り貼りが可能であるため、捏造が可能なことに注意を要する。
エスノグラフィーではいわゆる未開の地に行って調査する際に、言語データだけでは捉えられないので、部族の踊りや儀式などを映像で撮って録画したりすることから始まった。今日では映像や動画がSNSで共有でき、コミュニケーションのコストも低い。そういうわけで、イメージや映像は特殊な問題であったが、今では普通の身近なものになった。
では、1章「はじめに」について解説する。4ページには、なぜ質的研究に映像を取り入れるようになったのかという2つの理由が述べられている。まず一つ目の理由は、社会のあらゆる場面で見られるようになったからである。もう一つの理由は、映像が、言語的、数量的なものでは捉えられない洞察をもたらす可能性があるからである。映像が重要であるとは、歴史的なものである。動画の映像は20世紀、写真は19世紀半ばくらいに始まり、日本では幕末に入ってきた。もちろん、写真の前に、イメージには絵画、彫刻があるのだが、それは美術史研究に任せることにする。エスノグラフィーは20世紀の初めくらいから始まった調査であるが、イメージを用いた調査も同時に始まった。印刷術というのはグーテンベルグが16世紀に開発したが、当時は活版印刷で、一文字一文字を組み合わせるものであった。その前は版画として写す技法があり、この版画技術によって本が広く普及した。版画が大量生産されることによって、絵画も同時に広がった。日本の浮世絵なども版画によって広まった。大量印刷というのは19世紀の半ばに始まり、新聞や雑誌、あるときから写真を印刷するものが始まった。20世紀になって映画が大流行するようになる。日本では明治の終わりから大正にかけてである。20世紀の終わりからテレビや写真雑誌、広告、新聞や雑誌、テレビのCMを通して広まっていった。現代社会に生きて接する映像は、200年前に生きていた人々と比べると格段に多くなった。今や、朝から晩まで映像に接している。街を歩いていても、ポスターなどさまざまな映像に接している。非常に映像の多い社会に生きるようになった。映像にあふれた社会、それと同時に、一方で、ビジュアルな映像を消費者や受け手として使うという立場もある。ビデオ機器やデジタルカメラを使うということについて考えると、写真というのは、江戸時代以降は写真屋が撮る特殊なものであった。私(無藤)が子どもの頃はカメラが貴重なものとして一般家庭に一台あった。フィルムの現像を写真屋に出していたが、デジカメになって自分で印刷ができるようになった。それでも、写真屋に行って印刷する人たちもいる。今日では、ネット上で映像を見る、メールで映像を送るとか、映像を消費する側だけなく、映像の作り手になってきた。ここ120年の大きな変化である。流通する映像を受け取るだけでなく、映像を作るようになってきた。研究者もビデオカメラで映像を撮るようになってきた。
7ページからは、ビジュアルデータを用いる研究法には2つの流れがあると言っており、その一つが、研究者によって記録され創り出されたビジュアルデータという流れである。そして、2番目の流れは、研究協力者によって撮られるという流れである。親は子どものどのような写真を撮り、どのように他者と共有するのか。世間の人が映像を創り出したものに対して、それを分析する。さらに第3として、研究者と研究協力者とが一緒にやっていくという流れである。例えば、幼稚園の先生に写真を撮ってもらいながら、その分析を一緒に考える。普段の実践の中で自分たちの保育の様子を写真に撮っておたよりなどに使う。研究者と保育者が一緒に写真を撮って、保育を見直すために使うなどがある。
10ページには、映像をどうすれば研究に使えるのかということが述べられている。イギリスのアフロ・カリビアン系の10代の少年たちに、最も自由に感じる場所の写真を撮ってもらうこともあり得るだろう。親が撮った子どもの写真を用いて何が言えるかを分析するのは難しい。インスタグラムの写真が典型であるが、かっこよくない部分をどう撮らないかが重要であり、撮らないものはそこにない。自撮りでかっこよく撮っても、いつもの姿とは違う奇跡の一枚だったりする。インスタグラムでは奇跡の一枚をいつも演じることができる。インスタグラム的現実というのがあって、観光地に行ってみると絵葉書との違いにがっかりすることなどもそうである。そういうのは、現実をそのまま表すとは限らないが、映像が現実を表すものもある。どのような文脈の中で撮られた写真なのかという情報が必要である。しかしまた、映像には思いがけない背景が取れていることがある。色々な読み取り方ができる。そこに写真のごまかし方も面白さもある。保育の研究の場合に、子どもの笑顔を撮るというのは、子どもが何をしているか分からないため、保育学研究としてはあまりよろしくない。子どもの手元が見えないといけない。子どもが何を見ているのかを捉え、同時に場面や背景を入れることで保育の中身が見えてくる。どんなにひどい保育でも、一日の中に一度は子どもに笑顔があるのかもしれない。そのため、写真というものの持っている切り取り方や多義性を丁寧に扱わなければならない。
