2016.8.1
無藤 隆 子ども学研究特論(15)
第36章,第37章 質的研究の今後
テキスト The SAGE Handbook of Qualitative Research, 4th ed. SAGE.
36章と37章を今日は取り上げて解説する。
まず37章は、ポスト質的研究(Post Qualitative Research)ということで、意味としては、質的研究を、量的な研究に対して極めて異なるものとする立場である。質的研究にはいろいろな立場があるが、その半分くらいは、きわめて強く量的研究との異質性を強調している。その点については、この授業の最初の回でも述べたが、このハンドブックの編者たちが対比的に論じている。
その基本的な特徴は、実証主義に対して、そうではないと否定する立場だが、その否定する立場にはいろいろある。ポストモダンの「モダン」というのは近代的、「ポスト」は、その後を意味している。そういう意味での、ポストモダン的質的研究とは何かということを本章では扱っている。
質的研究の歴史においては、以下に述べるようなさまざまな転回(turn)がある。
転回(turn)とは、考え方の基本的な変化が起きることを指すが、その転回した後を扱っているのが質的研究である。よく使われる有名な表現は、以下の通りである。
・言語論的転回(linguistic turn)
…これは、言葉、言語というものが、確定的な意味をもって対象を記述するというものではないということ。ひとつの言葉がある特定の意味を持ちうるということを否定して、もっと言葉と言葉の関係の中で意味が浮かび上がるということである。
・文化論的転回(cultural turn)
…文化そのものは非常に流動的なものであり、古典的な文化人類学のいうようにきちっとした記述ができないということ。
・解釈論的転回(interpretive turn)
…解釈する主体によって意味が与えられていくのであって、解釈する人によって意味が変わってくるということ。つまり、確定できない様々な解釈が次々と起こり、積み上げられていく。
・ナラティブ転回(narrative turn)
…物語論的転回。世の中のできごとは、物語られることによって語られるということ。
・歴史論的転回(historical turn)
…あらゆるものは歴史の中に存在しており、歴史的に規定されている。たとえば、心理学などはおおむね非歴史的な発想が強く、人間は昔から人間であるのだが、歴史論的転回は、これを否定する。
・批判論的転回(critical turn)
…これは以前の章で解説したが、批判的教育学とか、批判的とつくものは、現在の体制的秩序を批判して、より公正なものにすべきだという立場である。
・自己回帰的転回(reflexive turn)
…研究者の主体が常に関与しており、客観的な研究ではなく、必ず、その研究者がどのような立場にあるのかをふりかえり、明示しつつ研究することである。
・レトリカル的転回(rhetorical turn)
…レトリックは修辞である。ふつう、レトリカルとは、物事を喩え、形容するということだが、レトリカルターンというのは、ものごとを客観的に語るのでなく、比喩的に語っていくことが大事だということ。つまり、非常に文学的な立場であり、文学研究と科学研究を区別しないようにしている。
・ポストモダン的転回(postmodern turn)
…近代以降の変化の後を扱うという立場である。
研究者はすぐに、転回(turn)という言葉を用いるが、上記が代表的なものである。
こういった転回を認めない立場もある。実証主義とかポスト実証主義は、こういう立場を認めないし、あまり重要ではないとするが、逆に、こういうことこそ大事だとして質的研究をする人たちもいる。そこには論争があり、ある意味でさまざまな転回があるわけである。転回が起きた後、このように各種のポストと呼ばれるもの、またはポストがつくものがある。
そこにさまざまなポストモダンに類したものがある。言い換えればモダンはそれ以前を否定することになるから、20世紀の科学など古典的な見方を否定する立場である。
ポストモダンが出てきたのは50年くらい前、つまり1960年代のことである。50年経ったが、ポストモダンが有力だったり、実証主義が有力だったりして、現在ではさまざまな考え方があり、どちらが勝ったとは言えない。その時に、本章の著者は、大雑把に言うと、ポストモダンの考え方を再度強めていかねばならないと主張している。
そういう意味で非常に面白く、ただし極端である。何が極端かというと、極度にポストモダンを推し進める提案をしている。きわめて哲学的であるため、本講義では簡単な話だけをしたい。
