第3回の講義では、第7章の"Theorizing Identities in Early Childhood / Katrien De Graeve"を参考にしながら、幼児教育の実践と研究との関係は何かについて論じる。7章の標題を訳すと、「幼児期のアイデンティティの理論化」となる。
アイデンティティという用語は、発達心理学ではエリクソンの意味でよく使われるが、ここでは、幼児自身が自分のことを「子ども」だと思っていること、子どもを養育する親が自分のことを「親」だと思っていること、幼稚園や保育所の保育者が自分のことを「保育者」だと思っていることなどをアイデンティティと言っている。つまり、社会的個人的自己規定である。本章で述べられていることは、全体的に社会学の議論である。それは、心理学や脳科学、経済学などのアプローチとかなり異なる。アイデンティティの社会的な規定を問題にしている。
第1回目の講義で述べたが、”early childhood”というのは日本では「幼児期」という。年齢でいうと0歳から8歳までをさす。幼児を説明する時に、だいたい年齢で切っているが唯一それが絶対なのかという問題点がある。発達心理学では、年齢で区切るやり方を用いており、幼稚園や保育所でも学年を年齢で区切っている。あるいは、家庭で考えても、うちの子は何歳という言い方をするし、子ども自身に年齢を尋ねると「3つ」などと年齢を答える。日本で義務教育というのは、満6歳を過ぎた4月に始まる。誕生日の前後で入学を認める国もあるが、いずれにしても年齢による規定である。しかし、それは絶対的ではない。義務教育が十分に普及していない国では、学校教育の中に3歳から15歳まで混じることがある。自分の誕生日を知らない子どももいる。カレンダーがあり、年齢を数える習慣というのは近代的なものである。身体的な成長の特定の時期によって年齢的階梯を決めるという国もある。年齢以外には、文化、民族、階級、ジェンダーなどの変数がある。一人ひとりを細かく見ていくと、成長やその人のあり方や経験があり、非常に多様である。赤ちゃんの発達は生物学的に明らかであるが、歩行開始の時期については1歳から1歳半まで約半年の開きがある。つかまり立ちなど歩行の前の段階では、育ちがさらに多様である。日本でも50年以上前から、子どもが歩行器を用いるとハイハイが少なくなるなどが言われていたが、これもまた歩くという動作の年齢的な規定だけで決まるわけではないということになる。もっと広い経験を加味していくともっと多様になる。経験の多様性をどうやって見ていけばいいのかということが本章で述べられている。
106ページの右には、”A PLURALITY OF CHILDHOODS”という節があるが、日本語に訳すと「子ども時代の複数性」となり、つまり、いろいろな子ども時代があるという意味である。子どものあり方が違っているというのである。「子どもとはこういうものだ」と心理学で述べた時に、傾向性や幅があることを前提に言っている。例えば、発達心理学の教科書によく出てくる「ギャングエイジ」という言葉があるが、小学校中学年で子どもたちが仲間で群れるという特徴を指している。しかし、実際には群れない子どもも存在する。その村に子どもが一人しかいなければ群れることはないし、きょうだいと遊んでいる子どもは群れて遊ばないだろう。色々あるということを、間区画性または同時交差性(intersectionality)と呼んでいる。1970年代の黒人の女性の独自なあり方を主張する言葉から生まれた。本章の著者は女性であるが、1970年代の第三世界のフェミニズムの流れの中で、先進国に対する途上国、白人に対する黒人、中流階級に対する下層階級、男性に対する女性、つまりマイノリティに対する批判から始まっている。1970年代、80年代のアメリカの黒人文化における黒人女性という存在は、マイノリティの中のマイノリティであり、さらにマイノリティは下層階級の黒人の女性となる。オバマ前大統領は中流・高学歴層の黒人であるためマイノリティの代表とは言えないかもしれない。黒人女性が、自分のアイデンティティとは何かと問われた場合、黒人社会へのアイデンティティを持つべきなのか、それとも、女性へのアイデンティティを持つべきなのだろうか。
