この巻は、主にはエスノグラフィーの話である。「エスノグラフィーと観察」と言っているが、その観察は、いわゆる心理学でいう観察法とはまた違う。
第1章「イントロダクション -エスノグラフィーと参与観察-」では、エスノグラフィーの定義が述べられている。エスノグラフィーのエスノというのは民族、グラフィーは、描く、図、描写等で、それを合わせた言い方である。日本語の辞書を引くと「民族誌」と表記されるが、最近はカタカナでエスノグラフィーと言う。理由は、対象が民族とは限らないからである。
エスノグラフィーはもともと文化人類学の分野の研究法である。始めた人は主に欧米の人である。その人たちが未開拓の人の生活を調べたことが始まりである。そういうところで当初「民族」と言ったが、だんだん他分野に広まり民族とは限らなくなった。1ページに概要の説明がある。「エスノグラフィーは、字義的には人々についての記述を意味する。エスノグラフィーでは、人々を個々人としてではなく、集合的な意味で扱う事を理解するとことが大切である。エスノグラフィーは、コミュニティとか社会とか言われる組織化された持続的集団における人々を研究するための方法なのである。集団を特徴づける独特な生活のしかたが文化である。」つまり、関心は研究対象者が属している集団である。例えば、アルコール依存症の人たちを調べるために、AA(アルコール依存症患者更生会)を調べるというものがある。その研究は日本でもある。アメリカのAAは、キリスト教(プロテスタント)の色彩が強い。神の前で宣言するというわけである。日本の断酒会はキリスト教の色彩というより、みんなの前で宣言するという形である。定期的に集まって、相互の意思確認をするというようなもの。この研究はたくさんあって、アルコール依存から立ち直るには有効と言われている。エスノグラフィーはAAの集団の特徴を捉える。具体的に、どういう人がいるのか、サポートしている人はどんな人かというようなことを調べる。
19世紀においては、文明未開の人の集団について調べるというところから始まり、次第に20世紀において、身の回りの現代の様々な集団を調べるということが多くなった。小学校や幼稚園の研究をエスノグラフィーとしてやるということも出てきた。そこに出てくる人々が、その集団をどう構成しているかというような事や、子どもが遊んでいる場面以外の、つまり裏方の仕事などについても、調べるというようなことが行われる。日本の幼稚園のエスノグラフィー研究で有名なものは、Hallowayの「ヨウチエン」である。それからTobin(アメリカ)のもの。どちらもキーワードは「集団」である。あるいは「集団に属する人々がその集団にふさわしい生活をしている文化」である。文化というのは、ある大きな社会の文化というようなものもあるが、小さい文化もある。例えば幼稚園などあげられる。「幼稚園文化と保育園文化は違うのよ」というような意味合いの文化である。そのあたりは文化と言えるほど大きいかは別として、実際、幼稚園と保育園は制度も違う、法律も違う、働く人の資格も違う、というようなことがある。いずれにしてもそういうことを調べるのがエスノグラフィーである。
エスノグラフィーのルーツは、大雑把に言うと2つある。1つはイギリスを中心としたもの。社会人類学者であるラドクリフ=ブラウンとブロニスロー・マリノフスキーである。
マリノフスキーは、西太平洋のトロブリアンド諸島の研究をした。まだ学生だった頃、奨学金をもらって調査に行った。たまたま第二次世界大戦がはじまって、国籍の問題でマリノフスキーが帰れなくなった(細かい事は「西太平洋の航海者」を読むとよい)。
これが何で画期的かというと、研究対象だった所に24時間4年間生活したというところである。当時、そんな人はいなかった。それまで現地で暮らしている人は宣教師や、植民地支配の人である。だが、そのような人は、現地の人と同じ生活をしているわけではなかった。そんな中、マリノフスキーは、現地住民に近い生活をしていた。彼の出世のきっかけになった公式発表の調査記録とは別に日記が出版された。それが世界にショックを与えた。マリノフスキーの性生活を含めた私的な事柄がエスノグラフィー自体と別に書かれており、多くの悩みを抱えながら調査をしていたことが分かる。さらに、研究者として、対象である住民に十分に対等で尊重した振る舞いをしていたのかどうか。研究倫理違反になるかもしれないようなことも書かれている。そのようなところから研究とは何か、倫理とはなにか、様々な問題を投げかけたという側面もある。
もう一つのルーツは、アメリカである。それは19世紀から20世紀にかけての期間である。アメリカ合衆国の言語学者、社会学者がネイティブアメリカンに興味をもった(アメリカインディアンというと差別用語になるのでネイティブアメリカン)。その部族に行って、調べたのがアメリカの文化人類学者のフランツ・ボアズである。彼は、マーガレット・ミードなどアメリカの人類学者の全世代を育てた。マーガレット・ミードはサモアの調査をした。サモアへは夫婦で行った。どうして夫婦で行ったかというと、男性しか立ち入れないところがあるからである。男女別に住まいが分れていたりして、女性が立ち入れないところがあるからである。
いずれにしろ、エスノグラフィーのルーツは、大きく言うとこのような二つがある。その後、1920年代初頭にアメリカで「シカゴ学派」が出てきた。移民の研究である。1910年代から1920年代におけるイタリア系と東ヨーロッパ系の移民である。その状況を調べた研究がある。イタリアの南の方にシシリー島があり、移民が貧しいため差別されていた。そこにマフィアが勢力を伸ばした。そういう状況について社会学者たちは調査した。そういう人たちは、猛烈に勇敢に現場に入り込んだ。日本で言えば、やくざ集団に入る感じである。シカゴ学派の中で有名なのは、佐藤郁哉さんである。暴走族をエスノグラフィーで調査した。佐藤さんがシカゴ留学で書いたドクター論文に「暴走族のエスノグラフィー(英語版はカミカゼライダー」というものがある。それは、京都の暴走族の調査である。一緒に走ったりしたが悪い事はしていない。その中でインタビューを行っている。一緒に走るというのは、どこまでやっていいか。時にその枠を超える人がいるが、それは犯罪である。このようにエスノグラフィーは、現代社会の調査に使われるようになった。1960年代以降、小さい集団にも使われるようになった。
