第4回の講義では、第8章"Theoriziing young children's spaces / Lesley Anne Gallacher"を参考にしながら、幼児の生活と遊びの空間について論じる。第8章の標題を訳すと、「幼児の空間の理論化」となる。子どもと言っても年齢はさまざまであるが、ここでは8歳くらいまでをさす。
中学生・高校生にになると違ってくるが、子どもが過ごす場所というのは大きな制限を受ける。特に、乳幼児(ここでは8歳くらいまで)というのは強い制限を受けるというのを、本章では扱っている。現代社会、産業社会では、小さい子どもは家の中、公園、遊園地、幼稚園、保育園の中にいる。先進国などでは、厳しい制約の中に子どもは存在する。欧米では、街中で遊び回っている子どもというのは中流階級では少ない。アメリカ、北欧、西ヨーロッパでは、幼児が、幼稚園、保育園、公園、家庭以外の親の監督がない場所にいることは少ない。もちろん近年の日本も同じである。親や保育者と一緒でない時間というのは少ない。団地の庭など親がそばにいるような安全な場所で少人数のグループで遊ぶというのはあるとは思うが、親の監督なしに街中をうろうろしているというのはここ2、30年のうちに見られなくなった。もちろん、日本でも地域により、また家庭により、例外はあるのかもしれない。
大人の監督がいないときに子どもだけで遊ぶというのが見られなくなってきたのは近代的な現象である。文化的、歴史的に特殊である。とはいえ、例えば、小さい100名くらいの集落では、人数が少ないので絶えず大人の目があるため、子どもだけでどこかに行ってしまうことはないだろう。子どもだけでうろうろしているのはむしろ近代的、都市的現象であるのかもしれない。それに対して19世紀あたりから徐々にとりわけ20世紀後半になり、子どもの扱いが強く制限されるということになったようだ。子どもを放っておいたら、子どもたちが自然に自分たちに制約を与えてしまうというのではなく、大人が制約を与えている。欧米の中流家庭では、家庭では子どもは子ども部屋に入れられる。大人の部屋に入らない、キッチンに入らないなどの制限がある。そういう制限という中で小さい子どもたちは生きているが、それは人類の普遍という意味での当たり前のことではない。
小さい子どもたちのために空間を作るということは、近代的な習慣である。19世紀半ばに幼稚園ができた。それまでも幼児が集まる場はあったであろうが、幼稚園は原則としては柵があり外部者は入れない構造になっている。そのことにより安全性が保たれており、家庭にも同じことが言える。農村地帯では、柵がなくて外部との境がない地域もあるだろうが、近代社会においては外部との境が作られるようになってきた。子どもにその場所にいるようにさせているだけでなく適切な遊び方をも決めている。20世紀以降で言うと、子ども専用の場所を作り、そこでは適切な振る舞い方、してはいけないことが決まっている。幼稚園や保育園で子どもが柵の外に出てしまうことは大変問題であるが、たまに入園したての子どもが外に出て家に帰ってしまうことがあるが、大問題になりかねない。安全であるということと共に適切な振る舞い方が問題になる。それは、小さい子ども自身、子ども同士、管理的体制のために必要なものである。例えば、砂場遊びの時に相手に砂を投げたら危険であるし、怪我をすれば賠償金なども発生してしまう。もう一つは、教育的な意味というものがある。幼稚園、保育園というのは周りへの安全というだけでなく、教育的なしつけや物の適切な取り扱い方を指示している。
最近は、ブランコが危険だというので園の設備から取り外されるようになってきた。ジャングルジム、滑り台についても、怪我をするなど危険なことが起こる。滑り台では、逆にのぼったり、立って滑ったりすると危ない。教育的なねらいとしては、運動のやり方や運動センスを養うことであるが、そのために役立つ利用の仕方が規定されている。ブランコで立ちこぎを許してよいのか、振動を利用してブランコから飛ぶのを奨励してよいのかどうか。積み木遊びの際においても、人に向けて投げてはいけないとか、積んでいた物が崩れて危険なことがある。そのため、ある範囲のやり方を指導するのである。安全のためと同時に子どもが学んで育っていくということで説明できる。幼稚園や保育園はそういう学びの場である。公園もある程度は同じである。家庭については、地域差、階層差などがある。中流階層以上だと家庭の中を教育的に整えているだろう。某雑誌において、頭がいい子が育つ子ども部屋特集などがある。こういう部屋にしてここに机を置くと頭のいい子どもが育つなどと書いてある。おそらくそう確実に育てられるというデータはないとは思うが、「良き親」というのはそういうことを考えるものである。