実は、どちらかに決める必要はない。超-多様性(super-diversity)の例として、LGBTという言葉があるが、レズ、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーという意味である。男女という区切りがそれほど明確ではないということをLGBTという言葉で表現している。現代社会の素早い動きに注目していこうというのが超-多様性である。例えば、移民と難民の問題があげられる。日本でも、移民の人はいる。ネパール人が日本語で話していると、日本人なのかネパール人か尋ねられて困ることがあるかもしれない。日本人なのかネパール人なのか、その間が流動的なのである。現代社会における素早い動きを流動性(mobility)、複雑な同時性(complex simultaneity)と呼んでいる。
つまり、子どもや幼児を一つの枠で捉えにくくなってきている。子どもや幼児というのが変動化、流動化している。子どもってこういうものだよねと決めつけて言えなくなってきている。子どもがどんどん多様になってきているが、その反面、世の中では一つの枠で捉えようとしてしまっている場合もある。しかし、「その子どもによる」とか「場合、場合による」というのは答えになっておらず、ある種のとらえ方が色々あるという風に考えてみる。子どもが持っている子どもを取り囲む場のあり方や経験がさまざまであるということが見えてくる。子どもらしいとか子どもらしくないとかと簡単には区別できない。
このあたりが議論として難しいところで、多様であると、一人ひとり違うわけで、どれもいわば“あり”になってしまうが、どれも“あり”にしてしまうと子どもにとって、社会にとって本当にいいのかということになってしまう。例えば、児童福祉法などで子どもにとっての最善の利益というが、子ども全般に最善の利益というのは存在しないだろう。「子ども食堂」とか「子どもへの絵本の読み聞かせ」が大事だと言ったり、その一方で、子どもを自立させることが大事だという考え方もある。両面を考えないといけない。型どおりのよい子にするという考え方、むしろ自立のための経験を認めていこうとする考え方、その間に、さまざまな考え方が存在する。大人に依存しているから子どもであり、自立できる人は定義上は子どもではない。それらの考え方のバランスをとらなければいけないが、単にバランスというのは答えにはなっていない。バランスが崩れているとか、バランスがとれているというのは誰が決めるのか、そこを考えていかなければいけない。本章の中に答えがあるわけではなく、両面があることを認めて出発点にしようと著者は主張している。
子どもは十全な権利主体ではない。つまり、そこにある程度の共通性を持って保護対象にせざるを得ない。どの子どもも保護するという意味では平等性や公正性があり、一人ひとりの好みや育ちの違いも尊重しなければならない。きわめて大きな問題であるが、社会とは何かとか正義や倫理性とは何かを考えていく。それは、小さい子どもに現れてくる。普通のことを例にあげると、保育園の給食、小学校の給食を考えた時、偏食のある子、食べるのが遅い子が来た時にどうするか。野菜はじゃがいも以外食べない子ども、肉や魚も食べないという子どもを放っておいていいのか。その子の選択の自由を認めるのが最善の利益なのか。栄養士が考えたものを食べさせるのが栄養上よいのか。そこに葛藤がある。同時に栄養士の考えは、子どもというのはこういうものだという一般化された科学的なとらえ方に基づいたものである。年齢と性別との組み合わせで区分が決められたらよいが、区分はどんどん増殖している。そういう時に、一体どうすればいいのか。難民や途上国の貧困の子どもに食べ物の好き嫌いをする子どもはあまりいないだろう。肉や魚が食べられないという子どもは先進国でのことである。小さい子どもである以上は、そこに生物的、歴史的、文化的な要因が影響している。小さい子どもが暮らしている中で、色々な経験をしていることがある。それを簡単に否定はできない。そうなってしまったことを駄目だと変えることはできない。安価なハンバーガーを食べる人がいれば、中流階級的で知識豊富な人間が考えると、栄養が偏っていると考えてしまうが、それをやめさせることはできない。食生活を変えることに社会的にどういう意味があるのか。寿命が少し延びることに価値があるのか。人によっては食べたいだけ食べて太ってもいいと考える人もいる。健康志向というのは先進国的、中流階級的、高学歴的志向であろう。答えを出せばよいというのではなく、子ども時代の多様性、複数の子どもの経験を認めていこうという考え方である。多様性は日増しに複雑になっているという事実、そのあり方が見える。そこから出発して行こうというのである。