それでは、その理論的背景はどのようなものがあるか。4ページから18ページまで、それぞれについて述べられている。
・構造―機能主義
社会という現実をあたかも実在するものとして扱っている。構造というのは、動かない安定した社会を指し、機能というのはそれぞれが役割をもって互いに結びつきあうことを指している。未開社会での構造の中心は、親族関係である。例えば、親族関係の網の目がどの程度強力なものなか、とか、誰と誰が結婚していいのか悪いのか、というようなことである。同じ姓の人は結婚してはいけないなど色々なタブーもある。そういう表の社会からは見えにくい裏側のことを調べるのが構造である。構造と機能というのは、比較的安定して調べられる。それが国によってどう違うのかなども含まれる。また家系は誰が継ぐのかというようなこともある。日本では、長男が継ぐのであるが、それは江戸時代から安定している構造である。しかし平安時代から鎌倉時代ではまた違う。女系で継いでいく文化もある。日本はこの数十年で長男が後を継ぐというのは、廃れてきた。財産分与は等分割が原則である。このように構造、機能主義は安定している社会のあり方を想定する。
・象徴的相互作用論
ここで言う象徴とは、言葉や身振りやモノに対して、その意味が与えられるものということ。
例えば、先生と生徒の関係は、お互いの役割における関係である。これが象徴的相互作用である。先生が授業をしている時に、生徒に寝られると、教師のアイデンティティが揺らぐということがある。そこからわかるように、ある時点での象徴は作られている。自己も相互作用の中で作られていくのである。学級崩壊の中で、教師は教師という役割ではなくなっているというようなことから考えると分りやすい。それを徹底していくと社会というのは、ある種のドラマであることがわかる。それを最初に明確にしたのは、社会学者のホフマンである。彼は「我々は絶えず演技している」と言った。例えば、人と会う時も、親しい人は、遠くから手を振るが、親しくない場合は、近くに来てからお互いに挨拶する。そのようなことを相互作用として見ていく。その相互作用の中で社会が変化していくのである。つまり象徴的相互作用論とは、社会の変化のあり方を強調しているのである。
・フェミニズム
単に男女が平等というだけでなく、社会的に入り込んでいる様々な男女の別を表に出して、平等にしていくということである。極端な立場においては、「研究者」対「対象者」という2分が、そもそも問題だということになる。男女の関係から見た場合、典型的なところで考えると、男性は「見る性」、女性は「見られる性」として固定していく。男性が女性を見ることは許されるが、逆は許されない、というような非対称性がある。同性愛といっても、女性同士と男性同士の関係は違うというような、非対称性がある。このような性による不均衡があるのだが、その状況を解明し、抑圧を明確に言語化するための方法としてのエスノグラフィーである。
・マルクス主義
社会の物質的な関係に注目している。生産関係と社会的関係の間に矛盾があるのだが、その社会の矛盾を明らかにし、社会の矛盾を解決するというところを目指した。
・エスノメソドロジー
会話のやり方が、社会秩序を維持していると考える。会話ややり取りをそれぞれの人が演じているのであるが、その演じることから外れる人がいると、社会は混乱するのである。
例えば、「医者と患者」。互いに協力しながら秩序を維持している、その微妙なやりかたを明らかにしている。
・批判理論
批判理論とは、分析的な研究領域である。
このようにエスノグラフィーは、様々な理論的な立場から使われることになった。
エスノグラフィーとは何かと考えた時に、まずは「コミュニティ」「集団」である。そしてそれは「日常」なのである。その情報を集めるやり方は「観察とインタビュー」である。観察は、その集団に入り込んで、自分を明らかにしながら観察をすることである。「対象とするコミュニティの人々の日常行動に対する注意深い観察と入念なインタビューに基づいて、パターンを引き出すこと」である。暫定的な定義としては「エスノグラフィーは人間集団―その制度、対人行動、有形のモノ、信念などーを描くアートであると同時に科学である。」ということになる。エスノグラフィーを行う研究者は、主として研究対象とする人々のルーティンや日常生活に関心を持っているという事である。例えば「幼稚園」で普段何をしているか、というようなことである。朝行くと「おはよう」と言う。お帰りの前に集まる。そういうことを細かく調査する。我々にとって当たり前の事でも、よその国から来ると当たり前ではないこともある。学校で「規律」「礼」と言うことや、食事の前に「いただきます」と言う事や、一斉に食べ始める習慣など。それが、集団を集団足らしめている。その文化にいると気が付かないこと、そういうことに興味を持った人たちが、エスノグラフィーを行う。
19ページには、「方法としてのエスノグラフィー」について述べられている。
・フィールドに基礎をおく(研究者でそこに暮らすという二重生活)
・個人的である(研究者という個人が他の人と接触する)
・多元的である(数量的なもの、複数の方法で得られた結論も含まれる)
・長期間の関与が必要である(相手の文化を知らない人が知ろうとするため)
・帰納的である(一般化し得るパターンや説明に役立つ理論の構築に向けて、データを蓄積する)
・対話的である(研究者の解釈に対して、それが生み出されている途中であっても研究対象者がコメントすることが可能である。やりとりができる。)
・包括的である(可能な限り全体を描写する)
20ページには、「産物としてのエスノグラフィー」として以下の3つのカテゴリーが示されている。
・写実モード…エスノグラフィーで調査したものを論文にする、あるいは本にすると、物語的になる。写実的でリアルになる。
・告白モード…エスノグラファーが中心人物になる。「私が」という視点。
