2016.5.16
無藤 隆 子ども学研究特論(5)
第15章・第16章 混合法
テキスト The SAGE Handbook of Qualitative Research, 4th ed. SAGE.
ミックスド・メソッド(mixed method)は、混合法、略してMMR(mixed methods research)とも言う。人によっていろいろな言い方をしており、単にミックスドメソッドだけの場合もある。文字通り、混ぜる、という意味であり、量的研究と質的研究を混ぜた方法論である。
第1章で解説したリンカンたち(Lincoln, Y. S)は、このハンドブックの編著者であるが、きわめて明確に質的方法と量的方法を二分して分けている。
1980年代に、質的と量的を混ぜる考え方が出てきて、2000年以降、混合法なりそのバリエーションにたつ研究者が多くなり、おそらく、最大多数派であろう。ただ、細かい定義は難しく、さまざまなやり方が存在する。
代表的なやり方は、質問して調査して、統計的に分析して、調査対象者の中から何人か選んでインタビューするというもので、MMRと言わなくても昔からそのようなやり方は使われてきた。
今の言い方でいえば、混合法と言える。質的研究をしながら数値データを持ち込んで部分的に統計データを分析するというのもあり、または、インタビューしたり観察したり、質的な記述があり、カテゴリーに分けて数量を数えて統計的に分析するというものもある。
質的方法が中心でも量的に分析する方法をとる混合法もある。
今述べたような研究法を混合法と呼ぶとすれば、日本では純粋な質的研究に対して、混合法の方が多いかもしれない。
では、問題となるのは、混合法はどの程度独自のものなのかということである。
最初の講義で話したように、質的方法と量的方法は根本的に違うものである。根本が違うものだとすれば、一緒にならないはずのものが一緒になっていて問題にならないのか、つまり、量的な結果を質的なものが補って、質的な研究のよさを生かしていないという批判もある。
今日の講義では、それについて考えていきたい。
15章の著者は、クレズウェル(Creswell, J.W.)で、混合法についての邦訳の本が出版されている。16章の著者は、テディ―とタシャッコリー(Teddie, C. & Tashakkori, A.)で、混合法の英語のハンドブックが出版されている。彼らは、混合法の代表的な研究者である。
次は、16章について解説する。
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代表的な混合法は、質問紙研究を実施して事例で補う、または、相関係数を出したのちに、いくつかの事例を詳しく見ると、よりわかりやすくなり、そこでどのような変数が働いているかがより具体化できる。混合法を好意的に言えばそのような説明ができるが、いろいろな意味で成り立つことができる。
表16-1には、混合法の特徴として、次の8つが挙げられている。
1.方法論的折衷主義(Methodological eclecticism)
質的方法と量的方法が全然違うもので両立しえないという立場があるが、そうではなくて、両立する、一緒に使っても問題はないという立場である。問題に応じて、質的、量的を使い分け、組み合わせていけばいいという考え方に立っている。これが折衷主義であり、今の学問世界でも両方存在する。量的研究者は心理学者に多いが、そういう人たちから見えれば、質的研究は研究ではないと主張する。一方、質的が多いのは、教育学や社会学である。そういう人たちから見れば、量的研究は人間を捉えていないと批判がある。
2.パラダイムの複数主義(Paradigm pluralism)
パラダイムとは、研究枠組みのことである。一連の研究をする際の枠組みとして、統計的研究のパラメータ(媒介変数)、つまり、数字の変化の組み合わせで社会の変化を捉えるやり方などがある。量的方法にもいろいろあるが、質的方法もたくさんある。
それらを両立できないようにと考えることを、通約不可能性(インコメンサビリティ(incommnsavility)という。要するに、相互に翻訳できないという意味である。
見方が違ったら。こういうものの背景には科学史の研究がある。複数主義の考え方では、混合主義は両立しないのではなく、通約可能であると捉える。
たとえば、前回は批判理論について紹介したが、批判理論とは枠組み(パラダイム)が違うのだが、違っても話をして一緒にやっていけるということである。
3.多様性(Diversity)
研究のあらゆる段階において多様的であるということである。研究のあらゆる場面というのは、抽象的理論的な枠組みということもあるし、そこでのデータの種類や捉え方ということもある。
たとえば、確認的(検証的)問い(confirmatory question)から探索的問い(exploratory question)までの多様性を認めている。検証的とは、仮説があってデータがあって、仮説が正しいかどうかとらえることであり、探索的というのは、仮説をもたずにデータを見ながらどちらかというと仮説や新しい理論を創り出すことである。量的方法は検証的であることが多く、質的方法は探索的であることが多い。混合法は両方を認めて組み合わせて使っていく。
