2016.5.23
無藤 隆 子ども学研究特論(6)
第17章 事例法(ケーススタディ)
テキスト The SAGE Handbook of Qualitative Research, 4th ed. SAGE.
ケーススタディ(事例研究)
ケーススタディとは、一事例を扱う研究手法である。一事例というのは一人の、という場合も、ひとつの、組織、村という場合もあり、単位の大きさは色々である。
事例研究の中には、文化人類学で、「とある島で…」というような研究があるが、現代社会で統計調査もできる時代に、敢えて、事例研究をする意味について本講義で解説する。
事例研究には、大規模なサンプルで調べないと客観性がないという「批判」もある一方で、「賛同」する意見もある。
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ケーススタディに対する誤解(misunderstanding)が5つに分けてある。そして、それぞれの誤解に対する反論も述べられている(本文ではイタリック体で示されている部分)。
誤解1:一般的、理論的な知見の方が具体的な事例の知見よりも価値がある。
事例研究は具体的な事例を扱うが、それに対して、研究というものはもっと一般的な理論的な知見を与えるものであるという批判がある。
確かに、事例研究というのは、特定の人、特定の幼稚園など詳しく記述するものだから、特定のものに対して分かっていくものである。当たり前のことだが、一人ひとり違うわけだから、ある人はこうだ、と言っても、別の人は違う、と言うわけだから、それを100人とか1000人とか集めて、平均した方がよいという批判がある。
それに対して、事例研究の擁護派は、具体的で文脈に依存した知識こそが重要だと述べている。それが、なぜ、具体的なことが必要なのか。文脈に依存というのは、場合場合で違う時に、データを100集めて統計的に平均するのではなく、事例を50例、100例集めていって理解しようというのが成り立つ。
専門家になるとか、何かについて詳しくなる、エキスパートになるのは、そういった具体的な事例をたくさん知ることによって熟達者になっていくのである。
例えば、外科医が、手術を上手になる時に、色々な場合がある訳で、手術例を50、100例と経験することによって上手になる。そのように、具体的な事例こそが重要なのである。たくさん経験を積むことによって上手になる。
これは教育でも保育でも同じことが言える。さまざまな事例をたくさん知ることによって上手になるとしたら、個別の事例に取り組むことが重要である。さらに、平均的なものとか、ある種のルールが抜け落ちることがあるので、そういった微妙な細かいものを含めて、記述することが大事である。
それを通して、研究者自身もその事柄について詳しくなるし、読者や学び手も詳しくなっていくのである。
事例研究への誤解(批判)に対して、以下のような反論がある
理論的、一般的な知識とは、こういう場合はこうなるというような予測性をもつことであり、だからこそ価値がある。それに対して、そもそも予測できるような知識が人間の社会事象にあるかどうかというのは、なかなか難しいだろう。正確な予測ができないとすれば、次の事例に出会った時に、事例は予測できないけど、いろんな特徴があると考えると捉える。
つまり、事例研究への誤解(批判)に対しては、普遍的で予測可能な理論よりも具体的な事例という知識の方が重要なのである。
≪誤解1への反論≫予測理論と普遍性は人間の社会事象には当てはまらないが、具体的な事例の知見というのは、予測理論と普遍性のつまらない探求よりもかなり重要である。
誤解2:一個一個の事例では、一般化できない。それゆえ事例研究は、科学的な発展に寄与できない。
一個一個の事例では、一般化できない。一般化できないということは、Aさんってこういう人ですよというのが、Bさん、Cさんに当てはまるか。そうではなくて、人間は、パーソナリティを持っていて、Aさんが外交的であっても、BさんやCさんは別のパーソナリティを持っている。
幼稚園についても同じことが言える。予測可能性を持つ、すなわち、一般的な法則性を持つということ。
これについて言えば、ひとつは、一般化の可能性は大事だが、個別の事例も重要である。
特に、一般化できるということは、あらゆることに当てはまる。こういう事例もあると例外を出すことによって、法則を修正するのである。
最初に出てくるのは、ガリレオ・ガリレイの重力の話である。ピサの斜塔からものを落としたと言われているが、一種の都市伝説であり実際にやったかどうかわからない。『物理学天才列伝』という本の中に、ガリレオの思考実験が載っている。ガリレオ以前は、「物は重いほど速く落ちる」と思われていた。ガリレオは、2つのものをくっつけてみて2倍速く落ちるかを思考実験した。ガリレオは、それを実験で説明したわけではなく、一事例で、
