第14回の講義では、第18章"Understanding complexity in play through interpretivist research / Elizabeth Wood"を参考にしながら、遊びの解釈的研究について論じる。本章の標題を訳すと、解釈主義的な研究を通して遊びの複雑さを理解することとなる。
本日は、遊びに対する解釈主義的アプローチについて述べるが、解釈主義的アプローチは質的研究の中でも研究者と当事者の主観を重ねていくことを大事にする研究法である。その中でも遊びに焦点を当てたものを紹介する。ここでは遊びというものをあらかじめこういうものだと決めるのではなく、小さい子どもが遊んでいるのを見て記述していくということ。つまり、遊びであるものと遊びでないものにきれいに分かれるのではなく、それらは連続的であると言っている。それは通常の幼児の遊び研究でも言われてきたことである。何が遊びであるかの定義は様々であるし、実際に幼稚園や保育園で遊びは何かと決めるのは簡単ではない。典型的に遊びだというものは一致するであろうし、遊びでないというのも一致するだろうが、その間にあるものはさまざまである。食事をしたりお弁当を食べるといった生活場面で、遊びではないものの例として、排泄や手を洗うなどがあげられるが、これらは生活のためなので、一般的に遊びではないとされるだろう。例えば、食事の時に子どもたちがおしゃべりしたりふざけたりしたら、それは遊びと言えるかもしれないが、食物を口に入れて消化するのが遊びかと言うとそうは言えない。サッカー遊びやドッジボールしているときに、5歳くらいだとふざけている相手に対して、「ふざけていないでちゃんとやれよ」と言う子どももいる。大人の場合でも、楽しみでやっているものでも真剣にやらなければいけない状況もある。例えば、将棋をやっているのは趣味の領域であっても、一生懸命に真剣にやらなければいけない雰囲気になるだろう。
このように、遊びかそうでないかは単純ではないのである。特に、幼児の教育的な場面では、ためになる遊びとか、遊びを通して学ぶ、というような特定の種類のものを「遊び」と呼びたくなる。そこら辺にずれがある。幼稚園で遊びが大事であるとか、遊びを通して学ぶというのは、なかなか難しい問題である。発達心理学、教育学、幼稚園教育要領のような施策的なものにおいて、目的をもったものを「遊び」と定義したくなるが、そうではなく、子どもが遊んでいるものそのものを見ていこう、どんなものが遊びとなっているのか見ていこうとするものである。特定のものを「遊び」と呼び、名付けようがないものもまた「遊び」と言っている。食事中の遊び、身体測定の時に子どもたちがふざけているのも遊びとも言える。ちょっとしたことも遊びなのである。何故に大人は「遊び」と呼びたいのか、子どもにも尋ねれば「遊び」と言ったり、「遊びではない」と答えたりする。
実は、遊びの実証研究は約50年の歴史があり、ここ20年くらいはよい研究がない。この研究領域には複雑な概念が混じり合っていて、一つの概念では説明できない。遊びを鬼ごっこや粘土遊びと限定すればよいが、共通に遊びではくくれない。難問ではあるが、そこについて改めて考えていく。遊びというのはこのように複雑である。
さて、解釈的アプローチの特徴はいくつかあげられるが、当事者の気持ちを丁寧に取り出し、研究者の関わりも含めて考えていくという立場である。対照的なものが大規模な数量的な研究である。それに対して、解釈的アプローチの研究は事例研究で小規模なもので、現象を丁寧に捉えていこうとするものである。そういう小規模だけれど丁寧に現象を捉えていくというのは、実践研究に近いものである。大規模研究というのは問題設定を単純化せざるをえない。細部を落とさざるをえない。例えば、学びというのはテストの点数が上がったということを単純化して捉える。解釈的アプローチでは、実際の場面の中でさまざまなことが起こるが丁寧にそれを捉える。事例やエピソードを一般化するとか他の場面に当てはめることを期待することはできない。つまり、一般化可能性を考えたら、単純化し、一般的な傾向を見る方がよい。