MMRは、三角測量(triangulation)に関する文献の中でも部分的に使用されている。以前にも説明したが、対象があるときに、2つの視点からとらえるとそモノがどこにあるかわかる(立体的なモノの場合はもう一点必要である)。
昔のものの場所を知るときに、望遠鏡を用いており、地図上で線を引いたらどこにあるかが分かったが、現在ではレーダーを用いて超音波が当たって返ってくる時間で測定している。そのため、現在では三角測量は使わない。
三角測量を質的に利用すると、Aさんの見方とBさんの見方があって、それよって、そのものの真実の姿が浮かび上がってくる、となる。
群盲象評では、ある盲人は象を長くて柔らかいと評し、またある人は棒の柱があったと評した。それらを総合すると象の姿が浮かんでくる。これも一種の三角測量的発想である。
これは収束的(convergence)な捉え方である。つまり、違う角度から、1つのものを見て当てはまったら一つの結論が生まれる。例えば、証言者が、事件があった時に犯人を見たという人がいて、AさんもBさんも、あの人が犯人だと一つの結論に達したら、それが収束的の発想ということになる。混合法に広げて考えると、同じ方法に合わせて同じ結果が出てくると、それが正しいとなる。
それに対して、発散的(divergent)な捉え方というのは、それぞれの捉え方が違っていても、その違いに意味があるかもしれないという考え方である。例えば、ある幼稚園で調べたときに、園長に聞いたらうちの現状は〇〇〇であると答え、担任に聞いたらうちの現状は□□□であると答える場合がある。立場により、見えている場所や問題として感じる点が異なる。
発散的な捉え方は、実は、映画『羅生門』が由来となっている。羅生門は、京都にあるが、芥川龍之介の小説が『羅生門』(黒沢明監督、出演者 三船敏郎・京マチ子他)として映画化されヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞した。映画は、登場人物それぞれの言うことが違い、何が真実かわからないままストーリーが終わってしまうという内容であったため、立場によって見方が違うことを、英語圏でもRashomonとして使われており、教育評価の世界では羅生門的アプローチという用語で使われている。
4.連続的(continua)
混合法においては、質から量への連続体であると考える。質と量を対比すると断絶するため、質をとるか量をとるかではなく、質から量への移行と捉える。
例えば、インタビュー研究をしてカテゴリーに分けて数えるとした時に、カテゴリーに分類するところまでは質的であるが、それぞれのカテゴリー内の個数を数えるのは質的の延長ではあるが量的となる。さらに、一人の人がどのカテゴリーを用いたのか相関係数を用いると量的な研究となる。そのように考えると、質と量とが連続的であるとなる。
5.繰り返し(iterative, cyclical approach)
繰り返しのサイクルで研究する立場のことである。例えば、事実としてデータをとると、そこから、何らかの理論化をし、さらに仮説あるいは予測を立てる。そして、またデータに当てはめると、何度も循環している。データから理論をくみ上げていくところは質的なやり方が使われ、理論化から仮説を立てるところには量的分析が用いられる。それを一連の研究の中でやれば、質的方法と量的方法が組み合わせることになる。
別な言い方でいえば、データから理論を導き出す方法を「発見(discovery)」と呼んでいて、
仮説に基づいてデータにあてはめる方法を、「ジャスティフィケーション(justification)」と呼んでいる(正当化と訳すことができるかもしれない)。
ジャスティフィケーションとは、ある命題を述べる際に、その論拠や根拠によって確かであるとすることをいう。いずれにしても、予測して、その理由とか根拠はこうですよというのがジャスティフィケーションである。発見とジャスティフィケーションは、お互い全く考え方が違うが、両方を組み合わせることはできる。
6.研究の問い(research question)
その研究で問われている問い、問題、リサーチクエスチョンのことである。混合法では、多くの場合、研究の問題、何が問われているかを中心に考えて、それに一番ふさわしい方法を考えている。問題が中心である。これは、もしかして、馴れていないと当たり前に聞こえるかもしれないが、実験的な立場に立つ人は、あらゆることを実験可能として扱う。
あらゆる問題を質問可能なものとして載せていく。だが、混合法は、問題に応じて調査の仕方が変わるから、問題に応じて適宜使い分けた方がよい。混合法では、質的方法も量的方法も、限られるわけではなく、いろいろな使い方があり、きわめて多様である。
7.基本的研究計画と分析(basic research designs nad analytical processes)
いろいろなやり方があるが、基本的な計画と分析の方法のセットである。代表的なものが何種類かはある。例えば、タシャッコリ(Tashakkori)は、並行混合法(parallel mixed designs) などいろいろな名前を付けているが、質的方法と量的方法とを、並行して分析していくというものである。論文でいうと、問題の設定があり、ある章は質的、またある章は量的、最終章でそれらの違いを述べるというように、章によって使い分けるやり方がある。