アリストテレス以来の考え方を翻したのである。
ガリレオの半世紀後に、空気ポンプが発明された。それにより、ガラス瓶の中を真空にして、鉄と羽毛を落とす実験をしたら、同じように落ちることが実証された。鳥の羽がゆっくり落ちるのは空気の抵抗によるものである。
このように、一つの事例によって、理論は反証することができる。
ポッパー(Popper, K.)という哲学者は、科学において重要なのは「反証可能性(falsification)」であると述べている。
ポッパーの話で有名なのは、スワンの話、つまり、「すべてのスワンは白い(All swans are white)」という命題を用いた例である。
「すべてのスワンは白い」という命題を反証するためには、黒いスワン(black swan)が一羽見つかればいい。すると、スワンはみな白いという命題が反証される。
それ以来、ブラックスワンは、一つの用語となり、法則性があるけど例外が起きてしまうことをブラックスワンと言う。
誤解2への反論:単一事例に基づいて一般化することは可能である。そして、事例研究は、他の手法と一緒に使用されたり代わりに用いられることによって科学的な発展に寄与するかもしれない。しかし、正式な一般化は、科学的な発展の根源として過大評価され、事例のもつ力や転用可能性(transferability)は過小評価されている。
誤解3:仮説検証や理論生成には、事例研究以外の研究手法がより適している(事例研究は、研究の第一段階で仮説を一般化するには最も有用であるが)。
事例研究は、仮説を生成するのは有用であるが、仮説を検証し、理論を生成するためには、事例研究ではだめで実験や統計をしなければという批判がある。
しかしながら、先ほども言ったように、事例研究によって、ひとつの命題に反論できるので、いい事例をうまく選び出せれば、事例研究も役に立つことができる。
p.306 Box 17.1 ノーベル賞理論への反証
ノーベル賞をとったプリンストン大学名誉教授の心理学者カーネマン(Kahneman, D.)は、自身の論文の中で、色々な企業の失敗がなぜ起こるかというと、企業の経営者が楽天的になりやすいからである、と述べている。しかし、本章の著者であるFlyvbjerg, B. (2007)は、事例研究を行い、経営者が嘘をつくということが結構あることを明らかにした。特に、経費が非常にかかることをごまかすのは意図的な嘘である。
オリンピックを例にとると、経費が何千億とかかることになっているが、最初の予算のほぼ倍かかることになる。なぜかというと、著者の説を用いれば、誰かが予算を少なく見積もり嘘をついたということになる。
東芝については破たん寸前であるが、各部ごとに膨大な赤字を出していたのに、収支をごまかした。つまり、費用がかかっているのに帳簿の中で会計年度を次の年度にずらし、支払を先にした。すると、その年度の赤字が半分になって(裏赤字は膨大だが)赤字がそれほどでもないかのように各部門で嘘をついたのである。
事例によって細かく分かることがある。それについては、今、挙げたように、事例というのは、一つのものを詳しくみるものであるが、詳しくみるとこれがこうなってという流れが洗い出せる。つまり、何故そういうことが起こるか、具体的な事例としての説明である。
巨大プロジェクトというものは、だいたい赤字になる。費用見積もりが増える。どうしてかというと、カーネマンの理論でいうと、楽観的に大丈夫だと考えることもあるし、突発的に起こることを予算の中に見込んでいない。それは必ずしも意図的ではない場合もある。
いろいろ複雑なのである。
自分の家を建てる場合、最初に3000万円の予定が、窓のデザインを変えるとさらに100万円かかる。しかし、さらに50万円かかると言われても誤差の範囲だと思い費用がかさんでしまう。
上述したエピソードは、一つひとつの事例であるが(統計的調査もあるかもしれないが)、研究するためには、いい事例を見つけないといけない。
p.307 Table17.1 1には、重要な事例をきちっと見分けサンプリングする方法を示している。
A. ランダム選択(Random section)
1.ランダム・サンプル(Random sample)
ランダムに選び出す。特定の人や組織を意図的に選ぶのではなく、日本全国1億人の中から選ぶ。この場合は、サンプルサイズ、つまり、何人から選ぶのかが一般化の決め手となる。典型的なのは世論調査である。有権者名簿から数千人選ぶ。数千人でもかなり正確なのは、ランダムで選ぶからである。
2.層化サンプル(Stratified sample)
男女の人口はふつう半々で、あとは年齢ごととか、さまざまな基準で分ける。
例えば、東京都から1000人、埼玉県から100人などと人口比で選び出す。
たまたま北海道の田舎の人を100人選んでしまうと人口比が歪んでしまう。