なぜ、小規模で一つのことを詳しく丁寧にやるかというと、本章の標題の通り、実際は複雑だということをみていこうとしている。その複雑さはたくさんあるが、例えば、子どもが誰かと遊ぶという状況はどういうものか、1930年代から検討されている。子どもが近くにいる他の子どもと遊んでいるというのは、平行している、協力している、またはそれがさまざまに変化するなどで、実はそう簡単に分類できない。一つの遊びをとっても複雑であるし、遊びと呼ばれているものは、あるやり方を固定しているわけではない。子どもの側にゆだねている。トランプのようなゲームはルールが決まっているので、ルールを使うかもしれないが、ごっこ遊び、ヒーロー遊び、砂場で穴を掘って水をいれるなどの遊びは、ルールが固定されているとは限らない。そうすると、そこで何をしているかを記述する場合に、そのルールに従うとかルールからはみ出しているとは簡単にはいえない。
複雑だといっているが、どこを捉えるかというと、第一は、子どもの自由な選択による。子どもが作り出すものに注目する。子どものやることには、子どもなりの意味づけがある。それは、その子どもが発明したものもある、工夫したものもある、伝承として伝えられているものもある。縄跳びも遊びだが、それは文化的に規定された活動、同時に遊びであるというときに子どもの興味が働いたりもっと上手にやろうとしているその子どもの主体的な感覚を伴っているというのがある。主体性というときには"agency"という言葉を使っている。自分がやっているという感覚があり、縄跳びも体育の時にみんなで縄跳びをしようと言うときに、先生が指示して縄跳びをしていても楽しいかもしれないが、あまり主体性があるとは言えない。遊びか遊びでないかを決定したいわけではないが、いくつかのポイントを見ながら記述していこうとしている。そうすると、縄跳びとかサッカー遊び、ごっこ遊びなどは、子どもたちがごっこ遊びのストーリーを組み立てながら、演じていく訳であるが、4、5歳の子どもがごっこ遊びをしている時に、何をしているのか尋ねると「遊んでいる」と答えるだろう。子どもたちが白紙から作り出した訳でもないので、文化的なシナリオがあってそれを使っているとも言える。例えば、病院遊びやお医者さん遊びを観察してみると、救急車は椅子を並べて作り、低いテーブルを簡易ベッドに見立てて、ひもに何かをくっつけて聴診器を作っていたりする。その遊びが続いていて、観察したときには、ピーポーピーポーといって、怪我した子どもがきて、お医者さんか看護師さんが患者役の子どものおなかに聴診器を当てて、救急車に乗せられ病院につきましたという遊びをしていた。実際に、子どもの知り合いの誰かが病院に入院したという話しがあったようである。その遊びでは、上からひもがぶら下がって点滴をしていて、注射は小さい積み木でできていた。手術をして、薬飲んで元気になるというストーリーがある。一つは、文化的なシナリオの知識であり、救急車とか入院についての知識である。ストーリーは子どもが作っていて、どうにでもなる。注射や点滴とか手術とか薬とか、一人の子どもが経験したことを組み合わせて作っている。子どものやり方次第である。そうすると、文化的な知識を利用しながらも、子どもなりに変えて作り直していっている。文化的な所産として再生産している。同時にそれを再現している訳ではなく、自分たちなりに作り替えていく、自分たちの遊びの文化というものを作っている。そういう遊びを何度もすることによって上手になっていく。病院ごっこがリアルになっていく。病院ごっこは英語圏の論文でよく出てくるが、日本でいうとままごとセット、欧米では、ごっこ遊びの一つがお医者さんごっこである。欧米のおもちゃ屋さんなどでは、聴診器や注射などが置いてある。ままごとセットには、包丁まな板、野菜が割れるもの。台所セットやコンロなどがある。先生の手作りだったり、子どもが積み木などを見立てている場合もある。