・印象モード…記憶に残るところをスケッチのように表現する。
論文としてはイントロダクションがあり、データの収集の仕方、場面の設定がある。
出来る限り分厚い記録をとり、そのうえでその文化において意味のあるパターンを取り出していく。雰囲気、文脈、状況を捉える。
第2章「エスノグラフィーの有効性」では、エスノグラフィーというのは、現代社会の中にもってきて、具体的にどうすればよいのかということについて書かれている。研究実例としては、トリニダード・プロジェクトというものがある。1970年代初頭以降の「契約移民」システムによる、インド人の子孫についての研究がある。移民がいて、これは単純な奴隷ではないのだが、その人たちの中でアルコール依存の人の状況を調べた。
もう一つは施設外治療プロジェクトである。精神疾患、精神遅滞の人はそれまで施設にいたが、1970年代初めに「施設外治療」されるようになり、そこから解放される。これは、良い事ではあるが、一方でコミュニティの中で暮らせない大変さがある。福祉サービスから落ちこぼれてホームレスになるというケースもある。重篤な精神疾患と精神遅滞を持つ「二重診断患者」に教育・仕事・住居を提供する、フロリダのある施設を対象にした研究である。
27ページ以降は「エスノグラフィーの方法―研究上の特有の課題」が4点述べられている。
1.エスノグラフィーは、研究課題を明確にするために使用される。
研究課題を明確にする目的で、とにかく記述(何が課題なのかはっきりしない段階で、とにかく記述する。)
2.エスノグラフィーは、既存の研究からは予測し得なかった行動の発見につながるような問題を解明するために使用される。
その問いかけは、例えばそこに住んでいる人は、すでに知っているということ。普通、自分たちにとって当たり前のことは研究しない。幼稚園に置き換えると、先生たちは、子どもを保育する以外に何しているの?とか、そういう課題。そういう当たり前の事は、当事者にとってはつまらない、当事者にとっては、それは良い保育に関係ないと思っている。しかしそこから、何か予測しない問題に発見に至ることがある。そういうケースに、エスノグラフィーは適している。
3.エスノグラフィーは、特定の社会的な場における参与者がだれなのかを見極めるために使われる。
集団のその場における参加者は誰なのか、そしてどういう関係なのかを見極めるために使われる。例えば、トリニダードのインド人社会組織において「家族」はとても重要であるが、誰が「家族」で誰が「家族」でないか、そして家族間はどのような関係なのかということは、時代を経て変化してきている。現在の家族組織を詳細に解読した記述的エスノグラフィーは、この状況を明瞭にしている。
4.エスノグラフィーは、プロセスを詳細に記録するために使われる。
これは、とにかく詳しく記録するということである。例えばAA(アルコール依存症患者更生会)が病気に立ち向かう方法として、それは強いキリスト教的世界観の中で成功してきた。しかし、トリニダードという異質な社会的世界に住むヒンズー教やイスラム教のインド人の中でもAAの方法が成功している。彼らの回復プロセスを詳細に記録するためには、エスノグラフィーが必要であった。
5.エスノグラフィーは、その場に適した方法をデザインするために使われる。
例えば、アンケート尺度を使ってよいが、どう役立つかは、エスノグラフィーを通して言い回しとか調べる場面をはっきりさせていくことが必要である。日本人はアンケートといって5件法で問われても、なんとなく答えられる。しかし世界の中では、5件法などになじまない人もいる。集団、特にその集団の日常を描き出すには、現場の状況に敏感であることが重要である。大きな社会でも特殊な社会でもそうだが、標準化された尺度を利用したのではうまくいかないこともある。そのような場合には、適した方法としてエスノグラフィーが使用される。
第3章の「フィールドサイトの選定」では、研究の場として、フィールドサイトを選ぶことは重要であるということが述べられている。例えば、養護施設を調べたいと思っても、なかなか入れない。現実的に、どういうサイトに入れてもらうかは、重大な問題である。まず自分の特徴を知ることから始めるとよい。自分がその場にいて、身をさらすことで、聞いたり考えたりする際、大事なことは、態度、謙虚、タフさ、である。まず、その場に行けるか。水洗トイレのないところ、そもそもトイレのない所、現地の食べ物を食べられるか等。様々な状況を考えると、相当タフでなければならない。自分に何ができるか、まず自分の適性を考える。無理をすることではない。フィールドに行って病気になることが一番こわい。水にあたらない、というような事も大切である。そしてタフさ。心のタフさ、文化的な寛容性、そういうものが必要となる。ちなみに、ローレンス・コールバーグ(1927~1987)は、道徳性発達理論の提唱者であるが、アマゾンで道徳性の調査を行う際に風土病にかかって長年苦しみ、死んだ。その他、テロ、身の危険もたくさんある。
「フィールドサイトを選ぶ」際には、以下の指針が役に立つであろう。
1. 解明したいと考えている研究関心がある程度明瞭なかたちでみられると最も期待できるサイトを選ぶ。自分の研究関心が満たされる場に行かないといけない。
自分の関心、それにより行先が決まる。誰も行かないところだから行ってみたいとか、
すでに先行研究はあるけれども疑問があるというようなところで、決めていく。
2.他の研究者によって研究されていて比較可能であるが、研究されきっていないサイトを選ぶ。例えば、バリの調査は無数にあるが、でも敢えてやってみる価値があるか、というようなことを考える。
3.「要許可」障害が少ないサイト
例えば、職員会議を調べたいと思っても、許可が難しい。授業を調べるのは習慣となっているが、職員会議は難しいのではないか、ということを考える。
4.コミュニティの負担にならないサイト
住まいや食料品など相手に負担をかけてしまうことがある。そういう事にもよく配慮する。資金的・時間的な資源をよく計算して計画を立てることが大切。
