第1回の講義では、第5章の Participation, Rights and 'Participatory' Methods. / E.Kay M.Tisdallを参考にしながら、幼児教育の質における質的方法論の概要と歴史を説明し、研究への対象となる人の参加のあり方を論じる。
まず、本授業「子ども学研究特論」では、子ども学の研究の解説をする。私はデータを集めて分析する手法をとっているので、そのあたりを中心に解説する。
質的研究法の解説書は日本語でも200冊以上はある。量的研究法を加えるとかなりの数がある。本授業では、私の考えを詳しく述べるというのではなく、なるべく質的、量的な研究手法の解説を行いたい。
本日、配布した資料には、本授業のシラバスが書かれているが、幼児期の研究についてのハンドブックを用いる。31章の中で、方法論として必要なものを選んで本授業で解説する。ハンドブックの特徴は、幼児教育を含めての幼児期の研究を扱ったものである。early childhoodとは、緩やかに0歳から8歳までをさしているが、小学校に入るとchildhoodとなる。小学校以上は、日本語では学童、児童というが、英語で幼児という意味を一言で表す言葉はない。infancyは乳児期と訳されるが、乳幼児期をさす場合もある。年齢としては、0歳から1歳までか、0歳から2歳までをさすことが多い。infancyの後にearly childhoodがくることもあれば、early childhoodが乳幼児期全般をさすこともある。幼児教育を受けている子どもだけでなく、家庭や地域にいる子どもも含めて幼児期の子どもについての研究のことをearly childhood researchと言っている。幼稚園、保育所というのは、年齢刻みで通園が決められているが、early childhood researchは年齢的な刻みが厳密ではなく、もっと緩やかな区切りである。childhoodは子ども期と訳すことができる。英語では、子ども期は2つか3つに分けられる。early childhoodは0歳から8歳、childhoodないしlate childhoodは8歳頃から11歳または12歳くらいまで、middle childhood として6歳から9歳10歳位を指すとかすればlate childhoodはそれ以降となる。adolescenceという言葉は中高生をさすことが多い。adulthoodがいつからかというのは、時代によっても国によっても扱いが違う。
幼児期というのは特殊な時期と言える。大人は社会でちゃんとできる人をさすのに対して、幼児は親に依存しなければいけない時期であり、通常、義務教育を受け始めるか、その後長く受けなければいけない時期である。いかなる定義でも幼児というのは一人前ではない。
幼児というのは、障害のある人や高齢者の定義と似ている部分と似ていない部分がある。高齢者には、心身の衰えのある人とない人がいる。認知症の程度や、障害の程度には個人差があり、多様である。乳児と幼児は、年齢規定によって分けられていて、ある意味例外である。生まれてある時期まで依存的に存在している時期。そういう意味での年齢区分に個人差はない。時期としての独自性を持っている。スムーズな言葉を持っていないので独自の研究法を持たなければいけない。乳幼児期には先がある。未来があり、それは5年、10年以上ある。準備ということと今を生きていることが重なっている。
本書では、early childhood全体をどう捉えるかという視点が打ち出されている。その議論は社会学的である。社会学に傾いている研究スタイルと心理学に傾いている研究スタイルは、似ている部分と対立する部分とがある。心理学は細かい年齢に注目するが、社会学は大きな年齢区分で見ているという部分で学問的な対立がある。
本授業では、子ども研究全面の話をするわけではなく人生の初期の時期を扱い、いくつかの研究の立場を紹介する。受講者にとっては、質的研究の入門的な部分や発達心理学的な研究手法の部分は省いているので分かりにくい部分もあるが、その部分は自分で勉強をしたり他の授業において補っておく必要がある。
幼児期研究(または乳幼児研究)の中心は、幼児教育である。現代社会において、幼児教育は世界中で政策的な課題になっている。国によって幼児教育の歴史はさまざまである。19世紀にフレーベルが始めたキンダーガルテンが最初である。日本では、お茶の水女子大学の幼稚園が昨年140周年を迎えたが、幼稚園は昭和40年代に急激に普及してきた。90年代に幼稚園と保育所を合わせて3歳以上で普及率が90%を超えた。アジアでは、韓国、台湾、中国の大都市圏で幼児教育が普及してきており、シンガポールやタイ、さらには、フィリピン、インドネシア、インドあたりに幼児教育が普及してきている。日本の幼児教育者がシンガポールやタイに進出している。その際、どのように幼児教育を作っていくかが課題となっている。家庭や地域の貧困に対して幼児教育がどう対処していくのかという成果研究が90年代に世界的に本格化してきた。
