第11回目の講義では、第15章"Narrative inquiry: conducting research in early childhood / D. J. Clandinin, J. Huber, J. Menon, M. S. Murphy & C. Swanson"を参考にしながら、幼児期研究におけるナラティブな研究手法について論じる。
ナラティブ・インクワイアリー(narrative inquiry)のナラティブは、語り、物語と訳すことがあるが、storyを物語と訳すことが多いので、この場合は「語り」と訳してもよいかもしれない。インクワイアリーは、尋ねる、質問するという意味があり、探究と訳すことができる。インタビューする時に、その相手の経験を再構成してまとめることを指している。この考えはもう少し広く、子どものやり取りを分析することも含めている。ナラティブ・インクワイアリーは、通常、インタビューという手法を用いて、ひとりの人の語ることを分析することである。やり取りを分析してもよいが、やり取りの細かいことよりも、そこでの経験の語りの分析である。質的研究の中で最も代表的なやり方であるとされている。ナラティブという言葉自体は、ナラティブ(ヴ)というカタカナでそのまま用いられたり、色々な意味で使われている。ナラティブ・アナリシス、つまりナラティブ分析という使い方もある。その人の語り方や語っていることを通してその人の経験を記述する。色々あるが、ナラティブ・インクワイアリーについては、狭い範囲において特定の意味を持たせている。本章では、質的研究のさまざまなやり方には立ち入って説明してはいない。前回の講義では、エスノグラフィー、今回は、ナラティブ、次回は会話分析を扱うが、これらは質的研究法の3つの手法な研究法である。保育Labに、昨年の講義を掲載しているがナラティブに関するものもあるので参照を薦める。
https://sites.google.com/site/hoikulab/home/studyandresearch/readarticles/tokigatari/12
ナラティブ・インクワイアリーでは、色々なエビソードや事例をそのままあげて分析する。日本では、エピソード分析・記述、エピソード記録などという用語があるが、英語圏では同様の用語はなく、一番近いものがナラティブ・インクワイアリーであろう。色々な研究者がいてそれぞれの立場がある。本章の著者であるClandininはこの分野の代表者であるが、分析方法としてはあまり組織的ではなく、方法論としては緩やかなものである。
ナラティブ・インクワイアリーは人々の経験を取り出して分析するが、物語られるストーリー化された現象として考える。では、ストーリーとしてその人たちが経験することを捉えるとはどういうことなのか。それについて考えてみると、ナラティブをストーリーと言い換えてもよくわからない。小説や物語は、ストーリーであるが、最小限の要素は、一つは主人公がいる、二つ目は始まりと終わりがあるということ。三つ目は、主人公が始まりと終わりの間で何らかの意味のある経験をするということ。そうすると、ナラティブ・インクワイアリーとは、誰かが何かを始める、何かを意味のある経験をして、どこかで終わる。それをストーリーと言っている。経験として捉えるとは、当たり前に聞こえるかもしれないが、必ずしも当たり前のことではない。今、話が聞こえてくるというのは一つの経験である。経験と呼んでもいいが、ストーリーと言うときはその経験を超えている。経験を語るということは、例えば、今、大学院の学生として講師の講義を聴きに聞きに来ていて、こういうテーマについて学ぶ、ということを語る。経験がある形で整理されている。そういうものをストーリーと呼んでいる。ナラティブ・インクワイアリーの考えは、経験をストーリーとして取り出すことである。なぜそういうことをするかというと、人間というものは多くの場合に経験をストーリーとして経験していると想定しているのである。それは当たり前ではない。例えば、生後2ヶ月の赤ちゃんはそういう経験はしていない。何歳からそういう経験をするかはよく分かっていない部分があるが、通常、2歳、3歳、4歳くらいであろう。
経験というのは形の中で経験されるし、その形の中で当人が語ることができる。ストーリーというのは、あなたの半生を語ってくださいと尋ね、どういう人でと語ってもらうこともできる。あるいは、授業に出席していたようですが授業はどうでしたかと尋ねて語ってもらうこともできる。経験時間の長短ではなく、経験をまとめ直して、ストーリーとして語ること。多くの意味ある経験というのはそういう形で語られると捉えている。それは、ナラティブの研究者はそういう風に経験を捉える。そのようなストーリーを取り出し、本人が語ることはどういう意味合いがあるのかを検討する必要がある。
ということで本題に入るが、テキストの242ページでは、ナラティブ・インクワイアリーの方法論を以下の8つのポイントにまとめている。