こうすることによって、層別の特徴が取り出しやすい。
例えば、20歳代の有権者と、今度有権者になる18歳、19歳を選び出すとすると、全国では、18歳、19歳の人口は少ないから、18歳を千人、20歳代5千人を選び出す。
Aのランダム選択の手法は統計的サンプリングであり、Bの情報志向的選択は事例研究におけるサンプリングである。
B.情報志向的な選択(Information-oriented selection)
何を知りたいかによって事例を選ぶ。こういう種類の事例があるはずだからと期待し、そのような種類の事例を探して、そこで調査する方法。
たまたまあった人や近所の人をサンプルとして選ぶのは、便宜的サンプルである。
1.極端な事例/逸脱した事例(Extreme / deviant case)
通常の期待から極端に外れた事例。
「極端な」とは、犯罪を犯した家庭や、逆に、ハイリスクな家庭だけど子どもはしっかり育ったというような滅多にない事例。
幼稚園や保育園の場合、田舎の貧困地域でも立派な保育をしているとしたら、それはかなり逸脱した事例であり、そういうところを調べる。
2.最大変動の事例(Maximum variation case)
大きさ、組織の形態、場所、予算などの一次元の中で非常に異なる3つか4つの両極な事例を選ぶ。例えば、背の高さの一番高い人と低い人を選ぶ。または、50人定員の幼稚園と500人定員の幼稚園を選ぶなど。
3.クリティカルケース(Critical cases)
最良のケースでできない、最悪のケースでできるという事例を見つける。
ここで当てはまるなら、他でも大丈夫だろう。よい条件のところでできなければ、もっと悪い所はできないだろう、という事例である。
すごくいい条件の幼稚園でできないのであれば、他の悪い幼稚園でもできないだろうと考える。逆に、悪い幼稚園でもできていれば、他の良い幼稚園ではできるだろうと考える。
例えば、保育園というのは忙しくてなかなか園内研修を実施できないが、非常に忙しくても取り組んでいる園があるとしたら他の園でもできるだろうと考える。
4.典型的なケース(Paradigmatic cases)
あるものを考えるときに、思い浮かべる事例のこと。
例えば、文化人類学者のクリフォード・ギアツ(Geertz, C.)はバリ島を調査し、鶏の戦い(闘鶏)を克明に記録し、バリ島の典型的な事例であるとみなした。闘鶏は、バリ島のある種の宗教的儀式であり、バリの人たちの宇宙観を反映していると考えた。
バリ島が大きな事例であるのに対して、闘鶏は小さな事例であるが、原型としての事例は何であるかを考えるネタとなる。何がふさわしい事例かというのは直感である。
これは大事なことで、何度もそういうところに行っているうちに、重要そうな気がしてくる。それを克明に記して分析するのである。
言い換えれば、ここで研究者がそこにいて、何か重要そうだと感じる何かの中に、ある種の理論的な展開の芽がある。それを見つけていくことになる。
そういう風になると、さまざまな事例を意図的にみつけて、そこで検討するが、それによって、理論が証明されたということではない。ある種の理論はそれで反論されるわけだが、
別の事例研究は、新たな理論がそこから生み出されるかもしれない。
いくつかの複数の理論とか分類が、結果的に生じるかもしれない。
例えば、保育研究でエピソードを上げて研究するのがあるが、ここで言えば、典型的なケースであると思う。幼稚園や保育園でいかにもあるよね、「あるあるある」となるが、それが当てはまらない事例もある。
極端な事例とか対比的な事例をとれば、また違うことが出てくるかもしれない。
この辺で、事例研究というのは、本当にたまたま出会った事例を丁寧に見ることもあるが、いくつかの事例を選び出すとか、何十事例、いくつかの事例を取り出すとは、似た事例を取り上げるのか、極端な事例を取り上げるのか、という方法があるのである。
誤解3への反論:事例研究は一般化と仮説検証の両方に使うことができ、これらだけに限定されない。
誤解4:事例研究は確証に対するバイアス、すなわち、研究者の先入観を強める傾向を持っている。
事例研究は、確証(verification)、すなわち反証性が少ないという誤解がある。
「確証」とは、こう思っていた、会ってみたらやっぱり、というようなものである。
例えば、大学の先生って頭がよくって硬いという先入観があって、会ってみたらみたらやっぱりそうだというのが確証である。その逆に、予想に反して派手な人だったという場合は「反証」である。
事例研究は、自分に都合のいい事例を見つけるので、確証バイアスが起こりやすくなるという誤解がある。
保育場面を観察する際に、その人の構え、例えば、子どもを見守ることがいいと思っている時には、そのような場面ばかりが目につく。もちろん、見守ることが大事ではあるが、