このようなポストモダンの立場の人は、いわゆる実証主義や実証主義に近い立場をすべて否定するが、実証主義に近い立場を否定する際に、グラウンデッドセオリーが例としてあげられる。
グラウンデッドセオリーは、様々なコーディングをする手法である。たとえば、Aタイプ、 Bタイプ、Cタイプと分けたうえで、Aは30回、Bは20回となると、統計的処理になじみやすくなる。ポストモダンの立場をとる本章の著者からすると、グラウンデッドセオリーはすでにモダンに近づいてしまっているため、ポストモダンとは違うと主張する。
ポストモダンの立場の人は、すべての分類はもっと流動的であり、世の中のすべては流動して変化している、ということを強調しているのである。
それは、常にあるものが別なものに変容しつつあり、その過程にあるということ。その点については、20世紀の哲学者の中に、あらゆる仮定がすべて仮のものであり、今日あるものが変化し、今あるものが本当かというとそうは言えないかもしれないという考えを出した人たちがいる。
ここにある電池は、電池であると同時に、円筒形のものであるし、ここにおいてあるものだし、模様が書いてあるし、そういうさまざまなものであるということは、記述できる。
たとえば、電池というのはかりそめであり、そういわれるから電池だ、と記述できる。
変化するというのは、たとえば、電池が切れていて使えないかもしれないが、使える電池と使えない電池の間は電池であるのだろうか。
電池である力は、はずされている時には力を発揮していないわけだから、電池の予備状態。
懐中電灯に入れたときに光らせる、としたら、電池と懐中電灯の関係性はどうなるのか。
これが電池であることという命題が成り立つとは広げて行けば世界が存在すると同じような意味になっていく。
厳密に論理をたどればそういう話であり、もっとややこしいことを言うと、これが電池であると私がいうことは何か。もう一つの疑問の出し方は、これが電池であると誰かが言った、私が言った、それを考えたときに、これが電池であると私がいうのはなぜと考えたら、
これが電池でないかもしれない可能性があること分かる。
当たり前のことはわざわざいうことはない。電池であるという可能性があるから、わざわざいうのであって、「これが電池である」と言うということは、「電池でない」ということをも意味する。
20世紀には、ハイデッガーという哲学者の流れがある。さらに言えば、電池であると私は言うが、その時の私は誰だ。それを言っているのは私(無藤)である。その私は私ではない。私であるといっている私がある。そこには無限後退があるのである。
そこの主体は何かというと、私は地名ではないし、私という個人がなぜ電池と言わねばならないのか、または、私に似た誰かがしゃべっているのか。私がその命題に命をかけているわけではないし、とあらゆることをずらしていくと、その命題の確からしさは消えていく。
無限の疑いを生み出すが、それでも、あるものはある。その時に、ひとつの立場は、世界は仮のものである、本当はないと見ることもできる。
そういう世界は仮のものだと考えたのは誰かと言うと、2500年前のソクラテスとプラトンである。そして、東洋思想には仏陀がいた。このように、2500年前に世界中で思いついた人々がいたのである。
「あるものはある。しかし、あるものはない。」というように両方を考えていかざるを得ない。
そのことは同時に社会批判となる。今ある社会秩序は、あたかも、昔の王を考えたとき、貴族や偉い人が国を支配するものであると疑わないで来た。それを問うていくと、王たる根拠はない。そのことは近代人にとっては自明だが、近代人にとっては、その自明性を疑わねばならない。さまざまなイデオロギーを批判する際に、難しいのはイデオロギーを批判する立場を批判する立場である。
フェミニズムとは、男女共に同じであるという立場であるが、それを批判する立場もある。
批判に批判を重ねていくが、批判としてきわめて鋭いものをもつ。
既存の考え方とか枠組みを批判し、ただそれがダメだと言うだけではなく、他のいくつもの可能性の存在を示し続けて、検討していく。それを、脱構築(deconstruction)という。「脱」は抜け出ることを意味し、構築された概念、男女などを否定するとしても、男女というカテゴリーではない見方をすることである。
フェミニズムという言葉は、男女という存在は認めつつ、それが平等であるという際に使用する。しかし、脱構築の考えでは、男女という二分法のカテゴリーを消し去っていく。