4、5歳になるとリアルに実際にあるものに近づけていくようになる。先生がそれを指導している場合もある。病院ごっこは見学してというのはないが、消防署に見学に行って、リアルな消防車を作るというのはある。消防署は見学を認めてくれる。火事の時だけ緊急出動が求められるが、普段はそれほど忙しくなくトレーニングをしているので、見学というと気楽に引き受けてくれる。全く何もないと放水車で水を出してくれる。つまり、コミュニティにおける子どもたちの経験が導入されていく。アンパンマンごっこなどは、テレビのストーリーを引き入れている。サッカーや野球などは自分でやったりテレビで見たりしている。4歳児の男の子たちがずっと野球遊びをやっていた場面で、ゴム棒で紙を丸めたものを打っていて、どちらの子どもも下手だがずっととやっていて、1時間くらいバッターの実況中継をしていた。動作だけを見ていると単純だが、子どもの頭の中には野球のストーリーがある。リアルなコミュニティであり、バーチャルなものがあるが、ごっこ的に再現しながら子どもたちなりの遊びとして作り出している。結構複雑になっていくが、遊びのあり方をいかに記録していくかというのが研究では問題になる。本章では、いろいろな研究例が紹介されている。よくあることであるが、実際に遊び場面をさまざまに取り出していくのが研究としてあげられている。
そういう遊び場面では、単にコミュニティにおける何かを子どもなりに再現するだけでなく、リクリエート(再創造)しており、そこに子どもたちの人間関係がある。2人が延々とやり、それを見ている他の2人がいて、よく分からずに見ている。そのような野球の実況中継をしたいと思うような憧れがあって、野球が上手ではないが、野球についてかなり知っているから知識の上下関係があるから憧れられている。それは、パワーの上下関係がある。ままごと遊びでは、女の子の力関係が反映される。お母さん役が強く、その役を得るには交渉しないといけない。気の弱い男の子はお父さん役で、会社に行かせる。それ以外に、ペット役や猫役などいろいろやることがある。リクリエートとしながら、子どもたちの力関係がみえる。お母さん役をしたい強めの女子が2人いて、結局、どちらも妥協できなくて、お母さん役とママ役に決めていた。このように、細かいこと、かつ複雑なことを分析しようとしている。
こういう意味があるとか、こういうことでやっているとかを解釈的に見る場合の中心となるものが観察である。観察をする場合に、完全に相手に干渉しないやり方がある。ワンウェイミラーとか観察者がいなくてビデオだけ置いているような非参与観察。子どもの遊びに入り込まないし、干渉しないが、多少関わりがありながら観察するような消極的な参与観察もある。他人として関わる。観察といっても、そこにいろいろな種類が入ってくる。4歳児クラスの活動の様子の写真を撮った時に、子どもが「何を撮ってるの?」と聞いてきた。そして、「記念写真を撮って!」と言ってきた。観察者としては子どもに関わりたくはないが無視するわけにもいかない。
そこに研究者の立ち位置が関わってくる。つまり、位置性(positionality)のことである。その場に研究者が関わらざるをえない。そこに影響を与えざるをえない。子どもたちは見られていることは感じている。その影響はある。それを記録を取って分析するとすれば、やり方に研究者の考えや理論が入ってくる。そこに位置性があり、それを抜きにはできない。観察者の存在を抜きにするのではなくそれを認めていこうとする研究法である。複数の観察者の一致度でみるというのは客観的研究法であるが、一人の観察者の考えを組み込んでいくのが解釈主義である。そうすると、観察法においても、解釈的なアプローチは観察者の直感を大切にしている。直感で感じるからこういう風に解釈できる。直感は客観的ではないが、子どもの生活や生きる文化の中で考えており、そういうことを考えて直感としているだろう。一つの遊びを捉える際に、その中に文化的背景、家族背景、クラスの人間関係なども組み込まれている。あるいは、何とかマンというパワーへのあこがれ、美しさへのあこがれを組み入れていることで、遊びというのが構成されていく。だから、位置性が研究者のありよう、研究者と実践者の関係、実践者と子どもの関係、それらを解釈し直すこと、位置性を解釈し直すことなどを通して、子どものエピソードを詳しく捉えていくのである。