子どもを見守っていないという事例を挙げることも必要である。
いくつかの事例を取り出す際に、なぜ、そこを取り出したかという理屈なしに取り出している場合は、その人の考えに都合のいい事例ばかりを取り出してしまう傾向がある。
ランダムだと、ある程度公平化されるが、少数事例を挙げると、都合のよくないところを無視してしまう場合もある。
大学の先生は堅いという思い込みで探せばそのような事例が見つかるが、少数事例にしても、きちんと一つの事例でやれば正反対のものも見つかるかもしれない。あるいは、複雑かもしれない。すると、最初の思い込みは修正されたりするかもしれず、事例だからといって、常に恣意的になったり主観的になったりするわけではない。
しかも、統計的なやり方でやったとしても、主観的な思い込みが解釈されることもある。少数事例でやるということが、思い込みをつねに確証するとは限らず、そのやり方次第である。データへの誠実性が問題であり、自らの最初の思い込みを崩し、現実を捉えていくことが大切である。
誤解4への反論:事例研究は、研究者の先入観をもった意見の確証に対して、他の研究手法ほどの大きなバイアスはない。それに対して、事例研究は、経験上、確証に対してよりも先入観の反証可能性に対してより大きなバイアスがある。
誤解5:個々の事例の集積を一般的な理論に発展させるのは難しい。
事例研究は、非常に個別的な事例の集積なので、そこから一般的な理論を構築するのは難しい、そして、それを要約し一般化するのは難しいという誤解がある。
事例研究は、多くは語り(物語、ナラティブ)として、ひとつのストーリーとして話す。
事例研究は色々あるから必ずしもストーリーではないこともあるが、するとそこで、話しを単純化しすぎたり、よい話の仕立てにしたり、ストーリーに合わないことは無視したりしがちである。
物語を語ることによる、ある種のごまかしが起こる。意図的なごまかしではなくても、語り方が作られていってしまう。
例えば、愛し合っていたはずの夫婦が離婚した場合、奥さんからのストーリーだけを聞くと男性がひどいとなるが、男性から話しを聞くと別なストーリーがあったかもしれない。
その事例をできる限り詳しく、つまり、分厚い記述(thick description)をしていくこと大事である。すると、詳しく調べれば調べるほど、単純なストーリーが成り立たなくなる。
たいていは。浮気した男が悪いか浮気された女が悪いかわからない。詳しくすればするほど、単純に誰が悪いと言えなくなる。
これについて、ドイツの哲学者ニーチェ(Nietzsche,F.)は、豊かなあいまいさ(rich ambiguity)を取り除くべきではないと主張している。
そういうことだとすれば、一つの研究を簡単に要約して、簡単に一般化することではなく、同時に、よくできたストーリーにしてはいけない。二律背反をどうしていくか。
ひとつは、できるかぎりオープンにする。オープンにするとは、そのストーリーを多様に色々な面を持っていると語っていく。男が悪くて女が被害者ということではなく、前回話した「羅生門」的に語る。
既存の理論で話すことを避ける。よくできた事例研究は大抵そうである。世の中の色々といことを出すことがむしろ事例研究としてはいい。
多様で多義的な不可能性を現実の実践の中でどう成立させるのかを考える。でも、考えていくと、威勢のいい議論が難しくなる。
保育で子どもの主体性を大事にしましょうというのは、本当に丁寧に事例研究をしている人は言わない。子どもの様子を見守れば見守るほど、主体性とか見守るとか、わからなくなってくる。逆に、保育者が子どもを一方的に指示するというのもたいていは無理である。
ただ、論文の結論は色々なので、研究では何か結論を述べるように言われる。多少わかった感はあるが、同時に複雑さを大事にしていかないといけない。
あなたはどういう研究をしたのかと尋ねられ、「保育って複雑で難しいことです」と答えたら、そういうことを言うために学費を出したんじゃないと親は言うし、大学に採用してくれないだろう。ある主張をしながら、複雑さを残すことが大事なのである。
誤解5への反論:事例研究を簡潔にまとめるのは難しい、特に事例のプロセスは難しいというのは正しい。事例の結果を簡潔にまとめるのが難しいというのはそれほど正しくない。事例研究を簡潔にまとめることについて問題なのは、事例研究が研究手法だからというよりも現実を研究するものだから、ということによる。事例研究を簡潔にまとめたり一般化するのは望ましくない。よい研究というのは、それら全体の中に物語(ナラディブ)として語られるべきである。
以上、5つの誤解への反論を示したが、一つの事例研究への反論ではない。それぞれの種類によってタイプによって異なる。
p.313 Box 17.4には、事例研究と統計的手法の相補性の事例が示されている。大きなプロジェクトは赤字になるという事例である。