次に、「ラポール」であるが、ラポールとは信頼関係である。調査させてもらえるということ。なじみがあるからよいとも限らない。なぜかというと、かえって期待が大きくなり、変わったことをしにくくなる。かえってやりにくいこともある。それから、良く知っているところでは、なんでも当然に思えてしまうので、それを対象化しにくいということもある。また最初に歓迎してくれた人がベストとは限らない。監視者である場合もある。例えば、共産圏・独裁国など最初に近づいてくる場合は、監視者、スパイであることが多い。ともかくガイドになってくれる人が必要。その人がそのコミュニティで尊敬され好かれている人ということが大切。
観察に行っている時には、お手伝いをする。役立つように最大限努力する。目的を十分に説明し、自分の考えもきちんと伝える。その際、相手と全く意見が同じでなくてもよいが、喧嘩になってはいけない。コミュニティにとっての慣習を大事にする。どのくらいの期間調査するのか説明することが大切、家族や同行者がいる場合、気持ちよく行けるように配慮する。
第4章「フィールドでのデータ収集」では、事実と現実をしっかり把握することが大切であるということが述べられている。事実は、客観的なものとして必ずしもあるとは限らない。自然科学的な事実とは違う。その事実を、別の人が見た時に、そこにある意味は違うことであるかもしれない、そういうことを自覚しておく必要がある。
49ページには、「応用的エスノグラフィー」について述べられている。エスノグラファーによって見方が違う事はよいが、応用エスノグラフィーといって、そのコミュニティに役立つことをしたいと考えた時に、そのコミュニティのあり方に近づかないといけないということがある。例えばアルコール依存について調べようとした時に、その観察を通して、政府の健康政策に役立てたいとする。そうだとすれば、どういう情報が必要なのか考えながら調査するということは大切である。応用的エスノグラファーは、相対的な確実性の立場から仕事をしなければならない。つまり、明瞭に定義され、客観的なデータを踏まえて物を言わなければならないということである。そのためには、エスノグラファーが、研究対象コミュニティで起きていることをきちんと把握していると理解されることが必要なのである。
50ページから、「観察」「インタビュー」「文書研究」といった「3つの主要な技法の領域」が以下のように示されている。
まず観察とは、研究者の五感を通して、フィールドの人々の活動と相互作用を近くする行為である。その人の見方に寄ってみる。その研究者の背後にある文化とか学問とか、そういうことを自覚しながら見ることが大事である。それによって記録をとり、一定のパターンを抽出していく。それによって一定の見方をしていく。次第に何かが見えてくる。その文化の見方が自分のものになっていく。その際に言葉だけでなく、空間使用、身振りなども記録していく。行動痕跡研究といって、ごみを調べるというような研究もある。
フィールドノーツとは、特定の場でどういう場面なのか、どういう人が、何をしているかを記載するものである。そこで起きている出来事、そこにある物理的なもの、個々の人の行動や相互作用を記録していくことが大切である。
そのポイント5点が55ページに示されている。
1、冒頭に必ず観察の日付、場所、時間を書く。
2、やりとりは逐語的に、文字通り記録する。
3、匿名の名前、印(しるし)、仮名を使う。
4、順序立てて出来事を記録する。
5、すべての記録を客観的なレベルで行う。
2つ目に、インタビューとは、情報を収集するために会話を方向付けるプロセスである。
エスノグラフィーのインタビューは、対象者とある程度知り合いになっておくという点が、他のインタビューと異なる点である。
やってはいけない例
・誘導して望む答えに持って行く。
・インタビュイーが新しい話題を持ち出した時、相手を無視する。
・話を切り替えたり中断したりすること。
・非言語的な手掛かりを無視する。
・こちらが望むような返答を言わせるような質問をする。
・インタビュイーが「正しい」返答をしたことを示すために、非言語的な手掛かりを使う。
インタビューを行う際の「エチケット」
・相手の語りに言葉を差し挟みすぎないようにする。
・ほどよいアンコンタクトが大切。
・望ましくない非言語的手がかりを回避する。
・緊張をほぐすためのお喋りの期間をとる。
・歓待される場合があるが、ごちそうされるという風になると問題である。失礼にならない範囲でどう遠慮するかが、難しい。
・相手の状態に気を配る。
・事前準備をすること。
・パーソナルなところをうまく聞く。写真、スクラップブックなどを見せてもらうとよい。
特殊なインタビュー
家系についてのインタビューは、当該コミュニティにおける人間関係のパターンに関する情報を取り出すのに使用できる。家系からソーシャルネットワークを聞いていく。
オーラルヒストリーとは歴史、語られる歴史。公式な文字になる歴史は、どうしても強い側(権力側)の歴史になるが、そこに残らない歴史を聞く。
オーラルヒストリーの中にライフヒストリーがあるが、ライフヒストリーは、特定の個人の生活を通して過去を知ろうとすること。成育歴である。
サンプリングについて
サンプリングサイズは、研究しようとするグループの特徴、研究者自身の資源、研究の目的に依存する。
インタビューデータの記録について
インタビューデータを録音する、それを録画する際の、文字化するときの難しさがあるということ。
3つ目に、文書研究とは、研究や官公庁業務、その他の公式・非公式な目的のために蓄積された資料の分析である。ドキュメントとは、公式文書や要録などのことである。すでにあるもので見せてもらえるものは見せてもらう。すでにあるデータをうまく生かせば面白い。その際、文書の使用の許可を得なければならない。成績とかレポートとかは許可が必要。ここには、そのようなドキュメント分析について書かれている。優れたエスノグラファーは、観察、インタビュー、文書から収集した複合的な資料に支えられていると言える。