その際、無理矢理言うことを聞かせてやらせるのはよくない。見本を示してやってくれるといいということはある。フーコーの「生政治」における「統治性(govermentality)」とは、よい振る舞いというのをいちいち細かく言うというのではなく、本人が自分のものとして内化して自然に従っていることを指している。例えば、近代国家における振る舞いを子どもが大人になって身につけていくのかということについて述べている。学校というのは19世紀半ばから始まり、学問だけでなく、時間を守るとか早寝早起きということも目的の一つとしている。時間割があったり、学校が始まる時間が決まっていることなどは、子どもにとってはサラリーマン的あるいは工場労働者的あるいは官僚的訓練を受けていることになる。ある種の規律である。学校とは、そういうものを身につける場である。それは当たり前のことではない。だいぶ以前には発展途上国に工場を建設する場合に、被雇用者が一定の時間に来るという習慣がなかったり、給与を預金するという習慣がない場合があると言う。そのため、給料を一括してもらうと、しばらく無断で勝手に休んだりもする。統治性は、支配されやすいように、会社的、官僚的社会に適応しやすい子どもを育てるためでもある。この概念を広げて、Fendler, L.(2001)は、「発達性(developmentality)」と言っている。人々は子どもがよく育つようにということを考えて実践をしている。なお、日本でも同様の分析はある。発達性を強く言いすぎると、それに対して色々な子どもがいるという批判がある。発達性を強調しすぎると、よい実践に従えない子どもを排除することになるという批判である。従えない子どもには言い聞かせたり、それでも従わなければ退園してもらったりすることもある。公園のルールを守れない人は使わないでくださいというのはある。子どもの幸せをもっと考えなければというものも出てくる。そこのバランスが重要になる。
とはいえ、幼稚園は進学塾ではない。将来の準備機関というだけではないと誰しも考えている。いずれにしても、小さい子どもというのを考えた時には、小さい子どものための場を考えるというのが一つの立場である。ここではそれを「小さい子どものための空間(spaces for young children)」と呼んでいる。そのような空間は、社会において主流の人たちや教育をしている人たちが決めている。それに対して、「小さい子ども自身の空間(young children's spaces)」とは、子どもが作り出す空間という意味である。子どものための空間ではなく子ども自身の空間を作っていこうという立場がある。何を意味しているかというと、特定の空間に子どもがいなければいけないという制限をどう外せるかを考えること。実際、制限を外すのは難しい。小さい子どもを夜中まで放り出していいとはだれも思ってはいない。子どもの過ごす空間をどう広げていくかは一つの課題である。一部の人が、子どもが道で遊べるようにしようとかマンションの中庭で遊べるようにしようとかいう動きもある。確かに数十年前なら道でも遊んでいたが、たぶん今さら作るのは困難である。冒険広場を作る人たちもいる。または、公園の自由度を広げようという考えがある。幼稚園や保育園の課題でもあるが、木登りをどこまで認めるかは園長の覚悟を必要とする。子どもが怪我をする場合があるので、管理の問題としては難しい。許容された空間をどう広げていくか。そのときに、例えば、滑り台のルールといった些細なところでも微妙な問題がある。下から登って子ども同士がぶつかって事故になることはゼロではない。怪我をしないように順番に滑り台の階段を上がることをしつけていくことも必要なのかもしれない。
子ども自身の空間を作ることはややこしい問題がある。危険と安全について考え、例え安全だとしてもこういう問題は残る。例えば、幼稚園での例を挙げると、時代とともにフレーベル積み木が自由に遊べる積み木に変わっていった。19世紀くらいから世界的にフレーベル積み木を恩物としてそのまま使うことが少なくなってきた。当初は、恩物の使い方が厳しく決められていて、勝手に変えてはいけなかった。問題はしつけやルールはゼロにできないが、多少幅を広げることは考えられる。先ほど言った空間というのを考えた時に、子どものために与えられた空間があって適当な遊具があって、使い方が規定されているというのは一つのやり方としては存在する。子ども自身の創意を認めて子ども自身が空間を作っていくという考えがある。空間を用意し、その中に子どもが、大型積み木や巧技台などを子どもがある程度作って組み合わせて色々な遊びをする。そこで誰と遊ぶのかという人間関係も子どもが決める。先生は先生として遊びに関わるので、その空間に外部から許可もなしにいきなり小学生がやってきたりはしない。さらに、社会的関係の中で子どもたちが作り出していく。例えば、4人の子どもが遊んでいて、子どもたちの人間関係の中で遊び相手が構成されていく。そこで生まれてくる子どもたちの活動、子どもたちの実践、というものはそういう関係の中で人間関係や物のあり方の中で構成される。無限に自由ということはなく、よその人は入ってこないのではあっても、そこに子どもたちなりの自主的な構成的活動が出てくる。