1.語ること(telling)、生きること(living)、語り直すこと(retelling)、生き直すこと(reliving)。
ストーリーを語ることと只今現在ストーリーを生きることの両方を捉える。語るときにストーリーという形をとる。ストーリーという形を使って生きている。現在、以前あったことを振り返るというのは。語り直す、生き直すことになる。それは研究者が行うことである。その人は語り、ストーリーを生きる。そして、研究者が再構成してストーリーとして記述する。その人が語ったものをストーリーとして記述しつつ再構成すること。あたかも研究者が想像的にその経験を生きるとすれば生き直す(reliving)ということになる。ナラティブ・インクワイアリーとは、時間(temporality)、場所(place)、社会的関係(sociality)という三次元的な空間の中で行われる。社会的な関係とは、自分と他者との社会的関係のことである。自分を語る際に、「大学教師として生きてきました。」と言う場合、大学という場所だけでは弱い。昭和○年に生まれて、どこで育って、どういう家族や友人がいてという小説のような語りが望ましい。このように、物語にはきわめて特定された時間と場所がある。それは、当たり前ではなく、必ず人は明示して語るわけでもない。
2.出発点は調査する相手の人が語ることと生きること。研究者が語り直すことによって再構成される。
3.ストーリーを語るときの意義(justification)。論文に書いた際に、それを読む側からすると、「だから(so what?)」「誰が関心を持つの?(who cares?)」と言いたくなる。意義には、個人的な意義(personal justification)、実際的な意義(practical justification)社会的・理論的な意義(social and theoretical justification)の三種類がある。実践的な意義は、実際に役立つことや実践のやり方がどのように変わり得るのかに焦点を当てたものである。例えば、幼稚園で鼓笛隊をすることの子どもにとっての意義は何なのかを子どもに尋ねてみると、親が観に来てくれて嬉しいということがあるかもしれない。数十人に一人くらいが鼓笛隊は嫌だと答える。それは、楽器を吹いているふりをさせられるとか、一人だけ歌わないようにさせられるから。そういうのがあった時にそういうことをしていいのかを考える。そうすることで、実践のやり方を変えるかもしれない。幼稚園で9月に運動会をやるのに5月から練習をする。運動会で盛り上がるから終わった時に子どもは楽しいと答えるが、その練習の途中で尋ねたとしたらどうだろうか。丁寧に尋ねていって生きる経験を再構成しなければならない。保護者の知らない保育現場のいわば裏側では保育者が子どもを厳しく叱責していることもあるかもしれない。それを取り出すことによって実践を変えるポイントにもなる。社会的/理論的な意義とは、学問的な研究のことである。幼稚園の行事の研究などが例として考えらえる。比較的少数の人に尋ねることが多いが、一個一個詳しく尋ねる。何人の経験が何の意味があるのかと尋ねたら答えなければいけない。
4.研究の問い(research questions)から研究のなぞ(research puzzles)へ。
研究の問いは、リサーチ・クエスチョンとカタカナのまま使わることもある。研究のなぞとは、不思議だなあと思われることを指す。リサーチを英語で見てみると、re-searchと二文節に分けられる。再び探すこと、何度もやっていくことである。著者はリサーチ・パズルと呼んでいる。パズルは、本章の著者独自の言い方である。リサーチ・クエスチョンをどこかで立てて研究するという研究が多いが、著者はなぞやインクワイアリーを生きて、なぞを探求することが大事だと述べている。解答がどこかで見出され、提示される問題がクエスチョンで、パズルは探求し続けるという意味合いがある。明快な答えがなく、探求し続けることで論文になるという考えである。
5.生きられる人生のまっただ中(the midst)に入りこむ。
調査対象者になる人は経験のただ中にいる。経験の外には出ない。過去の経験を語るということは経験を生き直すということ。研究者と対象者の関係を経験している。常に経験であり、経験の中にいる。研究者は調査対象者の経験の中に入り込むことで経験を捉えることができる。入り込むことには終わりがない。常に中にいる。論文の形をつける、ストーリーには始めと終わりがある。ストーリー化した経験を取り上げるが、それは物語に考えると王子様と王女様はめでたく結婚をして幸せに暮らしましたというお話であるが、それはまだ続いているということである。シンデレラ、白雪姫、眠り姫などのおとぎ話は、王子が来てキスして幸せになったというストーリーだが、現実生活のストーリーではうまくいくはずはない。経験は続いていき、すっきりした始まりも終わりもない。自分の人生を語る際に、次に語るときはその続きを語るのである。