12ページから、予算の問題が述べられていて、コストが安くなったとある。また、イメージの解釈可能性には複数の解釈を許容するというイメージの多声性(polyvocality)がある。
14ページからは、ビジュアルデータを用いる際の専門用語が紹介されている。
1.「エージェンシー(agency)」とは、ある人が他者に働きかけたりしてその行為が影響を及ぼしたりする能力のことであり、二次的エージェンシーとは、関係する他者の意図、動作主的な行為を映像になるものが持つとする。
2.「データ」とは、すでにそこにあり、発見されるのを待っているものであるが、解釈主義的な観点からは、探究の過程で現れてくるものである。
3.「ドキュメンタリー」とは、ドラマと違う本当のことを描いたもの、研究者が記録するものと重なり合うが、テレビのドキュメンタリーとは録画したものがそのまま出されるわけではなく切り取られ編集されている。
4.「図と地」とは、図は絵画の主題で、地は背景であり、図と地の関係によって意味が与えられる。それは視点により交代しうる
5.「フレーム」とは、文字通り、枠組みのことである。写真には枠があり、同時に枠組みは抽象的な映像の捉え方のことである。
6.「ナラティヴ」とは、語り、ストーリー、一連の情報の組織化のことである。流れとして示すものでもある。2種類のナラティブがあり、内的ナラティヴとは、写真に描かれた内容のことであり、外的ナラティヴとは、誰が撮ったのか、いつ撮ったのか、なぜ撮影されたのか、などの質問に答えることによって作り上げられるストーリーのことである。
7.「視覚中心主義」については、46ページにベンサムのパノプティコンを用いて説明するのが分かりやすい。これはフランス革命の時代に構想されたものである。監獄の中を看守が一望できる効率的な仕組みになっている。囚人自身は、自分が見られているという意識がなく自由でいられる。これを、ミッシェル・フーコーは権力が見えない形で監視すると言っている。現代では監視カメラがそうである。
8.「視点」については、海外での視点はルネッサンス、どういう視点から見るか。研究者の視点から見ることを含む。
9.「リフレクシヴィティ」とは、研究者自身の役割について自覚することや研究者の立ち位置を考える必要があることを指している。
10.「表現(representation)」とは、具体的な物として表現されたもの、視覚的は外に表された物、1つのルールのもとで表された物、社会的な関係の中で構成された物、など表現には意図がある。意図によって読み取りが変わってくる。
2章「社会調査におけるビジュアルデータの位置」では、ビジュアルデータの位置の歴史について解説する。26ページには、トレス海峡諸島の写真が示されている。写真の中の登場人物には演じてもらったものである。人体測定学の領域では、世界中の人たちの体格などを記録したものがある。これは、19世紀に流行った研究である。今は悪名高き犯罪扱いとなってしまっているが、ロンブローゾは頭蓋骨の形で悪人かどうか測った。写真という技術によって可能になった。人相学はだめになったが、写真を使った分析はその後も続いている。狂人や悪人を作り出した一方で、外見的な美人も作り出され、今や顕著なものとなってきた。1930年代にはアメリカ農業安全管理局が雇った写真家たちの農家と小さな街の生活記録がある。社会学者のロバート・リンドは彼らをサポートし、写真を使って、社会の実態を知ろうとする研究をした。低所得者の女性は、高所得者の女性に比べて人と関わる機会が少ないのではないかと仮説を立てたが、これは写真によって検証可能な社会学的仮説である。
社会調査における映画の初期の利用としては、未開部族の儀式などの動きを撮ったドキュメンタリー映像が生まれた。マーガレット・ミードとグレゴリー・ベイトソンが、サモアとニューギニア、バリ島で調査を行った。彼らは現地で映画も撮っている。その後、ビデオカメラでの録画になり、容易に多くの人が分析するようになり、素人も使うようになってきた。