次に問題にしたいのが、その背景から子どもという存在が浮かび上がってくるわけであるが、歴史的文化的に考えた時に、子どもという存在とともに、親子、母子、家庭(核家族)というのが浮かび上がってくる。ある人の言葉を使って、図像化または顕著化(figuration)と言っている。定着した日本語訳はまだないだろう。 “figure”とは、人形という意味もあるし、地に対して図、目立つ物、浮き彫りになるという意味がある。近代社会において、子ども時代の独自性とか、ほかとは違う特殊性というのが強調されてきている。発達心理学者、教育関係者、小児科医によって、育児書が20世紀にかけてたくさん出版されてきたが、子どもの独自のあり方を尊重しようという考えのもとに出てきたものである。そういったアイデンティティのあり方は社会的にどのようにして形成されるのか。社会学ではアイデンティティ・ポリティックス(identity politics)、すなわちアイデンティティ政治という。さらに、アイデンティティを構築していくことをアイデンティティ・ワーク(identity work)という。
近年、子どもを大事にする思想が広まってきており、児童労働を禁止するようになってきた。家族形態に目を向けると、核家族化で、女性が育児、男性が外で働くという性的分業化がなされてきたが、歴史的に見ると当たり前のことではない。妊娠、出産、母乳を与えるのは母親の役割であるが、乳離れするのは文化的社会的にさまざまであり、生後6ヶ月、遅いと1歳半ばから2歳、もっと遅いこともある。母乳を与える時には母親がいないといけないが、その後の時期は誰が面倒をみるかというのは様々である。途上国では、きょうだい、叔父、叔母が子どもの世話をしたり、先進国ではベビーシッターが面倒をみることもある。くつろぐ場、乳児の延長線にあるところの母親との関係性がある。その結果として、子どもの価値というのは、経済的にはワースレス(worthless)、情緒的にはプライスレス(priceless)だと言っている(Zelizer, 1985)。産業が向上していくと技術を持たない子どもを雇っても仕方なくなる。子どもというのは育てるのに負担がかかり社会に寄与しない存在だが、情緒的には価値がある。現代社会において、子どもの価値の転換が劇的に起こったのである。少子化というのはまさにこれである。子どもというのはお金がかかる存在だが、情緒的には満足感を与えてくれる。小さい子どもを考えると無価値ではない。大人に依存している存在であるが、幼児期を過ぎると特定の学校という場に囲われた中にいる。先進国では安全面が重視されるため囲われて特定の場所にいる。アメリカなどの先進諸国では、そこら辺で子どもが遊んでいるというのは下層階級の話である。日本もそれに近づいてきている。保育という領域は、専門的な仕事になってきている。親が子どもを育てていても子育ての専門家から助言を受ける形に変わってきた。それはとらえ方の強制であり、「子どもの気持ちを考えて応答してあげましょう」、「寝る前に絵本を読んであげましょう」などと言った助言は、良いという100%の証拠に基づいている訳ではない。一応、専門家として科学的な知見をベースにして言ってはいるが、多様性を画一化して言っているかもしれないし、文化的なあり方を言っているだけかもしれない。寝る前の絵本の読み聞かせは「正常」で寝る前に3時間もテレビを観るのは「異常」であるというある意味で画一化した考え方に則っている。
小さい子どものことを例にあげれば、乳幼児期が決定的に重要であるとか一生を決めるなどと乳幼児決定説を言ってみたいが、心理学のデータを見てもそのようなことは言えない。傾向はあっても予防注射みたいなものはない。テレビゲーム三昧でもそれほど悪人にはならないだろう。乳幼児決定説は明らかに言い過ぎであるが、そういう言い方が支配的になっていくのが我々の暮らす社会というものである。そういう中で、アイデンティティ・ワークというものをみんながやる。子どもの幸せについて考える際に、まず親が幸せにならなければいけないという考え方がある。それは間違いで、親が幸せになるのを待っていたらキリがないと個人的には思う。良き子育てを行うべきである親というアイデンティティが社会的葛藤の中に存在している。中流階層的な良き子育てを推奨することは、その周辺やマイノリティの人たちを否定的に捉えることになってしまう。幼稚園に行ってお弁当を見ていると、凝ったお弁当作りは親が好きでやっている場合もあると思うが、ある種の親の競争でもある。駄目な親だと思われたくないという努力やよき母親像を演じている。それは子どもの最善の利益であると言えなくもないが、そうなのか。家庭において子どもが食べているお昼ご飯は多様であり、残り物を食べていたりレンジで温めたものを食べていたり、カップラーメンを食べている家庭は多いかもしれないがそういうことはあまり言わない。それは、表の文化に対して裏の文化であり、抑圧されている。ある場面においては表面化することもある。