男女というのは、生物学的にはあるから、人間がさまざまな可能性の中にある。人間には性格の差があり、背の高さの違いもある。それにあらゆる分類があり、その流動の中に生きている。それが脱構築の考え方である。
批判的教育学とは、近い部分と遠い部分がある。つまり、脱構築の考え方は、あらゆる二分法に反対していく。男女、文明社会・未開社会、日本人・そのほか、自己と他者、過去の自分と現在の自分。
否定するといっても、なくすという意味ではなく、あらゆる可能性を考える。そうすると、自己という主体性は曖昧模糊としたものとして見えてくる。
本章の著者は、セントピエール(St Pierre)という人だが、3つの重要な捉え方を述べた。
まず1つ目は、是態(比性)、つまり、「あるものはある」という意味であり、英語では「thisness」または「haecceity」である。これは、もとはアリストテレスから来ているが、中世のある哲学者が、アリストテレスを引用して、その後その考えを発展させた人(ドゥルーズ)がいて、いくつかの段階がある。
「あるものはある。」それは、それだけじゃなくて、たとえば、「黒板消しがある」ということは、すでに黒板や黒板消しという社会的カテゴリーの全体としてある。「これがある」というのは、「ここに何かがある」ということを意味しており、これが黒板消しである、としたら、違うものでもあり得る、あらゆる可能性があるということである。
そういう意味でいうと、「あるものはある。世界はこうある。」としたときに、主体はそこに消えていくのであるし、独立した確固たる主体が判断しているわけではない。
二番目の考えが、もつれ(entanglement)であり、すべては関係の中にあり、あるいは相互に影響しあっているという意味である。
これも話を拡大していくことができ、子どもは周囲との関係性、子ども同士、保育者との関係性の中にあるが、子どもは黒板消しと関係し、樹と関係し、空と関係し、子どもが歩いていることは世界中と関係していると考えることができる。
たとえば、この一週間、近くの公園に若者がたむろしているが、若者が何人か集まっているという記述は、きわめて複雑なもつれの中にある。その人たちは、ニューヨークとつながっており、任天堂ともつながっている。19歳の若者であり、あらゆるもつれの中に組み込まれていると言える。
たった1行、「若者がたむろしている」と言いたいが、それは無数の組み合わせの中にあるのである。
3番目は、組み立て(assemblage)である。私は合理的な人間である、自己を振り返る、など、無数の属性を持っている。属性というと、何か安定したものが見えているかもしれないが、さまざまな属性が絡み合う中にある。
こういったことが、質的研究となぜ関係するかというと、こういう立場からすると、すべての分類は仮のものであり、安定した分類体系というものはない。
それにかわって、研究するということは、研究者が対象者に代わって記述し、それを繰り返すというプロセスしか存在していない。
それが、「差延」(différance)という、デリダ(Derrida)によって考案された用語である。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%AE%E5%BB%B6
(※「差延」ウィキペディアの該当箇所。)
「表記」からすると元々は動詞différerであり、英語でいえば、異なる(difference)ということ。もうひとつは、この動詞には「異なる」という意味のほかに、「遅らせ、先延ばしにし、留保する」という意味もある。それを組み合わせたフランス語である。困るのは、ディファレンスのアルファベットの一か所をaにしただけで紛れやすいが、「差異」と「延ばす」とを組み合わせている。
「差延」ウィキ解説はよくできている。「あるものが安定してある、という事態がない。」という部分。
最初の私と今の私、同じだったら…。今の私はさっきの私、今の瞬間と同じ私。親から見たら、友達からみたら、同じ私、ちょっとだけ違う、そういう主張。そういう意味で、自己再帰的という。AがAであるというが、その二つが同一だと、どうしてわかるのか。
それは保障されないし、保障するものがない。つまり、不在であるということ。
私は私だ、と言うしかない。
そう考えてみると、それが、本当に私が私であるといえるのは根拠がはっきりわからない。
私は私であるというから、遡及的に、私として理解されるのである。
「AはAである」、「AはBではない」とつないでいくが、論理そのものがはっきりしているわけではない。常に動いていき、常に変化していく。
そういう違いというものが、いろいろなところに広がっている。