別な例を挙げると、部屋の中で使っている積み木を園庭の砂場に持っていくのはよいのかということが問題になることがある。砂場で積み木を使えば、すぐに傷んでしまう。逆に園庭の砂場の砂を室内に持って入ってよいかという問題もある。そこにはある程度制約が存在する。子どもの発想だけで事が進むのではなく、そこには葛藤があり、大人の監督責任や、予算的制約がある。子どものイニシアティブを生かしたいというのもある。そのような許容範囲があり、先生が見ていないところまでのことは強制しきれないということもある。観察者がそばにいても、保育者と違って、注意しないだろうと子どもは思っているから、観察者が見ていても子どもは相手の子どもを叩いたりするかもしれない。保育者が知らないところではさまざまな問題が「非公式活動」として隠れていて、大人の都合や子どもの都合が存在するのである。
ピーター・モスは、「子どもの空間(children's spaces)」 を重視している。モスは、将来への準備教育が中心となるものを「子どものサービスモデル(children’s services model)」という言葉を使っている。子どもが将来役立つことを重視する立場である。それに対して、子どもの空間モデルでは、子どもたちが集う場所という意味合いで、広場(public forum)という言葉も用いている。異質な人々が集まる場所では、多様な関係があり、その中で子どもが育つ。モスは、単に、子どもが今幸せでなければいけないと当たり前のことを言っているのではない。モスは、子どものサービスモデルでは、将来のことを考えたときにその路線の準備教育にうまく乗っかれる子どもとそうでない子どもがいるというのを取り上げ、それが社会に差別と分断を再生産することにつながることを問題としている。森の幼稚園に対して、街の保育園という言葉がある。色々な人がいる街にある園という意味で使われている。そう考えてみた時に、二つのモデルは強く対比され、大人側の都合で決められていることへの批判が出てくる。今の子どものあり方とか、今の子どもたちの多様なあり方を保証し、子どもたちがやりたいということをどう認めていくか。
本章の著者であるGallacherは、両者は矛盾し葛藤していて両面があり、大人の都合なしの空間はないと述べている。その上で、第三の立場として、空間としての物理的な条件を強く言っている。子ども自身と回りの大人・子どもとの社会的関係、そしてモノがそこにある。物質としての物がある。幼児の場合に遊具。物としての遊具、物の存在が重要である。日本では、環境を通しての教育が大事だとし、環境には物的環境と人的環境があるとしている。
場を捉えるための2つの見方がある。それは、「建物、建築(building)」と「住まい、暮らし(dwelling)」である。使い方や暮らし方を込みにしたものがdwellingである。建物に制約されているが、建物によって一義的に決まるわけではない。住まい方が建築家の想定を超える場合もある。建築雑誌を見ると、きれいな状況の室内写真が掲載されているが、実際の暮らしというのは、モデルルームの写真のように綺麗なものはない。それが住まいである。園でも、子どもは物を自分の都合のよいように並べたり使ったりする。講義で使っている教室を保育室にした場合、机や椅子は平行に整然とは並べないだろう。人が暮らすことによって、その物の使い方を超えていく。人間というものは環境の中に存在しており、具体的な物質としての物があり、人間の身体との間に社会関係がある。物と身体との関係を扱うのはアフォーダンスという概念がある。歩行器を使うと、歩き出すパターンが変わり、ハイハイやつかまり立ちが少なくなる。靴をはき始めると歩き方が変わる。歩くということ一つとっても、全く何もない空間を歩くことが、歩くことの代表ではない。何もない平らな空間を歩くというのは特殊な環境である。街を歩くと自転車が走っていたり、環境との相互作用が起こる。環境との関係の中で決まってくるものである。例えば、保育園で乳児の突然死を防ぐために仰向け寝が推奨されているが、転がるとかハイハイが遅れるというデータもあるので、意図的に起きているときに腹ばいになる時間を作ることが必要であるという考え方もある。
最後に、本章では物の働きをめぐって、「物の力(thing power)」について取り上げている。滑り台を滑るということは滑り台が主体と言えないわけではない。物はその使い方を規定していき、人間の身体の仕組みはそれに対応できるようになっている。人間や二足歩行が出来る霊長類の場合は、身体の作りによって、滑り台をお尻で滑るということができる。生物学的な可能性、物質的な可能性、その混ぜ合わせの中で生きている。物を使って、空間の中で、物の使い方が巧みになって生きている。主体性が育つとは何か。主体性が先にあり、物に対峙して、主体性は、物にも人にもあり、主体性というものがどのように生まれ育っていくかをみていかなければいけない。子どもが大人になっていく姿をみていかなければいけない。フーコーの指摘のように、従属すること(subjection)は主体的になること(subjectification)でもある。「主体、主観」と同時にそこにかさなることで「支配される」という関係がある。例えば、滑り台を滑るとは、自在に滑り台を滑るという子どもの主体性の発揮と同時に、滑り台が要求している滑り方に従っており、いわばモノの主体性に従属するという二重の関係がある。子どもの空間には、「物」「身体」「社会関係」の三者の相互的な構築的関係が存在するということを本章では扱っているのである。
(執筆:無藤隆,2017年5月8日)
(まとめ:白川佳子)