2つ程度の研究の軸を考えるとよいと思う。一つはランダム化統制試行(RCT; Randomized Controlled Trial)ともう一つは実践研究である(下図)。
ランダム化統制試行(RCT)の中で最も有名な研究は、経済学者ヘックマンが再分析した、ペリー幼児教育プログラムへの参加を貧困地域の人たちにランダム化割り当てをしたものがある。医学の研究では、通常ランダム化比較実験で確かめなければならないとされている。ランダム化実験は、お金もかかるし、患者に負担をかけるという短所もある。お茶の水女子大の附属幼稚園や白梅の附属幼稚園は立派な幼稚園であると思うが、そこに通う家庭が元々立派であるという可能性がある。これは自己選択効果という。そのためにランダム化比較研究がある。医学の領域から始まって、経済学や教育の領域に広まってきた。少し面白い研究としては、お祈りの効果を患者に知らせないで行った場合に効果があるのかをRCTで効果を調べた研究がある。外国の有名な研究雑誌で、お祈りの効果が実証されたという研究論文が掲載されたが、その後多くの反証研究によって効果がないことが実証された。
それ以外の研究法として、擬似実験や縦断研究がある。擬似実験とは、ある教育方法を行っている学校を10校から20校程度集めて、ポイントとなる要件を統制して比較可能として調査することによって、RCTに近い研究ができるというものである。縦断研究では、ペリー幼児教育の研究でも幼児期から40歳くらいまでを追跡調査しているし、イギリスでも幼児期から20歳くらいまでを大規模調査で縦断的に追跡したものがある。
一方、実践者研究は、実践者が自分たちの実践を研究するものである。その中間に、実践者と研究者が協力した研究などがある。図の縦軸には、「基礎」、「応用」、「変革」がある。「基礎」では、虐待による脳の器質的な変容を研究するなどが含まれ、「応用」では、教育と福祉に分かれている国と統合されている国について研究するなど、「変革」では現実の社会を批判的な視点で見て変えていく研究などが含まれる。
ParticipationやParticipatoryは、参加、参与、参画と訳されることが多い。研究者と研究される側である対象者がいる。最近では研究協力者という。図の横軸と対応していて、実践研究の一番右にあるものは、実践者が自分の実践を研究するために研究者と実践者が同じになる。対象者が研究に加わっていく研究のことをParticipatory methodという。
もう一歩踏み込んでみて、対象者が子ども、特に幼児の場合どうするかという話である。常識的に考えたときに、子ども研究で、子どもが研究者と一緒にやっていくのは無理がある。一人前でないのが子どもであるから、子どもと100%一緒にやるというのは無理だが、0%やれないというわけではない。
これが明確に意識されたのは「子どもの権利」という考え方の出現による。現在の子どもの権利の課題意識は、国連の子ども権利条約から来ている。子どもの参加ということを巡って、子どもの参加の権利Participation Rightsである。General Commentは、一般的見解と訳されることもあるが、原用語をカタカナにして「ジェネラル・コメント」と使われることもある。配布したロジャー・ハートの「参画のはしご」の解説がわかりやすい。1.操り参画(manipulation)、2.お飾り参画(tokenism)、3.形式的参画(decoration)、4.与えられた役割の内容を意識した上での参画、5.大人主導で子どもの意見提供がある参画、6.大人主導で意思決定に子どもも参画、7.子ども主導の活動、8.子ども主導の活動に大人も巻き込む、の8段階のはしごを用いている。さらに、大別すると、1から3段階は子どもが十分意味を分かって参画していないので「非参画」、4から8段階は「参画の段階」となる。
日本でも、放送倫理・番組向上機構(BPO)で、子ども、中学生の意見を聞くという取り組みをしたことがあるが、ロジャー・ハートの参画のはしごでは、4か5段階くらいに相当するであろう。ロジャー・ハートは、小学生高学年以降を想定して参画のはしごを考案したのではないだろうか。では、幼児についてはどう考えたらよいのだろうか。幼児に「保育園に行けない子がいるけどどう思う?」などと尋ねて答えることができるだろうか。子どもを苦しめる質問になってしまうのではないだろうか。子どもの権利の議論の流れの中にあるものとして、民法で離婚時の親権のあり方の問題がある。民法改定によって、子どもが両方の親に接触を持つ権利に転換した。親が暴力を振るう場合、子どもに判断ができるだろうか。結論としては5歳以上であれば丁寧な聴き方によりある程度答えられるであろうということになった。