安定した現在の世界、かっちりできた私と世界との関係、その現象の在り方が記述できるとみなすこと自体がおかしい。意識というものの安定したものとしてあるわけではない。
常に、意識されないものとの関係の中で意識されるものである。
そういうたぐいのことを、デリダは「差延」と言っている。それを質的研究に落とし込んでみると、ものごとの記述は記述した瞬間に代わっていく。それを、改めてポストモダンの考え方、つまり、質的研究のひとつの極端な立場として紹介した。
次に36章を紹介する。
質的連続体(qualitative continuum)とは、この授業の最初の回で扱った考え方であるが、左側、真ん中、右側と質的研究の立場を次のように分けている。
質的連続体(qualitative continuum)
芸術的(アート)
解釈論的 社会構成主義 (ポスト)実証主義
アート ――――――――――――――――――――――――――――――――― 科学
パフォーマンス サイエンス
右側が、(ポスト)実証主義、真ん中が、社会構成主義、左側が、芸術的(アート)、解釈論的である。
呼び名は研究者によって違うが、右端は科学、左端はアートやフォーマンスである。
すると、この一次元において、どちらを強調するかで質的研究者の立場が出てくる。
右側は、ポスト実証主義とか、混合法、科学主義である。きちっとカテゴリ分けしながら客観性を強調している。
左側はアートパフォーマンス、直感的、芸術的、あいまいさを強調し、文学的でもある。
一番左に属しているのは、調べて演劇にするとか、写真とか、詩にするとか、そういうアプローチ、あるいは、実践に近い形をしているのがパフォーマンスである。
この章の著者エリンソン(Ellingson)は、自分は中間の立場であると言っている。つまり、まったくの科学主義にも立たず、まったくの芸術主義にも立たない。中間主義は、かなり広い領域であり、中間においては、右と左、組み合わせて、いろいろできると述べている。
そうすると、社会構成主義となるわけであるが、ここに入っているのは必ずしもいわゆる社会構成主義だけではないが、質的研究者はどこにいくのか。その中間にあるとしたら、中間も広いから、さらにどこにいるのだろうか。どこにいるかよりも、いろいろアプローチを組み合わせたらいいのではないか、というのがこの章の主張である。
では、使い分け、組み合わせはどうしたらよいのか。まずは、それをまず考えてみる。
何を思い悩み考えるかは、いろいろなやり方がある。それを自覚する。あるいは、研究者のあり方が、研究に入ってきてしまう、関わるといったが、研究者のありかたの何が関与しているか、自覚的にとらえる、とか。自分はその研究を通して何を訴えたいか、誰に訴えたいかを考える。
学会で発表する場合と一般に講義する場合と、それを使って自分は研究者として何をしたいかを考える。発表の在り方は何だ。研究論文として発表するか、TEDのように一般の人たちにアピールするか、TEDは、研究成果は書いてなくて結論はこうですよというものである。研究発表だと、たとえば、30人にインタビューして結論を出したなど、その根拠とそれに基づく結論を明示するものなのである。どちらが正しいではなく、その場その場で、それをワンダー(wonder、思い悩む)して考えてごらんなさいと実用的な説明が述べられている。
そうすると、そこでさまざまな戦略がある。しゃべる、発表者、難しく語ることもそうじゃないこともある。修論や博論は、長さに限定はないが、学会誌は400字詰め何十枚かという制限がある。書籍だったら長くてもいいだろうが。それぞれの発表なりコミュニケーションにおいて、十分に考えていく。
あるいは、質的研究で推奨されるのは、対象に返すことであるが、修論や博論をそのままどさっと渡されても、論文の作法に慣れていない人にはいい迷惑かもしれない。作法をちゃんとまじめに考えようということ。
細かく考えることによって、自分の研究全体の強調点も変化し、あるいはそれによって影響されることもある。発表・口頭試問等の場合と、現場の方々向けと、発表の場によって研究する側も影響を受けるということなので、質的連続体の幅がけっこう大きい。
きわめて科学的でがちがちであっても、TEDでは、写真をどんと乗せるなど、説得的である。自然科学では、右側が本物、であり、アート的な部分は一般解説的となる。だが、質的研究ではどちらも対等の意味を持つ。
対象に返すというのは、その人たちといかにコミュニケーションするか、いかに役立っていくかという働きを担う、つまり、その研究にとっては本質的なものである。