5章「観察について」では、観察技法に関する概念と手続きについて述べられている。エスノグラフィーというのは、ある集団の中に入って調べるというわけだが、その時にある特定のデータ収集法を使うわけではない。とにかく親しくなって、色々な方法で調べるわけである。色々な人にインタビューするのと観察するのが中心である。ということで5章は観察について述べている。観察ということを考えた時に、エスノグラフィーの中における観察とその他色々な研究における観察があり、それにより、観察のやり方に違いがある。観察は質的研究に限定される訳ではなく量的研究でも使われてきた。では、観察とは何か。72ページにあるが、観察とは、科学的な目的のために道具を使用して、現象について書き留めて記録する行為である。保育園の保育士が自分の保育の中の子どもを観察することは、ここでいう観察とは違う。保育士のするそれは科学的目的ではない。それは保育という営みの中にあるものであるから、ここで扱うものとは違う。観察は、たいていは道具を使用してメモを取るとか録画するとかある。書き留めるとは字を書くことである。質的研究全般では、全感覚からの情報を得ることである。見るだけはないということである。言葉だけでない表情などにも注目する。見ること、声を聞くこと、匂いもあるだろう。どちらかというと全身で情報を得るということ。観察というのは色々な場面で使われる方法であるが、エスノグラフィーというのは、「生活者として存在する」という面を持ちながら関わることである。観察する場面はフィールドというが、フィールドという言葉は「場」ということである。fieldを訳せば現場となる。ここでいうフィールドとは「現場」と「現」がついているように社会の中に存在している場面のことで実験のためにしつらえる場面ではないということである。心理学実験では母子の愛着を調べるときにストレンジシチュエーションという実験の場面を作り出すが、それは実験室に親子を呼んで観察するというような状況である。そういう場面は普通には無いから、ここでいうフィールドではない。
72ページから、エスノグラファーがいう観察者の役割には以下のいくつかがある。
1.完全な観察者
見られる側が観察されていることに気づいていない。あるいは見られていることは気づいていても研究のための観察とは気づいていないというような場合である。例えば、公衆トイレによる相互作用の研究。隠れていたわけではないけれども、単に利用者として存在して、その並ぶときの順番とか列などを観察する。他にも駅の自動切符の扱い方や混雑した駅の通行なども観察できるであろう。ゴフマン(米国の社会学者)なども研究しているが、大学食堂での学生の座り方、電車の車内での座り方などを観察する際にもこの完全な観察者の役割をとる。
2.参与者としての観察者
これはインタビューやその他の研究の文脈を設定するために、短期間の観察を行う研究者に見られる。研究者が自分たちを観察しているということを、研究対象者が知っているという状況である。心理学者がよくやる方法で、保育園などで子どもを観察する場合も、この方法をとることがよくある。
3.観察者としての参与者
研究者が研究対象とする集団の生活の中にさらに入り込み、人々とかなり関わるやり方である。参与することが多いということ。参与とは参加する加わり具合が大きいことである。観察者が、研究者以外の役割を担っている場合がこれにあたる。幼稚園、保育園の観察に例えると、担任ではないが、保育のお手伝いをする立場とか、子どもが危ないことをした場合に止めることがある、など。場合によっては副担任に近いくらいの役割を担っている状況を指す。
4.完全な参与者
担任が自分のクラスの研究をする場合などで、その場面の中に完全に溶け込む状況がこれにあたる。これが一番よいと思ってはいけないという注意書きが述べられている。「ゴーネイティブ」と呼ぶが、土着民、その場の人になることだが、問題は、研究対象者を対象化しにくくなってくるということである。入り込むとその組織の人としてのとらえ方になってしまうということである。幼稚園の担任に例えると、自分のクラスのことをよく分かる面はあるが、子どもを担任という目で見ているので他の視点から見ることができなくなってしまうという限界がある。また子どもは、担任の前ではしない行動があるのだが、そういう場合、子どもの行動の担任には見せない別の面が見えなくなるという事がある。担任以外の人が観察する場合には違う面を見せることがあるが、担任であるということで、かえって見られなくなる、そういう意味での限界がある。さらに、担任として研究をしていることをどこまで知らせればいいのかという倫理的問題もある。
このことを、メンバーシップといって、以下に、少し違う観点で述べている。
①周辺的なメンバーシップの立場
周辺的なメンバーシップの立場をとる研究者とは、研究対象とする人々に密接に関わって観察し、内部者としてのアイデンティティーを確立するが、中核的な活動には参加しない人のことを指す。佐藤による京都の暴走族の研究などはそのような立場も含む。
②積極的なメンバーシップの立場
積極的なメンバーシップ役割を採用する者は、当該集団の中核的な活動に従事するのだがただし、集団の価値・目標・態度への関与は控える。例えば人類学者のクリストファー・トゥミィは、天地創造説の信奉者集団の研究をした。彼は、哲学的な立場には賛同しないことを明確にしていた。宗教的な信者ではないが付き合い、参加する。しかし、あなた方と同じ信仰は持たないと明言していたのである。
③完全なメンバーシップ
完全なメンバーシップをとる研究者は、研究者が積極的な活動のメンバーとして従事している場面を、研究することである。その中に完全に入って一緒に活動をする。同じ考えで一緒に活動するが同時に研究もするということを公言する。
上記の3つの立場はすべて参与観察である。
参与観察というのはフィールドの中の研究者でありながら、研究者でない役割もとって、そこでの活動やその他に参加することである。文化人類学者の多くが、文化の中に入って宗教の秘密の儀式などに参加することもあるが、それをどこまでやるか、本当に難しい。境目をどうするかという問題である。これらは、ある種の方略である。つまり、特定の技法ではない。特定の役割といくつかのデータ収集の技法の組み合わせで、その役割を担うということである。フィールドにおける生活者としての役割の一端を担うのがエスノグラフィーである。それが望ましいといっているわけではないが、それがエスノグラフィーという研究手法であるということである。