この章を書いたFlyvbjerg氏は、経済学や経営学の専門家である。彼らの研究は、イギリスとフランスをつなぐトンネルとデンマーク・グレイトベルト・トンネルについて統計的な調査を試みた。イギリスとフランスの間のトンネルは予定の予算の倍かかり、デンマークのトンネルもも倍近く予算をオーバーした。これは、作った人が無能だったり楽観的だったわけではない。彼らが、巨大プロジェクトを探してきて、予算と経費について改めて統計的な調査をしたところ、十数のプロジェクトの中で一つの例外を除いて、すべて予算を超えていたことが分かった。統計的にも、予算を超えるというのは例外ではなかった。
なぜ予算オーバーが起こったのかというと、単なるミスが原因ではなく、意図的なごまかしによって起こったことが明かになった。わざとコストを安く見積もっている訳ではなかったのである。
彼らの研究を例にとると、一つの研究をする際に、他の事例を含めて研究しており、その組み合わせは、前回の混合法で説明したような事例研究と統計的手法を用いたものであった。
そのような事例研究と統計的手法の相補性を示したものが、Table 17.2である。
Table 17.2 事例研究と統計的手法の相補性
Table 17.2の中で主なものを解説する。
≪強みについて≫
「深さ」とは、詳細に、豊かに、網羅的に見るということである。
「広さ」とは、様々なサンプルでみるということであるがコストがかかる。
「概念的妥当性」というのは、理論を捉える見方のことである。その事例に即して丁寧に検討すること。
「母集団」というのは、すべての男性、すべての乳幼児、全体の特性を調べるが、ある考え方の特性や法則を見るときには幅広く見る。
「文脈と過程」については、事例研究は丁寧に調べれば、周りが見える。それから事例が変化していったらプロセスをみることもできる。事例研究と言っても、どこかの幼稚園を訪問してインタビューした場合、それは事例研究に違いないが文脈プロセスがわからない。どのくらい丁寧に見るのかが大切である。
「相関」については、統計的な研究は、統計値、数字と数字のつながりで見る。たぶんこれが原因でこれが起きたなと推測しやすい。
「確率」については、多くのサンプルを集めた研究では、確率としてこれが一番効いているということが分かる。例えば、保育士の離職率の原因は、統計で確率的には分かる。
「原因と結果」については、事例研究では推測しやすい。例えば、最近の話題でいうと、
保育園を辞める保育士がいて、一人にインタビューしたら本音を聞き出せる。給料とか、先輩との折り合いとか、連れ合いの転勤とか、個別的には色々であろう。その人なりの理由を積み上げていく。100人、1000人と調査をすれば原因と結果が分かる。実は、保育士の辞める原因は、給与理由よりも圧倒的に人間関係である。同じ給料でも離職率が高いところと低いところがあるのは人間関係が原因であろう。
≪弱みについて≫
「選択のゆがみ」については、アメリカの人類学者スーザン・ハロウェイほかが『ヨウチエン』という本の中で、日本の幼稚園保育園について書いた。ところが、こんな幼稚園は日本にはないと批判する人もいる。文化人類学者だから、実際に一園一園訪ねて記述している。それが「日本の幼稚園の実態」となると微妙だが、訪問した園は確かに存在しているのである。
「くくりすぎ」というのは、分類されてもその中には色々存在する。実際、日本の幼稚園や保育園の分類の試みは成功しない。子どもの遊びで分類しようとしても難しい。遊び中心の幼稚園というくくりをしたとしても、遊び中心といってもさまざまな園がある。全部一緒くたにならざるを得ない。かと言って、細かく分類するのも難しい。
当たり前であるが、統計的なチェックはできないし、現場を知らずに統計は出せない。
最後に、気を付けてほしいと思うのは、本章では、事例研究に対して好意的に書いているが、事例研究で因果関係が言えるわけではない。事例研究ではしばしばこのような結果になったと言うかもしれないが、色々なことがたまたまだったかもしれない。
色々な幼稚園や小学校を見ても、すぐれた幼稚園は家庭がよくて優れた子が来ているだけかもしれない。親子関係についても、ノーベル賞をとるような家の親のしつけは優れているかというと、そういうことは言えない。たまたまそうなっただけで、理由は分からない。
たまたま遺伝子がうまくいったのかもしれない。親のしつけについては、子どもがいいといいしつけができて、うまくいく可能性がある。いい子はいい子育てを導き、悪い子は悪い子育てを導くのである。親が持っている決定要因より、子どもが持っている決定要因の方が大きいが、それは、事例では見えない。
もちろん、それは事例研究だけではなく統計的調査でも同じことが言える(今は、統計的調査も、縦断的になってきており単純な相関ではないが)。