でも、自然科学で、素粒子の研究をしている人にとって、一般人に話すことによって、その人の理論が変化することはない。そこに自然科学との違いがあり、質的研究の重要なあり方が出てくる。
そう考えてみると、これらのどこを使うかによって、違う重要性をもつ。
たとえば、論文の中で、写真を使うとか、図を使うとか、漫画を使うとか、冊子では動画は使えないが、発表では動画も使える。
今のところ、論文は、紙媒体が原則だが、「動画があるのでUSBで見てください」は
たいてい受け入れられないが、ネットで公開するものも論文の中にはなくはない。
それぞれのやり方はそれぞれの意味があり、有効性がそれぞれあり、いい悪いの問題ではない。一連の研究活動の中で、自覚的戦略的に、さまざまなやり方を組み合わせていく。
場合によっては、新しいやりかたが生み出されていく可能性もある。
たとえば、みなさんに薦めたいわけではないが、修士論文や博士論文で、ほとんど写真でできているものもある。ビジュアル・エスノグラフィという分野は、昔から存在する。文化人類学者がニューギニアなどに行くと、担いでいって撮ったビデオが研究成果となる。
分野によってはそれが許されている。写真集のような論文も分野によってはあり、保育分野でも出てくるだろう。大部分を写真で、その間を文でつなぐような論文。
日本の文科系の雑誌でそれを認めているところはないだろう。
最後に、著者は、3つの戦略を述べている。
1つ目は、結晶化(crystallization)、つまり、さまざまな研究の仕方とか、発表の仕方とか、概念化を組み合わせていくということである。それらのさまざまな見方や記述を組み合わせることによって、より理解を深めることが可能となる。写真とかエピソードとか組み合わせるのはすでにやっていること。
それから、連続体(continuum)ということでいうと、さまざまなところから取り出し組み合わせていく。ある部分はかっちりと分類体系をつくり、ある部分ではアート的に組み合わせていく。それは、論文の書き方とか表現の仕方も意図的に組み合わせることである。
さらに、研究者の立場とか自己というものをいかに研究論文として表現していくか。全体として、そこで得られる知見というものは、ある客観的真実を取り出すことではなく、さまざまな多様なそして部分的で構成され身体化され体で感じる、演じるものとして描き出す。それは非常に具体的な論文としては、第一部は数量的に分析、第二部は…第三部は写真というのもあるし、あるいは、もっと細かく組み合わせながらというものもある。
それを結晶化という。単なる組み合わせというよりは、組み合わされたものがひとつの結晶体となる。
二番目は、これも前から出ているように、社会的正義(social justice)を実現していこうということである。そうだとすると、倫理的な配慮とか、研究倫理だけじゃなく、研究対象と関わるコミュニティの人々によって有用とか、還元していくとか、意識していくとか、それによってどうやったらいいか組み合わせていく。
相手に役立つようにしていくというときに、その人たちと運動していくとしたときに、その人たちを有利にするような客観的な証拠を出すことがいいかもしれないし、組み合わせていくのがいいのかを考えていく。
三番目は、ゲリラ的学問性(guerilla scholarship)である。難しく聞こえるかもしれないが、自分が何かを実現したいときに、ゲリラ的に身を隠しながら実現すること。だとすると、学者として生きているためには論文書いて、それが採択されなければいけないが、個人的な情報を盛り込むなど注釈や文献などにいろいろ入れていくようにする。
だが、研究者は、通常、論文に自分のことは書ききれないものである。普通に書くと落とされる。だが、注釈には書ける。それをゲリラと言っている。実際には、前書きや注釈に入れることは多くの人は割とやっている。
質的研究を一流雑誌に載せるのはそうそう簡単ではない。これらの考えが、研究世界の中心世界とか王道ではない。質的研究はマイナーであるが、保育の世界では、質的量的は半々であり、研究分野によって多少異なる。そう強い立場ではない。
質的研究にももっともな面があるが、ある意味ではフィーリング、説得的ではあるが、その知見を使っても大丈夫かなと思うと難しい、あてにならないこともある。そういうことがあったかもしれないが、読み手である「私」に当てはめるのは難しい。正直に語るのは難しいし、利用するにも難しい知見となる。
それは、功利的意味もあるが、研究が学問知見を進歩させるとか、あるコミュニティを助けるとか、有用性をもつとか考えたときにどれがいいのかは難しい。その組み合わせや、その場合ごとの戦略も考え行きたい。