それに対して、三角測量法あるいは同時的は、質的方法と量的方法とが一致するかを調べるものである。
それから、割と多いのが、系列的なやり方である。まず、質的な分析をした後に、次に量的な分析を順番に行うというものである(順番は逆もある)。
よく使う方法であるが、こういう仮説が成り立ちそうだ、こういう変数がと量的に組み入れていく方法もある。
8.バランスと妥協(balance and compromise)
質的方法と量的方法を組み合わせていって、どちらも適度にやる。質的方法が中心でもないし量的方法が中心でもない。それが妥協になるのはどうしてかというと、一定の研究リソース(例えば限られた研究時間)の中でやれば、質的でも弱い量的でも弱いということもある。それを妥協という。質vs.量という対立を避け、違う立場の語りを豊かにしていこうとする。
以上が混合法の特徴であるが、そこに伴ういくつかの問題もある。
特に二つのことが問題として挙げられる。
ひとつは、パラダイムの使用に関連した問題である。基本的理論的枠組みが複数ある。異なる枠組みがあるかということは、どういう枠組みがあって、どう組み合わせるか。どのように成り立つのかという問題である。
現在広く使われている混合法の立場が以下の3つである。
p.289 右
① プラグマティズム(pragmatism)―その解釈論
② 価値論的枠組み(axiological assumption)
③ 対話的立場(dialectical stance)
① プラグマティズムと解釈論
プラグマティズムというのは、哲学的な立場でのプラグマティズムと実際的プラグマティズムがある。哲学のひとつの立場としてのプラグマティズムは、19世紀の終わりに米国で生まれた哲学である。代表は、ジョン・デューイ、心理学者のウィリアム・ジェイムス その前にパースという哲学者がいて、その3人が哲学的プラグマティズムを作った。理論というのは、実際の場で試されることによって、実際の場で使われ、実際の場で討議されることによって、確かなものになるのだが、確実に検証された命題になるわけではなく、
討論されることによって確かなものに向かっていくという考え方である。
この哲学的プラグマティズムの考え方は、南北戦争の終わりくらい(19世紀後半)に、ハーバード大学で先輩後輩だったパースとジェームズとコロンビア大学出身の友人デューイが提唱したものである。デューイは1960年くらいまで長生きして亡くなったため、戦後多くの本を執筆したが、彼は現在の教育思想に強い影響を与えた。
そういう意味で、現在の教育思想、幼児教育思想のかなりの部分は、プラグマティズムであり、哲学的プラグマティズムと言える。混合法に立つ人たちは、プラグマティズムに共感する人が多い。
もっと実際的なプラグマティズムに立つ人もいて、実際的な立場では、役立つものは何でも使おうという立場。そういう立場では理論を「道具」とみなし、使えればいいと考える。ある問題で適当でなければ他の理論を使えばいいという考え。
だから、さまざまな哲学的、理論的立場が対立したとしても、理論というのは問題を解くための一種の道具であると考える。我々は、さまざまな理論的哲学的手立てを持っているから、それを駆使して問題解決にあたる。すると、そういう立場からすると、問題解決志向的であり、社会の中で実際に活動してみることが大切であると考える。そして、一人でやるものではなく、大勢で話したり討議したりしながら、よりよいものにしていくという中で、民主的な価値が入っていく。
② 価値論的枠組み
価値論的というのは、何が重要かというのが根本にある。価値あるものに役立つようにという立場である。前回話した批判的教育学にかなり近い。特定の価値の実現のために知識を使っていくという考え方である。
先ほどの哲学的プラグマティズムは実用的という意味では近いものがあるが、
デューイから考えると、究極の真実を明らかにしようというのではなく、より現実をとらえようと進歩していく、そこで、批判的価値論的ともずれがある。
③ 対話的立場
すべての研究枠組(パラダイム)というのはそれぞれに意味があり立場がある。色々な立場が平和共存するのではなく、その間の対話を可能にしていく。
例えば、 emic-etic
emic=組織の内部から捉えたもの
etic=組織の外部から捉えたもの
もともと文化人類学から来た用語である。どちらがいいかと対立することもあるが、両方の見方をつきあわせながら両方で対話していく。いろんな世の中の捉え方がある。例えば、個別性と普遍性。個性的と事例的などは一般的な対比である。
以上が、混合法というモノの捉え方や基本的な枠組みだが、それ以外に、そういう抽象的パラダイムはどうでもいいという立場もある。どうでもいいという立場は、研究枠組みというのは根本的にそれほど違わなくて似ていて入り混じっているものであるという考え方である。そういうさまざまな考え方を持つ人たちが集まっていて、ひとつの共同体を作っているとしたら、いろいろな考え方が共有されていく。あまり根本的なパラダイムにこだわることはない。それがプラグマティズムであり、実際的な立場である。つまり、目の前の問題に取り組もうという立場である。