3章「ビジュアルなものを研究するさまざまなアプローチ」では、写真を撮ってどのように分析するのかについて述べられている。ビジュアルデータを分析するということが難しい。本屋に行くと写真が載っている本が増えてきた。その売れ行きもよいらしい。しかし、研究論文に映像が載っているのは少ない。紙面の制約があるからであるが、もう一つの理由は、映像を並べると直感的にわかるが曖昧さがあり、印象的であっても、それだけでは論文になりにくいからである。写真集と研究論文の違いとを考えてみる。普通の人も理論的前提を持って生きている。考慮しながら映像を捉えなければならない。映像として捉える時に、すでに流通しているものの分析と、研究者が新たに映像を撮って分析していく。映像を消費し読み取る、消費者が創り出すのは、研究者も素人も同じように行っている。その両面で考えなければいけない。
まず、その社会において映像がやたらにある、それをどのように分析したらよいか。その代表が50ページに示されている。
カルチュアル・スタディーズ(Cultural Studies)は日本語に訳すと、文化研究となるが、特定の学問分野として成立しているものである。定義が難しく、カルチュアル・スタディーズの研究者だと名乗っている人もいれば、名乗っていない人もいるし、他の言葉を使っていたりもする。社会学、文学、歴史学、そのあたりの研究領域である。正確に言うと、いくつかの研究領域の境目に成立している学問分野である(吉見俊哉氏著『カルチュラル・ターン 文化の政治学へ』(人文書院))。文化的実践としてどういう文脈の中で出てくるのか、そこにどのような表象を巡る葛藤や衝突や闘争があるのか、また相互的影響関係があるのかなどについて述べられている。例えば、ポスターやCMを視聴者として見ている文脈があり、広告代理店の人が見る文脈もある。さまざまな複雑な関係の中にあり、資本主義の売り込みの中、資本の中にある権力という文脈がある。また、そういった権力に対抗していくものがあり、そういう複雑な相互的あり方を研究するのがカルチュラル・スタディーズである。
52ページには、記号論的コミュニケーションについて、メッセージを伝える人と受け止める人がいて、それを誤解して受け止めるという古典的なミスが起こることについて述べている。例えば、教師と生徒の関係の場合、受け止める方も生活背景を持って受け止めているという見方に変わってくる。例えば、スプラッター映画の中では登場人物が血を噴き出す場面があるが笑って観る人もいる。お化け屋敷に一人で入る人は少なくて、本当に怖がるようなふりをして面白がっていることもある。これらは受け止め側の問題である。受け止めたときにAがA’(ダッシュ)になるとか、視覚的なイメージによる独自のものなのである。映画『2001年宇宙の旅』は、ストーリーよりも映像のインパクトが大きい。また、フランス・ヌーベルバーグであるゴダールの映画『気狂いピエロ』は、映像的ショックを連続させた作品であった。イメージの中の文脈に対して受け止める側の外的コンテンツの問題がある。フランスの写真家であるドアノーは『横目』などの作品でパリの風景を撮った人である。街中で妻は正面の絵を見ているが、夫は見ているふりをして横目で他の裸婦の絵を見ている。パリ市民の生活を描いたものである。当時のドアノーの受け止め方と現代の人たちの受け止め方が違ってくる。夫婦の気持ちのずれを描いているが、現代人は面白さを読み取る。
哲学者のフーコーによれば、権力があらゆるところに浸透しており、特定の見方を強制している。言葉や映像によって一定の見方を強制されている。美人、イケメンというとらえ方もある切り取り方をして言っていることになる。イケメンの典型であるアイドルのイケメンや少女漫画に出てくるような美男美女が実在しているが、それらは写真などの特定の見方によって作られているとも言える。そういうことが広い意味での権力の問題なのである。そういう分野を数量的に扱っている研究者がいる。具体的には、内容分析をして、どういうのが多いのか分析している。美人の分析という研究分野があるが、19世紀から20世紀にかけて発展してきた。例えば、そのような研究では、ミスユニバースの女性たちの痩せ方が変わってきたことなどを明らかにしている。研究にはさまざまな特徴があり、写真の内容分析、体型分析などができる。あご髭、写真、ポスター、街の様子の写真を使った分析もできる。文化の中に持っていることについて調べる場合、例えば、1910年のインドでマトンチョップ髭やフルベアードが持つ意味と、現代のインドで髭の有無を調べるような研究である。