6.フィールドからフィールド・テキスト(field texts)へ。
研究の手順のことを述べている。語ってもらう人がいる場はフィールド(現場)である。幼稚園、家庭、インタビューの場面、特定の場面がある。そこで、フィールド・テキストとは、インタビューした記録のことであり、あるところに入り込んで色々な記録を収集する。フィールドからフィールド・テキストとなる。エスノグラフィーが典型的であるが、浸りこんで観察や記録を収集することを指す。
7.フィールド・テキストから最終の研究テキストへ。
フィールド・テキストを研究側の研究テキスト、最終の研究テキスト、発表されるもの、論文に書かれるものに移していく。研究者として理解する範囲においてまとめたものが研究テキストである。最終研究テキストは世の中に公表されるということを前提としており、一定の書き方や枚数の制限のもとで書かれる。研究の意義は、最終研究テキスト段階では明記しなければならない。自動的に進むわけではなく、スパイラルのようにぐるぐると回っている。完成のデータというものはなく、キリがない。フィールド・テキストも膨大にあり、再定義しなければいけない。縮めたり再構成したりし、やりかけては戻りしながら最終にたどり着くのである。
8.倫理的配慮。
研究に参加してもらった人へ倫理的配慮をしなければいけない。研究倫理委員会を通すというだけではなく、相手を匿名化していくことが求められる。しかしながら、それだけの問題ではなく、テキストを作っていく過程の中で、相手の経験を取り出す際に、本人に見てもらう時に、本当のことかどうかを確認してもらったり、公表してもらっては困るということもあるだろう。そのような相手との関係において成り立つ倫理のことを、関係倫理(relational ethics)とか、関係的責任(relational responsibilities)などという。相手との関係において相手の意図や経験を尊重する姿勢が大事である。
次に、この方法でデータを収集した文献から主要な最近の傾向を以下の8つにまとめたものを紹介する。
1.探求は常にそのただ中にある。認識論的な関与と存在論的な関与。
経験を取り出すことは一つの特徴的な立場になる。常に進行形で語る。
2.視覚的領域。
動画や写真を用いたり、子ども自身に写真を撮ってもらったり絵を描いてもらうなどのやり方を用いる。例えば、ある園では5歳児くらいに絵を描かせる。遠足の思い出をサインペンで描いた簡単な絵を使って子どもが語る。「動物園にライオンがいたよ。」と子どもが説明したものを保育者が書き取って記録する。絵は形良くするとか、色をつけるとかしないで、サインペンで簡単に描いてもらう。絵の中には、バスとライオンが図式的に描かれていたりする。ナラティブ・インクワイアリーとしてとても良いやり方ではないだろうか。
3.子どもと共にやっていく。
子どもと一緒になって研究テキストを作っていく。運動会や遠足などの絵を子どもに描いてもらったり、写真を子どもに撮ってもらい、どうして面白いのかを子どもに説明させる。そして、子どもと一緒にテキストを書く。最終的な研究テキストまで子どもができるわけではないが、あるレベルまで一緒にやる。
4.複数視点のナラティブ・インクワイアリー
子どもの視点と父親の視点、母親の視点、それぞれの視点が違うので、それぞれのあり方を知ることができる。みんなで歌を歌う、みんなで合奏をする中に、複数の視点がある。運動会の経験やリレーの経験において勝敗をつけてやっていると、途中でなんとなくやっている子どもと必死でやっている子どもの視点は違ってくるだろう。ある学年以降になると、運動会の練習で自分がかっこいいと思って走っている子どもと辛いと思って走っている子どもとがいる。それは、集合的経験であるが、それぞれ経験している視点が違う。それぞれのストーリーがあり、どれが一番正しいというストーリーではない。いくつかのストーリーが並行している。一人の主人公が語られるのは一つのストーリーラインである。複数の視点でいくつかのストーリーを並行的に語るのは複雑で手間がかかるが、最近ではそういう研究も出てきている。
5.子どものアイデンティティ形成。
アイデンティティとは、自分とは何かということを指す。例えば、子どもが走って一番だと言っている。運動会で一番になったという自分を語っている。そこに、自己の語り方がある。それは、自分は運動ができて、クラスで一番足が速いなど、そういう子どもなりの経験の整理がなされる。中高生になるとサッカーをやっていて、運動が得意で、勉強はそこそこできると語れるようになる。それは、ストーリー化されてはいない。一方で、具体的レベルで、強いサッカー部に入り、競争は大変だけど、何人かの先輩にあこがれながら頑張っている。そのストーリーの中に、自分のあり方が現れる。あるいは、幼稚園で、5歳くらいの女の子が、5,6人で音楽をかけて踊る。そのときに一人だけ飛び抜けて上手な子がいて、猛烈に真剣にやっている。アイドルを目指しているのだろうか。そういう種類の分析ができるだろう。