次は、観察のもう少し具体的なことに触れる。
75ページ下に、観察研究の課題として、観察の技法がどのような事柄を扱う研究に適しているか示されている。
・特定の場面に注目すること。
例えば、教会のミサ、特定の組織などの、特定の場面。
・一連の出来事に注目すること。
儀式など。特定の場所で起こる一連の活動に注目する。
・人口学的な要因を考えること。
人口学的な要因を組み入れた手法。関心が社会学的な側面にある場合などに該当する。
人口学的とは物理的要因における社会経済的差異の指標を見る事。社会、経済的なシーンを考えるという事。
次に、そこに参加する、特に観察者になるために必要なスキルについて考える。必要なスキル・資質とは以下のものがある。
・言語スキル
言語スキルとは、日本語を話すというだけでなく、スラング(俗語)やジャーゴン(仲間言葉)なども理解して話をすることができる。
・自覚的な意識化
これが一番難しいが、その集団における日常生活や儀式の、ありふれた細部に対して意識的になること。例えばトイレの話でいうと、どういう風にトイレに並ぶかなどが重要になってくる。あまりにありふれているので当事者に聞いても必ずしも答えられない。当事者には意識化されないものが大切かもしれない。
・良好な記憶力
全部がメモや録画をできるとは限らない。気をつけないといけないが、覚えているつもりでもビデオ録画と照らし合わせると違っていたりする。そのため、覚える努力が必要である。
・洗練されたナイーブさ
ナイーブであるということは、素朴であるということ。素朴なことをインタビューで問題として取り上げる。英語でナイーブというと、辞書を引くと「素朴な」という意味がある。モノを考えていないというネガティブな意味もある。「何も知らない」というようなニュアンスもある。ここでは「知っているのだが、敢えてそれを聞く」という場合を指す。「子どもの主体性を大事に…」などと言われた時、「それはどういう意味ですか?」と敢えて聞く。その場合「保育指針に書いてある」などの返答があるかもしれないが、「知っていることを前提として敢えて聞く」という姿勢が大事。当たり前のことを尋ねることを恐れない姿勢が大事。
・書くスキル
書くスキルとは、しっかりそれを書けるという事である。
76ページには、「観察研究のプロセス」について述べられている。このプロセスの最初の一歩はサイト選びである。この場合のサイトは「場所」という意味である。コミュニティへ参入する際に、許可を与える人をゲートキーパーという。ひとたびサイトにアクセスしたら、観察を始めるわけだが、その際、観察の仕方やインタビューの仕方の訓練が必要になってくる。観察が始まると、研究者は一切合切メモをしなければならないと感じるだろう。だが、ひたすらメモをすればいいという訳でない。ノートにひたすら手書きでメモを取ればいいというだけではなく、その日のうちに、後で探しやすく整理をすることが重要である。情報を整理して補うことを行う。原則は大体、メモをとってその日の夜に整理する。そこで大事なことは、単に読みやすくするのと同時に、検索しやすくすることである。「●●ちゃんのやったこと」だけを探せるようにするとか、「担任がクラス全体に話しかけたこと」、「担任が個人に話しかけた時」などの分類で検索しやすくする。その上で何らかのパターン(傾向)を見つけやすくする。このような傾向があるというパターンを見つけやすくすることが大事である。
理論的飽和とは、さらに観察を続けても同じパターンが出てくることである。ただ理論的飽和がいつかという客観的な時点はない。個人の感覚である。例えば、そこでの理論や知見を発表したら、色々質問されて、「あ、実はわかっていなかった」というようなこともあるから暫定的であるとも言える。
次に信頼性と妥当性の問題であるが、信頼性というのは、そこで観察したものが「あてになる」ということ。単純な意味で正確に記録できるということである。妥当性の問題とは、そのデータが目的にふさわしいものになっているか、つまり目的に一致しているかどうかことを指す。量的研究では客観的にチェックする手法が開発されているが、質的には難しい。特にエスノグラフィーの場合には、他の人がその場にて、複数でチェックできればよいが、そういかないことも多い。
79ページに、質的研究者がどうその自分の研究のデータの信頼性、妥当性を示すのかということが書かれている。確かにそこにいて、フィールドで集めたことを根拠にして語る。つまり、確かにその場に居たことを示すことが大事である。例えば、固有名詞で語る。本来は匿名で書いていても、固有名詞で書く。特定のA幼稚園というのは、一般的な抽出ではない。特定の幼稚園に私は確かにそこに行った。適当にでっちあげたわけではなく、いつそこに行ったのかを明らかにする。何月何日に行ったし、写真もあるし、メモもあるということを明らかにできるようにしておく。そういうことを自分のノートにして持っていないといけない。独自な特定の場所にいたことをどう示すか。論文にするときにも、守秘義務を守りつつも示さないといけない。
それを根拠にして語ることは論文の妥当性につながる。自分が観察したことを元にして語るのである。観察しなくても、してもどちらでも書けるという内容ではないことが大切である。
最も一般的に妥当性を担保するために、以下の方法が採用される。
複数で観察する場合は、互いにチェックし合い、一致するかどうかを確認する。
分析的帰納法とは、こういう風になるというパターンを見つけたとして、その例外や反証するものを見つける方法である。パターンに関連づけられるかどうか整理する。つまり、パターンA、B、Cという整理ができるということである。目標は、その主張が多少なりともその事例以外の何かにも当てはまる普遍性をなにがしかあると見なせると主張できるようにすることにある。