顕在的内容と潜在的内容の分析方法があり、潜在的内容の分析では、この意味がどうであるといった隠れた意味みたいなものがあり、それをどう捉えるかという視点で分析する。他には、文化的パターンとしてどのように描かれているのか、絵葉書としてどのように切り取られているのかなどもある。東海道五十三次では、典型的な名所の切り取りがなされており、文化的なパターンに個人に従う。例えば、富士山を見に行くのに、歌川広重の浮世絵や横山大観の絵の中にある富士山を確認しに見に行くなどである。それだけなのかというのが問題で、もっとパーソナルに読み取るとか、社会的な関係の中で受け止めていく。こういう数量的な分析、文化的、パーソナルな受け止め方、それをどう捉えたらよいのか。
細かいやり取りを分析するのがエスノメソドロジーである。話し始める際に人は目を合わせる、顔を上げる、うなずくなどのしぐさをする。エスノメソドロジーでは、このようなやり取りを分析することができ、カメラを観察者の視点から撮ることができるようになってきた。幼稚園の先生の身体に小さいビデオカメラを装着して、保育者が何を見ているのかを分析したりしているが、さらに発展できるだろう。
66ページにあるリフレクシヴィティとは研究者の立ち位置のことを指している。映像自体の意味が成り立つかどうかは研究者がそれをどのように解釈するのか、観察対象の人たちとどう関係しているかによって変わってくる。そのようなことを研究者自身が自覚することが大事なのである。
イメージの物質性というのは、写真というものが、スマホの中に保存されたままなのか、他者との共有の場面に保存されたものなのか、または紙に印刷してどのように飾られているのかなどを考慮することである。欧米の人はよく、居間に家族写真を飾っているが、一般的な日本人は離れて生活している時に、配偶者の写真を居間に飾るかどうかというと、そこには文化的、社会的な違いがあるだろう。そういう家族写真や絵画をどういうところで飾るかを分析すると、伝統的な日本の家庭では、写真を飾るとは遺影や先祖の写真を飾っているのではないだろうか。泰西名画などの絵をどこに飾るかを考えてみると、 家庭に絵を飾る習慣がヨーロッパで出てきて、日本でも20世紀のある時期に印象派のルノアールなどの印刷された絵を飾るようになってきた。それはなぜか。どういう歴史的経緯で成立し、どう発展し、また変わっていくのだろうか。
4章「ビジュアルデータを用いた手法とフィールド調査」には、具体的にビジュアルデータを調査においてどのように使うかについて述べられている。特に、エスノグラフィーにおいてどのように使うかが述べられている。エスノグラフィーとは相手が暮らしている場に行って、日常的に関わりながら相手の暮らし方を調べる研究手法である。映像イメージを取り出したりもする。
79ページには、家族写真を研究にどのように使うかが解説されている。昔のフィルムが見つかった時に、それをどのように捉えるかというと、まず、どういう場面で撮ったのかという由来がある。また、撮られた後にばらばらに分散されてしまった場合がある。民族の写真の場合は世の中に流通するからばらばらになってしまう可能性がある。それを手に入れた調査者がそれを使う際に、写真を分析することはもちろん、インタビューをする際に記憶を喚起するのに写真を使うこともある。そのような写真の使い方をここでは考えようというものである。
映画やテレビというのは動く動画である、社会の中では、一般の人たちが動画を使っている場面を考えた時、その人たちが映画を撮影するということは少なくて、普通は映画を観たりテレビを観るということがメインである。映画やテレビを観る人を観察したり、映像を見せて感想や意見を尋ねる研究もある。映画経験の調査というものである。私(無藤)が子どもの頃、農村では、水遊びをしたりした後に、神社の境内で芝居をする村芝居というのを観たことがある。第二次世界大戦後には学校の校庭で映画を上映して回るというのがあった。それらはディズニー映画や教育映画であった。そのようなものを調べる歴史的研究というものがある。その場合に、見せる側の研究や、観る側がどのように観たのかという研究がある。テレビを視聴する様子を調べたエスノグラフィーの研究がある。テレビ視聴とは夕食後に家族で寛ぐ場面である。調査者が家庭のお茶の間に行って、メモや録音、録画をするというと嫌がられるだろう。日本で少しは研究があるもののそれほど多くない。そのため質問紙に頼ったものが多い。どのくらい真剣にテレビを観ているかを調査したとしても、他の家庭に当てはまるかわからない。家庭訪問調査では、テレビが一日中つけっぱなしの家というのがある。何となくテレビのスイッチを入れている場合がある。そのような家庭の状況はアンケート調査の中ではほぼ出てこない。なぜそのことが重要かというと、テレビの影響力がどの程度あるか分からないからである。テレビには影響力があると言えばあるし、どの程度真剣に観ているかとか、テレビ番組で紹介された物が売れるという意味では影響力はあるとも言える。たまにヒットするCMはあるが、英語圏の研究ではCMの影響力はそれほど高くないという結果が出ている。
