投稿日: Sep 19, 2016 5:57:13 AM
昨今は公共の場で、音を出す側の立場に傾いた「押しつけの音」が増えている。私たちは知らず知らずにその音に埋没し、心までが磨耗してきてはいないだろうか。
著者は、江戸風鈴工場、芭蕉記念館、ピアノ工場、寄席などを訪ね、一流の職人たちにインタビューをする。その内容と、そこに存在していた音の様子が、数多くの俳句とともに、「音の目線」を介して、細やかに、豊かに、語られる。
たとえば「時報のお姉さん」をインタビューするくだりでは、「自分が聞きたいように読むことです。聞きたいように読む、してほしいようにする。読むは聞くにあり」、「作家の方が何を言いたいのか、まず私が耳を澄ませます。その作家さんの声の通りに読もうとするんです」と、いったように。まるで機械に成り代わったかのように、明晰に時刻の言葉を発声する。それでいて、彼女のその声は、寸分たがわぬ時刻の進行の無表情さと似合わず、優しくて温かい。読み進めるにしたがって、時報のお姉さんの語りかけの向こうに息づいているメッセージが、明らかになって行く。
テレビの効果音製作者へのインタビューでは、足音作りのくだりが、とくに面白い。「足音三年」といって、いろんな足音が自然に出せるようになって初めて、一人前の効果音担当と呼ばれるのだそうである。「木箱に砂を詰めて、その上にコンクリートの塊をおいてやるんですけど、それでも体重をかけて歩くので響くらしいです」。「サラリーマンの足音は、硬くて規則正しいんです。コツッ、コツッ。女の人のハイヒールは硬い。カツッ、カツッ。子供は、これは小さい音だからつま先だけでやります。タッタッタッ。酔っ払いはちょっとヨロヨロした感じで、コタンッ、コタンッ」。「こうやると、階段の音にもなりますよ」……。
著者は言う。「優れたスピーカーとテクノロジーによって音が自在に操れる現代だからこそ、多すぎる音をあえて切る勇気と、深みのある静寂に向き合う自信を取り戻して、良質な音と心を回復したい気がする。なぜなら、私たちは音とともに時間に抱かれ、その音に彩られた時間は宇宙にたった一つしかない私たちの人生の大切な時間だからである」と。
(紹介:吉永 早苗,2015年7月21日)