細かく言うと、子どもが現在やっているとすると、まず、記録を取り、分析を行う。その後、意味を取り出すと解釈となる。そして、何段階かの解釈を深めるプロセスがある。遊びというのはそこで新たなことが起きており、その場で起きていることを「その場性」"in the moment"という。一分、二分、短い時間であっても、そこで起こることの細部は予測できない。大体は分かるが、ボールで蹴っていたら次にはサッカーするだろう、ままごとはお母さんのまねをするだろう。同じことを繰り返しているように見えても、必ず新しくなっていく。その場の動きであるが、客観的なもの、想像であるもの、ふりやイマジネーションとの関係を見ていく。壮大な野球のゲーム遊びの中に一人のバッターがいて、そうすると一つはこれを取り出すことは少しはできる。研究者が分析の前に、子どもに尋ねたり、保育者に尋ねたりする。しかし、保育者はその状況を知らないこともある。保育者は特定の指導者であるから、物事をよくしたい人たちである。そのため、その場に起きていることを必ずしも全てを把握したい訳ではない。常に、担任として何ができるかを考えている。
では、子どもにどういう思いでやったのかを聞くのはよいのではないか。子どもに尋ねることは日本ではあまりやっていないが。4、5歳ではその質問に答えることができるようになるだろう。子どもの声を聞く場合、全部を言える訳ではないし、覚えていないこともある。ビデオを撮っておいて、その映像を見せながら、隣の子どもと遊んでいてどんなことを話していたのかを尋ねても忘れていたりする。もう一つは、子どもが話したことが正しいことかどうかという問題である。ビデオ映像を見直した時に話すことは現実から少しずれているかもしれないし、実体からほど遠いかもしれない。さらに面倒くさいのは、子どもは細かいことを自覚していない。体験を言葉で言えるとも限らないし、間違えて認識している場合もある。ごまかしたり、間違えたりしている。ドッジボールが当たっても当たってないと言うことがある。子どもは嘘なのか、ボールがかすっただけで自覚がないかもしれない。子どもに聞くことが正確とは言えないかもしれない。「さっき迷ったときに何を話していたの?」と尋ねられても答えられない。日常的にやっていることを言葉にするのは難しく、言葉に出したとしても事実を言えているか分からない。それでも、丁寧に観察しながら、子どもの言っていることも参考にする。同時に遊びはその場で起きているが、その場の経験だけでなく、病院に行ったことなどは言える子どももいれば言えない子どももいる。遊戯療法において幼児に対してはお人形を使って遊ばせるというのは、家庭で親から虐待を受けている子ども場合、言葉で説明できないからである。人形遊びをさせると殴るなどが出てくる場合があるが、ある種の再現だったりする。意識か無意識は別としてそれを含めながら解釈的にやっていこうというものである。
最後に、倫理的な問題である。オーソドックスに言えば、参加者または調査対象者が、参加する自由、参加しない自由があることが基本原則である。遊び場面を考えたとき、観察するときに、観察をやめてくれという場合もある。4、5歳の子どもに許可を求めるかどうかは微妙である。観察を拒否される場合もある。「何しに来たの?」「写真撮らないで」「見ないで!」と言われることもある。隠している場合もあり、そこが難しい。特に、幼稚園や保育園の場というのは、教師、保育者が監督する場なので、その保育者から見える程度において隠れることが許されている。本当の意味で隠れては危ないが、実際には先生が覗けば見える仕組みになっている。そうしないと保育者が知らないうちに怪我をしてしまう危険性がある。大人の研究者は先生の仲間と思われている。子どもの許可を得ているかというと得てないない気もする。担任の先生が紹介してくれて、みんなの遊びを見に来たと言っても、子どもは拒否できない。一人ひとりに尋ねなさいと研究倫理委員会に言われたときには、どうしたらよいかわからない。お調子者の子どもは「イヤ!」と言ったりする。それを他の子どももマネをする。子どもをだますような説明をするのかは、ジレンマとなる。担任と保護者の代理の許可でいいのか。または、当事者の主体性を大事にしていることになるのか考えなければならない。