テレビ番組を見せてそれをどのように受け止めているのかインタビューすると、番組制作者が思うようなイメージを受け取っているとは限らない。82ページには、エジプトの国家統一の理念を促進する教育番組が取り上げられているが、番組の目的とは異なり視聴者は普通の娯楽番組として観ていた。ソープオペラとは、1920年代にラジオの連続メロドラマが発祥である。ソープとは石鹸、主婦向け、安っぽいメロドラマのことである。送り手の意図と受け手の解釈がずれてしまうのは、受け手が自分の文脈で観るからであろう。テレビというのは視聴者がもっと能動的に意味を作り上げていく主体として観ている。一生懸命に考えてテレビを観ているときもあるし、ある時は家事をしながら画像付きラジオみたいな扱いで観ている時もある。テレビ番組の作りは、内容の要点を視聴者に教えるようにしているという特徴がある。字幕を出してポイントを示している。見逃しても話が想像がつくような作りになっている。テレビはゆるく作ってある。そういう見方をしている。だがまた、緩く観ているだけでなく能動的に観ている。かなりテレビに熱中して、そのドラマに入り込んで視聴する見方や、客観的に俳優の演技の批評をするような見方もある。そういう中にテレビがあるのである。テレビや写真にしても、現代生活にすでに組み入れられていて生活の文脈の中から取り出している。
86ページからは、写真誘発法について述べられており、研究者が写真を撮ったものをインタビューに使うなど融通の利く使い方が紹介されている。写真を用いて尋ねた場合、具体的な情報が出てくる。保育研究でも使われているが、保育中の子どもの姿を撮っておいて保育の後に保育者に細かいことを尋ねたりする。デジカメやタブレットでは、写真をプリントアウトしなくても画面上で見せることができる。リアリティがあるので具体的でポイントを得たインタビューができる。その一方で、自分が行動したことを撮った写真であれば思い起こせるが、自分以外のものの写真を見せられた時にはよく覚えていない場合もあったり、その捉え方は人によってさまざまである。写真誘発法は研究手法としては曖昧なところがある。写真の見方は多義的であり、よさもあるが難しさもある。ある一つの答え方をしたということがその人の何を意味しているのかよくわからない。その写真がどういう写真なのかどこから持ってきたかによって変わってくる。
88ページには、イタリアの人類学者であるチオッチは、多くの人が移住してきて急成長したトスカーナ地方のプラートの街の変化を調査するために、住人たちに当時の街並みの写真を見せてその変化を尋ねた。住人たちには街がどのように変化してきたのかを語ってもらう。写真の見方は人によって多様であるので、見方の多様性は調べることができるであろう。
89ページには、アメリカに住んでいるベトナム難民の話が紹介されている。カリフォルニアに住むベトナム人と中国系ベトナム人は、同じベトナム人といってもどこが違うのかを尋ねて、どのような基準で判断するのかを調べる。特定の民族に対するある種のステレオタイプがあり、フランス系はおしゃれではないかと判断している。写真を使うというのは有益だがうまくいかないこともある。
インドネシアのニッセンの研究では、地元の織物の伝統を消えてしまう前に記録するというものである。もう失われかけている織物を博物館のコレクションで写真を撮って村の人に見せたところ、織物の写真を見て、博物館に取られてしまったという怒りを示した人もいた。インタビューをすることによって織物について懐かしくポジティブに語ってくれることから正反対に離れてしまった。そういうことは当然あり得ることなので、逆に研究者と協力者との関係を新たに創り出すものでもある。