迫真性、本当らしさとは、小説のように読者がそこにいたように書くことである。その言い方を生かすのである。その雰囲気自体に意味があるかもしれない。例えば保育者にインタビューした時に、「(その保育士は)子どもが大事だと語っていた」と記述するよりも、「やっぱり子どもは楽しくて子どもの気持ちが一番よねと語っていた」とそのままの言葉を活かす方が、雰囲気が出る。そういうことが真正性という。
客観性とは外から確認できること。信頼性、信用性、監査可能性、というのはそのデータを細かく見ていく際に一貫かつ安定している程度をいう。オーディタビリティとは会計監査で言う監査と同じ意味。その人の論文をチェックしていって、もとのフィールドノートの記述を出してもらって確認すること。全部出すことは疑われた時以外はないが、必要な部分をチェックする。ちゃんと元があってつながりがありそうかどうかをみるということである。
内的妥当性、正当性、真正性とは、研究の結論が納得できる程度である。結論が研究対象者にとっても報告書の読者にとっても正当なものであるか、ということである。最終的な成果がその真正な記録であるかどうかを問う。
外的妥当性、転移可能性、適合性とは、べつの場面でも当てはまりうることを指す。別のフィールドにも当てはめることができるかということである。
利用、応用、行為への志向とは、その知見を使って、現実問題を解決することができるか、他に応用することができるか、ということである。
81ページには、「観察者としてのバイアス」について述べられている。バイアスがあることを認めることが質的研究だが、いたずらにバイアスを増やすことはない。積極的に認めて、それをむやみに増やすことをしてはいけない。観察者がいつも通りにふるまえることが大切で、観察される人が、緊張して演技しているようではいけないのである。
創発的とは、観察する中で枠組みを作っていくというやり方。
82ページには、「公共の場所での観察」について述べられている。電車の座席の座り方を研究している場合、そのことをいちいち断る必要はないが、密かに写真を撮ることはよいのかという問題である。その境目が微妙で、写真を撮るのはおそらくダメであろう。カフェで聞こえたことを録音してよいかも微妙である。メモを取っても公表できるかについても微妙である。
83ページにはハンフリーズの研究が紹介されているが、倫理的に問題だとされている。公衆トイレが同性愛者の出会いの場となっていて、観察をした。仲間に入って身分を名乗って見張り役になった。問題なのはナンバープレートを写真に撮り、家庭に行って、世論調査のふりをして情報を聞き出した。結婚していることや子どもがいることを暴き出した。匿名であるから特定される訳ではないが、そこまでやっていいのかという問題が出てくる。観察における倫理が関わってくる。研究とはプライバシーを侵すものだが、そこで許可を得ることが大事である。原則として公的な場と私的な場を分けて、プライベートな場面に立ち入る時には許可を得なければいけない。公的な場面はよいだろう。例えば電車とかで盗撮はいけないが、駅にいる人を見る分にはいいだろう。公共の場面で写真を撮ることは判例でだめだとされている。エスノグラフィーはその辺の難しさに直面せざるをえない。
6章「エスノグラフィー・データの分析」では、収集したデータを使って探究する方法について扱っている。まず、エスノグラフィーのデータは膨大であるので、何らかの形で整理しないといけない。要素に分ける、分類することが必要なのである。事前に事実が物語るというわけにはいかない。
記述的分析とはパターンを見つけて分類することである。理論的分析とは、理論化してそれを説明しないといけない。パターンを見つけるポイントとして、そのインタビューの発言は自然に起きたものなのか、それとも研究者が取り出したものなのかを明確にする。つまりその人の発言が観察者の前で意識して発言したものなのか、あるいは、自発的なものなのかを明確にするということである。自発的な発言、つまり自然におきたものは、その人の本音に近いものだろう。研究者に向けて発したものは、公的な発言に近いであろうと考える。
この二つの視点をetic-emicという。etic-emicとは、外部-内部である。つまり外部から見た視点と、内部から見た視点である。外部から見た視点というのは、外部の色々なところと比較して捉えること、それに対して、内部というのは、内部の人が考える規則性のことである。例えば外部では自由遊びと一斉遊びなどと分類するかもしれない。保育の形態を表す色々な言葉があるが、それは外部から見た視点である。しかし内部的なとらえ方では違うかもしれない。もっと他の呼び方をしているかもしれない。例えばクラス活動とか呼んでいるかもしれない。相互往復したとらえ方が必要。内部ではその集団に属する人たちのそれぞれに聞いていくことが大切である。さまざまなとらえ方があるので、一人に聞いても、それは例外という可能性もある。そのようなことから、ある幼稚園について調べるときに、一人の担任に聞くだけでなくさまざまな保育者に聞いていくことが大切である。
フィールドノーツをしっかりとつけていく。何でもかんでもメモをする。メモをする最大のポイントはその日のうちに整理するということ。翌日でも記憶はぼやけてしまう。その場で記録できれば一番良いが、なかなかそうもいかないだろう。さらに、その時にそれについて考えたことも欄を分けて書いておくとよい。研究が終わってきたら分析をする際にフィールドノーツを見直して何らかのカテゴリーに分類して重要なテーマを取り出す。例えば「子どもの仲間関係を大事にする」などのカテゴリーに分けられるかもしれない。
それに応じて色々な場面をデータで分けていく。表を作るとか、あるいは階層ツリーを作るなどがある。階層ツリーとは、まず抽象的に大きく分けて、それをさらに分けて、さらに分けて…というふうに分けていくものである。そのうえで仮説や命題を作る。こういう場面ではこういうふうになり、こういう場面ではこうなる、というような仮説を作るのである。例えば、いざこざのこういう場合にはこういう対応をするだろうという仮説である。
メタファーとは、文学的な手法であって、関係を表現する簡潔な方法である。つまり比喩である。テキストでは、アルコール依存症のグループの発言が紹介されている。