最後に扱うのは、子育てとかは、共通性そして子どものための最善への努力とその多様性・差異性の両方をみなければいけないという問題である。乳児を考える時に、生物的に、文化的に、社会的に、男女間に生物的なそれほどの差異はない。服装やおもちゃを与える際に子どもの性別によって異なり、そうやって男女は作られていくという古い考え方がある。フランスの実存主義者ボーヴォワールは自身の著書『第二の性』の中で、「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」と述べている。そもそも、文化的、社会的なとらえ方の外側に概念があるというのは古典的な考え方であり、子ども、親、保育者が暮らしている中で、概念が形成され、変容されていくというのが近年の考え方であり、その過程を通して多様でありうる。文化的、社会的なやり方が具体的に実現していく。元々もっている傾向が生物的に異なるというのはなく、といって社会的に決定されるというのでもなく、個々の関係の中でいわばない交ぜに形成されていくのである。女性、男性で分かれるというは、異性愛傾向、男性度、女性度、さまざまである。きょうだいの性別、親の特性、文化的生物的に作られていくとすれば、潜在的可能性を持ったものとして、保育や子育てを考えていく。
良き母親であるということがありうるかという問題は、良き母親というのは悪くないが、100%良い母親というのではなく、妻であり、同時に働く女性でもあるということを意味している。モザイク的であり、入れ混じって、絶えず形成され、再形成されていくだろう。むしろ、可能性を見いだすものである。こういう発達というのは依存しており、人との関係の中で生きている。依存から自立という一方的な発展ではない。依存も継続し、自立も同様であり、その合い混じった継続的な過程の中にある。だから、依存ということのプラスの価値、未熟で未成熟であることの価値、という逆のところを見ていくのである。第一回目の講義で、子どもも参加していくということを話したが、十分に能力を持っているから参加するという一方で、十分な能力はないが参加するということも考えていかなければいけない。中学生ならば自立ということで考えられるが、幼児であれば依存ということは紛れもない事実である。そういう事実を鑑みながら、幼児期研究を考えていこうということを本章では提案しているのである。
終わりに、本論文は、フェミニズム学者のジュディス・バトラー(「ジェンダートラブル フェミニズムとアイデンティティの攪乱」青土社、1999)の「パフォーマティヴィティ」の概念を全面的に用いているので、同翻訳の竹村和子による解説を参照しつつ、簡単に紹介しておきたい。
「身体が人間の身体として資格づけられるのは、これが男の子か女の子かという問に答えられるときであるからだ。現在の覇権的な言説では、ひとは<つねにすでに>ジェンダーであり、ひとの身体は<つねにすでに>性別化されている。男の身体/女の身体という二分法で説明される身体は、それ以降にそこに書き込まれると理解されている文化が、遡及的にそれ自身を反映して構築したもの、いわば文化そのものである。」
「異性愛構造を規範的な異性愛とはべつの様態で反復することによって、異性愛が幻想にすぎないことや、異性愛構造を成り立たせているセックスのカテゴリーが虚構にすぎないことを露呈できる。」
「社会的に構築されているということは、言語によって反復されねばならないということである。言葉を換えれば、「事実性」と考えられているものは、反復するという行為(パフォーマンス)によって、パフォーマティヴ(行為遂行的)に生産されるものにすぎない。ゆえに現体制を言語によって表現するのではなく、言語によって現体制を「生産する」という、このパフォーマティヴな反復行為のなかに、現体制の強化と同時に、現体制のずらしも、必然的に胚胎されている。」
(執筆:無藤隆,2017年4月24日)
(まとめ:白川佳子)