92ページには、映画誘発法が紹介されている。インタビューの際に特定の映画を見せて、その反応を調べる手法である。先ほどのエジプトのテレビ番組の例と同じように視聴者が理解して答えるとは限らず、自分が置かれている状況との関係が絡んでくる。94ページには、バリ島のジェロという霊媒師に彼を撮影した映画の映像を見せて意見を聞いたところ、ジェロは自分がクライエントを援助して治療しているという訳ではなく、自分は媒介者で神々や精霊に従ってやっているのだと答えた。映像の当事者が映像を見直したときに違う視点の意見を言うことがある。そこで何が起こったのかを見る内的ナラティブとその他に視聴するときの文脈がある。
96ページには、撮影する際には事前に練習するようにと書かれている。頑丈なのがよい、何でも記録するようにとも書いてある。撮影ではズームとかピントが甘くてもよいし下手でもいいからたくさん撮る、というのが研究的なやり方である。今はデジタルカメラのおかげでたくさん撮影できるようになってきた。そこで何を意味するのかは、内的ナラティブ、外的ナラティブなどさまざまにありうる。記録を取ることからその意味が客観的・一義的に成り立つとは限らない。
97ページには、1940年代にエクアドルでオタバロ・インディアンが原毛を織り上げる過程を写真に収めて、その写真を職工に見せたところ、もう一度撮ることを要望してきた。日常の様子ではなく、一種の織り方の見本写真みたいに思ったのではないだろうか。そうすると写真というものを、撮った時と見直した時との社会的な文脈の中で考えることが必要になってくる。撮る側と撮られる側とのコミュニケーションでもある。そうすると了解を得るためにもう一度協力者に戻すというやり取りが出てくる。普通のスナップ写真でも撮り直すことがあるが、大事な場面ならばもっとあるだろう。あり方のリアリティとはこういうものだということを示しているのだろう。動画や映画をどのように研究で使っていくか。さらに映像にコメントやナレーション、解説をつけると、映像としてそれを観てもらうことに加えて、ナレーションをつけて映像の見方を指示していることになる。例えば、保育場面の映像はたくさんあり、養成校の1年生などは子どもの姿を観て素直にかわいいという感想を持つだろうが、その映像に解説を入れる時には映像の見方を指示していることになる。もちろん他の見方もあり得る。映像や動画というのは自立的なものなのか、または言葉によるガイドが必要なのか。普通の映像にはそれほど過剰にナレーションは入れないが、教育映像の場合はむしろ過剰にナレーションが入ることが多い。最近ではナレーションや解説がDVDの別トラックに入っていてモードを変えることができ、解説なしで場面だけを観ることができる場合もある。なぜそうしているかというと特定の解説を入れてはいても別の解釈もあり得るからである。言葉があることが映像の意味を明確にするから必要であると考えるか否かというのは研究者によってさまざまなである。コメントをあまり入れず映像の中で理解していくものもあり、ドキュメント映像作家は映像で語ろうとしている。
101ページには、ランドストロムが日本の茶道における美的感受性を伝えるために『道』という映画を作った。映像イメージをして語らせるという手法を使っている。それは映画芸術の流れである。それに対して、教育、研究中心の人はナレーションを入れる。ドラマを作っても、「こういうつもりで言っているのです」とナレーションを入れる。カウンセラーとクライエントのやり取りのビデオでは、カウンセラーの言動を説明するためにナレーションが入っていたりする。いずれにしても、そういう映像を撮る場合に、ナレーション文章が中心で映像が添え物ならよいが、映像が中心であれば映像を解釈するためのヒントになるようなものを取り込んで撮影するべきであろう。建物や部屋などが映像に入り込んでいると、その人の生活が見えてくる。
103ページには協働的な研究として、研究協力者である相手にカメラを渡して撮ってもらったものを分析対象にするなどが紹介されている。写真を撮ろうとしたら、わざわざ綺麗な服に着替えて着たというのは、普段の日常生活を表したものではないにしても、他者に対する自己表現であるとも言える。ある程度豊かな人はこのような場合にわざわざ着替えないだろうが、貧しい生活者だと一張羅を着たいという自己表現があるかもしれない。協働的な研究として、協力者に近隣の写真を撮ってきてもらう。どういう場所が快適かを尋ねたり、パブリックアート彫刻の印象を語ってもらう。素敵だという人もいれば醜くていやという人もいて、さまざまな語りがあることに意味がある。ビジュアルデータを一緒に作りながら、それについて一緒に考えていくというのを丁寧にやるべきではないか。相手にカメラを渡して撮らせるというのは面白いがうまくいかないことが多い。なぜかというとカメラを撮るときに失敗してはいけないと緊張してしまうからである。一般の人には、歩きながら瞬時に撮るという習慣がない人の方が多い。そうすると一番面白いと思った瞬間を見逃してしまっている場合もあるだろう。なぜそれがいいと思うかを本人に語ってもらったり、一緒に歩きながら協力者が面白いと思ったシーンを研究者が代わりに撮ってあげるということもできるだろう。そもそもなぜ撮ったかは一緒にその場にいた方がその文脈が分かるからよい。