次にコンピュータの使用について書いてある。コンピュータの使い方が紹介されていて、アプリやソフトが紹介されている。日本語対応をしているものや、していないものもがある、少し古い。有料のもの無料のソフトなどが紹介されている。今時は、そういう時代なので、少なくともデータをすべてパソコンに放り込むことになる。
7章「エスノグラフィー・データの表現方略」には、論文の書き方や表現の仕方について解説されている。標題、要旨、序論、なぜこの問題を扱うのか、先行文献の整理、それを通して自分の理論的枠組みを作っていくなどである。その次は方法である。方法とは、どういうデータの収集の仕方をするのか、エスノグラフィーでは、なぜその場所を選んだのか、分かったこと、見つけたこと、結論では先行研究に位置づけし直して、今後の課題を書いていく、そして引用文献。
その他のやり方は小説のように書くエスノグラフィーがある。それが106ページに示されている。写実主義的な物語はトロブリアンド諸島の研究などがある。告白的な物語では、自分がこういう風にして、こうなって…と語っているもの。自己エスノグラフィーとは、オートエスノグラフィーともいうが、自分が研究対象である場合をいう。自分の人生における重要な人のことや、自分の人生にドラマティックなことが起こりそれをデータとして使っていくなどがある。さらに詩に現すとか、完全な小説形式にするなどがある。最近では、映画、ビデオ、写真などがある。いずれ修士論文や博士論文は写真が多くなるだろう。だが、そうなると審査が大変になる。ネットの投稿にすれば、いくらでも可能なのではないか。そういう論文は、世界中にはあるが日本には少ない。
8章「倫理的配慮」には、フィールドワークを実施する際の倫理について述べられている。
研究費をもらっている場合では、誰からもらっているか書かなければならない。スポンサーの存在があるためである。例えば、パスタを食べると太らないという研究知見があるが、世界中から批判があった。スポンサーがパスタ会社であったということであった。必ずしもスポンサーを擁護している研究ばかりではないが、中には、そういうこともある。研究倫理綱領を守らないといけないが、まずは、研究協力者への責任が大事。個人的な価値観つまり研究者自身が何を大事に思っているかということと、研究倫理委員会とは別のものである。相手の許可を得なければいけない。
113ページからは、研究倫理委員会について書いてある。インフォームドコンセント。原則は、協力者にサインをしてもらう。子どもの場合は原則として保護者にお願いする。もう一つは匿名化するということが大切である。Aちゃんと書くだけでなく、様々な背景から特定されないように配慮する。例えば「本研究対象は東京都内の国立幼稚園である」としてしまうと特定されてしまう。その辺をどのあたりまで明らかにするか、ギリギリまで明確にするところの難しさがある。どこかの平均的な幼稚園の研究をするわけではないから悩ましいところである。倫理委員会の判断を完全に満たすことができないこともある。ただ自分の関心があるというだけで、まずは保育園の乳児保育を見てから考えるということになると、倫理委員会を通らないから、ある程度その対象を明確にせざるをえないということになる。
エスノグラフィーに固有の倫理的問題とは、研究協力者とのパートナーシップがある。一緒にやっていくなかで仲間になりすぎると、客観性がなくなっていく。その園の良しとしているところ以外の場面はカットされるというような事態になると、それはただの広報活動になってしまう。より客観性を求める立場からするとそれは別の倫理的な問題に引っかかってしまう。研究の客観性についてはよく考える必要がある。
9章「21世紀のエスノグラフィ-」では、変化しつつある研究の文脈について解説されている。
1つはグローバリゼーション。2つはインターネット、その他バーチャルの世界がある。エスノグラフィーとは集団を研究することであるが、小さな集団で固定化しているという前提がある。しかし現代はグローバリゼーションの時代になり、そういうことが言えなくなってきた。さまざまな集団を研究している場合、例えば難民の研究をしている場合、収容所なり、コミュニティなりで暮らしている状況は流動的である。つまり、いかなる集団も閉ざされている集団はないわけで、そのものの文化が多様になっているのである。そういう文化の入り混じり、そこに、マスコミ、インターネットによる関わりがある。文化変動が起こっている。昔は50年単位、100年単位だったものがしょっちゅう動いて流動している。マスメディアによる文化が流入してきている。例えば「田舎の子ども」という存在はなくて、毎週のように原宿で文化を吸収しているかもしれない。そういう流動する世界というものが難しい。そこに現代的な問題があるかもしれない。
インターネットカルチャー、バーチャルコミュニティのウェイトが大きくなってきた。そのもののやり取りが重要になってきた。倫理的な問題もあり、どのように許可を得るのかも大事になってくる。まず一つは自分のイメージを作っている場合がある。インスタグラムをやっている人は一番かっこいい写真を撮って載せている。リアリティではない。例えばそういうものとして分析するならいいが、自分のイメージを作っているので、生活そのものを表わすものではない。「いいね」が欲しいわけで、みんないつもハッピーな生活ではない。それはフェイクである。それをどう分析するか。そこでの研究倫理のあり方が述べられている。あるサイトの掲示板の分析をする際に、公開されているからいいというわけではない。投稿内容はいいが投稿者の名前を公表してはいけない。投稿者全員に論文を送って許可をもらわないといけないこともある。ネットでの炎上を調べる際に、炎上された人、炎上をさせた人に対して許可を得なければいけないということもある。実際、許可をしてもらうのは難しいだろう。しかし現代は、圧倒的にバーチャルなサイトなので、そのバーチャル空間の過ごし方を調べる必要性はあるだろう。まだその方法は確立されていない。
(執筆:無藤隆,2018年5月14日・5月21日)
(まとめ:白川佳子・和田美香)