6.制度的文脈(institutional contexts)の外にいる子どもを研究する。
研究の多くが制度的文脈の中で起きている。制度的文脈とは、小学校、幼稚園、保育所などのことを指すが、そこには子どもが集まっていて、そこ独自のやり方がある。研究者が研究をするために入るのは許可される場であろう。しかしながら、家庭や地域に入り込んで研究するのは難しいが、そういうところに挑戦していくのは大事である。その家庭において、父親や母親にインタビューや観察をする。例えば、夕食場面や絵本の読み聞かせ場面を観察する。絵本を家庭の中でどう読むかという時に、家庭では多くが寝る前に読んでいる。寝る前の絵本の読み方を分析するのは大変である。アンケートをとっても本当に正確なデータは得られないだろう。絵本を子どもに読んであげる際に、子どもがどういう風に聞いているか。絵本以外のやり取りがあるか。同じ絵本を子どもが何度もせがむなどがあるか。ある研究では録音してもらって、知り合いにお願いするケースがある。他に、子どもと親がどう遊んでいるかを調べる場合、親密場面としては、夕食、入浴、寝る前などがあり、それを調べた研究は探せばある。例えば、父親と1歳、2歳の子どもが一緒にお風呂に入る場合、そこで何らかの親子の会話があるだろう。自分の経験では分かるが、一般的にはどうしているのか。録音させてほしいと言ってどれくらいが許容してもらえるかは分からない。データをとったあげくに、指導教員から「だから?」と言われかねない。地域というのは、子どもたちが集まるところで何をしているか。子どもが通学している時に何を話しているのか、楽しそうな時やつまらなさそうにしている時について調べた研究はないだろう。公園に集まっているとき、ゲームセンター、コンビニ、そういう時に何を話しているのか。小学生が塾に行っている時に楽しみな子どももいるが、それは、勉強だけでなく友達とお話ができて楽しいという子どももいる。子どもたちの経験の中で、公式の制度上の中では調べられているが、それ以外の場はあまり調べられていない。しかしながら、最近、それに挑戦する研究が増えてきたということが述べられている。
7.子どもにナラティブ・インクワイアリーの手法を用いて語ってもらう。
子ども(0歳から8歳)にさまざまなことを語ってもらう工夫をする。例えば、幼児にインタビューをする。小学1年生の子どもに家族にインタビューをしてきてもらう。日本では、小学校3、4年生の総合的な学習の宿題で、親に尋ねる宿題がある。他には、子どもが経験を語れない場合、親と一緒に語ってもらう。それは、純粋な子どもの経験ではないが親子の共同の経験となるだろう。
8.子どもと家族の関係的なあり方
親に共同研究者になってもらったりデータを集めてもらう。これは、昔からあるタイプの研究である。例えば、きょうだい喧嘩を親に記録してもらう。他の人を手伝うところを記録してもらう。または、録音してもらう。小さい1、2、3歳くらいが歌を歌う際に、親と子で歌を作るのを録音してもらう。1、2歳はでたらめな歌を歌ったりする。これは、幼稚園や保育園などの集団保育の場では捉えにくいため。家庭のくつろぐ場で調べる。その際に、親が共同研究者的な役割をすることになる。
最後に、教育場面の研究とそれ以外の見方との対比をしている。一つは、教育的に捉えるということに、子どもが未熟であるとか子どもに足りないことが多いので教育するという見方がある。しかし、それはしつけるという発想が強いので、それで果たしていいのかという捉え方がある。二つ目に、我々の文化の中では特定の語り方をしていくのだが、特に子どもはちゃんと語れないとか自分の経験を言えないという思い込みがある。その思い込みが間違っているわけではないが、子どもは自分のことを少しは言うことができる。三つ目は、子どもに流通している子どもの捉え方で子どもを語ってしまうという見方がある。例えば、子どもは幸せな時期であるという捉え方がある。子どもは悩んでいるかというとそれは分からないが、子どもでも心配事はあるだろう。赤ちゃんは笑うだけでなく泣いたりしているのだから苦痛も感じるだろう。それを見ていこうというのである。教育場面だけを見ていくと、正しい特定の見方に巻き込まれてしまうが、それ以外の見方も成り立つのである。教育的な文脈だけで生きているわけではなく学校以外でも生きている。幼稚園も中でも狭い意味の教育以外の経験以外もしているかもしれない。
デューイ(1983)の教育の意味を考えてみようと述べられている。デューイによると、教育としての経験、経験としての教育を理解しなければいけないというのである。経験とは場における時間、空間におけるあり方を指している。それを尊重していくならば、狭い意味の教育的見方でない経験をしているのかもしれない。それをもっと見ていこうということが書かれている。
本章の内容は、著者の考えに少し寄り過ぎたところはあるが、上手にまとめられてはいるだろう。
(執筆:無藤隆,2017年6月26日)
(まとめ:白川佳子)