p.291
もう一つの問題が、混合法における言語、言葉(language)である。混合法で使われる言葉は、バイリンガル(bilingual)なのか新しい言語(new language)なのだろうか。バイリンガルは何かというと、質的(QUAL)な方法と量的(QUAN)と統計的な言い方の両方を使い分けて駆使することである。それに対して、新しい言語というのは、両方がミックスしたものであり、
混合法には混合法のやり方が生まれていくということを強調する立場である。
バイリンガルの場合は、相互の対応性を考える。例えば、質的方法と量的方法の間の通訳可能性や対応性を考える。質的では言葉、量的では数字を使うが対応させると似たやり方があるのではないかと考える。分類を考えると、言葉による記述で質的に分類をし、ある点数の人は高い、ある点数の人は低いという変数を組み合わせて量的にグループ分けしたとしても、思考法としては質的も量的も同じである。
こういう理論化を図って、あるデータからものを言い、また別のデータからものを言う場合、ここで出てくるものは同じか違うかを考える。抽象的な思考過程で考えると、質的も量的も同じである。
さらに、データの処理の仕方も、似ている場合もある。
表を作る場合を考えると、統計的に表を作るとしたら、縦軸横軸で表を作ることができる。
インタビューデータを、縦軸に質問項目、横軸に学校別で表にまとめて考えてみる。
この考え方からすると、バイリンガルなら、質的方法と量的方法で言語は異なるが、科学的方法論としては似ているのではないかと、混合法の世界では成りつつある。
ある意味、科学的方法的なものが作られつつあるとも言える。
p.292
Box 16.1は、さまざまな混合法の命名が示されている。例えば、系列的(sequential)、並行的(parallel)など色々な用語が示されている。
Box 16.2は、根本的な世界の見方が示されている。混合法でどう変わってくるかという何人かの主張を整理している。
以上のようなやり方で、さまざまな混合法が区別されて、それぞれの方法論の細かい点が出てくるが、これは、かなり混合法のテクニカルな面なのでここでは省略する。
要するに混合法に基づいた時の組み合わせ方や協調性を強調するかによって、色々なバリエーションがある。
p.294
次に、データ分析(data analysis)による混合法を少し紹介する。例えば、表を使う方法でも、数字をつかった方法に類して、言語的な方法も表にするなど似たようにできるということである。
最後に、混合法に対する批判であるが、混合法はいい方法だと思うかもしれないが、折衷主義は虻蜂取らずとなりかねない。質的方法と量的方法を突き合わせるというが、そもそも、突き合わせるような同質の結論が出てくるのか。両立できないのではないかという批判がある。
実際の混合法では、量的方法が主で少し質的方法が入っているだけではないかというのもある。例えば、質問紙調査をした後に、何人かにインタビューするというものである。その場合、量的がメインで、イラストはおまけであるが、被験者が言っていることをイラストにすると分かりやすくなる。具体例としては、夫婦関係の調査を統計的にやって、夫婦の愛情尺度などと組み合わせて、夫婦間でトラブルがあるけどなんとかやっている夫婦という統計像を出してみたら、夫が遅く酔っ払って帰宅して、奥さんがどうするかという時に、ある奥さんは鍵をかけて締め出すのではなくご飯を用意しておくとか、他の奥さんは、鍵をかけて締め出すという様子をイラストで描くのである。これは、本来、質的とは言えない。
それから、全然違う種類の批判としては、ロジスティックな批判がある。研究にかかる手間に関して、研究期間が1年間とか予算も限られているとしたら、研究手法が決まっている方が能率があがるのではないかという批判である。つまり、混合法はいい方法かもしれないが、手間かかるしお金もかかるため、大変でそう簡単にはできないのではないかという批判である。
また、混合法をやるためには、それぞれの方法論に詳しくないとできないのではないかという批判もある。両方の方法論を熟知している人はそう多くないので、中途半端になってしまうのではないか。混合法の研究者を訓練することも難しいという問題点がある。
今回の講義は、質的研究法しか扱っていない。本当は量的研究法も扱いたいが、15回の講義ではその時間が足りない。しかも、量的研究法については一切話していないので分からない人は分からないと思うが、研究法について解説するには、今の時間の10倍は必要である。勉強する人も大変だろう。
それから、一定の範囲内で方法論に基づいて論文を書くのも難しいものである。
それに対して、批判の批判(再反論)もある。つまり、一人では研究をするのが無理でも共同研究すればいいというものである。または、大規模な共同研究で、継続的に研究すれば、特定の方法だけではなくてさまざまなアプローチを可能にする。
混合法は、最初に言ったように研究法としては広まっているが、折衷と自ら言っているのであまりすっきりとはしていない。研究方法としては、純粋な方が、迫力がある。しかしながら、さまざまな問題について調べようとした時に使えるものは使うという、実用的、道具的、プラグマティズム的な発想によって実りはあるだろう。