ハンドブック75ページには、子どもの権利条約12条の「子どもの意見の尊重」について述べられている。12条には、「子どもは意見を表明することを助けられなければいけない。そのときに表明する能力をチェックする必要はない。読み書き能力が差別的に用いられてきた歴史がある。年齢では決めない。どのように決めたのかということが子どもたちにフィードバックされること」などが定められている。
レッジョエミリア教育の中心が子どもの言葉を「聴くこと(listening)」である。聴くことの教育学pedagogy of listening。マラグッチは、子どもはたくさんの言葉を持っており、身振り手振りや絵を描くなど100個以上の表現手段を持っていると主張した。彼は、子どもの表現したものを聴くことを大切にした。
レッジョエミリアだけが影響力を持ったわけではないが、90年代以降、幼児期の研究者たちが子どもたちの考えや発想を引き出して研究するようになってきた。伝統的な研究では、子どもに言葉で尋ねて子どもが言葉で答えるということをしてきたが、お人形を持ってきてお人形が語りかける手法、何かしながら人形に対して答える手法、子どもに絵を描いてもらう手法、子どもに小学校での出来事を演じてもらう手法、子どもに写真を撮ってもらう手法などを用いている。例えば、ある幼稚園や保育園で、子どもに運動会の練習をさせるのをやめさせると園長が言い出す。保育者、保護者に意見を聞く。子どもたちに意見を聞いても、その意見に意味はあるのだろうか。運動会の直後なら充実感を感じて楽しいと思っていることが多いだろう。説明的な絵を描いてもらう方法もあるが、どういうつもりで描いているのかわからない。子どもたちの参加を促す方法が増えてきているが、子どもたちには個人差がある。子どもの思いを汲み出す方法には子どもに尋ねたり描いてもらうだけでなく、子どもたちの行動を観察するという方法もあるのではないだろうか。数ヶ月も練習していて最初の頃の記憶はないかもしれないので、子どもの振る舞いを観察することも、子どもに聴くことになるのではないだろうか。
もう一つ重大な批判は、子ども個人の参加、個人ベースの発想である。倫理的であるというのはそこに参加するというだけでなく、そのコミュニティ全体の中で倫理的に望ましいものとしていくことを考えていく。子どもの意見を聞いてその中に生かすというだけでなく、コミュニティ全体のあり方を考えることがparticipatory approachということなのではないだろうか。
参加型のアプローチは、本日紹介したロジャー・ハートの参画のはしご以外にも、さまざまなやり方がある。例えば、ハンドブックの78ページの「表5-1 モザイク・アプローチの6要素」があるので参考にしていただきたい。「モザイク・アプローチの6要素」「モザイク・アプローチで用いられる7つの方法」「モザイク・アプローチの3段階」を以下に紹介する。
モザイク・アプローチの6要素
マルチ・メソッド:子どもの様々な声や言葉を認識する。
参加:子ども自身の生活において熟達者や担い手として子どもを扱う。
再帰性:意味を反映して、子ども、実践者、親を含み、解釈の問題に対処する。
適応:様々な乳幼児期の施設に応用される。
子どもの生活経験に焦点を当てる:得られた知識や受けたケアよりも、むしろ人生探索を含む様々な目的のために用いられる。
実践に組み込まれる:評価的なツールとして用いられる可能性と初期の実践に組み込まれる可能性を持っている「聴く」ための枠組み。
モザイク・アプローチで用いられる7つの方法
質的な観察。
短期の構造的な子どもへのインタビュー(個別または集団)。
子どもが重要なものの写真を撮ったり、本を作る。
子どもが場所見学を案内したり記録したりする。
子どもが場所の二次元マップを作ったり、写真を用いたり、描いたりする。
親や実践者にインフォーマルなインタビューをする。
見慣れているさまざまな場所のスライドショーを子どもと一緒に魔法のじゅうたんに座って見る。
モザイク・アプローチの3段階
子どもと大人の視点を一緒にする。
教材について議論する。
継続と変化の領域について決定する。
さらに、授業では詳しく説明しなかったが、Cooke & Kothari(2001)の「参加の過酷さ(tyranny of participation)」の本に記載された参加型への批判を紹介しておく。
意思決定と統制の支配:参加のファシリテーターは、存在する合法的な意思決定のプロセスを乗り越えられるだろうか?
集団の支配:集団の力動性は、権力を持っている側の利益を結局強化するように、参加による決定を導くのではないか?
方法の支配:参加の方法は参加では提供できない利点を持つ他の方法を排除してしまうのではないだろうか?
(執筆:無藤隆,2017年4月10日)
(まとめ:白川佳子・木村明子)