遊びというときには、子どもの自発的なあり方が問われることが多い。先生が中心とした遊びではないが、子どもだけの遊びの時には見せたがらないときもある。園で探検に行ったときに、「何を見ているんだよ」と、子どもの権利の発動なのだから大事にしなければいけないと言う人もいる。なぜ興味を持って撮っているのか説明すべきである。「何できたの?」と問われたら、説明し、「園長先生のお友達だよ」という程度のことを言うのでよいのか。真面目に考え出すと訳がわからなくなってくる。そこに正答はないし、いろいろな子どもがいるからどれが一番いいやり方とも言えない。遊びの前に「いいよ」と言う場合もあるし、遊びの後に「いいよ」と言ってくれるときもあるが、遊びの最中はまた違う内容になることもある。
状況的倫理(situated ethics)とは、その場で状況の中での倫理のあり方を考えていかなければいけないということである。その場の状況の雰囲気、所属しているクラスのあり方、コミュニティの文化、いろいろなことを考えながら対応するしかない。ある園で5歳の子どもが仲間を殴った場面を目撃した。担任の先生が見ていなくて、私(無藤)の方をちらっと見て相手の子どもを殴ったのだが、それは倫理的にありなのだろうか。怪我させるほどのことでないからいいかとも言えるが、いじめを放置したとも言える。担任の先生なら明らかに止めたはずであるが、私(無藤)は担任の先生とは違うから止めない。どれが正答とは言えない。嫌な研究者と言われても困る。その状況の中で、子どもや教師との関係の中で常に考え続けて行くしかない。これを状況的倫理と言っている。
交渉的倫理(negotiated ethics)、関係的倫理(relational ethics)とは、まわりの人との関係の中で判断すること、子どもの立場になって考えてみることである。子どもにとって遊ぶこととは、幼児の場合、大人から隠れて遊ぶこともあるが、4、5歳児と10歳の子どもでは遊びが異なる。10歳の子どもの遊びを観察するのは難しい。それは隠してしまうからである。4、5歳児は隠すこともあるが、遊ぶことは大人を使うことも含まれる。大人にちょっとこれやってと頼んだりする。例えば、笹飾り遊び場面において、4歳女児たちがいろいろな人に願いごとを短冊に書いてくれるようお願いしてまわり、担任の先生が1mくらいの棒を用意してくれた。その筒に緑色の色紙を貼っていって緑の筒にした。そして、その筒にセロテープで短冊を貼っていった。観察者が子どもの遊びを邪魔しているところはあるが、子どもが大人を手助けの道具にしていることもある。このように幼児の遊びは大人に開かれている。そうして成り立つということであれば、閉じていなくて、家族、地域、担任、仲間の影響、大人の研究者の影響を組み込みながら成り立つものでもある。必ずしも、研究者が関わることや関わらないことがまずいことはなく、やり取りの中で決まるのである。これを交渉的という。その場では撮影者に徹したかったが、子どもに短冊を書かされた。子どもから言われてしまったから、担任と同じ扱いとなる。たぶん、その場では短冊に書くことが正しい。そのことは倫理的には許容されるだろう。これらが、研究倫理上の問題である。
最後に、結論であるが、こういう解釈的アプローチで研究する場合に、比較的小さい規模の研究で、特定の遊びを細かく見ていくわけである。笹飾りの遊びは約1時間くらいであったが、いろいろなことが、30分や1時間という短い時間の中に子どもの遊びの細かいいろいろなことが起こっている。小規模だけど複雑で、いろいろなことが起きていて、型どおりの遊び、サッカーやままごと遊びなど、スクリプトで決まっているように見えても常に新しいことが作り出されていく。小規模で短い研究に、1、2年かけてもいいが、比較的短い時間や狭い場面の中で複雑なことが起こり、それで100%がルールなどで規定されている訳ではなく、子どもたち作り出していく。分析していくと、新しい小さな文化が見えてくる。方法的に倫理的に難しい問題を含みながらもやっていこうということが述べられている。
(執筆:無藤隆,2017年7月15日)
(まとめ:白川佳子)