協働的であるとは、政治的なつながりでもあり、特定の映像を撮ることがその集団の利益になったり役立つようにしていこうとしている。協力者である相手がそういう風に考えることも、研究者がそういう風に考えることもある。イヌイットなどは放送局を作って自分たちの考える映像を撮ったりしている。研究例としては、112ページにアマゾンのカヤポ族が紹介されている。カヤポ族とはブラジル最大の先住民族であり、ブラジル政府との記録を使うなど色々やっている。ダム建設を巡って、羽で着飾った先住民たちをカヤポ族の人たちがビデオ撮影して、その映像を国際社会に流したところ反響があった。何が面白いかというと自分たちの踊りを自身で撮っていて自分たちの利益として撮っていることである。そのような協働性が大事だという話が述べられている。
映像の倫理性というのは難しい。映像では相手の匿名性を守ることができないからである。名前はAちゃんと匿名を使ってもどうしても顔が画面に出てしまう。顔の一部分を隠すことはできてもそれでは不自然になってしまう。基本的には本人か近い人が許可を得ていればよいとされている。困った事態になるかどうかが、115ページに紹介されている。ソフトポルノやハードコアポルノの雑誌の表紙を選んだら当事者の中には困る人もいるかもしれない。大勢を撮影したような映像の場合は、相手の文化をよく考えながらやるしかないだろう。
117ページには、映像の著作権の問題が述べられている。映像の著作権は撮った側にあるが、撮られた方にはないかというと必ずしもそうではない。今やデジタル写真になったのでそれを加工することができるが、どこまで加工することができるのか、どこまで加工すべきなのかが問題である。インスタグラムに映えるように、画像を変えるアプリがあるが、このようなフェイク写真はどこまで研究として許されるだろうか。撮られる側の立場から言うと、ニュース映像に出る際には切り取られてしまっているから、自分はそういうつもりで言った訳ではなかったということが出てくる。そこに研究倫理的な問題がある。そのため研究者と協力者がお互いに利益について事前によく話しておかなければならない。
5章「ビジュアルデータを用いた調査のプレゼンテーション」では、研究が一通り済んで学会で発表するとか、出版するとか協力者にフィードバックするなどのことについて述べられている。費用などを考える必要がある。さらに、映像イメージは多様な解釈を生む。これを多声的であると言う。つまり、色々な解釈可能性のことである。解釈可能性が多様にある時に、文章はある程度限定できるが、映像の場合、例えば、男と女が道端に立って親しげに話している様子を密会と解釈することもできる。このように映像の切り取り方によって解釈が変わるのである。他にも、食事のシーンを二人だけの場面に切り取ると親密に食事をしていたと解釈できるが、実際には近くに友人がいたということもある。そこでは、正答も誤答も安易には言えない。エスノグラフィーでアマゾンの奥地を見せた時に、受け手側はそこの原住民を原始的な人々と見るかもしれないし、高度な文化を持っている人々と見るかもしれない。映像というのは開かれている、つまり解釈可能性があり、緩やかなものである。その反対の用語は、閉じているとか特定の解釈しか与えられないものである。どちらが映像として素晴らしいかと決めることはできないが、閉じたものとしては大衆的なストーリーの中でいい人、悪い人というキャラクターがいて、いい人が勝つようなドラマが例としてあげられる。例えば、西部劇などでは、いい白人と悪い白人が登場人物としていて、悪いインディアンが攻めてきていい白人と戦うというようなストーリーである。視野が開かれてくると、アメリカインディアンはアメリカの先住民で、元々住んでいた場所に白人が後から入ってきたのだから、それは先住民は怒って当然だという解釈があるだろう。このような写真や映像を撮ってきたがどのように解釈してもいいというのはあるが、修士論文等でそのようにしていくのは難しい。
129ページには、ビジュアル・エスノグラフィック・ナラティブについて述べられている。現象学的様式では、その人の経験を時間順序でなく探索的に伝える。それに対して、物語り的様式は時間順序で伝えていく手法である。ストーリーとして理解してしまうので、ストーリーに似合うものであればよいが単一のストーリーでは理解されない場合もある。映像イメージにテキストをつけていく場合に、キャプションをつけて説明するということができる。もっと映像イメージに語らせるやり方や、両方を組み合わせるというやり方もある。想定する視聴者のイメージもある。より広い人たちに流すというやり方はテレビに多いが、保育の教材ビデオでは学生向けなど限定的である。どちらがよいかというのは難しい。みんなに観てほしいと思っていても、みんなに合っていないかもしれない。それによって教育的なものはナレーションをつけて特定の解釈をどうつけていくのかが難しいところである。映像を使うということはその豊かさを使うということ。ビデオ映像で発見を示すように作るのは非常に難しい。
137ページには、展覧会で村の昔の写真を並べて、村人の感想を尋ねることで情報を集めた研究が紹介されている。ビジュアルの返還としては、大英博物館に古代エジプトのものや古代ギリシャのものを安く買い取ったものが所蔵されている。誰の所有物かと考えてみると、ミロのビーナスは現在ルーブルに所蔵されているが、元々はギリシャのミロ島で作られ、映像は元があるのだから盗んだ訳ではないとしても、映像を相手に渡さないでいいかというと疑問が残る。デジタル技術の中でサイトを立ち上げて相手に観てもらうということもできる。デジタル技術が発達してきたことで、サイトで映像を安くできるようになってきた。その良さは大量に出せるものの、素人がやるのでいい加減なところがあり、どこまで本当かという保証がない。いずれそのうち論文も電子化されてサイトに載せるか配信していくことになるだろう。サイト上の論文に映像を入れるのは安上がりである。そういう方向に進んでいくだろう。マルチメディアとは、分析したものを分かりやすく加工し注釈などを組み合わせてメディア化したものであり、もっと観たいところをクリックすると解説が出てきたりする。何が良いかというと特定の解釈を強制しないという利点があり、別の解釈を生み出すこともできる。
147ページには、イメージを組織化していくこと、つまりイメージ映像を検索することについて述べられている。文字データは、キーワード、キーワードの連想語で容易に検索できる。NHKの資料映像はキーワードが入れてあり、検索できるようになっている。グーグル検索などでは画像ボタンがあり、検索結果に違う写真が出てくる時があるが、連想や関連で出てくるのだろう。いくつかキーワードを入れていくと世界中から近いものが検索されてくる。そのうちAIが出てきて判断してくれるようになるだろう。数年以内にそういう世界になると予想される。
6章「結論―イメージと社会調査」では、155ページに社会調査でビジュアルデータを用いる際に用いられる示差性(distinctiveness)と頑健性(robustness)の手法が紹介されている。示差性とは、視覚的方法ならではのやり方があるのかとうことである。人に見せる手法で、例えば、住まいの配置、家のとらえ方、映像的に分析したものを住人同士で見るところにある視覚的手法である。それに対して、頑健性とは、特定の解釈に対して映像がその証拠と確かになり得ることである。だが、映像は他の解釈があるということを考える多声的で多義的な特徴を持ち、必ずしも頑健的とは言えない。
それらに対して映像は常に唯一性という特性を持つ。唯一性とは、例えば、大学院の授業の様子を撮影したとして、それは特定の日の特定の人たちの特定の教師のそのときの様子なので一般の大学院の授業を表すわけではない。そういう意味で一般化はできない。ビジュアルデータは一般化せず、唯一性、独自性を大事にした方がよい。多様なさまざまな解釈多重性を持っている。それによって良い面があるので、きめ細やかに生活を捉え、具体的に捉えることができる。政治や社会は、それぞれ個別の事象であるため、ビジュアル的な手法で、そこを切り取ることにより、その事象を個別のこととして具体的に考える事が出来る。ビジュアル的な手法は、そのような良さがある。その反面、映像には文脈の特殊性があり個人的な文脈によっているため限界がある。そのため、どう活かすかがビジュアルデータの大事なところである。
(執筆:無藤隆,2018年5月28日・6月4日)
(まとめ:白川佳子・和田美香)